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札幌三人組の偕楽園の誓いとそのambitious内村第二九信に「三人組」という表記が登場する。本来の英文の手紙では「triumvirate」と表記されている。Triumvirateを辞書で引くと、「三人の連合政治、[集合的に] 三つ組,三人組、(古代ローマの)三頭政治」とある。 宮部、内村、新渡戸の三人は札幌農学校在学中から特に親交があり、「三人組」と呼ばれていた。卒業に際しては、札幌の偕楽園で三人で将来について誓い会ったという。新渡戸はこの誓いについて語る。「明治十四年の七月卒業式を挙げる頃、当時札幌の公園であった偕楽園の端に、宮部、内村と我輩と三人集って、社会に出るならば、いかなる事をなすべきやを、しんみりと話し合い、最も敬虔に祈って国と同胞との為に一身を捧ぐる旨を述べ合い、それぞれ進む道は異ならんも最大の目的はキリスト信徒として一生を全うすることであると述べ合った。それは四十九年前の事ではあったが、我輩の記憶には今なお昨日のごとく思わるる」(「クラーク先生詳伝」逢坂信忢p271)とある。内村はこの誓いを「生涯を二つのJ-日本とイエス-に捧げよう」と育てていくが、新渡戸にとっては「日本と日本国民のために一身を捧げよう」「キリスト信徒として一生を全うしよう」ということであり、それは「我、太平洋の橋とならん」という決意へと繋がる。宮部はこの誓いをさほど自覚的には受け止めなかったようである。新渡戸に言われて思い出す程度のものであった。宮部は札幌農学校に残り、札幌を「北のアゼンス」(Athens of The North)としようと常に言っていた。札幌を北の学術文化の中心地にしようというのである。内村は違った、北のエルサレム、つまり「キリスト教を日本化し、これをもって日本を救い、かつ日本国の世界における使命を果たさん」とし、札幌を北のキリスト教の聖地としたいと思った。それぞれの思いの違いが異なる道を行かせ、豊かに花開かせたともいえようか。 広井勇はこの偕楽園の誓いには加わっていないが、広井の一生もまた「日本と日本国民のために一身を捧げよう」「キリスト信徒として一生を全うしよう」という誓いの実現にほかならない。内村はその告別の辞で述べた。「人は事業でありません。性格であります。人が何を為したかは神より賜りし才能によるのでありまして、彼自身でこれを定めるのでありません。・・・広井君が工学に成功したのは君が天与の才能を利用したに過ぎません。然しながら、いかなる精神をもって才能を利用せしか、人の価値はこれによって定まるのであります。世の人は事業によって人を評しますが、神と神による人とは人によって事業を評します。広井君の事業より広井君自身が偉かったのであります。広井君は君の人となりを君の天与の才能なる工学をもって現したのであります。工学は君に取り付帯性のものでありまして、君自身は君の工学以上でありました。そして我ら君の友人にとりては君の性格、君の人となり、すなわち君自身が君の工学または工業よりも遙かに貴かったのであります。・・・事業のための事業にあらず。もちろん名を挙げ利をあさるための事業にあらず『この貧乏国の民に教えを伝うる前にまず食べ物を与えん』との精神のもとに始められた事業でありました。それが故に異彩を放ち、一種独特の永久性のある事業であったのであります。広井君は今その意義ある生涯を終わりて世を去られました。・・・残るは宮部金吾君と新渡戸稲造君と私との三人であります。これを思うて淋しさにたえません。私ども五十年前に高貴(ノーブル)なる生涯を誓うて共に学窓を出でました。そして神のお導きのもとにそれぞれその誓約に叛かざりし事を感謝します。為した事業の多少上下には差はありましたが、その賤しからざりし点においてはなおどの日本人中、何人にも譲らない積もりであります」(資料15p150-4) 広井の弟子たちには、「人類のための工学」を目指した青山士や台湾で今なお敬愛される八田與一らが育っていった。〇彼らは札幌農学校卒業後50年後、洗礼を授けたハリス牧師の墓を弔い、死後の再会を約束した。ボーイズ・ビー・アンビシャスを作成する過程で、内村鑑三、新渡戸稲造、広井勇らの書簡を読み込んだ。彼らは札幌農学校卒業後50年後、洗礼を授けたハリス牧師の墓を弔い、死後の再会を約束した。ボーイズ・ビー・アンビシャスは未完成で、宮部金吾、札幌農学校教授新渡戸夫妻、台湾における新渡戸稲造など構想はあるのだが、決定的なこれは世に出そうというほどの資料が出現しない。今、収集している資料でいったん刊行するか、『砂糖王鈴木藤三郎の報徳』刊行後考えようと🎵Dec. 1. — Joined the Methodist Episcopal Church through Mr. H.12月1日 ハリス氏を通じ「メソジスト」監督教会に入会した。The Rev. Mr. H. our beloved Missionary was again in the town, and we joined his church without scrutinizing pro and con of his or any other denomination. We only knew he was a good man, and thought that his church must be good too. われわれの愛する宣教師、牧師ハリス氏が再び町にあったそしてわれわれは彼の教派や他のいかなる教派についての賛否を吟味することなしに彼の教会に入会した。われわれは彼が善い人であることを知っていたに過ぎず、彼の教会もまた善くあるに相違ないと考えたのである。Dec. 8, Sunday. — In evening, had serious talks with the " seven brothers." We confessed our inmost thoughts to each other, and promised to bring about great reformations in our hearts.12月8日 日曜日 夜、『7兄弟』とまじめな話をした。われわれはわれわれの心底の思いを相互に告白し、われわれの心に大改革をもたらさんことを約束した。The best day we had had since we accepted Christianity. I believe we talked and prayed till long after midnight, for it was not many hours before the day dawned after we went to our beds. Everybody appeared like an angel on that night. The "spiny" Jonathan, the "knobby" Hugh, and the " Scroogy " Frederick were as round as the " globular " Francis on that evening. The skeptic Paul found no objections against such a Christianity. O for more of such a night like this ! Was that night more beautiful than this, when the angelic choir was heard in the heaven, and the Star of Bethlehem led the wise men of the East to the Infant Jesus !キリスト教を受けて以来、われわれがもった最善の日。はるかに夜半を過ぎるまでわれわれは語りかつ祈ったと思う、われわれが床についてから夜が明けるまでに幾時間もなかったからである。誰も彼もその夜は天使のように見えた。『とげとげの』ヨナタン、『こぶこぶの』ヒュー、『スクルージのような』フレデリックは、その夜は『球形の』フランシスのようにまるくあった。懐疑的なパウロはこのようなキリスト教に対しては何らの異議をも見出さなかった。ああ、この夜のような夜がさらに多くあらんことを!み使いの合唱が天にきこえベツレヘムの星が東方の賢者を幼な子イエスのもとに導いたあの夜は、この夜にまさって美しくあったか!内村鑑三日記 (日・4・p183)昭和三年(1928)六月二日(土)雨 ○ まず手初めに、わが同窓同級同室同信の友なる、在札幌、理学博士ドクトル宮部金吾氏に向けて左の電報を発した。 平和あれ。五十年間、君と共に信仰の道を歩みしことを神に感謝す 内村 午前十一時、東京在住の同時の受洗者、新渡戸稲造、広井勇とあわせて三人、これに加うるにわれらの兄分なる伊藤一隆、大島正健の両君を加え、すべて五人、大雨を冒して青山墓地に会し、故M・C・ハリス氏の墓前に詣(いた)り、花環を供し、自分は詩篇第九十、九十一篇を英語にて朗読し、続いて伊藤君が熱心あふるるの祈祷をささげた。「願わくは、われら、今ここに会するがごとくに、墓のかなたにおいて、一人も漏れなく会することを得しめたまえ」と君が祈りし時に、われら一同、強調せるアアメンをもって応ぜざるを得なかった。実に永久忘るるあたわざる聖(きよ)き会合であった。
2023.09.23
NHK「らんまん」コミカルな“寺脇”蘭光先生との別れに涙…再会を望む声続々名教館が廃止され、蘭光先生ともお別れNSNでは、蘭光先生に問いや助言によって子供の能力を引き出す理想の教師像を見て惜しむ声が多い。そう、edcution の原義は 引き出す ということなのだ。蘭光先生「森羅万象には理由があるぞ」 「者ども、好きに学びや〜!」蘭光先生「今は時代の変わり目。おまんもしきたりにとらわれんと。」万太郎「…おばぁちゃんは、なんちゃ変えたらいかんと。」蘭光先生「おまんはどう思う?」蘭光先生「名教館を去っても学びは続くぞ。この先の世は、ますます身分らあのうなっていく。身分が消えた時、何が残ると思う?」 「己じゃ。自分が何者か、人はそれを探していく。学びはその助けになる」蘭光先生「文字を超えて本物に触れないといかん」万太郎「(キンセイランを見て)ゾクッときた。文字では心は震えんかったに」蘭光先生「心が震える先に金色の道がある、その道を行きや」蘭光先生「仁淀川じゃ。今はこんなに穏やかじゃが一度暴れたら人の力では手に終えん。自然の力は人よりも大きい。人はそれを封じ込むことはできん」広瀬祐一郎(後の偉大な工学者・広井勇)「…では、ともに生きるには、どうしたらえいがでしょう?」寺脇康文@terawaki_yas·Apr 14さらば蘭光先生!すごく、好きな男でした!💛家内に「寺脇さんに3年B組みたいな 令和版教師ドラマ をやってもらいたいよね」「うん」1862年(文久2年)、土佐国佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)において、筆頭家老深尾家の家臣で土佐藩御納戸役を務める広井喜十郎とその妻、寅子との間に長男、数馬として生まれる。同郷同世代の牧野富太郎同様、幼い頃から郷校名教館(めいこうかん)で儒学者伊藤蘭林(1815年-1895年)に学んだ。数馬の曽祖父広井遊冥(1770年-1853年)もまた、かつて名教館で儒学や和算を教えており、蘭林はその弟子であった。 当時はまだ安政南海地震の爪跡が残る時代だったが、幼い頃の数馬は浦戸湾の入口にあたる種崎村(現、高知市)の海岸で、十数年前に津波が襲来した際、堆砂の中に埋没し忘れられていた堤防が露出して津波を防いだという話を聞かされたと記している。この堤防は、遡ること200年前の1655年(明暦元年)に、野中兼山が造らせたものであった。 9歳のときに父と死別し、名を勇と改める。11歳で上京、叔父である男爵片岡利和の邸宅に書生として寄宿しながら工部大学校予科へ入ったが、16歳のとき、工部大学校の学費方針変更を受けて、全額官費で生活費も支給されるという札幌農学校に入学を決めた。「旧友広井勇君を葬るの辞 内村鑑三昭和三年(1928)十月四日、市ヶ谷仲之町の自宅にてここに私の同窓同級の友、広井勇君は永き眠りに就かれました。私には君の遺骸に対し感慨無量であります。(略)君は明治大正の日本が生んだ大土木工学者中の一人でありまして、殊に築港の学と術とにおいては世界的権威でありました。君はいずれの方面より見ても偉大なる人でありました。私は君のごとき人を私の同窓同級の友として持ちしことを誇りとし、また君と浅からぬ友誼的関係を一生涯を通して続け得しことを感謝します。 私どもは今の日本人に人物欠乏せる事を常にいい聞かせられるるのであります。まことに私どもの周囲を見て、私どもは詩人と共に嘆ぜざるを得ないのであります。 神よ助け給え、そは神を敬う人は絶え、誠ある者は人の子の中より消失せたり。と。(然しながらすべてが暗黒または失望ではないのであります。神はいずれの時代においても真理の証明書を世に残し給います。そして広井君のごときがその顕著なる一人であります。広井君は大なる建築家でありましたが、単の建築家ではありませんでした。工学といえば今の世にありては、最も割のよい、富を作るに最も便宜なる技術と思われますが、我が広井君にとりては、君の専門はかかる浅ましき目的を達するためのものではありませんでした。君はその生涯において大工事をあまた成就されましたが、それがために君自身のために得しところはかぞうるに足りませんでした。君のこの住宅その物がこの事の善き証拠であります。この質素なる家は、小樽、釧路、函館、留萌、その他の大築港を施されし大土木学者の住み家とは思われません。自家の産を作るに最も好き機会を持たれた君は、その機会を自分のために用いませんでした。広井君ありて明治大正の日本は清きエンジニアーを持ちました。日本はまだ全体に腐敗せりという事はできません。日本の工学界に広井勇君ありと聞いて、私どもはその将来につき大なる希望を懐いて可なりと信じます。 清廉にして寡欲なりし君はその仕事に忠実なりしはいうまでもありません。君が札幌農学校を卒業して後、間もない事でありました。君は君の先輩の指揮の下に、北海道鉄道の線路に当たるある小なる橋梁の建設を担任させられました。君は君の当時の工学的知識の全部を絞りて、その任に当たりました。そして漸(ようや)くにして橋はなりて列車の試運転が行われんとせし時、君は顔色蒼(あお)ざめ、四肢震いて、憂慮に堪えざるものがあり、列車の無事通過を見て安心して胸を撫でおろしたと聞きました。私はその当時、君と宿所を同じうし、君より直ちにその実験を聞きまして、君の技術の最初の成功を祝したのであります。すなわち広井君にはその事業の始めより鋭い工学的良心があったのであります。そしてその良心が君の全生涯を通じて強く働いたのであります。『我が作りし橋、我が築きし防波堤がすべての抵抗に堪え得るや』との深い心配があったのであります。そしてその良心その心配が君の工学をして世の多くの工学の上に一頭地を抽んでしめたのであります。君の工学は君自身を益せずして国家と社会と民衆とを永久に益したのであります。広井君の工学はキリスト教的紳士の工学でありました。君の生涯の事業はそれが故に殊に貴いのであります。 私は広井君と同時にキリスト信者となりし名誉を有します。今よりちょうど五十年前、明治十年六月二日北海道札幌において、私ども青年六人は米国宣教師エム・シー・ハリス氏よりパプテスマを受けました。広井君はその当時、殊に信仰に燃えまして、日曜ごとの我らの小なる集会において君の教理研究の結果を我らに供して我らの信仰を助けられました。(略) 君は土木学者になられました。そして君は一日正直にその理由を私に語られました。『この貧乏国に在りて民に食べ物を供せずして宗教を教うるも益少なし。僕は今よりは伝道を断念して工学に入る』と。私は白状します。君のこの告白は私の若き心に強き感動を起こしました事を。私はその時思いました。『もし広井が伝道をやめるならば我らの仲間の中より誰かが起ってその任に当たらなければならない。