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左右に住宅の立ち並ぶ旧線ルートを進み、健康館デイサービスセンター(前回記事)を過ぎて再び田中川を架橋で渡ると、大字初原から大字高城に入る。(写真1)旧線ルートは画像の先に伸びていく。この先道狭し、車幅1.5m以上の車は通り抜けできません、と立て看板がある。(写真2)もう少し進むと、画像右手の県道(利府街道)が迫ってくる。県道の信号のある丁字路のちょっと先で合流する形だ。さらに少し先に、松島第二小学校のための歩道橋がある。その上から撮影すると(写真3)、コンビニの裏手が旧線ルートの名残だろう。(写真3)画像の手前から奥(愛宕駅下トンネル)に向けて、敷地境界が緩やかに左カーブしていく。おそらく、このコンビニ敷地の塀に沿って立ち並ぶ戸建て住宅の列が、旧線の路盤だったろう。(写真4)住宅の列の北側(コンビニと逆側)の道から愛宕駅下トンネル方向を撮影。右手前の住宅(列の最後)の先が更地(駐車場)で、一軒の平屋があり、その先にトンネル。こんなルートで山線が走ったのだろう。(写真5)トンネルをくぐった先には宅地が集積するが、クランクのようにルートが続いていく。おそらく、道の左側の住宅の列が旧線の路盤でないか。愛宕駅東側の住宅の集積地を抜け出て、仙台松島道路(三陸道)の高架下を過ぎるあたりで、クランクをするが(路盤跡が住宅の列と化した区間から路盤自体が道路になった区間に戻るからだろう)、その後は、現在の東北本線と人工河川高城川に挟まれる形で、旧ルートの道は北進する。品井沼駅まで海線と山線が並行して走っていたという名残で、じっさいに歩いていると感激する。愛宕駅下トンネルから約1kmで、旧ルートは現東北本線と一緒に高城川を越河する(写真6)。この小さな橋は、山線時代の橋脚を使っているようだ(写真7)。近くには、元禄潜血穴尻と東宮殿下一分間停車の記念碑がある。(写真6)高城川をわたる小さい橋(写真7)橋を渡った後に仙台方をふりかえる。画像の奥は仙台方。旧山線の橋脚が残る。東北本線の貨物列車が通過する。橋の下は高城川で、この画像の左方向(下流)すぐに、穴尻と一分間停車記念の碑。(写真8)この撮影地点は、おそらく国道346号の旧道が東北本線を踏切で渡る地点だったのだろう。北の方角を望むと、現在の国道346号高架橋をくぐって、本線と寄り添うように山線ルートが生活道路として品井沼方面に伸びていく。■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その10)松島町桜渡戸、初原(2024年06月01日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その11)松島町初原、旧松島駅(2024年06月02日)・今回 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日)■関連する過去の記事(松島町桜渡戸、初原あたり) 松島町の隠れた名所散策(07年4月5日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.06.03
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初原浄水場を過ぎ、県道9号(大和松島線)を交差してさらに進むと、大字初原の田園地帯を進む生活道路になり、車も通っている。(写真1)画像の右側は県道8号(仙台松島線)沿いの住宅。この画像のほぼ中央、わかりにくいが仙台松島道路の高架があり走るトラックが見える。(写真2)この先で田中川を渡ると、道の両側に住宅が建ち並ぶ地区に入る。進んでいくと住宅の玄関はみな道路側にあるので、1962年の山線廃線の跡に宅地化されたのだろうか、などと思い巡らしながら歩く。しばらく進むと、旧松島駅舎を活用した(現)松島町健康館デイサービスセンターがある。建物の正面と駐車場は県道8号側だが(写真3)、旧線側(写真4)にはかつてのホーム跡が残っている。(写真3)松島町健康館デイサービスセンター(写真4)その建物の裏手は、かつては松島駅ホームの名残り(ほかの方のブログなどから)。じつは、この健康館にお邪魔した。旧駅舎の跡や解説コーナーがないかと思ったのだが、ちょうど朝のデイサービスの集合時間だった。訳を話すと、たまにそういう人が見えるのですよ、時間によっては施設の中を案内できるので改めて連絡ください、とスタッフの方から話をいただいたが、まったく利用者の皆さんの感染予防が一番で、大事な時間に連絡もなく訪問する方が悪い。申し訳なく思ったが、御配慮に従い、体温測定と記帳を済ませ、館内には立ち入らず、入口すぐに掲示されたワープロ打ち2枚の説明書き(写真5)と関係記事が載った河北新報(現物、写真6)を読ませてもらった(感謝)。まず掲示の説明書きは次の通り(おだずま一部着色、また数字をアラビアに。なお、2か所の塩「竃」は原文ママ)。------------松島町の鉄道施設と概略明治16年7月 日本鉄道株式会社設立 東北地方の鉄道が順次開設 20年12月 塩竃線が開設 20~22年 松島村の鉄道施設が着工・完成 23年4月 東北本線 仙台~石越まで開通、松島駅が営業開始 11月 東北本線 仙台~一関間開通 39年9月 鉄道国有法が施行 全国の鉄道が国有鉄道になった 9月10日 根廻鉄橋が高城川開削によって架替工事着工 40年4月14日 根廻鉄橋が完成。工事費1万円(鉄道負担5千円、品井沼水害予防組合5千円負担) 41年10月3日 大正天皇根廻鉄橋上に1分間停車、明治潜穴工事を視察し激励大正13年2月 松島電車株式会社設立。旧松島駅から五大堂間営業(初原~松島海岸)昭和2年4月18日 宮城電気鉄道会社本塩竃~松島間開通。松島海岸公園駅が開業 3年11月23日 仙石線。仙台~石巻間開通 7年7月16日 東北本線 幡谷信号所として開所 12月26日 幡谷信号所が品井沼駅になり営業開始 13年2月 松島電車 初原~松島間の営業停止 19年 宮城電気鉄道が国有化され松島海岸駅に改称(仙石線) 東北本線(海線)が輸送力増強で複線化工事施工。(敗戦で工事中止) 28年9月 東北本線の複線化工事再開〔2枚目〕 29年 品井沼~小牛田間の吉田川・鳴瀬川橋梁工事開始 11月 東北本線 岩切駅から分岐し陸前山王~品井沼駅間開通(海線) 32年10月22日 東北本線 品井沼~鹿島台間の複線開通 37年 東北本線に愛宕駅新設、山線が廃止。山線の旧松島駅と町内の鉄道敷地が松島町に譲渡され町の基幹道路として整備された。 38年4月 旧松島駅舎に松島町国民健康保険診療所を開設 8月10日 品井沼~一関間の複線化完成 43年8月1日 東北本線の複線化・電化の全通化が青森で挙行 61年8月 阿部医師の逝去で診療所閉院 62年4月 国有鉄道が分割・民営化され現在のJRが発足平成2年6月 初原診療所の廃止(おだずま注:昭和38年4月の診療所開設では「初原」の語はない。) 5年6月10日 旧初原診療所が健康館になった〔1行空け〕平成23年3月11日 東日本大震災発生。鉄道施設も大津波で大被害、交通機関が寸断され東北本線・仙石線も地震直後に全面運休になった。 4月5日 東北本線 仙台~松島間運行再開 4月21日 東北本線 仙台~一関間運行再開 5月28日 仙石線 仙台~高城駅(おだずま注:原文ママ)間運行開始------------そして、河北新報夕刊(2021年9月6日)の現物が配架されている。------------いぎなり仙台まちかどブラ昭和健康館デイサービスセンター(宮城県松島町)東北線の旧駅舎内部を改装三角屋根 人集まる拠点〔写真 上 松島駅舎の面影を残す町健康館デイサービスセンター 下 施設の裏側にある線路跡の道路〕 宮城県松島町の初原地区にある町健康館デイサービスセンターは、JR東北線の旧松島駅舎だ。木造平屋で膨らみのある三角屋根が当時の姿をしのばせる。 かつて東北線の利府ー品井沼間は山側を抜けるルートだった。旧駅舎には商店や映画館、ホテルが立ち並んでいたという。 近くの会社員(おだずま注:氏名略)さん(78)は「列車に乗るのが小さな頃の楽しみだった。記者は急な坂を苦労して上って行った」と振り返る。 海沿いを走る現在のルートは、急勾配を避けて輸送力を増強するため194(昭和19)年に開業。山側ルートは62年、現在の松島駅の誕生を機に廃止された。 旧駅舎は町国民保険診療所などとして使われた後、町が内部を改装し、健康館とした。施設の裏にあった線路の跡地は道路として使われている。 運営管理者の(おだずま注:同上)さん(58)は「センター利用者は70~90代で駅舎を使っていた人も多い。年に何人かの鉄道ファンが写真を撮影しに来る」と話す。駅は廃止後もかつてのように人が集まる拠点となっている。(高橋公彦)メモ JR東北線の山側ルートは1890年に開業した。旧松島駅舎は明治初期ごろに建設されたとされる。松島町健康館デイサービスセンターは新型コロナウイルス感染拡大を受け、施設内部の見学を受け入れていない。松島町初原石清水1の1。------------(写真5)(写真6)松島第二小学校の公式サイトには、地域の自慢として、旧駅舎を活用した健康館の内部の様子が紹介されています(記事)。最後に今回の探訪マップです。■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その10)松島町桜渡戸、初原(2024年06月01日)・今回 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その11)松島町初原、旧松島駅(2024年06月02日)■関連する過去の記事(松島町桜渡戸、初原あたり) 松島町の隠れた名所散策(07年4月5日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.06.02
