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後藤 静香 日めくり 18日棄てよ 傲慢を棄てよ 書物がわかる 傲慢を棄てよ 人の話が耳にいる 強情を棄てよ 調和ができる 強情を棄てよ 身も心も軽くなる後藤 静香(ごとう せいこう、1884年8月17日 - 1971年5月15日)は、大分県出身の社会教育家、社会運動家。蓮沼門三の「修養団」に傾倒し参加。格言や偉人伝、寓話などをわかりやすく解説した雑誌をいくつも発行。代表作である詩集・格言集『権威』は100万部を越えて、当時の青年、教育社、労働者に愛読され、熱狂的な支持を得た。「現代語訳 安居院義道」p.38-40〇元値商の歌売る人は成丈(なるだけ)安く買い出でて上手をいふて高く売るらん買方の心は誰も同じ事、値も格好で品のよひのを雑費やら懸けたほれやら引き去って、その値で売れば同じ事なり現金で元値限りに売るときは、皆下げ銭で足はいとはじ現金で元値限りに売る時は、皆下げ銭で遠くから来る安心なこの商売の味ひを、しらねば急に取りてかかれず【編者注】近年、秦野市内における安居院庄七の報徳仕法の実践の記録の発掘がされている。原文を読みやすくして一部紹介する。なお、JAはだの「協同組合の原点『報徳』を広めた安居院庄七」で、内容が分かりやすく記してある(27~32頁)ので、以下に要約して転載する。 一八三三(天保四)年、三六(天保七)年、飢饉(天保の大飢饉)に見舞われた。農民はもちろん支配する武士も建て直しの方法が分らないでいた。 一八四三(天保一四)年横曽根村(秦野市小蓑毛)の百姓代の庄兵衛が庄七を訪ねてきた。横曽根村は蓑毛村の隣。庄兵衛は貧困に苦しむ村の救済で悩んでいた。庄七が尊徳の教えを受けて帰り、家の商売を建て直したと聞いて庄七の所に相談に来た。庄七は村に出向き、名主や村人一同と話し合う。その後も二月から十月まで毎月三回は出向いて、報徳仕法による村人の生活救済と村の復興を説き聞かせた。「まず、皆それぞれが身の程、分度をわきまえよう。横曽根村の村高は五七石、家の軒数二二軒。一軒当り約二石六斗。その範囲で生活することが基本で天性自然だ。天道の正理を恐れ、朝夕農業に励み、よく働いて各々本業を尽す。分度を見失うと困難を免れない。人は皆天地の間に生れ、天地の恵みを得、天地の間に住む。天地に従わないでよいはずがない。分度を守る時、安楽自在を得ること疑いない。」村人一同は「これからは、毎日、農業はもちろん山稼ぎ、縄ない、むしろ・わらじ作りに励み、むだを省いて倹約に努めます」と誓い文書にした。「困窮の根元は、めいめい本業を怠り、分度を失い奢りに長じたからだ。村人が同じ所に生きることは前世の宿縁で、万代変わらぬ仕合せだ。これから互いに助け合い常々何事に限らず節約を旨とする。酒を止め器物を売払い、煙草を止め道具を売払い、質素な服を用いその余は売払い、神事仏事を厚くし長ずるを禁じ、年始や節句の祝儀も長ずるを禁じ、婿取り嫁取りの祝儀の長ずるのを禁ずる。このように節倹を尽して困窮する民のために勤労し、家政を取り直し、子孫を相続のために農業に出精いたします。」 その上で村役人にお金と米を拝借したいと願い出て認められ、それを元手に生活を建て直した。村人は文書で誓ったことを実践し、十年たった一八五三(嘉永六年)その間の積立が二十両になった。「これは一同丹精したお金ですが、そのままでは、将来目減りするかも計り難く、前々からご厚情をいただいているお上様にこのお金は上納致したい」通貨が目減りするという金融感覚には驚かされる。「なお恐れながら申し上げます」と文書は続く。「近年秦野で流行している煙草ですが、村の者も少し植付けて生活の足しにしていますが、植付けの肥料代等を買入れた者が代金の支払いに困る者が多く出て、毎年三、四月頃十日市場の商人から借金しています。値段も非常に高く八、九月までに勘定し返済すると、一割半も加算して取り立てられます。村人も困窮していますので、この二十両を今後肥料代としてお貸付けくださるようお願いします。そうすればそれぞれ世話人を立て、十一月十二月のうちに格別に安い値段で買入できます。お聞き入れ頂ければ、年々十月限りに取立てて上様に返納し、毎年貸し付けて頂ければ、百姓も永続します。」 宛先は「大山寺御別当所御役人様」当時横曽根村は大山寺に所属していた。農業者が集団で貯蓄した金を上部機関に預け、その金を肥料が安い時期に共同購入するために借り肥料をまとめ買いをする。これは今の農協の仕組みと変わらない。「協同組合の原点」とJAはだのの本に銘打つ理由である。仕法書には「庄七は二宮先生の大名を聞いて善道の大意を聞きたいと八か年以前より心がけていた」とあり、以前から金次郎に報徳を学びたいと心掛けていた。米相場に失敗し報徳を何も知らずに無利息金を借りるためだけ桜町陣屋に出向いたのではない。それはきっかけにすぎない。報徳仕法につき理解を深めていたからこそ横曽村仕法も出来たのだ。💛現代語版の『安居院義道』は大日本報徳社で取扱い中です。
2024.06.18
大谷翔平、2打席連発 第2打席で18号ソロ、第3打席で19号ソロ 1試合2発は今季2度目6/17(月)ドジャース大谷翔平投手(29)が、2打席連続本塁打を放った。1試合2発は今季2度目。1回裏 ドジャースの攻撃2:2番 大谷 一死走者なしカウント3-2から四球 ランナー:1塁3回裏 ドジャースの攻撃2:2番 大谷 一死走者なし4球目を打ってホームラン! ドジャース得点! LAD 1-0 KC6回裏 ドジャースの攻撃1:2番 大谷 無死走者なし初球を打ってホームラン! ドジャース得点! LAD 2-0 KC7回裏 ドジャースの攻撃5:2番 大谷 二死走者1,2塁ベッツ →代走: ロハス投手交代: アルタビーラ → セルパ3球目を打ってセンターライナー 攻撃 本拠地ドジャースタジアムでのロイヤルズ戦に「2番DH」で出場。まずは3回の第2打席で4試合ぶりとなる先制の18号ソロ。続く6回の第3打席で19号ソロを放った。 得意の6月はこれで5本目のアーチとなった。 初回の第1打席は四球を選んで出塁している。ナ・リーグ本塁打争いでは20本塁打でトップのマルセル・オズナに1本差とした。1試合2発は今季2度目。米専門メディア「ドジャース・ネーション」のノア・カムラス記者は自身のXで「なんてことだ、ショウヘイ・オオタニがまたやってくれた。このホームランは110.7マイル、飛距離400フィートでドジャースに2-0のリードをもたらした。最初のホームランは114.3マイル、飛距離451フィートだった。オオタニは信じられない」
2024.06.17
習慣的に「階段」を利用する人は、心臓病による死亡リスクがおよそ39%低下【研究から明らかに】6/16(日) ヨーロッパの心臓病学会で発表された新たな研究によると、習慣的に階段を利用する人は、心臓病による死亡リスクがおよそ39%低下することがわかった。ヨーロッパの心臓病学会で発表された新しい研究によると、階段を上る習慣のある人は、その習慣がない人に比べ、心臓病による死亡リスクが約39%低下した。また、心臓発作や脳卒中のリスクも低かった。この研究では、さまざまな健康歴を持つ35歳から84歳までの480,479人を対象とした9つの調査が行われた。「この結果から、階段を上ることを日常生活に取り入れることを勧めます」と、研究著者である英国イースト・アングリア大学のソフィー・パドック博士は述べた。「階段を昇ることは、有酸素運動と筋力トレーニングの素晴らしい融合になります。次の段まで自分の体重を引き上げなければならないので、脚の筋肉が鍛えられます。」と、UCLAの循環器専門医で、女性の心臓の健康を専門に研究しているタマラ・ホーウィッチ博士は言う。この研究のために、研究者たちは血圧、コレステロール、喫煙歴、家族歴、遺伝的危険因子などの因子に基づいて参加者の心臓病リスクを分析した。参加者は生活習慣と階段を使うかどうかを含む運動習慣についてアンケートに答えた。12年間の間、階段を使う人は心臓病の予防において有利であった。そして注目すべきことに、その間に階段を上ることを止めた人はリスクが上昇した。運動から利益を得るためには、運動を続ける必要があることを再認識させられる結果だ。「日々の生活でもっと体を動かしたい場合は、階段を使えば、短時間で有酸素運動を行うことできる。1日に6~10階分の階段を上ることが可能であれば、それが良い目標になるでしょう。しかし、これは個人の体力レベルにもよります。」とUCLAの循環器専門医、カーリン・ロング博士は話す。WHOは65歳以上の方は中等度の強度の運動を週150〜300分行うことが勧めており、心血管疾患におけるリハビリテーションに関するガイドラインでは、心臓病の方は中等度の運動を週5日、150分以上行うべき、と記載されている。イギリスのデータベースを参考にした報告MN Ahmadi(Eur Heart J,2022)らは、7万1893人(平均62.5歳、男性44.1%)を対象に、手首に活動量を測定する機器を装着し、日々の活動量を平均5.9年にわたって測定した結果を報告しています。その結果、1週間あたり、約53分の高強度の活動であらゆる病気での死亡率を36%減らすことができ、少なくとも1週間あたり約20分の高強度の活動を行うことで、心臓病になるリスクを40%減らすことができる“階段”はどこにでもあり、無料で、手軽に利用でき、普段の生活の中に取り入れやすい。階段昇降を行うことで、心臓病を予防することができる、という報告もある。Songら(Atherosclerosis,2023)は、45万8860人(平均56歳、男性44.1%)分のデータを12.5年に渡り調査した結果をまとめています。その結果、全く階段を使用しない人に比べて、普段から階段を使用する人は心臓病になる可能性が低下する、と報告。💛「最近ね、駅のエレベータを使わなくなった。階段を上り降りしている。階段を見たらね、「心臓病になる可能性が低下する」と拝むような気持ち、「階段さん、ありがとう」と感謝して上り下りすればいいんだって(^^)」「・・・・・・」
2024.06.17
後藤 静香 日めくり 17日連鎖 死はかなし されど 天より出でたるもの天に帰る いのちは人間によって作られず ただみ旨のままにー たれかこれ以上を言いうるものぞ 愛するもの逝きて 現世と霊界との連鎖ができる 眠ったものは いつもそばにいる後藤 静香(ごとう せいこう、1884年8月17日 - 1971年5月15日)は、大分県出身の社会教育家、社会運動家。蓮沼門三の「修養団」に傾倒し参加。格言や偉人伝、寓話などをわかりやすく解説した雑誌をいくつも発行。代表作である詩集・格言集『権威』は100万部を越えて、当時の青年、教育社、労働者に愛読され、熱狂的な支持を得た。「現代語訳 安居院義道」p.35-38三、野州に報徳を聞き大転換安居院先生は、はるばると野州(栃木県)にまで下って二宮金次郎に接近したものの面会は断られ、希望した安い金利での借金を持ち出す機会もない。ただ衣食住の心配はなく、少しひまはある。そこで「二宮とは何者なのか」との研究心が湧き起ってきて、朝夕出入りする来訪者への対談や門人達への説話を立ち聞きする。初めは金貸しの親方くらいに想像していたのが、大きな見当違いでとても大きな衝撃であった。今その時の説話のどのような要点が衝撃を与えたのかは分からないが、おそらくは天理人道から説き来って、治乱興亡の経綸(国の秩序を整える)に及んで、難村の復興や困窮した民の救済に至る未だ発見されていない実際論であり、人の為、世の為にその身を忘れて全精神を捧げるこれまで聞いたことも見たこともない偉大な聖賢であったことに心が打たれたであろう。つらつらと自分の過去を回顧し反省すれば以前の生活は全く誤っていた。天地や神明に背き、人道を無視し、私利私欲に凝り固まった鳥や獣の姿であったことに想い致って、懺悔せずにはいられない。まるで月が雲を離れてコウコウとした光を放つように、長い眠りから、さめて心機の一大転換を起した。 まず第一に念頭に起ったのは、世の中の人は余りに金にとらわれ過ぎている。自分は金はいらない。自分のような者が金を持ったところで、正しい金の用い方を知らない。それに金を持たしたところで、金を殺してしまう。芸のない事だ。第二に浮かんだことは、しかし自分は金はいらないが、金があったら、二宮先生に差し上げたい。先生は古今独歩の金遣いの名人であるから、と。 このように心機が一転して、当初の借金問題はひっこんでしまった。しかしなおこの機会により多く二宮先生の説諭を聴かなければ、門人にも学ばなければ、また仕法の組み立ても知りたいと、仕法書類の写し取りなどに魂を打ちこんで、遂に借金の件は口にも出せず、また二宮先生にも面会しないで、十八日目に引き上げて郷里に帰った。(竹村篤老、高山藤七郎聞書) この聞き書きは桜町陣屋の七月二十六日の条とほぼ合致する。すなわち 一、「相州(そうしゅう)浦賀(うらが)宮原啓三郎、宮原治右衛門、伝右衛門、同(どう)大(おお)磯(いそ)宿(しゅく)茂兵衛、十日市場(とおかいちば)磯(いそ)屋(や)庄(しょう)七(しち)、豊田村(とよだむら)吉左衛門、甲州(こうしゅう)都留郡(つるぐん)小(お)沼(ぬま)村(むら)年寄(としより)忠兵衛、昨夜より御(ご)陣(じん)屋(や)へ罷(まかり)越(こし)居(おり)同(どう)道(どう)罷(まかり)帰(かえり)候(そうろう)事(こと)」 安居院先生が野州に下って得たものは、金の宝ではなかった。大きな収穫は、破れた自分の魂の取戻しであった。過去は全く空で一切が無である。一切を忘れ万事を葬り、未来を求めなければならない。生身の人間は口に利口な事を言っても世間の風に吹かれるともろい。よし一遍死ぬ、そしてよみがえるのだと、覚悟がきまった。いわゆる大死一番のすぐれた真理に到達した勝利である。この生まれ変わった姿は実に安居院先生五十四歳の時であった。顧みると先生の過去五十余年は不可解の人、疑問の人でもあった。ここに一切を清算して先生の真骨頂があきらかに顕現する。 自宅に帰ってからの先生は米の搗(つ)き売りを始めた。もともと米屋を営んでいたことだから別に不思議はない。しかし不思議なことは表戸を締めて、中でコトンコトンと米を搗く。それを裏口で売る。近所の人が「しばらく不在であったが、いつ帰った。また表戸を締めて何をするのか」と尋ねると、「所用があってよそへ出ていたがようやく帰って来た。これから米の搗き売りを始めるからよろしく頼む。表戸を締めているのは、この庄七は失敗してどん底から立ち上がらなければならない。世間では開店時は表を景気よく飾り立てて出発するが、いったん経営状態が悪化すると戸を閉めるのが型どおりだ。それを考えて次第に景気がよくなれば表戸を一つずつ開ける」と答えた。大死一番、一度死んで生れ変わって全力を尽くすということを、実践に移したのである。 その商売のやり方を元値商(もとねあきない)という。玄米一俵の仕入原価を白米として同一の値段で売る。一般の商業経済論からは全然商売にはならないと、一笑に付せられるかもしれない。家賃や食費、手間は勘定には入れない、ただ空の俵、糠(ぬか)、小米が純益となる細かい利潤が成り立つ。売る米は水で増やさず糠も足さない、ます目も正しく値段も安い。次第に人々が聞き知って遠くから買いに来る。そんな人たちに言われて店の戸を開けるようになって、暮れになって勘定すると十両の利益が出たという。そこで先生は、世の中の人は高く売れば儲かると言い、安く売れば損をすると思う、しかし高値で売る店はお客が減る、安く売るようにする店はお客が増える、譲って損なく奪って益なしの教訓を得た。そこから「合うようにしても合わぬ、合わぬようにしても合う」の格言のようなものを案出して、自分のそろばんを強く握って利益が出るようにしても思ったほどは儲からない、お客にそろばんを預けても、お得意様を大事に扱えば店は栄える。また商法は売って喜び、買って喜ぶ、双方共々喜ぶのが極意であると、大悟し徹底したことを説いている。 いったい元値商(もとね・あきない)の本質は不可解なものであって、あるいは米商売であれば応用されるかも知れないが、取り扱う品物によっては、仕入値で売れば暮しが立てられない心配がある。淡山先生は入費を差し引くといい、高山老は副産物利得の奉仕的と言われた。元値商を原価販売とすれば利潤はどこにあがるのか。要はお客本位の物の取次ぎ役に立ち、打算的でなく利益を独占しないことを奥義とし、後の薄利多売主義に替わるように思われる。この主義が後には我が遠州各地に広まって、至る所に報徳店が現出する。(岡田淡山著「富国論」中勧商章参照) このように一念発起して一家の生業をとったものの、悟りきった人の考え方と在来の営利に汲々とする風俗とは両立しない。ここに到って安居院先生は決然として一家を捨てて周遊の旅について、一家を廃して万家を興すと豪語し漂然(ひょうぜん)として、郷里を去った。(岡田淡山老師談)💛現代語版の『安居院義道』は大日本報徳社で取扱い中です。
2024.06.17
「20代後半なのに福井で父と同居」では人生詰んでしまう…紫式部が年上の貴族からの求婚を受け入れたワケ藤原宣孝「会うたびにお前はわしを驚かせる」「わしには3人の妻と4人の子がおる。子らはもう一人前だ。官位もほどほど上がり、これで人生もどうやら落ち着いたと思っておった。されど、お前と会うと違う世界が垣間見える。新たな望みが見える。未来が見える。まだまだ生きていたいと思ってしまう」「まひろ、あの宋人が好きなのか。あいつと宋の国などに行くなよ」まひろ「何のことでございますか」宣孝「前に言うておったではないか。宋の国に行ってみたいと」まひろ「そんなこともございましたね」宣孝「都に戻ってこい。わしの妻になれ」史実の紫式部は、任期をあと3年残している父を越前に残し、たった1年余りで都に帰り、宣孝と結婚する。藤原為時と紫式部が越前に下ったのは、長徳2年(996)の夏以降のことだった。💛6月16日の放送で「私は子供のころから嘘つきでした」「一人で物語を作って人に聞かせていました」と宋の言葉で告白する場面が出てくる。 「源氏物語」以前に紫式部は今では世に伝わらない物語をたくさん作っていたのかもしれないなあ(^^)一方、藤原宣孝はその前年の長徳元年までには、筑前(福岡県の大部分)の国守の任期を終え、都に戻っていた。伊井春樹氏「宣孝は筑前守として勤め、長徳元年(九九五)か前年には帰京していたはずで、そのころ紫式部との結婚話が具体的に進められた可能性がある。年が隔たっていることや、紫式部自身も二五、二六の適齢期を過ぎていたこともあり、気は進まず、あいまいな返事のまま、翌年には父為時の越前守赴任を口実に都を離れたのではないかと思う」(『紫式部の実像』朝日選書)。藤原宣孝「春は解くるものといかで知らせたてまつらむ(春には氷も溶けるように、閉ざしている貴女の心も、いずれ解けて私を受け入れてくれるものだと、どうにかしてお知らせしたいもの)」紫式部「春なれど白嶺のみゆきいやつもり解くべきほどのいつとなきかな(春になりましたが、白く染まった山に雪はなおも降り積もっていて、いつ溶けるともわかりませんが、私の心もそれと同じです)」「みずうみに友よぶ千鳥ことならば八十の湊に声たえなせそ(近江の湖で友を呼んで鳴いている千鳥さん、いっそのことたくさんの船着き場で鳴くように、多くの女性に声をかけ続けたらどうですか)」「よもの海に塩焼く海人の心からやくとはかかるなげきをやつむ(あちこちの海で製塩のために海水を焼く海人が、役目として投げ木を焼くように、あなたは多くの女性に心を寄せては、自分から嘆きを重ねているのでしょうか)」「くれなゐの涙ぞいとどうとまるるうつる心の色に見ゆれば(血のような涙の色を、私は疎ましく思います。朱色がすぐに変色するように、あなたの心も移ろうのでしょうから)」いずれにせよ、紫式部は都から遠く離れた越前に辟易としていた。同時に、すでに20代後半になって、当時としては、結婚時期を大きく逃しているという焦りもあって、宣孝との結婚を決意するにいたったのだろう。 倉本一宏氏「私にはどうも、為時の着任が一段落したら京に帰って宣孝と結婚するのが規定の行動だった気がしてならない。紫式部は当時、二十六歳前後と考えられるが、これは当時としてはきわめて遅い初婚で、二度目の結婚という説もあるくらいである」(『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)。
2024.06.16
