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日陶神社。地下鉄東山線亀島駅から東に10分程の「ノリタケの森」この日は園内のギャラリーで開かれていた写真展を見に訪れました。師走とは思えない、風のない、温かい日差しが降り注ぐ園内には多くの入園者が訪れていました。明治37年(1904)にノリタケの前身「日本陶器」が日本で初めて白く輝く白磁器の製造を確立し、ノリタケチャイナとして世界的に広め、ノリタケの森はその工場跡地を整備・解放したもの。街中にありながら緑を多く残した憩いの場で、広々とした園内には歴史を感じさせる赤レンガで作られた建物や6本煙突モニュメントなどが残され、ノリタケの歴史館や製品販売・レストランもあり、商業施設とも隣接することから訪れる人は多い。名古屋駅から近い事もあり、この時期は紅葉に彩られた煉瓦棟をバックに、思い〃のポーズをとって撮影する海外からの観光客も多く見られた。園内は噴水塔や芝生広場への人の流れはあっても、この森に向かう方は意外に少なく、ここに神社がある事に初めて気が付く方も多いかもしれない。日陶神社は、園内の噴水塔西側のノリタケスクエア南側の小さな森にひっそりと佇んでいます。日陶神社社頭全景。所謂企業神社で、よく会社の敷地にお稲荷さんが祀られたりしますが、日陶神社もノリタケの社運の隆盛と安全祈願を込めて昭和15年(1940)に祀られたもので、天照大神、熱田大神、迦具土神の三神を祀っています。一般的に企業神社に部外者の立ち入りは許されないものですが、園内に鎮座する日陶神社は誰しも参拝することができます。小さな森の小さな神社ですが、街中で四季の移ろいを感じられ場所でもあり、この時期はやはり紅葉でしょう。社頭右に日特神社の解説が掲げられています。内容は以下。「社運の隆盛と安全の祈願を込め、天照大神、熱田大神、迦具土神の三神を祀り、1940年11月19日に建てられました。ノリタケの初代社長、大倉和親はこの工場敷地内に家を建て、陶磁器産業の発展に全力で立ち向かいました。その後、大倉和親邸の跡地に当社殿は造営され、石造の狛犬は1941年4月に社内婦人会有志によって寄進されました。」日本陶器の発展は伊勢神宮・熱田神宮・秋葉神社の三神が担ってきたわけですが、神社が鎮座する西区には住宅が密集する四間道など歩いていると、軒下に津島神社、熱田神宮、秋葉神社などの神さまを一つの社に祀った「屋根神さま」を見ることができます。こうした社は軒ばかりか、密集地の僅かな一画に祀られていたりして、町内の災い除けとして住民から崇敬されています、当初はそうした規模の社からはじまったのかもしれません。参道から境内全景。一対の石灯籠の先には胸を張った凛々しい姿の狛犬が境内を守護しています。その先の一段高く築かれた社殿域に木造鳥居と本殿が祀られています。赤や黄に色付いた樹々に囲まれていますが、陽が良く差し込み明るい空間です。石造の狛犬の台座には昭和16年(1941)4月1日、森村婦人会、婦人心友会有志と刻まれています。背筋を伸ばし、厚い胸板を誇るかのような勇ましい姿をしています。大きなビルが林立する名古屋駅の北側ですが、ここは陽当たりも良く、境内の紅葉が赤みを増して綺麗に見せてくれる。本殿は外削ぎ千木と6本の鰹木が施された神明造りで、ノリタケの企業神社だけに綺麗に維持されています。後方の煉瓦造りの建物は森村・大倉記念館。社殿全景。暖かい彩りと日差しに照らされた温もりのある境内です。6本煙突モニュメント。個人的にノリタケの森を象徴する印象がある。昭和8年(1933)工場大改造時に建造された陶磁器焼成用トンネル窯の跡で、その根元には窯から排出される煙を煙突に送り出す施設の名残が残されています。現役時代は45メートルの高さを誇る大煙突で、テレビ塔が建つまでは名古屋城と並ぶ高さを誇ったそうで、昭和54年(1979)の工場移転時に現在の部分を残し撤去されたもので、季節によって飾り付けは変わり、今はXmas仕様になっています。ノリタケの森各施設の営業時間は則武施設案内から確認する事をお勧めします。日陶神社創建 / 昭和15年(1940)祭神 / 天照大神、熱田大神、迦具土神参拝日 / 2023/12/08所在地 / 名古屋市西区則武新町3-1
2023.12.13
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名古屋市守山区竜泉寺「龍泉寺弘法大師堂」から県道15号線を南に渡り、15分程山間に向かうとゴルフ場入口に出ます。そこから右手(西)の車道に向かうとゲートがあり、そこを先に進みます。この辺りは小幡緑地本園の北に位置し、丘陵地の尾根に相当します。ゲートを過ぎると直ぐ左手に広場があり、その北側に「御花弘法大師」が安置されています。コンクリートで作られた像は桃太郎神社などでも見かけますが、大きさは台座込みで10㍍くらいでしょうか、大きさもなかなかですがコンクリートとは思えないいい表情をしています。コンクリート像というと浅野祥雲が知られますが、同様にコンクリート像の御花弘法大師を作った花井探嶺は認知度が低い。探嶺は三重県出身の菰野町出身の彫塑家で明治から昭和にかけて複数の像を作っていて、中村観音を造ったのも探嶺で、この像は1932年(昭和7)に開眼供養が行われています。この像は尾張三大弘法の一つで「良福寺」、「退養寺」と御花弘法大師がそれになります。以前は大師像の左に朽ち果てた邪鬼が建っていましたが、崩壊の一途を辿り、修復の道を諦め撤去されたようです。現在は邪鬼の台座のみが残っています。当時の倒壊寸前の状況から見れば、今は随分とすっきりした印象を持ちます。そもそもは現在の名古屋鉄道の前進の一つで、大正から昭和初期、大曽根から瀬戸を結んでいた瀬戸電気鉄道の頃、現在の小幡駅から龍泉寺への鉄道敷設の計画が持ちあがったようです。 白沢公園から小幡緑地、江戸時代から続いた「御花弘法」の御花弘法八十八ヶ所霊場を含めた龍泉寺一帯を観光地化したかった様です。「御花弘法大師」の座像は観光の目玉となる目論見の元に建てられました。しかしその計画も頓挫、龍泉寺の管理から離れた弘法大師像も現在は荒廃が進んでしまいました。南の緑ヶ池を見下ろす様に座す大師像、右目の上は剥がれ落ち、このまま邪鬼同様に荒廃の道を辿るのかか・・・・・朽ちていくのを悟ったかのように、もの言う事もなく・・・・・弘法様の正面直下から見上げる、こうして見るとやはり大きい。それでも今もこの大師像を慕って訪れる方は絶えません、訪れた際も線香の煙と生花が供えられていました。周辺は綺麗に清掃され、像の内部も清掃の手が入っているようです。こうして大事に守ってくれる人もいれば、落書きをしていく者がいるのは残念。公園の中とはいえ、参拝目的以外にここまで訪れる人は少ないでしょう。昔も今も弘法像周辺には人馴れした狛猫が弘法様を守護しています。右の猫なんかは絶対飼い主がいたのでは?大師像の右側は既に大きな穴が開いてしまっています。現状でも周囲の看板に「近づかないように」と警告が貼られています。台座のレリーフはまだしっかりしています、これらも崩落しないうちに補修の手が入るといいのですが。どこぞの花見経費の一部でも融通すれば、この姿も維持できるのに・・・・・大師像右の小振りな像は大きな痛みは目に付きません。この一帯の森の中には細い道ができていて、道沿いにに多くの弘法像や石版が安置されています。愛くるしい表情の地蔵この森で拾われた実った栗だろうか?地蔵に供えられていました。森の小道に安置されている石像群や大師が描かれた石版大黒様なんかもあったりする、結構ワンダーランドでもあります。御花弘法大師から少し南にある、緑ヶ池、すっかり秋の装いです御花弘法大師住所 / 名古屋市守山区竜泉寺2丁目-1218
2019.12.08
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豊田市浄水町原山『開豊神社・神風特別攻撃隊 草薙隊之碑・十三塚』長いタイトルで恐縮です。この神社は先に掲載した日守神社から、南に続く上り坂を上り切った右側の浄水町区民会館の東隣に鎮座する神社。すぐ北側には愛知少年院があり、昭和37年のお助け地蔵復興を支援した。神社は南を向いて鎮座し、石の明神鳥居と拝殿・覆屋が一続きとなったもので、境内右側には開拓碑や神風特別攻撃隊 草薙隊之碑と十三塚が立てられています。近年境内整備・社殿改修されたものと見え、境内・社殿は至って綺麗な状態です。明治頃の鎮座地は伊保川右岸の丘陵地で樹林や荒れ地ばかりの一帯で、民家や神社の記は見られません。この地が開かれたのは昭和に入ってからのこと、そのきっかけになったのが、旧海軍名古屋航空隊伊保原飛行場建設により変貌がはじまり、終戦後飛行場用地は払下げ、戦後の食糧難を補うため開墾し農地に開拓されて来た町で、神社も飛行場の跡地に鎮座します。神社の南側に東西に真っすぐに伸びる道路が滑走路の名残を留め、境内には巨大な砲弾や錨が置かれ、訪れる者に戦争の愚かさを伝えています。社地に兵器が安置されているため、神社は戦争と関りがあるように見えますがそうではないようです。愛知県神社庁、西加茂郡誌、猿投町史など目を通すが社名はなく、開豊神社の創建時期、祭神について定かにならなかった。戦争というより、「開豊」の名からこの地の開墾事業に伴い祀られた神社かと思われます。社頭正面全景。昭和44年寄進の鳥居に架かる額は「開豊神社」。境内から見る社殿の全景。参道左に手水鉢と一対の白い狛犬があり、入母屋妻入りの拝殿と切妻平入の覆屋が連なっています。手水鉢と龍口。拝殿前の狛犬は昭和44年に寄進されたもの。平成29年(2017)の拝殿額。戦後の昭和21年(1946)、この地に入植した人々により、伊勢神宮から分霊し伊保原神社を造営した事にはじまり、昭和44年(1949)に「開豊神社」に改称した神社のようです。昭和44年の寄進物が多いのは改称時に合わせ寄進されたからでしょう。額の平成29年は現社殿の改修年度かもしれない。本殿は神明造で鰹木が6本、内削ぎ千木が付くもの。祭神は天照大神と思われます。かつて特攻機が飛び立っていった滑走路のあった社頭の眺め。社頭右手の開拓碑。碑文は以下。「沿革 この一帯は元名古屋海軍航空隊の飛行場跡で戦後国の緊急食糧増産対策の一環として開拓された土地である。昭和21年7月多くの人達によって開拓事業が始められた。 県追進農場で開拓技術を修練し十七人が地区内に居住した。同年伊保原開拓農業協同組合が設立された。 この土地は酸性が強く礫の多い粘土質土壌であった。鍬一丁にたよる開墾は遅々として捗らず収入のない歳月が続いて苦闘の連続で多くの人が離農した。 屡々挫折感をおぼえ乍らも歯をくいしばって頑張った。組合は設立以来各種事業を完成し26年漸く電灯がひかれた。 その後開拓地としての整備も徐々に行なわれて将来に希望を見出した。 30年代に入って営農が軌道にのりかけた矢先、伊勢湾台風に見舞われ大きな被害を受けたが組合員が一丸となって見事に災害復旧をし組合の経済発展を為し遂げて現在に至っている。なお、33年和田ヶ池、36年愛知用水の完成により水田17ヘクタールが開かれたが開拓者にとって素晴しい光明であった。 漸次入植し現在組合員数八一戸耕地面積170ヘクタール余漸くして近代的農業地帯を完成し周辺地区と肩を並べるまでに成長した。これは偏に関係当局の暖かいご指導の賜であり心からの謝意を表しつゝ 茲に組合解散の記念を碑する 昭和46年12月吉日建立之 伊保原開拓農業協同組合」神風特別攻撃隊 草薙隊之碑。碑の前には日進日露戦争で活躍した巡洋艦三景の32㌢砲弾が置かれている。砲弾の解説。碑の傍らに名古屋海軍航空隊を語る碑が立っています。「此の地は昭和17年4月1日開隊、昭和20年9月2日解散せる名古屋海軍航空隊の址なり 昭和20年春 当地に於て神風特別攻撃隊草薙隊が編成され 4月5日・12日の両日各20機の九九式艦上爆撃機は鹿児島県国分基地に進出、菊水一号二号四号作戦に参加 同月6日12日の三次にわたり沖縄本島西方泊地の米艦船に突入 未帰還28機、戦死56 彼らが眠る沖縄の地が祖国復帰の日を迎うるにあたり 志の協力を得て豊田市在住の元海軍軍人本碑を建立し草薙隊ノ忠烈を永く後世に伝へんとするもの也 昭和47年4月吉日 豊田海友会」草薙隊之碑後方に置かれている錨と消火栓。「特攻花 沖縄特攻の激しかったころ、九州南方の飛行場のまわりに黄色く咲き乱れていたこの花は、誰言うこともなく特攻花と呼ばれました。特攻花は見ていました。 みんな二十前後の元気な若者でした。飛び立つ者の願いと見送る者の祈りを、花は聞いていました。 今も、花は聞こうとする人には、聞こえる声でささやいてくれます。「ホラ、プロペラの音が、風の声が」 慰霊50年祭の記念に、草薙隊が発進した第二国分十三塚原から種を譲り受けて育てました。 和名「おほきんけいぎく」多年生草木です。 平成七年四月 草薙隊之碑保存会」因みにオオキンケイ菊とはこの花です。堤防などで良く見られる花で、群落を作り綺麗いなものです、人の都合から法面緑化で植えられらながら、繁殖力が強いから特定外来生物だそうです、都合のいい話です。右の五省の碑と十三塚の石碑。「十三塚のいわれ 室町時代末期のものと推定される径4㍍程と1㍍程の大小13個の塚より ある先年其の内の一つから永正の頃と思われる経筒を発掘した(郡誌)大正8年に銅経筒と仏光背一つが出土したという。」発見された経筒はその後行方不明となったようですが、「猿投町史」か「豊田市史」に目を通していた際に白黒写真で紹介されていました。開豊神社創建 / 昭和21年(1946) 祭神 / 天照大神(推定)境内社 / ・・・所在地 / 豊田市浄水町原山参拝日 / 2024/09/06日守神社から車移動 / 日守神社から車で南進・1.2分関連記事・賀茂郡7座 射穂神社・村社 貴船神社・貝津神社・お助け地蔵・日守神社
2024.10.05
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波岩(ハイワ)神社。波岩神社へは、前回掲載した勘八稲荷大明神から、枝下用水沿いに5分程上流の越戸発電所の東側に向かいます。鎮座地は赤枠の位置になり、越戸発電所の東側の発電用取水口付近に鎮座します。波岩神社から徒歩5分程で社頭に至ります。波岩神社の詳細について以下に目を通しました。大正15年(1926)出版の西加茂郡誌、昭和46年(1968)猿投町誌に目を通してみましたが、波岩神社の記述は見つけられませんでした。地図上からも鳥居の記はみられず詳細は不明です。越戸発電所全景。左のフェンスが枝下用水で、矢作川から取り込んだ発電用取水口から分流し灌漑用に導いています。施設後方右手の森が波岩神社の社叢になります。ここから導水路の橋を渡った右側が社頭になります。橋から取水口の眺め。枝下用水はここから分流され、下流の田畑を潤しています。昔は矢作川上流の枝下から取水していましたが、水力発電施設完成後の枝下用水はここが源流となります。波岩神社社頭正面全景。社地後方には杜若高校があり、神社は発電施設と学校の施設に挟まれるように、小さな杜の中に祀られています。社頭には石の明神鳥居と左に手水鉢がありますが社標は見られなかった。寄進年は未確認ですが、特徴のある手水鉢。冒頭詳細は不明と書きましたが、ただ、境内の鳥居、常夜灯の寄進年が昭和8年(1933)11月となっていました。ここからは推測になりますが、昭和8年は、地元実業家前田氏により前田公園が整備された年で、寄進者名は確認していませんが、恐らく公園整備に伴い創建されたか、越戸ダム・発電所の運転が昭和4年(1929)なので、この施設の建設・運用に伴い祀られたものかもしれません。或いは、波岩の地名を冠するだけに、前田公園から平戸橋にかけての地域の鎮守の可能性もあるかもしれませんが、寄進物に昭和以前のものが見当たらずその可能性は低いのかな。鳥居扁額は「波岩神社」鳥居の先の本殿。外から見た社叢は鬱蒼として暗い印象を持ちましたが、程よく伐採され以外に陽光が入る明るい境内です。本殿は見世棚造で鰹木4本の外削ぎの置き千木が付くもので、これをもって祭神が男神・女神かを問う人はいないと思います。時代はジェンダーレスです。境内から社頭の眺め、道路の先は発電所敷地のため、周囲はこうしたフェンスに囲まれています。波岩神社社頭全景。由緒がなく、詳細が分からない神社ですが、境内は定期的に手入れされているようです。帰り道はフェンス沿いに発電所をひと回りすれば、枝下用水に続きます。波岩神社創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / ・・・祭礼 / 不明所在地 / 豊田市平戸橋町波岩参拝日 / 2024/10/22車アクセス / 勘八稲荷大明神から移動時間5分。関連記事 ・豊田市 四郷町東畑 四郷八柱神社・豊田市平戸橋町 胸形神社・前田公園 勘八稲荷大明神
2024.11.22
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11月10日、車中泊で越前町の「越前カニ祭り」に行ってきました。11月6日越前ガニ漁が解禁以降、荒天で漁ができず、8日から出漁しカニのシーズンが到来。それに合わせて越前町の「道の駅 越前」で「越前カニ祭り」が開催される。開催日は11月11・12日、11月18・19日の土日。振舞いはなく朝市的な催しですが、地元の店舗が道の駅にブースを連ね、カニ汁やカニ飯など味わえる。事前の案内では「開催」とあったので、前日の10日にのんびりと下道だけで越前町の現地に向かう。移動日は10日は雨、寒気が南下し天候は下り坂。紅葉の時期いろいろと立ち寄りスポットの計画はあったが、色付きが悪くどこにも立ち寄らず越前に直行し温泉に浸かる事とした。名古屋を10時を過ぎに出発、休憩場所の滋賀県長浜市の道の駅「浅井三姉妹の郷」に12時30分着。関ケ原から長浜まで車窓から眺める山々の紅葉は車を止め眺めよう、そんな気にはならなかった。ここから国道8号線で敦賀に向かい、市内の地元スーパーで晩御飯と酒を買い求め、海岸沿いの国道305号線と漁火街道を経由し「道の駅 越前」に16時に到着。道の駅から越前海岸方向の眺め。雨は降ったり止んだり、低気圧が南下していたが、この時期にしては比較的穏やかで風もさほどではなかった。日本海から押し寄せる鉛色の雲は山に阻まれ、この時期いつきても雲が滞留するイメージしかない。若狭方向の眺め。時間潰しのため、竿と疑似餌を忍ばしてきたものの、消波ブロックと堤防が延々と続く海岸線に気軽に楽しむ場所はないようです。「道の駅 越前」全景。道の駅に近い駐車場は結構埋まっていましたが、道の駅から少し離れた駐車場は閑散としています。イベント前日に合わせ前泊の車も見られ、かみさんの意向から我家もここに駐車。トイレは21時まで道の駅の館内施設が利用でき、それ以降は向かいの「越前ガニミュージアム」駐車場トイレが利用できる。左方向のすぐ近くに24Hのコンビニがあり重宝しますが夜間のトイレ利用はできません。また駐車場の夜間照明が皆無なので、夜の移動の時はライトが必要。一息入れて道の駅へ、そこで見かけた観光マップ。これから冬本番を迎えると海岸線沿いの道路は雪と波の影響を受け思わぬことが起こります、厳冬期に軽い気持ちで訪れるのはやめたほうがいい。道の駅の前にある「越前ガニミュージアム」、隣接し海産物の売店、屋外トイレの施設がある。道の駅では明日のイベントに向け仮設テントの設営に大忙し。かにの漁期はズワイが11月6日から翌年の3月20日まで、セイコが12月31日まで、今回はこのイベントの他にセイコガニをふんだんに使ったセイコガニ丼を食べるのが目的。以前は梅浦漁港付近に予約なしでも食べられたが、今は大半が事前予約が必要。今回もそこを目当てに予約せず来た、駄目なら道の駅でも食べられます。敦賀が買い求めた地元の食材。漬物にサラダ、麩の辛し和え、他に左上の「フジバーグ」。これはご当地フードらしく、試しに一つだけ買ってみたがこれが美味しい。肉は豚と鶏のミンチで牛のように重くなく、甘辛タレがとても新鮮な感覚、軽い食感で病みつきになるもの。へしこ刺身は少し塩味が強いが、癖のある鯖が好きな方なら酒の肴にマッチする。地酒も買い求めましたが写真を撮り忘れてしまった。メインはちらし寿司、これで498なら安い。さあ一次会をはじめよう。TVは受信できますが、選択肢は少ないか。会場の準備は万端、少し早めに晩御飯を食べ、温泉で体を温めて明日に備えよう。道の駅併設の露天風呂「漁火」は料金520円で内湯とサウナ、日本海を望める露天風呂がありドライヤーも完備、街のスーパー銭湯を思えば安価。泉質はナトリウム泉で肌がすべすべになるいいお湯です。車中泊では電気敷布も持参しましたが、寒さはなくマットとシュラフで快適に過ごせました。夜間になって雨脚は強くなり、コンビニへビールを買いに行きましたが、外は風も強くなり本当にこれで開催できるのか多少心配になる。しかし雨天決行ということだった。夜中は深夜に到着した車のエンジン音、車が揺れるほどの強風と時折屋根に叩きつけるほどの強い雨、堤防の向こうでは重々しい波が打ち寄せ砕け散る音。ほんとやれるのかぁと考えながらも寝落ちして翌朝を迎える。翌朝雨はあがる。道の駅の様子を見に行くと多くのテントがたたまれ看板には「本日中止」の貼り紙。雨はあがってもこの風では……。前日準備していたあのテント、夜間たたみに来ていたようだ。ここで大きく計画変更を余儀なくされる、取り敢えずここにいても何も起こらない。セイコ丼は捨てきれないが時間が早すぎる、ここは帰りに道に立ち寄る予定の越前市大滝町に鎮座する岡太神社・大瀧神社へ向かう事にした。一山超えて越前市大滝町の岡太神社・大瀧神社まで小一時間。五箇地区と呼ばれるこの辺りは、1500年の歴史を持つ越前和紙の産地として知られる地域。目的地の岡太神社・大瀧神社はこの地区の一番奥まった場所に鎮座します。越前市大滝町13-1、岡太神社・大瀧神社。大徳山の麗に鎮座し、苔と杜に包まれた下宮とそこから御神体の大徳山を登った頂に鎮座する上宮を持つ神社。里には両部鳥居の一ノ鳥居と境内入口のニノ鳥居を構えている。和紙の里だけにマンホールにも和紙を漉く女性の姿がデザインされていた。この岡太神社・大瀧神社は1500年前、この地に紙漉きをもたらした紙の祖神とされる川上御前をお祀りした岡太(オカモト)神社が起こりとされ、延喜式神明帳の式内社にも記されている。大瀧神社は、推古天皇の時代(592~638)に大伴連大瀧が神様の降臨を請う「勧請」をおこなったことが起源とされ、養老3年(719)、泰澄が、国常立尊・伊弉諾尊を主祭神とし、十一面観世音菩薩を本地とする神仏習合の社を創建し、大瀧兒大権現(オオタキチゴゴンゲン)を建立したという。その際、別当寺として大徳山大瀧寺(後に破却)が創建され一時は48坊を有し社僧6700名を擁する一大勢力となったが、信長によりそれら焼き払われ一時は衰退したが秀吉・徳川、松平氏と保護を受け社殿は再興されていった。後の神仏分離により大瀧兒大権現は祭神を国常立尊と伊弉諾尊とする大瀧児(オオタキチゴ)神社に改め、明治8年郷社に列せられ岡本村の總社氏神となり社号も大瀧神社となり、昭和3年県社に列せられ、現在の岡太神社・大瀧神社となった。独創的な社殿を持つ神社で以前から訪れたいと思いながらも、近くまで来るのだが機会に恵まれなかった。写真はニノ鳥居、鳥居の両脇の大銀杏は落葉の時期を迎え参道を黄に染めていた。岡太神社・大瀧神社社殿全景。上宮の岡太神社と大瀧神社の遥拝所の位置づけで社殿を共にする。従って拝殿の扁額も両社の名が記されています。こうして見る下宮の社殿は、所謂拝殿の部分は入母屋妻入りの唐破風向拝が付くもので、後方の一間社流造で千鳥破風と唐破風の連なる本殿がひとつに繋がった実に複雑な造りで、屋根の連なりが実に美しいもの。紅葉を少し期待するが、周囲の樹々には常緑樹が多く、そうした環境ではないようですが、境内至ると櫓で見かける苔の美しさはなかなかのもの。神門から左手の大徳山山頂に続く上宮へも向かいました、独りで行くから車で待ってと云ってはいたが、かみさんも運動がてら上宮に向かうとのこと、中ほどの鳥居を過ぎた辺り、20分程登った行程の半分ほどで上宮参拝を諦め下山。そうさせた背景には熊と猿の出没が脳裏をよぎる。行き交う人も皆無、見通せない参拝道では大声や拍手も打つも、武器となるものを何も持たず、一緒に登り始めたかみさんの事を考えると、この時期にこれ以上深入りするのは避けた方が賢明と考えた、「戻ろう」と振り向くと、かみさんの手にはしっかりと木の枝が握りしめられていた。上宮までの所要時間を示す看板が参拝道になく、これだけは是非とも整備して欲しい。未練が残るがここで岡太神社・大瀧神社を後にして、新在家町の「越前和紙の里 パピルス館」に向かい御朱印を頂きに行く。岡太神社・大瀧神社所在地 / 福井県越前市大滝町13-1御朱印は越前和紙の里 パピルス館で頂けます。さてここで、どうしたものか。上宮に参拝できず悔やまれるのに、ここまで来てセイコ丼を食べなくて帰るのは何しに来たのか分からない。もう一度越前町に向かいセイコ丼を探し求める事にした。丁度昼時に越前町に戻るが、どこを訪れても満員で長蛇の列、予約なしで食べるのは困難だった。晴れているのか、曇っているのかよく分からない天気、風は今朝がたに比べれば収まっていた。結局は道の駅の「お食事処 かねいち」の20番待ちのウェイティングボードに名を連ね、車に戻り横になってその時を待つ。30分ほどして様子を見に行く、あまりの待ち時間に諦めて帰った方が多いのか意外に早く呼ばれそうな雰囲気。結局1時間待ちで席に座る事が出来セイコ丼(¥5.500)をオーダー。待望のセイコ丼。まったりした内子に外子とカニ身がふんだんに盛られこの時期に是非とも食べたい旬の味。これで越前まで訪れた甲斐があったというもの、満足の一杯にお腹も一杯。さて食後の昼寝と行きたいがそうもいかない。15時、来た道を買い物しがてら帰路に付く。途中、長浜の地元スーパーでサラダパンや赤こんにゃく、麩に野菜など買い求め、上の「湖濱純米」を買い求めて家に辿り着いたのは19時。走行距離402㌔、重たい四駆で下道ばかり走ってliter9㌔はあの車にしては上出来だ。中途半端な時間の昼食だった事もあり、この酒と現地で仕入れた乾き物の晩酌でお疲れ様の乾杯、ひとまずセイコ丼も食べる事が出来満足の二日間でした。今週もイベントは開催されますが、風が有無が開催の可否を決めるようです、現地の天候を考えてお出かけください。イベント詳細は「越前かにまつり・越前がに朝市2023」を確認する事をお勧めします。道の駅越前 所在地 / 福井県丹生郡越前町厨71-335-1訪問日 / 2023/11/10~11