自分は嫌である、さて如何(いか)にしたならばよろしかろう』と。そして後に至りて種々のやむを得ざる事情よりして、私が広井君に代わりて、キリストの福音を我が国に唱えざるに至り、その困難の多きを味うて、時には旧友を怨まざるを得ませんでした。然しながら神はすべてを知り給いました。広井君が工学に入りしは君にとりて最善の事でありまして、そしてまた私が伝道に入りしは私にとり最善の事でありました。竟(おわ)るところ、広井君も私も青年時代に相互に対し誓いし誓約を守る事ができたのでありまして、感慨この上なしであります。 かくして広井君は伝道を断念して宗教については沈黙の人となられました。君は滅多に教会にも出席せず、また人にむかいて信仰を説かれませんでした。あるいは君の同僚にして君のクリスチャンたる事を知らない人もあるかも知れません。しかしながらです。一度は自身伝道師たらんと決心せられし広井君は終生信仰を棄つることはできませんでした。宗教は君の霊魂の深いところに堅い地位を占めました。君は常に人生の最大問題について考えられました。そして常に神とその独り子イエス・キリストを敬われました。かくして広井君はその心の奥底において工学博士であるよりもむしろ堅実なるクリスチャンでありました。私ども、君の友人はよくこのことを知っていました。そして君の生涯の友なる妻は誰よりも善くこの事を知っていました。君は私どもと一緒に五十年前に学びし祈祷の習慣を死ぬまで忘れませんでした。君は毎朝毎夜、戸を閉じて、夜は灯を消して祈祷に従事しました。そして幾度となく祈祷のあとに涙の雫の残るのを見たと主婦の方は語られました。そしてこの隠れたる信仰、一時は福音の戦士たらんとまで決心せしこの神に対する信仰が、君が成し遂げしすべての大事業を深めたのであります。君は言葉をもってする伝道を断念して事業をもってする伝道を行われたのであります。小樽の港に出入りする船舶は、かの堅固なる防波堤によりて永久に君の信仰を見るのであります。広井勇君の信仰は私の信仰のごとくに書物には現れませんが、それにも遙かに勝りて、多くの強固なる橋梁、安全なる港に現れています。君は実に恵まれた人であります。 然しながら人は事業でありません。性格であります。人が何を為したかは神より賜りし才能によるのでありまして、彼自身でこれを定めるのでありません。西洋の諺に『詩人は生まる』というのがありますが、詩人に限りません。工学者も伝道師も天然学者も政治家もすべて『生る』であります。広井君が工学に成功したのは君が天与の才能を利用したに過ぎません。然しながら、いかなる精神を以て才能を利用せしか、人の価値はこれによって定まるのであります。世の人は事業によって人を評しますが、神と神による人とは人によって事業を評します。広井君の事業より広井君自身が偉かったのであります。広井君は君の人となりを君の天与の才能なる工学をもって現したのであります。日本の土木学界における君の地位はこれがために貴かったのであります。広井君は君の人となりを君の天与の才能なる工学を以て現したのであります。工学は君に取り付帯性のものでありまして、君自身は君の工学以上でありました。そして我ら君の友人にとりては君の性格、君の人となり、すなわち君自身が君の工学または工業よりも遙かに貴かったのであります。そして今や君が君の肉体の衣を脱ぎ棄て、君の単純なる霊魂をもって神の聖前に立ちて、君は工学博士としてにあらず、単純謙遜なるキリスト信者として立ったのであります。君の貴きはこのところにあるとして、君の事業の貴きゆえんもまた、ここにあるのであります。事業のための事業にあらず。もちろん名を挙げ利をあさるための事業にあらず『この貧乏国の民に教えを伝うる前にまず食べ物を与えん』との精神のもとに始められた事業でありました。それが故に異彩を放ち、一種独特の永久性のある事業であったのであります。 広井君は今その意義ある生涯を終わりて世を去られました。・・・私ども五十年前に高貴(ノーブル)なる生涯を誓うて共に学窓を出でました。そして神のお導きのもとにそれぞれその誓約に叛かざりし事を感謝します。為した事業の多少上下には差はありましたが、その賤しからざりし点においては当代の日本人中、何人にも譲らない積もりであります。そしてそれには理由があったのであります。私どもは聖書をもってイエスキリストの御父なる真の神を知るを得ました。これが私どもの性格の根底を築いてくれました。そしてこれに根ざされて私どもは世とともに移らざるを得たのであります。教育の基礎はここにあります。その意味において私どもは新日本が施し得る最善の教育を受けたのであります。キリスト教のバイブルと人の手に触れざりし北海の天然と、それが広井君と私ども、君の友人とを育ててくれたのであります。【棺に向かいて】 広井君の霊に告げます。僕はここに君の依嘱に従い、君の葬儀を行います。・・・ここに五十年の友誼を謝します。しかし僕らの友誼はこれで終わるのではないと信じます。Over thereであります。河の彼方において継続せらるるのであります。我らはもちろん再会を期します。その時まで暫時サヨナラ。君の霊魂の我らの父なる神に在りて永久に安らかならん事を祈ります。」
2023.04.16
朝ドラ『らんまん』で槙野万太郎の学友・広瀬佑一郎を演じる12歳、岩田琉生「10歳で家督を継いでいるという言葉をキーに、ビシッとしたキャラクターを演じました」4/11(火) 主人公・槙野万太郎の土佐・名教館時代の学友・広瀬佑一郎の少年期を演じる12歳の俳優・岩田琉生(いわた・りゅう)。岩田琉生インタビュー――連続テレビ小説『らんまん』に出演が決まった感想を教えてください。「学校から帰って来たとき、お母さんから“決まったよ”って教えてもらいました。すごく嬉しかったんですけど、全国放送の朝ドラに出演するんだ!っていう、プレッシャーみたいなものがじわじわと湧いてきました」――今回の役もオーディションで勝ち取ったとお聞きしています。「目の前に監督さんやスタッフさんがいる状態で、『らんまん』の台本の中のシーンを演じたのですが、頭が真っ白でセリフを思い出すのに必死で…。台本から読み取った佑一郎は、キリッとした子だと思ったので、背筋を伸ばして、視線を考えながら演じました。そのとき監督さんはたくさん褒めてくださったんですが、実際出来栄えはどうだったのかは分かりませんでした」――今回演じる広瀬佑一郎は、主人公の万太郎とは違って武家の出身。人物像をどのように捉えましたか。ご自身と似ているところは?「佑一郎は10歳で家督を継いでいるという文章を読んで、ここが重要なキーなのかなと思って、ビシッとしたキャラクターとして演じました。そして勉強や運動が出来て、家族想いで責任感が強い子。家族想いなところと、勉強、運動ができるところは自分と似ていると思います」「万ちゃん(小林)は常に明るくて、天真爛漫という言葉が凄く似合っているなって思いました。撮影の合間にゲームの話だったり、置いてあった刀でチャンバラごっこをしたりして仲良くなれました。最初は佑一郎が万太郎を警戒して試すようなシーンから始まるんですが、そこから二人がどうやって仲良くなっていくか…という所がみどころだと思います」「ロケ地の高知まで、初めて飛行機に乗って行きました。河川敷で野宿をするシーンの撮影では、釣りしたり、魚を食べたり、水切りしたり…。川は実際水がすごく透き通っていて綺麗で、魚が泳いでいるのも見えました。自然豊かな場所でした」――佐川の自然に触れる旅のシーンを含め、名教館の学頭・池田蘭光を演じる寺脇康文さんとの共演はいかがでしたか。「寺脇さんはカッコいいし、面白いんです。寺脇さんが現場に入って来ると空気が本当に変わるので、ムードメーカーだなと思いました。僕が『ダンシングヒーロー』を鼻歌で歌っていたら、寺脇さんが一緒に歌ってノッてくれたのを覚えています(笑)」――これから放送を観て下さる方にメッセージをいただけますか?「どんな反応があるのかドキドキしています。自分が万ちゃんを敵視しているところから、どんな風に仲を深めていくのか、川で魚を食べながら話しているシーンなど、お互いを知って関係が変化していくところを観ていただきたいです」広井勇の祖母 広井勇は札幌農学校着任とともに、当時東京にいた母を札幌に呼んで一緒に暮らした。広井は渡米にあたって、土佐にいた祖母や母の面倒を当時東京で侍従であった叔父の片岡に託した。在米中、祖母は亡くなる。内村鑑三は一八八七年(明治二〇年)二月八日付の広井あて手紙で「ご祖母様、ご逝去の由、ご悲嘆同情にたえない」と悼んだ。(「ボーイズ・ビー・アンビシャス」第2集p.217) 「広井勇伝」によると、広井家は土佐の筆頭家老深尾家に仕えた。広井勇の曽祖父は喜十郎といい、遊冥と号した。遊冥翁は幼い頃から優秀で「学問に出精し算術も伝授されるなど神妙の至り」と賞せられた。十八歳の時、御役所向見習勤、三十三歳の時、家中の子弟に手習方を命ぜられ「諸生取立て方よろしく」と賞せられた。寛政三年二十二歳で田村喜六の娘と結婚した。文政二年五十歳で深尾家の高知邸の「御留守居役」を命じられた。長子が虎之助(勘左衛門と称す)である。二十四歳で西田祐之進の妹と再婚した。これが広井勇の祖母お勇である。勘左衛門は四十二歳で亡くなり、お勇は老父、遊冥翁に孝養を尽し一子熊之助(喜十郎)の養育に勤めた。お勇は嘉永元年五月八日「父母に仕え方よろしく」、更に嘉永七年にも「貞節の暮し方・・・かつ喜十郎病中永々手入方行き届き」と二度も褒美を賜った。明治三年勇の父、喜十郎が亡くなり、祖母と母が手内職で広井家の生活を支えた。祖母は木綿綿を糸に紡ぐことを内職とし、その糸を糸屋に届け、代金を受け取るのが数馬(勇の幼名)の仕事であった。ある日勇が数個の糸巻を金に換えて帰る途中、近所の子供達と遊んで遺失してしまった。祖母にわびると「失うたものは仕方がない。以後気をつけなされ」とやさしく諭した。祖母お勇は糸紡車を操りながら勇に、昔話や野中兼山や遊冥翁など人物伝を語り聞かせた。工学博士廣井勇傳 抜粋【現代語表記】 前半第一章 広井博士の生涯(略出) 一 揺 籃 近代日本における土木工学界の先駆者にして、港湾及び橋梁技術の世界的権威たる、東京帝国大学名誉教授広井勇氏は、旧土佐藩士広井喜十郎氏の長男として、文久二年(一八六二)九月二日土佐国高岡郡佐川村に生れた。 広井家は代々土佐藩の主席家老深尾氏に仕えていたが、博士の曽祖父に当る遊冥翁は碩学の誉れ高い儒者として藩中に重きをなしていた。父の喜十郎氏は博士出生の当時、土佐藩の御納戸役を勤めていたが、生活は豊かではなかった。博士には春という姉が一人あった。 文久二年は、勤皇討幕の世論が沸騰し、徳川幕府の権勢もようやく衰えつつあった。この時、土佐藩では、勤王倒幕党の主領の武市瑞山が、同志の十三人を放って、中間派の吉田東洋をたおして以来、藩政は急転して武市派の手中に帰し、幾多の志士は、藩主山内容堂侯を説得して新撰組等と闘い、あるいは京都にあるいは江戸に、薩長の志士と提携して勤王に奔走し、積極的に徳川幕府の倒壊を企画しつつあった。 広井博士の父、喜十郎氏は、御納戸役を勤めていた関係上、直接これらの運動に参加して東奔西走することを許されなかったが、この時代における血気な若者として勤王に共鳴し倒幕を期待していたことはいうまでもない。そのためか、喜十郎氏は前後数回勤事差控を受けたということであった。 広井博士はかかる雰囲気の中に生い立った。 二 年少時代 明治維新後、一藩の御納戸役であった博士の父も、その小禄を召し上げられたので、悲惨なるものであったが、しかも不幸はこれに止まらなかった。明治三年十月九日、博士の父はこの窮乏の中に遂に不帰の客となったのである。父を亡くした博士父母の歎きは、外の見る眼も哀れなものであった。かよわき博士父母は、絶え間なき嵐の真只中に放り出されたも同様な惨苦を、今は何者の庇護もなく堪え忍ばねばならなかった。〔廣井数馬(幼名)は十一月三日家督を相続した。時に九歳だった〕 その年の暮、家老深尾氏が高知に移ることになったので、博士の家も佐川の屋敷を引き払って高知に移り住むことになった。高知在住当時の博士の家庭は、物質的に最も薄幸な境遇に置かれていた。禄を離れてからは、わずかな貯え物を売り払いつつその日その日を過していたが、もはや売り払うべき何物もなくなった。今は祖母や母の手内職より得る零細な金をもって、辛うじて糊口をしのぐより外にみちがなかった。数馬少年も家業の手伝いに大部分の時間を費さねばならなかった。その頃、博士の祖母は、木綿綿を糸につむぐことを内職としていたので、毎日綿からひきだされる糸がたまると、それを糸屋へ届けて鳥目〔銭〕に換えて来るのが博士の仕事になっていた。 ある日、博士が例のごとく数個の巻き糸を金に換えて帰る途中、子供心のあどけなきに近所の子供達と遊びに紛れ、ついにその大切な金を遺失してしまった。幼い博士は祖母の叱責を予期して心を痛めたが、いかんとも仕方がない。博士は草履(ぞうり)を脱いで空に放り投げた。もしそれが落ちて来て、表が出たら叱責を免れるものとの占いであった。落ちて来た草履はまさしく地上に表を現わした。博士はようやく安心を得て家に帰った。果たして博士の占いは的中した。祖母は「失うたものは仕方がない。以後気をつけなされ」とやさしく諭すだけであった。〔士族は明治維新後、商業や農業についたが、子弟の教育に心を尽くした。勇も寺小屋に通った〕 祖母は名をお勇といった。早く夫に死別して舅(しゅうと)の遊冥翁(ゆうみょうおう)に仕え、孝養至らざるなく、藩主より三度まで表彰された人である。遊冥翁は学者に多く見る気質の難しい人であったが、彼女は何事にも温順に仕え、かつて翁を怒らしめた事がなかった。この温順豊かな祖母の慈愛の中に育(はぐく)まれた博士は、たとえ早く父を失って貧窮の中に人となったとはいえ、なお幸福であったといわねばならぬ。彼女はその愛する孫である博士の傍らで糸紡ぎ車を繰(く)りながら、昔話や人物伝等を語り聞かせる事を常としていた。あるときは山内一豊の武勇伝に、あるときは深尾重光の奮戦談に、ある時は野中兼山の大事業(1)に耳を傾けた。特に広井家について最も傑出した人物として語らるる曽祖父遊冥翁の物語りに至っては、恐らくその一句をも聞きもらすまいと、一心に聞き入った事であろう。(1) 『築港』に、広井が幼い頃、高知県浦戸に遊びに行ったとき、野中兼山が築いた防波堤が二百年の時を経て、安政の大地震で津波を防いで、一村が助かった話を古老から聞いて感動したとある。 二 少年立志時代 明治五年(一八七二)の夏、当時東京において侍従の職にあった、片岡利和氏〔母寅子の義弟〕が、郷里土佐へ帰省した。上京遊学の志に燃えていた博士にとって、これは絶好の機会であった。博士はまず片岡氏を訪ね、学問修行の希望を述べた。『いかなる労務にも服することをいとわないから、東京に連れ行かれたい』と歎願するのであった。片岡氏は、初め博士の人となりに嘱目(しょくもく)しなかった。かつ東京遊学にはいまだ年が早すぎると思ってこれを許さなかったが、博士の熱心なる願いは、片岡氏を動かさずにはおかなかった。。片岡氏はついに母や祖母が許すなら連れて行こうと答えた。この返事を受け取った博士は、飛び立つほどの喜びをもって家に帰った。そして母に上京の許しを乞うた。母はただ一人の男の子ではあるが、父を失ってから二年とも経たない時だったので、博士を手放す気にはなれなかった。けれども小賢しい性質を持たない、むしろ鈍重とも見られた少年時代の博士には、その肉親にさえ、上京などのできる人物だとは思われなかった。『そんなに行きたいのなら、行ってごらん』と(略)博士は欣然として片岡氏に伴われ、懐かしの郷関(きょうかん)を後にして船上の人となった。時に博士は十一歳であった。
2023.04.15
四国学院大学に2月8日寄贈の「八田與一と鳥居信平」が蔵書となった。四国学院大学図書館には、既に「技師鳥居信平著述集」が蔵書となっている。香川県善通寺市に1962年米国南長老教会が設置、末吉学長「絶え間ない人間性検証と人間形成を追求し人々への奉仕を目指します。」
2023.04.14