卵は1日1個まで、は間違い?血液の流れを良くする「1日5個の卵」のススメ人間の体にあるすべての血管を1本のホースのようにつなぐと、なんと地球を2周半できる長さに!血液はその中を駆け巡って体の隅々の細胞に酸素や栄養を運び、かわりに細胞から二酸化炭素や老廃物を受け取ります。そんな血液の流れが悪くなれば、体に悪い影響が出ないはずはありません。そう、「サラサラ血液」は健康の基本なのです。血液の汚れが進むと、粘り気が出て、ネバネバ、ベタベタ、ザラザラになっていきます。すると、体に毒素が溜まったり、全身に酸素や栄養が行き渡らずに酸欠状態になったり、栄養不足に陥ったりします。そして困ったことに、血液は特別な病気を抱えていなくても汚れてしまいます。健康に自信があると思っている人でも、検査すると「血液の状態に問題あり」となることが多々あるのです。血液の汚れや血管の詰まりは、かなり悪い状態にならないと、「病院で診てもらったほうがいいかな」と思うような、強い症状が出ません。そのため、知らず知らずのうちに深刻な状態に進行してしまいます。そして、ある日突然、脳卒中や心筋梗塞など、命を失いかねない恐ろしい病気に見舞われることもあるのです。筋肉は血液のおそうじに欠かせない器官です。そして、それを維持するには、タンパク質が欠かせません。タンパク質の摂取量が減り、筋肉量が減少してしまうと、身体機能が低下して血液の汚れも悪化する「サルコペニア」という状態になってしまう危険性があります。サルコペニア予防のためにも、高齢になればなるほどタンパク質をたくさん摂ることが大切です。そのためには、1日に体重1kgあたり1g、体重が60kgの人なら最低でも60gは摂取していただきたいところです。ここで、具体的にどのような食事をすれば1日に必要なタンパク質が摂れるのかを説明したいと思います。タンパク質をもっとも効率よく摂取できるのは肉です。肉の種類にもよりますが、100gあたり約20gのタンパク質を摂取できます。体重が60kgなら、300gの肉を食べればよいということになります。ただし、中高年の人が肉を300g食べるのは厳しいですよね。そんなときは、豆腐や納豆など、タンパク質を豊富に含む食品を食べて足りない分を補いましょう。たとえば、豆腐1丁には約20g、納豆1パックには約17gのタンパク質が含まれています。つまり、肉150gと豆腐半丁、納豆1パックを3食のなかで食べれば、1日に必要なタンパク質がほぼ摂取できることになります。高齢の患者さんに私がおすすめしているのが、卵です。卵は1個あたり約10gもの動物性タンパク質が含まれるため、効率よくタンパク質を摂ることができます。加えて卵はビタミンCと食物繊維以外の栄養成分をすべて含んでいる「完全栄養食品」と呼ばれる理想の食品です。特に、タンパク質の一種「アルブミン」という成分を卵は豊富に含んでいます。アルブミンは血液に含まれるタンパク質の約60%を占めていて、筋肉や血管、骨の生成をサポートする作用をもっていますが、高齢の方は不足しがちな成分です。私はいつも患者さんに、1日、3〜5個の卵を食べることをすすめていますが、患者さんのなかには「そんなに食べたらコレステロールが増えてしまわないですか?いつも1日1個で我慢しているんですよ」と、不安げな表情を浮かべる人が多くいらっしゃいます。でも、安心してください。実は、卵がコレステロールを増やすというのは誤解です。この誤解を招いたのは1913年にソ連(現在のロシア)のとある科学者が発表した「ウサギに大量の卵を食べさせたところ、コレステロールの数値が上がった」という実験結果です。1981年に、日本で健康な人に卵を1日10個、5日間にわたり食べてもらったところ、コレステロールの数値はまったく上がらなかったという実験結果が発表されました。これで、卵がコレステロールを増やす原因であるという話が濡れ衣であったことが証明されたのです。卵を食べると血液中のコレステロールが増えて血液が汚れてしまうという考え方は時代遅れなのです。そもそもコレステロールの値は低いほど健康によいと考えている人が多いようですが、それは大きな間違いです。コレステロールは細胞の壁や免疫細胞の材料となる成分で、少なすぎると血管がもろくなったり、免疫力が低下します。そのため、現在ではコレステロール値は少し高めがいいという考え方が主流となっています。卵をたくさん食べることを不安に思う必要はありません。むしろ、食べないことのほうが体に悪いと考えてください。特に高齢者は、サルコペニアを防ぐためにも、1日、3~5個の卵を食べることを目指してください。本文は『中性脂肪減×高血圧改善×動脈硬化予防 1日1杯血液のおそうじスープ』(アスコム)より一部抜粋・編集しています。6月13日、サウスチャイナ・モーニング・ポスト(SCMP)などによると、1966年生まれのチュアンド・タンさん(58)は1980年代にモデルとしてデビューし、約10年前からファッション写真作家として活動してきた。インスタグラムのアカウントを通じて日常を共有していたタンさんは、年齢よりはるかに若く見える外見でネットユーザーの間で話題となっている。現在、タンさんのインスタグラムのフォロワー数は15万人を超える。タンさんが投稿した掲示物には「多くても30代、20代後半に見える」「容貌管理をどのようにするか」などのコメントが相次いだ。タンさんは直接投稿した掲示物に「私が最初から老けないと言えば、それは嘘だろう」とし「しかし、私は少なくとも健康で幸せに老けるために努力することができると思う」と書き込んだ。また「今日も元気に食事したのか、ちょっとした散歩でもしたのか」と反問した。タンさんは最近、地元メディアのザ・ストレーツ・タイムズとのインタビューで、童顔と健康の秘訣を公開した。タンさんは「私たちが食べるものが自分の外見に相当な影響を与える」として「健康な身体と精神のためには献立が最も大事」と強調した。タンさんは普段から朝食に完熟卵6個に果物やアボカドを添えて食べる。コレステロールを維持するために卵黄2個は捨てる。昼食と夕食には鶏肉や焼き野菜、魚のスープなどを食べる。また、お酒やタバコは全くしない。また、「コーヒーとお茶を避けて水分を維持するために水をたくさん飲む」として「好きな食べ物はたんぱく質が豊富な食べ物と野菜が入った薄いスープ」と話した。
2024.06.16
コレストロールのトリセツ【トリセツ01 悪玉でも善玉でもない・・・超悪玉!】▼ 血液検査でわかる悪玉・善玉コレステロールとは?コレステロールは本来、細胞膜やホルモンなどの材料となる体にとって必要なもの。しかし血中で増えすぎると、動脈硬化を起こして心筋梗塞や脳梗塞の原因になる非常に危険な存在でもあります。それゆえ血液検査を行った際にもらえる、ほとんどの結果表にはLDLコレステロール(悪玉)とHDLコレステロール(善玉)が明記されています。2つのコレステロールに区別されているのはその働きが異なるためです。超悪玉コレステロール(sd-LDLコレステロール)とは“悪玉が小型化したコレステロール”のことです。超悪玉=小さな悪玉コレステロールは普通の悪玉よりサイズが小さいので血管の壁に入り込みやすく、血中での滞在時間も長いことが知られています。この超悪玉が多ければ多いほど、心臓病になるリスクが高くなり、超悪玉が少ない人に比べても3倍高いことが報告されています。しかし現在、通常の健康診断では超悪玉コレステロールは測っていません。【トリセツ02 悪玉を超悪玉にする犯人は、中性脂肪!】▼中性脂肪が多いと、悪玉が超悪玉に変化しやすい!超悪玉の数値は通常の血液検査ではわかりませんが、大丈夫です!実は、血液検査で測定される中性脂肪の値を見れば、超悪玉の数が多いのか少ないのか、おおまかに把握することができるのです。【トリセツ03 アブラを使ってアブラを制す!】▼ 中性脂肪を減らす効果がある、アマニ油悪玉が超悪玉に変化するのは、中性脂肪が主な原因。なので、中性脂肪を落とすことで、超悪玉の数も下げることができます。中性脂肪を落とすのにまず大事なのは「食事制限」と「適度な運動」です。しかし長続きせずに諦めてしまう人も多いかと思います。そこでトリセツがもう一つオススメするのがアマニ油です。アマニ油は亜麻の種からとれる油で、体内に摂取すると脂肪細胞の燃焼効率を上昇させる働きのあるオメガ3系の不飽和脂肪酸を多く含んでいます。このアマニ油を12週間とり続けたところ、超悪玉コレステロールが28.9%減少したという研究もあります。また、オメガ3は青魚やエゴマ油などにも含まれているので、いろいろなもので摂取すること、「食事制限」や「適度な運動」も併用するのがオススメです。▼ 食事のプロがオススメする“朝オメガ”!管理栄養士で料理研究家でもある村上祥子さん。82歳の現在でも、料理教室や執筆活動に大活躍しています。そんな村上さんの健康の秘けつが毎朝必ずとるというアマニ油だそうです。とり方はとてもかんたんで、ただかけるだけ。村上さんは、ミルクティーにスプーン1杯(約5g)のアマニ油を加えて毎朝飲んでいるそうです。その他にも、みそ汁や納豆、サラダやヨーグルトにかけてもかんたんでおいしくオメガ3をとることができます。実は、アマニ油などに含まれるオメガ3は夕食よりも朝食にとるほうが健康効果が高いことが報告されています。8週間夕食にオメガ3をとり続けても中性脂肪に大きな変化は見られませんでしたが、朝食にとり続けると、中性脂肪が20%ほど低下したという報告もあります。中性脂肪が気になる方は“朝オメガ”を試してみてください。
2024.06.16
もっと深く理解したい人のために⑴ 大山信仰(「秦野市史 通史2近世」抜粋) 大山への信仰は縄文時代からだが、密教の広がりと修験の聖地として重要な役割を持っていた。山頂の阿夫利神社は石尊大権現とも称し巨石信仰である。中腹の大山寺は天平勝宝7年(755)良弁の開創と伝え、不動明王を本尊とする。近世になり徳川家康は大山寺を保護すると共に、慶長14年(1609)大山寺別当八大坊に対して掟書三か条を定めた。これにより清僧を除き修験者山麓に下り、御師になった。慶長13年大山寺に対して、小蓑毛郷の57石余(秦野市)を碩学領として与え、同15年坂本村や子安村(伊勢原市)の併せて100石が寄進された。 近世には古代からの祖霊の宿る山という信仰の外に、豊作・豊漁・商売繫盛・厄除けなどに利益があると広い職業・階層から迎えられた。 江戸では職種ごとに講を作り参詣することが盛んに行われ、大山山系のための、いわゆる大山道も整備された。 秦野の蓑毛には御師部落があった。『風土記稿』によれば、大正院・本大坊・円教坊・光宝院・長福院・密正院の六か院が蓑毛にある。 蓑毛御師は南関東一円に檀家を持っていたが、特に伊豆・駿河方面に集中していた。御師は毎年冬から春にかけての約二か月を檀家回りに費やし、お札を配り、初穂料として銭や米・麦などの喜捨を受けた。大山登拝を行うには、遠方では代参と称し講員からくじびきなどで選ばれた講員が代表して登拝し、講員全員のお札や供物を受け取り持ち帰って配った。大山近辺の講員は、全員で登拝することが多かった。 蓑毛御師の特質は『丹沢山麓の講集団』によると「蓑毛の御師の場合はお札を配るという性格よりも宿泊・大山道案内という性格が強かった」「蓑毛はムラ方を優先的に宿泊」「霊山大山」石田光治郎著大山詣阿夫利神社の例祭は、もと旧暦6月27日~7月17日の間までで、この間に遠近の諸国から登拝する者おびただしかった。これを大山詣と称した。大山は昔は常に山頂に登ることを禁じたが、祭礼中に限って許し、山頂の本社に参詣できた。先導師は、昔御師と唱え、神仏二方に奉仕したが、明治の神仏分離以来,改称して阿夫利神社専属となった。御師とは、御祈師の意味で常に人に代って無事息災を神明に祈る神職である。
2024.06.16
「二宮尊徳の会」通信 第29号 2024.6.16・6月14日(金)松田町のKさんからお手紙が届きました。現在、Kさんと共著「子どもからお年寄りまで読める 安居院庄七50歳からの大冒険」の出版に向けて原稿を作成中です。これは『現代語訳 安居院義道』を秦野市と足柄上郡各市町並びに遠州各市町の教育委員会を通じて小中学校に地域の有力者を通じて寄贈するなかで、いくつかの教育委員会から「小学生には難しすぎる」と難色を示されるケースがありました。それならばと、小学生高学年くらいから超高齢化時代のお年寄りまで、また安居院庄七の名前を聞くのは始めてという初心者の方から相州・遠州の郷土史の専門家まで読める、わかりやすい本を作成しようという試みです。Kさんからのお手紙には、加除修正のご指摘のほかに次のメッセージがありました。・あとがき の頁がありましたが、・・・大変良いチャンスでもあり、執筆させて頂こうと思います。その際は・・・新たなことを記述したいと考えています。・絵の方も、・・・ストーリーを考えてYさんに再度プッシュしてみます。「経験が私たちに教えてくれたこと。それは、愛するとは我々が互いを見ることではなく、共に同じ方向を見つめることなのである。」アントワーヌ・サン=テグジュペリ~人間の土地より・6月14日S先生から初めてのメールをいただきました。「 前略初めてメールいたします。昨日、京都大学教育学部図書館で現代語訳『安居院義道』を拝見しました。本書、63ページに引用されているSですが、可能であれば本書を入手致したく存じます。どうかよろしくお願い致します。」すぐに「呈上します」と15日(土)の朝8時に郵送し、その旨連絡しました。「早速にご連絡いただきありがとうございます。大日本報徳社で販売していることを知らずに、失礼いたしました。報徳社の組織の原点として「三社灯籠萬人講」に興味を持ち、国学院大学に所蔵されている文書を翻刻したりしましたが、相変わらずよくわかりません。個人的には、福山瀧助について、日記の翻刻などによって活動の実態を詳しく知りたいと思っております。今回のご厚意、ありがたく頂戴いたしますとともに、また種々ご教示いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。 S」今後、S先生を毎年恒例の「報徳講座」の講師としてお呼びする機会があるかもしれません。・秦野市は市立図書館に2冊寄贈したほか、11公民館図書室にも本を寄贈しました。鶴巻公民館の本が「貸出中」になっています。地元の方に読んでいただいて嬉しいです(^^)
2024.06.16
後藤 静香 日めくり 16日一日でも 一日でも 本当に仕合せと思えたら 幸福者だ 一人でも 本当に愛し 本当に信ずる者があったら 幸福者だ 一生仕合せで 万人が善人であれとの願いは ぜいたくすぎる後藤 静香(ごとう せいこう、1884年8月17日 - 1971年5月15日)は、大分県出身の社会教育家、社会運動家。蓮沼門三の「修養団」に傾倒し参加。格言や偉人伝、寓話などをわかりやすく解説した雑誌をいくつも発行。代表作である詩集・格言集『権威』は100万部を越えて、当時の青年、教育社、労働者に愛読され、熱狂的な支持を得た。「現代語訳 安居院義道」p.34安居院義道の風景 その3 青・壮年期の安居院庄七鷲山恭平氏は「先生は長じて同郡曾屋村十日市場の安居院家に婿入りしてその家をついだ。同家は磯屋と称して代々穀物商を営んでいる。それがどんな縁からか、いつ頃か、また何歳か全くわからない。・・・・・・この前後の経歴は全く不明」とされる。庄七が歴史に現れた最初は、桜町陣屋日記天保13年7月2日に「相州十日市場磯屋庄七と申者田蔵相便り罷越候事」である。戸石七生氏は「安居院庄七の報徳運動と参詣講」で、庄七の実家・神成家の協力を得て、庄七の文化的バックグラウンドである大山信仰と蓑毛御師文化についてその一端を明らかにされた。1.『御師の村』での神成栄氏への聞取によると、「1930年代半ばまで父親と一緒に節分から4月10日の祭りまで三島、沼津、足柄方面の檀家を廻った。この分布は近世と同じである。日程の内訳は興津10日間、清水4日間、静岡市周辺14日、広野4日間というものであった。」戸石氏は「安居院庄七の報徳運動普及運動も・・・・・・大山講を組織するノウハウが万人講や報徳社の設立に応用されたと考えられる」とされる。2.庄七が天保13年54歳で報徳に触れ発心する前の前半生は不明である。戸石氏は「安居院家婿入り前に縁談がなければ、庄七は30代か40代まで朝田家にいたことになる。安居院家婿入りが決まるまで、庄七は父や兄弟と駿河にある壇家廻りをしていたと推測できる。ただし、弟勇次郎は、体が弱かったとあるので、家に留まっていたかもしれない、後に筆子塚を建てたのも勇治郎が教えた弟子である可能性もある。」「庄七の報徳仕法普及は檀家廻りのノウハウに負うところが大きかったとも言える。」3.戸石氏は「なぜ庄七は関西に向かい、作兵衛を訪ねたのであろうか」と問題提起され、伊勢講・冨士講・大山講のネットワークを基盤に万人講を展開する計画を構想したのではと推論される。「もう一つの可能性として、安居院家に居辛くなった庄七が弟と二人で挑戦したくなり、万人講活動なら実家で培った御師のスキルが生かせると作兵衛を尋ねただけかも知れない」と述べる。蓑毛時代の庄七についてJAはだのの宮永均氏らが、尊徳の元から郷里に帰った庄七が天保14年に横曽根村(小蓑毛)からの依頼で報徳の指導をした記録を発掘された。「二宮金次郎殿門弟十日市場庄七と申人、報徳丹精之理解村方へ折々入来被致申聞せ、小前一同承服仕、右卯年より申合」とある。庄七は自家を復興すると共に、村の復興にも自信を持ち、「一家を廃して万家を興す」、報徳の教えを広めようと伝道に向かったものと思われる。💛現代語版の『安居院義道』は大日本報徳社で取扱い中です。
2024.06.16
ルース・ガネットさん死去 「エルマーのぼうけん」著者6/14(金) 米国の児童文学の名作「エルマーのぼうけん」の著者ルース・スタイルス・ガネットさんが11日(現地時間)、米国で死去した。100歳。日本の関係者が明らかにした。日本語版のシリーズ累計発行部数は約780万部に上る。 1923年、ニューヨーク生まれ。48年、動物たちに捕らえられていた竜の子どもを、男の子が機転を利かせて助ける物語「エルマーのぼうけん」を刊行し、各国で人気に。続編「エルマーとりゅう」「エルマーと16ぴきのりゅう」と合わせた3部作は63~65年に邦訳版が刊行され、読み継がれてきた。 昨年から翻訳版刊行60周年を記念して「『エルマーのぼうけん』展」が日本各地で開かれている。
2024.06.15
① 円覚寺管長 横田南嶺かつて鍵山秀三郎先生とお話していた折りに、歴史上の人物で一番尊敬しているのはどなたですかと聞いたことがありました。その時に、鍵山先生は、「中根東里です」と、即答なされました。そして、鍵山先生は、磯田道史先生の『無私の日本人』に書かれている中根東里のことが素晴らしいと教えて下さいました。中根東里は、一六九四年に伊豆の下田で生まれて、一七六五年に浦賀で亡くなっています。七十一歳ですから、当時としては長命でした。特別歴史に残るようなことをしたというわけではありません。幼少より学問好きで、十三歳の時に父が亡くなり、禅宗の寺に入って僧になりました。漢籍を読むことに長けていて、宇治の万福寺では、中国語で漢文を習っていました。それだけに本格的に漢籍を読むことができたのだと察します。ただ、当時の禅寺にはなじむことができずに、荻生徂徠の門に入って更に学を深められました。そして還俗されてしまいます。徂徠の学問に疑問を抱いて、室鳩巣に師事されました。更にそれでも満足できずに、陽明学を学ぶようになりました。中根東里は、単なる学問だけではなく、貧しい人がいると自分の書物を売ってでも助けてあげるような、儒教で説く「仁」(おもいやり)を実践なされたのでした。そんな高潔で慈悲深い様子が、磯田先生の書物ではよく描かれています。四十一歳で、弟子であるの医師金束信甫(こづかしんぽ)に招かれ、下野国佐野に住むようになりました。そこで信甫の家の泥月庵(のち知松庵)で塾を開き、二十数年にわたり陽明学や『伝習録』をわかりやすく講義したのでした。磯田先生の『無私の日本人』には、中根東里が、須藤温という少年に陽明学を語る感動的な場面があります。磯田先生の本から引用させていただきます。「『聖人の学は、なにも難しいものではない。ただ、ひとつのことがわかればよい』戸板をなぎ倒すような迫力で、東里はそういった。天地万物一体の理がわかれば、それでよい、というのである。『聖人の学というのは、煎じつめれば、仁の一字につきます。仁とは天地万物一体の心のことです。義も礼も智も信も、みな、そのなかに含まれます。たしかに、一見すると、宇宙の森羅万象はさまざまで、とても、ひとつのものにはみえません。しかし、考えてください。この宇宙の物は、みな天地の気をうけて生じてきたものです。そういう意味で、一体であるといえる。天から日の光がそそぎ、雨がふると、山に草木が野に穀物が生じるでしょう。そこから、鳥や獣や人が生まれてきました。ですから、父子・兄弟から天下後世の人にいたるまで、みな我が骨肉です。日も月も、雨も露も、山も川も、草木も、鳥獣も、魚もすっぽんも、一物として、我でないものはない。天地万物は一物です。このあたりまえのことに立ち戻るだけでいいのです。それほど、聖人の学は広大にして簡単なものなのです』」というのです。禅寺からは離れて行った中根東里でしたが、その説かれているところは禅に一致するのであります。更に、中根東里は弟の娘芳子を引き取って養育することになりました。弟は、結婚して子をもうけたものの、妻が病で亡くなり、それでも何とか芳子を育てていたのですが、十分育てることができずに、三歳の芳子は死に瀕していました。その芳子を東里は、懸命に世話をして育てたのでした。東里は、ほとんど書物を残さなかったのですが、この芳子のことを書き綴った漢文の書物『新瓦』のみが残されたというのです。磯田先生の本によると、その本は驚くべき漢文の名文だそうです。四歳になった姪に、噛んで含めるように東洋の思想の精髄を教えようとしたものだったのでした。鍵山先生と重なるような高潔な人格の中根東里なのです。」②中根東里「学則」 學 則聖人之學。爲仁而已矣。仁者、天地萬物一體之心也。而義禮智信皆在其中矣。葢天下之物。其差等雖無窮。然莫弗得天地之性。以爲其性得天地之氣。以爲其氣。此之謂一體。是故自我父子兄弟。以至於天下後世之人。皆吾骨肉也。日月雨露、山川草木。鳥獸魚鼈。無一物而非我也。則吾不忍之心。自不能已矣。是故己欲立而立人。己欲達而達人。己所不欲無施諸人。人之善惡。若己有之、先天下之憂而憂。後天下之樂而樂。是之謂仁。是之謂天地萬物一體之心。其自然有厚薄者義也。譬影之參差。非日月之所私焉。禮其節文也。智其明覺也。信其眞實也。是心之德。其盛若此。但爲人欲所蔽。而不知其所謂一體者安在也。營々汲々。唯一己之名利是圖甚者視其一家骨肉之親。無異於仇讎。况他人乎、鳥獸草木乎。然而心之本體。則自若也。其感於物也。輙戚々焉如痛孺子之入井。閔觳觫之牛之類是已。况於吾父子兄弟。其能恝然乎。譬如雖雲霧四塞然日月之明。則無以異。纔有罅隙。輙能照焉。聖人之學。豈有他哉。勝夫人欲。以盡是心而已矣。葢合内外。以平物我而已矣。此之謂爲仁。此之謂好學。於戯。其廣大而簡易若是矣。彼以文辭爲學者。陋矣。求義於外惑矣。吾懼學之日遠於仁也。於是乎言。 丁巳冬 中根若思書于下毛之泥月菴。 (注)図録『中根東里展─「芳子」と門人たち─』(佐野市郷土博物館、令和元年10月5日発行)所収の「学則」本文(訓読・校注 塩村耕 名古屋大学大学院教授)によれば、上記の本文には次の3か所に脱字がある由です。 (1)譬影之參差 → 譬諸影之參差 (2)况他人乎、鳥獸草木乎 → 况他人乎、况鳥獸草木乎 (3)求義於外惑矣 → 求義於外者惑矣 この図録掲載の「学則」は、佐野市郷土博物館蔵の版木によるものだそうです。 なお、図録には、版木を手拓し反転させて復元した「学則版木による復元画面」が掲載されています。(2020年5月28日付記)學 則聖人の學は、仁を爲すのみ。仁は、天地萬物一體の心なり。而(しかう)して義禮智信、皆その中(うち)に在り。葢(けだ)し天下の物、その差等、窮(きはま)りなしと雖(いへど)も、然(しか)れども、天地の性を得ざるはなし。以てその性と爲し、天地の氣を得て、以てその氣と爲す。此れを之れ一體と謂ふ。是(こ)の故に我が父子兄弟より、以て天下後世の人に至るまで、皆吾が骨肉なり。日月雨露、山川草木、鳥獸魚鼈、一物として我に非(あら)ざるはなし。則ち、吾が忍びざるの心、自(おのづか)ら已(や)む能(あた)はず。是(こ)の故に、己(おのれ)立たんと欲して人を立て、己(おのれ)達せんと欲して人を達す。