2023.11.13
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名鉄常滑線柴田から東へ15分程歩くここは名古屋市南区鳴浜町千鳥小学校の北側の道路沿いに南を向いて小さな鎮座するのが千鳥神社千鳥と聞くと千鳥橋が頭に浮かぶ、鳴浜町とは言うけれどこれは古い記録を見て行こう、いつもお世話になる今昔マップon the webで遡って見たこのあたりは源兵衛新田の東にあたるけれど、新田の開発が1706年(宝永3)と言われるけれど下は1891年(明治24)当時に千鳥神社の記録は見つかりませんここに鳥居のマークが出てきたのが昭和に入ってからでした名古屋市になってから創建された神社なのかも知れませんね小さい神社でありながら、木製の鳥居が建ち、手水舎もあります警護担当が不在なくらいです訪れたのは2019/4/23、小さな境内にサツキが咲き、彩を与えていました左の建物が社務所、今日は何か打ち合わせでもあるのか、社務所からは賑やかな声が聞こえてきます鳥居右、自然石に千鳥神社と彫り込まれた社号標裏側に回り込んで見ると1958年(昭和33)建之とある手水舎です龍はいないけれど、立派な自然石を彫り込んで作られた手水鉢造花ですが鉢の傍らに花が飾られ、何かしらこの神社と氏子の方々のいい関係が伝わってきます今から盛期を迎えるサツキが小さな境内に華やかさを与えています杜や桜がある訳ではないので、この時期が一番華やかな頃かもしれません周囲は住宅地、南に小学校があり、そうした環境の僅かな敷地を得て神社は鎮座しています境内奥に一段高く盛られた上、玉垣で囲われた本殿域には笹を背にして三社が並んでいます中央の大きな社は熱田社右の社は不明左も不明由緒書きがあると助かるけれど新田開発から発展して来たこの地、やがて住宅が立ち並び人が住む街の氏神さまとして昭和に入って創建された新しい神社であるけれど鎮座してから年数を経過していないだけ、氏子達から大切にされているのが感じられます千鳥神社創建 / 1958年(昭和33)祭神 / 熱田大神住所 / 名古屋市南区鳴浜町6丁目1-164アクセス / 名鉄常滑線「柴田」駅下車東へ徒歩15分
2019.04.24
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これまで玉野町の寺社を巡って来ましたが、今回は西隣りの高座町に鎮座する五社大明神社を掲載します。玉野川(庄内川)右岸に位置し、JR高蔵寺駅東に広がる高座山を中心とした地域で、町の西側から北側にかけて山を取り囲む様に高蔵寺ニュータウンが広がっています。高座町の北部半分近くは航空自衛隊高蔵寺駐屯地が占めており、山の南麗は玉野川に続いており、昔ながらの集落の面影を留めています。社頭全景。五社大明神社は高座山の南麗に鎮座し、山のピークにかけて御嶽神社奥之宮や高蔵神社磐座などが鎮座する奥深い社叢を持つ神社。社頭の左に参拝者駐車場があり車で訪れても駐車場所に苦労する事はありません。社頭から南を眺めれば、高蔵寺町の街並みの先に玉野川が流れ、対岸に東谷山が迫る。社頭から社殿に続く参道の眺め。長い石段は遥か先の社殿に続きます。鳥居右側に昭和10年(1935)寄進の「五社大明神社」の社標。鳥居は石の神明鳥居で、鳥居前で一対の狛犬が参道を守護している。頭でっかちではなく、全体のバランスがいい筋骨隆々とした狛犬。参道は白い奉納幟が境内まで続き、参道の左右に幾つかの境内社が祀られています。参道左側の樹々に包まれた一画に祀られている山神社、厳島社。ここから左に進んだところに忠魂碑が建てられています。左が山神社で右が厳島社。参道右側の蚕霊尊。かつてのこの地には桑畑が広がり、養蚕業が盛んに行われていた事を語るもの。参道左に八幡社の覆屋と正面に蕃塀が見えてきた。八幡社本殿。結構境内社があり手持ちの賽銭が心細い。石段を上った右側が手水舎。残念ながら龍はお休み。番塀。三間の木造蕃塀で控え柱を持ち、各間の上部に連子窓が入れられている。下部の腰壁は板ではなく石製のもので多くの寄進者の名が刻まれています。意匠に拘ったものにはない質実剛健とした佇まいの番塀です。境内右側の宮城遥拝所。この先が皇居の方角を示すのだが、近頃自分の方向感覚が悪くなってきたようで、地方に出かけると特に痛感する事が多い、バッテリーを必要としない小さなコンパスを買いたいと考えるようになった。いろいろな所で衰えを感じる。社殿全景。社殿配置は左に社務所、中央が拝殿・幣殿・本殿で右に廿二夜神と御嶽神社奥の院に続く参道が伸びている。御嶽神社奥の院道、ここから社叢の奥に続く。拝殿正面全景。訪れたのは6/21、この時期の境内には異常な夏の暑さを乗り切り、無病息災を願うための茅の輪が立てられていた。五社大明神の謂れ。「社殿は明らかではないが祭神がいずれも尾張氏の祖神であること創立の古いことが知られる。創立当初の位置は不明である。明応2年(1493)再建の棟札がある。大永8年(1528)、今の地に遷宮されたと伝わるも、いずれの地からか定かではない。更に承応4年(1655)にも再建されたとされる。明治45年(1912)日吉社、大正7年(1918)高蔵社及び厳島社が合祀された。昔、熱田神宮の高倉明神を祀っていたので高倉地と呼ばれ、熱田高蔵宮の奥宮であったとも伝わる。」社務所前から拝殿・本殿方向の眺め。社殿は一段高い場所に建てられ、拝殿は入母屋銅葺屋根の木造妻入り。蕃塀同様派手な意匠は施されていない。拝殿右側の石板。「五社大明神社。祭神 素戔嗚尊、大碓命、日本武尊、菊理比売命、天目一箇神。相殿神 高倉下命、大己貴命。」拝殿前の狛犬、社頭の狛犬と比較すると年季も入り、姿も角の取れた容姿、台座には大正10年(1921)と刻まれていました。1世紀前の先人により寄進年されたものです。紋幕には五七の桐。何十年か振りに参拝させてもらいます。拝殿右奥の境内社。左が金刀比羅社、右が高蔵社。その右に津嶋神社。幣殿から本殿方向。幣殿前には狛犬の姿がある。巻き髪も綺麗で威厳のある姿の狛犬……?、後方からこちらを見つめる狛犬の姿。こりゃあ可愛い狛犬だ。前で守護する堅物の狛犬とは対照的な親近感のある狛犬だね。見たところ大きな樹の幹から一刀彫で作られたものの様に見える。幣殿右手に狛犬の解説があり僅かに「伊勢湾台風」の文字だけは読み取ることが出来たが、文字は脱色し全文読み取れなかった。拝殿左の境内社。幣殿は6本の鰹木と内削ぎの千木が付く。山の様に小高く盛られ、幾つもの碑が立ち並ぶ御嶽神社。本殿は神明造の五社相殿、千木は内削ぎで鰹木は5本。渡廊から拝殿後方の眺め。拝殿正面右側の廿二夜神。御嶽神社奥の院道の突き当りの御嶽神社奥宮。ここから先はロープが張られ立ち入り禁止になっています。以前(約20年前)にこうしたロープを見た記憶は残っていないが、茸の密漁が多いのかこの時期は特に立ち入りが制限されているようです。この山は神の山であり、茸の山、防空の山でもありますが、鉱物の山でもあります。ひと昔前の話ですが、この山の一画には写真のような水晶が見られる山で、息子達の夏休みの自由研究のテーマとして何度となく散策に訪れた事がありました。現在は大きな結晶は全く見られないようですが、当時はまだ大きな結晶を見付ける事が出来ました。化石だ鉱物だと色々興味を示す時期があって、結局は別の世界に入っていきましたが、奴らの去った部屋にはそうした遺物が今も残っています。五社大明神社を訪れ、周辺は随分と変わり、見慣れない砂防ダムが出来ていたりして、当時の道を思い出せませんが、山中の高蔵神社磐座など久し振りに登ってみたい気になります。五社大明神社創建 / 不明再建 / 明応2年(1493)祭神 / 素戔嗚尊、大碓命、日本武尊、菊理比売命、天目一箇神相殿神 / 高倉下命、大己貴命境内社 / 山神社、厳島社、蚕霊尊、八幡社、金刀比羅社、高蔵社、津嶋神社、御嶽神社所在地 / 春日井市高座町1939参拝日 / 2023/06/21公共交通機関アクセス / JR中央本線高蔵寺駅から東に10分程五社大明神社から五社神社 / 東へ徒歩約30分関連記事 / 五社神社
2023.09.14
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先に掲載した「新薬師寺、比賣神社」からの引き続きとなる今回は、神仏分離以前まで新薬師寺の鎮守社だった南都鏡神社です。前回掲載した比賣神社は南都鏡神社の境外摂社にあたります。新薬師寺南門のすぐ左に朱の両部鳥居を構えた社頭があります。鳥居右に「南都 鏡神社」社標があります。境内は正面に拝殿があり、その右手に本殿があります。左手の建物は割拝殿となっており、境内から南側の道路に繋がっています。鳥居左の由緒。「奈良市指定文化財 鏡神社本殿一棟。この神社の本殿は春日移しの社。春日大社古記録によると延享3年(1746)春日大社第46次式年遷宮による御造営のとき、旧本殿の第三殿を譲渡しとある。昭和34年(1959)の修理のとき、屋根裏から「三ノ御殿」と墨書銘が2カ所から発見された。移築当時に近い形状を留め価値が高い。」ここに出てくる春日移しとは、春日大社では20年に一度式年造替が行われ、それに伴って旧社殿は近隣や関係の深い神社に下賜、移築する習わしを指すようで、春日大社本殿は国宝指定を受け移築は出来なくなりましたが、境内の摂末社は対象から外れるためその習わしは今も残ると云う。春日移しによる本殿は各地に存在するようで、ここ鏡神社の他にも先に参拝した御霊神社本殿も春日移しによるものと云われるようです。大和名所巡覧記(1891)より新薬師寺と鏡神社。大きな建物が新薬師寺本堂で、南門の左が鏡神社の社殿になります。割拝殿や鳥居の配置に違いはありませんが、本殿前に現在の拝殿が描かれていません。入母屋瓦葺で梁間1間、桁行2間の拝殿は四方吹き抜けのものでシンプルな姿のもの。右後方が本殿域で朱の鳥居の先に延享3年(1746)に移築された一間社春日造りの本殿が鎮座し、白壁で囲われており本殿域の左に春日造の社が祀られています。拝殿の左側には祖霊社が祀られています。鏡神社の創建は、天平から天平神護年間(729~767)に、現在の福智院に玄昉の弟子、報恩が肥前国唐津から鏡神社を勧請して祀ったのが始まりとされ、藤原広嗣の屋敷跡とされる現在地に大同元年(806)に移転し、新薬師寺の鎮守社とされた、また、社伝にはこの地は遣唐使発遣の祈祷所であったとされる。明治以降、鏡神社は独立した神社である。拝殿から本殿域の眺め。藤原広嗣公は、文武の才に長け、天平10年に大宰少弐に任命されました。しかし、朝廷の玄昉と真備の行動に対する不満から、広嗣公は天皇に上表文を送り、自身の考えを採用するよう求めました。これが謀反とみなされ、広嗣公は討たれました。その後、玄昉と真備は左遷され、広嗣公の霊は鏡尊廟で祀られ、霊信仰が広まりました。玄昉の急死と真備の左遷は、広嗣公の祟りとされそれ以降、霊信仰が世にあらわれた。その祟りを語る頭塔伝説があるようで、玄昉が急死すると遺体は奈良の地に飛散し、興福寺の境内に落ち、首は頭塔山に、腕は肘塚町に、眉と眼は大豆山町に飛来したと伝わるのだとか。狛犬脇の解説は社頭の解説と同様のもの。解説の左後方は祖霊社で右の本殿域に見える社が火雷天神をお祀りする「天神社」と思われます。本殿鳥居前の狛犬は子取り、毬持ちのもので寄進年は見忘れました。延享3年(1746)春日大社式年遷宮時の旧本殿の第三殿。昭和34年の修復以降も幾度か補修の手が入っているのだろう、屋根や壁面は傷みもなく、彩色も色鮮やか。春日大社の本殿は見ることができないが、この一間社春日造の社が並んでいると思えばいいのかな。鏡神社は開運招福、学業成就、家内安全、無病息災、交通安全の御利益があるそうです。拝殿左の祖霊社。境内西側から社殿全景。こぢんまりとしていますが、綺麗に纏まった神社です。南側の割拝殿からの眺め。拝殿の先に朱の本殿が望めます。創建 / 天平から天平神護年間(729~767)現在地遷座 / 大同元年(806)主祭神 / 照皇大神、藤原広嗣、地主神境内社 / 天神社、祖霊社境外摂社 / 比売神社別社 / 赤穂神社所在地 / 奈良県奈良市高畑町486新薬師寺南門の左参拝日 / 2023/11/30関連記事 / ・新薬師寺、比賣神社 (奈良市高畑町)・雨寳山十輪院・御霊神社 (奈良市薬師堂町)
2024.01.07
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奈良市春日野町「春日大社」その名は広く知られ、全国に約千社ある春日神社の総本社で、ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の1つに登録されている。修学旅行で奈良を訪れればコースに組み込まれる見所の一つだろう、自分もその中の一人。春日大社の入口は左に興福寺、右手に猿沢の池を見ながら三条通りを東進した突き当り。三条通の東の突き当りに立ち、平安中期頃に建造された木造の明神鳥居。太い柱が印象的な現在の鳥居は寛永11年(1638)に再建されたものとされ、古くは春日大社と興福寺境内の境に立つ結界の役割を持っていました。日本三大木造鳥居のひとつに数えられる大鳥居で、高さ7.75㍍あるという。因みに日本三大木造鳥居は以下。・福井県敦賀市鎮座 氣比神宮(両部鳥居)・広島県廿日市市鎮座 厳島神社(両部鳥居)と、ここ春日大社の一ノ鳥居(明神鳥居)を指すようです。いずれも立派な鳥居ですが、春日大社のそれは控柱を持たないものなので、柱の太さがより強調される。社殿はこの鳥居をくぐった約1㌔先に鎮座します。境内案内図。御蓋山の西麓の広大な神域に春日造の本殿4棟をはじめとする社殿があり、西側・南側に多くの境内社が鎮座し、それらを巡拝する若宮15社巡り、水谷9社巡りがあります。それら社殿や燈籠、自然など写真を整理する枚数が膨大になってしまい、一ノ鳥居をくぐり参道から本殿までを今回、若宮15社巡り、水谷9社巡りと三回に分けて掲載します。まず上の写真は一ノ鳥居から眺めた参道。9:30に鳥居前に到着、既に観光バスは頻繁に訪れ、参道の先は参拝客で賑わっているのだろう。本殿は9:00から開くので、人で混みあう前の静かな境内を歩くならもう少し早い時間がいい。下は境内入口の境内マップ。最初に栞から春日大社の由緒を以下に記載します。「御由緒平成28年、20年に一度の第60次式年造替によって、国宝の本殿四棟と重要文化財の二十七棟が美しく蘇りました。春日大社は1300年程前の平城京の守護神として、常陸国より国譲りに貢献された武神である武甕槌命、下総国より神武東征を導き、建国に尽力された武神である経津主命、河内国より天岩戸にて斎主として最初に祝詞を奏上された天児屋根命、美しく心優しい比売神の四柱が祀られている。都・日本を護るために最も力のある四神を祀るため創建されました。現在も年に2200回以上の祭事が行われ、国と国民の繁栄・平和、皇室の繁栄、世界平和の祈りが揚げられている。国家鎮護の神様であると同時に藤原氏の氏神でもあります。奈良時代以降は天皇の生母のハ割以上は藤原氏であり、天皇、上皇の行幸は42回におよびます。平安時代からは3000基の灯籠が奉納され、将軍や貴族はじめ、九割以上を庶民から奉納されたもので、中世以降は民衆から広く崇敬されている。例祭は、1200年以上続く春日祭で、天皇陛下から遣わされた勅使により、春日大神へ国民の繁栄を祈り御祭文が奏上されます。3月13日に斎行され、宮中より宮内庁の掌典職が、平安時代の延喜式のままのささげ物である御幣物を供えて祈り、平安時代の古式のまま現在も続いている。奈良時代の神護景雲二年(768)に本殿が創建されるまで、平城京へ太陽と月が昇り、水源地たる都の聖なる神山の御蓋山(三笠山)、春日山への祈りが捧げられていました。その後も神山への春日信仰は続き、平安時代には朝廷より神山の狩猟伐採禁止の法令が出されたため、今も春日山原始林が存在し、明治時代までは100万坪、現在でも32万坪の広大な境内を有しています。また、古代より春日大神の使いである神鹿の殺生も禁止され、一帯には現在も1200頭の鹿が生息しています。1300年間に亘り、一日も絶えること無く、国と国民の為の祈りが奏上され、春日大神は人々を護り、境内は自然の中で人間が生かされている大切さを示し、神の下で人と自然が共生する世界でも唯一の地です。」春日大社末社 壺神神社。燈籠が連なる長い参道を10分程進み、月替わりの粥が楽しめる春日荷茶屋を過ぎた参道左に鎮座する神社。社殿に向かう参拝客は多いが、壺神神社を参拝する姿はほゞ見かけなかった。由緒がなく創建等記されていませんが、古くは境内の南郷(高畑)と北郷(野田)の二ヶ所の社家町に守護神として祀られていたようで、それが明治11年(1878)に合祀されこの地に遷座したとされます。春日大社の社殿の隣接して酒殿と竃殿が鎮座しますが、壺神神社の起こりは春日大社建立以前からのようです。祭神は仁徳天皇(257~399)の御代、大陸からやってきて酒造技術をもたらしたとされる兄妹、男神酒弥豆男神(さかみずおのかみ)と酒弥豆女神(さかみずめのかみ)が祀られている。脱線するが仁徳天皇と云えば「高き屋に 登りて見れば 煙立つ 民のかまどは にぎはひにけり」の和歌で知られるが、竈の煙から民衆の疲弊度を把握し課税を免除し自らの宮殿の整備も見送ったとされる。見もせずに語るだけのどこぞの人物に見習ってほしいところだ。参道沿いの奉納燈籠はシンプルなものから、竿に多様な意匠が施されたものもあり、苔むした古いものが連なっています。ニノ鳥居。壺神神社から5分程先にある木造鳥居で、手前に大きな狛犬が鎮座する。狛犬が見つめる先の鹿と比較すると大きさが想像できると思う。春日大社の神紋下り藤が刻まれた台座の上に鎮座する狛犬。寄進年未確認。祓戸神社二之鳥居をくぐった左にある社で、祓い浄めの女神とされる瀬織津姫をお祀りする。春日大社にあって珍しい檜皮葺の一間社流造の社。由緒は以下。「末社 祓戸神社祭神 瀬織津姫神様例祭 6月30日由緒春日大社大宮(ご本殿)が創建されたすぐ後の、神護景雲四年(770)に鎮座と伝えられる古社。大宮の創建以来続く春日祭では、古くは天皇陛下の勅使が京の都から2500人近くの官人などを率い参向された。現在も勅使はこの社で御祓いの儀式を済ませたあと、大宮御神前に進まれ春日祭をご奉仕になる。このように非常に格式の高いお社で、江戸時代までは中社(摂社)とされていた。御神徳祭神は祓の神様であり、知らず知らずのうちに犯した罪・穢を祓い清め、人々を幸せに導く神様で、6月と 12月に行われる大祓式はこの社で執行される。参拝の方は手水の後、まず祓戸神社に参拝し、心身を清浄にして大宮・若宮にお進みください。」とあり、創建は平安中期の寛弘3年(1006)にはお祀りされていた古社です。その右側の伏鹿手水所。ここでは龍より鹿。上祓戸神社から参道を進むと左手に南回廊と摂社榎本神社が見えてきます。上の写真のように参道から石段が伸びていますが、人で溢れる楼門に向かう流れはあるが、榎本神社に参拝する姿は見られなかった。楼門(南門)から廻廊の西端に埋め込まれる様に鳥居が立てられ、菱格子で囲われた中に春日造の本殿が祀られています、廻廊が榎本神社の覆屋のようにも見えてくる。「榎本神社由緒御祭神 猿田彦命例祭 11月1日由緒春日の地主の神として尊崇され、本社御鎮座後、一時安倍山(現在奈良県桜井市)にお遷りになったが、承平5年(935)再びこの場所へ御帰座になった。御神徳寿命を守り給う神として信仰され、安永4年(1775) には宮中より御祈祷と願い出られた。又、導きの神、道開きの神として人生の岐路に御加護を願う人が多い」ここから廻廊沿いの石燈籠を通り抜けるように右に向かうと楼門に続きますが、ここはやはり石段を下り参道から楼門に向かう。楼門前へ続く石段は記念撮影スポット、団体が過ぎるのを待つため、突き当りから楼門(南門)を眺める。楼門の真正面に玉垣で囲われた出現石があります。中には小さな岩が頭を出して埋められており、解説は以下。「この石は太古の昔、神様が降臨された神聖な「磐座」であり、赤童子(若宮様の荒魂)が出現されたと伝わる事から「出現石」といわれる。また奈良時代の宝亀3年(772)に雷火により落下した社額を埋納した「額塚」とも言われ信仰に深く関わる神石である。なお、この出現石から若宮方面に20㍍ほど先、布生橋の手前にわずかに姿をのぞかせる「如意石(さぐり石)」 まで、目をつむってたどり着くと、願いが叶うといわれている。」 上楼門正面。下楼門前から南回廊と榎本神社。楼門の高さは約12㍍あり春日大社の建築物としては最大のもので、平安時代中期頃は本殿の正面に位置する鳥居だったようで、藤原氏の長者や摂関による春日詣の参向門とされ、廻廊が作られた治承3年(1179)に二層の楼門に改められ、春日大社の正門としての性格を持つようになったという。現在の三間一戸の入母屋檜皮葺の楼門は文久3年(1863)のもの。回廊周辺や若宮に向かう参道には苔生した古い元号の石灯籠が多く見られました。楼門をくぐった先の参拝所と幣殿。貞観元年(859)に建立された桁行五間、梁間三間の切妻檜皮葺の建物で、手前の一間が拝所と奥の二間を幣殿として区分けされている。雨天にはここで神楽や舞楽が奉納される。ここから先は特別拝観券(@500)が必要なので、参拝所前の混雑は多少緩和されます。有料区域に入ると東廻廊を背にして四社が祀られています。上が井栗神社 祭神 高御産霊神、例祭 5月25日、御神徳 安産の神様で縁結びの御利益も得られる神様。下は穴栗神社 祭神 穴次神、例祭 5月25日、御神徳 幸運を導いて下さる神様。右が辛榊神社 祭神 白和幣、例祭 5月25日、御神徳 交渉をおまとめ下さる神様左は靑榊神社 祭神 青和幣、例祭 5月25日、御神徳 争いを解決に導く神様中門。本殿の直前にある楼門で江戸時代前期の慶長18年(1613)に建立された一間一戸の檜皮葺の楼門で、約10㍍の高さがあり、正面の唐破風は明治時代になって取り付けられたものとされます。御廊は中門から鳥が翼を広げたように左右へ約13㍍延びています。神仏分離以前は興福寺僧侶や東大寺の僧侶が読経をあげる場所で、現在は本殿の祭典では、神職の座る場所ですが、例年1月2日の日供始式並興福寺貫首社参式では興福寺の僧侶が神前で読経を行うそうです。楼門唐破風屋根と上層の眺め。東から御廊と中門の眺め。左の注連縄が張られた太い幹の杉は樹齢1000年とも云われ、樹高は約23㍍、幹回りは約8㍍と云われ、鎌倉時代後期(1309)に描かれた春日権現験記にもその姿は描かれている。根元から四方に伸びるイブキの樹は直会殿の屋根を貫いて上に向かって聳えています。上中門右の手力雄・飛来天神社参拝所手力雄神社祭神 手力雄神例祭 4月1日神徳 勇気と力の神飛来天神社祭神 天御中主神例祭 4月1日神徳 空の旅の安全を守護する下東回廊(内回廊)。吊燈籠がたくさんあることで知られる春日大社、平安時代から現在までに奉納された燈籠は3000基を超えるとも云われ、数だけでなく歴史的にも貴重なもので、室町時代以前の燈籠の六割以上が春日大社にあるという。8月14・15日の「春日万燈籠」では全ての燈籠に明りが入れられる。治承3年(1179)に建造された回廊は、社殿の東西約40㍍、南北約60㍍にわたって巡らしたもので、中と外の回廊を連子窓で区切り一つの大棟を通した造りで、この東回廊は約37㍍あると云われ、中央の影向門から外回廊に出た左奥には御神体の御蓋山浮雲峰遥拝所へ繋がっています。「奈良時代初め、平城京守護のため、春日大社第一殿の祭神、鹿島の武甕槌命が白鹿の背に乗り天降られた神蹟、御蓋山頂上浮雲峰の遥拝所。神護慶雲3年(786)に本殿が建立される以前に鹿島・香取・牧岡の神々が鎮まる神奈備として崇められ、現在も禁足地として入山が制限されている聖地。この遥拝所は浮雲峰から春日大社御本殿を通り、平城京大極殿まで続く神々の力が伝わる尾根線上で、ここから浮雲峰を遥拝してください。」いまだ鹿島・香取の神さまの参拝は叶わないがここでそれも叶うと云う事のようだ。再び内回廊に戻り、東回廊から楼門に続く南回廊を眺める。中門の参拝を済ませ大杉の根元に鎮座する春日造の岩本神社へ。「御祭神は表筒男命、中筒男命、底筒男命の住吉三神を祀る。