デパートの北海道展で町村牧場のクリームチーズを2個(黒こしょう、ブルーベリー)買ったらヨーグルトを一個頂いた。ラッキー^_^町村牧場は札幌農学校の町村敬貴(ひろたか)が卒業後米国ウィスコンシン州で酪農を学び、大正6年石狩市に創設し後に江別に移り「土づくり草づくり牛づくり」の牛飼いにならんとした。彼もまたboys be ambitiousを実現した人の一人だ。私の履歴書 町村敬貴 町村敬貴は父・金弥が札幌農学校を卒業した翌年の1882(明治15)年、現在の札幌市南区真駒内で生まれた。 20歳で父と同じ札幌農学校に入って近代農業を学び、米国で農夫として酪農を実習。その後米国ウイスコンシン州立農科大学で農業経営を学び卒業する。 1916(大正5)年に帰国し、翌年に北海道石狩町樽川で町村牧場を創設します。町村牧場は1928(昭和3)年に北海道江別町対雁(現江別市いずみ野)に移転。現在は江別市篠津に移り、牛乳やソフトクリームなど、町村農場ブランドを生産している。晩年「とにかく牛と接すると気分が爽やかになる」と語り、一介の牛飼いとして生涯現場で働き通した人生でした。
2023.03.11
ボーイズ・ビー・アンビシャス 内村鑑三(「内村鑑三信仰著作全集20」p.132) Boys be ambitious 1927年9月27日午後2時半 北海道大学中央講堂にて ただ今、総長佐藤〔昌介〕先生からごていねいなご紹介の辞をいただきましたが、先生のお言葉の中にたいせつな言葉が抜けている。それは、私は農学士内村鑑三であるとのことであって、私がここに立つのは、なつかしい母校に帰って諸先生ならびに多くの後輩諸君と顔を合わせるのであって、特別にありがたく思う次第である。 私はこの題を掲げましたが、私は、ウィリアム・エス・クラーク先生が五十年前この校を去るに臨んで、島松の原頭に馬上一鞭あてて、あとに従う学生一同に向かって叫ばれた「ボーイズ・ビー・アンビシャス」という簡単な言葉を、いかなる意義によって残されたかを考えてみたい。(略)「ボーイズ・ビー・アンビシャス」の精神は、当時のニューイングランドの文献を調べて見れば、すでに各州に発表されてあったことは疑いのない事実であって、クラーク先生がこの言葉を発せられるに至った経路を考えるに、先生の生国すなわちニューイングランドにはこの精神が充ち満ちていて、その精神的環境の中から、ブライアント、トロー、エマソンのごとき偉人を生み、また先生を生んだのである。 そのニューイングランドのピューリタンの意気が、先生を通してこの言葉となったのであって、この簡単な言葉の背後に全ニューイングランドあるを考える時に、これ実に意味深い言葉となるのである。札幌の今日あるを得たのは、クラーク先生を通してニューイングランドの気風が大いに貢献したところあるを思うときに、札幌はいっそう貴いものになる。 まず「ボーイ」とは何をさすのであるか、この言葉の意味を研究してみたい。普通ボーイと言えば、二十五歳以下の青少年をさすのであるが、ここに言う「ボーイ」は決してこれに限らないと思う。「ボーイ」とは実に「アンビションを有する人」の謂(いい)で、前途の希望に邁進している者は、年は六十を越えてもなお「ボーイ」である。二十歳前後の人々のみを目ざして、先生が「ボーイ」と言われたのではないと思う。私自身はまだアンビションを持っているから、自分が「ボーイ」であることを確信している。人が「ボーイ」であるか、「マン」であるか、「オールドマン」であるかは、その人の心持によってきまるものである。 次にアンビシャスまたはアンビションについて考えてみたい。日本語に訳せば、まあ「野心」であろう。「野心」と言うて、太閤秀吉やナポレオンのような軍略的また政治的な野心を考えさせられるから、「大望」と言うたほうが良いと思うが、わかりやすく申せば、将来自分が成し遂げてやろうとする仕事をしっかりきめる精神を言うのである。 それについて今思い出すのは、エマソンの言葉に'Hitch your wheels to the star' (なんじの車を星につなげ)というのがあるが、これは「望みを高くいだけ」ということで、クラーク先生が「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と平易に言うたことを詩的に言い表したのであって、全く同精神に出ている。高いアンビシャスを持つのは、低いアンビシャスを持つよりはるかに善きことである。ある人の言うたごとくに、「失敗は罪ではない。目的の低いのが罪である。」高い目的を持つことが、人生を最も有意義に用うるゆえんである。(略)
2023.03.04
鹿児島大学図書館には、エンジニアシリーズ第1集と第3集が蔵書となっている。第2集にあたる「八田與一と鳥居信平」も寄贈して蔵書にしていただこう。鹿児島大には、engineer series第1集「広井勇と青山士」と第3集「技師鳥居信平著述集」が蔵書となっている。日本では技術者の著述を収録した全集がない。科学の目と崇高な志を日本の未来を担う若人に受け継いでほしいと願う^_^令和5年3月吉日 鹿児島大学付属図書館 様 「八田與一と鳥居信平―台湾にダムをつくった日本人技師―」増補版の寄贈について 「二宮尊徳の会」では、 「八田與一と鳥居信平―台湾にダムをつくった日本人技師―」増補版を刊行しましたので、謹んで貴図書館に寄贈いたします。 本集は台湾に利水ダムを建造した、八田與一と鳥居信平の寄稿文などを収集した資料集です。日本人技術者が自ら著述し、寄稿した資料等を収録した本として、『廣井勇と技師青山士』のエンジニア・シリーズ第2集にあたります。 八田與一は、石川県金沢市の出身で東京大学工学部において広井勇博士に師事し、台湾総督府の技師として活躍し、台南に広大な農地(嘉南大圳(かなんたいしゅう))を出現させた八田ダム(烏山頭ダム)を築造し、現在でも台湾の人々に感謝されています。 また、鳥居信平は静岡県袋井市出身で、徳島県技師として活躍した後、台湾製糖株式会社に水利技師として入社し、台湾南部の二峰圳(にほうしゅう)に地下ダムを設置し、荒蕪地を開拓しました。鳥居の環境にやさしい地下ダムはSDGsの先駆けともいえる事業で現在でも地元で感謝されています。2022年水利施設「二峰圳」築造百年記念式典が開かれました。台湾の蔡英文総統は「壮大な水利プロジェクトは、農業発展の手本になっただけでなく、台湾と日本の友情の証しでもある」と鳥居信平の功績をたたえました。 本書は、八田與一を広井勇博士の「紳士の工学」「人類のための工学」(札幌農学校精神)の系譜の中でとらえ、また鳥居信平を台湾製糖株式会社初代社長・鈴木藤三郎の「報徳の精神」を引き継ぐものとして、その人と業績を紹介いたしました。 貴図書館において蔵書としていただき、広く学生の皆様の閲覧に供していただければと存じます。 貴図書館のますますの発展を祈念します。 なお、貴館にて所蔵して頂けない場合は、本資料を他の公共図書館に寄贈いたしたく、本会メールアドレス(既刊の本の裏面に記載)にご連絡いただければ、返送用のスマートレターをお送りしいたしますので、誠にお手数ですがご返送いただきますようにお願い申し上げます。本を廃棄することなく、循環して活用したいという趣旨ですのでどうぞよろしくご協力くださるようにお願いします。 二宮尊徳の会
2023.03.02
甲信越・北陸・東海の国立大学新潟大学(新潟県新潟市西区 国立大学法人新潟大学)長岡技術科学大学(新潟県長岡市 国立大学法人長岡技術科学大学)上越教育大学(新潟県上越市 国立大学法人上越教育大学)富山大学(富山県富山市 国立大学法人富山大学)金沢大学(石川県金沢市 国立大学法人金沢大学)北陸先端科学技術大学院大学(石川県能美市 国立大学法人北陸先端科学技術大学院大学)福井大学(福井県福井市 国立大学法人福井大学)山梨大学(山梨県甲府市 国立大学法人山梨大学)信州大学(長野県松本市 国立大学法人信州大学)岐阜大学(岐阜県岐阜市 国立大学法人東海国立大学機構)静岡大学(静岡県静岡市駿河区 国立大学法人静岡大学)浜松医科大学(静岡県浜松市東区 国立大学法人浜松医科大学)名古屋大学(愛知県名古屋市千種区 指定国立大学法人 国立大学法人東海国立大学機構)愛知教育大学(愛知県刈谷市 国立大学法人愛知教育大学)名古屋工業大学(愛知県名古屋市昭和区 国立大学法人名古屋工業大学)豊橋技術科学大学(愛知県豊橋市 国立大学法人豊橋技術科学大学)三重大学(三重県津市 国立大学法人三重大学)豊橋技術科学大学図書館と山梨大学図書館には、いまだ本会の本が所蔵されていない。豊橋技術科学大学図書館に「技師鳥居信平著述集」を寄贈しよう。山梨大学図書館に「札幌農学校の三人組と広井勇」と「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」を寄贈してみよう。 令和5年2月吉日 山梨大学附属図書館 様 「ボーイズ・ビー・アンビシャス第1集」及び「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」の寄贈について「二宮尊徳の会」は、これまで「ボーイズ・ビー・アンビシャス」シリーズや「報徳記を読む」シリーズなど数多くの資料集を出版し、多くの大学図書館・公共図書館で蔵書となっております。「ボーイズ・ビー・アンビシャス」シリーズは、札幌農学校2期生である宮部金吾・内村鑑三・新渡戸稲造・広井勇の4人の若者の交流と成長を、彼らの手紙等の資料により物語るもので、彼らがいかにしてボーイズ・ビー・アンビシャスを現実化できたのか、また日本の近代化・合理化の一源流である札幌農学校精神を明らかにするものです。第1集「《クラーク精神》&札幌農学校の三人組と広井勇」は、札幌農学校時代の宮部金吾、内村鑑三、新渡戸稲造、広井勇に関する手紙や手記を収録したものです。「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」は、砂糖王と呼ばれた鈴木藤三郎がいかにして遠州報徳の風土から出現したのかを解明するために作成した資料集です。勤労・分度・推譲という禁欲的労働倫理を持った「報徳運動」が静岡県・愛知県に大量現象(明治末静岡県だけで440を超える報徳社があった)として起こり、そうした風土から豊田佐吉や鈴木藤三郎など日本近代資本主義のリーダーたちが生まれました。本書は遠州における報徳の指導者たちの資料集です。貴図書館において蔵書としていただき、広く学生の皆様の閲覧に供していただければと存じます。貴館のますますの発展を祈念します。なお、貴図書館にて所蔵して頂けない場合は、本資料を他の大学図書館に寄贈いたしたく、本会メールアドレスにご連絡頂ければ、返送用のスマートレターをお送りしいたしますので、誠にお手数ですがご返送頂きますようにお願い申し上げます。本を廃棄することなく、循環して活用したいという趣旨ですので、どうぞよろしくお願いします。 二宮尊徳の会
2023.02.26
新渡戸稲造の「世渡りの道」より「Be of good cheer; it is I: be not afraid.」・かって英文の聖書を読んだ折、しばしば Be of good cheer という句に出合ったことがある。・・・ 新約にも旧約にも、不愉快のとき、艱難のとき、たとえば病気にかかり、貧乏となり、あるいは罪のために苦しむとき、あるいは他人が不幸に悩むのを見るとき、そこにこの語がくりかえされている。 普通にいう英語の「チアフル」(cheerfull)すなわち愉快らしい顔色をすることはたいして困難ではないと思っていたが、聖書にしばしば掲げられてあるのを見てから、なるほどこれは容易でないことであり、宗教的に考えるとすこぶる重く、かつ実行しようとしてはじめてその重みがわかると思った。・・・ そもそも怒りは、とかく人に移しやすいものである。苦しみはとかく愚痴として述べたいものである。不幸はこれを口外して、他人にも担ってもらいたく思うものである。 しかるに、不幸や艱難をことごとくひとまとめにし、はなやかなる風呂敷に包み、世間にはみごとな、目覚めるごときうるわしい風呂敷だなと見せ、喜ばせながら、そのうちにある重荷をひとりで軽げに担うということは、よほど偉い人でなければできないことである。私は人のニコニコしているのを見て、その偉大さを思わざるを得ない。 (P24~25)「Be of good cheer イエス 新約聖書」で検索するとこんな場面があった。イエスが水の上を渡る場面である。イエスは群集を解散させて、祈るために人に山に登られた。夜明けごろイエスは海の上を歩いて弟子達のもとに来たのである。マタイの福音書And in the fourth watch of the night Jesus went unto them, walking on the sea.(夜明け前の早いころ、イエスは海の上を歩いて、弟子たちのところに来られた。)And when the disciples saw him walking on the sea, they were troubled, saying, It is a spirit; and they cried out for fear.(弟子たちはイエスが海の上を歩いているのを見て、困惑し、幽霊だと言って、恐れおののいた。)But straightway Jesus spake unto them, saying, Be of good cheer; it is I: be not afraid.(しかしイエスはすぐに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と彼らに言われた。)And Peter answered him and said, Lord, if it be thou, bid me come unto thee on the water.(すると、ペテロが彼に応えて言った。「主よ、あなたならば、私が水の上を歩いて、あなたのところに行くようにお命じください」)And he said, Come. And when Peter was come down out of the ship, he walked on the water, to go to Jesus.(イエスは「来なさい」と言われた。そしてペテロは舟から降りて、水の上を歩いて、イエスのところに行った。)But when he saw the wind boisterous, he was afraid, and beginning to sink, he cried, saying, Lord, save me.(しかし、彼は風を見て恐ろしくなり、沈み始めたので、「主よお助けください」と叫んだ。)And immediately Jesus stretched forth his hand, and caught him, and said unto him, O thou of little faith, wherefore didst thou doubt?(すると、イエスはすぐにペテロの手をつかんで、言われた。「信仰の小さい者よ、どうして疑ったのか?」)And when they were come into the ship, the wind ceased.(ふたりが舟に乗り込むと、風は止んだ。)Then they that were in the ship came and worshipped him, saying, Of a truth thou art the Son of God.(そして舟の中の人々は、「本当にあなたは神の子です」と、イエスを拝した。)・英語の「チア」「チアフル」という語は、中古のラテン語caraすなわち英語のfaceから転じたもので「顔」という意味をもっているそうである。愉快なる心が顔に現れることである。(P37)・・・私は、世に処するに善意をもってし、「チアフル」に世渡りしたい。・「怒りは敵と思え」と家康公も言っている。・・・ 私(新渡戸稲造)は生来短気で、気に障るとたちまち怒気を発しやすかった。 どうにかしてこれを矯正したいと思い、毎夜就寝する前に、今日はいかにして怒ったか、また幾度怒りに負けたかと、一日中の結果を考査し、これを表にしていたことがある。 これは私が17,8歳頃のことで・・・自分の経験では、悪い癖を直すにはたしかに有効であったように思い、私同様の短所のある人にお勧めしたいと思っている。(P44)・フランスの皇帝ナポレオン1世が、ヨーロッパ大陸を席巻し、勢威並ぶ者がなかった時、ある日、高位の婦人と同道して公園を散歩したことがある。折から重荷を担い、汗まみれになって疲れながらやってきた労働者に出会うと、ナポレオンは自らこの労働者のために道を譲った。婦人が「陛下はあんな下等の労働者に道をお譲りなされなくともさしつかえありますまい」と言うと、彼は「少なくともあの重荷を尊敬せよ」と言ったことがある。 (P52)・ある旗本が同僚と歓談していたところへ、出入りの商人が訪ねてきた。よもやまの雑談を交えたのち、商人は帰ってしまった。そのとき、かたわらにいた旗本が主人に向かい、「見れば今の客はたかだか一商人にすぎない。それなのに貴殿は、あの男を同僚以上にも尊敬していたように見受ける。どうも合点がいかない」と言った。すると主人は、「君には見えなかったか、彼の気概に富んだ眼光、彼の気概ある言葉が、彼の気概は我々の遠く及ばないところである。彼は商人、我々は武士、ゆえに拙者は席次や言葉には階級をつけ、目下に扱っているが、拙者の心では、すでに彼を我々以上の者と尊敬せざるを得ない。拙者が彼に一歩を譲っていることに気づいたのは感心ではあるが、彼の人格に注意が届かなかったとすれば、失敬ながら貴殿はなお眼識が低いと言わねばならない。」 (P55)勝海舟と後藤新平との出会いのエピソード・かって後藤新平が書生の頃、はじめて勝海舟に会ったとき、「お前は医学生だそうだが、首の筋肉の作用は知っているであろう」と言われ、さすがの彼もあっけに取られて答えることができなかった。すると勝海舟は、「世人は首を回すことは知っている。回して周囲に何があるか、時勢はどうかと見分けることはずいぶんできるが、事に当たって少し首を伸ばし、前途を見ることを知らない」と言ったという。これなどは、首の作用の最も妙(たえ)なところである。(P120)これは首の動きにたとえて、前途を見ることの大切さを言ったものである。