己の欲せざる所は、諸(これ)を人に施すことなかれ。人の善惡は、己(おのれ)之(これ)を有するがごとく、天下の憂ひに先だちて憂ひ、天下の樂しみに後れて樂しむ。是(これ)を之(こ)れ仁と謂ふ。是を之れ天地萬物一體の心と謂ふ。それ自然に厚薄あるは、義なり。譬(たと)へば影の參差(しんし)は、日月の私(わたくし)する所に非ず。禮は、その節文なり。智は、その明覺なり。信は、その眞實なり。是れ、心の德、その盛んなること此(か)くのごとし。但(ただ)し、人欲の蔽(おほ)ふ所と爲(な)つて、その所謂(いはゆる)一體は安(いづ)くに在るかを知らざるなり。營々汲々として、唯一(ゆいいつ)己(おのれ)の名利(みやうり)を是れ圖(はか)る甚しき者は、その一家骨肉の親(しん)を視ること、仇讎(きうしう)に異なることなし。况(いは)んや他人をや、鳥獸草木をや。然(しか)り而(しかう)して、心の本體は則ち自若(じじやく)たり。その物に感ずるや、輙(すなは)ち戚々焉(せきせきえん)として、孺子(じゆし)の井に入るを痛み、觳觫(こくそく)の牛を閔(あは)れむが如きの類、是れのみ。况んや吾が父子兄弟に於て、それ能く恝然(けいぜん)たらんや。譬へば雲霧四塞(しそく)すと雖(いへど)も、然(しか)も日月の明は、則ち以て異なることなきが如し。纔(わづ)かに罅隙(かげき)あらば、輙(すなは)ち能く照らす。聖人の學、豈(あ)に他(た)有らんや。夫(か)の人欲に勝つて、以て是(こ)の心を盡くすのみ。葢(けだ)し、内外を合し、以て物我(ぶつが)を平らかにするのみ。此れを之れ、仁を爲すと謂ふ。此れを之れ、學を好むと謂ふ。於戯(ああ)、その廣大にして簡易なること、是(か)くのごとし。彼(か)の文辭を以て學と爲す者は、陋(ろう)なり。義を外に求むるは、惑へり。吾、學の日に仁に遠ざかるを懼(おそ)るるなり。是(ここ)に於てか言ふ。丁巳の冬 中根若思(じやくし)、下毛(しもつけ)の泥月菴(でいげつあん)に書す。③〔中根東里〕 竹皮履(たけがはざうり)先生と壁書(かべがき)室鳩巢、東里の名聲を聞き門下に致さんとす。東里、素(もと)より其學(そのがく)を慕ひしが故に、質(ち)を委(ゆだ)ぬること數年、學益(ますます)進む。後、居(きよ)を鎌倉鶴ヶ岡の祠前(しぜん)に卜(ぼく)し、弟、孔昭(こうせう)と共に、木履(ぼくり)を鬻(ひさ)ぎて衣食す。偶(たまた)ま同居のもの病み、貧うして藥錢(やくせん)なし。東里、悉(ことごと)く經籍(けいせき)及(および)衣服を典賣(てんばい)して、之(これ)を救ひたり。幾(いくば)くも無くして又江戸に遊び、辨慶橋(べんけいばし)の傍(かたはら)に寓(ぐう)して書を講ず。常に資(し)に乏しく或(あるひ)は絲針(ししん)を賣り、或は竹皮履(たけがはざうり)を作りて之を售(う)る。人之を稱して竹皮履先生(たけがはざうりせんせい)と云ふ。東里、更に名利(めいり)の念なく、淸貧に居りて晏如(あんじよ)たり。壁上(へきじやう)、題して曰(いは)く、 一、忠臣は國あるを知つて家あることを知らず。孝子は親あるを知つて己(おのれ)ある を知らず。 一、辭(ことば)は、ゆるくして誠ならんことを願ひ、行(おこなひ)は敏(さと)くして厚から んことを欲す。 一、儉(けん)より奢(しや)に移るは易(やす)く、奢より儉に入(い)るは難(かた)し。 一、樵夫(せうふ)は山に登り、漁夫は海に浮ぶ。人各(おのおの)、其業(そのげふ)を樂しむ べし。 一、施しては報(はう)を願はず。受けては恩を忘れず。 一、他山の石は玉を磨くべし。憂患(いうくわん)のことは心を磨くべし。 一、水を飲みて樂しむ者あり。錦(にしき)を着て憂(うれ)ふる者あり。 一、出(い)づる月を待つべし。散る花を追ふ勿(なか)れ。(國學院雜誌、大川茂雄)中根東里の「壁書」一.父母をいとをしみ、兄弟にむつまじきは身を修むる本なり。 本かたければ末しげし。一.老を敬ひ、幼をいつくしみ、有德を貴び、無能をあはれむ。一.忠臣は國あることを知りて、家あることを知らず。 孝子は親あることを知りて、己れあることを知らず。一.祖先の祭を愼み、子孫の敎を忽にせず。一.辭はゆるくして誠ならむことを願ひ、行は敏くして厚からんことを欲す。一.善を見ては法とし、不善を見てはいましめとす。一.怒に難を思へば悔にいたらず。欲に義を思へば恥をとらず。一.儉より奢に移ることは易く、奢より儉に入ることはかたし。一.樵父は山にとり、漁父は海に浮ぶ。人各々其業を樂むべし。一.人の過をいはず。我功にほこらず。一.病は口より入るもの多し。禍は口より出づるもの少からず。一.施して報を願はず。受けて恩を忘れず。一.他山の石は玉をみがくべし。憂患のことは心をみがくべし。一.水を飲んで樂むものあり。錦を衣て憂ふるものあり。一.出る月を待つべし。散る花を追ふ勿れ。一.忠言は耳にさからひ、良藥は口に苦し。④〔中根東里〕 能く其姪(そのめい)を撫育(ぶいく)す延享三年、其弟(そのおとうと)、孔昭(こうせう)、下野(しもづけ)の知松庵(ちしようあん)に來(きた)りて其女(そのぢよ)を托す。始め孔昭、妻を失ひ、且(かつ)、家(いへ)貧にして、乳母(うば)を傭(やと)ふ能(あた)はず。人の婦(ふ)に就きて乳を乞ふ。飲めば纔(わづか)にして飽き、暫くして復た饑(う)う。饑(うゝ)れば復た啼(な)く。爲に屢(しばしば)往(ゆ)きて乞はざるを得ず。乍(すなは)ち往き乍ち還る。遂に乳婦(にうふ)に厭(いと)はるゝに至る。後(のち)之(これ)を隣家の嫗(ばゞ)に托す。嫗、貪慾(どんよく)にして殘虐(ざんぎやく)なり。人之(これ)を仇名(あだな)して狼嫗(おほかみばゞ)といふ。孔昭の女兒(ぢよじ)亦、毒牙に罹(かゝ)れり。東里、遙(はるか)に之を聞きて憐憫の情に堪へず。孔昭をして其(その)女兒を下野(しもづけ)に携へ來(きた)らしめんとす。時に女兒、困憊(こんぱい)、既に甚(はなはだ)しく、泄痢(えいり)、數日(すうにち)に渉(わた)る。父を見るも言笑(げんせう)する能(あた)はず。唯(たゞ)目もて之を迎ふるのみ。孔昭、之を抱(いだ)きて家(いへ)に還り、藥を與ふるも泄痢(えいり)、未だ已(や)まず。故に全癒(ぜんゆ)を待ちて出發せんとす。然(しか)れども嚢中(なうちう)の錢(ぜに)、纔(わづか)に旅費を辨(べん)ずるのみ。若(も)し、日を曠(むな)しうして之を費(つひや)さば進退谷(きは)まるに至らん。天寒しと雖(いへど)も、道遠しと雖も、安(いづく)んぞ已(や)むを得ん。遂に出發す。日に行(ゆ)くこと十里、十里を行かざれば旅費の乏しきを如何(いかん)せん。日夜兼行(にちやけんかう)、遂に東里の許(もと)に達す。東里、喜びて之を迎へ「家弟(かてい)年五十、僕、加(くわへ)2之(これに)三1、而皆無レ嗣、骨肉之餘(よ)、獨(ひとり)汝在耳(なんぢあるのみ)」と云ひて、女兒(ぢよじ)の名、琨(こん)を改めて芳子(よしこ)と稱す。蓋(けだ)し芳(よし)は愛(よし)にして子(こ)の音(おん)は嗣(し)に通ず。即ち良嗣(りやうし)を祝する所以(ゆゑん)なり。芳子、健康、未(いま)だ舊(きう)に復せず。終日、塊然(くわいぜん)として一處(いつしよ)に座す。見る者、皆云(い)ふ、此兒(このじ)、決して成生(せいちやう)する能(あた)はざるべしと。孔昭(こうせう)、去るに臨み、告げて曰く『よく伯父の命(めい)を聽け』と。而(しか)して芳子、悲しむ色なし。其(その)歸郷を知らざればなり。日暮(ひくれ)、始(はじめ)て之を覺(さと)り泣きて曰く「父在らず、父在らず」と。東里、初めより妻を娶(めと)らず。且(かつ)他(た)に婦女の手なし。故に親(みづか)ら芳子を抱(いだ)き、或(あるひ)は之を負ひ、漸(やうや)く之を慰撫(ゐぶ)す。日を經(ふ)るに從ひて遂に東里になづき、且(かつ)健康もとに復す。其(その)門に出入(しゆつにふ)するもの亦(また)之を愛し或は畫圖(ゑづ)、人形等を與へ、或は衣服を贈るものあり。東里、之を遇すること恰(あたか)も己が子の如し。故に芳子、亦、東里を見ること父の如し。終日、東里の机邊(きへん)に戯れ、硯(すゞり)を覆(くつがへ)し書を汚(けが)すこと屢次(しばしば)、東里、笑つて其(その)頭(かしら)を撫(ぶ)し、益々之を愛せりと云ふ。明年、芳子、纔(わづか)に四歳、未だ誨(をし)ふべからず。而(しか)して東里、年老ゆ。故に芳子の如上(じよじやう)の經歴を叙(じよ)し、且つ訓誨(くんかい)を交へて一篇の文(ぶん)を作り、名(なづ)けて「新瓦(しんぐわ)」と云ふ。鳥獸を其端(そのはし)に畫(ゑが)き、朱綠(しゆろく)を以て之を飾り、芳子をして之を弄(ろう)せしめ、竊(ひそか)に私淑(ししゆく)し、以て他日の玉成(ぎよくせい)を期(き)す。是(こ)れ新瓦と名づくる所以(ゆゑん)なり。其辭(そのじ)、懇切にして情(じやう)、纏綿(てんめん)、讀む者をして涙を垂れしむ。後(のち)、芳子、年稍(やゝ)長ず。是(こゝ)に於(おい)て書を讀ましめ、諄々(じゆんじゆん)として之(これ)を導く。嘗て之を誡(いまし)めて曰く『現今、女子にして善く書を讀むもの、井上通子等(ら)五人に過ぎず。茲(こゝ)に汝(なんぢ)を加へて六人とせんとす。汝それ之(これ)を力(つと)めよ』と。寛延辛未(しんび)の年、其(その)伯父(をぢ)、之を迎へて厚く之を養はんとす。芳子、時に八歳、遂に伴はれて浦賀に歸る。東里、詩を作りて之を祝す。(國學院雜誌、大川茂雄)⑤井庄司先生の「「ことば」で育てる」の中で、東里のもとに引き取られた弟・孔昭の幼娘・芳子について、次のように書かれています。 こゝで中根東里先生の「新瓦」のことを申したい。中根東里先生は、伊豆の下田の人で元祿七年に生れ、明和二年、七十二歳で亡くなつた儒者である。今から凡そ百八十年ばかり前の人である。年十三のとき父に先だたれ、母につかえて孝養をつくしていたが、母の命で僧となり、後、江戸に出て徂徠や鳩巢などについて學を修めたが、全く普通の者とは違つていた。かつて鎌倉の鶴岡八幡宮の前で、弟と共に下駄を賣つて生活をしたこともあつた、後には下野國安蘇郡の天明郷に移り開店した。このとき、鎌倉の弟叔德の娘芳子を引取つて世話をした。芳子は僅か三才、先生は五十二歳の獨身者であるが、晝夜心根を傾けて、芳子の養育につくした。「新瓦」は芳子四歳のときに書かれたもので、全く感激の深い書物である。 その中にこういうことが書いてある。芳子が下野へ來るまで、鎌倉で世話になつていた隣のお婆さんがあつた。芳子の母はなくなり、父の叔德はかせぎのために外出することが多いので、隣のお婆さんに賴んだのである。このお婆さんは、父の前では、芳子をよく世話するように見せかけているが、陰では虐待したということが述べてある。證據というのは、三歳になる芳子が下野へ來たときに、幼言葉というものを知らない。みんな大人のような言葉遣であるということを指摘して居られる。例えば幼児は手ということは「テ」といわず「テテ」といい、寢ることは「ネンネ」といい、起きることは「オキオキ」、食物は「ウマウマ」というように重言を使う。また犬は「ワンワン」猫は「ニャーニャー」鼓は「テンテン」尿は「シィシィ」というように声をそのまま具象的に言う。元來幼兒は、こういう愛情のこもつた「ことば」で育てられるものである。ところが今、芳子は隣のお婆さんから愛情を以て世話されなかつたから、こういう幼言葉を知つていないという結論なのである。(「ことば」で育てる:『幼児の教育』(第46巻第4号、日本幼稚園協会(東京女子高等師範学校附属幼稚園内)昭和22年5月30日発行)所収。9-13頁)山内昭道(山内 昭道(やまのうち しょうどう/あきみち、1928年(昭和3年)3月2日 - 2005年(平成15年))は、日本の児童教育者。 東京生まれ。亀戸幼稚園を創設した山内勇仙の子。1948年東京農林専門学校(現・東京農工大学農学部)卒業、農林省農業技術研究所園芸部助手農林技官。1951年同北陸農業試験場農林技官。1957年駒澤大学仏教学部卒業。1960年亀戸幼稚園長(学校法人山内学園)となる。1965年駒沢女子短期大学専任講師、助教授となる。1976年東京家政大学保育科教授。98年定年退任、名誉教授。)中根東里 覚書その一幼児教育資料ー新瓦(しんが)口語訳「延享3年(1746年)丙寅の年。私は下野の知松庵に住んでいた。この年冬、弟の淑徳(よしのり)が幼女芳子を連れて相模からやって来て、芳子を私に預けて帰っていった。翌年丁卯の年(1747年)の夏、芳子はまだたった4歳、まだ教育できる年ではなく、しかも私はすっかり老いぼれてしまった。そこで自分の聞き知っていることをあれこれ述べて一編の本にし、鳥や動物の絵を端に描き、それに色彩をほどこし、この本を『新瓦』と名付けた。そしてこの本を芳子の玩具として持たせたのだ。どうか、いつかは私の書いた文が読み解けるようになって、自ら修養を積んでもらいたいと願ったからである。あるいはそこまでいかぬとしても、世の中にたくさんいる教養のある方々の誰かがこの本をもとに芳子を教育してくだされば、私はたとい死んでも、私の意図はあとに残って充分役に立つと考えたのである」(口語訳粂川信也 東里遺稿解94頁)私は芳子と手をつないで植野を歩いていた時、西に富士山が見えた。私は富士山を指さして芳子に言った。「私たちの祖先のいるところだよ」そして、さすらいの悲しみを思った。また芳子が幼くして故郷を離れ、そのことを意識すらしないあわれさを思い、次のような漢詩を作った。 曠野(こうや)に率いられて 秋霜(しゅうそう)を履み 西山に望みて 故郷を悲しむ 嗟(ああ)桑と梓*とは 波の陽(みなみ)にあり *《昔、中国で、屋敷の垣根に桑と梓 (あずさ) とを植え、養蚕や器具用として子孫に残したという「詩経」小雅・小弁の故事から》父母を敬い、ふるさとを思うこと。 転じて、ふるさと。 故郷。 悠々たる旻天(びんてん:秋の空)心を痛ましむ。そして芳子に、朝に夕にこの詩を暗唱させたのです。将来、親を思うようになったときに、この詩の心を知り、幾度も繰り返して詠ずるのではないかと思ったのです。
2024.06.15
後藤 静香 日めくり 15日許すもの 憎まれても 憎みかえすな 果たして罪すべきものならば 自然の罪が課せられる どうされても 愛を以てわが道をゆけ 憎むものは 自ら苦しみ 許すものは 心常に平かなり後藤 静香(ごとう せいこう、1884年8月17日 - 1971年5月15日)は、大分県出身の社会教育家、社会運動家。蓮沼門三の「修養団」に傾倒し参加。格言や偉人伝、寓話などをわかりやすく解説した雑誌をいくつも発行。代表作である詩集・格言集『権威』は100万部を越えて、当時の青年、教育社、労働者に愛読され、熱狂的な支持を得た。「現代語訳 安居院義道」p.30-31現代語版の『安居院義道』この安居院先生と報徳のつながりについては次の一説がある。【編者注参照】「その頃、竹松村の隣村に安居院庄七という人がいた。先師が、曽比・竹松の二村に取り直し仕法取り調べのため出張されると、筆算するべきものが多いことから、この庄七氏を書記に命じた。氏はもとより英才かつ志あり。師の教諭を聞いてよく筆記し、仕法の書類を多く書写し、厚くその教えを信じ、よくその意を理解した。事が終わって後に伊勢神宮に詣でて、帰路この教えをもって駿遠二州に遊ぶ、二州にこの道が伝播したのは全く庄七氏の力である、云々」(福住正兄著「富国捷径」首巻)「時に翁その隣村にあり。子弟に授くるに法書(手本となる仕法書)を以てす。先師その能筆を聞いて、挙用して書記役とする。弟の浅田勇次郎もまた随(したが)う。兄弟は昼夜先師に親しんで会得することが大変多かった。翁が一代の経営は既にここに基づく、云々」(雑誌報徳二十三号)とあることから、安居院・浅田兄弟の書記採用説が伝えられるが、我が遠江地方において先輩の伝える所では聞くところがない。桜町陣屋訪問の記事のように全く報徳には親しみも見えない、また二宮先生も未見の人のように面会も許されないと伝え、後の嘉永六年遠州七人組の日光訪問が初会見であったように伝えられている。(竹村篤氏・高山藤七郎老「聞き書き」による)また足柄下郡曽比竹松の仕法地について調べてみたが、安居院先生の関係は見つからない、また先生がその隣村に住んでいたとあるが、郡が大住郡と足柄郡との違いもあって理解しかねる。 本社理事、故神谷喜源治氏は、安居院先生は初め能筆ではなかった、筆道の研究にふけったのは晩年の五十余歳からである、能筆であったのは弟の浅田氏であって、あるいは同地仕法の手伝いに出たのは同氏であったかと思われる、と語られた。なお、筆者(鷲山恭平)の意見として述べれば、浅田氏が近江・伊勢地方において早くから報徳を説かれた所から、その資料はいずこから仕入れたか判然としていないが、必ずや小田原領の仕法から学んだより外にない、と思う。💛現代語版の『安居院義道』は大日本報徳社で取扱い中です。
2024.06.15
「減塩で血圧は下がらない」医者が語る衝撃事実高血圧ほど誤解と思い込みが多い病気はない奥田 昌子高血圧は日本で最も患者数の多い病気です。とくに男性は、予備軍を入れると30代のほぼ3人に1人が血圧が高く、40代では半数を超え、50代は3人に2人を超え、60代になると5人のうち4人以上と、年齢を重ねるにつれて着実に増加します。危険なくらい血圧が高くなれば、なんらかの自覚症状なり、前ぶれなりがあらわれてもおかしくなさそうですが、高血圧だけでは自覚症状は起こらないと考えてください。激しい頭痛が起きることもありません。人の体には、体の血圧が上がっても、脳の血圧の上昇をおさえて脳を守るしくみがあるからです。高血圧が「沈黙の殺人者」、英語でサイレント・キラーと呼ばれているのはこのためです。高血圧は正式には高血圧症といい、現代の日本で最も患者数の多い病気です。そのため、私も日常診療や健康診断で皆さんのような人とお話しする機会がよくありますが、生活指導の難しさは医者泣かせです。「血圧? 塩分は控えめに。野菜を中心に。あと運動も大事よね」と、自分から解説してくれる患者さん。しかし、検査結果を見れば、そういう生活を送れていないのは明らかです。私の切り札は、「いえ、必要なのは減塩ではなく、その体重を落とすことです」ときっぱり言うことです。減量カードをちらつかせると、患者さんはたいてい、「えっ、そうなんですか?」と敏感に反応します。かつて日本は塩分の摂り過ぎによる高血圧が多く、そのせいで脳の血管が破れて起きる脳出血は長らく日本人の死因第1位でした。その後、減塩が進んだことで「塩分摂り過ぎ高血圧」はかなり減少しましたが、今も成人の約半数が高血圧に悩んでいます。減塩の効果に下げ止まりが近づくなか、新たな脅威が登場したからです。それが、食べ過ぎなどを原因とする「メタボ高血圧」です。高血圧はいわゆる中年太りや白髪、シワ、白内障、認知症などと同じく老化現象である高血圧は独立した病気ではなく、全身の血管の壁を劣化させ、ほかの生活習慣病や老化を引き起こす土壌である少し前まで、一度あらわれた老化のサインを取り消したり、劣化した組織を回復させたりするのは不可能と考えられていました。しかし、必ずしもそうではないようです。傷ついた血管を癒やして血圧を安定させ、老化現象全般にブレーキをかけるための有望な手がかりが少しずつ集まってきています。*奥田昌子医師「ジョギングのような「有酸素運動」と、筋トレなどの「無酸素運動」を組み合わせることが効果的」有酸素運動のプロといえる長距離走の選手と、無酸素運動代表の重量あげの選手、そして運動をしていないグループを比較すると、インスリンの効き目がもっともよかったのが長距離走の選手で、それにはおよばないものの、重量あげの選手もインスリンの効き目が上がっていました(図1)。血液中のブドウ糖は細胞に入ってエネルギー源になり、あまった分がグリコーゲンの形で肝臓と筋肉に貯蔵されます。このとき全体の80パーセント前後が筋肉に入るので、筋肉の量が多ければ、それだけたくさんブドウ糖が取り込まれます。これによってインスリンが働きやすくなるため、筋肉が多いほどインスリンの効き目がよくなるのです。筋肉の量が10パーセント増えるごとに、インスリンの効き目が11パーセント上がるというデータもあります。スポーツ選手ではない一般の米国人に有酸素運動と無酸素運動を行ってもらい、内臓脂肪がどれだけ減るかくらべた研究があります。これによると、有酸素運動のほうが消費するカロリーが67パーセント多く、内臓脂肪がよく落ちました。研究者らは、有酸素運動と筋力トレーニングを組み合わせる場合も、有酸素運動を優先してメニューを組むようすすめています。具体的には、筋トレを軽く行ってから有酸素運動を行うのが有効です。筋トレをすると、筋肉や骨を強くする成長ホルモンが分泌されます。成長ホルモンには血液中のブドウ糖と脂肪酸の濃度を高める作用があるため、ここで有酸素運動を行えば脂肪酸を消費できて、脂肪の分解をさらに促すことができるのです。注意したいのは、内臓脂肪を落としたいのか、筋肉を付けたいのかで最適な実施方法が異なることです。内臓脂肪を落とすには、筋トレ→有酸素運動の順で実施するのがよいのですが、この順番だとタンパク質の合成がおさえられ、筋肉があまり付きません。これに対して筋肉を付けるのが目的であれば、有酸素運動→筋トレの順で行うのが有効です。有酸素運動を先に行うと、筋トレだけ実施するよりタンパク質の合成が高まります。その反面、脂肪の燃焼は少なくなりますから、今は内臓脂肪を落とすことに集中し、ブレずに継続してください。筋トレは10分くらい、少し汗ばむ程度行えば十分でしょう。ジムに通わなくても、自宅で腕立て伏せを30回とか、1分間の縄跳びを休みながら繰り返すだけで効果があります。ただし、現時点でかなり体重がオーバーしている人は欲を出すのは禁物です。無酸素運動は心臓に負担がかかるので、まずは有酸素運動だけを続け、5キログラム体重を落としてから筋トレを加えてください。
2024.06.14