例祭 12月16日御由来・御神徳大杉のお膝元に鎮座する社は、中近世一般には「住吉社」と称されていました。春日大社の近世の社務日誌にも、3月13日の春日祭に際し、社司「住吉壇上」に蹲踞すると書かれ、これは現在の岩本神社前の石畳の場所にあたります。当社蔵『天文二十二年正遷宮記』には「岩本社」とあり、明治初年、同じく当社末社の奈良高畑丹坂町の住吉社と区別するため、岩本社と復称したと考えられます。古来住吉明神として海神信仰、また歌神信仰があります。」幣殿左脇から大杉と中門、東回廊の眺め。上中門西回廊の横に鎮座する風宮神社祭神 級長津彦命、級長津姫命例祭 9月1日由来・御神徳本殿の真西に位置する風を司る神様です。西の風神のというのは、本殿を西風から守り外敵を吹き払う攘災神的な神様である云われます。春日祭巳之祓式では御神木をこちらの御垣の隅へ納める儀式があり、 風の神の力を得て吹き祓うものと考えられている。社左に七種類(イスノキ、山桜、椿、南天、ニワトコ、藤、楓)の木が共生する「七種の寄木」と呼ばれる木があり、これは祭神が持つ風の力で種が集められたとされ、小授けの霊木として崇められている。下風宮神社の後方、後殿の左に鎮座する椿本神社。祭神 角振神例祭 5月2日由来・御神徳春日明神の眷属の神で、隼の明神とも呼ばれ、災難を祓ってくれる神。椿の木が付近にあったことから、社名になったと伝わる。後殿。本殿の後方の後殿には災難厄除けの神々が祀られています。この門は明治維新以来長く閉じられてままだったが、第60次式年造替(2007~2016)を機におよそ140年ぶりに開門されたもの。手前右は風宮神社、左は椿本神社、右には春日造の本殿4棟が鎮座する。上後殿の門から望む春日造の本殿4棟。春日大社の所蔵する『古社記』に称徳天皇の神護景雲2年(768)11月9日と記されているという。第一殿 武甕槌命第二殿 経津主命第三殿 天児屋根命第四殿 比売神由緒春日の神々の鎮座は奈良朝のはじめ、平城京鎮護のため、まず武甕槌命様を鹿島(茨城県)から御蓋山頂に奉遷したことからはじまり、香取(千葉県)の経津主命、枚岡神社(大阪府)の天児屋根命と比売神の四柱を併祀したのがその始まりとされています。下後殿末社5社(左から)雷神社祭神 八雷大神例祭 4月15日御神徳雷神様、電気の力で人々に幸せをもたらす神様、雷除けの御利益がある。粟柄神社祭神 火酢芹命例祭 4月15日神徳門戸(出入り口)を守る神、除災の神として崇敬が篤い。海本神社祭神 大物主神例祭 4月25日神徳 水徳の神様で五穀豊簇、食の安全を守る神。杉本神社祭神 大山咋神例祭 4月25日神徳 山岳守護の神、高層マンシンで就労・居住する人々の安全を守る神。佐軍神社祭神 市津之雲大神例祭 4月25日神徳 石上神宮の祭神と同神で、国土平定に霊験があったことから、災禍を祓い悪因・悪縁を断ち切る神。上藤浪之屋多賀神社後方にあり、江戸時代まで神職の詰所として使われていた建物。外光の届かない室内は無数の燈籠が灯されており、春日万燈籠の神事を体感できる。下多賀神社御祭神 伊弉諾命例祭 4月22日御由来・御神徳回廊内の北西隅に鎮座し生命を司る延命長寿の神様で、その昔に俊乗房重源が大仏殿を再建するときに寿命を頂いたという言い伝えがあることから、その御神徳を求め崇められている。上 宝殿本殿に隣接し、厚板で組み上げられた朱塗の校倉造の建物で、古くは春日大社の御神宝を納めていました。春日大社が所蔵する国宝の大鎧等は、近代までこの宝庫の中で保管されていました。現在は3月の春日祭の時に、本殿を飾る御神宝の鏡、太刀、鉾、弓矢などが納めらていると云う。下 内侍殿桁行五間、梁間三間の檜皮葺の流造で、かつては春日祭に当たって神前で奉仕をする内侍が控えていた建物として内侍殿と呼ばれる。当初は宮中から藤原氏の女性が斎女として遣わされ、斎女とともに内侍も儀式の奉仕をしたと云う。早くに斎女はなくなり、内侍の参向は以降室町時代中頃まで続きました。内侍殿は20年に一度の造替の時、本社と若宮の神様をお遷しするので、移殿とも呼ばれるそうです。上西回廊内侍門から見る酒殿。貞観元年₍859₎の建立とされ、春日祭で供える神酒を醸造施設。天平勝宝2年(750)の記録に名が記され、現在も内部にある大甕で濁酒を醸造し神々にお供えしていると云う。下慶賀門。西回廊の南側の門で正面に御蓋山が望める門。古来より正式な参入門とされ、宮中の藤原氏の大臣や上卿はこの門をくぐって参入したと云う。門入口の紅葉が綺麗な事もあり、これ以上下に向け撮れなかった。上内侍門入口と桂昌殿。下酒殿の北側に鎮座する桂昌殿。元禄年間に徳川綱吉の母「桂昌院」が寄進したことからこの名で呼ばれるが、「祈祷殿」が正式名。文字通り天下泰平を祈願するため元禄12年(1699)に建立された建物。春日大社の広い境内、今回は本殿域とその西側のみ掲載しました。次回は広大な境内に鎮座する水谷九社巡りになります。春日大社(一ノ鳥居から本殿)創建 / 神護景雲2年(768)祭神 / 春日神 (武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神)所在地 / 奈良県奈良市春日野町160境内社 / ・・・参拝日 / 2023/11/30新薬師寺から春日大社一ノ鳥居 / 北西に20分程関連記事 / ・南都鏡神社 (奈良市高畑町)・新薬師寺、比賣神社 (奈良市高畑町)・雨寳山十輪院・御霊神社 (奈良市薬師堂町)
2024.01.10
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過去掲載した「亀崎仲間通りの街並み」その中に「力神車の保管庫」がありますが、今回はそこから東方向に鎮座する浄顕寺までを掲載します。かみさんの知多新四国八十八箇所霊場巡りにお供として亀崎に来ていますが、お供が道草ばかりするもんだからかみさんにはドンドンおいて行かれています。そんな状況にありながら、力神車管庫の左に奥へ続く路地があります、正面に山を背にして建つ瓦葺の小さな門が目に止まり路地を進んで見ました。町内で盛んに見かけた「望洲楼」の看板、ここがその望洲楼。知多で作られた日本酒などの産物を江戸に運搬する海運業で賑わった亀崎。ここに1855年(安政2)に中口屋の屋号で本町通りの南に料理屋として創業したのが始まり。敷居が高そうな雰囲気、亀崎で一番古い料亭のようで半田市景観重要建造物に指定されている。「亀崎十二勝」と題して、漢詩で亀崎の景勝を詩ったものらしく、十二勝の10か所を亀崎十景として掲げているそうです。入口でくつろいでいたキジトラ。ここの住人なのか尋ねても答えてくれないが、人には動じない姿は、むかし我が家の住人だったキジトラを思い出す。敷居の高そうな雰囲気を彼?が和らげているような。キジトラに別れを告げ通りを東に2~3分程進むと左に山門が見える。「寳物 蓮如上人 御自作木像 石山合戦御身方連名 血判弥陀画像 其他多数」と記された看板に目が止まり拝観させてもらいました。林正山浄顕寺と称し真宗大谷派のお寺。蓮如上人(本願寺第8代)は1468年(応仁2)応仁の乱と堅田大責の変を避け三河国に下向のおり、亀崎に留まりこの地の教化を導いたとされる。血誓の阿弥陀如来絵像「1570年(元亀元年)から1580年(天正8)までの10年間、御田信長による大阪本願寺攻め(俗に石山戦争)に於いて、阿弥陀如来絵像の裏や上に誓約を示す宗徒の署名血判が押されているもので、血判状の代表的なものとされる。絵像の裏には武士と考えられる「佐田五郎二郎」の名が農民に混じり瀬田町衆、八幡町衆、南蔵坊禰宜の文字も見られ、様々な階層が一致して一揆に参加した事がうかがわれる。絵像はこの地方のものではなく長浜のものであると考えられ、浄顕寺四世の林正が本願寺に尽くした結果、与えられたと伝えられている」一向一揆に結集した門徒が血判した「血判阿弥陀如来絵像」が二幅保存されているといわれ、大阪本願寺で信長と戦った人たちの署名血判状の代表的なものとされ半田市指定文化財のひとつだそうだ。参道の先に建つ瓦葺の山門。寺の沿革によると1754年(宝暦4)に大門(山門)建立とある。丸い門柱に角柱の控え柱が付く四脚門でそこから間近に本堂が望める。参道脇にはイチョウの巨木が聳えている。創建については諸説あるようです、沿革を尊重すると1468年(応仁2)蓮如上人の開基されたのが始まり。本尊は阿弥陀如来。この寺へ幾度も藩主が訪れ、1679年(延寶7)尾張藩、後の第3代藩主・徳川綱誠(つなのぶ)が知多郡巡視の際に浄顕寺に立ち寄り休憩を取ったとされ、1733年(享保18)には尾張藩第7代藩主・徳川宗春(むねはる)も浄顕寺で休憩を取ったようだ。1803年(享和3)には伊能忠敬も浄顕寺に宿泊した記録があるようだ、1827年(文政10)徳川綱誠立ち寄りの縁で宗春の位牌を受領するなど古くから続く亀崎の古刹。血判阿弥陀如来絵像は1901年(明治34)に封印されたようで拝観は出来なかった。本堂左の眺め、東南海地震、三河地震などで被災し伽藍の一部を失い、境内にあった鐘楼も伊勢湾台風で倒壊しその後撤去された、現在の伽藍に留まっているようです。境内中央には樹齢は不明ですが大きなイチョウが御神木の様に聳えている。本堂から山門の眺め。晩秋には黄葉したイチョウの葉が境内を黄色一色に染めるのだろう。もういい加減待ちくたびれたかみさんから電話が入りそうな・・・・・2021/09/24浄顕寺山号 / 林正山宗派 / 真宗大谷派創建 / 1468年(応仁2)開基 / 蓮如上人本尊 / 阿弥陀如来所在地 / 愛知県半田市亀崎町3-51関連記事 / 「亀崎仲間通りの街並み」力神車の保管庫から / 徒歩2~3分
2021.11.11
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諏訪神社から東へ徒歩で10分程、日比津公園の東に鎮座する「長秋山定徳寺」へ。 所在地は中村区日比津町1になります。この地にはかつて栗山城が築城されていたとされる場所で、今回「長秋山定徳寺」を訪れ、城の痕跡も探して見たがそれらしい遺構は皆無だった。 定徳寺境内には天満宮、妙龍大善神、稲荷社など鎮座し、今回は定徳寺と天満宮を取り上げ、二回に分けて掲載。定徳寺薬井門前に写真の名古屋市教育委員会の解説板がある。内容は以下。 「長秋山(ちょうしゅうざん)と号し、日蓮宗。延文5年(1360年)、僧日悚の創建。 明徳年間(1390~94)の頃、当寺第二世日就により諸堂が整えられた。当寺第25世日潤は道徳才学兼備、和歌、茶道をよくし、その高徳は四方にきこえたと伝えられ、天保8年(1837年)に身延山久遠寺の第60世貫主となった。」 尾張名所図会の定徳寺に目を通すと内容は符合、境内の日潤碑、結天神の記述は解説では省略されているようだ。伽藍の挿絵が見たかったが残念ながら描かれていなかった。薬井門の左は駐車場のようだ、右側に「傅教大師御自作 日蓮上人御開眼 三十番神鎮座」の石柱が立つ。薬井門は緩やかな曲線の壁と一体となっている。 参道の先に見えているのは番神堂。伽藍は参道右側に本堂、庫裏、寺務所が連なっています。薬井門に架けられている山号額「長秋山」薬井門から境内の眺め。 参道左に鐘楼、その奥の番神堂左に地蔵堂と天満宮の覆屋があります。正面の番神堂と手前の庫裏と本堂。 庭は入念に手入れされ、当日も庭師の方の手が入っていた。定徳寺は神仏混淆の寺、正面の番神堂には複数の神像が祀られ、奥に安置された厨子が50年に一度開帳されるという。 因みに次回の御開帳は2047年、かみさんはともかく、自分が訪れる確率はかなり低いだろう。鐘楼。 入母屋瓦葺で見た目は普通だが柱と梁に免震装置が施されていた。 梵鐘。 かなり大きな物でさぞかし好い音色だろう。一回りしたいところですが、当日それが出来る状況ではなかった。参道右側の本堂。 架けられた額には…達筆すぎて読めないのがまた悲しい。何でもスマホの時代、QRの様に翳して読み取れる時代は訪れないのかね。番神堂。 傅教大師御自作という天照大神像などが安置されている。番神堂を守護する狛犬は大正2年(1913)に寄進されたもの。 架けられた額…達筆すぎて読めないのがまたゝ悲しい。番神堂左の覆屋と地蔵堂。 右の天満宮の前には赤い前掛けを付けられた撫で牛が安置されている。昭和4年(1929)に建てられた天満宮縁起。 「当寺祀る天満宮は宗祖日蓮上人の開眼。元来、尊像は城西児玉町観音寺に祭祀されていた、安政3年(1857)、当山27世住職の霊夢から当境内に遷座し勧請。以来多くの人々から崇敬されている。昭和4年春」 一部読み取りが出来ず一部抜粋。城西(西区名西2)からこちらに遷座したようで、尾張名所図会(1838)の「境内に結天神あり」とはこの天満宮なのだろう。 撫で牛…だろう。 往古から多くの願いを聞き入れて来たであろう風貌。覆屋向拝下に掛けられた額には流れるような美しい筆致で「天満宮」と書き上げられている。覆屋内の社。 社の全体像は分からないが向拝などに梅紋が入れられている。先程の石像は道真と所縁の深い撫で牛で間違いないようだ。 それにしてもこの社、道真一人を祀るには扉が多い様な。天満宮の右隣りの地蔵堂。 それぞれに銘板が架けられていたが調整してみるも文字は読み取れなかった。二体の像は口元に笑みを浮かべた表情をしている。制作年代は不明。天満宮の右側から番神堂の奥に続く参道が伸びています、その先には朱の明神鳥居が立ち、その前を一対の狛狐が守護しています。 また、鳥居左には脇参道があり南側の道路と繋がっています。定徳寺南側から番神堂全景の眺め、境内の朱の鳥居は目立つ存在かもしれない。 ここからすぐ南の交差点角には、以前、日比津の「秋葉社」で見かけた「南無妙法蓮華経」と刻まれた髭題目が立てられています。定徳寺宗派 / 日蓮宗山号 / 長秋山創建 / 延文5年(1360年)開山 / 明徳年間(1390~94)本尊 / 釈迦如来境内社 / 天満宮所在地 / 名古屋市中村区日比津町1-16-8参拝日 / 2022/09/02関連記事 / 諏訪神社(中村区諏訪町3)、秋葉社 (中村区日比津2)諏訪神社から東へ / 徒歩10分程
2022.10.05
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尾張旭市新居町「多度神社」尾張旭市の新居城址のある城山公園の前を東西に続く城山街道、東進し「多度神社前」交差点で左折し丘陵地を上り詰めると正面に多度神社の社頭が現れます。車の場合は社頭から左に更に上ると駐車場が用意されています。住宅の広がる丘陵地に大きな杜に包まれた社頭全景。右に「多度神社」の社標は大正9年(1920)の寄進、少し先に石の神明鳥居が建ち、手前で狛犬が守護している。造営記念碑。「開祖水野又太郎良晴が康安元年(1361~1362)に建立と尾張府誌に記され…八代末裔水野重太夫同金左衛門が取り持ち社殿を再建…」とあり、新居村の歴史と共に歩んできた神社のようだ。大正9年(1920)寄進の狛犬はにこやかに微笑んでいる様に見える。参道右の手水舎と働く龍。鎧の様な鱗を持ち立派な髭の龍、清水を注ぎいかにも龍らしい姿。手水舎から境内までは石段が続き、途中の踊り場にニノ鳥居が建っている。石段を上り詰めると正面に多度神社拝殿が見えてくる。本殿の左右に境内社の姿が見える。境内から里山の樹々に包まれた参道を見下ろす。拝殿全景。山の頂に開かれた広い境内は陽光が降り注ぎ明るいもの。拝殿は神明造風で屋根は緩やかな起りが入ったスタイリッシュなもの。境内の由緒。「多度神社主祭神 天津彦根命(天照大御神の御子神)合祀された御祭神 倭建命、天照皇大御神、大山祇命、豊受媛命、建御名方命、金山比古命、菊理比売命由緒新居村を開祖した水野又太郎良春が康安元年(1361)に勢州多度社(現在の三重県桑名市多度大社)から勧請し造営したと伝わる。その後水野又太郎良春の末裔裔水野重太郎等により延宝9年(1681)に社殿が再建されました。また、新居村に散在していた小社の神明社、天道社、山神社、諏訪社、金刀比羅神社、豊受社、白山社の御祭神7柱が明治44年(1911)年に合祀。後の大正9年(1921)に本殿の改修、境内整備が行われ、昭和33年(1958)に拝殿と参道及び大鳥居を建設。現在、境内社として本殿右に一目連社(天目一練命)が祀られる。この御祭神は金属工業の守護神で風雨をも支配されることから雨乞いの神様ともされています。本殿左に児社が祀られています。また本殿横に学問の神さまと崇められる天神社(菅原道真公)が祀られています。年中行事1月 元旦祭、初天神祭、2月 祈年祭、3月 天神感謝祭、6月 大祓、7月 御鍬祭、雲霞祭、10月 例祭、11月 新嘗祭、12月 大祓。他毎月月次祭」この地を俯瞰して見れば北に庄内川、南に矢田川と挟まれていますが尾張丘陵のこのあたりは水源の乏しい土地柄。新居村を開拓した水野又太郎良春が、雨乞いのため多度大社や一目連社など勧請したのも頷ける。数は減ったが一帯に大小の灌漑用溜め池が点在するのもそうした事もあるだろう。また、秋の祭礼で奉納される無二流棒の手も水野又太郎良春が農民に広めたと伝わり、今も地元から親しまれ、尾張旭駅前には馬にまたがった水野又太郎良春の銅像が誇らし気に建っている。東春日井郡誌第三節村社によれば、水野又太郎良春の子孫で新居城主だった水野雅楽頭平良宗が天正年中(1573~1592)に勧請…と書かれており、一方で水野又太郎良春が勧請した説もあると記されていた。拝殿と右側の境内社の眺め。平入の拝殿後方で切妻の幣殿が接続する。拝殿額も多度神社。1958年に改修を受けたとあるだけに綺麗な外観。鈴は二つとも下ろされ、鈴を鳴らす事が出来た。社宝に寛文8年(1668)に寄進された二振りの剣と武具なとがあるようです。本殿域右の一目連社、祭神は天目一連命をお祀りする。多度大社の別宮、一目連神社の祭神で片目の潰れた水を司る龍を指すとされ、鍛冶の神天目一箇神と同一神とされるようになったという。左手に本殿を守護する狛犬の姿があるが、今にも飛び掛からんとする容姿から檻の中に封じ込まれたのか。拡大して見ると肌は滑らかで陶製かもしれない。本殿域を取り囲む玉垣の右に鎮座する子守勝手明神。子守明神と勝手明神夫婦が祀られているのだろうか、詳細は分からない。拝殿右にも由緒碑が残され、「天正年間(1573~1592)城主雅楽頭平良宗建立…」とある。康安元年(1361~1362)と天正年中(1573~1592)と二つの由緒碑で刻みは違う様で、東春日井郡誌の二説ありと記述したのも分かる気がする。とはいえ、境内の由緒を尊重し、ここでは康安元年(1361)としておきます。本殿域左に少彦名命を祀る児社。その右にも暴れん坊の姿がある。玉垣の右に鎮座する天神社。祭神は学問の神菅原道真をお祀りし、そのタイミングにある若者の願いが書かれた沢山の絵馬がかけられていた。なにかで聞いたが話ですが、祈願の際は住所と氏名を最初に名乗れと聞いたことがある、以来ずっと「何処から来た誰誰です」と心の中でお伝えしてから祈願する事にしている。祈祷の際に必ず宮司さんが読み上げてくれますね、お願いされた側にしても誰か分からないと仕事も出来やしない。後方は多度神社本殿、高い玉垣が全貌を見せてはくれない。社殿西側から全景。屋根の僅かな起りと本殿の掘立柱、棟に施された6本の鰹木と内削ぎの千木が見て取れる。シンプルに纏まった清楚な趣が漂う神社だと感じる。社務所、常駐ではないようですがおみくじや書置きの御朱印もあるようです。社務所西側の駐車場から見る社殿。根元から二手に別れ、見事に聳える大きな樹が多度神社のシンボルかも知れない。西側に脇参道があり、そこから境内に入った右側にも手水舎がある。こちらの手水舎の龍もしつかり仕事をしている。正参道の龍を黒龍に例えれば、こちらは靑龍だろうか?長い時の積み重ねの中で創建が康安元年(1361~1362)と天正年中(1573~1592)と説が分かれてはいるようですが、200年の差を重要と捉えるか、新居村を切り開き多度神社を建立した水野氏の存在を称え諸説ありとしておくか、明確な根拠を元に起こりを正すかは、よそ者が決める話ではないと思う。帰り際に駅前の水野又太郎良春の像に挨拶して帰るかな。多度神社創建 / 康安元年(1361~1362)主祭神 / 天津彦根命合祀 / 倭建命、天照皇大御神、大山祇命、豊受媛命、建御名方命、金山比古命、菊理比売命境内社 / 一目連社、子守勝手明神、児社、天神社所在地 / 尾張旭市新居町西浦3182参拝日 / 2023/01/10吉根神明社から車移動 / 南東へ15分関連記事 / 吉根 神明社 (名古屋市守山区深沢)
2023.02.03
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今回は名古屋千種区覚王山の『大龍寺』を紹介します覚王山周辺の丘陵地は多数の神社仏閣が鎮座する場所です県道30号線「姫ヶ池通り1」の交差点の南側、日泰寺駐車場の1本目の路地を左折します目の前の小高い丘陵地の頂きを目指しひたすら登る事になります道すがら「大林禅寺」を横目に眺め歩くとやがてT字路となりますそこは左に曲がってください姫ヶ池通りには五百羅漢道の道標も置かれています写真は1920年(大正9)と刻まれています目の前には幼稚園の個性的な送迎バスその奥には大棟に鯱をあしらった山城を思わせる造りの『大龍寺』が見えてきます大龍寺の寺標右は幼稚園の施設、園庭では子供達が遊んでいます境内左の鐘楼こちらの鐘楼と近くの「相応寺」の鐘楼はいつ見ても立派な物です正面には日泰寺の五重塔、東山給水塔などが望めます梵鐘は近くで見る事が出来ませんが、竜頭や梵鐘側面には細かな飾りが施されています正面の本堂と両側の別棟は渡廊で結ばれ「コの字」型の一体となった造りこの別棟に五百羅漢像が祀られています残念ですが非公開です羅漢「供養と尊敬を受けるに値する人を指し、剃髪し,袈裟を着た僧形に表わされる修行者(釈迦の弟子)」十六羅漢や十八羅漢等はその数を表しています本堂の扁額大龍寺 / 黄檗宗、京都宇治の万福寺の末寺本尊 / 阿弥陀如来創建 / 1725年(享保10) 名古屋新出来町に創建1912年(明治45)現在地に移転日差しを受けて桃?のピンクが鮮やかです、その奥に釈迦如来が見えています堂内右側に祀られる羅漢像正面の黄金色に輝く釈迦如来、立派な姿です左側の羅漢像、間近で見たいものです大棟の鯱と軒丸瓦、羅漢の羅が施されています破風飾り、葵の紋も目に入ります本堂の丸い明り取りは印象に残ります本堂の裏側寺標もありますが、門は閉ざされています元々は名古屋城築城に伴い、その犠牲者を供養するために造られたとも云われます高台に建つ山城の様で、どことなく大陸の香りが漂う『大龍寺』です五百羅漢見たいものです住所 / 愛知県名古屋市千種区城山町2-71-1アクセス / 地下鉄東山線覚王山駅下車、徒歩10分
2017.12.03
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紅葉にはまだ早い10月26日岐阜県恵那市の岩村城跡を訪ねる事にしました。岩村城跡は小高い山の頂にあった山城標高は717mと山城の中では最も高い築城は1221年以降(鎌倉中期)とされ1871年(明治4)に解体されています岩村の上町常夜灯から左に折れ、案内板に従い登り始めます温故の井を右手に見ながら高度を上げていきます(上段左)知新館跡のほど近く、聳え立つ太鼓櫓(下段左)は藩主邸跡地に藩主邸の一部、表御門、平重門と共に1990年(平成2年)に資料館として復元されたもの。下田歌子勉学所(下段右)、趣のある古い門、その奥は実践女子学園の創設者の下田歌子の勉学所。知新館の教授を父に持つも女性故に、知新館で学ぶ事が許されず、父親の書斎で独自に勉学した場所とされます。勉学所を過ぎてからが本番、杉や檜に囲まれた石畳の坂を上り高度を上げますpointには解説板も設けられとても親切です------結構な上り坂です一ノ門あたりから石垣も顔を見せ始めます土岐門あたりからは石段となり斜度も更に強く、道は曲がりくねり、荒れています土岐門は移築され徳祥寺山門として現存しているようです(上段)畳橋付近の石垣、急峻な地形によくぞ作ったものです、これは容易に攻め込めない(下段)石段は杉の枝が落ち滑りやすいので要注意追手門の案内坂までくると再び石畳に変わり視界が少し開けてきます。三重櫓の跡の井戸岩村城は他の山城に比べ圧倒的に多い17箇所もの井戸があったと云われています。ここまで観光気分で上がって来たものの、もはやトレッキングです、なまりきった脚には結構きます。馴染んだ靴で足元を固め、飲み物を持参しましょう。霧ヶ井、ここまでくれば本丸はあと僅かです岩村城は別名「霧ヶ城」とも呼ばれます、その由来となった井戸がこの霧ヶ井。敵に攻められたとき、秘蔵の蛇骨をこの井戸に投げ入れるとみるみる霧が湧き立ち城を守ったという。蛇骨は二の丸の宝蔵に収蔵され、虫干しをした記録も残されている。(この近くに霧が城神社が鎮座しています)霧の井を過ぎると道は大きく右に回り込み日差しが差し込みます。その先には何段にも折り重なる様に組まれた石垣、六段壁が見えてきます。六段壁は当初一段の高石垣から始まり、崩落防止の補強を繰り返した結果が六段の石垣となりました。ゴールは近い長局埋門本丸への最終関門、狭い通路の両脇を急な石垣が囲み、何度も折り返しを強いられる、やっとの思いで辿り着き、更にこれでは厄介そのもの。目的地、岩村城本丸到着です六段壁正面から望む御嶽秋空の下、雪でうっすら化粧したその姿を眺めて下さい、最高のご褒美です。岩村城跡の標柱からは岩村城下町を見る事が出来ます。岩村城跡標柱と昇龍の井戸山城でありながら、水が枯れることは無かったといわれます。本丸までの道すがら幾つも井戸があったように、戦の時には心強い。これも豊かな森のおかげでしょう、岩村城下町では疎水として、酒の仕込み水として今も絶えることなく供給されています。700年の歴史誇った城は時の流れで取り壊されたものの、この険しい山の地形を生かして築城した技術とエネルギーは敬服に値する。東洋のマチュピチと称する事もあるようです、この石垣は充分それに値する。朝霧に包まれた城跡はきっと幻想的でしょう。霧が城神社、岩村城弁才天社を参拝、得体の知れぬキノコを見がてらのコースタイムは50分でした。(この間イノシシ、クマと遭遇する事はありませんでした)因みに、本丸の下の駐車場まで車でショートカット可能です。住所 / 岐阜県恵那市岩村町字城山アクセス / 明知鉄道「岩村」駅下車(岩村歴史資料館まで徒歩約30分)
