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どんなに死にたいと願ったとしても人間は突然の死の訪れを怖がる。それは人間だけじゃなく、生きてるもの全てに当てはまる事。どんなに死を願ったとしてもどんだけ自殺未遂を繰り返していようと生への執着は決して揺るがない。例えば今自分がビルから飛び降りようとしてて"もう自分は死ぬ"と心に違い飛び降りようとした瞬間知らない人間達に拉致され、銃で刃物・薬物で脅されたら「死にたくない」と心から思うはず。それは人間が死より生を真っ当している時間の方が多いから。どんなに辛い人生だとしても思い出せば笑っていた時があった。それに執着しているから。おいしかったご飯。おもしろかったマンガ・アニメ・ゲーム。楽しかったあの場所・あの時・あの時間。絶望的道のりだとしてもそういう過去があれば人間は走馬灯のように思い出してはまた絶望する。"生きてきた時間"に"死ぬ時間"は太刀打ちできる訳がない。出来るとしたら本当に本当の『唐突の死』でしかない。死への執行猶予がある場合は生へ縋る。それは皆気づいている事。俺はすごく長い人生を歩んできたようでまだほんの数十年しか経ってない今過去の自分ではないこの身体の持ち主であったアイツがしてた事が実に哀れなことで、悲しい、ただただ悲しいだけのなんの解決にもならない事だったと思う。俺はずっと第三者の形で見てきたから。手首を切り続けて死のうと思ってビルの上に上ってでも、生への執着があって死ねなくて絶望し続けて、逃げて逃げて、生きる事から逃げ続けて気づいたら・・・・・・・谷の奥深くに・・・立ち入ってはいけない深い谷底に逝った。だから今この身体を・・・アイツから託された俺がこの身体を生かし続けている。逃げ続けた先にあったのは"本当の死"だったのだから・・・・。もうアイツは帰ってこない。生も死も存在しない所に逝ってしまったのだから。俺はアイツが人格分裂を起こした時からずっとずっと見守ってきた存在。同時に、何も出来なかった非力な存在。他の人格達よりも先に創られていながら表に出る事はなくそのままアイツの身体を今使っている。だから俺は人並み以上に生への執着が強い。悲しい死への執着と生への執着矛盾した執着に苦しむ姿をずっとずっと見てきたからこの身体を託された今死にたいなどという馬鹿な事は考えない。毎日を有意義に過している。これがアイツへの唯一の罪滅ぼしになると思い毎日を生きている。何れ生あるものに死は訪れるのだがそれまでは死なない。この世界に俺が生きてる、今此処に居る、今生きてるという事を刻みつけるのが俺の夢。そして俺が死んだら皆が知るくらいの知名度を持つ。それが最終目的。俺が生きてる、生きてたという事を刻み付ける場所を掴み取るためならば、俺は生にしがみついてしがみついて何でもしよう。"此処に俺は居るよ"と皆に教えたい。これを叶えるまでは決してしなない。死んでたまるか。俺の生への依存と執着は人並み以上だ。
2008/05/11
願っても祈っても何も現状を変えれず嘆くだけならばソレには一つ欠けている大切な"コト"があります。ソレは諍う事、戦う事、考える事、想う事、行動する事。ただの木で出来た偽壇や、人間の作り出した"神"と呼ばれる存在同時に"仏"や"ご先祖様"など様々な願うモノが有ります。ですが、それに向かい手を合わせ、跪き、頭を下げ、そして願うだけで何が変わりますか?もし変わったのならそれは-偶然-決して勘違いしてはいけない事。何かに願うと同時に、願った側が行動しなければその願いや祈り、想いは通じません。人間という生き物は何かに縋りつき、依存しなければ生きてゆけない存在。それは決して哀れな事ではない。そういう人間の性。だが、依存しすぎて願いって、祈って、想ってたくさん、たくさん・・・・それはそれは数え切れないほど願うのに事は後ろ向きに疾走し人間は嘆き、憎しみ、悲しみ、病む。願い・祈り・想いを叶えようと想うならばそれに釣り合う"対価"が必要です。スーパーで10円のお菓子をレジへ持って行きその10円のお菓子とそれを仕入れたスーパーと釣り合う対価を皆払う。それと同じです。願い・祈り・思いを叶え、通じさせたいのなら自らもその願い・祈り・想いと釣り合う対価を支払わなければ 叶いません。それこそが"行動"です。「自分を変えたい」と願うなら、その願いが叶うように行動する。「あの人の健康を祈ります」と祈るならば、その祈りが叶えられるよう行動する。「アナタは元気ですか?」と憂い想うのならば、その想いが通じるように行動する。それくらいしないと"神"と呼ばれる存在も"仏"と呼ばれる存在も"教祖"と呼ばれる存在も"先祖"と呼ばれる存在も 何もしようと思わないのではないでしょうか?都合良く 自分の願い・祈り・想いを言われそして跪かれ、頭を下げられ・・・・・・それで?我々人間と呼ばれる存在が作り出した世間一般に言われる"神"・"仏"という存在。人では無いと呼ばれ崇められるにたる神聖な存在ならば人間が創り上げ、祭り上げたソレらはただの人間達の"都合のいい理想"でしかない。人間でないのならば人間が簡単に想像できるような事するとは俺は思えない。考えられない。ソレを我々人間のご先祖様はとっくの昔に悟っていたのでしょう。だからあえて"理想"を貫く事にした。俺はそう考えるのです。"神"・"仏"は一つではなく多くの宗教などに存在する。だが、実在はしない。ここは人間と生き物が生きる事の許された世界だから。この世界の頂点に存在するのは動物でも虫でもなく、人間。ここは人間の都合で作られた世界。だから人間以上の力を持つソレらは存在してはいけないという世界。願いなさい。祈りなさい。崇めなさい。跪きなさい。そして、せいぜい都合よく縋るがいい。我々は人間には何もしない。そういう思考回路なのではないかと俺は思います。
2008/05/04
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