後藤 静香 日めくり 14日これがために たしかに生まれた 必要だからだ たしかに生きている まだ用事があるからだ 「われこれがために生まれたり」 はっきりと そう言いうるものを つかんだか後藤 静香(ごとう せいこう、1884年8月17日 - 1971年5月15日)は、大分県出身の社会教育家、社会運動家。蓮沼門三の「修養団」に傾倒し参加。格言や偉人伝、寓話などをわかりやすく解説した雑誌をいくつも発行。代表作である詩集・格言集『権威』は100万部を越えて、当時の青年、教育社、労働者に愛読され、熱狂的な支持を得た。「現代語訳 安居院義道」p.28-31現代語版の『安居院義道』二、安居院家を継いで商人となる 先生は長じて同郡曾屋村(秦野市曽屋)十日市場の安居院(あごいん)家に婿入りしてその家を継いだ。同家は磯屋と称して代々穀物商を営んでいる。それがどんな縁からか、いつ頃か、また何歳か全くわからない。その妻を「ヒサ」といい、すでに先夫藤吉との間に数人の子があったと伝えられるから、相当の年配になってからのように推定されるが、この前後の経歴は全く不明である。これより一商人として家業に従事したことと思われるが、元来慧敏(けいびん=知恵があり気が利く)といわれる多芸の才物であったから、壮年時代は特に鋭気満々として、空しく一草蘆(そうろ:草ぶきの庵)に起き伏しすることをいさぎよいとしないで、常に一攫(いっかく)千金を夢見る山気があった。そのためその考えから出発し、たどった道は米相場であった。これは修験の家に生まれて陰陽説の信奉、気候風土の物産や物価に影響する等の天文記、安居院先生の没後に遺物として残された玉手箱(著作物)に結びついて考えられる。しかしこの手筋は一般に金儲け猛者(もさ)連の着眼する常道で、新発見でも天外からの福音でもない。ちょうど賭博(とばく)をする者が金にのみ眼がくらんで、自分だけは当たることだけ思い込んで、外れたら損をすることの分別が見忘れているのと同じである。さすがの先生といえども、また一直線に突進して浮き身をやつして、一進一退、虚々実々の場面にしのぎを削った。時には面白おかしく鼻高々の面もあったことと想われるけれども、いつまでもそうは甘くはない。遂には一敗地にまみれて大きな傷を受ける破目に落としいれられた。そして「しまった」と気づいた時は、自分の金銭を失くしたのではなく、養家の財産をすっかりなくしてしまった。しかし申し訳がないからと腹を切る気にもなれず、運が悪いからだと自己弁護に都合のいいふうに解釈し、もし金があったら取り返せそうな気がする。誰か資本を貸してくれる人はないか、最後の一戦に運命を賭けてみたいと念じていた。そんな時、天保十一年(一八四〇)になって報徳二宮先生は、小田原領内曽比・竹松の二村に報徳仕法を行い、負債整理や荒地開墾など難村衰村の立て直しにあずかる。安居院先生は仕法事業の性質は知らない。また深く究めるほどの興味は起こらない、そのうちに利息の安い金を貧乏人に貸す一事だけは天来の福音と感じて受け取った。しかしまた他面には今のようなセチ辛い世の中に利息が安いことなどあるはずがない。それを貸すということがわからない。事によると、二宮という者は大山師で、一芝居うつのではないかと疑った。しかし自分は二宮に用があるのではない。金を借りることが目的だ。よし一つ頼もうと決心した。その時二宮先生は小田原領におられない。野州(栃木県)桜町陣屋にあると聞いて、はるばると同地に向かった。すなわち陣屋日記の条に一、 相州十日町市場磯屋庄七と申す者、田蔵をたよって罷り越し候事と記載されている。また別日記の二宮先生の子息尊行氏二十二歳の時の筆記にも、田蔵の上に中沼村を加え、その末文に「始めて来る」と付け加えられている。 安居院先生は陣屋に行き、早速二宮先生に面会を求めたが、公務多忙のためと即座に拒絶されてしまった。 それは陣屋としては誠に無理もないことで、その当時、二宮先生は老中水野忠邦より、江戸表へ出府するように命令されていた。続いて利根川分水路印旛沼掘割工事の検分を仰せつけられ、後には幕府の役人に取り立てられ、御普請役格(ごふしんやくかく:土木工事係)を拝命するというを拝命するという、一世一代の光栄の出世時代に遭遇して内外実に大変多忙な時であって、それらは七月二十六日の陣屋日記に照らして逐一次第がうかがわれるからである。 このような場合であったから、先生に対して面談の余裕はない。しかし郷土の方から尋ねて来た情義で門前払いも忍びない。「まあ当分、風呂番でもさせておけ」といわれ、それから雑用をしながら面会の機会を待って、暫く陣屋に厄介になっていた。後に二宮先生はかいま見られて「彼は風呂の焚き方を心得ている」と言われたと伝えられている逸話がある。💛現代語版の『安居院義道』は大日本報徳社で取扱い中です。
2024.06.14
錦織が日本テニス勢最多5度目の五輪出場へ 大坂は2大会連続2度目6/13(木) 日本テニス協会は13日、男子の錦織圭(34=ユニクロ)、女子の大坂なおみ(26=フリー)がパリ五輪のシングルス出場権を獲得したことを発表した。12日深夜に国際テニス連盟(ITF)から通知が届いた。出場すれば錦織は5大会連続5度目の出場で、4大会で並んでいた女子の杉山愛を抜き日本テニス勢単独最多出場。大坂は2大会連続2度目の出場となる。 五輪のシングルスの出場枠は男女各64人で、各国・地域から最大各4人が出場できる。10日に発表された世界ランキングの上位56人に出場権が与えられ、残る枠は主催者推薦などで決定。世界ランキングは錦織が286位、大阪が125位だが、ともにケガや出産などによる長期離脱に対する救済措置の公傷ランキングが適用され、錦織は48位、大坂は46位。大坂は4大大会優勝経験者としてITF枠でも出場できるため、本人の意向でITF枠での出場を予定している。💛錦織圭さんすごーい、おめでとうございます(^^)「アドレナリンが切れて、痛みが出た」錦織圭が2セット終了時の降雨中断時に右肩痛で棄権を決断5/31(金) 1回戦で、2021年全米以来の4大大会勝利を挙げた元世界ランキング4位の錦織圭=ユニクロ=が、2日がかりの2回戦で、世界ランキング15位のベン・シェルトン=米国=に6-7、4-6となったところで右肩痛で棄権した。2セットダウンの時、降雨中断となり、そのタイミングで決断した。 主な一問一答は次の通り。 ―棄権について。錦織 この2~3か月、右肩の痛みに苦しんできた。1回戦前は大丈夫だったが、5セットをやってしまった。この日に万端にはならなかった。 ―痛みの程度は。錦織 2セット目の中盤から痛みが増えた。何とかできるかなと思ったが、ちょうど休む(降雨中断)タイミングでアドレナリンも切れて痛みが出始めた。 ―決断の理由は。錦織 これが(セット)2-0だったらやっている。でも0-2で3セットを取らないとと考えたら、さらに悪くなるため決断した。 ―1回戦の終わった後は。錦織 最悪、5セットをしてしまった。全身の筋肉痛はものすごかった。久しぶりの4時間やると、体があまり動いてくれなかった。 ―今後は。錦織 芝もハレ(ドイツ)から出たいが、2~3日休んでどうなるか。今からチェックもするが、それを見てって言う感じ。 ―戻ってこられた感想は。錦織 1~2か月前は、だいぶ自信をなくしていた。だから、(戻れて)よかった。トップの選手と練習ができて、戦えると感じた。試合でも緊張の中、ある程度の試合はできた。収穫はすごいあった。
2024.06.13
血管を若返らせるためにできることは?①適切な栄養を摂取するアメリカの研究では、血管の老化予防には野菜、果物、全粒穀物、豆類を多く食べ、ナッツは適度に食べることが推奨されています。若々しい血管作りをサポートするための食材には以下のものがあります。・サンマ・アジ・納豆・トマト魚類や大豆製品は、血管を作るために欠かせないタンパク質が豊富。また、トマトに多く含まれる赤い色素のリコピンは抗酸化作用が期待できます。逆に、摂取を控えるべきものとして、飽和脂肪酸、固形脂肪、ナトリウム、砂糖、精製穀物が挙げられています。また、塩分の摂りすぎにも気をつけて。塩分の摂取により血圧が上昇すると、血管の内皮細胞が傷付いて、動脈硬化リスクを上昇させます。加工食品や食事の偏りは避け、バランスのいい食事を心がけましょう。②運動をする有酸素運動時に血管の内皮細胞から放出される一酸化窒素*は、血管をしなやかにして、血圧を安定させてくれます。そして、一酸化窒素はコレステロールの沈着、血管の酸化、動脈硬化を防ぐ作用も期待できます。具体的にはウォーキングやジョギング、水泳がおすすめ。ストレッチやヨガなどの柔軟運動も適しています。また買い物や家事などの生活動作も、低強度の運動として有効です。逆に、筋力トレーニングなどの高強度の運動は血管を硬くさせる原因になりことがあり、血管アンチエイジングにはあまり向いていません。③ストレスをためない人は、心身にストレスを感じると、ストレスに対応するため、抗ストレスホルモンを分泌します。しかし、慢性的なストレスにさらされると、副腎が疲れて抗ストレスホルモンが十分に分泌できない状態になります。この副腎疲労は、血管壁の弾力を失う原因になり、動脈硬化のリスク上昇にも関係が。そのため慢性的なストレスを感じないように、ストレスケアが重要なのです。*肥満や過食は現代社会が抱える健康課題ですが、この状態が続くと血管にプラーク(コレステロールのこぶ)が溜まり、やがては詰まってしまいます。血管が詰まると、心臓や脳の病気の原因になります。しかし、一酸化窒素(NO)※には血管の損傷を防ぐ分子が存在しているため、心臓や血管の働きを守る作用があります。一酸化窒素は私たちの健康に欠かせない重要な役割を持っているのです。たとえば気分転換できる趣味を見つけるのもおすすめ。スポーツ観戦、映画鑑賞、カラオケなど日常から少し離れてリラックスできる自分だけの時間を作りましょう。一酸化窒素の主な働き一酸化窒素の直接的な作用は、血管の内皮細胞の緊張を緩めることです。生理機能としては、血管の拡張作用があることが広く知られています。その結果、血管が拡張して血流量が増えます。また、神経伝達物質としても働くことがわかっています。シナプス間隙のみで働く多くの神経伝達物質と異なり、広い範囲に拡散して直接接していない神経細胞にも影響を与える点が特徴です。一酸化窒素はこれらの作用から、心臓や血管に関わる様々な疾患の予防や改善が期待されています。高血圧の緩和一酸化窒素には血管の内皮を緩めて広げることで、血管にかかる圧力を低減する作用があります。この作用により、高血圧の緩和が期待できます。生活習慣病の抑制高血糖や高コレステロールなども血液と血管に関連しているため、一酸化窒素にはメタボリックシンドロームや生活習慣病の抑制が期待できます。動脈硬化の原因にもなる活性酸素を無害化一酸化窒素には、動脈硬化の原因にもなる活性酸素を無害化する作用があります。一酸化窒素が不足すると血管は硬くなり、逆に十分に放出されていれば血管は柔らかくなります。動脈硬化などの予防には、一酸化窒素はなくてはならない物質です。あまり伸縮せず、硬化してしまった血管はプラーク(コレステロールのこぶ)ができやすくなり、心筋梗塞や脳梗塞のリスクが高まります。一酸化窒素による動脈硬化の予防は、そのまま循環器系疾患のリスク低減につながります。年齢とともに減少する一酸化窒素の生成量は年齢を重ねるとともに低下します。一酸化窒素の低下は20代から始まり、40代になると必要量の50%を失うこともあるようです。その結果、肌の細胞が衰えてしわが目立つようになります。④質の良い睡眠をとる米シカゴ大学の研究によると、睡眠時間が少ないほど、動脈硬化の原因になるカルシウム沈着が起こりやすいという調査結果があります。質の良い睡眠をとるためには、入眠しやすい環境づくりを。たとえば、ラベンダーやカモミールなどのリラックス系のアロマは、心を落ち着かせてくれるのでおすすめです。**一酸化窒素の産生を増やす方法一酸化窒素を増加させるには、食事やサプリメント、または運動などで、その産生を補助する必要があります。アルギニンの摂取が重要ポイント一酸化窒素は体内で産生される鍵分子です。人間が摂取したタンパク質は複数種類のアミノ酸に分解されます。そのなかのひとつがアルギニンです。アルギニンが血管の内皮細胞に吸収されると、一酸化窒素に変換されます。人間の全ての血管には内皮細胞がありますが、一酸化窒素はこの内皮細胞でしか産生できません。内皮細胞を健康な状態に保つことは、とても重要です。ナッツ、魚、肉、乳製品など、アルギニンを多く含む食品から良質なタンパク質を取ることを心掛けてください。良質なタンパク質からアルギニンを摂取し、一酸化窒素の生成をサポートしましょう。サプリメントから摂取するアルギニンやシトルリン、抗酸化成分、葉酸などが含まれたサプリメントを利用することで、一酸化窒素の産生を増やすことができます。有酸素運動をする有酸素運動は、血流の循環を促進するのに効果的です。20分以上の散歩・ジョギング・水泳などを週3~4回行うと良いとされています。適度な運動習慣は全身の血液循環を改善し、一酸化窒素の産生を助けてくれます。
2024.06.13
Mさまきのう、図書館で国立国会図書館連携のデジタル図書を見ていたら面白い記事がありましたので送ります。また6月12日付けの新聞の「大山阿夫利神社 神藍之御朱印」の記事を送付します。鈴木藤三郎の観音様のゆくえが判明することを期待しています
2024.06.13
バレー女子日本、韓国にストレート勝ち…五輪出場権の懸かる大一番でエース古賀紗理那が躍動バレーボール・ネーションズリーグ(12日・福岡西日本総合展示場)――女子1次リーグ最終週が行われ、パリ五輪出場を目指す日本は韓国に3―0でストレート勝ちした。福岡大会の初戦を白星で飾り、通算では7勝2敗とした。日本は6月13日にカナダと対戦する。韓国にストレート負けした場合、ランクに関わるポイントで18・99点も失っていただけに、大きな勝利でホーム初戦を飾った。日本は11日まで7位の中国と0・07P差と肉薄していたが、韓国戦のストレート勝利でプラス1・01Pされ、1・08P差まで広がった。6 日本 330.637 中国 329.55真鍋監督 ――韓国戦のポイントは。 「各セットの前半、ラリーポイント制は先行逃げ切りが有利。各セットの入りを選手に口酸っぱく言っている」 ――負ければ世界ランクが後退するという状況で、どんな意識で試合に臨んだか。「毎試合、試合前に言うけど、目の前の試合に勝つ。1セット、1セットの積み重ね。選手たちはポイントになれているので、心配することなくやれた」 ――渡辺を起用した。 「3セット目、ミドルブロッカーの渡辺と宮部を入れた。今日は(荒木、山田との)コンビがセッター・岩崎と合ってなかったので、早めに変えようと思っていた。2人もブロック、スパイク頑張ってくれた」 ――3セット目の20点以降の勝負強さについて。 「昨年五輪予選でブラジル、トルコに惜しい試合をしながら五輪出場権を獲れなかった。今年は20点以降の点数の取り方、ミスを少なくと言ってきて、練習の成果が今日は出た」――対韓国。想定とのズレはあったか。 「日本ラウンド初戦でサーブミスが多かった。エンドラインの伸びるサーブのアウトが多かった。反対に韓国のアウトのサーブを触っていたので、サーブ、レシーブをカナダ戦は注意したい」 ――13日カナダ戦に向け。 「カナダは一番勢いがある。高さ、パワー、スピード明日は厳しい試合になると思っている」
2024.06.13
後藤 静香 日めくり 13日悦ぼう 自分には苦しい無理をつづけても 人のためになるならば助けよう いくじなしと思われても 言葉をやわらげ礼を厚うして すべての人と仲よくしよう それで馬鹿にされるなら 馬鹿にされて悦ぼう 悪に強い意地悪となって威張るより 善に強いいくじなしとなって 笑われよう 損をしても悦ぼう そしられても罵られても悦ぼう後藤 静香(ごとう せいこう、1884年8月17日 - 1971年5月15日)は、大分県出身の社会教育家、社会運動家。蓮沼門三の「修養団」に傾倒し参加。格言や偉人伝、寓話などをわかりやすく解説した雑誌をいくつも発行。代表作である詩集・格言集『権威』は100万部を越えて、当時の青年、教育社、労働者に愛読され、熱狂的な支持を得た。「現代語訳 安居院義道」p.27現代語版の『安居院義道』安居院義道の風景 その2 大山信仰と御師の経済生活神奈川県立公文書館紀要第6号に「古記録から見た大山信仰の諸相」が載っていて、大山信仰の概要と大山信仰を見るのによい。・大山(標高1252m)は霊山として古くから信仰を集めた。特に江戸時代中期以降、大山御師による大山講が組織化され、相模・武蔵、駿遠豆・甲信越・房総の庶民は、盛んに大山参りした。大山道が整備され、山麓一帯に宿坊や土産物店が軒を連ねた。・大山は「石尊大権現」と呼ばれ、山頂に巨大な石を御神体とする阿夫利神社がある。中腹には不動明王像を本尊とする大山寺が建立され、「石尊大権現」と一体化した大山信仰が形成される。田中宣一氏の「明治初期における大山講の分布」より・御師は講中の人々の大山登拝を勧誘するとともに、寺社への案内や宿泊の世話をした。農閑期に村々を廻り、講の人たちと繋がりを持ち、寺社のお札を届け、その見返りにお初穂(米)やお賽銭の寄進を受けた。講をいかに多く組織し、繋ぐかは御師の生活にとって重要だった。未組織の町村に入り込んで大山講に加入させると共に、以後それらの人々と密接な関係を持ち続けるための努力が重ねられた。大山講の講数、戸数は『開導記』が詳しい。鈴木道郎氏の「明治初期における相模大山御師の経済生活」より・大山御師の宗教活動と経済生活御師の宗教上果たした役割と収入とは、御師自身の活動によるものと、神社と協同して行うものがある。御師自身の活動によるものは、①宿坊経営②祈祷③大山登山の先導④御札配付⑤竈祓⑥初穂受けがある。神社と協同して行う場合には①御神楽講②金幣拝戴③正式参拝④寄付勧誘がある。御神楽講は神社に御神楽を奉納するため組織する講で、この奉納料が神社最大の収入になる。御師は、信者にこの講を組織するように勧誘し、それが成立すると、神社より奉納勧誘の手数料として奉納料の3割を受ける。金幣拝戴は神社で祝詞をあげて祓う。正式参拝は本殿に昇殿し正式に参拝する。いずれも手数料が2割入る。寄付勧誘は神殿の新築や燈籠設置等のために信者の所を回るのも御師の役目だった。・大山御師の持場と檀家 江戸時代、大山に御師の家が110軒程あった。現在64軒、蓑毛口に7軒ある。大山御師は関東一帯に1万軒からの檀家を持ち、蓑毛口の御師は山梨・静岡・浜松地方に檀家を持っていた。各御師の檀家の地域的持場は、各講が最初御師の元に宿泊し、先祖代々御師の檀家として結ばれた。他の御師の檀家を荒らすことは固く禁じられていた。💛現代語版の『安居院義道』は大日本報徳社で取扱い中です。
2024.06.13
小田原仕法について(「南足柄市史」p.655-667)小田原藩主大久保忠真は天保8年(1837)年小田原藩の農村復興を命じ、二宮金次郎を推進者とする小田原藩報徳仕法が正式に始まった。その実施期間は弘化3年(1846)までの10年間とされる。しかし、金次郎は小田原藩報徳仕法開始以前から、領内の農民や藩士を対象とした資金(報徳金)の貸付を行っていた。農民・藩士を対象とする個人貸付が多く、全体の半分以上を占める。農民に貸付けられた702両余の報徳金は、34口に分けられて、栢山村の10口を筆頭に領内の広範囲の農民に貸付けられた。南足柄市の村でも、福泉村の伊八と源兵衛の二人の農民が貸付を受け、田畑を受け戻し経営を立て直している。表4-13は小田原藩報徳仕法が正式に始まる前の報徳金貸付状況を対象者及び金額でまとめたもの♥庄七は天保3年以後御師として足柄上郡を廻村するなかで無利息貸付金のことを知ったように思われる天保年2月7日、藩主忠真は、「手許用意金千両を授ける。救助米は小田原の倉庫を開いて与えよ」と金次郎に命じた。金次郎2月11日に小田原に到着し準備を進め、3月2日から約1か月をかけて軒別廻村を行う。金次郎は村民を極難・中難・無難の三階層に分け、当座の食料として一日につき極難一人に米二合を、中難に米一合を貸し付けた。この仕法で救済の対象となる極難・中難の人数合計は、相州領で約15,000人に達し相州領全体の57%になっている。一方駿州領で8,500人駿州領全体の65%に達している。小田原藩の場合、天保の飢饉の影響は、駿州領に色濃く出ている。駿州領では米のみが相州領より大量に貸し付けられている。初期段階の小田原亮報徳仕法は、より困窮度の高い駿州領に重点を置いた、農民救済仕法であった。二宮金次郎が行った報徳仕法は、返済方法の面で他の貸借関係とは利息分のたなあげという点で大きく異なった。報徳仕法で貸付を受けた者は、元金部分を五年賦、七年賦または十年賦で支払い、貸借関係を終了する。その上で元金の一割から二割程度を、利息分として納める。元金返済後に収める利息は、一般的に元恕金(がんじょきん)と呼ばれ、金次郎が報徳仕法を運用していく上で重要な資金となった。小田原藩報徳仕法においても、元金の返済年限は五年で、元金返済後の六年目に二割の利息を支払うしくみになっている。金次郎が、米・雑穀の貸付に全力を注いでいた天保8年(1837)年4月4日死去した。金次郎は、飢民救済を目的とする保徳仕法が、一応の終了をみた天保8年4月上旬には小田原を去り桜町に戻った。しかし小田原藩領農村の状況には厳しいものがあり、新藩主大久保忠愨(ただなお)は、同年9月、金次郎に小田原藩領の窮民救済と難村復興を命じた。金次郎は天保9年正月から小田原に滞在し、報徳金の貸付にあたった。初期の報徳仕法が、米・雑穀の配給を中心にしていたのに対し、報徳金の貸付に主眼が置かれていた。借財返済のため村に貸付けられた報徳金が、総額の約半分に達している。貸付を受けている村は、御殿場・箱根方面に多い。南足柄市では、壗下(まました)・竹松・関本の三か村が貸付を受けている。特に関本村は金額も150両1分2朱と多い。この時期の報徳金の貸付により、金次郎の人気は小田原領内で高まった。しかし金次郎は小田原藩自体が「分度」を立てない状況に憂慮し、「小田原藩が分度を立てないならば、いくら農村を開発しても、民を惑わし、国を亡くすだけだ」として、天保9年9月、桜町に帰ってしまった。天保10年9月、竹松村組頭幸内や曽比村組頭広吉が、仕法調査書を持って、竈新田名主平兵衛らと共に桜町を訪れた。金次郎は、昼夜にわたって報徳仕法を幸内らに伝授した。金次郎は彼らの決意に感銘を受けて天保10年12月10日から小田原の曽比・竹松の一村仕法を行う。天保11年3月23日には入札を行って、中・下の村民の中から合計14人の出精人を選出させた。出精人には、組頭広吉らが金次郎に差し出した、報徳田と呼ばれる7町4反歩の耕地が貸し与えられた。報徳田の年貢は元の持ち主が負担したため、報徳田を手にした農民は農民はその収益で田畑を買い戻したり、借財の返済処理ができた。4月には報徳世話人の入札も行われ、選出された5名には合計150両の報徳金が貸付けられ、借財処理などに使われた。さらに村民が一致して水路のせぐさらいや排水堀工事を行い、仕法活動を徹底していった。...