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東北本線の旧線(山線、利府-品井沼)の跡を訪ねる編集長の散策。利府町の赤沼信号場跡(松島海岸IC付近)まで記しました。続編として、同IC以北を順次記していきます。なお、タイトルを「利府線」から「東北本線旧線」といたしました。順序はこれまで同様、利府方から松島(品井沼)方に向けて進んでいきます。旧線ルートは松島海岸IC西側にあるが、正確な位置は、高速道やインター進入路で新たに側道となっている部分もあると思われる。(写真1、2、3)(写真1)旧線ルート(付け替えた可能性あり)は県道144号(赤沼松島線、松島海岸に降りる道)を横切って仙台松島道路(三陸道)の西側堤下を進む。(写真2)この先で県道8号(仙台松島線、利府街道)をくぐる。昔は踏切だったのだろうか。細い道だがセンターラインの痕跡があるのは、自転車道として位置付けていたからか。(写真3)道路と水路を一体として通すカルバート橋。珍しいと思う。カルバート橋のちょっと先、路傍左手の川の堰に、なにやら標識が建っている。(写真4)上流端 高城川水系 二級河川 田中川 と書いているようだ。旧線ルートはこの先愛宕まで、この田中川と付き合いながら進んでいくのだ。さて、この先は長い区間にわたり、県道8号(利府街道)の西側を並行して松島町初原へ伸びていく。利府街道を車で走っていてもよくわかるお馴染みの道(写真5、6、7)。(写真5)ハッキリと残る旧道ルート。画像の奥の高架は仙台松島道路。(写真6)ゴルフ場入口の標識は利府街道の車中から認識できるランドマーク。(写真7)旧線ルートの長くて気持ち良い里の小径も、この先で一度途切れる。左(西)から迫ってくる仙台松島道路(三陸道)の堤で消されているのだ。旧線の本来のルートはいったん仙台松島道路(三陸道)で消されるので県道仙台松島線(利府街道)を歩かねばならないが、ほどなくして小径は復活し、細い道となって初原浄水場の西を回るように進む(写真8、9、10、11)。私(編集長)は単に小径を歩いて想像するだけなのだが、詳しい方のブログなどでは、渡河する際の橋台跡や銘板から鉄道橋の跡であることを確認されている。写真11撮影地点付近で田中川を渡る橋もそうだ。(写真8)仙台松島道路(画像の左)が県道仙台松島線(右)に迫った区間が過ぎると旧線ルートと思われる道が復活する。車はブロックされている。(写真9)こんな感じで道が続く。画像の右側奥(北)に浄水場施設。(写真10)この画像だけは振り返って撮影(品井沼方の進行方向に対して右後方。東の方角)。初原浄水場。小高い場所(画像の奥、県道仙台松島線に近い方)には、お馴染みの鉄さびた給水塔。(写真11)浄水場を過ぎると、右手(東)に田中川が流れる。この先で宮城県道9号(大和松島線)と交差する。■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)・今回 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その10)松島町桜渡戸、初原(2024年06月01日)■関連する過去の記事(松島町桜渡戸、初原あたり) 松島町の隠れた名所散策(07年4月5日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.06.01
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地すべり、宅地被害、活断層などに関する基礎知識の整理。下記文献から。■釜井俊孝『宅地の防災学:都市と斜面の近現代』京都大学学術出版会(学術選書090)、2020年■関連する過去の記事 宅地災害フロンティアの東北(2024年05月28日)=上掲書に基づく記事1 土砂災害・地すべり、土石流、崖崩れ、のこと・(おだずま記載:土砂災害防止法第2条の定義)「土砂災害」とは、(1)急傾斜地の崩壊(傾斜度30度以上の土地が崩壊する自然現象)(2)土石流(山腹が崩壊して生じた土石等又は渓流の土石等が水と一体となって流下する自然現象)若しくは(3)地滑り(土地の一部が地下水等に起因して滑る自然現象又はこれに伴って移動する自然現象)(→(1)(2)(3)を「急傾斜地の崩壊等」と総称)又は(4)河道閉塞による湛たん水(土石等が河道を閉塞したことによって水がたまる自然現象)を発生原因として国民の生命又は身体に生ずる被害をいう・日本では、崖崩れが多い(地すべり、土石流の合計より多い)2 崖崩れ・崖(急斜面)が浅く崩れる現象。自然斜面のほか人工的に作られた(切土盛土)斜面を含む。・地質との結びつきは、地すべりほど強くない・各県が把握する急傾斜地崩壊危険個所がひとつの指標。約33万カ所(平成15年)・県別は広島県が圧倒的に多く、山口、大分、島根、兵庫と続く・西日本に多いのは、地質(素因)と降雨(誘因)によると考えられる・地質は、中国地方と兵庫には花崗岩がひろく分布。風化して真砂(マサ)となる。家の裏手に砂の崖ができるのが一般的。雨が浸水して容易に崩壊・また、大分県には火山岩・火山噴出物が広く分布し、割れ目や脆い岩石の崖が多い・南九州には、シラス(姶良カルデラ噴出の火砕流堆積物)やボラ(降下した火山灰)。シラスは真砂(マサ)によく似るが、斜面上のボラがシラスの上を滑るタイプの崖崩れ(ボラすべり)も・さらに最近の異常な集中豪雨が多数の崖崩れの主因に3 地すべりと地質・地すべりは、専門家によって微妙に定義が異なるが、日本では、重力によって斜面が比較的ゆっくり塊となって滑る現象(マスムーブメント)とするコンセンサス・特定地域に発生する傾向。地質(岩石の種類や地質構造)と深い関係があることがわかっている・小出博の三分類=(1)第三紀層地すべり 新潟・北陸等 (2)破砕帯地すべり 中央構造線・御荷鉾帯・三波川帯 (3)温泉地すべり 火山地帯・この分類の長所は、山地斜面で粘土が形成されやすい条件を端的に表現していること・一方、地すべりは発生後に傷跡を残す(地すべり地形)4 浅層崩壊と深層崩壊・自然状態の斜面は、土壌直下の地山は強く風化しているため、強度的には土壌と同様に見えることが多い(強風化部と呼ぶ)・大雨や地震で強風化部の下底をすべり面にして崩落することが多く、浅層崩壊とよぶ。通常2m以下。また、「崩壊の免疫性」がある(崩れるべきものが一度落ちると、しばらく発生しない)・深層崩壊は、もともとは2010年頃に国交省と砂防学会が行政的に使いだした用語。以前「山崩れ」「大規模崩壊」「山腹崩壊」「崩壊性地すべり」と呼んでいたもの・現在のコンセンサスは、すべり面が強風化層(ママ。おだずま注:強風化部と同義か)より深く地山を巻き込んだ崩壊の総称・深層崩壊は、素因(地山の弱層、割れ目、地下水が貯まりやすいなど)と誘因(浅層崩壊に比べてより強い豪雨や地震動が必要)による。したがって、浅層崩壊より稀だが、崩壊土砂量が多いので土砂ダムを造ったり土石流が大規模化する・他方で、深層崩壊に至る準備期間で、斜面のたわみ、頂上の尾根筋の凹みなど不安定化のサインとなる微地形(重力性斜面変形)が多数報告される5 土砂災害関連の法律・主に下記4つで、それぞれの時代の災害と人間の関係を反映(1)砂防法(明治30)=はげ山の土砂流出が問題(2)地すべり等防止法(昭和33)=昭和32年集中豪雨で熊本、長崎、新潟の地すべり災害が契機(3)急傾斜地法(昭和44)=郊外ニュータウンの崖崩れ、また、昭和42年集中豪雨で神戸、呉、長崎等で多くの崖崩れ・(1)(2)(3)を土砂三法とよび、公共事業として施設を作るための法律・(4)土砂災害防止法(平成13)=都市計画が事実上失敗したことを受けて、リスク調査と居住規制を含む法律。ハードからソフトへの流れ6 宅地と法律・宅地造成等規制法(昭和57)は、昭和36年集中豪雨で神奈川県、兵庫県の宅地造成地で多発した崖崩れに対処するもの・しかし、(豪雨災害のみならず)1995年兵庫県南部地震以降、地震活発期にはいり、想定していなかった宅地の谷埋め盛土の地すべりが地震で多発した・そこで、2006年(平成18、宅地耐震化元年)、谷埋め盛土地すべり災害の軽減を目的とした規制と対策を柱に、宅造法の改正が行われ、同時に宅地盛土の耐震化推進事業の創設と耐震化対象の減税措置も導入された・しかし、これは、盛土宅地に住む住民の自己責任を公共が半分助けるという基本精神である・では、住民に土地を売った者の責任はどうなるのか。そのため、1999年(平成11)住宅の品質確保等の促進に関する法律(品確法)が制定。瑕疵担保を10年の長期に設定(特例で20年)・だが、地盤の不具合が明らかになるのは相当の年数経過後で、10年なら運がいい方だ7 活断層・地殻には多くの割れ目があり、通常は固着するが、力が加わると固着が取れる(破壊する)。このずれた割れ目が断層で、ずれの向きで正断層、逆断層、(右左)横ずれ断層に分類される・地下深部で地震を発生させたのを震源断層、地表までずれが到達したものを地表地震断層とよぶ・断層のうち、過去数十万年以内に繰り返し活動しているものが活断層・活断層は、一定間隔で繰り返し活動し、原則として同じ向きにずれる・これは、活動のエンジンであるプレート運動の向きや速さが過去数十万年単位ではほとんど変わらないから・ずれの平均的な速さは断層ごとに異なり、断層の活動度の指標とされる・活断層による地表の食い違い(変位)が繰り返され、変位の累積が記録されると、さまざまな断層変位地形となる。これら地形を手掛かりに調査した結果、現在日本では2000以上もの活断層が見つかっている・しかし、変位地形が浸食・堆積作用で不明瞭となる場合もあり、地下に隠れている活断層も沢山あると考えられる8 土石流のしくみ・土石流は、斜面や河床の土砂が水と混合して流動し、谷に沿って流下する現象・巨大な岩や流木を含み、打撃力が大きく深刻な災害を起こす・沢筋の土砂を削るため流れが黒く濁る。そのため「蛇抜け」とも呼ばれる・土砂割合が高く密度が高いことから、慣性力が強く作用し直進性が顕著でなかなか停止しない。「鉄砲水」とも・発生形態から、土石流には3つの原因(1)渓流に堆積している砂礫が大雨で流動化(2)斜面崩壊や地すべりの崩壊土砂が、地下水や表面水により流動化(3)河道閉塞を起こした天然ダムが、水位上昇で決壊し土砂とともに流下・このうち(1)(2)が同時に起こることも。始まりは小規模な浅層崩壊でも、渓床の堆積物を取り込んで推進力と体積を増やし成長する・土石流防止方法の代表は、コンクリート製砂防ダムだが、高コスト。そこで、土石流の底面から水だけを抜き土砂を止める対策工法(底面水抜きスクリーン)も考案されている・しかし最も効果的な対策は、土石流の通り道である扇状地(土石流堆)に住むリスクを理解することだ
2024.05.28