2023.02.23
九州工業大学図書館に「技師鳥居信平著述集」を島根大学図書館に「新渡戸稲造の留学談」を寄贈する。「人類の為の工学」「札幌農学校精神」という高貴(noble)な精神が次の世代に受け継がれますように願いを込めて。九州の国立大学九州大学(福岡県福岡市西区 指定国立大学法人 国立大学法人九州大学)九州工業大学(福岡県北九州市戸畑区 国立大学法人九州工業大学)福岡教育大学(福岡県宗像市 国立大学法人福岡教育大学)佐賀大学(佐賀県佐賀市 国立大学法人佐賀大学)長崎大学(長崎県長崎市 国立大学法人長崎大学)熊本大学(熊本県熊本市中央区 国立大学法人熊本大学)大分大学(大分県大分市 国立大学法人大分大学)宮崎大学(宮崎県宮崎市 国立大学法人宮崎大学)鹿児島大学(鹿児島県鹿児島市 国立大学法人鹿児島大学)鹿屋体育大学(鹿児島県鹿屋市 国立大学法人鹿屋体育大学)沖縄の国立大学琉球大学(沖縄県中頭郡西原町 国立大学法人琉球大学)残念ながら琉球大学には何度も寄贈しているが、受け入れてもらったことも返送していただいたこともない。沖縄国際大学が、今回の「訳注静岡県報徳社事蹟」を蔵書としていただいて、沖縄県内に所蔵されていることがありがたい。なんと九州工業大学付属図書館には一度も寄贈していなかった。エンジニアシリーズ第4弾「技師鳥居信平著述集」を送らなくちゃ。島根大学でも本会の本を何度か寄贈したが、いまだに所蔵されていない。島根大学は、松江キャンパスに法文、教育、人間科学、総合理工、生物資源科学の5学部、出雲キャンパスに医学部がある。島根大学図書館に「新渡戸稲造の留学談」を寄贈してみよう。
2023.02.20
中国地方の国立大学鳥取大学(鳥取県鳥取市 国立大学法人鳥取大学)島根大学(島根県松江市 国立大学法人島根大学)岡山大学(岡山県岡山市北区 国立大学法人岡山大学)広島大学(広島県東広島市 国立大学法人広島大学)山口大学(山口県山口市 国立大学法人山口大学)鳥取大学図書館1 二宮先生語録 : 読み下し全ルビ原文・現代語訳所蔵情報: 貸出可, 【2階】中央図書館 開架, 157.2:広島大学図書館1 資料で読む技師鳥居信平著述集 : 台湾の地下ダムの原点は徳島県農業技師時代にある東広島(中央) 中央図書館書庫 島根大学、岡山大学、山口大学には「二宮尊徳の会」の本は蔵書となっていない。岡山大学図書館は中央図書館のほかに、農学部資料室がある。山口大学は9学部9研究科を有している。人文学部、教育学部、経済学部、理学部、農学部、工学部、医学部、共同獣医学部、国際総合科学部。図書館には総合図書館、医学部図書館、工学部図書館がある。山口大学工学部図書館に「技師鳥居信平著述集」を、岡山大学中央図書館に「新渡戸稲造の留学談」を寄贈しよう。 令和5年2月吉日 岡山大学附属図書館 中央図書館 様 「新渡戸稲造の留学談・帰雁の葦」の寄贈について「二宮尊徳の会」は、これまで「広井勇と青山士」「八田與一と鳥居信平」など技術者シリーズのほか、報徳に関する多くの本を刊行し、全国の大学図書館・公共図書館に寄贈してまいりました。この度、「新渡戸稲造の留学談・帰雁の葦」を謹んで貴大学図書館に寄贈いたします。 「新渡戸稲造の留学談・帰雁の葦」は新渡戸稲造が米欧留学中のエピソードを著述したもので、「留学談」は新渡戸が札幌農学校教授時代、学生寮の生徒に請われて留学体験を語った記録で、「札幌農学校予備科学芸会」に所収されているもので、未公刊のものです。「学生諸君から、往々外国留学に関して問われることが少なくないので、諸君に談じよう」とあり、あまり世に知られていないエピソードも含まれ、新渡戸稲造研究上重要なものです。また「帰雁の葦」は明治40年に公刊されたものですが、留学中のエピソードを面白おかしく語ったもので、現代文にして読みやすくして収録しました。貴大学学生の皆さんが「札幌農学校精神」にふれる良い機会になると信じます。東大総長矢内原忠雄は1952年の北海道大学講演で「明治初年日本の大学教育に二つの大きな中心があった。東京大学と札幌農学校で、日本の教育における国家主義と民主主義の二大思想の源流を作った。札幌の学校は民主主義の源流である。」と語っています。「北海道から発した人間を造るというリベラルな教育が主流となることが出来ず、東京大学に発した国家主義、国体論などそう言うものが日本の教育の支配的な指導理念を形成した。その極、ついに太平洋戦争をひき起こし、敗戦後日本の教育を作り直す段階に今なっている」と述べました。なお、貴図書館にて所蔵して頂けない場合は、本資料を他の大学図書館に寄贈いたしたく、本会メールアドレスにご連絡頂ければ、返送用のスマートレターをお送りしいたしますので、誠にお手数ですがご返送頂きますようにお願い申し上げます。本を廃棄することなく、循環して活用したいという趣旨ですので、どうぞよろしくお願いします二宮尊徳の会
2023.02.19
富山大学は、人文・人間発達科学・経済・理・工・都市デザイン・医・薬・芸術文化の9学部がある。これまで何回か本会の本を寄贈したことがあるが、いまだに蔵書となっていない。図書館は、中央図書館 (五福キャンパス). 医薬学図書館 (杉谷キャンパス). 芸術文化図書館 (高岡キャンパス). の3つの図書館がある。高岡キャンパスにフォーカスして「新渡戸稲造の留学談」を寄贈してみよう。蔵書としていただいて、クリエイティブな活動をしている芸術文化系の学生の皆さんの目にとまり、読んでいただけたらいいな。新渡戸稲造のnoble(高貴な)志を受け継いでもらいたいな。芸術文化学部が関わる「高岡クラフト市場街」がふるさとイベント大賞・大賞(内閣総理大臣賞)を受賞しました!富山大学芸術文化学部が関わる「高岡クラフト市場街(市場街)」が、第27回 ふるさとイベント大賞・大賞(内閣総理大臣賞)を受賞しました。「高岡クラフト市場街」は2012年に高岡市と富山大学芸術文化学部の連携によってスタートした産学官連携活動です。2022年の開催で11年目を迎えており、富山大学芸術文化学部においては、2016年から学生らの関わりをプロジェクト授業として運営することで、授業単位として認定する仕組みとしています。2022年度のグッドデザイン賞にも選ばれています。
2023.02.17
「代表的日本人」内村鑑三著序文 この小著は、今より13年前、日清戦争の最中、『日本及び日本人』という表題をもって刊行したもののうち、その主要部分の再版であって、一友人の手によって多くの訂正を加えられたものである。我が国に対する余の青年時代の愛が全く冷却したにかかわらず、余は我が国民の有する多くの美しい性質に盲目たることができないだけでなく、彼女こそは今なお『我が祈り、我が望み、我が勤めを、自由に』与えるべき国土、然り、唯一の国土である。余が今なお我が国人の善い諸性質ー普通に我が国民の性質と考えられている盲目なる忠誠心と血なまぐさい愛国心を除いたそれ以外の諸性質ーを外なる世界に知らしめる一助となることが、おそらくは外国語をもってする余の最後の試みなりと思われる本書の、目的とするところである。 1908年1月8日 東京近郊柏木にて 内村鑑三「菊花香る」 英文『代表的日本人』の改版がでました。英文の読める方は読んでいただきたくあります。日本語で言いかねることを欧文をもって言うことができます、日本を世界に向かって紹介し、日本人を西洋人に対して弁護するには、いかにしても欧文をもってしなければなりません。私は一生の事業の一つとしてこの事をなしえたことを感謝します。私の貴ぶ者は2つのJであります。その一つはJesus(イエス)であります。その他の者はJapan(日本)であります。本書は第2のJに対して私の義務の幾分かを尽したものであります。 (大正10年(1921年)11月)この前8月11日の日記にこうある。「英文『代表的日本人』改版の校正をなしつつある。今日上杉鷹山の分を終り、ニ宮尊徳の分を始めた。今より28年前にこの著をなしておいた事を神に感謝する。真(まこと)の日本人は実に偉い者であった。いまのキリスト教の教師、神学士といえども遠く彼らに及ばない。アメリカの宣教師等に偶像信者とよばわるとも、鷹山や尊徳のような人物になるを得ば、沢山である。余はある時はキリスト信者たることを止めて純日本人たらんと欲することがある。 (1921年8月11日)
2023.02.16
今年の1月22日育英大学図書館に4冊を寄贈したが全て蔵書となった。箱根駅伝1区新田選手の大逃げに感銘を受け寄贈したが「新着資料コーナー」にはや掲載されている。札幌農学校精神は日本の民主主義の礎石である。戦後日本は内村鑑三と新渡戸稲造の教え子達が築き、広井勇の紳士の工学は偉大なエンジニアを輩出した。札幌農学校精神は日本の近代化・合理化の一源流であり、特に戦後日本の民主主義・平和主義・国際協調主義は、内村鑑三と新渡戸稲造の「特別の二人」の礎石の上に建てられている。 『ボーイズ・ビー・アンビシャス』シリーズは、札幌農学校第二期生の四人組の交流と思想の軌跡を「資料集」という形で提示するものである。【ボーイズ・ビー・アンビシャス】第3集 新渡戸稲造の留学談・帰雁の蘆 (二宮尊徳の会 2014.02 発行)「明治初年日本の大学教育に二つの大きな中心があった。東京大学と札幌農学校で、日本の教育における国家主義と民主主義の二大思想の源流を作った。札幌の学校は民主主義の源流である。」 東大総長矢内原忠雄の言葉である。・・・・「矢内原忠雄は1952年の北海道大学講演で『北海道から発した人間を造るというリベラルな教育が主流となることが出来ず、東京大学に発した国家主義、国体論などそう言うものが日本の教育の支配的な指導理念を形成した。その極、ついに太平洋戦争をひき起こし、敗戦後日本の教育を作り直す段階に今なっている』と述べています」。1 訳注静岡県報徳社事蹟 報徳の師父 ; 第2集 配架場所 新着資料コーナー2 八田與一 (はったよいち) と鳥居信平 (とりいのぶへい) 台湾にダムをつくった日本人技師. 増補版 配架場所 新着資料コーナー3 遠州報徳の師父と鈴木藤三郎 配架場所 新着資料コーナー4 新渡戸稲造 (にとべいなぞう) の留学談・帰雁 (きがん) の蘆 (あし) 2刷 ボーイズ・ビー・アンビシャス ; 第3集 配架場所 新着資料コーナー
2023.02.16
広島工業大学が寄贈した本をすべて蔵書としていただいた。早い。感謝します。お礼状に「ご寄贈いただいた資料につきましては、図書館にご一任ください」と一文添えられていたので、あるいは廃棄される本もあるかもと懸念されたのが、蔵書としていただいて有難いこと。1 訳注静岡県報徳社事蹟 . -- 二宮尊徳の会・鈴木藤三郎顕彰会, 2022.12. -- ( 報徳の師父 ; 第2集 ) 2 遠州報徳の師父と鈴木藤三郎 -- 二宮尊徳の会, 2022.12. -- ( 報徳の師父 ; 第1集 ) 3 資料で読む技師鳥居信平著述集 : 台湾の地下ダムの原点は徳島県農業技師時代にある -- 二宮尊徳の会, 2021.4 4 八田與一 (はったよいち) と鳥居信平 (とりいのぶへい) : 台湾にダムをつくった日本人技師. -- 増補版5 《クラーク精神》&札幌農学校の三人組 (宮部金吾・内村鑑三・新渡戸稲造) と広井勇 : boys be ambitiousはいかにして現実化されたのか日本の近代化・合理化の一源流「札幌農学校精神」. -- 2刷. -- 二宮尊徳の会, 2016.116 新渡戸稲造 (にとべいなぞう) の留学談・帰雁 (きがん) の蘆 (あし) / 新渡戸稲造 [談] ; -- 2刷. -- 二宮尊徳の会, 2014.3. -- ( ボーイズ・ビー・アンビシャス ; 第3集 )どうぞ広島工業大学に学ぶ学生諸君、次から次へとエンジニアを目指す次世代を担う諸君が「人類のための工学」という理想を生み出した「札幌農学校精神」や「かつての先人の業績に感謝し、次の世代のために良いものを遺そう」という「報徳の精神」を受け継いでほしいものだと切に願う。「消え去るのみ」になった世代から、時間のテストに堪えた日本人の偉大な精神をここに刻んで遺してあるから。
2023.02.16
全国の国立大学リスト 北海道北海道大学(札幌市北区 国立大学法人北海道大学)北海道教育大学(札幌市北区 国立大学法人北海道教育大学)室蘭工業大学(室蘭市 国立大学法人室蘭工業大学)小樽商科大学(小樽市 国立大学法人北海道国立大学機構)帯広畜産大学(帯広市 国立大学法人北海道国立大学機構)北見工業大学(北見市 国立大学法人北海道国立大学機構)旭川医科大学(旭川市 国立大学法人旭川医科大学)このうち、北海道大学、北海道教育大学、室蘭工業大学。小樽商科大学には「二宮尊徳の会」の出版物が蔵書となっているが、帯広畜産大学、北見工業大学、旭川医科大学には寄贈したことがない。北見工業大学図書館に「八田與一と鳥居信平」を寄贈しよう。 令和4年2月吉日 北見工業大学付属図書館 様 「八田與一と鳥居信平―台湾にダムをつくった日本人技師―」増補版の寄贈について 「二宮尊徳の会」では、 「八田與一と鳥居信平―台湾にダムをつくった日本人技師―」増補版を刊行しましたので、謹んで貴図書館に寄贈いたします。 本集は台湾に利水ダムを建造した、八田與一と鳥居信平の寄稿文などを収集した資料集です。増補版において「徳島県農業技師鳥居信平」(p.58,59)及びコラム「近代農業土木の父 上野英三郎」(p.197)「二峰圳工事の概要(万隆農場)」(p.198)を収録しました。 八田與一は、石川県金沢市の出身で第四高等学校卒業後、東京大学工学部において広井勇博士に師事し、台湾総督府の技師として活躍し、台南に広大な農地(嘉南大圳)を出現させた八田ダム(烏山頭ダム)を築造し、現在でも台湾の人々に感謝されています。 また、鳥居信平は静岡県袋井市出身で、八田と同じく第四高等学校卒業後、東京大学農学部に入学、卒業後、徳島県技師として活躍した後、台湾製糖株式会社に水利技師として入社し、台湾南部の二峰圳(にほうしゅう)に地下ダムを設置し、荒蕪地を開拓しました。鳥居の環境にやさしい地下ダムは現在でも地元で感謝されています。 本書は、八田與一を広井勇博士の「紳士の工学」「人類のための工学」(札幌農学校精神)の系譜の中でとらえ、また鳥居信平を台湾製糖株式会社初代社長・鈴木藤三郎の「報徳の精神」を引き継ぐものとして、その人と業績を紹介いたしました。 貴図書館において蔵書としていただき、広く学生の皆様の閲覧に供していただければと存じます。 貴図書館のますますの発展を祈念します。 なお、貴館にて所蔵して頂けない場合は、本資料を他の公共図書館に寄贈いたしたく、本会メールアドレス(既刊の本の裏面に記載)にご連絡いただければ、返送用のスマートレターをお送りしいたしますので、誠にお手数ですがご返送いただきますようにお願い申し上げます。本を廃棄することなく、循環して活用したいという趣旨ですのでどうぞよろしくご協力くださるようにお願いします。 二宮尊徳の会