2024.06.12
A 様(略)本年3月に「現代語訳 安居院義道」という本を出版しました。これは大日本報徳社社長から、鷲山恭平氏が昭和28年に出版した「報徳開拓者 安居院義道」を現代語訳にしてくださいと静岡県森町のM氏を通して依頼があり、M氏と共同編集しクラウドファンディングで費用を集め、出版したものです。安居院義道、通称庄七は、秦野市の出身で、静岡方面、特に遠州地方に報徳の教えを伝え、報徳社を数多く設立しました。そういうこともあり、故郷秦野市や足柄上郡の図書館と小中学校に本を寄贈しました。ところがいくつかの教育委員会から、小学生には難しすぎるということで小中学校への寄贈に難色を示されました。そこで現在、松田町文化財保護委員のK氏さんと共同して「子どもからお年寄りまで読める 安居院庄七 50歳からの大冒険」の出版を企画しているところです。作成に際し、出来るだけ子どもたちにも親しめる挿絵がほしいと考えていますが、まだ協力していただける方が現れていません。まことに突然の話でご迷惑のことと存じますが、挿絵の提供について御一考くだされば有難く存じます。もしご検討いただけるのであれば、「現代語訳 安居院義道」と現在作成中の「安居院庄七 50歳からの大冒険」の原稿をお送りします。 秦野の小学校教員で郷土史家だった故井上静男氏の「遠州と故郷の安居院庄七像」に、本町小学校に建っている「安居院庄七翁碑」についての素敵なエピソードが紹介されています。 秦野市の本町小学校に立つ安居院先生の顕彰碑に「大正八年十一月 秦野町有志者建」とあります。「建立は「秦野町有志者」とある。関係したと思われる方に「名前がないですね」と訊いたところ返って来た言葉は、「誰が此の碑を建立したかが問題ではなく、碑の人物は立派な教育者であり秦野の誇りである。これからの教育に於て第意二、第三の庄七のような人物が出る教育をして貰いたいので、学校の庭に建立したのである」。 駆け出しの教師にとっては、最初の此の一言は生涯忘れられない言葉となった。」「これからの教育に於て第意二、第三の庄七のような人物が出る教育をして貰いたい」という思いから、小中学校に寄贈しました。現在、秦野市、松田町、中井町、静岡県掛川市、森町、袋井市、磐田市の小中学校に寄贈いたしました。「安居院庄七 60歳からの大冒険」についても出版出来ましたら、神奈川県(西湘地域)と静岡県の遠州地方を中心に図書館、小中学校に寄贈したいと考えております。 まことな勝手なお願いながら、次の世代に良いもの(goods)を遺そうとする活動です。ご協力いただけるのであれば有難く存じます。
2024.06.12
天台神奈川教区報 昭和35年1月1日 安居院恵竜師スコットランドの植物学者が山谷の深い間に珍しい花を見つけたが取ることが出来ない。貧しい一少年に 「君お金をやるから取ってくれないか?」「どうやってとるの?」「ここにロープがあるから、これを君の体に巻きつけて取ってきてくれ。私がロープを握っているから」するといきなりその少年はかけ去り、しばらくして一人の男を連れてきて「おじさん、本当にお金をくれるかい?」「あああげるよ」「ではとってくるね、ロープの元をこのお父さんに持たして下さい」と言ったという話がある。私たちはどんな困難にも力のある助けてくださる愛のあるお父さん(神)に任せたら、私たちの本当の安心があるのです。 我はこれ衆生の父なり 衆聖の中の尊 世間の父なり 一切衆生は皆是我が子なり(譬喩品) 我もまたこれ世の父 諸もろの苦患を救うものなり(https://www.dogen-shobogenzo.com/juryohonge3.html)
2024.06.12
【日本代表】史上初の無失点&全勝で2次予選首位通過!上田、堂安、相馬、南野弾でシリア5-06/11(火) 既に首位通過を決めている日本(FIFAランキング18位)が、史上初の無失点&全勝で2次予選を完全通過した。2026年FIFAワールドカップ(W杯)北中米大会アジア2次予選の最終戦でシリア(同89位)を5-0で一蹴。2次予選の無失点は史上2度目で、全勝は3度目。そして無失点&全勝は「日本史上初」の記録を打ち立てた。FW上田綺世(25=フェイエノールト)が先制点を奪った。前半13分、MF中村敬斗(23=スタッド・ランス)の左クロスに頭で合わせ、ゴール左に決めた。2次予選では6点目、代表通算では22年W杯カタール大会以降で森保ジャパン最多の12点目となった。森保監督はベストメンバーをそろえた。6日のミャンマー戦(5-0、ヤンゴン)でベンチ外だったDF冨安健洋(25)とMF久保建英(23)を先発させ、システムも攻撃的な3-4-2-1陣形を継続。【GK】大迫敬介(サンフレッチェ広島)【DF】板倉滉(ボルシアMG)町田浩樹(サンジロワーズ)冨安【MF】遠藤航(リバプール)田中碧(デュッセルドルフ)堂安律(フライブルク)中村、南野拓実(モナコ)久保【FW】上田綺世(フェイエノールト)を送り込んだ。1-0の前半19分に、早くも追加点。背番号10のMF堂安がミャンマー戦に続く2戦連発。大外の右ウイングバック(WB)で先発し、久保からボールを受けると、ペナルティーエリア右角付近から左足を振る。2人のDFの間を抜き、ゴール右下へ突き刺し、国際Aマッチ通算50試合目の出場で節目の10点目をマークした。 前半22分には久保のスルーパスが、相手DFが防ごうと、とっさに出した足に当たってコースが変わり、オウンゴールになった。守っては、地元広島のGK大迫に冨安、板倉、町田の3バックが盤石。過去10勝2分けと無敗のシリアを抑え込み、前半3点をリードした。後半、システム変更に踏み切った。左WBの中村を下げてDF伊藤洋輝(シュツットガルト)を投入。4バックに変えて4-1-4-1に変形した。この後半序盤こそ、日本に勝たなければ2次予選敗退が濃厚となり、負けられないシリアの猛攻を受けたが、得点は許さない。後半40分には5点目だ。今季フランスリーグで9得点6アシストと完全復活の南野が「南野帝王」弾で引導を渡す。5-0の完勝で中東の難敵シリアを圧倒。史上初の無失点&全勝という完全突破で、最終予選(9月開幕)に駒を進めた。森保監督は「ありがとうございます。ここエディオンピースウイング広島にmたくさんのサポーターが来てくださったおかげで。また多くの日本の方々がテレビでも応援してくださったおかげで選手建ちが頑張ってくれました。(2次予選を全勝&無失点で通過し)勝たなければいけない相手。選手たちが準備から当たり前のことを当たり前にして、ハードワークして、チャレンジしてくれた。ただ2次予選と、これから始まる最終予選は全く別次元の戦いになると思いますので、これまでやってきたことを積み重ねてやっていきたい」【一問一答】森保監督「広島に専用スタジアムができるのは大きな夢だった」試合前の涙の理由明かす2024年6月11日W杯北中米大会アジア2次予選B組 日本5―0シリア試合後の森保監督「まずは3バックをやることで、選手の特長で戦い方を変えられると思います。堂安、中村は守備をしっかりしてくれながら、積極的なプレーをしてくれた。これまでも3バックは試合の中でやっていましたが、よりボールを握りながらいい攻撃をしかけるチャレンジをしっかりやってくれた。今後に向けたオプションになる。もう一つは、広島だからではなく、国歌を聞いて試合に臨める喜びを、いつも感じている。でも広島で現役時代、指導者と長く過ごして、広島に専用スタジアムができるのは大きな夢でしたので、そこでプレーできる喜びが出てきて感極まったところはあると思います。国歌を歌っているときは、日本人であることの喜び。今日は広島でできたという二重の喜びで涙が出てきました」「監督として苦労したところはありません、選手もスタッフも目の前の試合に勝利するためにいい準備をすることと、試合の中で勝つことはもちろん、これからの成長につながるように。その2点で選手がいい準備をしてくれた。最終予選に勝って、その先のW杯につなげるためには、もっとレベルアップしないといけない。私から何か、選手たちに注文することはない。選手たちが主体的に、自主的にベストをつくすことをやってくれているのは、本当にありがたいと思います」「パリ五輪で戦う大岩ジャパンの選手、スタッフに向けては、日本のサッカーファミリーとして、持てる力を存分に発揮して戦ってほしい。悔いのないように戦ってほしい。代表ファミリーとして、精いっぱい応援したいと思います」「3バック、4バックと、どちらも戦術的に機能させていこうと。後半からシステムを変えて、より選手たちに戦術の浸透を図れるように、対応力を持って戦えるよう、戦術変更しました。冨安を右で起用しましたが、いろんな戦術的なシステムと、いい選手がいますので、可能な限り、複数のポジションでプレーしてもらうことがチームの成長につながると思った。前線の選手も、ディフェンスの選手も存在感のある選手が増えていますし、結果を出せればと思って起用させてもらいました」・試合中はJ1広島のチャントが、“森保監督仕様”で流れる場面もあった 「聞こえてました。試合の終盤で、歌詞が理解できました。広島のファンを中心にだと思いますが、全国から日本代表を応援してくれるサポーターが集まってくれている中で、私も応援してくれたのはうれしい。名前を入れてもらえるのはうれしいんですが、森保ジャパンではなく、みんなの日本代表ということで考えてもらえばうれしいです」「戦術的な準備をする期間は、次の活動の直前になるので、なかなか難しい。前回の最終予選で、悔しいスタートをした経験があるので、2次予選全勝できましたけど、最終予選は別次元の厳しい戦いになるということを、肝に銘じて準備しないといけない。過去の経験をいかして、しっかり心の準備をしないとけない。堂安が、ヒーローインタビューで最終予選に触れていて、アジア杯で痛い思いをしたので、その経験を生かさないといけないという話をしていた。スタッフもそれを肝に銘じて準備しないと。枠が増えて楽な予選になると思ったら大間違い」
2024.06.12
後藤 静香 日めくり 12日今のままで お前は たしかに生まれた 何のために生まれたのか お前は たしかに生きている 何をすればよいのか お前は たしかに死ぬ 今のままで 死んでもよいのか後藤 静香(ごとう せいこう、1884年8月17日 - 1971年5月15日)は、大分県出身の社会教育家、社会運動家。蓮沼門三の「修養団」に傾倒し参加。格言や偉人伝、寓話などをわかりやすく解説した雑誌をいくつも発行。代表作である詩集・格言集『権威』は100万部を越えて、当時の青年、教育社、労働者に愛読され、熱狂的な支持を得た。「現代語訳 安居院義道」p.26現代語版の『安居院義道』安居院義道の風景 その1 安居院はどう読むの?安居院をどう読むかが、まず問題である。安居院の読み方について「あごいん」「あごい」「あぐい」「あんきょいん」とさまざまに読まれている。『報徳に生きた人々』八木繁樹著5頁では「あごいん」とし、10~13頁でその読み方について研究考察される。「その姓『安居院』はなんと読むのか。鷲山恭平翁著『報徳開拓者 安居院義道』では『あごゐん』とルビをしている。・・・遠州地方では通常『あごい』で通っており、なまって『あぐい』という人もあり、少年時代からこれを耳にしている私は、疑うこともなく『あごい』が正しいと思っていた。」とある。ところが「正しい呼び方は何か」を聞かれたことから、静岡市内に住む庄七の玄孫といわれる安居院勝一氏を訪問して調査した。安居院姓の起りは奈良の高松塚付近で、藤原鎌足の勅願寺安居院(あごいん)で、安居院家の先祖はその執事となって、安居院の姓を賜った。後に神奈川県秦野市と中郡土沢村上吉沢(現平塚市)に定住した。勝一氏は父から「庄七翁はこの家の中興の祖であって、当時、大住郡曽屋村十日市場にあった同家に、同郡大山村の密正院藤原家から入婿し、磯屋と称する商家を継いだ」と教えられた。ところが勝一氏の調査によると、庄七翁の入婿先は秦野の安居院家であることが判明したという。勝一氏によれば、この姓の読み方は「正しくは あごいん です。しかし、それがなまって あぐい という人も多く、私たちも あぐい といいます。」大藤修著『二宮尊徳』287頁では、「安居院(あぐい(あごいん))庄七(しょうしち)」(義道(よしみち))とルビがふられている。秦野市本町地区に「安居院庄七翁頌徳碑」がある。この説明には「あぐい」とある。「本町小学校玄関の西側に、高さ3m程の碑がある。この碑は、安居院(あぐい)庄七の功績をたたえ、1919に建てられたものである。庄七は1789年に蓑毛の神成(しんじょう)家の次男として生まれ、曽屋村十日市場の雑穀荒物屋をしていた安居院家の養子となった。1842年54歳の時に、下野国桜町陣屋に居た二宮尊徳を訪ねた。面会はできなかったが、仕法等を学んだ。その後、尊徳の教えを伝え広めるために大阪まで旅をし、59歳の時、浜松地方を中心に報徳社を創立した。1863年75歳の生涯を閉じた。墓は、浜松市の浄土宗・玄忠寺にあり、秦野市元町の妙相寺が安居院家の菩提寺である。」💛現代語版の『安居院義道』は大日本報徳社で取扱い中です。
2024.06.12
【脳への適度な負荷で効果抜群!】「頭のダンベル」と称される最強の知的インプット法とは?6/11(火) 京都大学客員准教授の故・瀧本哲史氏*瀧本 哲史(たきもと てつふみ、1972年1月22日 - 2019年8月10日)は、日本のエンジェル投資家、経営コンサルタント。京都大学産官学連携本部イノベーションマネジメントサイエンス研究部門客員准教授、株式会社オトバンク取締役、全国教室ディベート連盟副理事長等を歴任した。・1996年に始まったディベート甲子園の基礎を築いた一人で、運営団体の全国教室ディベート連盟理事、事務局長等を歴任・2019年8月10日、病により東京大学病院にて逝去(享年47)・2020年8月26日、NHKクローズアップ現代+において「2020年の世界を生きる君たちへ~投資家 瀧本哲史さんが残した“宿題”~」放送『読書は格闘技』という著書において、「書籍を読むとは、単に受動的に読むのではなく、著者の語っていることに対して、『本当にそうなのか?』と疑い、反証する中で自分の考えを作っていくという知的プロセスでもある」「読書は格闘技」という考え方に立つと、「良書」の定義も変わってくる。普通、良書というと、書いてあることが正しいものであり、正しい考え方であると思われる。しかしながら、書いてあることに賛成できなくても、それが批判するに値するほど、一つの立場として主張、根拠が伴っていれば、それは良書と言える。私は筋金入りの資本主義者であるが、そうした立場からしてもマルクスは読むに値する「良書」と言えるのだ──心をつかむ、組織論、グローバリゼーション、時間管理術、どこに住むか、才能、マーケティング、未来、正義、国語教育の文学等々、今を生き抜くために知っておくべきテーマについて、立場の異なる「良書」を能動的に読み、自らの考えを新たに形成していく。格闘技としての読書体験を通じた、実践的な力が身に付く読書術とは何か。ここだけは押さえておきたい5つの要点【1】本と格闘するときには、その本を最悪の形で理解して批判するのではなく、一番良い意義を持つよう善意に解釈した上で読むべきだと思う。【2】古典はその時代性、地域性を超えた普遍性を抽出することによって、逆に今、この場所で使える武器に作り替えることができるのである。【3】人は環境が要求する分だけ発達する【4】真に良い本というものは、時間をおいて、何度も読まれる。そして、読者の成長によって、同じ本でも読みが深まっていく。その本が書かれた背景を理解することで、隠れたメッセージが後になってわかることもある。【5】「読書は格闘技」だとしたら、「読書は感想戦」という考え方もあるだろう。一冊の本を読み終えた後に、自分なりに読書体験を振り返ってみるという行為である。あるいは、同じ書籍を読んだ人と議論を戦わせたり、他の人に本を紹介して、反応を見てみるのも、「感想戦」たり得る。瀧本哲史伝説の東大講義
2024.06.11
奥歯失うと認知症になるリスク増加か 九州大の研究グループ6/10(月)奥歯のかみ合わせが失われるとアルツハイマー型認知症の発症リスクが高まるという研究結果を、九州大の研究グループがまとめた。2040年に高齢の認知症患者数が584万人になるとの推計もある中、研究グループは奥歯のかみ合わせの維持が認知症予防につながると指摘している。 九州大大学院歯学研究院の鮎川保則教授(歯科補綴=ほてつ=学)らは、複数自治体が参加した健康関連データベースから、17年4月~20年3月のレセプト(診療報酬明細書)を分析。65歳以上の約2万2000人について、奥歯のかみ合わせがそろった箇所の数と、アルツハイマー型認知症の診断時期を照らし合わせた。 その結果、奥歯のかみ合わせが全てそろっている人に比べ、歯の欠損でかみ合わせが一部失われた人は、認知症の症状が1・34倍表れやすかった。前歯も含めてかみ合わせが全くない人だと1・54倍高かった。 鮎川教授によると、食べ物を細かくかみ砕く能力は、奥歯を1本失うと半減し、総入れ歯では通常の3割程度に低下する。 今回の研究で奥歯の喪失と認知症の進行との因果関係が特定されたわけではないが、鮎川教授は奥歯の喪失により▽脳血流の減少▽栄養状態の低下▽会話困難や自信喪失による社会活動の低下――が進み、認知症の進行リスクが高まるとみている。研究結果は今年1月発行のアルツハイマー病に関する専門誌に掲載された。 鮎川教授は「定期検診や口腔(こうくう)ケアで自分の歯を大切にし、もし失っても入れ歯やインプラントなどでかみ合わせを回復してほしい」と話している。
2024.06.11
「遠州と故郷の安居院庄七像」井上静男 「秦野市史研究」第25号p.1(2006.6)「遠州と故郷の安居院庄七像」その1「遠州と故郷の安居院庄七像」その2要約すると、相州小田原領に二宮金次郎と云う人があり、報徳窮民撫育の事を始め天竜川西(下石田)に報徳社が出来たことを嘉永元年(1848年)4月27日沢田村又六から聞いた。その内容は、毎月報徳連中は三度会合し、各人の為になることを考え、衆議にかけ然るべきことを決める。休日には連中所々の道路を作る。連中天下泰平御礼の心得にて毎夜縄一房ずつ藁をよくたたき、五十尋(一尋縄一間)にたばみ二文ずつ安く売り代金は窮民撫育金に積む。また不用品を売り払い積み置き、その金を無利足五ヶ年返済にて借金のある者に貸し、尤も六ヶ年目一年分右礼金として差出す。田地開発を専一とする、以下略。嘉永元年(1848年)5月上旬、掛川十九首町の中屋八郎太夫が来、色々の話の中、流産をする婦人が多いが、なんとか正す方法はないかと言うことや、何か良い話は無いものか等の中で、報徳の話が出た。その内容を知りたいものだと佐平治が言うと、その先生ならば隣家の松屋(宿)に来ると八郎太夫の言葉に、それは好都合是非その先生が見えたら連絡してくれと依頼しておいた。5月19日中屋八郎太夫から書簡が届けられた。「尊君様と御噺仕候二宮先生御門人、相州大山麓にて蓑毛村安居院庄七様、浅田勇次郎様御両人昨夜当所まつ屋へ御入来被成候」と 岡田佐平治は右書面を見るや否や松屋へ出掛けた。松屋の亭主及び佐平治の三人で面会、最初の中は只々世間の善事話で本論に入らず昼過ぎ報徳の話に入った。 その時、三種の歌を示し、意向を問われた。 一 飯としる 木綿着ものは身を助く 其の余は我を 責むるのみなり 二 日々日々に積る 心のちりあくた 洗い流して 我を尋ねん 三 梅の木は 根も梅なれば種も梅 枝も葉も梅 花も実も梅いわば今日で言う面接テストである。 佐平治の答は 一 この歌は天の御めぐみを思い 万事倹に致すことと存候 二 この御歌は悪念を払い尽し大道に至る場合と存候旨申上候 三 この御首は大道の姿を得心いたし、真実に行をつとむる場合仮令うはべはにて中は銅にては不可然、外も誠、内も誠いわゆる金むくの儀にと存候旨申上候と。 三首に対する回答を述べている。 これに対し、庄七は「誠如斯」と満足の意を示した。その心得あるならば報徳の話をしようと。 かくて、嘉永元年12月牛岡綱組報徳社の発足となる。 年齢的には、庄七は既に還暦に手が届かんとする時である。 これ以降、報徳社の数は着実に増加した。 再び安居院庄七頌徳碑文を借用すれば「文久三年浜松に客死するに至る迄江勢三遠駿の各州に来訪し・・・社を結ぶ者六十」と庄七の東奔西走する報徳使徒の姿を伝えている。 庄七のこの行動成果は大日本報徳社(大13年)を生み出す原動力となり、戦時中までは間違いなく日常生活での指針とされたと見ることが出来る。 庄七がいなかったら、あるいは「報徳は昔報徳在りき」と歴史的事実の記載に終り、後々の生活に影響を与えることはなかったと考えられる。 さてここで庄七の報徳仕法について見てみたい。 同じ仕法でも、二宮尊徳は領主権力に委任を取り付けた、言わば行政的仕法であった。庄七のそれは地域の豪農地主層等を指導者とし、お互いの自治的結び付きで組織された地域名を冠した〇〇報徳社と称した。いわば結社的仕法である。 この仕法の決定的差が見られたのが、明治維新である。 庄七が逝って八年、同四年(1871年)廃藩置県が実施された。尊徳の高弟富田高慶はこの頃相馬藩仕法に取り組んでいたが、藩は解消、仕法は自ら衰退した。上からの仕法の辿る運命であった。 富田高慶の「報徳記」明治13年(1880年)、福住正兄の「二宮翁夜話」は明治19年(1886年)天覧に供され、普及版も作られた。 尊徳に接近する機会の少なかった庄七にこれを求めることは無理であろう。だが、庄七はこの二人の高弟に成し得なかった事を成し遂げた。遠州を始めとし数州の村々の人の心に報徳の杭を打ち建てた。「遠州報徳の開祖」と言われる所以である。 何時どんな時代でも心の杭を忘れず持ち続け協力して行く処には、報徳の教えは強力な活力を維持して行く。 乱杭の 長し短し人心 七に三たし 五に五たすの十 とは庄七の教えである。 目を教育に転じると、国は国民皆学を規め明治33年(1900年)就学年限4年、無月謝の完全義務教育を確立し、就学児童も増加した。、 必要な教科書は民間に委ねられていたが、明治35年教科書疑獄事件が起り、県知事等157名が検挙された。翌36年小学校の教科書国定化を決定し、37年国定教科書使用となった。以来教科書での二宮金次郎登場頻度数は民間人としては最多数で、全国津々浦々に浸透した。 