2017.11.04
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名古屋市南区星崎1丁目笠寺台地の南外れとでも言えばいいのだろうか古くは年魚市潟(あゆちがた)と呼ばれ、遠浅の海岸だった場所です今では新幹線の高架が延々と続き、その東には鳴海へと続く国道1号線が伸びていて星崎第一公園で遊ぶ子供達、この場所で海を感じ取れるものは無いかも知れません星崎第一公園の東側、道路の先の民家の間に場違いとも思える杜に囲まれた一画石灯籠から伸びる参道、その先に鳥居と拝殿が微かに見えています西を向いて鎮座する、喚續(よびつぎ)神社です喚續神社の狛犬、全体の印象は丸みのあるフォルムで頭でっかち気味か?妙に阿形の舌が印象に焼き付いて離れません境内右手に手水舎、手水鉢龍もいるけれど静水は張られていない内削ぎの千木と6本の鰹木を配った神明造りの拝殿と両脇の境内社全景手前で二つ目の狛犬が守りを固めています拝殿前の守護担当鳥居担当に比べると多少スリムで印象の薄い存在です拝殿から本殿の眺め、暗くて良く見渡す事は出来ませんでした拝殿に掲げられた「喚續宮」と記された扁額社殿は木の木目が印象に残り、派手な装飾の無いシンプルなものです当日、神社境内を手入れされていた方のお話では「500年の歴史がある」と伺いました色々と調べて見ました、創建は1523年(大永3)と伝わる様で、伺ったお話と符合します縁起によると「幾度か神社西の海岸堤防が決壊した、そこで伊勢神宮へ祈願して、1万回のお祓いをうけたところ、神徳があり堤防が完成した。そのため社殿は伊勢神宮へ向けて建築された。」とありました、正しく境内入口は遥か先の伊勢方向を向いています1632年(寛永9)の8月夜に落下した日本で2番目に古い南野隕石が社宝とされます隕石は、塩田庄屋村瀬家に保存された様ですが、1829年(文政12)に喚続神社に寄贈され、社宝として保管されているそうです因みに最古の隕石は、861年(貞観3)に福岡県直方市に落下した「直方隕石」です下の絵は『尾張名所図会』の付録に「星降て石となる」と記され、この辺りの塩浜にいた村人が落下した隕石(中央下)を驚いた様子で取り囲む姿が記されていました突然轟音と共に、光り輝く物体が落ちてくれば、誰しも同じ表情をするのかもしれませんね星崎近隣には1205年と1632年に隕石が落ちた記録があるそうです星宮社にも隕石の伝承が記され、星崎や鳴海の地名もこれらの隕石が由来するようです上段拝殿左に境内社が4社祀られています左から迦具土社、大国主社、住吉神社、新宮社下段拝殿右の祀られる2社は左が塩竃社、右が御霊社御霊社の右手に巨大な楠木、その下に小社「白龍社」と楠木を取り囲む様に「白龍大神」の白い幟が立ち並んでいますここの楠木も枝振り、幹回りともに見応えがあります鳥居から境内左に社務所鳥居の脇に「神?馬屋」と書かれているようですが、馬屋とは思えない外観コンクリート製の鳥居の様にも見えます「白龍社」の前から南に続く脇参道から、楠木と喚續神社境内の全景南側道路に小さな堂と奥に拝所が建つ一画、拝所の先には社の姿もあります手前の小堂は地蔵堂の様です中には帽子と前掛けを付けられた優しい表情の地蔵が祀られています方形屋根の拝所、その奥に東を向いて祀られている社は琴飛羅社小さな境内ですが拝所の左に聳えるイチョウの木は保存樹に指定されるなど、立派な木々が杜となり社を包んでいます琴飛羅社西側から境内全景喚續神社との関係や創建時期などは分かりませんでした喚續神社創建 / 1523年(大永3)祭神 / 天照大御神、国常立命、 迩々杵命住所 / 名古屋市南区星崎1丁目146アクセス / 名鉄名古屋本線「本星﨑駅」下車、南西へ徒歩15分程
2019.06.05
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佛山寺が鎮座する布院町川上。由布の街並みの北東の外れに位置し、いかにも川の上流なんだろうなぁと感じさせる地名。北に由布岳が聳え、ここから西に向かって徐々に平坦地になっていく。由布の町で迎えた二日目、今日も天気には恵まれそうです。靄に包まれた幻想的な金鱗湖と自然の恵みをもたらしてくれる背後に聳える由布岳。なにかの存在を感じない訳にはいかないだろう。龍峩山佛山寺。金鱗湖からの道すがらで見かけた茅葺屋根の鐘楼門。この趣のある門を構える佛山寺は是非とも見ておきたい。佛山寺は地元の人々にとって重要な存在のひとつ。今から約1,000年前の康保年間(964~968)、性空上人(910~1007)が九州行脚の際に日向國霧島神社でのお告げに従い、由布岳で経を唱えると「具一切功徳 慈眼視衆生(一切の功徳をそなえ、慈しみの眼で迷える者たちを見つめる)」と鳴動する岩があったという。性空はその岩の一部を持ち帰り、一体の観音像を刻し庵を結び祀ったのが佛山寺の起りだという。以来、由布の霊場の本拠地とされ、往時には多くの末寺を従えていたという。しかし慶長大地震(1605)により、本尊は山谷に転落してしまい、当時の由布の村人の手により現在の場所に移したと伝わるようです。この御本尊は由布霊山観音と呼ばれ秘仏として護り継がれ、その姿を拝めるのは33年毎の御開帳の時、それが2022年だったようで、残念ながら当日は御開帳期間は過ぎ拝むことはできなかった、次の御開帳は33年後、かみさんなら拝められそうだ。また、金鱗湖の湖中に立つ鳥居は明治の神仏分離に伴って天祖神社に移し替えられたもの。先に掲載した宇奈岐日女神社とは江戸時代まで習合されていたようで、後の神仏分離により今の姿になったと云う。写真の茅葺屋根の鐘楼門は元禄時代(1688~1704)に建てられたものとされ、平成6年(1994)に火災で本堂を焼失したそうです。幸いこの門は焼失を免れ龍峩山の山号額も誇らし気に見える。消失した本堂も当時は茅葺のもので、伽藍全体が茅葺屋根だったようです。由布の土地柄に溶け込んだ趣のある姿だったんだろう。その姿を想像すると白川郷の明善寺の伽藍が思い浮かぶ。佛山寺。平成6年の火災後に再建されたもので茅葺ではないものの落ち着いた佇まいのものです。本殿の棟には鰹木や千木の様な構造物が見られます、なんと呼ぶのか分かりません。勝手な推測でしかないけれど白川郷の茅葺屋根の棟の造りに似ており、茅葺当時の名残をここに留めたのかも知れません。何れにしても天祖神社やこの本堂と鐘楼門の棟はあまり見慣れないものです。本堂の額。揮毫は達筆過ぎて読めません。本堂の戸は閉じられ内部は拝めなかったがこちらで拝ませてもらいました。ガラス戸に鐘楼門と紅葉が映り込み、これはこれで…境内から望む鐘楼門。こちらから見る茅葺屋根には苔や若木が芽生えていました。そろそろ葺き替えが迫っているのかも。この門素朴でいい。宿への道すがら、収穫を終えた田んぼの朝露が、漸くとどきはじめた陽射しで輝いていた。佛山寺宗派 / 臨済宗妙心寺派山号 / 龍峩山本尊 / 由布霊山観音創建年 / 康保年間(964~968)開基 / 性空所在地 / 大分県由布市湯布院町川上1879関連記事 / 天祖神社、宇奈岐日女神社(大分県由布市湯布院)、白川郷「松原山明善寺」、「霧島神宮」鹿児島県霧島市
2023.01.20
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鶴里 白鳥神社白岩 八王子神社から国道363号線を東進し、峠道の岐阜県境を越えると、視界が広がり、柿野町鶴里地内に到着します今回ご紹介する鶴里 白鳥神社は、国道沿いの左側に鎮座しています参拝者用の駐車スペースはありませんが、国道沿いには退避スペースがあり、そこに駐車することができます国道から眺める鶴里 白鳥神社の社頭です三国山の北嶺に位置し、三国の名が示すように、古くは尾張、三河、美濃の三国にまたがっていました中馬街道沿いの山間に僅かに開けた里に農地が広がり、田畑を取り巻くように民家が点在する長閑な場所に神社が鎮座しています社頭前の国道は、この先、三国茶屋を経て柿野温泉方向に続いています国道と並行するように社頭があり、右手に白鳥神社の社標(1981年寄進)と石の明神鳥居を構えていますまた、国道沿いに石仏群や小さな祠が祀られています社頭から見上げる境内は、山の斜面を何段かに整地し、鳥居から始まる長い参道が社殿に続きます鳥居の扁額は「白鳥神社」日本武尊(倭建命)が東国平定の帰途、伊吹山で大蛇の毒で息絶えた際、白鳥となって飛び去ったとされる白鳥信仰から始まったとされ、日本武尊を祀る神社です鳥居をくぐると目の前に石段常夜灯の先からまた一段上がると狛犬の姿があるその上に杉の木や広葉樹の杜に包まれた社殿がある上の境内から参拝に訪れる参拝者を見下ろすように狛犬が安置されています昭和14年(1939)に寄進された狛犬狛犬から左の石垣の前に、湧き水が注がれる手水鉢が置かれています鉢の寄進年は明確に読めませんが文政3年(1820)と刻まれ、多くの寄進者の名が刻まれています最後の石段を上がると、目の前に拝殿が迫ってきます岐阜県になると、由緒や創建を調べる資料も変わってきます取り敢えず、岐阜県神社庁から得られた結果として、鶴里町柿野には白鳥神社が二社鎮座していることが分かりました鶴里町柿野3660に鎮座する当社についての記述は、祭神と祭礼日のみでしたこれは、地史を見る必要がありますが、そこから得られた情報は後日、ここに書き加えることとして、先に進めます拝殿内から本殿方向の眺め本殿の造りは全く見る事が出来ません祀られているのが倭建命一柱だけとは思えない大きな扉です社殿全景入母屋平入の拝殿に切妻の幣殿と覆屋がひとつに繋がっています覆屋の左の境内社「氏神 ?山宮」と彫られていますが、?の部分が読めなかった覆屋の右の境内社三社を収めており、社の右に社名の書かれた木札がありましたが不鮮明で読めなかった当社の西側に雨沢公民館がありますが、そちらで何か情報が得られるかもしれません右にあるのは養蜂箱なので、迂闊に近づいたり触らないのが賢明以上が鶴里 白鳥神社となります狛犬が見守る広い境内と社頭の眺め参拝を終え国道から社頭と道路脇の石仏群を眺める聖観音像とと祠の中に祀られる馬頭観音像祠から右手の石仏群国道沿いや中馬街道沿いではこうした馬頭観音の姿をよく見かけます一番右外れの祠の左に石碑は「村中安全 薬師如来」、右手の社は不明ですが、左側に「庚」と彫られた鬼瓦が置かれており、現在の祠の形になる前は瓦葺の庚申堂だったようです国道南側から田植えを前にした田園と、この地を見守る白鳥神社の社叢の眺め正面の二本の大きな杉が社殿の場所を示しています、ここで久し振りにカエルの鳴き声を聞きました社頭の前が「予約相乗りタクシーのってこ」柿野線の「雨沢公民館」停留所になっていました路線図利用方法はこちら鶴里 白鳥神社創建 / 不明祭神 / 倭建命境内社 / 不明社4社例祭 / 11月第1日曜日所在地 / 岐阜県土岐市鶴里町柿野3660白岩 八王子神社から車アクセス / 八王子神社から国道353号線を東進、約5分 参拝日 / 2024/04/18関連記事 / ・岩巣山北嶺・東麗の神社巡り 「白岩町 八王子神社」
2024.05.02
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六所神社家康生誕の地、岡崎に鎮座する岡崎ICから県道477号線を名鉄東岡崎駅方向に向け走ると左手に赤い鳥居が見えてきますそこを左折する、そこは既に六所神社参道1.駐車場は二の鳥居手前にあります2.二の鳥居から一の鳥居を眺める。両脇の松の参道、赤い一の鳥居の前を赤い名鉄電車が横切る、見慣れない情景です3.二の鳥居から境内、手入れされた木々が境内を覆う4.二の鳥居の右手に手水舎、5.正面には神場が祀られる6.境内左の国指定文化財案内板神馬の右手には急な石段、その先には朱も鮮やかな7.楼門(重要文化財)が眼前に迫る楼門は德川家光の命により1688年(貞享5年)建てられたもの8.楼門扁額と色鮮やかな軒下9.10.正面には更に豪華に彩られた拝殿が見える11~13楼門に施された色彩豊かな彫飾りは一つ〃じっくり見ていきたい13.楼門は今年修復修理が行われたばかり、目の覚める色合いで迎えてくれます14.拝殿前の狛犬、背景の彩が強いだけにとっても普通に見えてしまう15.16拝殿1634年(寛永11年)に創建との事です(重要文化財)17.葵の紋と拝殿内御祭神 / 塩土老翁命・猿田彦命・衝立船戸命・太田命・興玉命・事勝国勝長狭命創建 / 655~661年(人皇37代斎明天皇)の創立と伝えられている 18.朱と黄金色が浮き立つ豪華な拝殿です19. 本殿(左)と幣殿(中央)拝殿(右)が一体となった権現造りの全景20.本殿から拝殿を見る21.拝殿左にある神楽殿22.神楽殿の右に平成12年に鎮座した三晃大黒社、中には立派な大黒様が微笑んでいる23.~25拝殿の破風飾りと26.神楽殿の破風飾り27.葵の紋の入った黄金色の吊り燈籠、豪華です28.拝殿左には家康の手形が置かれています、おやじの手と比べると意外に小さい29.30.拝殿右の境内にある「母子犬銅像」、安産を祈願し銅像を撫でると叶うと云われる31.社務所(手前)から楼門の眺め、その奥には現在修復中でシートに覆われた神供所32.社務所裏側の石垣、苔むした姿に魅かれて写真に収める33.六所神社由緒書きと34.岡崎市指定文化財の案内板35.36六所神社は現在修復修理中、訪れた当日は神供所が修復中で見る事は出来なかった再度訪れたいものです御朱印岡崎 六所神社住所 / 愛知県岡崎市明大寺町耳取44tel / 0564-51-2930公式WEB / 六所神社アクセス / 東名高速道路 岡崎ICより約10分又は名鉄東岡崎駅下車徒歩10分
2017.09.23
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知多郡南知多町豊浜鳥居海岸線に伸びる国道247号線沿いに目立つ「とら薬師」の立て看板と白い幟が目に止まり立ち寄ってみる、まだしばらくはお迎え要請はないだろう。国道沿いから南を向いて豊浜漁港を見据えるように光明寺は鎮座します。 二層の小ぶりな瓦葺山門の外観は海を間近にすることから、さながら竜宮城のように見えないでもない。無理があるかねぇ。生垣で周囲を囲み、中央に龍宮の門が建っています。四脚二層の門は梵鐘が吊るされた鐘楼門なのかと云えば、そうではなさそう。山号額「成道山」と書かれています、小ぶりな門に対しこの額の大きさは印象に残ります。この門の建立がいつ頃なのか、残念ですが分かりませんでした。この寺の伽藍の中では最も古いのではないだろうか?山門から境内の眺め。正面に本堂、右に庫裏、左手前は手水舎、本堂左に薬師寺という伽藍です。手水鉢のタコ口。龍ではなく、タイやヒラメでもない、蛸が清水を注いでいます。今もそうですが、古くから豊かな海の恵みの恩恵を受け賑わってきたこの地、その様子は尾張名所図会にも描かれています。日間賀島のタコは良く知られるし、近年は河豚の好漁場としても知られる。なぜ蛸になったのか経緯は知る由もありませんが、この地にあって蛸が清水を注いでも不思議ではない、豊な海の恵みに対する畏敬の念が蛸に現れているような気がします。寄棟瓦葺の本堂。この辺りは須佐と名が付きますが、この寺の由来は715年、須佐の漁師の網に仏像がかかったと云われ、漁師は小さな草庵を建て仏像を安置したと云われ、やがて堂宇を建立し善光庵と称し善導大師像として祀られたそうです。この像は後に愛知郡東郷町に鎮座する祐福寺で安置されています。1469年(文明元年)虎得上人が寺を再興し光明寺と改称されたようです。本尊は阿弥陀如来像。 本堂左の薬師堂。本堂よりもこちらに視線が行きます、こちらも寄棟瓦葺です。山門左に複数の石仏が纏められています。左からお釈迦様、如意輪観音、三猿神、青面金剛童子。右は1660年(万治3)頃の江戸吉原で遊郭を営み、吉原を牛耳ったと云われる地元の富豪松本清十郎家の墓碑。1681年(延宝9)にこちらの薬師堂の再建に尽力したそうです。その薬師堂がこちら。薬師堂に安置される薬師如来は行基の作と云われ、三河の鳳来寺、大井医王寺の薬師仏と共に一本の木から彫られた一木三体の像で、寅年の時に開帳されることから「寅薬師」と云われるそうです。それが通りにあった「とら薬師」はこれを指すようです。堂内は撮影は禁止という事なので写真で紹介できませんが、内陣中央には薬師如来と左右に日光菩薩、月光菩薩が安置され、外陣には複数の蛸が描かれた絵馬や、格子天井に描かれた色彩は今も鮮やかに残り見事なものです。その他にも県指定文化財の「算額」や町指定文化財の「地蔵菩薩」などが安置されています。解説によれば「算額は1752年(宝暦2)内海中之郷村の榎本犀助章清、大岩久次郎則重が、「小佐の薬師堂」と呼ばれ近隣のから厚く信仰されていた東方寺(現浄土寺)へ奉納したものだとされ、1873年(明治6)に薬師堂は光明寺境内に移築の際に合わせてこちらに移されたとあります。」境内にある解説には移築は明治6とあるけれど、南知多の指定文化財HPの算額の解説には移築は昭和6とあり食い違っているので、ここでは境内解説の明治6で記載しています。本殿左のごめんなさい地蔵。この手のお地蔵様、何とも言えない愛らしい表情をしています。以前名古屋市内で見かけた「ごめんなさい地蔵」もいい表情をしていました。「ごめんなさい」と言葉に表し、「手を合わせる子供はすばらしい大人になる」素直さを忘れたおやじ、言葉や態度で表すことは難しいものです、こんな表情ができれば・・・・・それはそれで不気味か?かわいい表情の地蔵の左に素直さを忘れたおやじの姿がある。烏枢沙摩明王像(うす様明王)トイレの神様としてお祀りされているのを見かけると思います。こちらの明王は独立して祀られています。手前の柄杓で水をかけて自分の汚れを水で洗い流す、さながら「水かけ明王」とでもいえばいいのかな?向拝の火炎は全ての汚れを焼き尽くし浄化してしまう強烈な力の持ち主。汚れを嫌うだけに像はとても綺麗、手水鉢にさり気なく置かれたタワシは像を磨いて自らの汚れを落としてくださいという事でしょう。それにより「ごめんなさい地蔵」の様に素直で汚れなきおやじに戻れる?……磨きが足りないようです。烏枢沙摩明王像の後方の地蔵堂。ふく供養塔。伊勢湾や三河湾のとらふぐは今では認知度が高いけれど、漁業対象となったのは1975年と意外に新しいようです、今では篠島や日間賀島を始め代名詞のようになり、本家の下関と競う程の漁獲を誇るそうです。恵みに感謝し建てられたようです。なんでもそうですが、最初に「食べれるかも?」とチャレンジした人は勇気があるものです。ふぐの右には魚天観世音菩薩。魚供養塔ですね、菩薩の足元には鰯のレリーフが置かれています、スズキだ、ヒラメだと言っても彼らがいてこそ。生態系の頂点に立ち糧を得るものとして、食物連鎖の過程に存在する生きものに感謝しましょうという事なのでしょうね。「いた~だきます」です。素木のシックな龍宮城の門をもう一度見上げて光明寺を後にします。今頃かみさんはどこを歩いているのかナ? 2020/1/18山号 / 成道山寺号 / 光明寺宗派 / 西山浄土宗本尊 / 阿弥陀如来創建 / 715年(霊亀元年)住所 / 知多郡南知多町豊浜鳥居37-2車アクセス / 知多自動車道「南知多」ICから内海方向国道247号線経由20分程南知多三十三観音・18番札所
2020.01.30
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名古屋市営地下鉄「大曽根」で下車、名古屋ドーム方向へ「メッツ大曽根」で左に折れればゴールも間近、ゆっくり歩いて15分程歩道沿いに鳥居が見えてきます「白山神社」到着です一の鳥居を過ぎ、左に手水舎、正面が社務所白山神社霊峰白山を神体とする山岳信仰で奈良時代の修験道の僧泰澄(たいちょう)により開山されたと云われる白山神社は各地に鎮座、多くは祭神を菊理媛神(白山比咩神)/伊弉諾尊/伊弉冉尊の3柱とされる登山、渓流釣りで白山付近を訪れる方にはなじみのある神社かと一の鳥居の狛犬手水舎(写真上段)、参道を右に折れると二の鳥居と拝殿が見えてきます境内右には木造の神楽殿、上部には木製の神楽面?が掲げられている、年代等詳細は分からず拝殿前の狛犬一対拝殿正面と拝殿内部を覗う祭神 / 菊理媛神(白山比咩神)創建 / 不明、元号の読み取れたものでは、境内石灯籠の節に大正○○と刻まれたものが一番古かった この社、至る所で見事な彫が見られる、上は拝殿に飾られている彫り物西側から本殿、拝殿の全景拝殿右側には秋葉社、稲荷社等の末社が祀られている 拝殿を左に進む、裏参道へとつながる、社の後ろの高架は名鉄瀬戸線、通称「瀬戸電」の高架。現在の高架になる以前の1984年頃、ここから少し南の「メッツ大曽根」と白山神社の間に当時踏切があり赤い電車は地上を走っていた。・・・脱線白山神社住所 / 名古屋市東区矢田2-21-40アクセス / 名古屋市営地下鉄「大曽根」から徒歩15分立ち寄り処 / 六所神社、金虎酒造、みのや北村酒店
2017.08.30
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紅葉も終盤を迎え以前から計画していた湖東三山へ紅葉求めて一走りしてきました今月初め、バスツアーでこちらの方を通りがかった際には紅葉にはまた早かったけれどあれから約1か月、紅葉の色付き具合が楽しみ名古屋発6:00、木曽三川も渋滞前に渡りきり、鈴鹿山脈を越えればもう滋賀県です最初の目的地「百済寺」へは9:10到着、駐車場のツアーバスは1台これなら、空いていていいかも今日は石段を登る機会が多そうです既に落葉したもみじが赤い絨毯となり、苔生した石段に敷きつめられています今年は黄色のまま枯れ落ちてしまう様なのか、遠目に見る色付きは今一つ 透かして見る紅葉、いつ見ても綺麗です「百済寺」境内周辺の紅葉の色付きは冴えがないような本坊、喜見院庭園の紅葉庭園の水面に浮かぶ落ち葉と苔の緑が美しい喜見院庭園から上に登り、遠望台から湖東の街を見下ろす、条件が良ければ琵琶湖や湖西の山々の眺望が楽しめる様です石段の先の仁王門大きな草鞋が印象的です、地元の古老により10年毎に新調されるそうで健脚・長寿の願を掛けるようになり、大きい方が御利益があるとかで新調の度に大きくなっているそうです本堂、先行したツアー客も長い石段を登り切り、ゆっくりと紅葉を楽しんでいる様子千年菩提樹、見事な株を覆う苔の緑が鮮やかですバスが到着したのでしょうか、山門の下から大勢のツアー客が本堂をめざし登ってきます間もなく人で埋まりそうなので、10:30 百済寺を後にする百済寺住所 / 滋賀県東近江市百済町323HP / http://www.hyakusaiji.jp/10:45百済寺から車で20分程北上し金剛輪寺に到着ここは既に多くのバスが駐車しており、混雑しそうな予感黒門山門の赤い提灯が印象的ですが、山門脇の鮮やかな紅葉も提灯の赤に負けていませんこの寺には黒、白、赤の門があり、其々に紅葉が植えられていますが、白門の紅葉は未だ青々としていました千躰地蔵苔生した参道沿いや境内にはカラフルな風車が手向けなれた地蔵が連なります地蔵達を眺めつつ歩けば長い石段も苦にならない湖東三山一の名園古庭と称される池泉回遊式庭園への入口苔生した瓦と紅葉の彩が鮮やかです護摩堂左の庭園、四季折々に周囲の彩を水面に写しだします仁王門長い石段を登りつめた先の仁王門、ここでも草鞋ですあと少しだ本堂周辺の紅葉紅葉で彩られた本堂、艶やかです三重塔周辺の紅葉も終盤を迎え、日差しを受け輝いていますこの寺も苔が見事です紅葉の美しさにもまして苔の豊かさが印象的な寺でした12:30金剛輪寺を後にします金剛輪寺住所 / 滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺874HP / http://kongourinji.jp/precinct/index.php月初に訪れた際は紅葉には早かった「西明寺」へは昼食後の13:15到着 今回ばかりは観光バスが数珠つなぎです山門前の紅葉も随分進んだようです今日は本堂まで参拝し紅葉を見ていきます参道の両脇の紅葉に包まれながら石段をあるいていきます参道の紅葉西明寺庭園、蓬莱庭周辺の紅葉は終盤です仁王門から本堂へ皆さん杖を突き本堂を目指しています、三山巡ると相当数登る事になります西明寺三重塔周辺は充分に色づいているのですが、良く見るとくすんだ色合いですこの寺も苔の手入れが行き届き、苔の緑が綺麗な寺です海外からの観光客が多かった西明寺14:30に次の多賀大社を目指すことに西明寺住所 / 滋賀県犬上郡甲良町大字池寺26HP / http://www.saimyouji.com/temple/index.html湖東三山の紅葉を巡って見てポイントで見て行くと美しい物があります、色合いが冴えなせいでしょうか、遠景の美しさに物足りなさが残ります、やはり今年の紅葉は今一つなのでしょう何れの寺も駐車場が無料なのは嬉しいですね最後に訪れる多賀大社へは15:45到着多賀の街並みを散策、鳥居の前で糸切り餅を味わい境内へ歴史がある、良く知られた神社です境内のもみじは意外に少ない鳥居をくぐった正面の反り橋、その左に末社が祀られていますその辺りの紅葉が鮮やかでした境内から拝殿方向の眺めもみじは少なく常緑樹が多い様です、それにしても立派な社殿だ事拝殿西の日向神社ここで漸く紅葉の木々に出逢う16:00多賀大社を後にしました多賀大社住所 / 滋賀県犬上郡多賀町多賀604番地HP / http://www.tagataisya.or.jp/info/keidaizu.html今回移動したルートです御在所を越え南から北上多賀の街でお酒と赤こんにゃく、漬物を買い求め、湖東三山スマートi.cから高速に乗り帰ってきました各ジャンクションでの合流渋滞、今回はそれほどではなく名古屋着18:00走行距離は240kmの紅葉ドライブでした紅葉はしばらく大丈夫です