2023.02.16
2023年箱根駅伝で東京国際大学は11位、帝京大学は13位で惜しくもシード入りを逃した。いずれも「二宮尊徳の会」の出版物を蔵書としていただいていない。そこで東京国際大図書館に「技師鳥居信平著述集」を、帝京大図書館に「新渡戸稲造の留学談」を寄贈する。蔵書としていただけるといいな(^^)帝京大は1966年産婦人科学者沖永氏の帝京商業学校に発し、板橋は医療系学部、八王子は文系学部がある。八王子キャンパス図書館に「新渡戸稲造の留学談」を寄贈する。東京国際大は1965年に国際商科大学として金子泰藏および、一橋大学出身者の有志らにより創立された。世界70国以上の留学生が学ぶ。「技師鳥居信平著述集」を寄贈する。それぞれで寄贈した本が生きて働きますように^_^
2023.02.14
立教大学付属図書館中央図書館に「技師鳥居信平著述集」を日本体育大学に「新渡戸稲造の留学談・帰雁の葦」を 寄贈する。立教大学にはこれまでも何度か寄贈したが、まだ受け入れてもらったことはない。日本体育大学はジャンルが違うかなと寄贈していなかったが、基礎教養という意味では「ボーイズ・ビー・アンビシャス」シリーズは寄贈に値するかもと改めて思う。大学図書館に出版した本を寄贈しても蔵書としていただけるのは半分くらいであろうか。旧帝大(東京、京都、東北、九州、北海道、大阪、名古屋)の国立大学図書館でも東京大学、京都大学、北海道大学、東北大学、九州大学は蔵書としていただいているが、名古屋大学と大阪大学は何度かチャレンジしたが、蔵書としていただいていなかった。「技師鳥居信平著述集」を今回初めて大阪大学図書館が蔵書としていただいた。理工学図-東館2F図書おそらくは理工学図書館に寄贈先を絞ったからであろうか。資料的価値をくんでいただいて有難い。名古屋大学も農学部図書館においてはじめて蔵書としていただいた。農 農書庫図書広島大学図書館も「技師鳥居信平著述集」を蔵書としていただいた。東広島(中央) 中央図書館書庫こちらは書庫である、日の目を見て学生諸君の関心をひくといいなあ。現在の国立大学でも筑波大学も蔵書としていただけていない。経験を踏まえると、農学部とか工学部とかターゲットを絞ったり、学校によって寄贈の本の種類を変えて寄贈してもいいかもしれない。いつも何度でも いつも何度でも夢をみよう、チャレンジしてみよう。 令和5年2月吉日 日本体育大学付属図書館 様 「新渡戸稲造の留学談・帰雁の葦」の寄贈について「二宮尊徳の会」は、これまで「広井勇と青山士」「八田與一と鳥居信平」など技術者シリーズのほか、報徳に関する多くの本を刊行し、全国の大学図書館・公共図書館に寄贈してまいりました。この度、「新渡戸稲造の留学談・帰雁の葦」を謹んで貴大学図書館に寄贈いたします。 「新渡戸稲造の留学談・帰雁の葦」は新渡戸稲造が米欧留学中のエピソードを著述したもので、「留学談」は新渡戸が札幌農学校教授時代、学生寮の生徒に請われて留学体験を語った記録で、「札幌農学校予備科学芸会」に所収されているもので、未公刊のものです。「学生諸君から、往々外国留学に関して問われることが少なくないので、諸君に談じよう」とあり、あまり世に知られていないエピソードも含まれ、新渡戸稲造研究上重要なものです。また「帰雁の葦」は明治40年に公刊されたものですが、留学中のエピソードを面白おかしく語ったもので、現代文にして読みやすくして収録しました。貴大学学生の皆さんが「札幌農学校精神」にふれる良い機会になると信じます。東大総長矢内原忠雄は1952年の北海道大学講演で「明治初年日本の大学教育に二つの大きな中心があった。東京大学と札幌農学校で、日本の教育における国家主義と民主主義の二大思想の源流を作った。札幌の学校は民主主義の源流である。」と語っています。「北海道から発した人間を造るというリベラルな教育が主流となることが出来ず、東京大学に発した国家主義、国体論などそう言うものが日本の教育の支配的な指導理念を形成した。その極、ついに太平洋戦争をひき起こし、敗戦後日本の教育を作り直す段階に今なっている」と述べました。なお、貴図書館にて所蔵して頂けない場合は、本資料を他の大学図書館に寄贈いたしたく、本会メールアドレスにご連絡頂ければ、返送用のスマートレターをお送りしいたしますので、誠にお手数ですがご返送頂きますようにお願い申し上げます。本を廃棄することなく、循環して活用したいという趣旨ですので、どうぞよろしくお願いします二宮尊徳の会
2023.02.13
花巻北高校のフェイスブックに「新渡戸稲造の留学談・帰雁の蘆」が引用されていた。読み込んでくれて有難い(^^)【ボーイズ・ビー・アンビシャス】第3集 新渡戸稲造の留学談・帰雁の蘆 (二宮尊徳の会 2014.02 発行)、次のような文がありました。「明治初年日本の大学教育に二つの大きな中心があった。東京大学と札幌農学校で、日本の教育における国家主義と民主主義の二大思想の源流を作った。札幌の学校は民主主義の源流である。」 東大総長矢内原忠雄の言葉である。・・・・「矢内原忠雄は1952年の北海道大学講演で『北海道から発した人間を造るというリベラルな教育が主流となることが出来ず、東京大学に発した国家主義、国体論などそう言うものが日本の教育の支配的な指導理念を形成した。その極、ついに太平洋戦争をひき起こし、敗戦後日本の教育を作り直す段階に今なっている』と述べています」。
2023.02.12
ツイッターにシェアしているが、200Viewsを超えるものがでてきた。若い人に「報徳の精神」や「札幌農学校精神」が伝わり、次の世代に受け継いでもらえればいいなとセッセと本の寄贈を続けている。日本各地の大学図書館で 集積 ができつつある。石川県の公立小松大学図書館に「八田與一と鳥居信平」を寄贈する。八田も鳥居も第四高等学校を経て東京帝国大学に進学した。そして台湾において活躍し現在でも現地の人々に敬愛されている。エンジニアとして「人に役立つ」現代の学生諸君の模範であろう 208Views*地域のにぎわい創出などを目指して4年前に開校した公立小松大学では、今年、第1期生が卒業しました。女子学生「充実した4年間を過ごしました」「楽しかったです」「充実してました」さらに、春には大学院の研究施設が完成し、卒業後に地域の産業振興などに貢献できる学生の育成を目指します。ことし、県内では教育や文化施設が続々とオープンしました。*小松駅は2000年代初めに高架化され、新幹線駅のような存在感を醸し出す。敦賀延伸に伴う新幹線駅併設に向け、東口で駅舎と線路の工事が進む。西口には2018年4月、公立小松大学が開校した。全国でもまれな、新幹線駅前に立地する国公立大学となる。このほか、市立の科学博物館「サイエンスヒルズこまつ」や見学スペースを持つ埋蔵文化財センター、ドーム球場「こまつドーム」などがあり、郊外には敷地12万8000平方メートル、3400台の駐車場を備える大規模商業施設「イオンモール小松」をはじめロードサイド店も多数立地する。景観や商業集積、都市機能、施設は中核市クラスだ。「北陸新幹線で小松駅に降り立ったお客たちに、看板商品をぜひ手に取ってもらいたい」。八日市町で和菓子店「御朱印」を経営する半田雅彦さんは40歳だ。店の名を冠したチョコレート饅頭「御朱印」を敦賀延伸に合わせてブランディングしようと連日、思案を重ねている。仏教や仏閣が日常に溶け込んでいる北陸・小松ならではのネーミングだろうか。半田さんと親しい小松商工会議所職員の坪田豊和さんは「市内には、源義経・武蔵坊弁慶が登場する歌舞伎の舞台『安宅の関』跡もある。小松空港と新幹線の共存を目指し『関所サミット』などを開催できないか」と思いを巡らす。
2023.02.11
南山大学に「八田與一と鳥居信平」を寄贈する。南山大学には既に次の本が蔵書となっている。1 報徳は精神変革である : 『報徳記』巻の二、『報徳論』(『報徳要典』準拠全ルビ)、報徳本教・青木村治蹟 B2F_図書(研究用)2 『報徳記』第一巻(『報徳要典』準拠全ルビ原文(朗読・輪読用)、現代語訳、資料集) B2F_図書(研究用)B2F_図書(研究用)3 『クラーク精神』&札幌農学校の三人組(宮部金吾・内村鑑三・新渡戸稲造)と広井勇 : boys be ambitiousはいかにして現実化されたのか日本の近代化・合理化の一源流「札幌農学校精神」 B2F_図書(研究用)4二宮先生語録 : 読み下し全ルビ原文・現代語訳 B2F_図書(研究用)5 新渡戸稲造の留学談・帰雁の蘆 B2F_図書(研究用)6 内村鑑三神と共なる闘い : 不敬事件とカーライルの「クロムウェル伝」 B2F_図書(研究用)南山大学を運営する南山学園は、カトリックの修道会である神言会が母体となっています。明治末期に来日した神言会ドイツ人宣教師ヨゼフ・ライネルス神父が1932年に南山中学校(旧制)を設立。その14年後に設立された南山外国語専門学校が前身となって、南山大学は1949年に1学部4学科でスタートしました。以来70余年を経た今日では、8学部18学科を擁する総合大学へと発展しています。南山大学は、中部地区を含む西日本で唯一のカトリック総合大学で「キリスト教世界観に基づく学校教育を行う」をその建学の理念とし、この建学理念に具体的な方向性を与える為に、本学は「Hominis Dignitati(人間の尊厳のために)」という教育モットーを掲げています。キリスト教では、人間は神に創造されたものとして侵すことのできない「尊厳」つまり人間としてのかけがえのない価値や権利を持っている、と教えられます。 このような人間の尊厳をしっかりと把握し、これを尊重しつつ生きていく人間になるように、という願いが込められているのです。南山大学は、共学の大学としては中部唯一のカトリック系ミッションスクールで「キリスト教世界観に基づく学校教育を行い、人間の尊厳を尊重かつ推進する人材の育成」をその建学の理念とし、この建学理念に具体的な方向性を与える為に、「Hominis Dignitati(人間の尊厳のために)」という教育モットーを掲げています。
2023.02.11
北星学園大学北星学園の起源は1887年、アメリカの女性宣教師サラ・C・スミスによって設立された「スミス女学校」にまで遡ります。以来、その教育姿勢は、新渡戸稲造ら多くの共鳴者を得、1962年に北星学園大学が開学。来春には社会福祉学部を改組し、3学部7学科、3研究科および短期大学部2学科を包摂する文系総合大学として、さらなる発展を続けています。創立時から一貫して、「キリスト教による人格教育」を継承し、「人間性」「社会性」「国際性」を備えた数多くの卒業生が国内外で活躍しています。キャンパスには多くの留学生が在籍し、「国際ラウンジ」でさまざまな異文化交流イベントを展開。さらに多彩な留学制度を設けるなど、グローバル教育を積極的に促進しています。北星学園大学の教育の源は、1887(明治20)年、米国の女性宣教師サラ・C・スミスが「スミス女学校」を開設し、北海道の女子教育に着手したことに遡ります。当時の風潮にあって、キリスト教精神による女性の人格教育に力を注ぐ彼女の姿勢は、教育界に革新的で清新な風を吹き込みました。その志に、新渡戸稲造ら札幌農学校(現北海道大学)教員の多くが共鳴。出講などを通した惜しみない教育支援のもと、スミスが主導して展開した教育内容は、女子教育界のなかでも高く評価されました。その後、新渡戸らの助言により「北星女学校」と改称。1962年、男女共学の4年制大学として北星学園大学が開学し、現在では文学部、経済学部、社会福祉学部、短期大学部および大学院に約4300名が学ぶ総合大学に発展しています。北星学園大学が建学の精神として掲げるのは、キリスト教精神に基づいた人格教育であり、そこで培われた「人間性・社会性・国際性」を備えた人材の育成です。これは、創立時から一貫してスミスの教育理念を受け継ぐものであり、高き教養と人格の確立を目指した北星学園の教育は、多くの有為な人材を世に送り出し、社会の高い評価を得て今日に至っています。◎北星学園大学に「オーイズ・ビー。アンビシャス」シリーズ5冊を寄贈したのは縁があってである。「八田與一と鳥居信平」も寄贈しよう。これは第4集に発する「技術者シリーズ」第2集でもある。札幌農学校広井勇博士に発する「人類のための工学」を受け継ぐものである。北星学園大学図書館1 二宮金次郎の対話と手紙 : 中学生からお年寄りまでよくわかる, 第1 3F和書2 内村鑑三神と共なる闘い : 不敬事件とカーライルの「クロムウェル伝」 3F和書3 札幌農学校教授・技師広井勇 (いさみ) と技師青山士 (あきら) : 紳士 (ジェントルマン) の工学の系譜 3F和書4 新渡戸稲造 (にとべいなぞう) の留学談・帰雁 (きがん) の蘆 (あし) 3F和書5 『報徳記』第一巻(『報徳要典』準拠全ルビ原文(朗読・輪読用)、現代語訳、資料集)6 報徳は精神変革である7 《クラーク精神》&札幌農学校の三人組 (宮部金吾・内村鑑三・新渡戸稲造) と広井勇 : boys be ambitiousはいかにして現実化されたのか日本の近代化・合理化の一源流「札幌農学校精神」 3F和書8 二宮尊徳と日本近代産業の先駆者鈴木藤三郎 3F和書9 米国留学中の内村鑑三の日記と手紙 : 内村鑑三から新島襄、広井勇あて書簡 : 宮部金吾・新渡戸稲造往復書簡抜粋 3F和書閉架10 報徳産業革命の人 : 報徳社徒鈴木藤三郎の一生 閉架
2023.02.10
石川県の公立小松大学*付属図書館に「八田與一と鳥居信平」を寄贈する。*公立小松大学(こうりつこまつだいがく、英語: Komatsu University)は、石川県小松市四丁町ヌ1番地3に本部を置く日本の公立大学。2018年創立、2018年大学設置。 小松市を設立団体とする公立大学で、石川県の南加賀地域では初めてとなる4年制大学。公設民営の小松短期大学(1988年開学、2019年閉学)と一般財団法人こまつ看護学校(私立学校法64条4項に基づく法人)が経営する専修学校こまつ看護学校(1995年開校、2020年閉校)を再編・統合し公立化。2018年4月に開学した。令和4年2月吉日 公立小松大学付属図書館 様 「八田與一と鳥居信平―台湾にダムをつくった日本人技師―」増補版の寄贈について 「二宮尊徳の会」では、 「八田與一と鳥居信平―台湾にダムをつくった日本人技師―」増補版を刊行しましたので、謹んで貴図書館に寄贈いたします。 本集は台湾に利水ダムを建造した、八田與一と鳥居信平の寄稿文などを収集した資料集です。日本人技術者が自ら著述し、寄稿した資料等を収録した本として、ボーイズ・ビー・アンビシャス第四集『札幌農学校教授・廣井勇と技師青山士』に引き続くものです。増補版においては「徳島県農業技師鳥居信平」(p.58,59)及びコラム「近代農業土木の父 上野英三郎」(p.197)「二峰圳工事の概要(万隆農場)」(p.198)を収録いたしました。 八田與一は、石川県金沢市の出身で第四高等学校卒業後、東京大学工学部において広井勇博士に師事し、台湾総督府の技師として活躍し、台南に広大な農地(嘉南大圳)を出現させた八田ダム(烏山頭ダム)を築造し、現在でも台湾の人々に感謝されています。 また、鳥居信平は静岡県袋井市出身で、八田と同じく第四高等学校卒業後、東京大学農学部に入学、卒業後、徳島県技師として活躍した後、台湾製糖株式会社に水利技師として入社し、台湾南部の二峰圳(にほうしゅう)に地下ダムを設置し、荒蕪地を開拓しました。鳥居の環境にやさしい地下ダムは現在でも地元で感謝されています。 本書は、八田與一を広井勇博士の「紳士の工学」「人類のための工学」(札幌農学校精神)の系譜の中でとらえ、また鳥居信平を台湾製糖株式会社初代社長・鈴木藤三郎の「報徳の精神」を引き継ぐものとして、その人と業績を紹介いたしました。 貴図書館において蔵書としていただき、広く学生の皆様の閲覧に供していただければと存じます。 貴図書館のますますの発展を祈念します。 なお、貴館にて所蔵して頂けない場合は、本資料を他の公共図書館に寄贈いたしたく、本会メールアドレス(既刊の本の裏面に記載)にご連絡いただければ、返送用のスマートレターをお送りしいたしますので、誠にお手数ですがご返送いただきますようにお願い申し上げます。本を廃棄することなく、循環して活用したいという趣旨ですのでどうぞよろしくご協力くださるようにお願いします。二宮尊徳の会おしゃべりOK!コーヒーやお酒も飲める日本の次世代図書館3選