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下記文献を読んで、現代の宅地災害の歴史において、東北の事例が「わが国で初めて」の意味を持つ場合が何度かあると知った。■釜井俊孝『宅地の防災学:都市と斜面の近現代』京都大学学術出版会(学術選書090)、2020年同書は、日本の宅地災害や地すべりを、近現代の都市の形成過程と併せて検証していく。特に、丘陵地に形成された谷埋め盛土が、1970年代終わりごろから各地で地震で地すべりを起こすようになったが、危険性の認識とリスク誕生の過程が、従来の崖崩れや地すべり災害と本質的に異なり、人為的に生み出された都市の宅地災害だと論じている。以下に災害史上「初めて」の意義を持つ東北の事例について、読書メモを記す。(なお、小見出しなどは、おだずま再構成)1 1968年十勝沖地震 =剣吉中学校の被害(1)歴史的意義・丘陵の宅地開発は東京23区や阪神間以外でも、1950年代後半から始まり、60年代には尾根を削った土砂で谷を埋める大規模な造成が行われた・当時から地質学者や地形学者は危険性を指摘したが列島開発ブームで省みられなかった・そうした中、十勝沖地震で、谷埋め盛土地すべりで最初の犠牲者が発生。谷埋め盛土の危険性が証明された(2)概要・青森県南部町(旧名河町)剣吉中学校の生徒4名が、避難途中の校舎玄関前通路で、崩落した谷埋め盛土に級友40名とともに巻き込まれた・剣吉中学校の校舎は、背後から続く谷を埋めた盛土を跨ぐように建てられていた(おだずま注:地すべり後の写真では、2本の尾根筋に直交するように校舎が乗っかっている。尾根の間の盛土が崩れて校舎前の校庭や入口の方に流出したようだ)・しかし農業地帯であったためか、後の都市で頻発する宅地盛土災害を結びつけて考える専門家は少なかった2 1978年6月12日宮城県沖地震 =戦後初の都市型地震災害(1)歴史的意義・マグニチュード7.4・M7クラスの地震は明治以降11回もあるが、マグニチュードの割に被害が極めて大きくなった・仙台都市圏が戦後発展したためである・すなわち、日本において、現代化された大都市がまとまった被害を受けた最初の事例として意味を持つ(2)概要・死者28、負傷者11,028、建物損壊179,225棟だが、家屋全壊率は0.3%と低い・大規模火災もなく、都市震災としては中程度以下・その理由は仙台中心部の地盤が比較的良いこと・しかし、特に注目されたのが宅地造成地の斜面崩壊(谷埋め盛土地すべり)とブロック塀倒壊・その後の都市地震災害に出現する定番の被害となる(3)谷埋め盛土・仙台市緑ヶ丘、南光台、鶴ヶ谷、白石市寿山第四団地など・地質学者や地形学者の懸念が的中したが、不思議なことに当時は、仙台の古い(昭和43年新都市計画法施行以前)盛土に限定した災害として処理された・宅造法(昭37)以前や新都市計画法(昭43、開発許可制度)の後は、被害のあった造成地の割合は減っているが(おだずま注:著者は造成地件数より個々の盛土の面積や数ごとに比較すべきとする)、それでも全体の2割以上ある・盛土地すべりは他の都市では起きにくいとする議論があった。一片の真実としては、仙台の丘陵の基盤をなす第三紀層の砂岩、泥岩が削られて盛土に使われたため、乾湿の繰り返しで砂や泥に分解するスレーキング現象を起こすということはある。また、仙台では動くべき盛土はあらかた動いたから将来は安全、との解説も・しかし、そのような都合の良い理屈(ノーマルシーバイアス)は、1995年阪神・淡路大震災や2011年東日本大震災で崩れた3 2003年三陸南地震、2008年岩手・宮城内陸地震 =築館の地すべり(1)歴史的意義・2003年は気仙沼沖深さ70km震源の深い地震、2008年は栗駒山麓断層運動(逆断層)による震源深さ8kmの浅い地震、と性質は異なる・しかし、特徴は宮城県築館町(現栗原市)で2回とも発生した谷埋め盛土の地すべり・すべり面角度10度と極めて緩い・このため詳しく調査され、谷埋め盛土のメカニズムに重要な情報が得られた。後にローラースライダーモデルと呼ばれる(2)概要・1970年代の農地改良事業で、いく筋かの谷埋め盛土がほぼ平行に形成されていた・斜面造成の目的は、畑地とも宅地転用とも言われているが、実際に造成後も利用されることなく維持管理はされていなかった・盛土材料は、尾根部の鬼首カルデラ起源の軽石流堆積物で、多孔質な軽石を含み比重が軽く、盛土に向かない(有効上載圧を上げにくい、地下水たまりやすい、などで液状化しやすい)・さらに、旧谷底の地盤は特に弱い(N値測定不能=打撃せず自沈する状況)・以上から、盛土底面付近での液状化で、極めて低角度でも滑ったと思われる(3)補足・問題の地区で多くの谷筋が埋められたが、2003年地震で谷埋めA(盛土4m)が崩壊して流動化した土砂が水田に流入した。2008年には谷埋めB(盛土6m)が崩壊(Aは対策済み)した・更に別の斜面谷埋めC(盛土8m)は、崩壊せず。これは、底面付近の地盤は液状化で抵抗が失われるが、盛土の厚さによって側部の抵抗が大きかったためと考えられる4 2011年東北地方太平洋沖地震(おだずま注:フロンティア事例というよりは、過去の教訓が生きなかった事例という位置づけ。そのため簡潔に整理)(1)概要・1978年時点で判明していた事実と本質的に同じ。例えば緑ヶ丘4丁目の地すべりは1978年とほぼ同じ範囲と深さ・しかし他方で、1978年に崩れなかった盛土でも地すべりがあった。例えば折立5丁目は明瞭な移動体を持った典型的な地すべり(後のボーリング調査で盛土に地下水が貯まっていたことがわかったので、対策が可能であったかもしれない)・盛土材料が問題を悪化させたケースも。1978年地震の地すべり盛土を、7から10年後に再調査したところ、(常識では盛土は時間経過で圧密し強度は増すが、逆に)N値が当時と同水準か低下する傾向。これは災害復旧時に盛土材とした泥岩・左岸のブロック(掘削岩塊)のスレーキングが原因と考えられる。この状態で2011年を迎えたのだ(スレーキングは上述2(3)参照。岩石が湿潤と乾燥の繰り返しで分解していく現象。通常は地表で起きるが地下水の上下によって地下でも起こりうる)(2)対策工事の効果と限界・緑ヶ丘地区では、1978年の地すべりが顕著に発生。宮城県によって地すべり対策工事が行われた。谷埋め盛土地すべりに対するものとしては全国初で、兵庫県南部地震までおそらく全国唯一の場所だった・対策工事は、集水井戸による地下水排除と何列もの鋼管杭の抑止効果を組み合わせたもので、地すべり対策としては例外的に入念・しかし、なぜか1丁目と3丁目の地すべり地区のみ行われた・2011年には1丁目の谷埋め盛土は無被害だったが(効果あったか)、3丁目は(1978年のような盛土全体の地すべりは防げたが)杭を起点に浅い滑りがあり、住宅基礎の亀裂や傾きが発生した・4丁目は対策工事が行われないまま(道路と水道のみ補修)、2011年にほぼ同様に再現され激しい被害となった。地下水位も非常に高く(地震直後に自噴したほど)、大きく動いた。地震後1年間緩慢な地すべりが続いた。再建できず集団移転を選択することに■関連する記事 地すべり、宅地災害、土砂災害などの基礎知識(2024年05月28日)
2024.05.28
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前回は赤沼信号場跡について記した。前回の探訪の後に、付近を通った際にまた現場を歩いてみた。田んぼの畔にニョキッとコンクリートの四角いものが、2つほど。用地界標だろう。国鉄を示すエの文字がハッキリわかる。(1枚目は松島方から利府方を望む。画像左手が仙台松島道路、奥が仙台方面。2枚目は拡大。)■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・今回 利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.05.26
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松島第五小学校の入口に、どんぐりころころの碑。青木存義(ながよし)を顕彰する碑です。(学校敷地の外から写真を撮っております。)碑には、どんぐりころころ(青木存義作詞、梁田貞作曲)の歌詞。そして後半に青木存義先生略歴があります。以下の通り(一部漢数字をアラビアに)。------------青木存義先生略歴正三位勲四等文学博士青木存義先生は当町の名門青木存頼殿の三男として明治12年松島町幡谷のこの地に生まれる明治39年東京帝国大学国文学部を卒業し東京音楽学校教授文部省図書編集課長を経て新潟高等学校長拝命昭和10年4月没す享年57歳先生は文部省在職中の大正年間に「どんぐりころころ」「菊の花」「さくら」など文部省唱歌を数多く作られた殊にどんぐりころころは先生がふるさとこの地での幼き日を偲び作詞されたもので広く全国の幼児や児童に親しまれ現在も愛唱されているこのたび松島町及び幡谷上竹谷地区どんぐりころころ碑建設委員会を設けて先生のご功績を顕彰しここに記念碑を建立してその遺徳を後世に伝える昭和62年3月3日撰並書 松島町長武山仁治------------松島町公式サイトに説明があります。
2024.05.25
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前回では(利府方から)旧線ルートをたどって、葉山団地南入口の交差点まで来た。更に松島方(北東)に進む。(写真1)奥が松島方。画の左に県道8号(利府街道)、右手は仙台松島道路(三陸道)。旧線路は現在の砂利道になっているが、三陸道の築堤で微妙にずれているようにも思われる。しばらく行くと、旧ルートの砂利道は明らかに幅が広くなって、県道8号(利府街道)の丁字路から高速道をくぐって浜田に向かう町道と直交する。交差点の先もしばらく幅が広い区間となる。赤沼信号場の跡だろう。(写真2)奥が松島方。撮影に立った地点あたりから松島方に100mほどか、現道が広くなっている。(写真3)少し進んでから、振り返って利府方を望む。旧信号場の中央部に立っていると思われる。(写真4)これは信号場施設の名残か。写真3のトラクタの辺りから利府方を望んでいる。旧線の西側に立っている。(写真5)写真4撮影地点に近い現道の中央には、石が露出。信号場の施設の基礎か。画の奥が三陸道(か左が石巻方面)。このような石が幾つかあった。赤沼信号場跡から更に先に(北東)進むと、砂利道は県道8号(利府街道)の丁字路(名取商店)から来る狭い道と交差し、その先(大一木材)で見えなくなる。仙台松島道路(三陸道)松島海岸ICを造ったためだ。(写真6)この画の先(松島方)で旧線ルートは一度わからなくなっている。ICの退出路や周辺の水路付け替えなどで消えたようだ。今回探訪のマップと撮影地点です。黄色矢印の先端が撮影ポイント(矢印と撮影の方角は関係ありません。撮影方向は文中に説明しています)。■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・今回 利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.05.18
