仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2007.01.03
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カテゴリ: 東北
前回 の続きです〕
4 奥羽本線略史

奥羽線は明治25年公布の鉄道敷設法の第一期路線として採用された。湯沢を境に、青森から奥羽北線、福島から奥羽南線として、それぞれ建設。

北線は27年に青森弘前開通、秋田まで開通が35年10月、湯沢まで開通が38年7月。これにより弘前は津軽の中心として、廃藩置県で衰微した情勢を回復したという。また、木材と鉱物の輸送港である能代は秋から春まで風浪のため舟が出入りできなかったため、鉄道で大いに繁栄した。東京では紀州や尾州の木材を秋田材が駆逐したという。

山形念願の鉄道である奥羽南線は明治27年着手、32年5月に米沢まで開通、34年に山形まで開通、湯沢まで全通は明治38年で、東北線に14年遅れている。福島米沢間40キロは特に地形が急峻で、板谷トンネル1603メートルに1年を要し、スイッチバック停車場4カ所を設けた。鉄道開通により米沢では、鷹山公伝統の米沢織の運送で大いに利益を得た。対照的に、秋田織も明治になって隆盛し東北線の黒沢尻(北上)まで峠越えの駄送していたが、奥羽線が開通して運賃が10分の1になったのに、米沢織の発展に圧倒されて衰退してしまった。また、山形県内の蚕糸業も鉄道で大いに発展した。もっとも従来地元の製糸家だけだったのが、鉄道により、他県の製糸業者が買い漁って価格高騰や優秀な女工を争奪されるなどの影響も出たという。

奥羽本線に長年月を要したのは、帝国議会で事業年度を数字に渡って繰り延べたためである。しかし、日露戦争(明治37年)の軍事費需要による繰り延べでとうとう工事が中止した際には、地元の請願を受け、戦争中にかかわらず全通にこぎ着けた。

5 新潟を結ぶ連絡路問題

東北線、奥羽線が開通すると、今度は、新潟を結ぶ交通路が絡んで複雑なルート案が展開される。明治25年の鉄道敷設法公布の際は、北越線と奥羽線の連絡線は、新発田-米沢、もしくは新津-若松-白河(または本宮)などとされ、ハッキリしていなかった。



これに対して新潟市からは新津-若松-白河(本宮)の岩越線を第一期とするよう請願がなされ、政府は岩越線を私設会社に許可し、28年鉄道敷設法を改正して羽越線(新発田-米沢)を岩越線とは明確に区別した予定線と定めた。

以上の路線問題は新潟と東京をいかに短く結ぶかにあたが、東京でも「新潟鉄道」(188キロ)を発起し、郡山-若松-新津-新潟の請願(26年)、また、郡山-新津-関屋の「岩越鉄道」(169キロ)の請願(27年)、さらに、野岩鉄道、東北中央鉄道、会津鉄道など多くの私鉄出願もなされた。背景には日本鉄道(東北本線)の営業成績が良かったことと、政府に確固たるルート案がなかったからだという。

6 岩越線(磐越西線)

岩越線は私設の岩越鉄道会社(27年の請願を許可)によって行われ、明治32年若松、37年には喜多方まで開通した。喜多方が坂下と競争して勝ったという。喜多方-新津間は鉄道国有法施行後政府によって建設され、大正3年全通。今日の磐越西線である。

岩越線の開通で、会津の柿が販路を開拓し県外に輸送を増やした。また会津焼や会津塗も産額を増やした。例えば、会津塗は鉄道開通前は猪苗代湖の舟運を経て白河から奥羽街道で東京まで10日以上を要したのが、一挙に短縮されて、産出額を数倍に伸ばしている。

7 山形県の横断線敷設の熱意

福島県が念願の横断線である磐越線(郡山-平間の磐越東線は大正6年10月全通)を開通させると、いよいよ山形県でも宿望である横断線の実現が望まれた。特に唯一の港である酒田が鉄道から取り残されたことに大きな不満を持っていた。

明治20年に米沢-酒田間、次いで酒田-新庄間の鉄道建設の免許を得たが、いずれも期限切れで失効。現在の陸羽東線は45年に新庄と小牛田双方から着手し大正6年に全通。陸羽西線は44年に着工し、大正3年に新庄-酒田間が完成。なお、小牛田から石巻まで(石巻線)は大正元年に実現(仙北軽便鉄道)、石巻のカマボコが一躍全国に売れた。

時の馬淵山形県知事は、政友会の多数を背景に、酒田新庄線をタネにして庄内の有力者を政友会に入党させて問題になったというが、とにかく酒田を中心とした鉄道網は山形の悲願であった。

鉄道が支線建設の段階にはいると、山形県の鉄道建設熱は続き、大正元年には県会議長高橋勝兵衛が政府に意見書を提出、長年抗争してきた政友会と非政友会が合同して鉄道問題を解決しようとしたほどである。村山、置賜、庄内の3平野は人口も密集し産業も進展し、山辺、長崎、寒河江、左沢などは既に町制を敷いているが、何らの交通機関がない。

県の熱意によって、長井線18キロ(大正3年)、左沢線24キロ(大正8年)だけがやっと実現。県会としては、軽便でも良いから他に何本か熱望していた。

 ○ 左沢から荒砥を経て長井に連絡
 ○ 鶴岡から大島鉱山
さらに、秋田に至る羽越海岸線と、米沢-坂町の羽越横断線の速成も念願である。上山から七ケ宿を経て白石に出る上白線実現も建議している。山に囲まれた山形県がいかに鉄道に活路を見いだそうとしていたか、その熱意が伺われる。

鶴岡出身の文人高山樗牛は、東北に人物が出ないのは交通の貧困による、と交通の充実を唱えた(東北の遺利、明治32年)。

羽越本線は、新潟県側から北上、山形県では陸羽西線を南北にのばし、秋田からは秋田市から海岸を南下させる形で工事を進め、大正13年全通する。



■参考 岡田益吉『東北開発夜話・続』金港堂出版、1977年 ほか





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最終更新日  2007.01.03 06:34:36
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