2023.02.06
年金だけで生活できるのは5人に1人・SBIグループのSBIエステートファイナンスは、持ち家がある60歳〜65歳の男女395名を対象にして、「老後破産」に関する調査を実施した。・将来、年金(厚生年金と国民年金)のみで家計収支はプラスになるか、という質問には、「いいえ」の回答が80.5%、「はい」は19.5%。年金だけで生活できるのは約5人に1人という結果に。・年金と将来想定される年金以外の収入(株式や不動産収入等)で家計収支はプラスになるか、と聞くと「いいえ」の回答が60%。「はい」は40%にとどまった。・老後破産の不安があるかという質問には、全体で約4割が「ある」と回答。→上記を踏まえると、現役のときに資産を蓄積するか、定年退職後働き続けるか、になる。65歳以降も働くメリット・2020年度の平均受給月額は約14万6,000円、65歳以降も働いて退職金や年金を切り崩さずに過ごせる(生活に不安のない)のは、大きなメリット・65歳以降も働くことで、生きがいを感じ続けられるメリットがあります。「ikigai」を知っていますか?世界が注目する日本発の人生哲学「Ikigai」は、「Sushi」や「Tsunami」など、そのまま世界でも通用する日本語の単語になってきている。 「Ikigai」という言葉が世界に広く知られるようになったきっかけは、一冊の本。スペイン人のFrancesc Miralles氏とHéctor Garcia氏(2004年より日本在住)が共著し、2016年春に出版された「ikigai」という本がある、その人気が世界規模に広がったのは、2017年夏。英語版の出版にあたり、イギリスのBBCや世界経済フォーラム (本部ジュネーブ)のブログで「ikigai」の考え方を取り上げたことが大きなターニングポイントとなりました。 外国には「生きがい」にぴったりくる訳語が存在しないため、「ikigai」著者たちは詳細にその考え方を解説しています。 あなたが好きなこと」「世界が必要としていること」「報酬を受けられること」「あなたが得意なこと」が重なり合った中心に「生きがい」があると説いています。おそらくリタイアの考え方を変えないと、いけない時代なのかもしれない。ikigai の考え方のヒントの一つは広井勇博士の考え方にある。広井勇の信念―生きている限りは仕事をする― 広井勇の信念は「生きている限りは仕事をする。仕事ができなくなった時、その時が自分の死ぬ時である」であった(「広井勇伝」p.77)。 浅野総一郎は広井勇博士を回顧しながら涙を浮かべた。「実に想起すれば博士は惜しんでも、なお余りある人物である。そうして性格的には覚悟のよい偉丈夫であった。ご不快のときにあっても、仕事だけは忘れずに続けておられた。そして常にいわれた。『仕事ができなくなれば死ぬほかはない。仕事のできなくなった時がすなわち自分の死ぬときである』と。晩年も、毎日のように『生きている間は仕事をする』と言われた。『社会の役に立たぬ体になったら、むしろ死んでしまいなさい』が博士の持論であった。」(p.159)
2023.02.05
現代語表記 流竄録 内村鑑三 その3 白痴院の目的は3なり 余はまず看護人として本院に雇い入れられたり白痴院の目的は三なり。一、これら神経機能発育の防阻せられし者を取り、特種の方法をもって、この防阻を排除し、規定的発達(ノーマルデポルブメント)を促すにあり。二、これら人類中の廃棄物を看守し、一方には無情社会の嘲弄より保護し、他方には男女両性を相互より遮断して彼らの欠点をして後世に伝えざらしむるにあり。三、これら社会の妨害物を一所に集め、一方には社会をその煩累より免れしめ、他方には適宜の訓導のもとに彼らをしてその資給の一部を補わしむるにあり。 余はまず看護人として本院に雇い入れられたり。余の職務は白痴22名を預かり、これに衣食沐浴の世話を与うるにありき。しかして余が白痴教育の原理に達せんがために院長は余をしてドイツ婦人某の助手たらしめ、彼女と共に最下級生(すなわち単数4個以上をかぞえ得ざるもの)40余名を分配して教授なさしめたり。余は明治18年1月1日よりこの聖職に就けり。しかして爾来(じらい)3か月間は余のいまだかつて味わざる生涯の苦戦なりき。 余はまず教授上の実験より談ずべし。教授の課目はおおよそ左のごとし。一、 行状-おもに静粛なるを教う。そは彼らは5分時と同時に平靖(へいせい)なるを得ざればなり。彼らをして15分間手を組みて静粛ならしむるの教師は熟練のものといわざるを得ず。二、 色分け-青黄赤白黒の別を知らしむるにあり。白と黒とは容易に別つを得べし。しかれども、青と黒とはやや難(かた)きがごとし。紫と青のごとき、黄とダイダイのごときは最も難題なり。これを教うるに色ボタンをもってす。彼らをして同色のものを一糸につながしむ。三、 算数なり-最下等のものは4を超ゆるあたわず。最上級のものは阻滞なしに20までかぞえ得るものあり。書物を取りてその四隅あるを知らしめ、男女を両別して、互いにその数をかぞえしむ。一時間を消費してまず滞りなく10をかぞえしめたりと思い、なお一時間を経て彼らを試むれば、8を5の前に置くあり。6を9の後に言うあり。しかれども癇癪(かんしゃく)は起こすべからず、また再び試みんのみ。四、 指先の鍛錬なり-釘を平板にうがちたる穴に差し入れしむ、女子部においては針の穴に糸を通すの法を教うるをもって専とす。そのほかおおむねかくのごとし。その気長の仕事たる察すべし。余の受持の級中、余の特別の注意を惹きしもの2人ありき。一は前述のオスカー某なる留め針狂、貪食漢なり。他はハリー某なる猿猴(えんこう)的小児なりき。余は非常の「インテレスト」をもってこの児を研究せり。そは彼が猿が進化して人間となりしものにあらずして、人間が退化して猿となりたつものなればなり。彼の面貌の猿猴的なるは一目瞭然たり。しかれども彼の行為においてはなお一層そのしかるべきを見たり。その床につくや前方に身をかがめ、床衣を背部にまとうをつとめて腹部に意を留めざるはたしかに猿猴的なり。彼の物を食するや、まずこれを手にし、八方よりこれを眺め、しかる後一意をこれに注射して食するの状も猿猴的なり。しかして彼の猿猴的傾向にいたりては彼の全く猿猴族の親類たるを証するに足れり。 余は一日彼を試みんために余をして全く彼の自由に任じたり。しかして彼がいかにして余を処するかを見たり。彼はまず余の頭を撫ぜてしきりに余の静粛にして彼の意にしたがうをほめ立てたり、(余が常に彼に向かって為すの状なり)しかる後に余を引き立てたり、余は彼の命ずるままに行けり。彼は余を伴いて教場の附属室にして一日一回小児に分与すべきパン菓子の貯えある所に連れ行けり。余に命じていわく、「なんじ、その箱を取りおろせ」と。余は彼の命に従えり。彼はまた大いに余の従順をほめ立てたり。いわく「ユー、グー、ボイ」と。彼は夥多の菓子を彼の両衣嚢(かくし)の中に取り込みたり。しかして余に向かっていわく、「なんじにこの一個を給す。おとなしくあれ」と。余は黙して彼の為さんとするところに注意せり。彼は面を余よりそむけ、知らぬまねして菓子を取り出し、まさに一々これを平らげんとせり。時に余は声をはげましていわく、「ハリーよ、なんじは盗賊なり。なんじはこれを食すべからず」と。彼は朱色を面にはらして発怒せり。あたかも浅草の奥山における猿に与えんとする菓物を転じて与えざりし時の状に少しも異なることなし。怒れるハリーは泡をふきながら彼の席に帰れり。しかして彼の不機嫌は終日にわたりたり。余の看護的職務は以上のごとく学術的の趣味を有せざりき。20余の自己を顧みざる人間を取り扱うは決して安易の業にあらず。彼らは朝夕口をすすぐの要と快とを知らず(彼らたいがい15歳以上なり)。ゆえに傍らに付きまといて一々口中を検査せざうを得ず。彼らは糞尿を床中にのこすも、もし他人の注意を加うるにあらざれば何日たりとも、これに安んずるものなり。ゆえに毎朝厳しく彼らの寝台をしらべざるべからず。彼らは無理に浴中に投ぜらるるにあらざれば、何年間なりとも自己の垢に安んずるものなり。ゆえに彼らを浴中に押し込み、ブラッシュもて彼らを擦(す)らざるべからず。しかして無責任なる彼らにして看護人の不注意より疾病にかかるものありとせんか、その責は皆吾人の頭上に来りて彼らに来たらず。朝夕、房内の寒暖を調和せざるべからず。空気の流通に注意せざるべからず、ノミ・シラミの征伐に従事せざるべからず。看護人は彼らの奴隷なり。彼らもし普通の病者にして身体不自由のために病床にあるものならんか、吾人はよく彼らのために忍ぶを得ん。しかれども彼らは強壮なる一人前の人間なり。彼らの病はただに責任を知らざるにあり。ここにおいてか真正の耐忍は要せらるるなり。ここにおいてか論理的の徳義も宗教も無用に帰するなり。この場合において益を得しものは彼らにあらずして余自身なりき。 院則として院長の許可なくして笞杖(ちじょう)的の譴責(けんせき)を入院者に加うるを得ず、ゆえにいかに無礼を加えらるるも、靴もて蹴らるるも、つば吐かるるも、子羊のごとくに忍ばざるを得ず。責任を知らざるものを感化するに道徳的な感化力をもってせざるべからず。ほとんど無理相談と称して可なり。しかりといえども道徳的感化力は彼らにいけるも最大勢力なり。しかして、院則のこれに出しものは確実なる経験に基づきしものなり。費府(フィラデルフィア)の癲癇(てんかん)院長故キルクプライド氏は彼の患者に接するに常に君子の礼をもってし、癲癇者なるのゆえをもって彼らに対し虚言を吐きし事なく、また彼の配下に立つ役員雇い人等に至るまでこの規を固く守らしめたりという。白痴またしかり。彼らの無知なるは彼らをして、親切に対し無覚ならしめざるなり。吾人一度彼らの依り頼むところとならんか、彼らに優りて愛すべきものは余はいまだかつて知らざるなり。これ白痴看護事業において希望の存ずるところなり。 しかれども彼らは容易になずまざるなり。このゆえをもって本院の雇い人にして3か月以内に解雇を願い出ずるもの多し。そは彼らはいまだその苦のみを知りて、その快楽を知るに至らざればなり。しかし3か月以上を経て止まず、役員にして25年を院内に過ごせしものすくなからず。看護人にして十年以上のものまた多し。戦争は最始の3か月なり。これ白痴教育事業の皮切りなり。
2023.01.29
広井勇(いさみ)博士は土佐藩士広井喜十郎の長男として今の高知県の佐川村に生まれました。明治3年に父が亡くなり9歳で家督をつぎました。祖母が木綿糸を紡いでそれを糸屋に届けるのは、勇の役目でした。ある日、糸を金に換えた帰り、勇は近所の子らと遊んで、金を亡くしました。祖母は「失うたものは仕方がない。以後気をつけなされ」とやさしく諭しました。『築港』の前書きに、広井勇が幼い頃に高知県の浦戸港に遊びに来たとき、土地の古老から野中兼山が築いた防波堤が200年の時を経て、安政の大地震から津波を防ぎ一村が助かった話を聞いて感動したとあります。「おもうに港湾の修築は実に国家重大の事業である。、土木事業中で最も困難である。だから計画を立てるに当っては、最も慎重に、最も周到に行い、百年にわたって見込みはずれのないようにしなければならない。著者(広井勇)幼い時、土州浦戸種崎に遊んだ折に、海峡をはさんで二つの防波堤があった。これを古老に聴くと、野中兼山が築いたものだと。種崎村にあるものは、ながく砂のうちに埋もれて誰も知るものもなかったが、後に200余年たって、安政元年の大地震に際し、津波が襲ってきて、種崎の一村が今や荒れ狂う大波ににまきさらわれようとする一瞬、その防波堤がむき出して、大波を防いでわずに一村をまっとうできたという。実に技術者の千年の栄誉と恥辱はかかって設計の上にあり。これが用意の慎重に注意を行き届かせ、遠大な計画を要するということで、よく心掛けておかなくてはならない。
2023.01.25
新渡戸稲造の生涯 より新渡戸稲造は明治三十九年(一九◯六)の九月四十五歳の時に一高に赴任したが、その校長就任の挨拶に、学生たちに向って、ソシァリティー(社交性)の必要を強調し、次のように述べた。「健全なる知識を得るということは、それによって純粋な汚れなき魂を養わんがためである。純粋なる人情も実世界に適用するのでなければ何の役にもたたぬ。ここにおいて、ソシァリティーの必要なことがわかる。今の教育に欠けているものは実はこの社交的観念である。それは必ずしも追従せよ、阿諛(あゆ)せよ、とかいうことではない。唯円満に実世界に活動し得る人物たることを望むのである。」さらに、寮で行われた新旧校長の送迎会の席上で、次のように言った。「昔の道徳はおしなべて保守退嬰(たいえい)的である。宗教団体が俗世間を離れて修業する超然主義や、わが一高の籠城主義のようなものは、その成立の当初においては必要な役割を果たしたものであろうが、その弊害のあるところもまた考えなくてはならぬ。まず、同一の主義でなければ一切相容れないとなると、いきおい偏狭固陋におちいりやすい。外の世界を知らぬから、ややもすると高慢心を起しやすい。単調に流れて向上進歩が遅れる。だから、団体の秩序を乱さない限りにおいて、なるべく異分子の収容をはかり、たとい自分と異なる主張をする者があっても、その是非を研究することなしに排斥するような高慢なことをしてはならない。ソシァリティーは、要するに長者に交われ、ということである。」彼のこの講話は、当時の一高生に大きな衝撃を与え、賛否両論が渦を巻いた。弁論部や雑誌部、文芸部の学生たちは彼を支持した。一方「新渡戸校長は西洋人を細君としている欧化主義者で、わが一高の伝統の実質剛健な気風を転化させる者」という反対派も多かった。こうした反対派の動きは、やがて明治四十二年の記念祭の晩、末広厳太郎による校長不信任演説となってあらわれた。「新聞では失礼ながら、先生を八方美人ときめつけている。私は必ずしもこの新聞の論調に雷同する者ではないが・・・・・先生はソシァリティーを唱えられる。しかし八方美人とソシァリティーの混同は排斥すべきものである。(略)」末広の論に対し、前田多門や鶴見祐輔などが起ち上がり、新渡戸校長を弁護すると、石本恵吉がまたそれに反論をするという調子で、満場の学生たちは、興奮に湧きかえった。新渡戸校長は、それまで泰然として生徒たちの論に耳を傾けていたが、やがて壇上に立った。「世の中には潔癖な人がおって、嫌な人とは交わらず、われひとり澄めり、われひとり明からなりと思っている人がいる。これが日本人の通弊であって、これがために列国のうらみを買うことが多いのである。今われわれは大国民となったのであるから、すべての人に対し寛容でなくてはならない。大きな心をもって人と和すること、これがソシァリティーである。しかしそうかと言って、軽率な小才子となってはいけない。どこか動かすべからざる根底がその人になければならない。人をとがめず、しかも自分は侵すべからざる信念をもって、ものごとを行うべきである・・・・・。(略)私は、トム・ブラウンズ・スクールデイズの話のごとく、諸君のうち一人でも二十年三十年の後、再びこの学園に来て往年のことを追懐してくれるならば、非常に満足である。」と、結んだ。当時の学生のひとりが、この日のことを追懐して、「その時、満場せきとして声なく、わずかにすすり泣きの洩れるのを聞くのみ・・・・・」と言っている。