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前回に続く探訪記です。現在の道路は、仙台松島道路(三陸道)の東側から直角に折れて三陸道をくぐって西側に出て、ふたたび北東(松島方)を向いて進んでいく。クランクのような形になっているが、旧線ルートはこのクランクを挟んだ前後の区間では、道路築堤の下に消えたと思われる。(写真1)仙台松島道路(左側、奥が石巻方面)をくぐる手前。(写真2)西側に出て、数十メートルは高速道側道のように続くが(新設道路だろう)、その先は旧線跡で両側が石積みの擁壁になっている。いい感じのルートだ。(写真3)振り返ってみた。鉄道を土砂から守るために、しっかり石垣を作った昔の人たちの思いが伝わってくるようだ。手前が松島方、奥が利府方。画の奥に仙台松島道路の法面が見える。(写真4)石垣に守られた林間のルートから、開けたところに出る。利府街道が見えてくる。旧線跡は県道8号(利府街道)の葉山団地南入口の交差点(コンビニのあるところ)のすぐ傍に出て、さらに利府街道と並走するように伸びていく。(写真5)交差点東側(コンビニと向い合せ)にある染殿神社。往時はこの神社の下、県道との間を山線の機関車が走ったのだろう。(写真6)染殿神社の下から、松島方を望む。画の左は県道8号(利府街道)で、出っ張っているのはバス停。右手から奥にかけて仙台松島道路(三陸道)がみえる。今回の探訪マップと撮影地点(黄色矢印の先端)です。なお、撮影方角は矢印と関係ありません。文中に記しています。■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・今回 利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.05.17
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前回利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)に続き、春日PA脇からさらに松島方に旧線ルートを進む。ルートは直進となり、さらに北に100mも行くと、利府街道から高速道をアンダーバスしてきた小道と交わって先に真っすぐ延びていく。今では、ひっそりとした森の中の交差点だ。(写真1)松島方を望む。少し先で旧ルート活用の現在の道路が左折するようにも見えるが(電柱がある地点)、旧ルートは直進している。かつては、鉄路が電柱の地点で東西方向(画の横方向)の道と交差したと思われる。右手は山林に駆け上がる林道に続くが、辻の傍には水道の弁室がある。(写真2)交差点付近(やや松島方)から左手(ルートの西側)の畑を眺めると、自然養蜂の箱らしきものが見えた。上の山間の辻を過ぎるとルートはきれいに直進(写真3)、その後右にカーブするが(写真4)、左手(西)はすぐ三陸道なので、高速道が旧線ルートを切ったため新たに側道を作っているようにも思われた。現道はしばらく高速道の東を進んでいく。(写真3)松島方を望む。気持ちよくまっすぐ伸びていく。左手にお馴染みになった水道管の標識。(写真4)この先の右カーブの折れ方は鉄道としては唐突に見えるので、旧線は直進したが三陸道で消失し、現在の道路は右に折れて側道として造ったのかも知れない。(写真5)ちょっと進むとまた丁字路に出くわす。探訪者は画の右手奥に側道を進む。(写真6)さらに松島方に向けて、道を進む。左手(西)は仙台松島道路(三陸道)。この現在の道が旧鉄路だったのか、あるいは高速道築堤で消失したか、よくわからないが、写真5の辺りは新造道路だが、この画のあたりは鉄道路盤跡の雰囲気が残っているように感じられる。上記の探訪マップと写真撮影ポイントです。黄色の矢印の先端が撮影ポイントですが、矢印が撮影方向を示すものではありません(撮影方向は文中に説明)。■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・今回 利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.05.15
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廃線ルート探訪の続きです。利府中ICのやや北にある隧道から、さらに北に歩を進めます。築堤された路盤のルートはやがて里山に入っていき、竹藪を回るように緩やかに弧を描く。(写真1)しばらく進むと、町道を横切って進む。この町道は、利府街道の春日公民館前交差点(信号)から、山を登って塩竈市の清水沢浄水場や伊保石公園に続く道で、結構車が通るのだが、このクロスポイントにはもちろん信号はない。(写真2)旧線ルートは町道(左が春日、右が塩竈市方面)をクロスして奥に進み右に弧を描く。廃線ルートは緩やかにカーブしながら三陸道(仙台松島道路)の高架下を抜けていく。というより、利府線ルート跡の生活道路の上に高速道が建設された、が正しいだろう。(写真3)旧線は奥(北東)が松島方。高速道は左が石巻方面。仙台松島道路の東側に出ると、旧線ルートは逆に左方向に弧を描き始め、ルート東側に建設された三陸道(上り線)春日PAへ登る取付道路の分岐点を過ぎ、PA施設全体を包み込むように左カーブしながら進む(写真5)。(写真4)春日PAから少し北の地点。このような標識がルート上の随所にあった。県営水道事業が七ケ宿ダムから松島まで運ぶ送水管を、旧利府線ルートを利用して埋設したのだろう。(写真5)北東方向にルートの先を望む。この地点の左手(ルートの西側)はPA施設がある。次は今回記事のマップと撮影ポイントです(赤矢印の先端が撮影した地点。撮影方向は記事本文中に記しています)。■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・今回 利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.05.12
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前回に続いて、利府線の跡の探訪記。旧線ルートは森郷児童遊園を抜けて小川の橋梁を渡り、生活道路となっていて北東に伸びていく。両側にはまばらに住宅があり、猫たちが朝の日光浴。しばらく進んでいくと、ルートはそのまま町道をクロスする。(写真1)利府方から松島方(北東方向)を望む町道を横断したその先も明確にルート跡はわかるのだが、進んでいくと、三陸道(仙台松島道路)の利府中ICのために、ルートは消失する。探訪者は、三陸道高架をくぐって、ICを回り込むように歩いていかねばならない。写真2にみえる高架道路の奥(反対側)に利府中ICがある。(写真2)利府方から松島方(北東方向)を望む利府中ICを過ぎて進むと、旧路盤跡の築堤された道が現れてくる。(写真3)仙台松島道路の西側道から北方向を向いて撮影。右手が仙台松島道路で奥は石巻方面。画の中央から左に向かって築堤の道がみえる。カッコウの声を聞きながら気持ちよく道を歩いていくと、左右の田畑がだんだん低くなっていく。鉄道建設の際に高低差を避けるための築堤だったのだろう。たまに車が通ってきた。(写真4)そして、少し進んだところで築堤の下に降りてみると、レンガ造りの隧道があり、集落利用の道が潜り抜ける。写真5の右の方向に、舗装道路は堤の上に駆け上がっていく。(写真5)築堤(旧線路)を降りた西側から撮ったもの(画の右が利府方、左が松島方)。(写真6)築堤の東側から。この隧道は、人や車が通れるが、その下が河道になっている二重構造のようだ。写真7の標柱で、藤田川の上端を示すらしいが、偶然にも同様の標柱が利府線跡ルートの橋脚跡(今回シリーズその2で写真があります)の脇にもあった。あちらの場合は、藤田川が橋の架かる勿来川に合流しており、藤田川の下端を示すものだろう。(写真7)下の画が、今回の探訪のマップと写真撮影ポイントです。なお、撮影ポイントは、赤矢印の先端が撮影した地点であり、撮影の方向を示すものではありません。撮影方角は文中に記しています。■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・今回 利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日) 利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.05.11
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今回の散策エリアのマップと、森郷児童遊園内の説明パネルのうち旧線の痕跡として紹介されている箇所を拡大して掲げます。■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・今回 利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.05.10
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前回の続きです。■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・今回 利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)森郷児童遊園には、前回記事で記した説明版や動輪のモニュメントがこんな(下の画)感じで並んでいる。もう一つの説明パネルは次の画のとおり。ここでは随所に残る痕跡が紹介されている(この6か所は拡大して次回の記事に掲げます)。公園の中程に立って、北(廃線跡の先の方向)を眺めると次の画の通り。SLをモチーフにした新しい遊具がある。この公園の先にルートは伸びている。少し歩くと、ルート跡がそのまま車一台走れる小道になっており、川を渡る橋梁に出くわす。(画は順に、北方向、逆方向(利府駅方向)、橋脚です。)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.05.10