これも前記富田高慶、福住正兄の著書等の影響であることは否めないが、庄七の精力的な報徳の浸透濃度を見失うことがあってはなるまい。 日々代々生活の主柱として信奉してきた人物の実像が文字であると言え、伝えられたことには多大な関心を寄せたことであろう事は想像できる。 この両者の相乗価値は尊徳の人物普及に大きな影響を与えたと見る。 文字での像を実像として表現したのが各小学校で見られる「二宮金次郎少年像」である。 それは単なる学校教育の環境の一部ではなく、教育そのものの表現である。 銅像建立の要因を見ると、それを知ることが出来る。 銅像建立寄付者の言葉を借りれば、「」幼なくして貧の中に生活し、親を手助けし、小遣いを貯め、苦労し勉強し、社会に出てからも汗水流し節約し、どうやら一人前の生活を送ることが出来るようになった。これも偏に親から、学校から報徳精神を教えられたおかげである。その意味で感謝し恩返しにと思い立った」と。 寄付者の心に報徳の教えが生きているのである。或いは言う。「小遣いを貯め無駄遣いをやめ、皆で資金を作り、学校の先生にも協力を貰い銅像建立の資金を作り協力一致して建てよう」と。 単に必要だからと授業用備品を購入することとは大きな違いがある。 郷土の庄七像 この偉大なる功績を残した庄七の故郷での評価はどう映っていたか。 占領下、庄七の菩提寺(無住で他寺の僧が兼務)の兼務僧寺を訪ねた時、老僧は庄七の法号「安居院仁誉弘道集義居士」を指差し、「院号ですね。佳い法号ですが、一体どんな方ですか」と逆に質問を受けた。 まだ研究調査も浅く、知っている限りを話した。 兼務僧なのでその時は別に知らないのも無理ないと思った。 その後何回か兼務僧寺を訪ねた。 庄七の妻にヒサの法号を見た時である。「秋月妙浄尼」とあり、安居院藤吉の母とある。まさしくヒサは藤吉の母であることには相違ないが、ヒサの逝った万延元年(1860年)7月8日と言えば、庄七は生存していrのである。 それこそ遠州各地を精力的に走り回っていた時期である。 善意に解釈し、恐らくヒサの件は通知したであろうが、遠路のこと間に合わなかったことであろうと思うが、夫である庄七の名がないのはと。この面の知識のない筆者とっては不思議に思えた。 庄七は三年後の文久三年(1863年)8月13日、浜松の門人田中五朗七方で75歳の生涯を終えた。 因みに藤吉の命日は文久三年七月二十九日、庄七に先立つこと半月程前のことである。年齢は詳らかでない。 嘉永6年(1853年)8月10日、庄七65歳の時岡田佐平治、神谷與平次の子久太郎、影森村内田啓助、気賀町竹田兵左衛門、同藤井藤太夫、森町中村常蔵、同山中利助のいわゆる遠州報徳七人衆と尊徳を訪ねる為、日光に向い出発した。 一行の内、佐平治、久太郎、利助、常蔵は庄七の実家密正院を8月23日に訪ねている。庄七の婿入り先の安居院家はその道筋にある。恐らく、この日あたりに安居院家を訪ねたと思われる。 遠路訪ねて来た一行を迎えたヒサの態度は必ずしも適切ではなかったと言う。それも無理のないことで、家のことは妻や若い者に押しつけ、自分は他国で勝手な仕事をしている。 その内容も当時では知る由もなかったことであろう。 然し佐平治から遠州に於ける庄七の活躍の様子を伝えられヒサの気持ちも和んだとは言われている。 この時庄七の孫に当るミス(藤吉四女、嘉永2年12月12日生)は5歳であったが、庄七が逝った文久3年には15歳になっている。 この間、庄七の風貌にも接しており、また家族間で庄七の話題でもあったとすれば、記憶にも残っているだろうと思われるが、ミスが家族に語ったことは、二宮金次郎と一緒に仕事をしていた程度の内容で細かいことは何も語っていない。 ミスは後に婿をとり、庄七を知る安居院家最後の人となった。 大正7年(1918年)11月18日、庄七に従五位を贈られた。 横浜貿易新報は三回程関係記事を伝えた。その一つに「贈位者の後裔は八百屋」の見出しで県の大森係官が調査し、複数の申し出の中、八百屋商の安居院であると判明したとある。 その頃安居院家は秦野町(十日市場)商店街四ツ角で「磯屋」の屋号で乾物商を営み近隣に親しまれていたが、庄七とは結びついていなかった様である。 大正8年7月16日の同新報は県庁で14日拝受の記事の中、「安居院とら方に養子に入りたるが間もなく家出して静岡県にて生涯独身にて熱心に二宮尊徳翁の遺訓を伝達し、今より62年前逝世せるなり」とある。 故郷で庄七がどんなふうに受けとめられていたか窺い知ることが出来る記事である。
2024.06.11
後藤 静香 日めくり 11日激励の声 立て この手にすがれ 失敗しても 全部が消滅してはいない こまらなくていい 行けるところまで行け 失望するな 世界はひろい 立て うしろに強いものがいる後藤 静香(ごとう せいこう、1884年8月17日 - 1971年5月15日)は、大分県出身の社会教育家、社会運動家。蓮沼門三の「修養団」に傾倒し参加。格言や偉人伝、寓話などをわかりやすく解説した雑誌をいくつも発行。代表作である詩集・格言集『権威』は100万部を越えて、当時の青年、教育社、労働者に愛読され、熱狂的な支持を得た。「現代語訳 安居院義道」p.24一、家系と生い立ち 安居院庄七先生は、相模国大住郡大山の生まれである。現在は神奈川県伊勢原市の阿夫利神社のこと、その本山の修験(しゅげん)密正院の香感法印がその先祖であって、中古、藤原長洛法印の代に至って、大山山麓の蓑毛村におりて居住した。その六代を権大僧都(ごんだいそうず)密正院藤原秀峰法印といい、実に氏の父である。特に諸道に通じた碩学(せきがく)の人と称せられ、天保八年(一八三七)七月十一日八十六歳でなくなった。その妻を「サノ」といい、同国笠久保村(伊勢原市笠窪)添田儀右衛門から嫁に入り、三男二女をあげた。長男はすなわち秀英法印で先生の長兄で家をつぎ、次は女子で江戸本多佐渡守の藩中の新井万方に嫁に入り、その次はすなわち本書の主人公である庄七先生であって、三男は勇次郎氏で、有信(ありのぶ)と称し、浅田を苗字としている。 先生は通称庄七、諱は義道(よしみち。ぎどう)、字(あざな)は蘆翁また乾坤齋と号し、寛政元年(一七八九)某月を以て密正院の家に呱々(ここ)の声をあげた。 それから幼年青年と壮年期に至るまで、何ら伝える所を聞かない。大正の時代に至って同地に報徳社が結成されるに及んで、同地の桐生庄之助君を煩わして、更に社長でかつ当主である勇三君を訪問し、調査をしたが、残念ながら何ら伝えるものを聞かない。ただ同家は従来朝田を苗字としたが、維新後は神成(じんじょう)に改めたと記録にとどめたに過ぎない。(明治四十二年五月三日同家を訪問し一泊)💛天保8年に父が亡くなり兄が後を嗣いだ事で、その後、先生は生家の朝日家(明治維新後、神成家)を出て、十日町市場の穀物商磯屋に婿入りしたのではあるまいか?そのように想定すると天保3年大山講の回村で二宮先生の大名を聞き、その説諭を聞きたいと憧れ、天保11年の小田原仕法の際に弟の勇次郎と竹松村かどこかで仕法書を書写し、天保13年桜町陣屋に出向いた。「地元の話では、数人の子供がいる所へ婿に行ったので相当の年配ではなかったかと言われている」横浜貿易新報の大正8年7月16日記事に「安居院とら方に養子に入りたるが間もなく家出して静岡県にて生涯独身にて熱心に二宮尊徳翁の遺訓を伝達し、今より62年前逝世せるなり」(「遠州と故郷の安居院庄七像」井上静男)上記の記事からすると、天保12年頃婿入りし、天保14年に報徳伝道に出たように推測される。💛現代語版の『安居院義道』は大日本報徳社で取扱い中です。
2024.06.11
認知症グレーゾーンでも認知機能が平均34%アップした「すごい歩き方」とは?6/10(月)「インターバル速歩」インターバル速歩とは、筋肉に負荷をかける「さっさか歩き」と、負荷の少ない「ゆっくり歩き」を交互に繰り返すウォーキング法の一つ。筋力や持久力を無理なく高めることができる中高年向けのトレーニング法として、信州大学大学院特任教授の能勢博先生らが提唱しているものです。高齢者を対象にインターバル速歩を5カ月間行ってもらった研究によると、参加した人の体力が平均6%向上したといいます。さらに、参加者のうち2割は認知症グレーゾーンと診断されていましたが、インターバル速歩を行ったあとは、認知機能が平均34%も改善されていたそうです(能勢先生が理事長を務めるNPO法人 熟年体育大学リサーチセンターの研究より)。また、インターバル速歩は、認知症および認知症グレーゾーンの危険因子とされている生活習慣病やうつ(第6章参照)、睡眠障害(第5章参照)、骨粗しょう症などの改善にも役立つことが明らかにされています。■インターバル速歩のやり方(1) 3分間「さっさか歩き」をしたあと、次の3分間は「ゆっくり歩き」をします。(2) (1)を1日5セット以上行います(1セットずつ、時間を空けて行ってもOK)。(3) 週4日以上を目標に行い、5カ月以上続けます。さっさか歩きは「ちょっとキツい」と感じる程度が目安。ゆっくり歩くときは、呼吸を整えながら、自分にとって「ラクなペース」で。ただし、目線や姿勢、歩幅などは、次のページの図で示した正しいフォームを崩さないように意識しましょう。インターバル速歩によって太ももの筋力が向上すると、転倒予防にも役立ちます。最近は、インターバル速歩の歩く速さを切り替えるタイミング(3分)を教えてくれたり、歩行ペースを記録できるスマートフォン用の無料アプリもあります。ストップウォッチや腕時計でもよいですが、歩くことに意識を集中するうえでは、スマホアプリを使ったほうが便利です。便利なアプリも! 話題の「インターバル速歩」効果が上がるポイントは?「インターバル速歩」は、ゆっくり歩きと速歩きを繰り返すトレーニング方法。まずは3分5セットを週4回を目安に試してみましょう。効果を上げたいなら、歩く前後どちらか30分以内に、糖質+乳タンパク質をとるのがおすすめ。「速歩き」は、少し息が上がり、人と楽に会話できないくらい、ややきつく感じる速さで歩きます。普段より、3㎝ほど歩幅を広げましょう。背すじを伸ばし、顔を起こして25mほど先を見ながら、足指でしっかり地面を押すように歩くと、速く歩けます。これを3分続けます速歩きのときは、脚を後ろにしっかり伸ばし、体でいちばん大きな筋肉があるお尻が使われているのを意識するのがポイント歩く前後どちらか30分以内に、糖質+乳タンパク質をとる インターバル速歩の前後どちらか30分以内に、乳タンパク質と糖質をとると、さらに効果的。「歩く前後どちらかに牛乳をコップ1〜2杯(約200〜400㎖)飲むと、筋力向上や、生活習慣病の改善効果が上がることが実験で判明しています。牛乳でなくても、BCAAが強化されたアミノ酸飲料や、ヨーグルトとジャムや、チーズとクッキーなど、乳タンパク質10gと糖質20gをとればOKです」 午後3時〜6時に行うのが理想的 「インターバル速歩を行うのは午後3時〜6時が特におすすめ。朝からの活動によって体温が上昇し、筋肉がいい感じにほぐれているので、肉離れやアキレス腱の断裂などといったケガを起こしにくいからです。また、朝の運動は体を活動モードに切り替えるスイッチの役割をし、体温を一気に上げて代謝を高めるので、朝でもOK。ただし、ストレッチなど準備運動をよく行なってから始めましょう」インターバル速歩のアプリを利用すると便利! 能勢博先生の監修で開発されたアプリ「インターバル速歩」(無料)を使えば、ゆっくり歩きと速歩きのペースを変えるタイミングを、アラームで教えてくれるので便利。歩数や消費カロリーの表示機能も。体力を測定し、最適な運動の目安を算定する機能や、直近1週間の運動履歴を確認できる機能もあるので、インターバル速歩を行うならおすすめです!
2024.06.10
超加工食品が脳に与える悪影響 「脳卒中」「記憶力低下」リスク増加、ハーバード発表6/10(月) ハーバード大学らの研究グループは、「清涼飲料水、ポテトチップス、クッキーなどの超加工食品*を多く食べる人は、あまり食べない人と比べて記憶力や思考力の問題や脳卒中のリスクが高い可能性がある」と発表中路先生:今回紹介する研究はアメリカのハーバード大学の研究グループが実施したもので、研究結果は学術誌「Neurology」に掲載されています。研究グループは、45歳以上の成人3万239人を平均11年間追跡しました。参加者のうち、認知機能低下については1万4175人、脳卒中については2万243人を調べ、両群とも認知機能障害や脳卒中の既往歴はありませんでした。研究終了時までに、768人が認知機能障害、1108人が脳卒中と診断されました。研究の結果、超加工食品を食べる量が10%増えると、認知機能障害のリスクが16%高くなることがわかりました。未加工または最小限の加工食品を多く食べることは、認知機能障害のリスクを12%低下させることも判明したとのことです。また、研究グループは、超加工食品の摂取量が多い人は脳卒中のリスクが8%増加する一方、未加工または最小限の加工食品の摂取量が多い人は脳卒中のリスクが9%減少することも明らかにしています。研究グループは、今回得られた結果について「食品加工は既知の危険因子や推奨される食事パターンの遵守とは無関係に、高齢者の脳の健康に重要である可能性がある」とコメントしています。*超加工食品(ultra-processed food)は砂糖、脂肪、塩分を多く含み、タンパク質や食物繊維が少ない食べ物具体的には、清涼飲料水、塩分や糖分の多いスナック菓子、アイスクリーム、ハンバーガー、ベイクドビーンズの缶詰、ケチャップ、マヨネーズ、包装されたパン、味付けされたシリアルなど一方、超加工食品の対極にある未加工または加工度の低い食品には、牛肉、豚肉、鶏肉などの肉類、野菜、果物などが挙げられています。More evidence that ultra-processed foods harm health2023年5月23日超加工食品は脳の健康悪化につながる -包装されたシリアル、冷凍食品、お菓子など超加工食品を多く食べる人は、これらの食品をあまり食べない人に比べ、抑うつや不安を感じる確率が高く、認知機能低下のリスクも高い可能性がある。
2024.06.10
<光る君へ>本音ぽろりの柄本佑“道長くん”トレンド入り 吉田羊“詮子”との姉弟のやりとりが癒やしに6/10(月) 詮子「あんなに激しく求めあう2人の気持ちがわからないの。お前にはわかる?わからないわよね」道長「私にも妻が2人おりますが…心は違う女を求めております」詮子「やっぱり!誰かいると思っていたのよね」道長「されど、もう終わった話にございます」詮子「捨てたの?」「えっ!?道長を捨てるって、どんな女なの?」道長「よい女でございました」詮子「まぁ…!」「どんなふうによいの?」「なによ、自分から言い出しておいて。もっと聞かせなさいよ!」
2024.06.10
『源氏物語』はどのようにつくられたか?―林望『謹訳 源氏物語 一 改訂新修』『帚木』の巻の中核をなしている、いわゆる「雨夜の品定め」という部分は、この第一部に展開されるさまざまの恋物語のモチーフを提示するという意味を持っている。左馬頭という、この品定めの主導者は、驚くべき率直さと、無類の饒舌を以(もっ)て、滔々(とうとう)と女性論を演説し続ける。その色好みの博士とも言うべき饒舌のなかに、男女の関わり方の、いろいろな形が現われてきて、それを源氏は、半分狸寝入りなんかしながら、ただじっと聴いているということになっている。ここで源氏が耳にした「女の諸相」が、その後の、空蟬、夕顔、紫上、末摘花、花散里、明石の君、そのほかの「意外性のなかに発見された女たち」となって、造形され、展開されていくことは、たしかに認めてよい。帚木の巻は、そういう意味で、多くの登場人物の出現をそこはかとなく予告するという意味を持っている。こんなふうに、左馬頭やら藤式部の丞やらの口を借りて語られる、かなりコミカルで時にしんみりした饒舌のなかから、深刻にして重厚な源氏物語の世界が紡ぎ出されてくることを思うと、ちょっと面白い。しかも、藤式部の丞の語った博士の娘、などという奇矯なる女の描き方を読んでいると、もしやこの人物像のいくぶんかは、紫式部自身の戯画化であろうかとも思われて、ますます興味津々たるものがある。そう思って見ると、藤式部という人名には、どこか紫式部との近縁を思わせるところがあるとも見えるのである。💛林望先生の語り口と切り口の斬新さも面白い「イギリスはおいしい」など、イギリス滞在中のものがたりは意外な発見もあり面白かったリンボウ先生インタビュー(前編) 「思い通りにいかない人生」との付き合い方私が生まれ育った林家には祖父以来、いくつかの家訓がありましてね。つねづね言い聞かされていたのは、「親と同じことをするな」ということ。それから、「子は親を超えよ」というのでした。さらに父雄二郎は、「好きなことを好きなようにやればよろしい。ただし、やるからには中途半端ではなく、徹底的にやれ」と言ったものでした。・・・高校を卒業して大学進学を考えたとき、「将来は国語の教師になろう」と心に決めて文学部以外の学部は受験しませんでした。幼少期から本の虫で、図書館に入り浸るような子どもだったかというとそうではなく、日本の古典文学にも特別親しみを感じていたわけでもありませんでしたが、不思議にそれ以外の選択肢は考えもしませんでした。・・・大学院時代には、東洋書誌学研究の第一人者の阿部隆一先生に師事し、慶應義塾大学の附属研究所斯道文庫の研究員になる道も志しましたが、これも2回チャンスがあったけれども、2回とも銓衡に敗れてしまって果すことができませんでした。その挫折がきっかけとなって、私にイギリス留学を決意させたのです。日本でダメなら、異国の地で書誌学者としての自分の力を認めてもらおう、そんな背水の陣のつもりで日本を離れたのです。私がまだ学部の学生だった時分に、明星大学が八王子のキャンパスに新図書館を開いてシェイクスピアのコレクションを購入したのですが、その開館記念の特別講演会に英国図書館の東洋文献資料室長のケネス・ガードナー氏の講演を聞いたことがあって、そのときの話の内容を覚えていたというのがイギリスに行こうと思ったきっかけでした。本来、この講演会に招待されていたのは父でしたが、父は行かれないというので私に名代として行ってくるといいと言って招待状を手渡されたわけです。いくつもの幸運と、私を評価してくださる方々の援助があって、ロンドン大学アジアアフリカ学部図書館とケンブリッジ大学中央図書館は目録の編纂を私に任せてくれました。特に、ケンブリッジでの目録作りは1年間で1万冊の文献を調べ上げるという過酷な条件での仕事でしたが、日本で果たせなかった思いを晴らしたいという一念で取り組みました。実働250日とすると、1日に40冊ずつ調べなければならないのですから、時間との闘いです。とにかく、働きづめに働いて、最後の1冊を調べ終わったのは、帰国予定の前日の午後4時というギリギリのタイミングでした。その後、『ケンブリッジ大学所蔵和漢古書総合目録』は、国際交流基金から国際交流奨励賞という格式ある賞をいただきましたが、当時の苦労がむくわれたと感激したのを覚えています。私の勤務先だった東横学園女子短大には栄養士会という団体があって、イギリスの食物事情について帰朝者として講演をしてくれないかと依頼されたのです。そこで私は、どんな話ができるかという「メニュー」を書いて渡しました。そう、最初はただ話のネタを書き並べただけの、お品書きだったのです。それが『イギリスはおいしい』という本に化けたのは、その講演が「学内の教員に講演料を払うような前例がない」という不可解な理由で立ち消えになったからでした。そのまま捨ててしまうのはもったいないと、薦められるままに文章にしたものが慶應義塾の大先輩の平田萬里遠さんの目にとまって、何社もの編集部に出版の話をしてくれましたが、どこも断られ、最後に平凡社が出版してくれることになり、その予備段階として『月刊百科』という宣伝雑誌に短期連載したものが、丸谷才一さんの目に留まりなどして、あれよあれよという間に出版に向けて話が進んでいったのです。・「イギリスはおいしい」からスコーンの作り方とコツビクトリア時代から変わらないスコーン作りの王道林先生の紹介するレシピ(先生の表現ではレセピ)小麦粉(薄力粉) 220gベーキングパウダー 小さじ2杯半砂糖(ブラウンシュガー) 大さじ1杯〜1杯半塩 1つまみバター(有塩) 40g牛乳 140cc卵黄 1個分・バターは室温の柔らかい状態で用いる・小麦粉とベーキングパウダー、それに塩と砂糖をボウルに入れて、ざっと混ぜ、全体を粉ふるいでよくふるっておく(もっともふるわなくとも大過ない。その場合は、スプーンやヘラなどでよくよく混ぜるということが肝心だ)【スコーンミックスを使えば楽ですね。】・そこに室温のバターを落として、(中略)両手の指先をよく動かしてバターを粉に混ぜ込む(中略)。すなわち「ラブイン(rub-in)」するということが、なによりもこのスコンの出来具合を左右する。【ラブとは”こする”という意味で、LOVEとは発音が違います】・これが全体的に「砂」のようなサラサラ具合になるまで、指先だけをもちいてよくこなし込むことである。手のひらを使ってはいけない。それはバターを無用に融かしてしまうから。【バターが溶けないうちに手早くこすり合わせるように両手の指先で潰して、小さなフレーク状にするのがかなりの力仕事になります】・そこに牛乳をそろそろと混ぜ込み、ゴムベラなどで全体を均質に、混ぜ合わせる。・それをのし板の上にあけ、ちょっと粉を振ってほんの数回ていど軽くニードする。【ニードとはこねることですが、スコーンはこね過ぎるとだめなので、二つ折りにして手の平でグイと押し延ばすのをサッサッサと数回繰り返します】・その生地をのし棒で手早くのし、2センチていどの厚さにもっていく。それを丸い型(直径4〜5センチ)で抜く・いよいよ焼くという手順(中略)ベイキングシートを敷いた天板に、きっちりと隙間なく並べる。この隙間なく並べるというところがミソ・焼くこと190度で12分〜15分程度・狐色に焼け色が付き、全体がホックリと膨れて、スコーン独特の「狼の口」が開いたら、出来上がりである。【焼けて来ると、生地の横腹あたりに割れ目が生じ、それが膨れるにしたがって、ムガーッというように開いてくるのを「狼が口を開いたような」と表現するそうです】