2018.11.27
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先に掲載した「森川花はす田」蓮田と田んぼが広がる光景の中に浮島の様に森があります。今回はこの森を取り上げて見ます。手前の川は鵜戸川、右岸には道の駅立田ふれあいの里があります。「森川花はす田」の南に見るからに神社か古墳を連想させる佇まいの森があります。蓮を見終えた後に足を向けて見るといいかもしれない。鵜戸川左岸にここだけこんもりと樹々が残されています。富岡神社(古木江城跡)の杜です。蓮田から見た杜は一つの山の様に見えていましたが、鵜戸川沿いの小道から眺めると社地の一部が盛られているだけでほぼ〃平坦と云ってもいいかもしれない。富岡神社(古木江城跡)について少し調べて見るも創建に繋がる記録は見つけられなかった。右の地図はこの地の移り変わりを1891年頃と現在で比較してみた。1891年の地図にも富岡神社の鳥居は記されており、尾張史( 1844年編纂)の中で左の記述を見付けました。そこには古くは富岡明神、神明宮と呼ばれ、この辺りの総社とある。随分と歴史のある神社のようです。南側の田んぼから眺める富岡神社(古木江城跡)の全景。緑の田んぼの中のこんもり茂った森は常夜灯と神明鳥居まで包みこんでいます。子供の頃を思い出させる光景が残っています。あぜ道から鳥居と境内の眺め、鳥居の目の前がすぐに田んぼ。生い茂る樹々が作る影は境内全体を覆い、強烈な夏の日差しを遮り境内は涼しいけれど、蚊が多いので虫よけがあるといいかも。社頭左に「古木江城跡」の石碑と解説板がある。案内は古木江城跡に関するもの。「室町時代の末期、織田氏の砦として築かれました。当時この地方には、一向宗が広がっていて、真宗門徒のその教義に対する信心は絶大なもので、信長の意向に反抗しました。信長は、長島の一向宗門徒を滅ぼすため、弟の信興にこの古木江に城を築かせ、門徒勢力の分断をはかりました。信興がこの城を守っているとき、弥富の服部党や近くの農民に囲まれ、六日間戦いました。しかし兵力が少なく城に攻め込まれ、やぐらに上がって自害したと「信長記」には書かれています。地元では城外で討ち死にしたと伝えられています。元亀元年(一五七〇)一一月ニ一日のことです。古木江城は小木江とも書き、地名にも「子消」「討レ」「頭倶前」などの名が残っていました。富岡神社は、この一角に城の鎮守としてあったと考えられています。」もう少し神社について書かれていると嬉しいが、ここは城が売りのようだ。それでも神社の歴史は1500年代まで遡ってしまった。城の鎮守としてどの程度の規模だったのか分からないし、城跡の碑が建っているものの城の規模もよく分からない。砦ならともかく、城とすると規模はもう少し広範囲だったのかも知れない。鳥居と常夜灯はあるものの、社標が見当たらない。手水鉢鳥居をくぐった参道左にあり、自然石をくり抜いた船形をしている。奉納年度未確認。境内から社頭方向の眺め。木陰の中から見える稲の緑が鮮やかだ。本殿全景。切妻の覆屋の中に本殿が祀られているが、拝殿は持たない。本殿域は自然石が二段で組まれ、その最上段に本殿が祀られている。城の遺構としては特に残っていないようで、この高みを痕跡とするならば、この広さで持久戦をしたとは到底思えない気がする。境内から見上げる本殿域。杮葺きの神明造の本殿、5本の鰹木と内削ぎの千木が付く。良く言われる女神が祀られている?本殿全景。尾張史の記述に「神明宮と称した」ともあり、天照大御神が祀られているのかもしれない。地元の方に尋ねれば一番早いだろうが、後方の蓮田には人が多く訪れているけれど、富岡神社(古木江城跡)を訪れる方は皆無だった。本殿域から西側境内の眺め。なんとなく空堀の雰囲気があるような・・・ないような。本殿域は下から見上げると、それほど高く感じられないが、参拝を済ませ本殿前から振り向くと結構なたかさを感じられる。境内西側からこんもり盛られた本殿域の眺め。手前の建物の用途はよく分からなかった。本殿域東側の眺め、樹々が生い茂り、本殿域の様相どころか、城をイメージする事は出来ない。樹々の隙間から僅かに見える覆屋に気が付いて初めて神社だと分かる。よく古墳の上に鎮座する神社がありますが、こうして見ると古墳と思いたくもなる。田園風景の中、緑の杜の中に佇む富岡神社は古木江城の鎮守として祀られた歴史のある神社。2021/07/20富岡神社(古木江城跡)創建 / 不明祭神 / 不明古木江城築城主 / 織田信興築城年 / 1567年(永禄10)廃城年 / 1571年(元亀2)所在地 / 愛知県愛西市森川町字村仲86関連記事 / 「森川花はす田」
2021.08.01
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有馬稲荷神社からたんさん坂方向に下り、有馬六彩の裏口方向に向かう。有馬六彩の裏口から敷地内に入って右側に足湯があり、その脇に有馬稲荷神社の解説と杉ヶ谷行宮跡の碑があります。杉ヶ谷行宮跡。有馬稲荷神社の始まりの地は、現在は遺構もなく石碑が残るだけで、奥は有馬六彩の庭園となっています。たんさん坂を隔てた向かいに赤い鳥居が見えますが、三ツ森 炭酸泉店の私設神社と思われる「湯山稲荷大明神」になります。炭酸泉源広場入口。有馬六彩の裏口のほゞ正面にあり、訪れた当日は二段になった敷地に紫陽花が見られました。入口から公園に入ると左側に泉質の影響を受けた鉄錆色の噴泉地があります。ここについては自噴なのか機械仕掛けなのか定かではないが、写真の様に結構な勢いで噴き出していました。炭酸泉源建屋全景。入口から一段上がったところに建てられており、自然からの恵みをもたらす源に相応しい覆屋がたてられています。建屋内の泉源。ここも酸化鉄の色に染まっています。立山左の炭酸泉源と石碑。炭酸煎餅を産んだ源泉で、昔は温泉に砂糖を溶かしサイダーとして飲まれていた。飲適なんだろう、手前の蛇口をひねれば炭酸泉を飲むこともできます。味わってみたが、今ほど舌が肥えていない時代にはサイダーとして珍重されただろう。……僅かに鉄分と炭酸を感じる生温いもので、今どきの子供はこれでは喜ばないだろう。公園南側にある炭酸泉源の解説。古くは毒水と呼ばれ近づく者すらいなかった云う、梶木源次郎がその湯の成分分析を受け毒水から炭酸泉として認知される様になったのが明治6年の事だという。解説の脇に梶木源次郎の功績を称えた石碑が建てられている。炭酸泉源公園所在地 / 神戸市北区有馬町字杉ヶ谷1325-1三ツ森 炭酸泉店。炭酸泉源公園の向かいにある元祖炭酸せんべいの老舗。炭酸煎餅の始まりは創業者三津繁松氏が明治末期に製造、販売したのが始まりで、これを機に有馬の町に炭酸煎餅が広まっていった。店内では製造現場の見学や試食も出来ます。菓子に目のないかみさんは、早速店内に吸い込まれていきました。湯山稲荷大明神。店舗の入口に祀られているもので、調べて見るが情報は出てこなかった。敷地内という事で三ツ森の私設神社だと思われます。狐の姿は見られないが、炭酸泉を育む自然に対する畏敬の念と商売繁盛を祈願して祀られたものだろう。人工甘味料や着香料、着色料にどっぷり浸かってきたものから見ると、炭酸煎餅は自然素材のみで作られた昔懐かしい素朴な味わいの有馬名物です。三ツ森 炭酸泉店所在地 / 神戸市北区有馬町872-1有馬温泉駅から徒歩ルート / 有馬稲荷神社➡舒明天皇杉ヶ谷行宮跡➡炭酸源泉公園➡湯山稲荷大明神関連記事 / ・神戸市北区有馬町「有馬稲荷神社」・有馬温泉 有馬六彩
2023.09.02
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名古屋市昭和区塩付通市営地下鉄桜通線「桜山」で降車し東へその通りは塩道街道に近い事もあり、古い趣のある建物や寺社、馬頭観音等が点在しています今回訪れる「みやみち地蔵」もその中の一つです南北を貫く環状線の名古屋市立大学病院の北東角の交差点に小さなお堂が佇んでいます人通りの多い表通りの印象から、細い通りが続く趣のある静かな街並みに変わります静かな通りの小さな交差点、その角に「みやみち地蔵」が祀られていますお堂には三体の地蔵が祀られており中央の「右みやみち、左なるみみち」と記されたお地蔵様が目を引きます方向的には正しい方向を指しています、なので何処からかこちらに移されてきたものではなさそうです塩付街道から熱田さんに詣でる「みやみち」の案内役を担っていたのでしょうその表情は永年の風雪により良く見てとれませんお堂左の石標、私には文字が読み取れませんでした日々お参りに訪れ、面倒を見てもらえる方がいるのでしょう、正月を前に手向けられたお花やお供えが添えられていますお堂の右側に馬頭観音?でしょうか、見た事のない容姿の石仏です前掛けをめくる訳にもいかず、この石仏の素性も良く分かりません更に右には「みや道」の解説を記した石碑これがこの「みやみち地蔵」を後世に伝える由緒書きでもあります昔の人々は熱田詣でこの地に辿り着き、傍らのみやみち地蔵が指し示す方向に従って熱田神宮へ導かれていったのでしょう今はその役割を終え、このお堂の中に祀られ地元の方に守られているようです2019/1/6みやみち地蔵住所 / 名古屋市昭和区塩付通7丁目1アクセス / 市営地下鉄桜通線「桜山」下車、東方向へ徒歩5分程(名古屋市立大学病院の北東角)
2019.01.08
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名古屋市千種区上野にある臨済宗妙心寺派のお寺。交通のアクセスも良く、基幹バス「谷口」で降車、南に歩いて二~三分程。永弘院は近年補修が行われ、寺の西側から見る印象は子供の頃から比較すると綺麗なっている。何より大きな変貌を遂げたのは、写真左の駐車場。以前は小さな公園があり、そこには赤い社の八坂社が南を向いて鎮座していた。現在この八坂社は姿を消し、ここから東の上野天満宮の晴明殿(2017年造営)に合祀されたと聞く。ここから東に弁天公園がありますが、以前は公園北角の小高い場所に小さな祠があった、いつしか社もなくなっていました。推測になりますが、こちらも恐らくは上野天満宮で合祀されているのではないかと。当たり前の様にそこにあったものが、ある時気付けば姿がなくなっていると妙に寂しい思いに駆られる。ここ数年、近隣の長養寺なども含め改修ブームの様です。山門を構える南側からの伽藍全景。永弘院の南に小学校があるけれど、一帯はかつて上野城(1532年~廃城時期不明)があった辺り。城の遺構はなく、境内に城址の碑が立つのみ。山門。造営時期等は定かにならないけれど、伽藍の中では鐘楼と並び古いものです。右に「上野山 永弘院」の寺号標。子供の頃は「えいこういん」と教えられてきましたが、因みに「ようこういん」と読みます。木造瓦葺の切妻の四脚門。門から窺う境内、手前に百度石、敷石の先に夕陽を浴びて赤く染まる本堂。東海四十九薬師霊場28番札所。東海四十九薬師霊場とは三重県名張市の勝宝院福就寺を一番札所とし三重、愛知、岐阜の薬師如来巡礼するもの。木造の山門に土塀の白が冴えています。永弘院は幾度も焼失を繰り返して、都度再建されて来た、先の戦争でも空襲に見舞われ、山門、鐘楼を除き焼失。延焼を免れた山門、鐘楼には当時の火の勢いを示す焼け跡が残っています。山門をくぐり境内へ。綺麗に手入れされた庭の先に、正面に本堂、右手に石塔と庫裏、寺務所。境内右手の手前の鐘楼と奥の事務所。以前はこの右手に地蔵堂があったけれど、老朽化によりこちらに安置されていた地蔵は新たに新築した観音堂に遷座されています。現在は空の建屋のみです。四足の瓦葺り鐘楼。瓦には山号と寺紋の三階菱が施されています。梵鐘は戦時中に供出される憂き目にあうも、戦後に再び鋳造されたものです。除夜の鐘を突くことができ、毎年それを楽しみに訪れる方も多いようです。山門左の放生池、右は観音堂。観音堂。境内西に建ち、2019年に三十三観音、馬頭地蔵などがここに纏めらました。地蔵堂から遷座の際、像は水洗いされ永年の汚れを落とし、こちらに安置されました。放生池の袂に弁財天の碑。石橋の先に、東を向いて石の祠の弁財天が祀られています。ここで初めて分かったことがありました。この弁財天は先に書いた弁天公園に祀られていたものです。縁起によると、約500年近く弁天池の水神として農民から崇められてきたが、宅地化により見守る池は公園となり、1981年(昭和56)にこちら移設したらしい。本堂。本尊は薬師如来。創建は1538年(天文7)とされる。信州小笠原家後裔の下方氏一族の下方貞清が開山。上野城の北東にあった藥師堂に祀られていた薬師如来を本尊として建立されました。本能寺の変以降、下方氏一族は荒廃、それと共に永弘院も衰退していきます。当時上野村と呼ばれ、村人、檀家の支えにより、村の禅寺として伽藍は整えられていきます。以降も幾度となく災害に見舞われますが、都度再建され現在の姿に至ります。境内西の水子地蔵尊。その右に二体の石像が安置されていますが、詳細は不明。境内で見られる子供の石像。印象に残る表情のものしか掲載しませんが、ほかにも複数安置されています。山門をくぐった境内右隅に建つ上野城址の碑。築城年1532年(天文元)頃の、二重堀を持った平山城だったと云われる。現在は城の名残はなく、この碑がそれを伝える。永弘院(ようこういん)宗派 / 臨済宗妙心寺派山号 / 上野山創建 / 1538年(天文7)本尊 / 薬師如来。住所 / 名古屋市千種区上野1丁目4-18公共交通機関アクセス / 基幹バス2「谷口」降車、南に数分
2020.01.19
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『大斎原』の日本一の大きさを誇る大鳥居。そこから田園地帯に真っすぐ伸びる参道を北に進む。右(写真では左)に熊野川の二段堤防が延々と続く。訪れたのは2月21日でしたが、周囲は梅は咲き、河津桜も咲き誇る。今年まだ見ぬ土筆の姿を探しながら突き当りまでのんびり歩く。歩いていると春を通り越して上着がいらないくらいの陽気。突き当りは二手に別れ、左が熊野本宮大社、右が『産田社』に続きます。参拝順は一番最後の『大斎原』から参拝したので逆参りのまま『産田社』のある右に。本来の参拝順は本宮➡産田社➡大斎原です。『産田社』付近から『大斎原』全景。田植えも終われば苗の緑で一面染まり、枯れた光景は一変する事だろう。杜と田園風景、こうした光景はつい最近まで身近にあったものです。子供の頃に日が暮れるまで探検したのを思い出させてくれる、懐かしい風景。『産田社』は堤防突き当りの左側。目の前の二段堤防に上がるとその先には広い川原、その先に熊野川が流れている。『大斎原』の方向を向いて鳥居が建っています。『産田社』全景。右に『産守り』の解説があります。社名から想像できるように、こちらは女性の方とは縁が深いようで、解説には以下の様に書かれています。『八百万(やおよろず)の神々をはじめ、総てを産みだされた産土(うぶすな)の神と仰がれる。産田社(うぶたしゃ)に鎮まります伊弉冉尊(いざなみのみこと)の荒御魂(あらみたま)の御力(みちから)を受けられる「産守り」は、熊野本宮大社でお頒かちしております。』『産田社』は熊野本宮大社の末社で無人、御朱印は熊野本宮大社の授与所で頂くことが出来ます。伊邪那美命(伊弉冉尊)は迦具土神を生んだ後に亡くなります。諸説あるようですが亡くなったのがこの地で、葬ったとされるのが三重県の「花の窟神社」だと云われるようです。熊野本宮大社にはその伊邪那美命(伊弉冉尊)を2ヶ所で祀っています。ひとつが熊野本宮大社の第一殿に和魂、もうひとつは摂社の産田社に荒魂が祀られている。生みの神として知られ、子授け、安産などのご利益があるという。『産田社本殿』石の台座の上に小さな石の本殿が祀られ、『大斎原』を向いて迦具土神を見守るようでもある。『産田社』後方の堤防から手前に産田社と遥か先の『大斎原』の眺め。産田社創建 / 不明祭神 / 伊邪那美命(伊弉冉尊)住所 / 和歌山県田辺市本宮町本宮100大斎原から徒歩アクセス / 大鳥居から北に向かい突き当りを右へ、所要時間5分程関連記事 / 車中泊で熊野三山巡り 大斎原熊野本宮大社の大鳥居はすぐ先だ。
2021.03.08
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東海市名和町姥ケ懐、「うばがふところ」と読めばいいのかな。県道55号線竜ノ脇交差点から左に入ると直ぐに大手ドラッグストアが左に見えてきます。東から続く台地の西の外れにあたり、住宅地の中に鎮座するのが「姥ケ懐の八幡社」傾斜地故に周囲は写真の様に石垣が積まれ、フェンスで囲われた社地が広がる。境内の一部が「上名和ちびっこ広場」になっていて、住宅が広がる一帯にあって、境内は子供たちにとって自由に走り回れる場所、姥ケ懐の由来は分からないが、この地、この場所はあたかも姥に見守られているような住みやすい場所を指しているのかもしれない。入口となる鳥居は右手方向になります。鳥居前から八幡社の全景、社標は見当たらなかった。木造の明神鳥居の先に玉垣で囲われた本殿域が見える。境内の大きな楠が本殿の覆屋のようでもある。境内に入って左に手水舎、手水鉢、右に遊んだ後の手洗い場が並ぶ。簡素な手水舎ですが鉢をみると結構年代物のようで、はっきりと読み取れないけれど宝永(1704年~1711年)の元号や、左に「中?村」と彫られている様に見える。明治に入り、当時の4村が町村合併で一つとなり名和村となったけれど、その中に「中?村」なる村は見つからなかった。大正、昭和の創建ではなさそうですが、境内に由緒書きがないので創建は不明。境内右に一社。入口に石標もありましたが、文字が刻まれているでもなく、こちらの詳細も分からない。八幡社本殿域。外周はフェンスで囲われ、中は石垣で一段高く盛られ、枝ぶりの良い大きな楠の下に鎮座する。この神社に狛犬はいませんが、後方の二本の松の古木と楠の巨木が本殿を守護している様に見えてくる。広場で遊ぶ子供たち、大きく伸びた枝は程よい木陰を提供している。玉垣で囲われた本殿域、板宮造りのシンプルなもの。祭神は応神天皇(誉田別命)本殿域右に小さな社が祀られているが詳細は不明。一部に手が施された玉垣には、「村中安全」、「修復工事 昭和五十九年九月」と刻まれていた。大部分のものは更に古いようだが年代までは分からなかった。氏子達の目も行き届いているようです。敷居の高い神社に対し、子供達の遊びの場に佇む八幡社。彼らが成長し子供の頃を振り返った時、この神社の事を思い出し我が子と共に訪れる時もあるだろう。それにしても昇り応えのある楠だ事、今は絶滅した「かみなりおやじ」に良く怒られたものだ。そんな場所も今はない。さて、ここ姥ケ懐の八幡社は八幡社貝塚として市指定史跡にもなっているようです。境内には写真の解説板がありそれを伝えています。八幡社の社地から見つかった貝塚、ここからは弥生時代中期(約2,000年前)の土器や石鏃をはじめ、室町時代(約500年前)にかけての土器や瓦などが出土したといいます。上は大正時代の八幡社(青地に赤文字)、靑マーカーは一番畑の秋葉神社。海岸線が目の前にあった当時の人々は、八幡社東部に続く丘陵地に定住し、南西の平地で稲作をしていたとされ、海では貝などの海の幸、野山で獣や山の幸を採り生活していたのだろう。住むには良い場所だったようです。やがて街道が整備され、村は町となり水田は工業地帯に様変わり、丘陵地には住宅が立ち並ぶ。今後も町は変貌していき、奥に入った古い町割もやがて消えていくのかもしれない。姥ケ懐の八幡社(八幡社貝塚)がそうした流れに飲まれない事が望まれる。2021/09/23姥ケ懐の八幡社(八幡社貝塚)創建 / 不明祭神 / 応神天皇(誉田別命)所在地 / 東海市名和町姥ケ懐82-5関連記事 / 一番畑の秋葉神社公共交通機関アクセス / 名鉄常滑線「名和」から南東方向へ徒歩で15分程 (駐車場なし)
2021.10.08
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今朝は日の出と共に空にぼんやりと虹がかかる幻想的な光景を見ることが出来た。一日の始まりは思いもよらぬ光景から始まった。今日は以前から予定していた紅葉探しに出かける。既に香嵐渓とか綺麗に色付いた紅葉が見れるとか、盛んにメディアに取り上げられ、若干煽られているかもしれない。目的地は豊田市の松平郷、朝8:30に自宅を出て、猿投グリーロード経由で国道301号線沿いの松平郷に到着が10:00前、通勤渋滞もなくすんなり辿り着けた。国道から松平郷に向かう分かれ道にある駐車場に車を停め、ここから徒歩で向かう。駐車場に掲げられていた観光案内図、歩きたくない向きには奥に駐車場は何カ所かあります。私らは3㌔ほど歩きたいので一番入口に近い駐車場に停めています。松平郷は今からおよそ六百年前、この地に発祥した松平氏は三河を平定し天下太平の礎としました。徳川三百年の礎となった松平氏発祥の地がこの地。この奥には松平東照宮や松平家の菩提寺高月院などあり紅葉意外のお楽しみもある。駐車場から東照宮に向け山里に付けられた歩道を登っていく。今日見た紅葉で一番鮮やかだったがこの歩道沿いのもみじ。高月院の住職によると「今年の紅葉良くない」そうだ。確かに、紅葉しようとしながら枯れ始めたり、紅葉する前に葉が枯れ始めていたりする。近年、山が鮮やかに赤く染まり「きれいだね」と感じる光景はあまり見なくなった気がする。徒歩10分程で松平東照宮に辿り着けます。境内を落葉を始めたイチョウが黄色に染める、もみじも随分と色付いている。松平東照宮拝殿全景。ところどころにもみじがあり、状況によっては綺麗な写真が撮れるのではないかなぁ。境内周囲には水濠や石垣も残っています。これらは関ケ原の合戦の後、松平太郎左衛門家九代尚栄によって築かれたもので、水面に紅葉を写し込み趣のある光景を見せてくれます。松平東照宮の始まりは八幡宮と称して松平家の屋敷神でした。1619年(元和5)家康を合祀し1965年(昭和40)親氏公を合祀したもの。松平太郎左衛門家は大正初期までこの地に居住していたという。外観は贅を尽くした東照宮のイメージで訪れるとギャップを感じるかも知れません。その代わりと云ってはなんですが、松平東照宮の売りは拝殿格天井絵かもしれない。神職の方からは「写真撮影もOKだからね」と一言。200円の拝観料は拝殿内の箱にセルフで入れる、信用あってのシステム。108枚の天井絵は、白梅や紅梅など見慣れたものからアロエや朴葉など見慣れない草花が色鮮やかに描かれている。上を仰ぐのもいい、一番の鑑賞法は仰向けになる、これに尽きる。豊田市出身の漆芸家安藤則義氏の手により、2015年に松平東照宮の見所の一つとして新調されたもの。松平東照宮所在地 / 豊田市松平町赤原13松平東照宮から松平郷の最奥部に鎮座する高月院へ向かいます。途中の道には茶屋や室町塀、小さなせせらぎ沿いの親水緑道などあり、紅葉の進む松平郷を感じる事が出来る。東照宮から高月院まではゆっくり歩いて15分程。紅葉の樹々の隙間から見る山門と背景の田畑は、古き良き日本の原風景を感じることが出来ます。松平家の菩提寺高月院全景。こちらの住職、トークがお好きで、なかなか面白い方だった。特別御朱印やYouTubeにも投稿、寺の維持費の足しにしているという。今のご時世、寺社の管理は氏子や檀家に依存するだけでは成り立たない。時代にあった発想が無ければ維持は出来なくなってる。高月院本堂左から続く道を進み松平郷展望テラス目指し登り続ける。道沿いには標識も立っており、住職曰く「分からんかったら農作業している人に聞けばよろしい」との事だったが・・・・第一村人に遭遇することはなく、村人ではなく何か別の住民と出逢う予感がする。高月院所在地 / 豊田市松平町寒ケ入44松平郷展望テラス、車道沿いの高台にある展望台からは豊田スタジアムなど豊田の街並みを一望できる。ここから再び山中の歩道に戻り、松平城跡を経由し駐車場横に出る予定でした、途中で道に迷い東照宮に出てしまった。ここから引き返す元気もなく潔く来た道を戻る。少し遅い昼ご飯はJAあいち豊田グリーンセンターでシイタケバーカー。パンズは柔らかく、シイタケとひき肉の入ったコロッケ、衣はカリカリで松平郷のシイタケが丸々入っている。どこぞのバーガーと比較してもこれは美味しかった。こちらでラズベリーの苗が手に入るか期待していたが生憎在庫はなく、シイタケの原木500円を買って帰途に着く。紅葉に東照宮と高月院の御朱印を頂き、自宅には3:00には戻ってこれました。松平郷の紅葉もこれから本番だと思います。2021/11/18JAあいち豊田 グリーンセンター 松平店所在地 / 豊田市松平志賀町丸山5−1今回ルート / 猿投グリーンロード力石インターから松平郷入口駐車場