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東北本線利府支線は利府駅から北が廃線になったが、先日、利府駅周辺でその痕跡を訪ねてみた。■今回のシリーズ・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)まずは現在の利府駅の外から、レール終端とホームを眺める。遠方は新利府駅、岩切駅方面だ。こんどは同じ撮影地点から逆方向(旧ルート)を望んでみる。かつての線路跡は町営駐車場に変わっている。その先は線路跡は消えて住宅がいくつか建っているようだ。駐車場わきの道を、その住宅の辺りまで進んでみると、下の画のように、住宅の先に建物が見え、SENKEN(仙建工業)とある。緩やかに曲がった区画の雰囲気は、ルート跡の名残だ。さらに北側に回ってみて建物を撮ったのが次の画で、遠方は利府駅になる。仙建工業(株)仙台新幹線出張所、との看板があった。私有地につき関係者以外の立ち入りは固くお断りします、防犯カメラ作動中、と書かれているので、立ち入らず道路を挟んで(利府自動車学校・森郷児童遊園の側)から撮影。さて、さらに旧線の先を望む(道路の仙建工業寄りから撮影)と、割とわかりやすく、ルートが森郷児童遊園に包まれるように伸びていく。その森郷児童遊園(SL公園)の中に、鉄道についての解説板が、SLの動輪のモニュメントの両脇にある。比較的新しい。実は最近まではSLの機関車が置いてあったのだが、維持管理ができなくなって置き換えたようだ。以前あった機関車は、C58-354で、東北新幹線仙台総合車両基地の建設を記念して、利府町が誘致して昭和50年8月に設置されたが、当該機関車は昭和19年製造、走行距離は125万キロで昭和48年12月まで現役として活躍していた。看板の説明を読もう。------------1890- 本線だった、利府経由の線路 現在の利府町域に現東北本線が姿を現したのは、1890(明治23)年のことです。現在の県道8号線(利府街道)に沿うように現町域を縦貫し、松島町の愛宕駅付近からは現在と同じ経路を走っていました。 開業当初、赤沼に信号場が置かれましたが、利府に駅はなく、1894(明治27)年に利府駅が開業しています。敷地を加瀬村の佐々木佐太郎氏が寄贈するなど、地元の力が実現した駅の開業でした。1944- 並走する「山線」と「海線」 1944(昭和19)年、東北本線の岩切~品井沼間を海沿いで結ぶ、新しい線路が敷かれます。すでに大正年間から、従来のルート上にある急勾配区間が輸送上問題視されており、昭和初期には仙塩地方の工業化も構想されていました。これに戦時中の軍需物資の輸送強化という要請もあって敷設に至ったようです。 以後、東北本線の岩切~品井沼間は、従来の線路「山線」が主に旅客、新しい海側の線路「海線」が主に貨物を取り扱いながら並走し、東北と関東を結びつけたのです。1956- 「海線」の複線化と「山線」の廃止 「海線」登場と同時期、東北本線の複線化も計画されました。戦中の資材事情で遅れていましたが、1953(昭和28)年から工事が再開され、1957(昭和32)年には陸前山王~品井沼間を除いて複線化されます。この間、1956(昭和31)年には「海線」に塩釜駅や新松島駅が設置され、列車の運行割合も「海線」が多くなるなど、「海線」の東北本線「本線」化が進行します。輸送力を強めたい国鉄(当時の日本国有鉄道)は、残る陸前山王~品井沼間の複線化を進め、これが完了した1962(昭和37)年に「山線」は廃止されました。1962- 支線の終点として利府駅は残った 「山線」の廃止後も、「山線」の駅である利府駅が残った背景には、利府住民の強い請願がありました。 利府町教育委員会の資料によれば、「山線」の廃止計画は、1949(昭和24)年に発表されました。すると利府では、翌年から「山線」と利府駅存続の請願活動がはじまっています。 利府駅廃止反対期成同盟を結成して仙台鉄道局や東京へ陳情をし、その年のうちに衆議院で利府駅の維持が決定されました。その後も存続を望む活動は続けられ、列車運行数を減らさないために貨物を取り扱い、村民へ駅の利用を呼び掛けるなど、利用者側の努力で利府駅の重要性を示そうともしています。このように、開業時と同様、住民の強い思いと行動が、いまに利府駅を残したのです。(年表)1984 利府駅開業1944 「海線」開通 従来の路線は「山線」に1945 太平洋戦争終結1949 「山線」廃止計画発表1950 「山線」と利府駅存続の請願活動がはじまる1956 「海線」に塩釜駅や新松島駅が設置1957 一部を除き複線化1962 全面複線化完了と同時に「山線」廃止 利府駅は残り、支線の終着駅となる1964 東京オリンピック開催1975 東北新幹線の建設を記念して SL・ELを本町へ展示1982 東北新幹線が大宮-盛岡間で開通1986 駅舎改築1987 国鉄分割民営化2022 SL・EL老朽化により SLのみ動輪をモニュメント化------------また、この公園にはSLとともに電気機関車ED91-11も屋外展示されていた。1954年に始まった仙山線の交流電化試験に使われた試作機4両のうちの唯一現存した1両だったそうだ。試験は成功し、57年9月国内初の交流電化営業運転が、仙台-作並間で実現。4両は引き続き仙山線で活躍した。鉄道の電化は直流が早く進んだが、交流は変電所の数が少ないなど経済性に優れ、トンネルの多い区間でも導入が可能で東北の幹線の電化が飛躍的に進んだ。また、試験の知見は高速化に貢献し、交流方式の東海道新幹線が東京五輪開幕の9日前に開業できた。(2021年7月24日の河北新報記事から。保存を訴える元技術者のインタビュー記事だ。)■利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)に続きます。■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.05.08
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塩竈市の本町(もとまち)通りを散策。御釜神社には何度か参拝しているが、古代から伝わる御神体の四口の神釜を、初めて見せていただいた(拝観料100円で扉を開錠していただく。撮影は不可)。4つの釜に水が張られ、釜の底の色なのか黄土色に見える。雨や日照りでも、溢れることも干上がることもないのだ。本町通りに面した看板(上の画像)を読む。------------御釜神社(鹽竈神社末社)祭神 鹽土老翁神月次祭 毎月6日特殊神事藻刈 7月4日御水替 7月5日藻塩焼例祭 7月6日藤鞭社祭典 7月7日由緒塩竈市名発祥の地日本製塩起源の地 恭しく顧みるに、神代の昔武甕槌、経津主の二神鹽土老翁神の教導によって東北経営の功を畢へられたが、鹽土老翁神はこの地に留まり給ふて人々に海草を焼き製塩の法を教へ給ふたので其の神恩に感謝して三神を斎き奉り鹽竈神社を創祀するに至ったといふ。 當御釜神社は鹽竈神社の末社に坐し、鹽土老翁神製塩の旧址で境内の牛石、藤鞭社等何れもこれに有縁のものと伝へられ例年7月4日藻刈、5日水替、6日藻塩焼、7日藤鞭社と古式床しい特殊神事を経て製せられた神塩を以て10日本社例祭の神饌を調進する慣例である。 蓋し塩竈の地名は鹽土老翁神製塩の伝説に由来し、元禄2年5月8日芭蕉は御釜神社に詣、「未の尅(おだずま注:ひつじの刻の意か)、塩竈ニ着、(中略)出初ニ塩竈ノかまヲ見ル云々」とあり、神竈を拝し古来製塩の由来に思いを馳せ、鹽土老翁神の偉大さに賛仰のことばを惜しまなかったのである。(曾良旅日記より) 更に此処は市名発祥の聖地で実に本邦製塩の濫をなす記念すべき所である。社務所------------社務所でいただいたしおり(紙)には、こうある(以下)。------------"奥州一宮"鹽竈神社 第一末社 御釜神社(おかまじんじゃ) 現在の御釜神社周辺は、江戸時代末期までは浜辺で、製塩が盛んに行われておりました。 神代の頃に、この場所で御祭神・鹽土老翁神が神釜を以て人々に製塩方法をお教えになったと伝えられ、御聖跡として今の地に御釜神社が鎮座しております。 毎年、7月6日には「藻塩焼神事」(宮城県無形民俗文化財)が斎行され、古式に則って製塩が行われます。------------神社の向かいは、塩竈まちかど博物館(旧ゑびや旅館、下の画像)。交差点から山側に坂道を登るとすぐ、杉村美術館がある。■関連する過去の記事(塩竈市) 杉村惇美術館(塩竈市)(2023年10月14日) 日本の塩神と鹽竈神社(2021年11月3日) 母子石(塩竈市)の伝説(2013年2月13日) 塩竈の「ざっとな」(2011年2月27日) 伊保石公園を散策する(10年6月6日) 塩竈寿司めぐり(10年4月8日) 宮城の小規模特認校(10年1月9日) 浦戸の小規模特認校を考える(10年1月8日) 寒風沢島に行きたい(09年9月29日) 塩竃の花火大会(08年7月21日) 塩竃の花火大会とイーグルス快勝(08年7月20日) 奥州仙台の三大名数シリーズ(寺社仏閣)(07年8月21日) 塩釜エスプのツリーハウス(07年6月4日) 塩釜のエスプは良いですね(05年12月1日) 日本の白菜を育てた宮城県(2011年5月1日) 宮城のかまぼこ業者(08年4月25日) 昭和57年の釜竈論争(2011年10月18日) 塩竃市体育館の命名権を考える(08年2月8日) 仙台ハクサイと沼倉吉兵衛(2015年2月16日) 守屋前次官と宮城県(07年10月30日) 昭和47年仙石線新田踏切事故(続)(2021年10月19日) 昭和47年の仙石線事故(2011年9月8日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日)
2024.05.06