2024.06.10
地中海式ダイエット、女性の死亡リスクを減少させる!? 2万3000人超の調査結果 米大学が研究6/9(日)地中海式ダイエットが、女性が早死にするリスクを減少させる可能性があることが分かってきた。今回の研究調査で、フルーツ、野菜、魚を多く摂取している女性は、赤肉を食べ、ビールを飲む女性に比べて長生きをすることが判明した。米国で、45歳以上の健康な女性2万3000人以上を対象に血液サンプルを取り、食事と飲み物の消費に関する質問に答えてもらう研究が実施された。 地中海式ダイエットに近い食生活かどうかで、0から9までのポイントに振り分けたところ、ポイントの高い被験者は、身長、体重、その他健康面を考慮に入れてもあらゆる原因での死亡リスクが有意に下がることがわかった。 研究を指導したハーバード大学医学大学院のサミア・モラ教授は話した。「我々の研究は長生きしたい女性へ、自分の食生活を顧みなさいと言っています」「地中海の食生活のパターンが25年以上にわたる死亡リスクを4分の1減少させることが判明したのは朗報です」Women who follow Mediterranean diet live longerハーバード大学付属ブリガム・アンド・ウィメンズ病院の研究者らは、25,000人以上の米国人女性を最長25年間追跡調査した結果、地中海食*に忠実に従った参加者は、全死因死亡リスクが最大23%低下し、がんと心血管の健康にも有益であることを明らかにした。研究者らは、長寿を説明するのに役立つ生物学的変化の証拠を発見した。結果はJAMA誌に掲載された。ハーバード大学医学部教授で循環器専門医のサミア・モラ上級研究員は、「長生きしたい女性には、食生活に注意することが必要です。地中海食パターンに従うと、25年以上にわたって死亡リスクが約4分の1に減少し、米国および世界的に女性および男性の死亡原因のトップであるがんと心血管系死亡の両方に有益です」。*地中海式ダイエットは、植物(ナッツ類、種子類、果物、野菜、全粒穀物、豆類)に富んでいる。主なオイルはオリーブオイルで、通常はエクストラバージンである。魚、鶏肉、乳製品、卵、アルコールは控えめにし、肉類、菓子類、加工食品は控えめにする。
2024.06.10
後藤 静香 日めくり 10日支える力 いのちをかけて 仕事を してみよ 死なないことに おどろく かれは弱い しかし かれを支える力は つよい後藤 静香(ごとう せいこう、1884年8月17日 - 1971年5月15日)は、大分県出身の社会教育家、社会運動家。蓮沼門三の「修養団」に傾倒し参加。格言や偉人伝、寓話などをわかりやすく解説した雑誌をいくつも発行。代表作である詩集・格言集『権威』は100万部を越えて、当時の青年、教育社、労働者に愛読され、熱狂的な支持を得た。「現代語訳 安居院義道」p.21~23現代語版の『安居院義道』はしがき安居院義道(庄七)先生は相州の生まれ、報徳界の高弟で、早くから我が駿州・遠州の地に報徳の種を蒔きつけて育て上げた、第一人の開拓者である。その事蹟はしかし先生の晩年のことで、五十八歳から七十五歳の終焉に係る。その青壮年の経歴は残念であるが、全く不明であって、初老の時に商業に従事して最後に一敗地に落ちた時が、報徳への序幕となる。 しかしその失敗が幸いにも、二宮先生の報徳に縁を結ぶ機会となって大転換をしたのである。しかも天地をひっくり返したほど百八十度の逆転換をした。今までは勤・倹・譲を裏返しに着て、独酔的な良い心持ちで高歯の下駄をはいて歩いていた。つまずいてから、恐れ入ってはだしになり、怠・奢・奪を引っ込めて、表を出して着替えて見れば、一ちょうらの晴着で通用する立派なふん装である。 暫く陣容を整えてかかれば、本来の人物はまた光を放たずにはいない、報徳の先生として出発する。そして我よく二宮先生の道を広めんと唱えて、その郷里を去った。 以上のような先人の歩みは、ぜひ調べておきたい。出版するという考えもなく、書き綴っていたのが明治の四十二年から始まる。 資料を与えられた先輩は 高山藤七郎老、中遠袋井町の人、青年時代、 家道失脚のため、報徳式に取り直した権威者で、安居院先生の著及び説話は大体筆記してある。晩年遺稿として我が家憲の一書を残されている。また老は我が父と同年で、親交もあって特別に知遇をこうむっている。 竹村篤老、浜松在入野の人、若くして商業を浜松に見習い、その間より厚く報徳の道に帰依して安居院先生門下の人々に教えを受けてよく記憶している。また丹念に道歌のようなものは記録してあった。淡山先師(岡田良一郎)、安政六年二宮門を辞して以来、文久三年安居院先生没年まで最もよく先生を見ている。特に明治四十二年浜松において先生墓参追吊会の時、講演も筆記していた。 中上信英氏・静岡の人、「報徳」雑誌を発行して安居院先生の記事は多く載せられている。同雑誌は明治二十五年第一号を発行して同三十六年に五十六号を発行して中止された。また明治の末年、相模(神奈川県)中郡において井上福松氏等を中心として報徳の大運動が起こされ、私も各村ごとに講演し、時々安居院先生をはさんで対話したが、到るところ先生の事はほとんど知られていなかった。後に山田霞洲兄が十日市場の家について一端を聞き取ってくれた。 以上がこの伝記の全部であって、内容として貧弱なものであった。あるいは先人の余栄を傷つけるなきやと懸念して、空しく箱の底にしまっておいたのだが、昨年まとめてみたいと一大念願を起して、おいぼれの最後の努力を試みた次第である。 顧みて安居院先生が亡くなって今年で九十年(本書発行は昭和二十八年(一九五三))になる。この間に実に大きな変動が二回も起こっている。その第一回は明治維新の改革で、諸制が刷新されて、報徳の仕法は日光御神領をはじめとして廃止された。ただ安居院先生によって伝えられた民間同士の結合になる報徳社だけはお構いなしであって、ついで福住正兄先生、岡田淡山師等がその全力をそそがれたので、漸次隆盛に向かったことはうれしい。その第二回は敗戦日本の末路であって、根本的に取り除かれて、新しいアメリカ式の風になびかされている。加えるに混乱怒涛中にさまざまな思想が入り込んでいる。したがって報徳社徒の中にまで影響し、不振の状態におかれている。 今、安居院先生の伝記を出版しようとする事は、あるいは「落花深き所、南朝を語る」の評もあるかも知れない。しかし私は前に眺めて後ろに鑑みて、後に腹は切れない。あえてここに安居院先生の伝を編集することは誠に止むを得ないからであり、幸いに報徳社同志が、一顧されんことを切望する。 終わりに、この念願を不敏として河井社長は題辞を寄せて激励され、ついで神谷副社長は賛辞を尽し序文を投ぜられ、光栄の至りと肝に銘ずる。更に本社の中山、小野、太田の各位は陰に陽に援助をたまわり、いわゆる「死に花を咲かせる」の同情をこうむる。深く謝意を表する次第である。 昭和二十八年初秋 八十二老 鷲山恭平誌す💛現代語版の『安居院義道』は大日本報徳社で取扱い中です。
2024.06.10
◎神谷與平治君伝 報徳第53編 「骨くだけ身は粉になりてしまうとも立てし誠の心くじくな」とは神谷與平治君の述懐(略)君通称與平治、字名は森之正信と号す。本姓神谷氏に出て、遠江国旧長上郡下石田村の人なり。父は森時(略)安居院義道浅田有信相携えて伊勢太々万人講の事を以て遠州浜松に泊し尋ねて森時氏の敬神家たるを聞き、氏に勧むるに講社加入の事を以てす。氏直ちに応ぜずと雖もその翌年に至り長子森之をして二翁が再び神宮に参拝するに従わしむ。旅次数日二翁、君に説くに二宮先生報徳の教えを以てす。君ここに始めて報徳の趣意を知るを得て大いに感激しこの道を奉ぜんと欲し、行を終えて郷に帰るや、二翁を家に請じて、村内の有志を集め、報徳の良教を聴かしめ、遂に自村に一社を結び、鋭意精心同志協力して斯道を奉体す。これより以来、報徳の道各所に行われ、その教えに化せらるるもの漸く多く、遠州中六十余村盛んに報徳の教えを奉ずるに至れり。けだし君の力多きにありというべし。文久三年安居院翁の没するや、翁に代りて報徳の道を説くものなく、漸次衰微の色を呈し、あるいは単に借財返却法のみを以て、報徳の旨意と為し、分度推譲の旨を誤るものあるに至れり。君がて家兄(久太郎)に言う。「今や報徳の教えに化するもの、多からんとするに際し、またこの悲運に遭遇し、その本旨を誤りてやや衰色を示す。今にしてこれを矯正せずんば、恐らくは二翁の丹誠にもとらん。われ不敏と雖も二翁の訓諭に浴せり。豈に座臥傍観するに忍びんや。まさに各村を巡回してその教えを布説せんとす」。(略)初め安居院翁報徳田畑大益伝を著わし、先ず君に行わしむ。その法たる全く旧慣を改むるものにて、従って煩労多し。人皆なこれを厭う。君独りその煩いに耐え労を厭わず、田圃に縄を張りて稲株の離隔を整斉し、辛苦経営能くその法を守り行う。これに依りて遂にその収穫前日に倍するに至る。ここに於て人始めて、その法の佳良なるを知り、人々競うてこれに準拠するもの益々多し。ただその粒蒔きの法のみは虫害多きことの故を以て之を行うものなし。君またその理を研究し、年々試作をなせしに更に虫害を見ず。一反歩の収穫年々十苞に下らず。(略)広益伝を著し自ら序して曰く、それ農は天業にして殖産興業の原礎。国の要領なり。之を拡張するは。国民の義務にして。上は以て皇国に尽し。下は各自家政の富饒を計る。予れ先師の法に従い、農力を尽し。旧耕一反歩三俵の収穫を増して十俵の余に及べり。今天下の農をして。毎戸一反歩にして。必ず十俵の収穫あらしめんには。
2024.06.09
『報徳作大益細伝記』では、報徳田を一反歩作る仕法、報徳田の作り方、直播栽培のやり方、乾田・湿田の作り方、土肥の拵え方、乾田・湿田の草取り。大麦・小麦の作り方秘伝、大麦・小麦の肥料のやり方、耕作の仕方などについて場合分けしてマニュアル化しています。「私が、上方の山城・大和・河内の作り方から気づき、いろいろ考え、その方法で駿・遠・相・伊勢・近江などで耕作させたところ、だんだん収量が増えている。」「田畑に誠に念入れ手抜きなく、その時々を考え、肥料、起し方、鋤かき、草取りなど極々念入りに正直に行えば、一反歩につき米十俵ぐらいは収穫できる。」安居院庄七が関西の先進的な農業技術の伝播を報徳の教え、至誠・勤勉・分度・推譲と結合させ、試行させ結果が出た技術を普及させたことで、報徳の実践は現実的利益(田畑の収量の増加)をもたらしたのです。
2024.06.09
本町小学校玄関の西側に、高さ3m程の碑がある。この碑は、安居院(あぐい)庄七の功績を讃(たた)え、1919年〈大正8〉に建てられたものである。「遠州と故郷の安居院庄七像」その1「遠州と故郷の安居院庄七像」井上静男 その2 「秦野市史研究」第25号かく尊敬された庄七の足跡を辿ってみると、寛政元年(1789年)蓑毛村(秦野市)の密正院秀峰の次男に生れた。後に行を共にした浅田勇次郎は実弟である。 長じて曽屋村十日町市場(秦野市)の安居院家に婿入りをし、家業の米穀商(磯屋)を継いだ。 一攫千金を夢みて庄七は米相場に手を染め失敗し、金策に奔走していた時、耳よりな話を聞いた。二宮金次郎が低利で金を融通してくれると言うのである。この時勢そんな気徳な人がと半信半疑で、野州櫻町(栃木県)を訪れた。時に天保13年(1842年)7月2日のことである。 櫻町陣屋日記によれば 七月二日昼より雷大雨直に天気 相州十日市場磯屋庄七と申者田蔵相便り罷越候事とある。時に庄七、五十四歳。直接指導を受ける事はなかったが、尊徳との出会いは庄七にとっては人生の転機となり、かつ報徳が今日に継承される要因になった。 居ること二十余日、七月二十六日櫻町を離れ、郷里に向った。 この僅かの期間に報徳の教えに心酔し、新しい人生の生き方を発見した。尊徳の「心田開発即新田開発」の端緒を把握し、報徳の「我道は勤倹譲の三つにあり・・・三つは鼎足の如し一をも欠くべからず」の道を辿って行ったと言える。 帰郷するや今までの庄七の商法とは違った。予想も出来ない方法であった。仕入れ値段そのままの値段で小売した。儲けといえば糠、俵、くず米、縄を以てあてた。 安いからよく売れた。頌徳碑文を借りれば「年末に金十両を益し」とある。 庄七はこれを元値商と言った。後年「現金で元値限りに売る時は皆下げ銭で足はいとはじ」と教えたのも自らの体験を通したものである。 養家の再建に成功した庄七がなぜか家を離れ、河内国交野郡柳田口村(枚方市)に信心作兵衛と言われた万人講の杉沢作兵衛を訪ねた。万人講とは伊勢・春日・八幡に灯篭を寄進し、神楽を奉納し、或いは代参するなど、また、道路の修復をし、人々の便を図るなど、志を同じくする者を募り組織化した講である、 庄七は弟、勇次郎と万人講に加わり、やがて庄七は後継者となり活動した。 庄七の実家はもともと関東の霊山大山阿夫利神社の修験道の家であり、蓑毛は西側登山口として栄えた。 庄七の万人講参加もこうした環境と無縁とは言い切れない。 弘化3年(1846年)11月勇次郎は東海道藤川(岡崎市)に宿をとり、万人講の趣旨を説明し、協力者を宿の主に依頼したところ、下石田神谷與平治をあげた。 彼は苦労人で信心深い人物であると。早速、與平治を訪ね万人講への賛同を受けた。余談に入り、村民の窮状も甚だしく人々の心も荒み、これという策もなく途方に暮れていると、それなら二宮金次郎が始めた報徳があると、報徳の話になった。近頃にない良い話だと與平治は共鳴した。年の瀬も近いことであり、報徳については兄庄七がよく承知しているので、来春を約し辞した。 翌弘化4年春、庄七らは神谷與平治を訪ね報徳社結成の話を進めた。 協議相成り、いよいよ下石田報徳社結成となった。 結社運営のきまりとして「議定一札の事」として規定を作った。 要約すると次の通りである。(一) 朝晩農業に丹精し、縄ない草履など怠らず日常の冗費は一切慎み相談の上取り計ららうこと。(二) 御公儀の御法度は堅く守ること。いわゆる法律規則はしっかり守ること。天照皇太宮とか氏神様へは毎日怠りなく礼拝すること。 それから常に親孝行し師従の礼はわきまえる、家内は睦まじくする等が書いてある。また(一)お互い困った時は助け合うこととして無利息年譜にして貸し付ける方法とか中途止めた時は権利を失う。(二)休日は申し合せてみんな朝早くから出て昼前まで村内道路の整備をし、昼後は休む。(三)月の定例日を設け、村の為になることを話し合い、耕作の仕方、肥料の拵え方、手入れ等忌憚なく話題にすること等としてある。議定に農業に関することを入れたことも、おそらく庄七が万人講で農業の発達した畿内地方で体験した知識があったことからであろう。時に、庄七、五十九歳である。 これにより、村民の意識改革、生活向上の効果は近隣の噂となった。 この噂を最初に耳にしたのは倉真村(掛川市)の岡田佐平治である。 佐平治はその経過を「報徳聞書之第一番」として書き留めている。
2024.06.09
パリ五輪金候補 張本・早田 “はりひな” 今季初V!世界2位の韓国ペア破って優勝【卓球 WTTザグレブ】6/9(日) 混合ダブルス3位の日本ペアが同2位の韓国ペアと激突した決勝戦。通算成績は2勝2敗だが、今年の対戦では張本/早田が2連敗を喫し、世界ランクでも逆転を許している。パリ五輪で有利なシード権を獲得するためにも絶対に勝たなければならない一戦。先月の対戦では受け身になって敗れた日本ペアだが、今回は序盤からアグレッシブなプレーを見せる。途中イムのミスのないドライブに苦しんだものの、最後はイムのチキータレシーブに対して張本がフォアカウンターを決めて、第1ゲームを先取。第2ゲームは韓国ペアのペース。日本としては張本の攻めを起点にラリーを優位に進めたいが、シンの巧みなレシーブに阻まれ、あまくなった返球をイムに攻め込まれてしまい2-11の大差で落とす。しかし第3ゲームは早田が素晴らしいプレーを見せる。長短を混ぜたサーブでイムのレシーブミスを誘うとラリーでは鋭いバックハンドを披露。終盤にはチキータレシーブでも得点し、日本がゲームを奪い返す。続く第4ゲームは再び大差で奪われ、勝負の行方は最終第5ゲームへ。前半0-3からの5本連取で日本ペアが逆転すると、その後も張本が強烈な横回転チキータ、ぶつ切りの下回転サーブでイムのミスを誘って得点。最後も張本がチキータを決めて、韓国ペアにリベンジ。昨年10月のWTTコンテンダーアンタルヤ(トルコ)以来の優勝となった。<WTTコンテンダーザグレブ 混合ダブルス決勝>張本智和/早田ひな 3-2 イム・ジョンフン/シン・ユビン(韓国)11-9/2-11/11-8/3-11/11-6
2024.06.09
後藤 静香 日めくり 9日喜びの人安眠 今日も終わった はりつめた心をゆるめる 憩いのかねが鳴りひびく まぶたは静かに閉じ 脈拍と呼吸とが 平和のしらべをかなでる すべてを託し いだかれきった平和 目さめると うれしい朝が 新しい人を待っている後藤 静香(ごとう せいこう、1884年8月17日 - 1971年5月15日)は、大分県出身の社会教育家、社会運動家。蓮沼門三の「修養団」に傾倒し参加。格言や偉人伝、寓話などをわかりやすく解説した雑誌をいくつも発行。代表作である詩集・格言集『権威』は100万部を越えて、当時の青年、教育社、労働者に愛読され、熱狂的な支持を得た。「現代語訳 安居院義道」p.20現代語版の『安居院義道』安居院義道〇現代語版の『安居院義道』に寄せて 鷲山恭彦 安居院義道の肖像と書題字 序文 はしがき(鷲山恭平氏自序) ・・・・ 21 目 次一 家系と生い立ち ・・・・ 24二 安居院家を継ぎ商人となる ・・・・ 28三 野州に報徳を聞いて大転換 ・・・・ 35(参考資料)相州大住郡北秦横曽根村仮趣法・41 伊勢原市史資料編 続大山・・・・ 49四 信心作兵衛を訪ねて万人講へ ・・・・ 54五 万人講から報徳の開拓へ ・・・・ 64六 遠州報徳連代表七人日光に大先生を訪ねる ・・・・ 74七 先生の指導型と石田村の仕法 ・・・・ 80八 駿河遠州を家とし足跡点々 ・・・・ 92九 その人柄と才芸、逸話の数々 ・・・・ 103十 先生の臨終、葬儀とその遺物 ・・・・ 114十一 歿後の余韻 ・・・・ 126十二 浅田勇次郎氏伝 ・・・・ 136十三 先生の残された著作物等々 ・・・・ 144資料編156 1莫妄想157 2人間算当勘定1623報徳作大益細伝記166 4算法地方大成全194 5万作徳用鏡203【コラム】1 安居院はどう読むの?26 2 大山信仰と御師の経済生活27 3 青・壮年期の庄七34 4 農業協同組合の原点53 5 安居院兄弟の万人講時代の収入64 6 神谷與平治正信71 7 岡田佐平治72 8 新村豊作73 9 荒木由蔵91 10 後を継ぐ者(『二宮尊徳』)102 11 報徳作大益細伝記165 12 万作徳用鏡202〇あとがき 「現代語訳 安居院義道」を蔵書とする図書館(2024年6月8日)*新しく蔵書の図書館は太字国立国会図書館東京都立図書館 栃木県立図書館 静岡県立図書館 奈良県立図書館大学図書館20お茶の水女子大 鹿児島県立短大 鹿児島純心女子短大 関西国際大 九州大静岡大 静岡県立農林環境専門職大 静岡文化芸術大 大東文化大 日本女子大 福岡大法政大 横浜国大 酪農学園大 高崎経済大 宇都宮大京都大 岩手大 福岡大 北海学園大各県公共図書館福島県 新地町 会津若松市 相馬市 南相馬市神奈川県秦野市図書館 伊勢原市図書館 厚木市図書館 松田町図書館 相模原市相模大野図書館大井町図書館静岡県静岡市図書館 牧之原市図書館 富士宮市図書館 浜松市図書館1中央 2 中央 3 南 4 東 5 南陽 6 城北 貸出中7 舞阪 8 積志 9 天竜 10 春野 11 引佐 12 三ヶ日13 都田 14 雄踏 15可新 16 北 17 細江沼津市図書館 湖西市図書館 川根本町図書館 東伊豆町図書館 森町図書館 石川県 羽咋市鹿児島県 指宿市💛現代語版の『安居院義道』は大日本報徳社で取扱い中です。
2024.06.09
【バレー】男子日本が第4セットも奪い3-1で全勝中のスロベニアに勝利 VNL第8戦6/8(土)(VNL):日本3-1スロベニア>◇男子予選ラウンド第2週◇第8戦◇8日第1セットは、終盤に髙橋藍のサービスエースや好レシーブで一歩抜け出すと、相手ミスもあって逃げきり先取に成功した。第2セットはスロベニアに7本のブロックを決められ、ティネ・ウルナウトの連続サービスエースもあって落とした。第3セットは小野寺太志のブロックや西田有志のサービスエースで14-10とリードしたが、16-16で追いつかれたあとは一進一退。ジュースにもつれたシーソーゲームは最後、髙橋藍がネット際の二段トスを押し込んでものにした。第4セットは小野寺の得点でスタート。西田のバックアタックなど3連続得点で主導権を握り4-1。その後も西田、高橋藍らを中心に得点を重ねて終始リードした。 中盤は相手に打ち込まれる場面もあり17-16と1点差に迫られ、日本がタイムアウト。その後粘りのプレーで2連続得点を挙げると、19-17から山内のブロックで20点台に乗せた。終盤は石川のセットで高橋藍が打ち込みマッチポイント。最後は西田の一打で決めて3-1で勝利した。チーム最多26得点のオポジット(OP)西田有志「本当にタフな試合になりましたし、そこがやっぱりチームで勝てたところが良かったかな」「世界一のオポジットになりたいので、しっかりと努力していきたいなと思います」「こういうコンディションをずっと出し続けるところが、次にワンステップ進んでいく準備かなと思う。それができたかなと思います」報道陣「奥様でもある古賀紗理那選手へ良いバトンパスになったのでは?」西田有志「ね!」「彼女たちは彼女たちのバレーボールをやっているだけで、そこまでプレッシャーをかけずに、楽しめるような状態でやっていただけたらと僕は思っているので。僕はそれが一番楽ですし、多分選手としてもそれが一番楽なので」「結果を出した時にバンバン記事を出していただけたら。ぜひ皆さんもお力添え、よろしくお願いします」
2024.06.08