一高校長を辞任する決意をした。その間の心境を、彼はアメリカ留学時代以来の親友佐伯理一郎あてに次のように書いている。「僕はただ牧野文相の知遇に感じ、まあ二、三年やってみましょうと引き受けたのであるが、いざやってみると学生たちが可愛くなり、一生この仕事に専念しようと思うこともあったが、如何せん、今年の三月ごろから十三年前と同じ神経衰弱の徴候が現われ、心配していた矢先に、実に意に添わぬことが二つ起った。一つはこの四月の高等学校長会議における文部大臣訓示である。大臣の言うような煩わしい校務を到底勤め上げることはできぬので、私はその場でそれが実行不可能である由を述べておいた。その二つは、わが国と清国の友好上、清国の留学生を入学させるように上申していたのであるが、それが不許可になったことである。右の故に、僕は校長会議の閉会の日を期して辞表を提出したのである。ところが新聞では、小生の辞職理由を、一、実業之日本社との関係によって学生間に不信をひき起こしたと、二、長期にわたる外遊によって職をなおざりにしたこと、三、某大学教授が学校のため小生の排斥を企てたことなどによるものと書きたてている。(略)新聞屋などの悪口は何んの痛みも僕に与えぬ。これを、学者の品位を損うものとして非難する人に対しては、また何をかいわんやである。ともあれ一高の学生はすこぶる面白い。彼らと関係は断ちたくないが、役人的な権威はもうごめんこうむりたい。(略)」彼の辞意をきいて一高生たちは驚き、委員たちは留任に奔走したが、彼の決意は固く、大正二年四月、ついに第一高等学校々長を辞任することになった。大正二年(一九一三)四月二十六日、新渡戸稲造は倫理講堂に一高生一同を集めて、つぎのような告別の演説を行った。「教育は精神である。自分の精神としてきたところは何であるか。第一は忠君愛国、言葉ではない。その精神を日常生活にあらわすということである。第二は諸君をなるべく自由に伸ばしたいと思った。日本人は幕府政治を経てきて、未だ伸びが足りない。才能が充分に発揮されていない。それを出来るだけ伸ばしてやりたい。一つの型にはめるということは最も教育の本旨にもとっている。(略)第三は品行より品格ということを重くみている。人の根本をつくるべき性格の修養ということを常に言ってきたつもりである。自分はこの三つを主な精神として束の間も忘れずにやってきた。私は在職中のことを顧みて、私がなしてきた過ちを意識しているのでもずい分ある。意識していないのはいくらあるか知れない。諸君はどうかこの際これらの過ちを許して貰いたい。できることなら忘れてくれ給え。・・・ 今やこの学校を去るにのぞんで、言いつくされぬ多くの事が心に浮かんでくる。私は策略を知らぬ男である。何もかも打明けて諸君に接してきた。自分の最大の欠点はいつも強い感情でやり損うことである。(略)欠点を知りながら、私に厚い同情を示され、世間の人々が私に人身攻撃を加え、諸君と私との間を離間しようとしたときにも、諸君は私を助けてくれた。その厚意は不肖死すとも忘れない。(略)私は後になってわが生涯をかえりみ、いちばん骨の折れたのも一高校長時代であったが、最も愉快だったのもやはり一高時代であると言い得るにちがいない。」稲造の告別の演説は終った。この時のことを矢内原忠雄は次のように述懐している。「泣かじと歯を食いしばったが、堪えかねてしばしば泣いた。泣いたのは僕一人ではない。隣に立っていた一年生は声を立てて泣いた。一滴の涙も出なかった人は、恐らく一千人の生徒のうち一人もなかったろう。終りの方になって先生のお声は大変ふるえ、しばしば途切れさえした。壇を下りて椅子につかれた先生が、白いハンカチを取り出したのを僕は見受けた。」・大正二年(一九一三)五月一日、新旧校長の歓送会があり、そのあと、稲造は校長として最後の晩餐を学生たちと共にした。晩餐会は八時半に終り、全校生徒は校門まで稲造を見送った。なお五、六百名の学生たちは、稲造を囲んで小石川の自宅へ向った。玄関先にメリー夫人が出迎えてくれ、一同は送別歌をうたい、学生の総代が涙ながらに別れの挨拶を述べ、用意してきた生花と造花の二つの花籠を、この日の記念として新渡戸夫妻に捧げて、「われわれの先生に対する思慕の情は、この生花の如く新鮮にして、且つこの造花の如く永久に褪せないでありましょう。」と、感謝の言葉を述べ、それから一同は夫妻のために三分間の黙禱をし、静かに新渡戸邸の玄関先を去っていった。稲造五十二歳の時である。
2023.01.22
「人生の王道」稲盛和夫 より〇私(稲盛和夫)には変な習慣があります。 朝、洗面所で鏡の前に立ち自分の顔を見ると、昨日の出来事が走馬灯のように浮かんできます。そして、たとえば前日にちょっと威張ったようなことや調子のいいことをいったりしたのを思い出すと、猛烈な自己嫌悪に陥ってしまい、恥ずかしくなって、「神様、ごめん!」と思わず大声でいってしまうのです。たまに「お母さん、ごめん」であったりもします。「神様、ありがとう」というときもあります。自分が悪かったことを気づかせてくれて、ありがとうという感謝の気持ちからです。 これが、過去30年くらい続く習慣になっています。そのため、いつの頃からか、私が自宅の洗面所にいるときは、家族の誰も入ってこようとしなくなりました。 これが、私流の毎日の反省法でしょうか。・・・・・・反省する気持ちを 声に出していう ことで、心にしかと戒めを刻みつけたら、一歩前へ進む。それが自然と習い性になっていったのかもしれません。 この毎日反省をするということは、人間をつくっていくうえでも、本当に大切なことです。「人間として正しいことなのか」、また「驕り高ぶりはなかったのか」などと自分自身を日々見つめ直すことで、次第に心が磨かれ高まっていくのです。 たった一度しかない価値ある人生です。その貴重な人生に悔いを残さないように、毎日を ど真剣 に懸命に、また前向きに明るく、反省することを忘れず生きる。☆広井勇(いさみ)も毎朝一人部屋にこもって、祈り、涙することがあった、何をしているかは家族にも言わなかったが、妻はたびたび勇の涙のあとをその後見たという。「ボーイズ・ビー・アンビシャス第4集」より広井勇の信仰(「工学博士廣井勇伝」十六信仰)「広井博士は熱心なキリスト教徒であった。けれども博士はその信仰を他人に説いた事がなかったから、永年の友人すら、これを知らなかった人も多いほどである。まことに大富は貧なるがごとく、大賢は愚なるごとしである。けれども博士の信仰はその深さとその真摯さとにおいて、何人にも譲らないものがあった。 信仰に入る動機は人によって様々である。ある人は研究の結果より、ある人は心に罪を感じたるより入る人もある。しかし博士においてはむしろ、生に対する尽きることがない懐疑によって、神の道に入ったのではあるまいか。博士は人をして凄愴の感を抱かしめるほどの懐疑者であった。その悩むところが深刻であっただけ、それだけその信仰は深かったのである。何者をも信ずることのできない無限の空虚を、神によって充たしたのである。そして全的の信頼を神にささげたのである。 博士は毎朝五時に起床し、清嗽〔せいそう・口をすすぐ〕の後、一室に籠もって錠をおろし、聖書を読み、双掌(そうしょう)を机上(きじょう)に置いて頭を垂れ、黙祷をささげること数分であった。この祈祷は四十年来変わる事なく続けられた。その錠をおろした一室の祈りこそは、博士にとって総ての力の源泉であったのである。博士はそこでただ独り、自らの魂を神に触れしめ、神の心を自らの心とすることができたのであった。そしてこの祈祷の後、机上にはしばしば熱涙の跡を認めたという。 博士の家人は四十年来、毎夜九時に祈祷の集まりを催して来た。しかし、博士だけは、自分の信仰は少し変わっているからといって、いかに勧められてもその席に連なろうとはしなかった。ただその集まりを喜んでいた。時には、もはや九時になるといって、家人を促すくらいであった。日曜には家人に教会へ行くことを勧めて、自らは独り静かに聖書を読み、安楽いすに寄って哲学・宗教・文学等の書物に読みふけるのを唯一無上の楽しみとしていた。キリストの尊厳を信ずる博士にとっては、軽々に衆とともに祈りをするに耐えないものがあったのではあるまいか。しかし博士は祈りの人であった。そして総ての人の祈りを力強く感じていた。「人間にとって祈祷は最も主要な事である、実際人間には祈祷より外に施すべきすべはないのである。自分のごとき者は素質において、決して天才という質ではない。他人が三日にて成就する事も自分には一か月もかかるのである。その点からしても、ただ祈りと努力があるばかりである、どうぞ自分のために祈ってくれるように。祈りにました援助はない」とは、繰り返し家人に語っていた言葉である。人に対して毅然たる博士の一面には神に対し幼子のごとき謙遜があり、信頼があったのである。そしてことに母と妻の祈祷をこの上もなき助力としていた。何事かをし遂げ、または何事か災厄を免れ得た場合には、いつも母と妻の祈りによる賜物であると心からの感謝を述べるのであった。
2023.01.21
山梨の友人からメールが届いた。「また、元気を頂けるお手紙をいつもありがとうございます」とあった。「山梨は札幌農学校精神にも縁のあるところで、甲府第一中の大島正健校長も第一期生で、石橋湛山などの人材を育てました。私たちも、次の世代に何か良いものを遺せればといろいろ取り組んでおりますという程度の報告です。お仕事大変でしょうが頑張ってください。」クラーク精神(Clarkii Spirit)の教育の系譜 クラーク精神(Clarkii Spirit)とクラークの札幌農学校での教育を讃えたのは、札幌農学校一期生の内田瀞(きよし)である。クラークは帰米後も生徒達と手紙で交流し、「イエスを信ずる者」の信仰が永続するように願った。クラークは内田への一八七七年八月十九日の手紙に、昨夜ボストンから帰ると、内田からの手紙と農学校の米人教師ペンハロー教授や第一期生大島、田内からの手紙が届いていたと記す。一八七八年八月十八日の内田あての手紙に「私が日本で過した日々は私の人生の最も幸せな日々でありました」とある。一八八〇年十月九日の手紙には「君のいう『クラーク精神(Clarkii Spirit)』がいまだに君の内に宿り、すべての貴い大目的にむかって君を活発で熱心な仕事にかきたてていることを知って、喜びにたえません。日本でたった一年の間に神の摂理のうちにゆるされて成し遂げた私の仕事は、私の生涯のうちで最も興味深く、重要にみえる・・・・あの年は楽しみ実りに満ちた日々の連続でした」。内田は答える。「『イエスを信ずる者』の歴史が読まれる時には、いつでも先生のお名前が大きく聳えます。なぜなら先生は種を蒔いた方なのですから」。 クラーク精神―札幌農学校精神―とは何か?内田と同じく一期生で、クラーク先生に親しく教えを受けた大島正健は札幌農学校の教師を務めた後、甲府中学校の校長として招かれた。その教え子の一人に石橋湛山がいる。石橋湛山は『クラーク先生とその弟子たち』に「個人主義の精髄―クラーク先生と大島正健先生―」という序文を寄せている。石橋は甲府中学校在学中に大島正健校長に師事し、大島校長からしばしばクラーク先生の話を聞いたという。「クラーク先生がいかなる教育家であったかは、その二つの言に躍如として示されている。その一つは、札幌農学校創立の際、普通に学校に行われる『べからず』主義の校則を一切掲げず、『予がこの学校に臨む規則はただ、”Be gentleman!”(紳士たれ)の二語に尽きる』といわれたそれで、他の一つは先生が任期みちて札幌を辞するに際し、島松駅別れを惜しむ愛弟子達に、”Boys be ambitious! ”(青年よ、大志を懐け)と呼びかけたこの訓言である。」「札幌農学校」蝦名賢造著に“紳士たれ”についてこう記す。(復刻版p.62-3)「開校にあたって仮学校時代の苦しい経験を持っている当局者たちにまず課せられた問題は、早急に学則を定めることであった。開校式を終えた数日後、彼らは学校規則の設定を持ち出してクラークに意見を求めた。当局者たちの言葉を黙ってきいていたクラークは、はっきりと、つぎのように力強くいった。『こんな細則を設けてする教育では、真の人間教育はできないのではないか。“紳士たれ”Be gentlemanそれで沢山ではないか』。・・・クラークは、厳重な規則によって生徒を威圧し統御してゆこうという教育方法は、すこしも考えてはいなかった。生徒を規則によってしばろうとはせず、むしろ繁雑すぎるほどの規則を廃して、生徒自身の良心にまかせる方法をとろうとした。・・・クラークは『余は諸君を紳士をもって対処するであろう。故に諸君はよろしく自粛自重、よく紳士たるに任ぜよ』と宣言し、各自の自覚ある生活態度を念願していた。」 大島は、Be gentlemanについてこう語っている。「開校直後クラーク先生は生徒を集めて一場の訓示をされた。『この学校の前身である札幌学校には極めて細密な規則があって生徒達の一挙一動を縛っていたようであるが、その内容には非難すべき点は一つもない。しかし自分が主宰するこの学校ではその全てを廃止することを宣言する。今後自分が諸君に望む鉄則はただ一語に尽きる。”Be gentleman”これだけである。Gentlemanというものは、定められた規則を厳重に守るものであるが、それは規則に縛られてやるのではなくて、自己の良心に従って行動するのである。学校は学ぶところであるから、起床の鐘が鳴ったらベッドを蹴って飛び起きねばならぬ。食卓へいく時には合図をするからすぐさま集まり、礼儀正しくハシをとらねばならぬ。消灯時間には一斉に灯火を消して眠りにつかねばならぬ。出所進退すべて正しい自己の判断によるのであるから、この学校にはやかましい規則は不必要だ。』と申されて先生は太い眉をピクリと動かされた。(「クラーク先生と弟子たち」p.92-3) クラーク精神を受け継いだ札幌農学校出身の教育者に、この”Be gentleman!”(紳士たれ)は脈々と受け継がれ、学生を指導するにあたっての理念になった。東京帝国大学工学部教授広井勇は、授業に遅刻者が一人、二人あると、真っ赤な怖い顔となり、早く講義を切り上げ、クラス総代を教授室に呼びつけ、「教室は寄席ではない。学生は紳士であるから、もっと紳士らしい態度で聴講すべき」旨を全員に伝えよと言った。このため学生はその授業時間には、早めに腰掛に着いて、静かに博士を迎えるようになったという。(「工学博士広井勇伝」p.59)
2022.10.21