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普段乗ることのない気仙沼線を体験したくて、4月の良く晴れた日、列車とBRTの両方に乗ってみました。小牛田駅から柳津駅までの列車。前谷地で乗り換えなしで気仙沼線に乗り入れます。車窓から見えるのは、田植え前の水田、新緑の里山と立ち並ぶ家並みなどの景色で、大変みごとでした。上品山、箟岳を眺め、豊里は集積のある街だと感じ、また、御岳堂を過ぎて、小さなトンネルを過ぎた後、北上川を真っすぐな青い鉄橋で渡る際は、爽やかな風になった気分でした。(関連する過去の記事 北上川の移流霧(2021年5月22日))柳津駅は町はずれにありますが、終点なので皆が降ります。10数人だったか、地域利用と観光(乗り鉄)が半々くらい。画像のように、駅舎やBRTバスを撮ったりしていました。駅の先(陸前横山や志津川方面)はBRT専用道路ですが、自動運転工事中とかで、バスはこの専用道でななく一般道を走行するとのこと。戻りは柳津駅からBRTに乗ってみました。一般道をまわって駅にやってきた気仙沼始発の車両は、むすび丸のラッピング。先客は2人。たぶん観光の方。柳津から乗るのは自分だけ。前谷地までは停留所もなく、豊里の町は通らないのでした。神取橋をわたり、和渕駅の傍らを走って前谷地駅前へ。ホームに立って石巻方を見ていると、気仙沼線のレールから石巻線に合流してくる列車が見えました。■関連する過去の記事(今回の旅) 香林寺(登米市)(2024年05月02日)
2024.05.05
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初夏のような暖かさ。湿気がなく、風も動かない。田園地帯にある立派なお寺だ。石柱に、宮城県重要文化財香林寺山門、とある。説明版には次のように説明されている。------------香林寺山門(宮城県指定有形文化財) 曹洞宗月輪山香林山は、戦国大名葛西氏の氏族月輪氏の菩提寺として建立、山門は天文9年(1540年)建立の「月輪館大手門」を天正12年(1584年)廃城となった館から移築したもの。二ッ葉柏紋の彫刻が時代を偲ばせる。環境庁・宮城県------------
2024.05.02
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一昔前にTVにも登場した有名?なマンション。住所は新田4丁目、RC5階建、2008年建築とのこと。TVではギリシャ建築風と紹介されていたが、さほど感じなかった。新田小学校のすぐそば(次の画像の奥が小学校、右手建物が神殿!)、東仙台駅が最寄り駅になるだろう。そして、もうひとつ。小鶴新田駅すぐ前にあるのが、パルテノン新田東だ。新田東二丁目、RC6階建、2005年建築、なのでこちらが先にできたようだ。■過去の記事リスト シリーズ仙台百景
2024.04.30
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かなり久々になりましたが、ロータリーを2つ追加いたします。新田東地区で南北に2か所。南のものは、新田東2丁目で、新田4丁目との境界をなす市道の中央に。その市道とは、R45から梅田川や仙石線をオーバーして小鶴城跡の高台の手前で直角に東に折れる幹線(両側は一昔前まで館町一丁目・二丁目)の東側を並走する狭い道路。画像の奥(南)には(この後)仙石線電車が走るのが見えました。南のロータリーから、その市道を北に300m行くと、もう一か所。新田東1丁目ですが、道の西側が新田3丁目になります。さて、これらは写真の通りで、本当はロータリー交差点(ラウンドアバウト)とは言えないでしょう。交差点とは位置がずれていて、交差点を直進や右左折する車はこの島を周回する訳ではありません。もっともこの島をUターンする車は見かけました。島には送電線の鉄塔が聳え立っています。おそらく、区画整理する際に鉄塔の足元を囲うように残して道路を敷設したのでしょう。■関連する過去の記事(仙台のロータリー交差点) 環状交差点がスタートだそうで(2014年9月1日) ラウンドアバウトは定着するか 仙台試論(2013年9月5日) 仙台のロータリー(その12)中山吉成(その2)(2011年1月11日) 仙台のロータリー(その11)中山吉成(その1)(2011年1月10日) 仙台のロータリー(その10)桜ヶ丘ロータリー(2011年1月9日) 仙台のロータリー(その9)葛岡墓園正門前(2011年1月2日) 仙台のロータリー(その8)名取市相互台東(桜坂)(2010年12月4日) 仙台のロータリー(その7)名取市相互台(2010年12月3日) 仙台のロータリー(その6)日本平(2010年12月2日) 仙台のロータリー(その5)ひより台(2010年11月27日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 仙台のロータリー(その3)永和台(2010年11月22日) 仙台のロータリー(続)(2010年11月22日) 仙台のロータリー交差点を考える(2010年11月21日)(向陽台ロータリー)■調査成果のマップです。
2024.04.29
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人口戦略会議の「自治体持続可能性レポート」が反響を呼んでいる。そこで、当ジャーナルで対策の考え方を整理してみた(情報源は主に下記、敬称略)。・人口戦略会議『人口ビジョン2100:安定的で、成長力のある「8000万人国家」へ』2024年1月・人口戦略シンポジウム(4月24日)における資料や発言など■今回のシリーズ・自治体持続可能性分析レポート(人口戦略会議)を考える(その1)全体(2024年04月26日)・自治体持続可能性分析レポート(人口戦略会議)を考える(その2)自治体ごとの結果(2024年04月26日)・今回 自治体持続可能性レポートと少子化対策・地域づくりを考える(2024年04月27日)■関連する過去の記事(令和5年人口推計(全国、地域別)についてのシリーズ)・地域別人口推計を考える(その1)(2024年01月31日)=地域別推計結果の概要・地域別人口推計を考える(その2)東北の市区町村(2024年02月14日)=個別の市区町村の結果・地域別人口推計を考える(その3)(2024年02月15日)=将来推計人口について・地域別人口推計を考える(その4)移動仮定と封鎖人口(2024年04月25日)1 問題の理解(1)比喩 高齢化は漕ぎ手がオールを置いて一般乗船客になる問題。少子化はボートの中の人間がどんどん減る問題(白川方明)。(2)3つの基本的課題(人口ビジョン2100)・国民の意識の共有(人口減少のスピード、超高齢化と地方消滅)・若者、特に女性の最重視(希望を持てる環境づくり、子供を持つリスクや負担の解消) ←未婚女性の非婚就業予想が急増、非正規社員は正社員より意欲低い、女性就労のL字カーブ(30歳以降非正規)etc・世代間の継承・連帯と「共同養育社会」(3)未婚女性と「非婚就業」予定の増加(永瀬伸子)・出生動向基本調査では、34歳以下未婚女性の希望ライフコースは、非婚就業コース(結婚・出産せずに仕事)が増加(12.2%←前回5.8%)、予想ライフコースは、非婚就業コースが3分の1に増加(33.3←21.0)。・下がった予想ライフコースは、再就職コース(子育て後に再就職)(22.7←31.9)と専業主婦コース(3.5←7.5)。いずれも希望コースでも低下している・非婚就業コースが上昇したのは、子供を持つと収入を失う、自由時間が無くなる、離婚リスクで女性が貧困に陥るから、簡単に子を持てない。また、結局女性が子育て責任をとらねばならない、教育費も不安などの声が聞かれている。このため、家事ケアのための無職の恐れがない未婚女性が増えているのだ。・なぜか。若年者の子育て不安を解消する政策がとられていない。(a)非正規が拡大したが、非正規の訓練機会や賃金格差縮小などの強い雇用ルールがない、(b)出産後3年で仕事に戻るなど、欧州で行われている雇用ルールを、(c)大学奨学金の軽減方策がない、(d)離婚の際に父親の養育費支払いが義務化されていない、(e)男性育児分担を奨励する政策がない、など。・非正規は有配偶女性ばかりでなく、若年男女や中高年シングルにも拡大。年収のカベ問題。・母親の多くが就くパートを改革する変化が最も重要。・不妊治療時期(40歳前後がピーク)を早められないか2 危機感が共有されない5つの理由と問題(白川)(1)明治の初めに戻るだけ →それで静止する展望がない(2)個人の価値観に立ち入る懸念? →社会全体(働き手、年金etc)の問題だ(3)経済的豊かさ求める時代終わった(文明論)→生活インフラや精神的豊かさの余裕なくなる(4)イノベーションや生産性向上で解決 →現実に見合う向上は限界(5)受け入れるしかないor手遅れ(諦観論)→深刻な帰結を認識しあらゆる手立て講じたか3 重要な3つの視点(白川)・国民間の対立図式(高齢者vs現役、子供いる人vsいない人etc)で論じないこと・政府の仕事と考えないこと。子育てに優しくない各種社会慣行の是正を(ゼロサムのように思われているが、社会的慣行の是正でプラスサムに転じる)・安定的な財源の必要4 政治の取り組み方・国家ビジョンを議論する場がない(人口ビジョン2100)・政治の本気度の問題・国会は政府との論戦なので同じ方向の議論しにくい・地方への投資を大胆にすべき(東京の議員が止めないこと、木原誠二)・1953年人口問題審議会設け、1997年報告書採択。審議会は2000年見直しで廃止。その間、子供は2人までとの抑制策さえあった(公団住宅サイズが関係との指摘、大島敦)。1.57ショックでも本気にならず(宮本太郎)・優等生スウェーデンも1930年代は保守派(女性は家庭に)とリベラルの対立で進まず。ミュルダールの貢献もありラウンドテーブルに。5 政治が取り組む際の2つの重要な視点(宮本)(1)合意と掘り下げ。2014レポートで地方に30万人の雇用と謳ったのになぜ実現できなかったのか。(2)若い世代の不安や怖れによりそう(←大学あげてやれるか、良い子育てできるかetc)6 取り組むべきこと=2つの人口戦略(人口ビジョン2100) 定常化戦略と強靭化戦略で、未来選択社会の実現を(1)定常化戦略・人口定常化には、人口置換水準TFR2.07の継続が条件・将来推計人口は、3ケース(高位・中位・低位)とも定常化せず、高齢化率高止まり・(独自試算により)めざすべきは、2060年にTFR2.07達成、2100年総人口8000万人のケース ←2040年頃TFR1.6,2050年頃1.8程度に上げる。 =高齢化率は、2054年ピーク36%のあと、30%に低下(2)強靭化戦略・人口が定常化しても効果発現に数十年。またその規模は小さくなる。