2021.11.18
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西願寺六所神社から住宅街を南西方向に10分程。街中に取り残されたように樹々が生い茂る一画が山神社・お福稲荷社・白龍大神の鎮座地。新年最初の5.6㌔の神社巡りもここが最終目的。陽は傾き落ちるばっかりだ。社地北側から山神社・お福稲荷社・白龍大神を眺める。こんもりと盛り上がった社地全体に鬱蒼とした樹々が生い茂る。なんとなく古墳の上に鎮座している?と思うような光景ですが古墳ではないようだ。山神社・お福稲荷社・白龍大神の社頭全景。所在地は北区安井、安土桃山時代に浅野長勝が築城した安井城があったという。長勝は妻の妹婿の杉原道松の娘「寧々」「やや」を養女として迎えた、「寧々」は後の秀吉の正室となり、「やや」は婿養子となった浅野長政の正室となり、戦国の乱世に振り回されながら生きた女性達。このこんもり感は嘗ての安井城の名残、城は長政が津島に移ると共に廃城となった。安井城の現在は遺構も残っていないが社地の南西にあったとされ、この安井城の鬼門を守護するために山神社が祀られていたと云う。末社のお福稲荷社と白龍大神は近代になって祀られたようで、お福稲荷社は戦前まで大変な賑わいを見せていたという。社号標は山神社の下にお福稲荷社、白龍大神とある。この事からも創建時期は山神社が古い事を表しているようでもある。社号標の右にお福稲荷社の鳥居が建つ。鳥居左の山神社解説。「祭神は大山祇神。社伝によれば天正年間(1573~1592)に安井将監・浅野長勝(ねねの養父)が、安井城を築く際、鬼門(東北)の守護神として勧請。神社南西に位置した安井城は、東西約160㍍・南北約150㍍で当時としては相当な規模の館であった。この辺りは矢田川の堆積地、昭和初期に耕地整理が行われまで、松・榎・椿・竹などが鬱蒼と生い茂っていた。境内にはお福稲荷社(稲荷大明神)、白龍社(龍神)も祀られている。例祭11月7日」鳥居から石段を上り山神社に向かう。正面に加藤五左エ門の石碑と百度石。参道はここから左に向きを変え尾根沿いに西に続く。西陽の差す尾根の先に鳥居と拝所があり、尾根の北斜面にお福稲荷社、南斜面に白龍大神と祀られ、其々に続く参道が別れている。参道脇に昭和8年に建てられたお福稲荷、御山神社、白龍大神の石碑がある。山神社社頭全景。神明鳥居の先に拝所と奥の社殿が見通せる。住宅街という静かな環境にあって、この杜は更に静寂な空間に包まれている。拝所から本殿。さほど広くない尾根の両脇に毬と子を持った狛犬が守護する。覆屋と拝所の屋根が視界を遮り、本殿の全貌は見渡せないが恐らく神明造。まずは山の神に参拝。ご利益は農業、林業、工業、商業、酒造、漁業など幅広い。右手にお福稲荷の社殿が一望できる、参道を戻り右下に続く参道に向かう。山神社との高低差がよく分かる。参道を下りるとそこから拝所まで奉納鳥居が連なる。奉納鳥居を抜けると「お福稲荷」の額が掲げられた明神鳥居が現れる。鳥居左に小さな覆屋、正面に拝所と本殿の伽藍。鳥居をくぐった右側に手摺が続く、参拝後に向かう事にする。上鳥居左の小さな覆屋、そこには座布団の上に艶のあるカーリングのストーンの様な重軽石。願い事をする前に持ち上げた石の重さに対し、願いをした後に持ち上げた石の重みが軽ければ願いは叶う、不思議な石だ。参拝時気付かなかったが、覆屋の右に石の額が置かれていたようです。文字は写真から識別できなかった。下拝所から本殿の眺め、久し振りに鈴を鳴らして参拝。本殿前で赤い前掛けを付けられた狛狐。狐としてはいい体格、やせ細った狐は悲壮感が漂いどうも好きになれない。参拝を済ませ、右に続くスロープを奥に向かいます。その途中側面から本殿を見ると本殿は流造。上奥に進む参道は三面ともコンクリートで囲われ、雰囲気はボブスレーのコースだ。下参道は右手に折れ、目の前に覆屋が現れ、目の前の岩壁に扉。手前に狛狐が守護し右手の狐の後方にも小さな社が祀られている。先程同様、健康的な容姿の狐が守護している。正面の祠、暗くて中は分からない、まるで狐の巣の様相。周辺の岩は人造石か?恐らく石の祠の上に積み上げたものかもしれない。先程お福稲荷は参拝させて頂いた、ここは何だろう、奥の院だろうか。周囲を壁に囲まれ、外界から閉ざされたような不思議な空間だ。さあ南斜面の白龍大神に参拝、一旦尾根に戻る。尾根から南斜面の白龍大神。覆屋の下に流造の社が祀られ、木造鳥居が建つシンプルな社殿。上白龍大神全景。社頭に下る石段途中の南垂れ斜面を社地として切り開き、伽藍が建てられています。白蛇の予感がする趣だ、そもそもこの神社には言い伝えがあるという。嘗ての城跡の上に鎮座する山神社、市街化の流れから見ればただの小高い丘。必然的にこの小山を削る工事が行われたそうだ、その工事の際に逃げ惑う白蛇が現れ、作業員がそれを殺したという。それ以降当事者含め禍に巻き込まれ、白蛇を鎮めるために祀られたのがこの神社だという。こうした話は稀に聞くことがある。事実かどうかはさておき、根底には代々守り継いだ土地が跡形もなく姿を変えてしまう事に対する警鐘から生まれたものかも知れない。街中に不自然に残されたものには何かの謂れがある、なぜそこにあるのかも知る必要があるのかも知れない。下白龍大神本殿全景。水田が広がっていた頃、水を司る龍は必要不可欠な存在。白蛇を鎮めるために祀られた神社、大嫌いな蛇がとぐろを巻いていそうだがそうでもなかった。白龍神社から鳥居をくぐり境内に出る、額は白龍神社。嘗ての城跡の痕跡として街中に残った小高い丘。そこは元々の主以外に狐と龍の住む特別な場所として住宅街に貴重な森を残している。神社から南側のお福市場方向の街並み、見覚えのある街並みが今も残る。ここを歩いて黒川駅に戻るとしよう。今回訪れた個所を地図上に落として見ました、意図せず矢田川の付け替え前を辿るような形になりましたが、多様な変化をもたらした付け替えは切っても切れない。機会があれば嘗ての合流地点に向け歩いて見よう。山神社創建 / 不明、祭神 / 大山祇神お福稲荷社創建 / 不明、祭神 / 倉稲魂命白龍大神創建 / 不明、祭神 / 白龍所在地 / 名古屋市北区安井1-7今回の徒歩ルート関連記事 / 「六所社 」北区金城町 、中切町「神明社」 、『中切天神社』、成願寺町 六所神社
2022.02.26
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西春日井郡豊山町豊場冨士、なんともいい地名だ。今回の目的「富士神社」はここに鎮座します、地名はこの神社から来ているのかもしれない。前回訪れた千松寺から「富士神社」までは徒歩で南に30分程の移動時間。この時は自転車で巡ったので概ね10分程の移動時間でした。上はこれまで訪れた豊場一帯の地図、上の千松寺から赤で示した富士神社まで豊山の町を縦断した形になります。明治の頃は田園地帯に点在する集落を繋ぐ道はシンプルで目標とするものが見て取れたはず、よもや狐に道を騙されることはないが現在の道筋はまるで迷路のようです。毎度〃書いているけれど、この一帯は迷路のように入り組んだ細い路地が続き、対面通行や一方通行だったり、そもそも駐車場余地はなく車で動くのは難しい。ミニパトが取り締まりの目を光らせ、当日も交差点で止まらず切符を切られる光景を目にしました。富士神社西側から社叢の眺め。住宅街の一画にこんもりと盛り上がった社地に豊かな杜がある。平地の続く一帯でこのこんもりはある意味「冨士」です。「森に神社あり、こんもりに古墳あり」富士神社はその両方に該当し、「青塚古墳」と呼ばれる古墳の上に社殿が造営されています。青塚古墳?個人的には犬山市青塚の青塚古墳(王塚、茶臼山)が馴染みがあります。青塚古墳史跡公園として整備され、古墳時代前期に作られた県内2番目(全長123㍍)の大きさを誇る前方後円墳があり、航空写真でもその姿ははっきりとわかる大きなものです。どちらも同じ呼び名なので以降は豊場青塚古墳として区別しよう。青塚砦跡?富士神社を調べていたところ「尾張誌」に「青塚砦跡」の記録が残っていた。それによると「豊場村にあり、1584年(天正12)小牧、長久手の戦いの際、秀吉方の森長可が砦を築いた、塚山の高さは6間、四方11間」とある。6間というと約10㍍の高さ、現地の高さもそんなもんだ。記述にある塚が豊場青塚古墳、築かれた砦が青塚砦なのだろう。県の資料に富士神社について以下の記述があった。「この地開拓の祖、物部氏の墓と思われる古墳。元々は前方後円墳であるが、現在は円墳部分のみが残り、冨士社が祭られています。1584年(天正12)の小牧・長久手の戦いの際には、豊臣軍の武将森長可が、この塚に陣取りし、砦を築いたといわれています。 平坦な地形の豊山町の中で突如として小高くそびえる姿は、その歴史とともに、孤高ともいえる存在感を放っています」とあった、ここで云う砦も「青塚砦跡」を指すようだ。こんがらがってくるが青塚古墳の解説で砦の名は記されていないが「小牧・長久手の合戦で砦が築かれた」と記されていた気がする。しかも向こうは地名に靑塚が残っている。しかし豊場青塚古墳は周辺に「靑塚屋敷」の地名はあるものの地名は冨士。古墳のこんもり以外に砦の遺構らしきものが見当たらないだけに、青塚砦の靑塚がここでいいのか自信がなくなる。古墳の事ばかりで神社の詳細は乏しく詳細が掴めなかった。社頭左に小さな祠があった、「靑塚」御堂とある、靑塚かぁ。堂内には右から地蔵さま、中央に弘法さま、左が観音さまの三体が安置されていた。生花が御供され身近な存在として今も崇敬され「さま」をつけられ親しまれているようだ。社地東側からの眺め、ここから少し北に行くと「靑塚屋敷」がある、由来は靑塚さんの屋敷があったとかではなく、数件の集落を集まりをその様に呼んだことに由来するようです。社地の東側は富士神社前公園として整備され子供たちの集いの場になっていました。公園の前に「靑塚古墳前」のバス停があります、靑塚かぁ。「森に神社鎮まり、こんもりは古墳で城址(砦)あり」と見よ、という事か。富士神社社頭。右に社号標「富士神社」があるが鳥居や狛犬は見当たらなかった。右手に桜の老木があり、この時期は社頭に彩りを与えているのだろう。社頭左側に豊山町文化財研究会の解説。「富士社祭神 木花開哉姫命由緒冨士浅間神社の分神を迎えて奉祀する。青塚が富士山の形をしていたので、冨士社と名づけられた。1520坪もある相当大きな前方後円式古墳の後円部だけが残る」社頭から墳丘に向け石段が続く。頂きに陽に照らされた白い拝殿が見えている。社地を一周したけれど前方部がどちらにあったのか痕跡は見当たらなかった。拝殿。切妻で妻入りの四方吹き抜けのコンクリート製。全体は白塗りで梁部分は淡いピンクに塗られている、女神らしいお化粧だ。拝殿から本殿の眺め。左側に境内社と石標が見える。拝殿左側から本殿域の眺め。本殿、境内社ともにステンレス製の玉垣で囲われています。光り輝くステンレス製の玉垣、意外にコンクリート製の拝殿と調和がとれている。綺麗な台座の上に祀られる板宮造りの富士神社本殿。祭神は木花開哉姫命。創建は調べて見るもよく分からなかったので地図で追いかけて見た。鳥居の印がはっきりあらわれるのが昭和20年以降、それ以前は後円部らしき丸い円が描かれているだけだった、創建に繋がるものはそれくらいだった。しかし現在の豊山町豊場冨士付近が明治24年豊山村当時から昭和47年頃まで青塚だった事が分かった。それが豊山村➡豊山町に変わっていく段階で靑塚が消え、靑塚屋敷になった。字靑塚で存続できなかった経緯が気になるが靑塚に拘るのはもうやめよう。本殿左の境内社、其々社名札はない。参拝に訪れる方と会えないものか期待したが結局逢う事はなかった。左の社はお手上げ、右側の社は扉が半開きで、中の御札からこの社は秋葉社のようだ。社の前で跪き中を覗き込む姿、なんと怪しい姿だろう。境内社の左に山乃神が祀られている。富士神社本殿右からの眺め、陽光に浮かび上がる姿は正に女神のようだ。この辺りで墳丘を眺めて見たが古墳の面影は十分感じられるが、砦の遺構らしきものというとやはり見当たらなかった。・靑塚古墳は二つある。・前方後円墳の後円部分に鎮座する事。・どちらも砦が築かれた。・境内社の一つが秋葉さんだった。・社名は冨士のような古墳の形から来ている事。・豊場冨士の地名は以前は靑塚だった。・ミニパトの取り締まりあり。富士神社創建 / 不明祭神 / 木花開哉姫命境内社 / 不明社、秋葉社、山乃神靑塚御堂 / 地蔵菩薩、弘法大師、如意輪観音、何れも銘文不明所在地 / 西春日井郡豊山町豊場冨士15千松寺から富士神社徒歩ルート / 徒歩30分、自転車10分関連記事 / 「霊鶴山 千松寺」西春日井郡豊山町 、守山史跡散策路 7 瓢箪山古墳
2022.04.09
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ゆとりーとライン川村駅で降車、庄内川に架かる松河橋を渡り松河戸界隈を訪れました 松河橋を渡った庄内川堤、春の訪れを感じさせる陽の温もりを感じつつ上流に向かいます正面には「名古屋第二環状自動車道」と庄内川大橋が見えています 河原にひとり生えの梅の枝にはピンクの花が満開です庄内大橋を過ぎた上流、対岸は龍泉寺方向です 子供達がよちよち歩きの頃、春になるとディキャンプに訪れた場所です下流を眺めます ここは我が家にとって忘れられない場所長男に初めてカヌーに乗せるため、ライフジャケットを装着させ 目を離した一瞬のスキに川に入り、プカプカ流された場所彼を見守っていたかみさんが直ぐにピックアップして事なきを得ましたが 彼にとっても思い出の場所です(outdoorでは子供から目を離してはいけない・・・・・特に長男は予測不能でした)そんな場所を後に、土筆を探しつつ更に上流へやがて堤から河原に降りる道が見えてきます 堤脇に石標が建っています、車で走っていると見過ごしてしまうかも?その昔、春日井から対岸の龍泉寺街道の龍泉寺を結ぶ渡船所があった場所です 「下津尾渡し」と呼ばれます 石標は昭和に建てられた新しいものです1938年(昭和13)頃までは竜泉寺の節分、初観音の時は利用客で賑わったと云われます 戦後、参拝客の減少と下流に松河橋が架けられた事により衰退していきますがそれでも1965年(昭和40)頃まで続いたそうです堤から対岸の竜泉寺方向を眺める 森の上には龍泉寺多宝塔の相輪が見えています確かに近い 大雨の度に様相が一変する川ですが、ここに渡しを作ろうとしたのも頷ける位置関係です 土筆を探しながら堤を歩いて見ましたが、今回も見つける事は出来ませんでした 殺風景な河原にもゆっくりですが芽吹きの緑も見られますもう少し暖かくなると堤の散策や近隣の寺社巡り、毛鉤を振るにはいい場所です「下津尾渡し」住所 / 春日井市下津町731-12アクセス / 地下鉄名城線大曽根⇒ゆとりーとライン川村駅下車徒歩30分程
2018.03.01
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豊橋市御園町の朝倉川左岸に位置し、東田神明宮の西隣りに鎮座するのが御嶽社。鎮座地は古墳時代中期の5世紀頃に築造された東田古墳と呼ばれる前方後円墳の上に築かれている。南西角から東山古墳を眺める、この交差点を右に曲がって50㍍強ほど進むと左側が東田神明宮。豊橋を流れる豊川流域には古墳が多く、この朝倉川流域には、40基ほどの古墳が分布していたとされ、東田古墳はその一つ。深い社叢に包まれており、周囲から社殿は見通せないが、社叢の二つの盛り上がった感じから、東西に長い前方後円墳の雰囲気は感じ取れます。古墳の周囲は生垣で囲われており、一見しただけでは神社が鎮座するようには見えない。南東側から東山古墳を眺める。周囲を囲っている生け垣はここで途切れ、参道が作られている。この流域に築造された古墳の多くは円墳とされ、ここ東田古墳は、長さ40㍍ほどの前方後円墳。明治12年(1879)から同13年頃に御嶽社社殿造営の際、土中から副葬品の鳥文鏡と大刀が出土し、豊橋市内で鏡が見つかった数少ない古墳だという。古墳時代中期の当時権力者の埋葬のため築造されたこの古墳、出土した鏡は飛翔する鳥が描かれ手の込んだもの。当時、鏡は大和王権との結びつきを示す権威の象徴とされたそうで、これまで本格的な発掘調査はされていないようで、どのような有力者だったのか不明。御嶽社社頭の解説によれば、古墳の規模は全長40㍍、前方部は幅16㍍、高さ4㍍、後円部は直径20㍍、高さ3㍍あると云います。参道は途中から石段となり古墳前方部に続く。参道左の石碑は「境内改修之碑」で碑文の内容は以下。「当東田御嶽神社は、明治初年の創建にして、国常立神、大己貴神、少彦名神を祀る。御鎮座の岡、東田古墳は五世紀頃築造の前方後円墳である。昭和49年周辺地域の区画整理に際し、墳麗の大半を露出するのは止むなきに至った。所有者随神大孝道側、施工者区画整理組合側、監督側豊橋市、考古学者側の四者が現況確認と保存措置を講じた上で実施、後世に残す。その上で大孝道場が再建された」こちら側が前方部にあたり、御嶽社に続く石段の上り口に手水鉢が置かれている。明治期に築かれた石段は、それ以上の時を刻んでいるような趣がある。前方後円墳の後円部に建てられた御嶽社の社殿。前方部に合わせて後円部を1㍍程削り平坦な境内が作られたようです。墳丘からは野焼きで焼かれた埴輪も見つかっているようで、そこから5世紀頃の築造と推測されるようです。墳丘の周囲は鬱蒼とした樹々が茂り、切妻造の平入拝殿の左右は切れ落ち、後円部を平坦にして出来た敷地一杯に社殿が建っているようすが窺われます。御嶽社といえば霊神碑が立ち並ぶ印象がありますが、境内を見渡してもそれらしき姿は見当たらなかった。拝殿右隅にひとつの石碑があるが霊神碑だろうか。現地では正面に文字が書かれている様にみえたが、いま写真を拡大してみても良く分からなかった。拝殿額には御嶽社と書かれています。拝殿左から墳丘の南側に降りる石段が作られ、そこから社殿を見上げると拝殿と一体になった幣殿?と本殿の姿が見られます。木立の隙間から望む本殿。墳丘を降りた南側には豊橋生まれの影山庄平翁之碑と、樹々に包まれた社殿を背にして建つ霊神碑があった。霊神碑の数こそ違うが、こうした光景は霊峰御嶽の里宮に似た光景を漂わせている。ここ東田古墳の墳丘は崇敬者には霊峰御嶽の姿そのものなんだろう。明治の時代、ここに御嶽社を建てなければ、古墳はとうに宅地化されていたことだろう。御嶽社はある意味で古墳の鎮守でもある。東田古墳築造 / 古墳時代中期古墳形式 / 前方後円墳御嶽社創建 / 明治12年(1879)祭神 / 国常立神、大己貴神、少彦名神所在地 / 愛知県豊橋市御園町5-5参拝日 / 2023/10/14安久美神戸神明社から東へ徒歩 / 約30分参拝日 / 2023/10/14関連記事 / ・東田(あずまだ)神明宮・手筒花火発祥之地 「吉田神社」・豊橋市今橋町「奮藩祖・豊城神社、彌健神社」・豊橋市八町通「安久美神戸神明社」
2023.12.05
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『鉈薬師』覚王山「日泰寺」で毎月21日行われる縁日、その時のみ「鉈薬師」は一般に公開されます 名古屋市の「千種公園とみずのみちめぐり」コースの一つともなっています地元で育ったおやじですが存在は認識していましたが初めて内部を見せて頂きました普段は固く閉ざされた門も21日は開いています これまでこの案内板だけを眺め気にして何十年、今日はようやく内部を見る事ができます薬師堂 満を持して、初めて入るこの感覚ご理解頂けないでしょう尾張二代德川藩主「光友」の支援により当地へ移転されたものですが、もとは我家の菩提寺に鎮座していたらしく、縁のあるものと知った時からいつかは訪れたいと思っていました ずっと気になっていた山門前の像も間近に見る事が出来ました 大陸の香りがプンプン漂いますこれに酷似した像、どこかで見かけた像(・・・・・聞き流して下さい) 尾張藩祖徳川義直の御用医師を勤めた、明国の帰化人で張振甫によって建てられたものです近隣の振甫町の名はここから来ていると云われています鯱が飾られた山門山門の扉には三つ葉葵の紋が彫られています 尾張德川家との関係性が現れています山門から鉈薬師までの短い参道に置かれた石碑群宝型造りの醫王堂、鉈薬師の拝観客は次から次に訪れ途切れる事はありません そうでしょう、月に一回の拝観日、しかも拝観時間は10:00~14:00まで醫王堂(いおうどう)と記された扁額 上は外から撮った絵ですがPCで調整し堂内が浮かびあがってきました 堂内には撮影禁止の張り紙もしっかり貼られていますじっと人波が途切れるのを待っていたところ、拝観日の当番の方でしょうか 先輩に声をかけて頂く「長い事何してんの?」 「円空の十二神像を拝観しに来ました・・・・・写真なんかもダメですよね?」「ストロボ焚かなければ・・・」後はボディートークで云われましたが 厚意を無にしたくないので掲載は控えます堂内には三つ葉葵の紋が入る提灯が吊るされ 右に円空仏が6体、左に7体祀られ、間近に見る事ができますこれらは名古屋城築城時の余材を使い、鉈一本で彫られたといわれる十二神将、日光、月光菩薩が拝観できます 本尊の薬師如来坐像を除き全てが円空作と云われます3時間程滞在し円空の情念を込めた作品を目に焼き付けてきました 我家の菩提寺と縁のある「鉈薬師」「円空仏」また会いにきますじいちゃんも元気でネ『鉈薬師』創建 / 1669年(寛文9)住所 / 愛知県名古屋市千種区田代町四観音道西アクセス / 名古屋市市営地下鉄東山線覚王山下車徒歩15分
2017.12.06
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熱田神宮南門から本宮へと進むと右手に「楠御前社」の鳥居があります。参道沿いに神明鳥居鳥居が西向きに建っています。社殿は鳥居をくぐった左となりますが、この社には社殿はありません。神明鳥居と玉垣に囲われた中に楠の神木が祀られている社です。楠御前社正面全景。鳥居の先に小さな鳥居が無数奉納されています、この小鳥居に干支と氏名を書きここに奉納すると願いが叶うとされます。楠御前社は「子安の神」あるいは「お楠さま」と呼ばれ親しまれ、病気を治し、女性の方には安産の神として信仰されています。楠御前社(くすのみまえ)由緒祭神は伊弉諾尊、伊弉册尊「安産や縁結び並びに病気平癒の神様。俗に子安神、お楠さまと称される。江戸時代中期「熱田社問答雑録に杜の神なり、古楠樹を主とする」と記されている。社殿がなく、瑞垣の内に楠のご神木が祀られている」熱田社問答雑録とは熱田神宮の本宮、別宮、末社の祭神、沿革などに関する概略が問答体で解説され纏められたもので、1704年(宝永元年)に成立したとされます。 (熱田神宮問答雑録)ご神木の楠300年前の記述に残るご神木の楠、恐らく何世代か代替わりしているのでしょう。現在見られるご神木はとても若々しい姿をしています。代替わりし蘇る自然のパワーがご利益の源なのかもしれない。早朝の熱田の杜に差し込む朝陽の光景は神秘的なものがあり、その光景を見るとそんな気がしてくる。熱田神宮境内末社 楠御前社祭神 / 伊弉諾尊、伊弉册尊住所 / 名古屋市熱田区神宮1公共交通機関アクセス / 市営地下鉄名城線「伝馬町」駅下車徒歩10分程関連記事 / 南新宮社、日割御子神社、孫若御子神社
2020.09.13
