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森の声

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2025.11.06
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カテゴリ: カテゴリ未分類
今日は、過去にアップしたものに一部加筆して再アップさせて頂きます。ここの所の「子どもを狭い世界に閉じ込めてはいけないのです」というテーマとつながっていると思ったので。
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7才までに「体験を通して学んだこと」は一生心とからだの中に残ります。だから記憶喪失になっても、痴呆症になっても、話したり、歩いたりすることが出来るのです。痴呆症が進むと幼児期以降に学んだことはどんどん消えてしまうのですが、「幼児期に身につけた感覚や能力」は最後まで残ります。

それだけではありません。7才を過ぎると、今度はその「幼児期に身につけた感覚や能力」が、様々なことを体験したりするときの判断基準として働くようになるのです。それはつまり、「7才までに身につけたこと」が、7才を過ぎると、その子が様々なことを感じたり、考えたりするときの「物差し(基準、羅針盤)」として働くようになるということです。

そのため、幼児期に虐待されたり、偏った体験ばかりを与えられ、「歪んだ物差し」「不安定な羅針盤」しか育てることが出来なかった子は、正しく感じ考えることが困難になってしまい、一生苦しむことになってしまうのです。

物差しが歪んでしまった子には、「まっすぐ」が歪んで見え、自分の歪みに合ったものが「まっすぐ」に見えてしまうのです。そのため、周囲から「あなたの感覚や考え方は歪んでいるよ」と指摘されても、「歪んでいるのはそっちの方だ」と反発してきます。

でも、周囲の人とぶつかり合うことが多かったり、色々なことに対して不思議を感じなかったり、物事が思い通りに行かなかったり、美しいものに触れても何にも感じないようなら、物差しが歪んでしまっている可能性が高いのです。

また、遠くまで見通せるような広い空間で自由に遊んで育った子は、視野も広くなります。でも、近くしか見えないような狭い部屋の中だけで、同じものだけを相手に遊んで育った子の視野は狭くなります。人間は必要がない機能は育たないように出来ているからです。そしてその視野の広さの違いは物事を考えるときにも影響しているかも知れません。

多様性に恵まれた環境で育っている子は、その違いを感じ分ける能力が育つでしょう。でも、いつも同じものばかり見て、同じ音ばかり聞いて育っている子は、多様な違いを感じ分ける能力が育ちにくいでしょう。


そして「普遍的な物差し(羅針盤)」を持っている人同士なら、地域や文化や時代を超えた対話も可能です。「物差し(羅針盤)」が共通していなければ、対話が出来ないのです。

「自然」と言っても遠くまで出かける必要はありません。私たちは自然の中で暮らしているのですから。食卓の上にも「自然の恵み」がいっぱい並んでいますよね。ただそのことに気づけばいいのです。その時に必要なのは「自然の物語」の物語を伝えることです。

また、子ども時代の想い出にはなぜか道が多く現れます。ケンパやメンコなどをして遊んだ道。仲間と一緒に隣の町まで探検に行った時の道。学校の行き帰りの道。どこまでも歩いた野山の道。土手が黄色くなるほどに菜の花が咲いた川沿いの道。遠回りして帰った好きな子の家の前の道。遊園地などに行った時のことはよく覚えていないのに、ど-でもいいような道のことはよく覚えています。皆さんはどうですか?

それは、子どもにとっては道が「日常と異世界をつなぐ不思議と発見の宝庫」だからなのでしょう。歩くたびに景色が変わり、新しい発見と出会いがあります。下を見れば綺麗な小石があり、虫がいて、お花が咲いています。上を見れば風に揺れる木々があり、飛行機や面白い形の雲が形を変えながら動いています。前を向けばパノラマのような空間が広がり、人が歩いたり、ジョギングしたり、犬の散歩をしている人がいます。友達もいるかも知れません。でも、自転車や車に乗ってしまったらこの出会いはありません。

道を歩くと物語が生まれます。「歩く」という時間経過が物語を展開していくのです。道ばたにお花が咲いています。そのお花を摘んで歩いているとちょうちょやトンボがやってきます。そのちょうちょを見ていると青い空と白い雲が目に入ります。雲がモクモク動いています。そよ風の中にかすかなお花の匂いもします。何となく気持ちが良くなって来てスキップします。

向こうから小さな子どもを連れたお母さんがやって来ます。その子と目が合います。知らない子です。何となく恥ずかしくなって下を見て、小石をけります。そしてまた歩き出します。

しばらく歩くと橋が見えてきます。橋の上から下を見ると鯉が泳いでいます。川の土手にはタンポポが咲いて、昼寝をしている人もいます。鳥の声も飛行機の音も聞こえます。時々お母さんの「ちゃんと歩きなさい」という声も聞こえます。

子どもたちは道を歩きながらこのような物語を体験しているのです。だから大人のようにちゃんとは歩かないのです。うちの子ども達も、大人が歩けば5分程度の通学路を、たっぷり30分もかけて歩いて帰って来ていました。しかもお約束の通学路を通らないでわざわざ遠回りして帰って来ていたようです。

私は親子遊びや、子育てや、お母さん達の自分育てなどに関する講座やワークショップの講師をしています。そのワークショップでお母さん達に子どもの頃に遊んだ町の地図の絵を描いてもらったことがあります。最初は漠然としか想い出せないのですが、描き出してみると細かいことまで次々に想い出されてくるのです。「ここに空き地があって、ここでよく遊んだ」とか、「ここの家には犬がいて怖かった」とか、「この小川で遊んだ」とか。それで次第に地図が広がり何枚もの画用紙をつなげて大きな地図にしてしまう人までいました。

「道の記憶」をたどっていくと、自分の子どもの頃の気持ちまでが蘇ってくるのです。そしてそのことで、忘れていた「大切なこと」を想い出すことが出来ます。それは「自然との出会いの記憶」であると同時に、「自分の人生の原点」の記憶でもあります。心の原風景です。

でも、幼い頃に部屋の中だけで遊んでいた子にはその原風景がないのです。そのように育ったお母さん達に「子どもの頃」のことを聞いても、「子どもの頃のことは想い出せない」と言う人も多いです。

逆に、子どもの頃のことを生き生きと想い出し、生き生きと語ることが出来る人が語るのは、草花や、虫や、自然の中で仲間と遊んだ記憶のような「自然とつながるもの」ばかりです。そのような人は、子どもの頃の「自然体験」が「心の原風景」としてしっかりと定着しているのでしょう。






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Last updated  2025.11.06 08:21:11
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