このため、社会経済システムの質的な強靭化と多様性に富んだ成長力ある社会をめざす・労働生産性の伸びは内閣府ベースラインを想定・定常化戦略により2050-2100年の平均成長率は0.9ポイント上昇・さらに、強靭化戦略(生産性向上)で2020年代以降1ポイント引き上げ・2つの戦略で成長率プラスを継続・一人当たりGDPは2101年に2.5倍程度(3)未来選択社会 未来として選択しうる望ましい社会の姿 =幸福度(例、一人あたり可処分所得)が世界最高水準、個人と社会の選択が両立、多様なライフスタイル、世代間の継承と連帯7 定常化戦略の論点(人口ビジョン2100)(1)若年世代の所得向上と雇用改善(最重要) 正規化、労働法制、年功序列カーブ、男女格差、中小企業対策(生産性向上と価格転嫁)、地方企業の魅力向上(2)共働き・共育ての実現 L字カーブ問題、育児給付制度、社会保険被扶養者問題、長時間労働、同調性意識排除(3)多様なライフサイクルが選択できる社会づくり ライフイベントの集中する20代30代(人生のラッシュアワー)で多様な選択を可能に。制度や社会規範の見直し。また、高齢者就労の促進(4)プレコンセプションケア 晩婚化晩産化のなか、若い男女の選択を支えるため、健康管理やライフプラン設計の意識を高める(5)安心な出産と子どもの健やかな成長の確保 妊娠、出産、育児の一貫した伴走型相談支援と経済的支援。地域全体で支える体制、正常分娩の保険適用、虐待対策、一人親(特に母子)家庭の支援(6)子育て支援の「総合的な制度」と財源 子ども一人当たり家族関係支出をスウェーデンなみに引き上げ。また、2030年代初頭までに予算倍増(加速化プラン)(7)住まい、通勤、教育費など(特に東京圏) 住宅費高騰と通勤長時間で若い男女の可処分所得が低水準。さらに教育費(塾も)→東京集中の是正は不可避8 強靭化戦略の論点(人口ビジョン2100)・戦略の本質は、生産性上昇率の更なる引き上げ・人への投資の強化。(1)人材育成のオープン化、(2)教育費用個人負担の軽減(公費支援)、(3)教育の質的向上、(4)企業等での能力資質向上、(5)子育て世代が子育てや学びに使える「可処分時間」の増加、(6)教育分野の規制改革と分権・ローカルインクルージョンとグローバルチャレンジ9 永定住外国人政策(人口ビジョン2100)・(移民の語はともかく)既に日本は労働移民(労働目的の永定住)は年間33万人、世界第5位・アジアからの人口移動は年間590万人。湾岸諸国、次いでOECD諸国(230万人)うち日本が48万人と最多。依然、日本への就労希望は強い・しかしながら、永定住外国人の総合的戦略はいまだ策定されず・人口定常化のための補充移民政策は(年間75万人入超が必要)、非現実的で、また社会の安定性にも危惧・永定住外国人政策の視点は、高度・専門的人材を基本とする。非高技能は、慎重に検討10 人口戦略の進め方(人口ビジョン2100)・EBPMの政策立案プロセス・内閣に推進本部を設置(司令塔)、また政策研究部門を設置・国会での超党派の合意形成(プログラム法)・民間(ESG項目としての認識)と地域の主導的取組。若年女性の東京集中の是正のための戦略会議11 欧州の出生動向(金子隆一)・2010年代以降、出生動向に新たな変動。大まかには二極化・これまで出生率高かった北欧や仏で一斉に低下(仏1.80 瑞1.53など)・一方、90年代の経済体制転換以降低迷した東欧で反騰(羅1.81 チェコ1.82など)・南欧諸国も低迷している・独は家族政策の充実。2016年1.6に飛躍的上昇するも、2020年急降下・フランスについて。年次TFRは1993年最低値1.66まで低下したが、世代TFRでは概ね2.0を下まわらず推移している(年次TFRはその年の各世代の出生行動の強さ。日本の丙午の例では、その年出産控えた(TFR1.58)が、結局生涯で2.0を下回った世代はなかった。世代TFRは50歳にならないと測定できないので、例えば30歳の世代の世代TFRは20年後でないとわからない。)・晩産化になる場合に、年次TFRにテンポ効果(先走って低下)が出る。フランスはこれであり、平均出生年齢の増減とテンポ効果の存在が一致する。生涯を通じては安定的に実質的出生力が保たれている・スウェーデンについて。年次TFRは変動幅が大きいが、フランス同様、テンポ効果を含んでおり世代TFRは安定的に観測されている。12 地域づくりとの関係(人口戦略シンポジウムでの発言)・住み続けられる地域であること、保育料無償化はインパクトあった、女性が(短大が消え)県外に出るのをどう戻ってもらうか(平井伸治)・寛容性ランキングで富山県43位。女性に選ばれない地域でなくすること(田中幹夫)13 社会減対策と自然減対策の関係(当ジャーナル整理)(1)自治体持続可能性レポート(4月24日)の示唆・前回記事 自治体持続可能性分析レポート(人口戦略会議)を考える(その2)自治体ごとの結果(2024年04月26日)・同レポートは移動仮定と封鎖人口の各将来推計を比較しながら、市区町村ごとに自然減対策と社会減対策の必要度を示唆する・両者の関係について。各自治体の対策は社会減対策に重点が置かれすぎているきらいがあるが、(東京圏への流出防止はともかく)若年人口の奪い合い(ゼロサムゲーム)は出生率向上に結び付かず日本全体の人口減少を変える効果がない(同上分析レポート)。(2)東北地域のデータと評価(当ジャーナル)・令和5年推計(地域別)で、封鎖人口推計を自然増減とし、「推計人口(移動仮定)-封鎖人口」を社会増減として、データを確認すると(若年女性人口ではなく全人口)、下記の通り■(図)当ジャーナル作成・人口推計では、(東北の場合)人口減に占める自然減のシェアが非常に高い。・人口減の主因は自然減。流出(社会減)を止めても人口減少は止まらない(小池司朗)・しかし、(社会減対策はたしかにゼロサムの側面は強いが)集中のデメリットを抱える東京圏からの移動促進は、国全体でもメリットになる(3)考え方・基本的には実効性ある自然減対策(出生率向上)を根気強く続けるべき・併せて、(特に地方レベルでは)社会減対策が即効性を持ち、また、地域づくりの総力を高めることに繋がる ← (例)移住者の視点による地域資源の見直し、高齢者の巻き込み・高度成長期は東京も出生率高かったが、「東京生まれ東京育ち」が増え一流の大学を出る(結婚こだわらない)価値観の定着化につながっているのでないか。いかに価値観を変えるか(小池)・地方のことが知られていない。情報発信が重要(小池)
2024.04.27
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■今回のシリーズ(予定含む。4月26日時点)・自治体持続可能性分析レポート(人口戦略会議)を考える(その1)全体(2024年04月26日)・今回 自治体持続可能性分析レポート(人口戦略会議)を考える(その2)自治体ごとの結果(2024年04月26日)・自治体持続可能性レポートと少子化対策・地域づくりを考える(2024年04月27日)前回は分析の考え方と全体の結果を記した。今回は東北を中心に個別の結果を記したい。1 結果の概要 移動仮定推計と封鎖仮定推計の比較をした今回分析では、両者をクロスさせて新たに9つの分類を設定した。・自立持続可能性自治体(A) 65 =移動仮定、封鎖人口ともに若年女性人口の減が小さい。減少率20%未満であれば、100年後も若年女性が5割近く残存する。・ブラックホール型自治体(B) 25 =移動仮定の減少率は小さい(50%未満)が封鎖人口の減少率が大きい(50%以上)。人口増を他地域からの流入に依存し、自らの出生率が小さい。・消滅可能性自治体(C) 744 =移動仮定の減少率が50%以上の自治体。前回と同様。・その他の自治体(D) 895 =A,B,C以外のもの。ほとんどで若年女性人口は減る。このうち東北の自治体を見ると、(D)消滅可能性自治体の割合が他ブロックに比べて最も高い。・(A)自立持続可能性 全国 65 → 東北 1・(B)ブラックホール 全国 25 → 東北 ゼロ・(C)消滅可能性 全国 744 → 東北 165(その割合4分の3は突出)・(D)その他 全国895 → 東北49他ブロックでは、北海道を除き(D)が半数以上だが、東北は4分の1しかない。(A)自立持続可能性は、東北は大衡村のみ(移動仮定の若年女性人口減少率15.2%である)。関東8、中部12,近畿7,中四国3,九州が34と多い(沖縄が顕著)。具体的には、関東だとつくばみらい市(+4.1%)、流山市(+2.4%)、八丈町(-19.5%)など。東京特別区の大半は、移動仮定の減少率はさほど大きくない(新宿区で-6.6%)が、封鎖人口での減少率が大きく(新宿区で-68.2%)、(B)ブラックホールに分類される。2 東北の自治体について(1)宮城県内(35自治体)・概要 (A)自立持続可能性が大衡村。(C)消滅可能性19、(D)その他15である。・自然減対策と社会減対策の視点を得るための「9分類」に当てはめると、下の表となる。封鎖人口減少率20未満同20-50未満同50以上移動仮定減少率20未満(A)自立持続可能性大衡村(D)-1名取市(B)-1同20-50未満(D)-2富谷市(D)-3仙台市、塩竈市、多賀城市、岩沼市、東松島市、大崎市、大河原町、柴田町、亘理町、山元町、利府町、大和町、美里町(B)-2同50以上=消滅可能性(C)-1(C)-2石巻市、気仙沼市、白石市、角田市、登米市、栗原市、蔵王町、七ケ宿町、村田町、丸森町、松島町、七ヶ浜町、大郷町、色麻町、加美町、涌谷町、女川町、南三陸町(C)-3川崎町 川崎町が(C)消滅可能性自治体の中でも、最も厳しい評価の区分となった。(C)は全国で744だが、そのうち(C)-3は全国で23しかない。東北でも、外ヶ浜町と川崎町だけ(他では、南牧村、銚子市、都留市など)。 また、(D)その他の中では、名取市と富谷市が分かれた。移動仮定の若年女性人口減が少ないが、封鎖人口でみると減少が大きい(→自然減対策が必要)区分(D)-1に名取市が該当し、移動仮定で減少は比較的多いが封鎖人口では実はあまり減らない(→社会減対策が必要)区分(D)-2に富谷市。他の13は、自然減も社会減も対策すべき区分(D)-3だ。 なお、(D)-1は全国で176あるが、東北では名取市のみである。(D)-2は全国に260あり、東北では12ある。消滅可能性に該当する自治体の前回からの動きは下記の通り。・前回消滅可能性から今回脱却 4 →大衡、塩竈、山元、美里・今回新たに該当 ナシ・前回も今回も該当で、若年女性人口減少率が改善 5 →気仙沼、角田、栗原、村田、松島・同上で、若年女性人口減少率が悪化 14 →石巻、白石、登米、蔵王、七ケ宿、川崎、丸森、七ヶ浜、大郷、色麻、加美、涌谷、女川、南三陸(2)青森県(40)・(C)消滅可能性が35、(D)その他5である。