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簡単にcoffeeが出てきてとても便利なネスカフェバリスタ。これが何台目か分からない。今朝、給水タンクの下から水漏れし様子を見るとタンクと本体の接続部分から漏水していることが判明した。給水タンク自体の底にある逆止弁はしっかり水を止めてくれている、本体接続側のパッキン劣化から漏水している可能性が非常に高い。大体こうした所には丸い形のパッキンが付いているもんだ。代えりゃ復活するだろうと安易に考えていた。上が本体側の接続口。既にパッキンを取り去り内部が露わになっているが、底にはフィルターが収まり、外す前はフィルターの外周に丸リングのパッキンがあるものと思わせる光景だった。過去の機種も使い込むと不具合が発生し分解してきたが、こんな分かりやすい個所は初めて、これなら楽勝だァ。かみさんはYouTubeで「バリスタ水漏れ」で調べ、結構シンプルなパッキンでサイズも分かったので早速買いに(@180)出かけて行った。その間もパッキンに食添用のグリスを塗って漏れを確認するも変わらない。右が複数のYouTubeで交換実績のあったもの、フィルターが付いた状態だと正にこの形態に見えていたので、取り外しにかかる。接続口の内周に沿ってパッキンを引き出す、随分と手強い、更に引き抜くと買ってきたものと全く違う形状のパッキンが現れた。これ、どう見ても合わないやね。最初の写真にある比較的新しいバリスタ(現在と同機種)のパッキンは本体接続ホースにフィルターとタンク接続口のパッキンが一体になっており旧来の様に丸いリング状のパッキンではありません。つまり部品販売しない限り復旧は無理です。奥に見える白いホース接続口に外したパッキンの先端が接続される一体物。毎度〃分解し、YouTubeにも別機種の成功事例は載っています。しかしこの機種はそうした事を断固拒否し、新たなマシン購入を促すバージョンアップされた構造が各所に見られます。それはネジ一つにも現れ、これまで分解できていた専用ビットでも合わないビスが一部使われていたり、手持ちのビットでは全てのネジが外せない。メーカー側の断固として分解させない、買い替えを促す意図が伝わってきます。その最たるものが一体式パッキンの仕様変更に現れているかもしれません。ヘビーユーザーとはいえ、マシンの寿命が短い。たかが水封パーツ一つで廃棄するなんて、資源を使い捨てる時代はとうに終わっているはずなのに。あの白いホースと水道や外付けタンクに直結してやれば使えそうなんですが・・・・・負けた。新しいマシンに変えよう、しかし純正coffeeは断じて買わない。社外品が入れれないように口を加工しても、社外品のcoffeeは充填できる、せめてそこだけは譲れない。個人的には湯を入れてcoffee作ればいいんだが、泡泡のカフェラテが飲みたいかみさんにしてみれば欠かせないアイテムのようだ。2023/1/6バリスタ逝く。安価な外部タンクとホースを繋ぐのも捨てきれないナ、廃棄せずしばらく考えて見よう。
2023.01.06
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11月12日。名古屋から近鉄電車に揺られ、奈良県桜井市の安倍文殊院を訪れ、周辺を歩いてきました。今回はその時のトピックスを掲載します。最寄駅は近鉄桜井駅、名古屋からだと伊勢中川で乗り換えないと桜井には止まってくれません。車窓から見える山々は、紅葉にはまだ早かったです。それでも途中の長谷寺駅では、海外から訪れた親子連れなどが秋の奈良を目当てに連なって降りる姿が見られました。私たちも秋の装いに包まれた磐余の道と山の辺の路をのんびり歩き、安倍文殊院と三輪山近くの今西酒造を訪れ、季節限定の酒を買い求めるために訪れました。・・・と多少紅葉を期待しましたが、車窓から眺める山々はその気配すらなかった。桜井駅から約15分弱歩いた桜井市谷地内の三叉路で見かけた「左 土舞臺(台)、右 安部文殊院」とある道標。(道標の位置)ここは道標に従い100㍍ほど先の三叉路で左の緩やな登り坂を進んでいきます。小さな溜池を右手に見ながら、心細くなるような細い道を道なりに進んで行けば安部文殊院までは近い。道標から10分程で、写真の安部山文殊の石標に辿り着きます。ここを先に進めば文殊院の駐車場に至ります。G先生は山門まで導いてくれなかったが、まぁ良しとしよう。桜井駅からここまで1.5km程、途中Google先生を信じられずに遠回りしたため、移動時間は30分程かかりました。安部文殊院と文殊池。所在地は奈良県桜井市阿部645。安部丘陵の西端に鎮座する華厳宗の寺院で、山号は安部山、院号は文殊院。正式名称は安倍山崇敬寺文殊院で、別名「知恵の文殊」、学業成就の寺として知られ、獅子に乗った国宝の文殊菩薩像を本尊とする寺。また、平安時代の陰陽師、安倍晴明の出生地といわれる寺で、境内東の文殊池を見下ろす高台には晴明が天体観測を行った「天体観測の地」があります。そこから西の眺めは伽藍を一望でき、その先の藤原京跡や、耳成山、畝伏山、遠く二上山が一望できます。境内の伽藍は安倍倉梯麻呂、安倍晴明、開運弁財天を祀る金閣浮御堂霊宝館と本堂、礼堂、清明堂、稲荷社、白山堂、不動堂が主な伽藍です。拝観料は、金閣浮御堂前の発券所で浮御堂と本堂の共通拝観券1200円を買い求め、最初に本堂から参拝するルール。本堂の祈祷所で記念品として文殊菩薩像のポストカードと落雁、御守りを頂いて本堂拝観の流れです。この日は、幸運にも奈良四寺を巡る団体様御一行と一緒になったため、個人拝観ながら御祈祷もして頂けました。御祈祷を終えると内陣手前から本尊の文殊菩薩像を拝むことができます。ツアー客は慌ただしく拝観を終え本堂を後にしていきます、 個人拝観の自分達は静まり返った本堂でじっくり鑑賞できます。こちらが騎獅文殊菩薩像(HPから引用)。何かで見た記憶があり、実物を見るのは今回が初めて。内陣中央の獅子に乗る文殊菩薩は高さ7mの日本最大といわれます。仏師快慶が建仁3年(1203)~承久居委2年(1220)の17年をかけ作られたもので、国宝に指定されています。文殊菩薩の両脇でお供するのは、右側が優填王(左)、善財童子、左側が仏陀波利三蔵(右)、最勝老人です。群像は、文殊菩薩が乗る獅子の手綱を優填王が持ち、善財童子が先導役を務め、仏陀波利三蔵と最勝老人が左に付き添う姿で構成されています。この姿は、雲海を渡り、衆生の魔を払い、智恵を授けるための説法の旅に出かけている様子を表しています。この姿が本来の姿です。しかし2024年7月~2025年5月の期間だけ、文殊菩薩が約15年ぶりに獅子から降りている姿を拝観できます。上記期間だけ、獅子から降りた文殊菩薩が公開されています。獅子の上から降りて、訪れた者と同じ目線で進むべき方向へ導いてくれます。今回も天眼鏡を忘れたため、脇侍の表情や光背の細部まで見る事はできなかった。御真言はオン・アラハシャ・ノウ。堂内には、大化の改新で談合の地多武峰に鎮座し、廃仏毀釈で廃寺となった妙楽寺(現談山神社)の本尊釈迦三尊像(重要文化財)も安置されています。文殊池に浮かぶ金閣浮御堂。こちらの境内は四季折々の花に包まれます、この時期はピークは過ぎていましたが秋桜が境内を彩っていました。対岸にはこの時期にコスモス迷路が作られますが、大部分がピークは過ぎており、浮御堂右側の花が比較的綺麗に咲いていました。秋桜迷路が見下ろせる天体観測の地から眺める浮御堂と境内、遠く耳成山と二上山を望む。安倍文殊院は孝徳天皇の勅願によって大化改新の時、左大臣となった安倍倉梯麻呂が安倍一族の氏寺として建立した「安倍山崇敬寺」が始まりです。当所の安倍寺は、現在地から南西約300メートルの地にあり、法隆寺式伽藍配置の大寺院だったようです。この地へは鎌倉時代に移転し、塔頭寺院二十八坊を有する大和十五大寺の一つとして栄えました。永禄6年(1563)、松永弾正の兵火により伽藍を焼失。寛文5年(1665)、現在の入母屋造りの本堂(文殊堂)を再建し、本堂前に礼堂(能楽舞台)が建てられました。また、京都府の知恩寺の切戸の文殊、山形県の大聖寺の亀岡の文殊、そして安倍山文殊院の安倍の文殊は、日本三文殊として称されます。手前の浮御堂内陣には、安倍倉梯麻呂はじめ、阿部清明、大和七福神の一つ開運弁財天像が安置されており、なかでも秘仏十二天軸は春夏秋冬において3幅ずつ公開され、4月末の弁財天大祭では全てが公開されます。拝観は受付時に七枚のおさめ札を頂く事から始まります。ひとつ祈願をしては浮御堂を一周、おさめ札を1枚ずつ納め、全7周した後に内陣拝観する。祈願の仕方は「〇✖にならないように」と祈願するもので、「〇✖になりますように」とお願いするものではないらしい。境内の白山堂左にある東古墳。飛鳥時代に造立されたもので、「閼伽井(あかい)の窟」と呼ばれています。閼伽井とは「閼伽水の井戸」の意で、横穴式石室や横穴墓など、玄室と外部を結ぶ通路の中程に、古来より枯れることのない泉があったことに由来しています。この他に浮御堂前の境内に西古墳があります。飛鳥時代に造立されたもので。国の指定史跡の中で特に重要でとされる「特別史跡」に指定されています。古墳の特別史跡指定は明日香の石舞台古墳、キトラ古墳、高松塚古墳と共に、当山の境内の二か所が指定を受けています。内部は、大化元年(645)当時のまま保存されており、巨大な花崗岩を加工し、左右対称に石組みがされています。また玄室の天井岩は一枚の石で、大きさは15㎡あり、中央部分がアーチ状に削られ、築造技術の美しさは日本一の定評があります。内部には弘法大師が造られたと伝わる「願掛け不動」がお祀りされていますが、本来は大化元年に初の左大臣となり当山を創建した安倍倉梯麻呂の墓と伝えられています。まだまだ見所の多い文殊院ですが、御祈祷や七参りやらで、間もなく正午になろうとしていました。文殊院は改めて別の機会に纏めることにして、磐余の道から山の辺の道に向かいます。安倍山文殊院山号 / 安倍山院号 / 文殊院宗派 / 華厳宗開基 / 安倍倉梯麻呂本尊 / 大化元年(645)境内社 / 稲荷社、白山大権現、清明堂所在地 / 奈良県桜井市阿部645近鉄桜井駅から文殊院 / 南に1.4km、約20分強文殊院を後にして東に向かい、艸墓(くさはか)古墳を横目に寺川方向の等彌(とみ)神社を目指します。写真はそちらに向かう途中の桜井市河西で見かけた村社 天満神社。寺川左岸の住宅が立ち並ぶ中、古墳のように小高い山があり、参道はその頂に続いていました。かみさんには少し待ってもらい、社殿を写真に収めてきました、由緒はなく今のところ詳細は分かりません。天満神社所在地 / 奈良県桜井市河西373目的地の等彌神社は寺川を越えた県道37号線沿いになります。文殊院から1.5km、約25分程で旧縣社 等彌神社社頭に到着。こちらの参拝を済ませ食事の計画ですが、こちらの神社は三輪山の南にある鳥見山の西麗に鎮座し、往古は鳥見山山中に鎮座していたようです。延喜式神名帳に大和国城上郡等彌神社に比定される神社で、広大な境内には下津尾社・上津尾社など鎮座しており、そこまでは参拝しましたが、山頂にある庭殿や霊畤まではとてもじゃないが廻れなかった。等彌神社下津尾社社殿の提灯には昼でも灯りが入れられていました。ここはモミジの色付きを期待して経由地にしましたが、残念ながらモミジは青々としていました。等彌神社創建 / 不明上津尾社祭神 / 天照大神下津尾社右殿祭神 / 神武天皇、応神天皇、右殿祭神 / 高皇産霊尊、天児屋命境内社 / 黒龍社、弓張社、鳥見山稲荷社、愛宕社、金毘羅社、恵比須社、護国神社、桃神社所在地 / 奈良県桜井市桜井1176さて、随分遅れてしまいましたが昼食に向かいます。一語一笑。等彌神社から約10分程県道37号線を北進した薬師町交差点の角にある活魚・ちゃんこのお店。当初はラーメンを予定していましたが、歩いて火照った体はラーメンの気分でもなくこちらに立ち寄りました。ランチの時間はとうに過ぎていましたが、店内は結構賑わっていました。お昼の献立。ラーメン一杯1000円越えが当然の様になり、観光地にあって比較的良心的な価格か。二人が選んだのは六角弁当1500円なりと瓶ビール。六角形の重に二段で6品が盛られ、これにそぼろ御飯に吸い物が付いてきました。昼にしてはボリューム満点、味付けもしっかりしており、煮物と刺身が美味しかったです。11月ながら上着なしでも暑いほどの陽気、冷たいビールがうれしく感じます。今回の社寺巡りはこれにて終了、あとは三輪神社方向に向かい、目当ての酒を買い求め、かみさんリクエストの団子屋を目指します。一語一笑奈良県桜井市桜井565-1次の目的地今西酒造本店まで、Gマップでは戻れのルートしか作れませんが、一語一笑の前の国道157号線を越えて細い路地を2km程北に進みます。今西酒造本店。酒造り発祥の地、酒の神が鎮まる三輪で、万治3年(1660)に創業を始めた三諸杉で知られる蔵元。我家との相性がいいのか、何を飲んでも美味しいお酒を造っています。この時期になると、ほぼ毎年訪れ買うお酒があります、昨年は既に売り切れで飲めなかったけれど、今年はどうかな。このために奈良を訪れたようなもので、期待に胸を膨らませ店内へ。11月中旬、手に入れたかった「三輪のどぶろく」を手に入れることができました。良し、これで来た甲斐があった。今西酒造本店所在地 / 奈良県桜井市三輪510番地後は近鉄大和八木駅付近の団子屋をクリアすれば今回の奈良行も目的達成だ。酒蔵から最寄り駅JR三輪駅まで徒歩5分程と一歩きだ。JR三輪駅。ローカル感に溢れた駅舎ですが、山の辺の路を散策するハイカーや大神神社の最寄り駅として乗降客は多く、一本の巨木が駅のシンボルだろう。ここから大和八木に向かいますが、電車は一時間に1本と少なく、直前に過ぎ去った後だった。次の電車まで1時間、歩くか、待つかどうしたもんだか。ダイヤを確認し振り返ると駅の向かいに見慣れた暖簾が目に入る。今西酒造 駅前店 Cafe 三輪座。こんな店があったとは知らなかった、考えて見れば電車で三輪を訪れたのが初めてなので知るはずもない。店舗前にテーブルと椅子もあり、これは一時間楽しめる、ここで次の電車を待つことに。ラインナップにはどぶろくもあるではないか。しかし、どぶろくは家での楽しみとして、他のお酒にしておこう。写真は純米吟醸ハーフ(左)とかみさんが選んだ鬼ごのみ無濾過生酒ハーフ。純米吟醸は米の旨味を感じるすっきりとした飲み心地で自分には合っていた。鬼ごのみ無濾過生酒は金色に色付き、まろやかな雑味のあるまったりとしたお酒。胡瓜の奈良漬けを肴にちびちび時間調整。二杯目も同じ大吟醸、一合にサイズアップ。店内につまみもありますが、駅前の精肉店が出すアツアツのコロッケは美味しかったな。味のある駅を眺めながら、屋外で美味しい酒が飲めるとは、何と羨ましい環境だろう。次から電車で来よう。少し早めにホームに入り、大和八木行の電車に乗り込みました。目的の団子屋は大和八木駅から徒歩5分程南のだんご庄 八木店。こちらの、きな粉団子が最終目的でしたが、当日火曜日が定休日のようでシャッターが下りていました。事前に調べなかったことが悔やまれますが、またのお楽しみです。参考までに。だんご庄 八木店所在地は奈良県橿原市内膳町1-3-8それにしても、この時期に遠出すると、すぐに陽が落ちて動ける時間が少ないのが困りもの。名古屋に戻ると、とっぷりと日も暮れてしまい、気分まで一日終わりモードに入るのが嫌だね。これから寒さが増すと歩きはつらくなりますが、11月とは思えぬ暖かい陽気のせいか、節々の痛みを感じないのがありがたい。国宝も拝観し、充分歩き、美味しい御飯や酒も味わえ、いい一日を過ごせました。爆発もさせず、無事自宅に戻り、二年振りの再会。以前とラベルが変わった気もするなぁ。上が今年手にしたどぶろくのラベル。下が2021年のもの、こじゃれたデザインに変わったようですね。保管している間にも発酵が進むので、開栓時は要注意。900ml瓶に750mlしか入れていないところなど見るからに恐ろしい。しばし冷蔵庫で寝かしてから飲む事にします。訪問日2024/11/12過去記事・ほんとに注意「三緒杉 濁酒」
2024.11.21
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名古屋市千種区向陽に鎮座する『蝮ヶ池八幡宮』千種区の西部は過去に古井村と呼ばれ、その大部分は山林原野でした 1610年(慶長15)名古屋城築城とともに、南側に城下町が造られ城下町の人口増加とともに、開墾の地を求め千種区西部をその地とした 開墾地は名古屋新田と呼ばれ、北は現在の大曽根、鍋屋上野、東は天白区に及んだと言われます名古屋新田の開発は尾張藩士の新田頭兼松源蔵と小塚源平に任されました 開墾地は丘陵地のため、大半は畑兼松家、小塚家は名古屋新田に農業用のため池を作り稲作を可能にしていった 水利の向上に伴い農民も増え、名古屋城下に居を構えていた両家兼松家は1781-1788現在の仲田付近、小塚家も1807年千種区吹上辺りに居を構え指揮統率の強化を図った蝮ヶ池八幡宮は、明正天皇(1624~1696)の御代兼松源蔵が石清水八幡宮の分霊を勧請し 自邸に近い西八幡社の地に祭ったのがその始まりと伝わる後に現在地に社殿を造営、この地に住まうものの鎮守として建てられた現在の千種区は当時の溜池、水田や田畑は姿を消し住宅街に大きく変貌 地下鉄池下駅前を南北に伸びる車道を北の高見町方向に向かう東の高台から西に大きく傾斜した地形が見て取れる10分程歩くと右側に蝮ヶ池八幡宮の社号標と鳥居が見えてきます訪れたのが2017/12/18 境内は椿の赤が彩を与えています二の鳥居 参道の先には上りの石段が続き日陰に紅葉の名残も見られる 石段左に手水舎があり、参道を隔て向いが社務所になります石段の先に境内が広がるようです・・・・・高台の頂が境内?視界は広がる 丘陵地の中腹を整地し境内が広がる、左奥に拝殿が鎮座します見上げれば更に高台が続きマンション・住宅が立ち並ぶ境内左が御参殿社社前の狛犬左から洲原大社、須佐之男命社、秋葉神社の三社が祀られる 昭和49年伊勢神宮造営時の古殿社の御神木で建てられ、同50年鎮座した御参殿社左の鎭霊社御祭神 / 氏子戦没者之霊、千種警察署殉職者之霊蝮ヶ池八幡宮拝殿と拝殿を守る狛犬扁額の整った文字はどなたの揮毫だろう拝殿内部祭神 / 應神天皇創建 / 1624~1696 昭和20年の空襲で社殿焼失、同26年神殿落成 昭和35年に拝殿、渡殿、神楽殿を造営拝殿の向かいには神楽殿があり、その右には木の鳥居と八幡社の社号標が残る 蝮ヶ池が出来る前は八幡社でいいのだろうか境内から高低差のある西の二の鳥居を眺める 左が社務所、右は手水舎境内各所に由緒書きはあるが御参殿社以外は微妙に読み取れない境内東、向陽町の山側の鳥居、階段の正面は神楽殿 山を切り開いたため、ここからも結構な高低差があるこの地を開墾した当時の苦労を感じさせる『蝮ヶ池八幡宮』住所 / 名古屋市千種区向陽1丁目3番32号アクセス / 市営地下鉄東山線「池下」下車 北へ10分程
2018.01.08
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誰が名付けた倒産街道 ここ名古屋市内の出来町通り、ここから東にかけての通りは随分前からそう呼ばれているこの道は東に四軒家方向に繋がり瀬戸に至る 私の認識でも倒産街道は「間違いないところ」と感じさせる程に出来ては消え、出来ては消えの出入りの激しい地域 そんな中で今日紹介する手仕込み地鶏炭焼き「平蔵」は良く頑張っているお店です場所は出来町通りに面した千種区汁谷、駐車場もない小さな赤提灯 しかしながら、歩道に面した「平蔵」から漂う香りはついついコースアウトを余儀なくされる今日は風も強く、前日との温度差が激しすぎる、ついつい暖を求め暖簾をくぐる 現役時代はちょこちょこお邪魔していたが、ぶらり立ち寄るのはこれが初めてなのかもこの店自体が頻繁に居抜けで入れ替わっていたけれど、今の店になってからは良く頑張っている 店先には「5周年感謝祭」と書いてある、なんだかんだで5年は持ったか、新記録達成ですね初めてではないし、覚えていて欲しい訳でもないけれど暖簾の先には トークが楽しいマスターがお出迎え「あまりの寒さに寄っちゃった、一杯飲ませて」から始める 普段は熱燗など飲まないが、今日はダメです、寒い熱燗一合飲んで暖を取り帰る予定で立ち寄ったものの トークが好きな大将です、一人で立ち寄ったおっさんに対して色々話題を返してくれる早すぎて炭に火が入っていないのですっ飛び摘みオーダー胡瓜とみょうがのスライスに鰹節たっぷりの和え物が 軽く一杯には丁度いい倒産街道から始まりトークに拍車はかかり燃料補給一合は底をつく かみさんに内緒の寄り道だけに……もう一杯飲んでっかルービ?この寒さでないでしょう、熱燗一合追加 摘みにに鳥塩、ゲソ焼きを注文し再び大将と話し込む立ち飲みあれば毎日引っかけて行くけども・・・・・ 「二号店で大曽根でやってます」との事次回からコースアウトしてそちらにも寄ってみよう 倒産街道にあってふらりと一杯引っかけるには貴重なお店だと思います平蔵住所 / 名古屋市千種区汁谷41-1営業時間 / 16:00~24:00定休日 / 火曜定休℡ / 052-559-8822
2019.03.13
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静岡県伊豆市土肥静岡方面の一之宮巡りの際、こちらの大江戸温泉物語に宿を取りました随分計画が遅れてしまい、宿に着いたのはチェックインリミットぎりぎり当然食事も一番最後、土肥温泉に浸かり、湯上りのビールをひっかけ、かみさんと夕涼みに黄昏時の海岸を眺めながらの夕散歩時間を潰してホテルに戻り晩御飯です若い頃と違い食も細くなりメインは刺身と酒、これだけあればおやじは満足ゝ肉ゝ星人のかみさんには海辺の旅館は物足りないかもしれない温泉にも入って、おなかも満たされ部屋で二次会ゝ・・・・・速攻で爆睡人は歳と共に目覚めが早くなるのは事実です翌朝は当然ながら早朝に目が覚める、ホテル周辺を散策する事にその際に見かけた「稲宮神社」へ立ち寄ってみました国道146号線から少し東に入った場所で、山を背に海に向かって鎮座します石鳥居に架けられた稲宮の扁額、その先に祠が二つ切妻の小さな祠手前が本殿で右は天王社の様です、見た感じで天王社の祠は最近立て替えられたと思われます鳥居正面の本殿右の天王社本殿主祭神は食物の神様と云われる豊受比賣命、右の天王社は牛頭天皇稲宮神社は屋形地区の鎮守で、いつ頃創建されたものか良くわからないけれど南北朝時代の「伊豆国神階帳」に「従四位上いなみやひめの明神」と記載が残り見た目以上に創建は古いようです元はこの地の水口家の氏神から始まったと云われますただ、古い記録には1854年(嘉永7)の安政東海地震による大津波によって伽藍は流出してしまった様です現在の伽藍はその後に再建されたもの三方に山が迫り、西に海と接した扇状地の土肥、現在は国道と温泉宿、民家が立ち並ぶ街並みですが社名の稲が示す様に、古くは神社と海岸の間は水田だったそうです室町時代中期のこの地では既にぬるい温泉が自噴していたようです水口正入道の頃、この温水を田に導き、それにより育てられた稲の生育は何処よりも早く、旧六月には収穫できたと云われます収穫された米は御新米として徳川将軍家に献納され、1874年(明治7)に廃止されるまで上納の儀として献上されたようで、境内には新米献上の碑が残りそのことを伝えています境内右に石の祠がありますが詳しい事は分かりません境内の左側から山に続く石段、その途中に小さな社があります津波の際はここが避難ルートになるのでしょう額はなく社号は分かりません、中のお札には天照皇大神宮と書かれている祠の左に小さな石の祠と赤い帽子と羽織を着せられた女性の石像が安置されていますこちらも解説板はなく詳細は不明この祠から土肥湊の眺め、手前右は境内に建つ屋形区公民館こちらで尋ねると全てが分かるのかもしれません稲宮神社創建等詳細不明住所 / 静岡県伊豆市土肥2833祭神 / 豊受比賣命神社から北に歩いた土肥金山北条氏や徳川幕府の財源を潤した金山、昭和40年まで実際に採掘されていたようですが採算が取れず廃坑となり、現在は観光坑道と250kgの金塊が展示されているようです早朝なので静かなものですここで見かけた伊豆半島の成り立ちを纏めた解説板急峻な山々に囲まれ、温泉の恵みと金・銀の鉱物資源、そして豊かな海の恵みダイナミックな大地の営みは今も動いている事が伝わってきます住所 / 静岡県伊豆市土肥2833この近隣にもう一つ金山があります「龕附(がんつき)天正金鉱」がそれで、1557年(天正5)に伊豆最初の手掘りの金山として開発されたもの伊豆市指定文化財になっています竹が生い茂る小高い山に掘られた横坑の全長は60㍍と云われ、坑道の最深部に祀られた幸福をもたらす山の神が「がん」と呼ばれ「龕附天正金鉱」はそこからきているようです内部は・・・・・真っ暗住所 / 静岡県伊豆市土肥2851足湯黄金の湯土肥の中心を流れる山川の左岸にある足湯土肥温泉の起源は、山川の対岸にある安楽寺境内の「まぶ湯」を発見年としているようですその発見年は1611年(慶長15)であったり、1673年(延宝年間)など定かではありません初めての土肥の湯は、硫黄臭等の臭気のない無色透明でさらっとした湯かみさんを悩ませている50肩には効能があるようです世界一の花時計と馬頭観世音菩薩堂山川の左岸の松原公園内北側にあり、平成3年に完成した直径31㍍の世界一の花時計その大きさはギネスにも認定された様です文字盤の周囲には四季を彩る花が植えられ、時刻が見やすい様に展望台も設けられています馬頭観世音菩薩堂花時計の西側の松林の傍らの小さな堂内部には複数の石造が祀られています年代は不明で表面は風化が進み輪郭が分かりませんが、中央が馬頭観音の様に見えます足湯黄金の湯・世界一の花時計・馬頭観音住所 / 静岡県伊豆市土肥2657-6静岡県伊豆市土肥、初めて宿泊しましたが古い寺社も多々あり、温泉や海の幸に恵まれたいい所です
2019.10.15