農家壁書米麦の為には寒暑の労をいとわず。その性を養う是を忠と云う。天地父母の命に負けず能く勤むるを孝と云う。老たるを敬い艱難窮乏を恤み農事に心を委ね諸生を憐む。是を仁と云う。一度諾して変ぜず。培養時をたがえず始終全きを義と云う。身に麁服をまとい、こやしを持運び、厭なく田畠に好味を遺し、作物を主親の如く敬いて譲退辞譲するを礼という。謀を陽春に回らし家族を励まし、試作取増しして国家に及ぼし人に勝るを智と云う。仮にも偽をすべからず。手ぬけすれば実り滅す。信を失うべからず。遠き慮りなきときは足もとに損あり。肥え過ぎるは及ばざるが如し。加減すべし。万事うまず屈せず力を尽すべし。過ちあらば改むべし。邪曲軽薄は至徳を失う、大酒は農事を怠り失多く事を欠く。色情の深きは家業を亡す。心ひがむは不情より生ず。嫉妬偏執は能く境の論より起る、おかすべからず。倹約を専らとし奢りを慎み、租税を重んじ、人費を見て我が身の弊風をなおすべし。我が惰農なるが故に壁書して慎みとするのみ。*農家用心集(下野)のうかようじんしゅう 一、飢饉は恐るべき一大事 二、農家の本業を大切にすべきこと 三、奢侈を戒めるべきこと 四、天候不順を警戒すべきこと 五、農家は万民の食を養うべきこと 六、飢饉に備え穀類・塩を貯蔵すべきこと 七、穀類の高値を騒がず農業に専念すべきこと 八、農業のかたわら木を植えるべきこと 九、田の水加減に心すべきこと 十、夏から冬に農家のなすべきこと
2024.06.08
「現代語訳 安居院義道」が大井町立図書館の蔵書となった。1 100796424 書架 大井 新着 157.2 ワ 新着神奈川県内のすでに蔵書としていただいている図書館松田町南足柄市伊勢原市秦野市厚木市横浜国立大学
2024.06.08
センターに行くと熊本大と鳥取大から「現代語訳 安居院義道」寄贈辞退の葉書が届いていた 残念(><)事前に大学図書館に寄贈の有無の照会を行い承諾の大学図書館に寄贈し現在21大学図書館の蔵書となっている秦野の曾屋小学校に安居院庄七顕彰碑が立っている 「秦野町有志者建つ」とあり誰が建てたか名前はない。「名前がないですね?」 「誰が此の碑を建立したかが問題ではなく、碑の人物は立派な教育者であり秦野の誇りである。これからの教育に於て第二、第三の庄七のような人物が出る教育をして貰いたいので、学校の庭に建立したのである」まさしく 「現代語訳 安居院義道」も次の世代の人々に安居院先生について知ってもらいたい、第二、第三の庄七のような人物が出てもらいたいと出版し、大学・公共図書館に寄贈しているのである。「遠州と故郷の安居院庄七像」井上静男 「秦野市史研究」第25号p.1(2006.6) に曽屋小学校の安居院庄七翁碑についての井上静男先生の文章が載っています。この年、井上先生は亡くなられているので、秦野市民への遺言となりました。大正八年(1919年)十一月七日安居院庄七翁頌徳碑を曽屋小学校に建立することが決定された。新報によれば、石は仙台石と言う。大正九年三月七日参列者五十余名の中、除幕式が挙行された。安居院庄七翁頌徳碑 所在地 秦野市文京町一-五 本町小学校 形態 碑面 最大高 210㎝ 最大幅88㎝ 厚み17㎝ 台座 高さ25㎝ 幅160㎝ 奥行55㎝ [表] 贈従五位安居院庄七翁碑 従三位勲一等 岡田良平書[裏] 翁諱は義道盧翁又は乾坤齋と號す 寛政元年相州大住郡蓑毛村に生る 密正院秀峰の次男なり 出てて同郡曽屋村安居院氏に養はれ庄七と称す 夙に家道を挽回するの志あり 偶々二宮尊徳の野州櫻町にありて報徳を行ひ 無利息貸付を為すを聞き往いて之を借らんとす 見ることを得す 乃ち雑役に服して 竊かに門弟子に教ゆる所を聞き驚き愧ちて家に帰り元値商を始めて年末に金十両を益し得たり 謂らく 一人之を行ふは衆と共にするに如かずと 是より四方周遊の志あり 弟浅田氏と大和より河内に至りて萬人講を参し遂に弘化三年より文久三年濱松に客死するに至る迄 江勢三遠駿の各州に来往し 布褥草鞋敬神報徳の大儀を宣伝して所在為めに社を結ふ者六十 其間一たひ尊徳を訪ひて所見を告げたることあり壽七十有五惟ふに報徳の事たる實践躬行を旨とし 簡明通達最も庶民の風化に資すべし 而も尊徳の東国諸藩の復興に盡瘁せる際翁の西に趨りて親しく民間に労作せし者頗る多とするに足る「乱杭の長し短し人こころ七に三足し五に五たすの十」と辞句の間に其手法とする所を見るへし 大正七年功を録して従五位を贈らる配の名はひさ一男あり 藤吉といふ大正八年十一月 秦野町有志者建 岡田良平は岡田佐平治の孫で、前文部大臣である。建立は「秦野町有志者」とある。関係したと思われる方に「名前がないですね」と訊いたところ返って来た言葉は、「誰が此の碑を建立したかが問題ではなく、碑の人物は立派な教育者であり秦野の誇りである。これからの教育に於て第意二、第三の庄七のような人物が出る教育をして貰いたいので、学校の庭に建立したのである」。 駆け出しの教師にとっては、最初の此の一言は生涯忘れられない言葉となった。
2024.06.08
「太ももは太ければ太いほど死亡率が低い」健康長寿に欠かせない筋肉量をチェックする意外なバロメータ理学博士石浦章一さん「長生きするためには運動習慣を身につけなければならない。必要なものは筋肉。極度に肥満している場合を除き、体中に血流を送り出す太ももは太いほうが、死亡率が低くなることがわかった」歩くと、ふくらはぎを使いますね。ふくらはぎを使うと血流が良くなるのです。血流がよくなると毛細血管へも血液が流れ込んでいきます。こうして体内に酸素が行き渡っていきます。だから激しい運動をしなくても、速歩きくらいで、結構、運動になっているのです。強烈なデータが2009年*に出てきました。それは、皆さんの太ももの大きさに関するものです。太ももが太ければ太いほど死亡率が下がり、太ももが細いと死亡率が上がる、というものです。例えば、太ももの周囲の長さが65センチの人の死亡率は、55センチの人の約半分。太ももが太いということは、運動している、歩いている、走っているということになりますね。もうそれだけで寿命が違うのです。だから皆さんも、運動習慣を付けることがいかに大事かということを、ぜひ頭に入れておいてください。有酸素運動をすると、時間がたつとともに脂肪が燃えていくのです。エネルギーとして脂肪を使うようになります。だから有酸素運動をしなさいと言われるのです。出てくる乳酸の量も有酸素運動のほうが高強度の運動に比べて少ないことが分かっています。*太ももが細いと寿命短い、デンマーク大研究2009年9月4日大腿部の周囲長が60センチよりも小さい男女は、心臓病のリスクが高く、寿命も短くなる傾向があるとした研究結果が、4日付の英医学誌「ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル(British Medical Journal、BMJ)」に掲載された。 デンマーク・コペンハーゲン大学病院(Copenhagen University Hospital)のベーリット・ハイトマン(Berit Heitmann)氏とペーダー・フレデリクセン(Peder Frederiksen)氏は、1980年代後半に身体測定を行ったデンマーク男性1436人、同女性1380人のデータ検査を行った。Dr. Berit Heitmann その結果、その後の12年間で400人が死亡、540人が心疾患を発症していた。死亡率は2対1の割合で、男性の方が高かった。また、肥満や喫煙、高コレステロールといった他のリスク要因を考慮に入れた上で、心疾患を発症することなく生存している被験者は、大腿部がかなり太いことが分かったという。大腿部が最も細い被験者は、大腿周囲長が60センチの被験者と比較して、早死にする確率は3倍で、心疾患を発症する割合も2倍だったという。 研究チームは、さらに研究が必要としながらも、大腿部が細いと心筋量も少ないのではないかとみている。 研究結果は、大腿部の周囲長に閾値(いきち)効果が見られることは明らかで、この周囲長が60センチよりも小さい場合には、早死にのリスクが高まると結論付けた。 これまでに心疾患と肥満や低体重との関係は証明されているが、大腿部の太さと冠動脈の健康状態を関連づけた研究は、デンマーク大が初めて。 ハイトマン、フレデリクセン両氏は、この驚くべき研究結果が、心臓病のリスク因子を研究する医師らへの新たな指標となると期待しており、大腿部の周囲長が肥満度指数(BMI)や腹囲とならぶ新たな指標になるかもしれないとしている。💛太ももを太くするために、サイクリングに行ってきます!タンパク質強化牛乳にプロテインをまぜたものを先に飲んでいこうかな(^^)
2024.06.08
強力な抗酸化作用?! 「旬のトマト」に含まれるすごい成分とは6/8(土)トマトハウス栽培により1年を通して出回っていますが、露地栽培の旬は5~9月。今、旬を迎えています。ビタミンCやβ-カロテンが豊富な緑黄色野菜の一つで、赤い色素成分のリコピンが特徴。β-カロテンの2倍ともいわれる強い抗酸化作用を発揮し、生活習慣病を予防したり、肌や目の健康を守ったりする効果が期待されています。また、カリウムも豊富に含み、夏バテや熱中症予防にも最適おすすめの保存方法を生産者さんに聞いてみたところ、 「まるごと保存袋に入れて冷凍すればいい!」💛最近 GABAトマトを買って、お弁当にいれたりして食べている。トマトのリコピンは以前から注目されてきたが、最近はGABAが手軽にとれるGABAトマトやトマトジュースが出て来て重宝している。*「GABA高蓄積トマト」GABAは、アミノ酸の一種(gamma-aminobutyric-acid)で「ギャバ」と呼ばれています。GABAには、脳の興奮を鎮めて緊張やストレスなどをやわらげる働きがあるといわれています。また、GABAには、睡眠の質を高めたり、高めの血圧を下げることが報告されている。トマトは国内外を問わず生産や消費量が多い野菜であり、GABAの含有量もほかの食品に比べて2~50倍の量を誇ります。しかし、この量でも健康機能に対する効果を得るのは難しく、さらに栽培環境によってはGABA量が安定しないことが報告されたこともあり、GABAを安定的に高蓄積化させることが求められていました。筑波大学が研究を行った結果、GABAを分解する酵素を抑制するよりも、GABAを作りだす酵素を活性化させるほうが安定的な蓄積に効果があることを発見したのです。ゲノム編集技術によって酵素遺伝子に変異を導入することで、酵素活性の向上に成功しました。ゲノム編集によって生み出された「GABA高蓄積トマト」は、元品種の4~5倍のGABA含量を誇ります。
2024.06.08
女子高生たちが開発! 訛りマシマシの“生津軽弁”が聞ける「柏農女子津軽弁ガチャガチャ」とは? 限定200個が販売中!6/8(土) 青森空港で、7日から販売が始まったカプセルトイ。津軽弁を使った文章がデザインされているなど郷土色豊かなユニークな商品です。開発したのは地元の女子高生たち。■“生津軽弁”が聞ける!?女子高生たちが開発したユニークカプセルトイ青森空港で販売が始まったカプセルトイ。その名も「柏農女子津軽弁マスキングテープ」です。テープには、津軽弁の「んだ」や「ろー」を盛り込んだ文章がデザインされています。それだけではなく…。「マスキングテープには津軽弁とQRコードが書かれています。そして、このQRコードを読み込むと高校生の音声が流れます」生徒の津軽弁のナレーション「ちょー待って!あの人たげかっけぐね?(あの人すごくかっこよくない?)」開発したのは、県立柏木農業高校生活科学学科の生徒です。郷土の魅力を伝える商品作りに昨年度から取り組み、生徒たちで打ち合わせをした結果、津軽弁のマスキングテープを制作することにしました。自分たちで文面を考えただけではなく、ナレーションにも挑戦しています。生徒の津軽弁のナレーション「ろー、だはんでいったっきゃさ(ほら、だから言ったでしょ)」「ろー、どごみでらずや(あら、どこ見てるのよ)」カプセルトイは、観光客が多く訪れる場所として、青森空港の国際線出発ロビーと弘前駅構内に1台ずつ設置。早速、香港からの観光客が挑戦しました―。「柏農女子津軽弁マスキングテープ」カプセルトイ設置のお知らせ青森県立柏木農業高校の生徒が、地域活性化のために企画した「柏農女子津軽弁マスキングテープ」のカプセルトイを、6月6日から青森空港旅客ターミナルビル1階 国際線側エスカレーター前に設置いたしました。津軽弁がデザインされたマスキングテープにはQRコードが記載されており、読み込むことで、生徒たちが話す津軽弁の音声を聞くことができます。なお、「柏農女子津軽弁マスキングテープ」カプセルトイは、8月末までの期間限定販売となっております。 ・設置期間 2024年6月6日~8月31日(200個限定、売り切れ次第終了)・設置場所 青森空港旅客ターミナルビル1階 国際線側エスカレーター前・販売商品 柏農女子津軽弁マスキングテープ ろー、んだ編・販売価格 300円・販 売 元 青森県立柏木農業高校地元愛あふれる「津軽弁」マスキングテープ
2024.06.08
ホタテの栄養成分と効能体の機能を維持するたんぱく質ホタテは、たんぱく質が豊富です。たんぱく質は筋肉や臓器などの主要な構成成分ですから、体作りに欠かせません。それだけでなく、たんぱく質は酵素やホルモンなどの材料となり、体の機能も調整しています。つまりたんぱく質は、私たちの体にとって重要な栄養素なのです。生命維持に重要なコレステロールホタテには、コレステロールも含まれます。コレステロールは、私たちの体において細胞を包む、細胞膜の主要な構成成分です。さらに各種ホルモンの原料となるなど、コレステロールは私たちの生命維持にも重要な役割を持っています。しかしコレステロールを摂りすぎると、心臓疾患や脳梗塞につながるおそれもあります。とくに血中コレステロールの数値が高い方は、コレステロールの摂りすぎには注意しましょう。タウリンで高血圧予防ホタテにはタウリン(※)も豊富です。(※)タウリンとは、たんぱく質が分解される途中過程でできる、アミノ酸に似た物質のこと。タウリンは、血中のLDLコレステロールを減らす働きや高血圧の予防効果が期待できます。なおタウリンは私たちの体でも作られていますが、必要量には足りていないため、食品からも取り入れるのがオススメです。味覚を維持する亜鉛ホタテには、味覚障害を予防する亜鉛が含まれています。亜鉛は味覚を感じる「味蕾(みらい)細胞」を作る際に必要なミネラルのため、不足すると味を感じにくくなる可能性も。さらに亜鉛は、免疫反応や血糖値を下げる働きなどもあるため、不足すると全身にさまざまな症状が現れます。近年、食生活の乱れにより亜鉛不足になる人が増えているため、多品目の食品をバランスよく食べるよう心がけましょう。ビタミンB12で悪性貧血を防ぐホタテには、ビタミンB12が豊富です。ビタミンB12は、たんぱく質の合成やアミノ酸や脂肪酸の代謝に関与しています。またビタミンB12は正常な赤血球を作る際にも重要な働きをするため、不足すると造血作用がうまく働かず悪性貧血になる可能性もあるでしょう。💛最近、ほたてのソーセージを買ってお昼食べている。
2024.06.08
後藤 静香 日めくり 8日喜びの人背景 同じ言葉をきいても つよく印象するときと 何ほどの感じを受けないときとある くだけたたましいだけに法音がきこえる 権威ある言葉だけが肺腑をつく 言葉は平易でも 内容は単純でも その言々句々をして 権威ある法音たらしむる 人格の背景をつくれ後藤 静香(ごとう せいこう、1884年8月17日 - 1971年5月15日)は、大分県出身の社会教育家、社会運動家。蓮沼門三の「修養団」に傾倒し参加。格言や偉人伝、寓話などをわかりやすく解説した雑誌をいくつも発行。代表作である詩集・格言集『権威』は100万部を越えて、当時の青年、教育社、労働者に愛読され、熱狂的な支持を得た。「現代語訳 安居院義道」p.18-19現代語版の『安居院義道』序 文 私の友人の話では、農業経営上の進んだ事例を研究する時には、必ず静岡県の農業が問題になるということである。つまりそういう学者の目から見れば静岡県の農業は全国農業の最先端を進んで来たというわけである。「どうして静岡県の農業がこんな具合に発展して来たか」を考察することは、日本農業の発展の原動力は何かという、より大きな課題の解決のためのカギを与える重要な問題である。これについて従来は静岡県特有の報徳社運動との関連が考えられ、静岡県農業発展のかげに報徳運動ありと考えられていたと思う。しかしこれには二つの疑問が残されている。一つには静岡県の報徳運動がいかにして起こったか、また起こっただけでなく百年後の今日までなぜ存続されているのかという問題である。他の一つは静岡県農業の最重要部門である茶業の発展の問題である。茶業発展の基礎は何といっても牧之原の大茶園の開墾である。この着手は遠州報徳運動と無関係に見えるのである。 本書の著者鷲山氏がこの問題を眼中に置かれたか否か私は知らない。しかし氏の五十余年の研究と、雄大な人格から流れ出るおのずからなる科学的筆力は、この大問題に痛快な解答を与えられたと私は深く信じる。 それだけでなく、平々凡々と前半生を終えた一人の人間・安居院庄七が、二宮尊徳という偉大な人格にふれ、この「大死(だいし)一番(いちばん)の発(ほっ)心(しん)(一度死んで生まれ変わった発起心)」が、いかに偉大な業績を行い得るものであるか。またそれがいかに永続的な影響を後世に与えるものであるかを、読むものをして悟らしめなければやまないであろう。 しかし以上のような学問上の意味や、農業発展への功績等の世俗・半世俗的な人間の仕事についての論述であるだけならば、八十を超えられた鷲山氏が文字通りの心血をそそいでこの著述に没頭されるはずがない。このことは本書を手にされるほどの読者ならば私以上にそれを感得されるに違いない。そして、安居院先生と共に、一個の人間であることの「このましさ」、また偶然と必然の錯行する人生の深み、そして真の日本社会史の妙味を、つくづくと味われるであろう。昭和二十八(一九五三)年十二月二十八日 神 谷 慶 治*神谷慶治(かみや けいじ、1905年4月2日-1998年10月26日[1])は、日本の農業経済学者。東京大学名誉教授。略歴静岡県掛川市生まれ。1931年東京帝国大学農学部農業経済学科卒、1932年同副手となり、1935年講師、1939年助教授、1948年教授となり、東京大学農学部教授、1962年農学部長を務め、1966年定年退官、名誉教授、東京農業大学教授、1976年退職。そのほか、1951年農林省農業綜合研究所長。1974-1979年大日本報徳社社長。日本農業経済学会会長、日本農村更生協会会長を務めた。日本学術会議会員。1960年「日本農業機械化の分析」(共編)で日経・経済図書文化賞、1968年日本農学賞受賞💛現代語版の『安居院義道』は大日本報徳社で取扱い中です。
2024.06.08
キシリトール多量摂取、心臓発作・脳卒中のリスク2倍に 新研究6/7(金)キシリトール多量摂取、心臓発作・脳卒中のリスク2倍に 新研究低カロリー甘味料であるキシリトールを最も多く摂取した人は心臓発作、脳卒中、死亡のリスクが約2倍になる可能性があることが新たな研究で明らかになった。キシリトールは糖質を抑えた食品やガム、歯磨き粉など多くの製品に使われている。この研究の筆頭著者であるスタンリー・ヘイズン博士は、キシリトールが入った一般的な飲み物を健康な人に飲んでもらったところ、血中のキシリトール濃度が1000倍に上昇したと述べた。砂糖を摂取したときに血糖値が10~20%上がることはあっても1000倍になることはないという。この研究者らは2023年、ステビア、ラカンカ、ケトを使った低糖質製品の充填(じゅうてん)剤として使用されるエリスリトールと呼ばれる別の低カロリー甘味料についても同様の結果を発見した。両論文で発表された追加の実験および動物を用いた研究により、エリスリトールとキシリトールは血小板を凝固しやすくさせる可能性があることが明らかになった。凝固した血栓は血管から剥がれ、心臓に移動して心臓発作を引き起こしたり、脳に移動して脳卒中を引き起こしたりする可能性がある。業界団体の会長はCNNに対し、この研究結果は「世界中の保健機関や規制当局がキシリトールなどの低カロリー甘味料の安全性と有効性に関して数十年にわたり実証してきた科学的証拠に反している。これらの調査結果は、健康増進の手段として代替甘味料に頼っている人々にとってひどい話だ」と語った。砂糖と同じくらい甘く、カロリーは半分以下のキシリトールは、シュガーレスガムやマウスウォッシュ、せき止めシロップなどによく使われている。キャンディーや焼き菓子、ケチャップ、プリンなどに大量に添加されることも多い。キシリトールは糖アルコールで、カリフラワー、ナス、レタス、キノコ、ほうれん草、イチゴなどの食品に自然に含まれる炭水化物。しかしヘイズン氏によると、そのような食品に含まれるキシリトールの量はごくわずかだ。商業用途では、キシリトールはトウモロコシの芯、樺(かば)の木、または遺伝子組み換え細菌から作られる。ヘイズン氏は「キシリトールはいわゆる天然甘味料として販売されており、血糖値を急上昇させないため、低炭水化物やケトン食と相性がいいと宣伝されている」と述べた。多くの専門家団体も、肥満、糖尿病、糖尿病前症の患者に血糖コントロールを改善するために砂糖の代替品としてキシリトールを推奨しているという。しかし糖尿病のリスクがある人は血栓症に最もかかりやすい人々であり、ヘイズン氏は「私たちは間違った人々を対象にしている」と警鐘を鳴らした。カロリーゼロの甘味料、心臓発作や脳卒中リスク増大と関係 米研究砂糖の代替としてステビアなどの甘味料に使われている「エリスリトール」について、血栓や脳卒中、心臓発作や死亡リスク増大との関係を指摘する論文が、27日の科学誌ネイチャー・メディシンに発表された。論文は米クリーブランドクリニック・ラーナー調査研究所のスタンリー・ヘイゼン氏らのチームが発表。研究の結果、糖尿病など心疾患の危険を伴う基礎疾患がある人は、血中のエリスリトール濃度が高い場合、心臓発作や脳卒中のリスクが2倍になることが分かった。「エリスリトールの血中濃度の値が上位25%に入る人は、下位25%の人に比べ、心臓発作や脳卒中のリスクが約2倍に増大する」とヘイゼン氏は解説する。研究室や動物で行った研究では、エリスリトールに血小板の凝固を促進させる作用があるらしいことが分かった。血栓が飛び散って心臓に達すれば心臓発作を引き起こし、脳に達すれば脳卒中を引き起こす。
2024.06.07
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