新渡戸稲造の座右の銘「Be Just and Fear not 」 「ある人、新渡戸氏の坐右の銘に問うに答えて曰く、『亀鑑とすべき金言は、東西賢哲の遺言に多々あるべきが、ただ予が学生時代よりノートの一端にも、必ず書きつけいるもの、左のごとき二句あり。 Be Just and Fear not,〔正しくあれ、恐れるな〕Love is the fulfillment of the law.〔ローマ人への手紙 愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。〕』」「新渡戸稲造は愛媛県松山市で新聞記者にオフレコで『日本を滅ぼすものは共産党か軍閥である』と言って、それが翌日記事になり、在郷軍人を始め、世間から非難弾圧を受けます。しかし弁明せず耐えた。それはこの「正しくあれ恐れるな」の座右の銘にあったのだろうか。「Be Just and Fear not 」は、「ヘンリー八世」 第三幕第二場にある言葉Love thyself last: cherish those hearts that hate thee; Corruption wins not more than honesty. Still in thy right hand carry gentle peace, To silence envious tongues. Be just, and fear not: Let all the ends thou aim’st at, be thy country’s, Thy God’s, and truth’s; then if thou fall’st, O Cromwell, Thou fall’st a blessed martyr! (3.2.521)「最後に自分を愛しなさい:あなたを憎む心を大事に。腐敗は誠実さ以上のものではありません。まだあなたの右手に穏やかな平和を運んで、うらやましい舌を黙らせるために。公正であり、恐れないでください。あなたが目指しているすべての目的を、あなたの国、あなたの神、そして真実にしてください。クロムウェルよ、もしあなたが倒れたら、あなたは祝福された殉教者だ!」『ヘンリー八世』はプロローグから始まる。観客に対してこの劇が、権力者が転落していく深刻な劇であることを告げられる。バッキンガム公、ノーフォーク公、アバガヴェニー卿が集まって、ヘンリー八世を操って、ますます高慢になっていくウルジー卿を非難している。しかし、ウルジーは先手を打って、バッキンガム公は反逆罪の罪で逮捕される。ヘンリー八世はウルジーを信頼しきっている。そこに王妃キャサリンがやってきて、国民に課した重税を取り消すよう懇願に来る。重税はヘンリー八世に内緒で、ウルジーがやったことだった。しかし、ウルジーは自分も知らなかったことにし、また税の取り消しも自分が王に訴えたからだという噂を世間に広めようとする。キャサリンはバッキンガム公の逮捕にも疑問を投げかけるが、ウルジーはバッキンガム公からくびにされた監督官らを利用して証言させる。王は騙されて、バッキンガム公は処刑される。第1幕第4場は、グローブ座全焼の原因となった、ウルジー邸の晩餐会の場面である。ヘンリー八世は仮面をつけてそこに現れ、アン・ブーリンを見初める。ヘンリー八世は王妃キャサリンとの離婚手続きをウルジーに進めさせる。キャサリンは自分の敵であるウルジーが審判する裁判への出頭を拒否する。ウルジーはヘンリー八世とアン・ブーリンとの結婚に反対で、離婚手続きを延期しようとするが、その手紙をヘンリー八世に見られてしまう。さらに、これまでさんざん私腹を肥やしたこともばれ、王の信頼を失う。財産を没収され、失意のうちに死ぬ。王妃キャサリンも他界する。ヘンリー八世とアン・ブーリンと結婚し、二人の間に王女エリザベス(後のエリザベス一世)が生まれたところで、物語は幕を閉じる。💛シェークスピアの描く歴史劇と「鎌倉殿の十三人」の世界は似ている。権力闘争で次々と殺され、退場者が出る。果てしがないようだが、エリザベス1世が出て、治世が安定したように、北条泰時が執権となり、日本における最初の武家法典『御成敗式目』を制定し、鎌倉幕府が安定する。
2022.09.10
伊藤一隆(かずたか)を葬るの辞 明治4年(1929年)1月7日東京青山会館において 詩篇第22篇 われらの愛する伊藤一隆は永き眠りにつきました。彼はいずれの方面より見るも著しい人物でありました。もちろん何びとにもあるように彼にも短所がありました。彼はいわゆる学究の人ではありませんでした。神学や哲学の廻り遠い道は彼の堪え得ざるところでありました。彼はまた繁文縟礼の役人風に堪えませんでした。しかしながら、世にもし常識の人がありますならば、彼はその典型でありました。彼は一見して事物の理非、善悪を識別するの驚くべき能力を有しました。私ども彼の友人は、多くのむずかしき場合を彼の判断にゆだねました。そして彼の判断はたいてい誤まりませんでした。そして判断の事項は人生日常の実際問題に限りませんでした。ある場合においては、教理のむずかしい問題において伊藤の判断を求むるが、解決の捷径(はやみち)でありました。彼は真理を直観するの非凡の才能を有しました。彼の賛成を博するは、自己の信念を確保するの有力なる途でありました。 この能力をもってして、彼は事にあたりて、成功は確実でありました。北海道における水産事業、越後における石油事業、すべてが成功でありました。伊藤一隆を知る者の常に不思議に思う事は、彼が何ゆえに、この世のいわゆる「成功者」としてその一生を終らなかったか、その事であります。彼はよく成功の秘訣を知りました。そして彼はその驚くべき才能をもって多くの人を富ませました。しかるに彼自身は貧しき人として終りました。 明治、大正の世にありて、その点において彼は一の大なるエニグマ(なぞ)であります。彼は冨を作るの途に精通して、自分は冨を作り得ず、また作らんとも欲しなかったのであります。彼にもし富者たらんとの欲がありましたならば、彼は広大なる漁場の持ち主でありましたろう。あるいは日本石油会社その他の有利会社の大株主の一人でありましたろう。しかるに彼には冨を作るの技術があって、その欲がなかったのであります。 彼の従事せし社会事業について、私はここにこれを述ぶるの必要はありません。伝道の事、禁酒運動の事において、彼は権威ある指導者、有力なる戦士でありました。彼はこれを50年前に始めて、死に至るまで少しも変わりませんでした。私自身がこの事において、早きころの彼の仲間でありました。私どもは開拓使官吏の地位を利用して盛んにキリスト教の伝播に従事し、禁酒の宣伝をやりました。そのころの私どもに、善事をなすにあたって公私の別はありませんでした。伊藤も私も、開拓使または札幌県より日当旅費を受けながら、水産調査をなす間に盛んにキリスト教の伝道に従事しました。そしてその精神を私に吹き込んだ者が、彼、伊藤一隆でありました。かつてある日曜日の晩でありました。伊藤はわれらの小会堂の高壇に立ち、私ども数人は彼の説教の聞き役に成りました。その時、計らずも会堂の窓口に立たれし一人の紳士がありました。私どもは一見して、その何びとなるかを知りました。彼は当時の札幌県知事、今日で言う北海道長官、調所広丈氏でありました。彼は散歩がてらにわれらの説教会をのぞかれたのであります。その時、壇上の伊藤は声を張りあげて言いました。 ちんころを追っ払えと。紳士は辟易して去りました。伊藤は何知らず顔に彼の説教を続けました。それが50年前の伊藤でありました。そして大体に、最後まで彼でありました。 人は伊藤一隆といえば活動の人であると言います。まことに彼は活動の人でありました。彼にありては、実際に活動せざる真理は真理でなかったのであります。彼は純真理または純信仰と称して実際に人と社会とを益せざる理想、空論の価値を認めませんでした。しかしながら、もし人が伊藤隆一を単なる実際家と思いますならば、その人は大いにまちがいます。彼はいわゆる社会活動家ではありませんでした。禁酒事業は彼の生涯の事業でありましたが、彼には禁酒事業よりも大切なものがありました。彼に宗教がありました。そして彼の宗教は、今日の多くの宗教家のごとくに社会事業ではありませんでした。伊藤一隆は社会事業家である以上に、敬虔(つつしみ)あるキリスト信者でありました。人あり、もし彼に社会事業とキリストの福音と、二者いずれかを選ぶべきかを問いましたならば、言うまでもなく彼は答えました、「キリストをお信じなさい」と。伊藤一隆の熱心は禁酒を説く時に燃えましたが、しかし彼の全身全霊の精力は、彼がキリストの十字架の福音を説く時に注がれました。彼はたびたび、今の時代に社会事業の挙がらざる理由を述べました。それは真のキリスト教すなわち十字架の福音が信ぜられないからだと言いました。彼自身がよく社会事業の熱心の源の那辺にあるかをわきまえました。彼は聖書と祈祷となくして人は活動的にせみのぬけがらであることを知りました。ゆえに、彼に会うて別るるに臨んで彼が言うことは決まっていました。いわく、 君、祈ってくれたまえと。そして彼自身の祈祷に異常の能力がありました。私どもの集会において、私どもは、彼の説教を聞くよりも彼の祈祷を要求しました。彼の祈祷は実に祈祷らしき祈祷でありました。彼の生涯の終わりにおいて、彼は祈祷をもって大なる伝道を遂げました。そして彼の信仰というが決して新しい、いわゆる合理的の信仰ではありませんでした。常に新しい、ゆえに旧(ふる)い信仰でありました。使徒パウロより今日に至るまで変わりしことなき、キリスト教会通有の信仰でありました。 Jesus lover of my soulLet me to thy bosom fly. (*1)とか、または Just as I am without one pleaBut that thy blood was shed for me(*2)とかいう古い賛美歌に表われた信仰でありました。* 1 わがたましいを(Jesus,Lover of my soul)は、チャールズ・ウェスレーの代表作の讃美歌であり、英国の讃美歌の中で最も有名な讃美歌の一つである。1740年に、「試練の時」にと題して発表されたのが最初である。メソジスト運動に対する迫害に危険の中で作られたという説がある。チャールズ・ウェスレーの回心後まもなく作られ、メソジスト運動の起こってから公になった。 Jesus lover of my soul, Let me to thy bosom fly. While the nearer waters roll, while the tempest still is high.Hide me, O my Savior, hide, till the storm of life is past;Safe into the haven guide; O receive my soul at last.讃美歌273 わが魂を 愛するイエスよ 波は逆巻き 風吹き荒れて 沈むばかりの この身を守り 天の港に 導き給え* 2 讃美歌21 あるがままわれを 血をもてあがない イェス招きたもう み許にわれゆく伊藤と信仰談を交えて、事がここに至りますれば、彼の態度は急に厳粛に成り、何か大問題の彼の中心に触れしを覚えました。忘れもしません、昨年10月初旬、私が北海道旅行より帰りて後、間もない時でありました。彼の病のやや重きよしを聞きましたゆえに、私は彼を彼の病床におとづれました。みやげ話はたくさんにありましたが、彼の最も喜ぶのは聖書でありました。その日、私はその朝、私が読んで大いに感じたところの詩篇第22篇をもたらして彼をおとづれました。そして私どもの青年時代よりの習慣として、神聖なる場合には英語を用いるを常としましたゆえに、私は英語をもって全篇を読みました。そしてそれに私の簡単なる註解を加えました。そしてその要点は次のごとくであったのであります。第一節の「わが神、わが神、何ゆえにわれを捨てたもうや」以下第21節までが、キリスト受難の苦しみを預言したる言葉である、実に悲歎きわまりなしであって、読むに堪えざるものが多い、されども第21節後半部に至って調子は一変する、「なんじ、われに応えたまえり」を前置きとして、後は終わりまで、感謝、歓喜、希望の連続である。絶望の声をもって始まりしこの歌は、希望満々の言葉をもって終わる。 民の裔(すえ)の内にエホバに仕うる者あらん 主の事は代々に語り伝えらるべし 彼ら来りて、こはエホバのみわざなりとて その義を、後に生まるる民にのべ伝えんと、真暗闇(まくらやみ)から真光明(まひかり)へ、最大のコントラストに伴う最大の喜びである、そしてこの事は何を示すか、キリストの苦難が信者の喜びの基であることを示す、「わが神、わが神、何ゆえにわれを捨てたもうや」の声を発したまいしその苦しみが、われらの平安獲得の因を成したのであると思うと、私の感想のありのままを述べました。その時の伊藤の喜びはたとうるにものなく、彼はその病体を床の上に起こし、私の手を取り、感謝を繰り返し、いかにも私が彼の旧い信仰を新たに喚起したかのごとく見えました。すなわち伊藤一隆の信仰は、パウロ、アウグスティヌス、ルーテル、カルビンらの信仰でありまして、人の救わるるは彼がなす事業に由るにあらず、神の子が彼のために流せし血、人の罪のゆえに甘んじて受けたまいし死の苦しみに因るとの、深い、旧い、強い信仰でありました。伊藤一隆は、彼が従事せし水産事業や石油事業や禁酒事業に由って救われんとは毛頭思いませんでした。彼が救わるるの希望の岩は、彼の救い主が彼の罪のために流せし、あがないの血においてありました。もし彼のこの信仰のゆえに、迷信または独断をもって彼をあざける者がありますれば、彼は彼独特の常識、直覚をもって、あざける者の無知、浅薄をあざけりました。キリストの十字架抜きのキリスト教は、わが伊藤一隆にとりては、一顧の価値なきキメーラ(妄想)でありました。 前にも述べましたとおり、見ようによっては伊藤一隆は人生の一のエニグマであります。東京は芝神明前の土木請負業者の家に生まれ、純江戸っ子の性を受け、しかも野卑ならず軽薄ならず、悪しき事にはことごとく反対し、善き事にはことごとく賛成し、富を作るの技両(ぎりょう)を有しながら、これをおのがために使わざりしというのであります。彼はいかなる地位についても有用の人物でありました。死に至るまで、人のために尽しました。彼は日本人として最も有利にその一生を使うた者の一人でありました。何が彼をしてかかる人たらしめたのでありましょうか。彼の受けた教育でありましょうか。彼が交わりし友人でありましょうか。否、否と、彼自身が答えます。否、否と、私ども彼の旧い友人が答えます。神の恩寵が彼をして、かくあらしめたのであります。彼は事業家、活動家でありし以上にキリスト信者でありました。キリスト信者である以上にキリストの召しうどでありました。キリストは、明治の9年、北海道札幌において、英人デニング、米人クラークをもって青年の彼を捕えたまいました。そして終生、彼を手放したまわず、彼をもってそのみ栄を現わしたまいました。私は伊藤自身がたびたび言うのを聞きました。 ぼくは、なぜ神が、ぼくごとき者をこんなに恵みたもうか、その事がわからないと。そしてこれ、彼がすでに病にかかり、万事がすべて不如意の時でありました。生気溌剌たる江戸っ子がキリストの捕うるところと成る時に、伊藤一隆のごとき人物が起こるのであります。私はここに私の旧友を葬るの役目に当りまして実に感慨無量であります。彼と共に、共同の友人広井勇の葬儀をおこないてより、いまだ半歳に成りません。今またここに、大島、新渡戸の旧友と共に、彼、伊藤を葬らねばならぬ場合に立ち至りました。いずれも50年来の信仰の友であります。歩みし道は異なりましたが、目ざす目的は違いませんでした。そして私どもの生涯に少しなりと、この世の進歩、幸福に貢献するところがあったとすれば、それはこの貴き知識の結果でありしことを認めます。広井勇の工学の独特なりしも、伊藤一隆の社会事業の一頭地を抜きん出しも、この知識のたまものであります。私どもは信じて疑いません、伊藤一隆をその青年時代に捕らえし者、すなわち昇天せるナザレのイエスが、日本人多数の霊を捕えたもうまでは、日本に目ざましき根本的の改革の起らざることを。日本のキリスト教会そのものが、伊藤一隆の信仰に立ち帰るの必要があります。彼は死して、私どもをして、彼の代わりてこのことを叫ばしめます。諸君彼の声を聞いてやってください。そして彼の生涯をさらに一層意味あるものと成してやってください。彼は死ぬるまで日本国のためを思いました。彼を弔うの唯一の道は、彼のこの無私無欲の志を立ててやることであります。私は彼に代わりて、ひとえに諸君に願います。 付録伊藤は明治5年、すなわち私より2年前に、札幌において、英国聖公会宣教師デニングよりバプテスマを受けたのであって、いわゆる札幌バンドの内で最初のキリスト信者であった。後に、メソジスト、長老(日基)、聖公会の三派が合同して札幌独立基督教会を作りし時に、彼は聖公会を代表して新教会の柱石の一人となり、死に至るまで、その忠実なる会員また維持者としてかわらなかった。また旧札幌キリスト信者の内で、直接に「聖書研究社」の事業に対し実際的同情を表してくれた、きわめて少数者の一人であった。彼はしばしば柏木聖書講堂の講壇に立ち、単純なる十字架の福音を説き、彼独特の家長的祈祷を捧げてくれた。彼は東京基督教青年会の理事であったが、大正8年(1919年)に、同会が私に対してその講堂使用を断わりし時に、私に同情して理事の職を辞した。彼は多くの事において私の善き相談相手であった。昨年(1928年)6月2日、私どもの受洗第50年記念日に、青山墓地において、M・C・ハリスの墓前において、旧友5人に代わり祈ってくれたのは彼であった。今やこの人逝(ゆ)いて、大なる寂寥を感ぜざるを得ない。 (1929年2月『聖書の研究』)
2022.09.09
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