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春日井市神領町『三明神社』県道15号線志段味中学校西の交差点を左折、県道75号線(春日井長久手線)を経由し下志段味橋を渡ります。庄内川を超え春日井市に入り神領町南の交差点を左折、一筋目を左に入ると杜が視界に入ると思います、その杜が神領町の「三明社」。神領町公民館から見た三明社は広大な敷地の中に杜が残され、南向きに拝殿等の伽藍が広がる。公民館の左の大きな解説板は神社の由緒が書かれているのではなく「神領第一号古墳」の解説板でした。この解説板の後方の更地部分が神領1号古墳、コンモリ感がないので古墳の痕跡は残っていません。過去より盛り土は取り除かれていたようで、平成に入り2回の発掘調査が行われ、横穴式石室と須恵器 の蓋坏・高坏などの埋葬品が発掘されています。直径15mほどの円墳らしく、石室は発掘調査後埋め戻され、石室の場所を示す石組みが地面に並べられ、大きさを知る事ができるようになっています、広大な駐車場ではないのでご注意を。公民館の右に参道らしき道筋があり、小社が二つ見える。左の社は社名札はなく詳細は分かりません。右の灯篭の文字はしっかり彫られているが達筆過ぎて読めない。地名?ひなご、神領、篠木、しだみ・・・・・???想像すらできない。参道の右の大きな樹の下にも年季の入った社がある。札は掲げられ文字が書かれていた痕跡はあるが読み取れません。公民館の裏からが参道のようで石鳥居があり、真っすぐに拝殿に繋がっています。参道と思い込んでいた道は車も通る生活道路のようです、右手の堤が庄内川右岸堤防。鳥居の扁額、なんとなく新しいような気がします。両脇に常夜灯(大正2年)と参道中央にも一基の灯篭があり、それぞれ年代も違うようです。参道左の立派な木、種類は分からないけれど若葉の緑がとても目に優しい。参道中央の灯篭の先が拝殿。境内の右に三つの社が祀られているようです。瓦葺切妻で妻入の四方吹き抜け拝殿、そこから渡廊を経て幣殿、本殿に繋がっている。鬼飾りと虹梁下に十六葉の菊紋、龍の彫飾りが施されています、縣魚の鰭には雲?が彫られています。拝殿後方の狛犬(1932年建之)。拝殿内を見渡すも創建に繋がる記載は見当たりません。祭神は伊弉册命、日本武尊、品陀和気命の三柱の様です。常夜灯の建之が1913年とあったけれど、上の地図は左が1891年、右がほぼ現在。1889年(明治22)に 大留村、堀之内村、熊野村、桜佐村、神領村が合併し雛五(ひなご)村となります。この周辺の建物で「ひなご」と残るものはここから来ているのかもしれません。地図には神領集落の北東の外れに鳥居の印が見られます。ここの地名神領は「しんりょう」と読むことから、その昔は神に仕える神官が暮らしていたので「神の領」が縮まり神領と呼ばれたようです。今は「じんりょう」と濁るようです。創建は更に遡り、尾張誌に「三明の社は、神領村にあり」と記されていることから、1844年(天保15)には既に何らかの形でここに鎮座しているのでは?拝殿右からの眺め。緩やかに盛られた斜面に幣殿、本殿が建てられています。拝殿右の三社は右の社は名札に「御嶽社」とありますが、他の二社は社名札がなく分かりません。拝殿左の眺め。本殿左に社があります。こんもりと盛られた斜面に石垣が組まれ、その上に社と意味あり気な二つの石が左右に置かれています。この社にも札はなく詳細は分かりません。本殿を横から見ると流造なのが良くわかります。本殿後方が小高く盛られている部分は、どうやらここも古墳の様です。三明(さんめい)神社古墳と呼ばれ、直径約20㍍、墳丘の高さ3.4㍍の円墳。神社は墳丘斜面を利用し建っている感じです。この周辺には神領第4古墳(現存はしない)など、神社周辺は複数の古墳があったようです。この辺りの神社、どうやら古墳がついて回ってくるようです。春日井市神領町『三明神社』創建 / 不明祭神 / 伊弉册命、日本武尊、品陀和気命住所 / 春日井市神領町屋敷田1032公共交通機関アクセス / JR中央線「神領」駅下車、南へ15分程志段味西新外「秋葉神社」から車のアクセス / 県道15号線⇒志段味中学校西交差点を左折⇒県道75号線、庄内川を超え神領町南の交差点を左折、一筋目を左に入る関連記事 / 下志段味西新外 「秋葉神社」
2020.05.20
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吉田城址春日井市下条町の八幡社で吉田城址を公園整備中複数の大きな石が見つかり、神社に一つ移されたとあったことから訪ねて見ました。八幡社から北に向かい王子町の交差点で西方向に向かいます。この周辺で遠景写真を撮ると必ず写り込んでくる製紙会社の赤白の煙突。ここまで来ると見上げる高さに迫ってきます。春日井のランドマークと云っても過言じゃない。この工場が稼働を始めたのは昭和27年頃、当時は田畑が多く長閑な景観だっただろう。名古屋のベットタウンとして宅地化が進み、現在は工場を取り囲む様に住宅が広がっています。上は1894年(明治24)頃と現在のこの辺り移り変わり。現在の下条公園が赤のマーカーになります。明治の頃にして既に地図上に城の痕跡はないようです。以前訪れた上条城址には石積みなどの遺構を見ることができましたが、吉田城址に遺構らしきものは皆無。下条公園から北の眺め、この正面に施錠された石碑がありますが、それは公園の竣工碑。竣工碑、柵で囲って施錠までするんだ。という事で城址の碑はどこよ。吉田城址の碑は公園の南側の東角に建てられていました。囲いもなく、間近で見ることができます。とはいえ碑だけしかないのですが。この碑の台座になっている大きな石、根拠はないけれどこれも公園整備で見つかった岩が使われているのかな。吉田城室町時代に築城された日本の城(平城)。但馬国で出生した小坂吉政(1466年(文正元年)~ 1517年(永正14))が但馬から、応仁の乱の頃に京都に入り織田敏定の家臣となり尾張国に入った。当初奉行所として館を建てた事が城の始まりのようで、やがて土塁や堀を築かれ、当初は柏井城と呼ばれていたらしい。その後吉政が吉田孫四郎吉政と改名したので吉田城と名乗るようになった。1554年(天文23)の清洲攻めの際、当時の城主であった小坂正氏が清洲城の南西で討死。跡継ぎのいない正氏死後、城は放置されていた、織田信長は前野宗吉の母の生家だった、小坂家と城を継がせ、小坂孫九郎尉雄吉と名を改めた。こうして小坂雄吉は、ここ吉田城と上条城の城主になっていった。 信長亡き後の1584年(天正12)、小牧・長久手の戦いに於いて羽柴秀吉が休戦と引き換えに官職を解き、吉田城や上条城、小牧にある諸城の取り壊しを命じられ廃城になった。現在はそれを伝えるこの石碑のみがかつてここに城があった事を伝えています。小坂雄吉のその後についてはよく分からない。吉田城の絵が欲しいところですが生憎見つけきれません。「勝川郷土資料館」に古い地籍図などが展示されているようなのでこちらを訪ねると城の痕跡が見られるかも知れません。吉田城址築城 / 室町時代 初代城主 / 小坂吉政遺構 / なし住所 / 春日井市下条町3-10-4公共交通機関アクセス / JR中央線「春日井」駅から南西に徒歩30分下条 八幡社からのアクセス / 八幡社から北へ王子町の交差点を西に関連記事 / 下条町八幡社 上条城
2020.07.30
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10月中旬から始めたリニューアルさぼってばかりで遅々として進んでいなかった部屋に置き去りになったままの残ったデコウッドやwebで頼んだ排水パッキンを見るにつけ、これはさすがにやらないといけないそんなことで昨日から再び再開しましたまずは、便器の水面が僅かに揺れ、微妙に水が漏れている、排水弁パッキンを交換。最初にトイレの傍らにある給水バルブは忘れずに閉めておきます。これを止めるには給水タンクの底にある二つのパッキンを交換します。下は給水タンクの構造図、問題のパッキンが付く個所は図の赤い枠で囲った「排水弁」と呼ばれる部分で左はそれを拡大したものです。この部分の一式を部品交換する場合は上の赤枠で囲った品番と金額。これだけ見ると一式交換の様に見えてきます。しかし、漏れは一式交換の必要はありません。下がその部分の写真で、給水タンク中ほどに鎖に繋がれた先にこんなのがいるはずです。この「排水弁」は二つの可動式の弁が付いていて、二つの赤丸は上が「小」のレバーを押すとこれが開閉、下は「大」を押すと小の弁を乗せたままここの弁が上に持ち上がり排水する仕組み。排水量の違いは二つの弁の高さの違いから起きている事が分かります。それらは樹脂製の支点に挟み込んで付いているだけなのでマイナスドライバー一本あれば取り外せます。但し、強引に隙間に突っ込んだり、過度に広げると「割れてしまうかも」と認識してやさしくやれば大丈夫。下がこの「排水弁」の構造図。一式変えなくても其々販売されてますね。で、二枚のパッキンは赤枠の物です、金額もこんなもので手に入ります。普通郵便で送付してもらい交換用パッキンを手に入れるパッキンは2枚入っていて、上の写真(取り外したもの)でいえば、真ん中の穴が小さい物が「小用」で大きい穴のものが「大用」です。間違えても付かないので心配無用です。【全品送料無料!】□[HH11027]《4》TOTO トイレ部品・補修品 ロータンク内部 排水弁パッキン部 大洗浄・小洗浄用2枚セット後は小用の弁の支点をドライバーで優しく広げて取り外し。裏の突起にハマったパッキンを取り外し、新しいパッキンを再び突起につけるだけ、工具も不要でした大の弁体は老眼で支点が良く見えなかったのでドライバーで広げるのを避け、弁を上に持ち上げた状態で指先の感覚を頼りにパッキンを取り外し、再び取り付け。 衰えはこんなとこにも表れる、悲しい現実だね。上が大用のパッキン、ボロボロに劣化が進んでいます、これが原因です。小は全く表面劣化もなかったけれど、新しいものに交換。この劣化の差は使用頻度そのもの、いろいろ聞いて見ると使うのは「大用」のボタンばかりだったこともあるようです。これを見て使い分けが必要なのがよく分かりました。過度に水を浪費して、苛酷に扱われた「大用パッキン」お疲れさん。作業時間 老眼のおやじの初体験構造把握に20分、広げる工具のチョイスに5分、取り外し交換20分程で終了です。さて、次に残っていたデコウッドをありったけ貼ってしまう事に。当初は木目を横にして全面均等に下から貼っていく予定でいたけれど、かみさんのリクエストで木目は縦にして高さ指定となった。幅15㌢、長さ1㍍で22枚梱包されていましたが足りない、追加で発注しないといけない。取り敢えずご指定の高さで両側を貼り切る事ができました。これで残っていたデコウッドを見る度「やらんとなぁ」とプレッシャーをかけてきた目障りな奴を使い切った。まだ奥が出来ていませんが、かみさんの評価は上々でお気に召して頂けたようです。この勢いで手洗いも貼る事になった。でもしばらくは大丈夫だ貼るものが無い。追加分が届けば再び外出自粛だな。赤提灯が恋しい、銭湯の電気風呂にも入りたいよぉはっきり決めれない親方様、どうなっていくのかな全備 接着剤付ウッド調タイル「デコウッド」 チーク 22枚セット【北海道・沖縄・離島配送不可】 AW5651価格:7,980円(2020/10/17 11:53時点 )感想:0件
2020.11.22
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2022/3/21所用で滋賀県高島市マキノ町のメタセコイア並木に立ち寄り食事と共に周辺を散策しました。その際出逢った大處(おおところ)神社を三回に分けて掲載します。初回の今回は森西薬師堂です。高島市農業公園マキノピックランド駐車場から県道287号線沿いを南へ15分程歩いた頃、県道沿いに「式内社大處(おおところ)神社」と記された社号標がポツンと立っていました。県道から逸れて導かれる様に正面の通称城山方向に向かってみました。街では暖かい春の陽気が続き桜の開花が待ち遠しいそんな時期です。しかしここマキノ高原では山々に残雪が残り、道沿いの日陰には多くの雪も見られる。景色はまだ〃冬枯れ、春を告げるフキノトウが漸く鮮やかな緑の頭を出し始めた。高原はそんな時期でした。県道から5分も歩くと森西集落の入口が見え始める。森西集落一帯は往古高島郡十郷の一つ大處郷と称され、後方の山には戦国時代に高屋氏が築いたとされる山城高屋城(現在は土塁など遺構が残る)があり、この森西地区には森西城もあったとされる。現在は所々に不自然な土塁らしき遺構は見られますが、遺構として観光化されてはいないようです。高屋氏の居館は社号標から5分程東にある長法寺に居館を置き、有事の際はこれらの城を拠点としていたようです。森西集落の入口から少し入ると右手の奥まった場所に常夜灯と鮮やかな色合いの鈴紐に目が止まる。森西薬師堂です。後方に背の高い竹藪があり、高原を吹き抜ける風から堂を守っているようです。森西薬師堂全景。良く山里で見かける人の温もりを感じない寂れた堂とはかけ離れ、真新しい常夜灯と綺麗に整備された参道、その先の切妻瓦葺で平入の堂。何れも綺麗に整備され人の温もりを感じるものです。堂には妻入りの向拝が設けられ、雪深い山里らしさが感じられます。薬師堂の縁起は残念ながら掲示されていない。色々調べてみると地元紙で森西薬師堂について以下の記事を見付けた。「滋賀県高島市マキノ町森西地の高島西国第8番札所「薬師堂」の新築工事がこのほど完成した。住民に親しまれているお堂で、しゅん工を記念して、元日から3日間、御開帳を行い、本尊を披露する」であった。この記事が2005年のものなので堂が綺麗なのはその為だ。現在、この薬師堂を守るのは46代目当主藤澤さん、市道拡張に伴い移動を余儀なくされ、老朽化もありこの地に建て替えたものだという。薬師堂は元々大處(おおところ)神社の奥の院で大屋城の守護本尊だったとされます。それも城の廃城にともない本尊の薬師如来は地元の庄屋藤澤家に託され、集落の中心にある敷地内に祀られた、やがて集落の住民からも篤く崇敬されるようになり、今日まで大切に守り継がれて来た。堂の左右に石塔や石仏が置かれていますが、日々お参りに訪れる地元の方がいて、そこには花が手向けてあった。事実、ここから少し奥の極楽寺で地元の御婆ちゃんから声を掛けて頂いた。大處神社の事を色々お尋ねし教えて頂いた、今思えば薬師堂や極楽寺についても伺えばよかったと後悔するがあの時はその知恵がなかった。一人でこの山里に暮らすという御婆ちゃん、彼女は地元の歴史書のようなものだ。時には面白い逸話など聞くことができて楽しいものです。「ようお参り下さった」、別れ際に彼女の手押し車の中に目が行く、そこには摘んだばかり花が入れられていたのが印象に残った。拝所に掲げられた素朴な森西薬師堂の額。堂の外観とマッチし、堂全体が森西集落や周囲の景観と調和している。薬師堂の建立時期はよく分からなかった、一説に1596~1614年の慶長年間以前に建立されたという。再建後年月を経て落ち着いた佇まいの森西薬師堂。高原に忽然と現れるメタセコイア並木、そこの人波は多かったが、薬師堂周辺は春を迎える静かな山里の趣がある。森西 薬師堂建立 / 不明本尊 / 薬師如来札所 / 高島郡八十八箇所8番札所所在地 / 滋賀県高島市マキノ町森西108-1マキノピックランド駐車場から徒歩ルート / 県道287号線を南下社号標で左折20分程関連記事 / 2022/03/21 用あって滋賀県へ
2022.04.10
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飛騨高山、軒を連ねた町屋や造り酒屋が点在する城下町の風情漂う三町伝統的建造物群保存地区は国内外から訪れる観光客でいつも溢れるところです。先に掲載した桜山八幡宮参道脇の秋葉社もそうした場所に鎮座していましたが、桜山八幡宮から寺院が多く鎮座する右方向の東山遊歩道方面はしっとりとした静かな高山を感じられます。桜山八幡宮の南を流れる江名子川沿いに5分ほど遡ると道路左側に若達町2の秋葉神社が祀られています。こうした町角の秋葉神社は高山市内だけでも約60社近くも祀られ、規模の大小や社の造りなど様々のものがあります。それらは親しみを込め「秋葉さま」と呼ばれ、現在も各町内の当番制で大切に守られる身近な神さまです。城下町の趣漂う高山の町角に小さな社が祀られているのには、そこに住む者しか分からない過去の戒めがあります。過去の記事から引用すると、「奈良時代には飛騨の中心として栄えていた高山ですが、現在の城下町の礎が築かれたのは、金森長近による高山城の築城より形作られたといっても過言ではないでしょう。木造家屋が軒を連ねる事から、高山の町は江戸時代からでも幾度も大火を経験しています。享保14年(1729)には975軒、天明4年(1784)には2342軒を全焼する大火を経験しており、一度火が出れば延焼を防ぐために周囲の建物を壊すことが当時の消火のセオリーだったはず、火に包まれなくとも火元近くの我家は壊されていく。城下町に住む者は運命共同体として火に対する意識は高くなって行き、意識だけで補いきれない不安は火伏の神を祀る事で心の安心を得た。高山市内には多くの秋葉さんが祀られ、それらは今も変わることなく身近な存在として大切に護られています。地元名古屋の旧城下町も同様で、火伏の神は減ったとはいえ、四間道などでは屋根神として軒下に祀られる姿が残ります。」上は大正15年に発行された高山町火災図。左は天明4年(1784)3月20日の火災範囲と、寛政8年(1796)7月6日の火災。中央が天明7年(1787)、天保3年(1832)、嘉永3年(1850)、明治、大正時代の類焼図。右が享保7年(1722)、天保元年(1830)、明治、大正時代の類焼図。類焼範囲が赤で記されており、中央の図の青丸が今回訪れた秋葉社の位置になります。こうして見ると宮川右岸の城下町はほぼほぼ大火に見舞われていることが良く分かります。時代も変わり、住宅の建築様式や消防技術は向上しても、古い町割が変わる訳ではないので、住民の防火意識や禍除けを祈願する気持ちは今も変わりません。若達町2の秋葉神社全景。社地の四方を壁で囲い、覆屋の妻壁に秋葉神社の額が掛けられています。自然石の基壇の上に神明造の社が祀られています。社地に一基の燈籠が建てるのが一般的な様で、夕方になると灯りが灯されます。こうした秋葉社の例祭日は1月、5月、9月の各17日に行われてきたそうですが、今では4月、9月の彼岸に行う組もあるようです。時折インバウンド客も通り過ぎますが、見向きもされず通り過ぎていきますが、小さな神社にも意味があり、その土地の歴史を語る存在です。秋葉神社創建 / 不明祭神 / 迦具土神所在地 / 岐阜県高山市若達町2丁目参拝日 / 2024/10/16関連記事・「ONSEN・ガストロノミーウォーキングin飛騨高山 」参加・秋葉神社(鳳凰台組)・櫻山八幡宮(高山市桜町)
2024.11.05
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四郷八柱神社から平戸橋に向かい、橋の手前の平戸橋西交差点を右折した左側に鎮座する胸形神社。今回はこちらを掲載します。因みに多少場所は離れますが、矢草ICから東方向の猿投山西山麗にも同名の胸形神社が存在します。県道58号線沿いの歩道から見る社地。南北に長い社地を持ち、県道沿いに社標を構えていますが、ここから境内に降りることはできません。少し南側の住宅地の裏側に矢作川の堤沿いに道があるため、そちらを進むと境内に繋がっています。鎮座地は矢作川に架かる平戸橋右岸下流100㍍程の平戸橋町波岩の川沿いに鎮座します。矢作川沿いのこの辺り、かつて下流の越戸町にかけて、港を中心に水運の要衝として賑わったようで、現在の川沿いは公園として整備され、川を身近に感じられる憩いの場になっています。明治当時は丘陵地が広がっていたこの辺りも、山は造成され住宅地となっています。一説には延喜式内社に格付けされるともいう、胸形神社の社標。社頭から石の明神鳥居の眺め。鳥居から境内の眺め。社地左は県道58号線が南北に伸びており、社地は県道沿いにあります。結構頻繁に車の往来があります。鳥居の扁額は胸形神社。参道右の神橋。モミジが色付くには少し早かった。鳥居から先の境内。幹線道側に手水鉢、その先に砲弾で囲われた一画がある。拝殿は四方吹き抜けで入母屋瓦葺の拝殿と神楽殿が一つになったもので鬼には二つ巴の紋が入っています。拝殿から本殿域の眺め。拝殿から弁天池に架かる神橋の眺め。モミジが色付くと艶やかな趣に変わるのだろう。境内東側の石碑。本殿域全景。綺麗に積まれた石垣の上に本殿と左右に境内社祀られ、それぞれに石段が設けられています。本殿域正面全景。石段左に解説がありますが脱色して読みにくく、祭神の解説は記されていましたが、創建時期や境内社についての記述はありませんでした。内容は以下。「平戸橋胸形神社の祭神 市杵島姫命は漁業、開運の神様で宗像三神の美人トリオの中でも抜きんでていたため弁天様に見立てられたという事です。これらのことから往古に栄えた越戸港がしのばれます。」祭神の市杵島姫神とは、須佐之男命と天照大御神の誓約により生まれた五男三女神で、田心姫神、湍津姫神、市杵島姫神の三姉妹を宗像三女神として呼ばれ、市杵島姫命は三女にあたります。寛文年間に編纂された【三河志】に目を通すと、胸形神社と思われる興味深い記述を見つけました、現在の言葉使いに置き換えた内容は以下。「越戸村の東の川端に波岩(ハイワ)社という小さな南向きの社があります。この社は昔、川の中の中州にあったが、後に西岸に移されました。これを灰宝の社と村人はいい、現在は弁天を祀っており、波岩の弁天と称します。」とありました。平戸橋の下流に非常に大きな一枚岩が露出していますが、現在でも「波岩」と呼ばれています。明治の地図には中洲があり、その昔はここに祀られていたのでしょう。中洲は徐々に縮小し、昭和43年の地図からは姿を消しています。具体的に、いつ頃現在地に遷されたのか分からなかったが、遷座は明治以降なのかもしれません。大正5年に出版された【西加茂郡誌】の灰寶神社として三河志同様の記述が見られました。面白いことに平戸橋南傍らの波岩辨天(当社)は、明治元年挙母藩が式内社と定め、社号を灰寶神社と復したとあり、式内社灰寶神社とする説があるようです。式内社灰寶神社は、豊田市越戸町松葉に現存しており、真意は良く分からない。【愛知県神社庁】の胸形社記載内容はつれないものでした。祭神 市杵島比咩命祭日 7月第2日曜日本殿域の前を守護する狛犬は昭和8年寄進のもの。因みに拝殿前の常夜灯、社頭の明神鳥居の寄進年も昭和8年で、社標は昭和9年に寄進されたものでした。本殿右の神明造の境内社。ここは銀杏の宝庫だね、酒のつまみに最高だが、食べられるようにするのに手間がかかる。踏まないように注意しないと・・・本殿左の境内社、一間社流造で軒唐破風が付くもの。けっして大きな社ではないですが、各所の彫飾りはしっかり彫られたものです。一間社流造の胸形神社本殿。この社殿は細分まで手が掛けられた彫が見事。向拝中備えの宝珠を握りしめる龍の彫刻。向拝柱の木鼻は獅子と獏(象かも)。綺麗な曲線の海老虹梁と波が描かれた手挟、妻壁の青海波や波間を駆け抜ける兎など手の込んだ彫は見事です。脇障子は牡丹と獅子が施されています。パッと目には目立たないが、よく見ると作り手の拘りが感じられます。境内から見る平戸橋と波岩。小さな神池に架かる神橋、渡って渡れない事もないが、眺める橋と捉えた方がいい。市杵島姫命を祀る波岩の弁天とも呼ばれた胸形神社らしい光景です。矢作川堤から見る胸形神社社地全景。赤い神橋は県道からでも目立つ存在ですが、杜のイチョウも色付き、間もなくモミジが赤く色付くと主役の座も譲る事になる。胸形神社の参拝者駐車場は矢作川堤のこの辺りに止めることができました。堤を下りれば境内から見えていた波岩まで行く事も出来ます。胸形神社創建 / 不明祭神 / 市杵島姫命境内社 / 本殿域に不明社2社祭日 / 7月第2日曜日所在地 / 豊田市平戸橋町波岩1参拝日 / 2024/10/22車アクセス / 四郷八柱神社から東へ平戸橋西交差点右折、移動時間5分。関連記事 ・豊田市 四郷町東畑 四郷八柱神社過去記事・胸形神社・椀貸し池・白龍王大明神
2024.11.17
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アーア、長年持ちこたえていた有線ルーターが、ここにきてご機嫌斜めの時が増えてきた。直近ではかみさんのPCの接続が日に一回程度接続が切れており、都度電源を入れ直し一時的に立ち直って来たものの、遂に自分のPCも繋がらなくなった。10年以上使ってきただけに代替を買う必要に迫られました。当時の無線ルーターは積極的に買う気はしなかったが、そろそろ無線ルーターも・・・・・ありか。とはいえ、それなりの値段もするので、少ない小遣いではとても買えず、かみさんの決済をもらわなければならない。ならばこれまで使って来た後継機とばかりに探して見たらこの機種に辿り着く。送料は付くが、この価格なら小遣いでなんとかなる価格。当面は電源を入れ直し様子を見守るとして、後継機の選定だけは確定しておこう。時代遅れ?の有線ルーター、この先どうなるか分からないけれど、今回はこれでいこう。10年は望まないまでも、5年も持てば納得できる価格だ。・・・これで今月は千べロ無理だわなぁ。BUFFALO(バッファロー) BBR-4HG(有線ブロードバンドルータ) BBR4HG [振込不可]価格:2,670円(2024/11/09 18:49時点 )感想:0件今度はキッチン水栓か・・・【11/25(月)限定!エントリー&抽選で最大100%還元のチャンス!※上限あり】SF-HM451SYXU リクシル LIXIL/INAX ハンドシャワー付シングルレバー混合水栓 エコハンドル 一般地仕様 送料無料[]価格:21,928円(2024/11/20 13:54時点 )感想:0件
2024.11.09
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