・(C)のうちでも厳しい(C)-3は、外ヶ浜町のみ。封鎖人口での減が比較的小さい(C)-1には、東北町、東通村、三戸町、田子町。他の30が(C)-2だ。 なお、(C)-1は全国で176あり、東北ではほかに、平泉町、岩泉町、田野畑村、野田村、最上町、真室川町、大蔵村、鮭川村、小国町、遊佐町、只見町、西会津町、矢祭町。秋田県と宮城県にない。・(D)のうち、(D)-1はなく、(D)-2に4町村、(D)-3は1のみ。(3)秋田県(25)・(C)消滅可能性が14、(D)その他は秋田市のみである。・(C)の14はすべて、(C)-2に区分される。(4)山形県(35)・(C)消滅可能性が28、(D)その他が7である。・(C)の28のうち、(C)-1区分が6あり、他は(C)-2だ。■関連する過去の記事(令和5年人口推計(全国、地域別)についてのシリーズ)・地域別人口推計を考える(その1)(2024年01月31日)=地域別推計結果の概要・地域別人口推計を考える(その2)東北の市区町村(2024年02月14日)=個別の市区町村の結果・地域別人口推計を考える(その3)(2024年02月15日)=将来推計人口について・地域別人口推計を考える(その4)移動仮定と封鎖人口(2024年04月25日)(上記その4は、人口戦略会議が4月24日に公表した自治体持続可能性分析レポートが封鎖人口推計と移動仮定推計を比較する手法を用いているため、その説明のために、地域別推計のしくみを整理したものです。)
2024.04.26
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人口戦略会議が4月24日に、令和6年・地方自治体「持続可能性」分析レポートを公表。2014年の増田レポート(消滅可能性都市)から10年が経ち、今回は昨年12月の地域別将来推計人口(令和5年推計)に基づいた分析である。以下にその概要とポイントを記す。■今回のシリーズ・今回 自治体持続可能性分析レポート(人口戦略会議)を考える(その1)全体(2024年04月26日)・自治体持続可能性分析レポート(人口戦略会議)を考える(その2)自治体ごとの結果(2024年04月26日)・自治体持続可能性レポートと少子化対策・地域づくりを考える(2024年04月27日)■北海道総合調査研究会サイトに、令和6年・地方自治体「持続可能性」分析レポート資料が収めされている。1 分析の考え方(1)基本的考え方 2014年分析を基本的に踏襲。すなわち、若年(20-39歳)女性人口が減少→出生数低下→総人口減少で地域消滅、と推測。2020年から2050年までの30年間で若年女性人口が50%以上減少する自治体を「消滅可能性自治体」とする。(2)封鎖人口仮定推計の活用 今回はこれに加えて、(社会減対策に重点が置かれすぎたきらいがあるがゼロサムゲームに過ぎず、)各自治体が(出生増で)人口減少を回避するための対策の視点も検討した。 このため、昨年12月公表の日本の地域別将来推計人口(令和5年推計)" >地域別将来推計人口における封鎖人口を仮定した推計を活用する。(封鎖人口仮定については、下記過去記事(その4)を参照ください。) すなわち、移動仮定の推計(推計結果の本論)と封鎖人口仮定(出生と死亡だけが人口変動要因)の推計とを比較して、封鎖人口の若年女性人口が急減する地域は、自然減対策(出生率向上)が重要な課題になる。逆に、移動仮定推計で(封鎖人口仮定での減少に比較して更に)急減する地域では社会減対策が重要となる。2 分析の結果・消滅可能性自治体 =移動仮定の若年女性人口の減少率が(2020→2050年)50%以上の自治体・今回の結果は、744自治体(※711)。・前回896であり、今回脱却したのが239自治体、新たに該当が99自治体(※67)。・前回も今回も消滅可能性該当は(おだずま注;896-239=657と思われる)のうち、若年女性人口減少率が改善したのが362で、悪化が283自治体(おだずま注;同数値が12か)。(※は前回対象としない福島県下自治体を除いた数値。なお、今回は浜通り13市町は一個として推計。)3 新たな分類の設定 移動仮定推計と封鎖仮定推計の比較をした今回分析では、両者をクロスさせて新たに9つの分類を設定した。・自立持続可能性自治体(A)65 =移動仮定、封鎖人口ともに若年女性人口の減が小さい。減少率20%未満であれば、100年後も若年女性が5割近く残存する。・ブラックホール型自治体(B)25 =移動仮定の減少率は小さい(50%未満)が封鎖人口の減少率が大きい(50%以上)。人口増を他地域からの流入に依存し、自らの出生率が小さい。・消滅可能性自治体(C)744 =移動仮定の減少率が50%以上の自治体。前回と同様。・その他の自治体(D)895 =A,B,C以外のもの。ほとんどで若年女性人口は減る。■関連する過去の記事(令和5年人口推計(全国、地域別)についてのシリーズ)・地域別人口推計を考える(その1)(2024年01月31日)=地域別推計結果の概要・地域別人口推計を考える(その2)東北の市区町村(2024年02月14日)=個別の市区町村の結果・地域別人口推計を考える(その3)(2024年02月15日)=将来推計人口について・地域別人口推計を考える(その4)移動仮定と封鎖人口(2024年04月25日)(上記その4は、人口戦略会議が4月24日に公表した自治体持続可能性分析レポートが封鎖人口推計と移動仮定推計を比較する手法を用いているため、その説明のために、地域別推計のしくみを整理したものです。)
2024.04.26
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昨年12月に公表された地域別人口推計(令和5年推計)について何度か書き記してきた。前回(その3)では全国推計のしくみを記したが、今回は地域別推計の方法についてポイントを記す。なぜならば、人口戦略会議が4月24日に公表した自治体持続可能性分析レポート(それについての記事は下記)が封鎖人口推計と移動仮定推計を比較する手法を用いているため、その前提として地域別推計のしくみを整理するもの。■令和5年人口推計(全国、地域別)についてのシリーズ・地域別人口推計を考える(その1)(2024年01月31日)=地域別推計結果の概要・地域別人口推計を考える(その2)東北の市区町村(2024年02月14日)=個別の市区町村の結果・地域別人口推計を考える(その3)(2024年02月15日)=将来推計人口について・今回 地域別人口推計を考える(その4)移動仮定と封鎖人口(2024年04月25日)■自治体持続可能性分析レポートについての記事・自治体持続可能性分析レポート(人口戦略会議)を考える(その1)全体(2024年04月26日)・自治体持続可能性分析レポート(人口戦略会議)を考える(その2)自治体ごとの結果(2024年04月26日)・自治体持続可能性レポートと少子化対策・地域づくりを考える(2024年04月27日)1 全国推計との関係 将来推計人口(全国値、令和5年推計、2023年4月公表)のしくみと評価は、前回(その3)記事のとおり。地域別推計は、この全国推計のうち、出生中位・死亡中位による男女・年齢別推計人口と一致する。2 地域別人口推計(令和5年推計、2023年12月公表)のしくみ・社人研サイト 日本の地域別将来推計人口(令和5年推計) 5歳以上はコーホート要因法により推計(ある年の男女・年齢別人口を基準として人口動態等の仮定値=生残率と移動率=をあてはめて推計)。0-4歳人口は、これに加えて出生率及び出生性比に関する仮定が必要。 以下、具体的に。(1)基準人口 令和2年(2020年)国勢調査による。(2)将来の生残率 全国推計から得られる全国の男女・年齢別生残率を利用。ただし、地域差については次のように対処。 まず、(a)55-59歳→60-64歳以下の年齢は、地域差は極めて小さいため都道府県別に将来の生残率を仮定した(日本版死亡データベースの都道府県別生命表を用いて都道府県別に男女・年齢別生残率を計算し、次いで全国に対する相対的較差(比)を計算し、2045-2050年の全国値との相対的較差が、2015-2020年における相対的較差の2分の1になるよう直線的に減少させた)。 (b)60-64歳→65-69歳以上については、同じ都道府県内の市区町村間でも生残率の差が大きいため、都道府県と含まれる市区町村の較差を利用して生残率の仮定値を設定した(厚生労働省の市区町村別生命表から市区町村別に男女・年齢別生残率を計算し、次いで日本版死亡データベースを用いて所属する都道府県の男女・年齢別生残率を計算。これら生残率の相対的較差を2045-2050年の期間まで一定と仮定して、(a)と同方法で設定した都道府県別の生残率を用いて市区町村別の生残率を設定)。 ただし、2020年以降の死亡状況と地域差が大きく変化したため、2020-2025年の生残率については、人口動態統計個票データを二次利用して得た死亡数を反映して、2020年から2022年までの死亡の地域差を設定した。(3)将来の移動率 将来の人口移動は、転出数と転入数に分けて推計。(a)転出数は、地域別人口に占める域外への転出数の割合=転出率=を仮定し、(b)転入数は全地域の転入数(全国推計による人口から各地域に生残する人口の合計値を引いた値)に占める地域別の転入数のシェア=配分率=を仮定して推計。転出率と配分率を総称して移動率という。 地域別にみた男女・年齢別移動傾向は一時的要因で大きく変化する。そこで、(a)男女・年齢別転出率は、2005-2010年、2010-2015年、2015-2020年の3期間の地域ごとの平均値を、2045-2050年まで一定として仮定値を設定。(b)配分率は、上記3期間の平均値をベースに、対象地域の人口規模の変化や転入元地域の人口分布変化を考慮して、2045-2050年までの仮定値を設定。 なお、上記3期間の移動率が大きく変動した地域は、突発的変化の期間を除外して算出するなどした。また、新型コロナの影響については、2020-2025年に限定して国勢調査以降の変化を加味。(4)将来の子ども女性比 0-4歳人口の20-44歳人口に対する比である。市区町村別の子ども女性比の全国の同指標に対する相対的較差を用いて仮定値を設定する。具体的には、2005年、2010年、2015年、2020年の4時点における市区町村別の相対的較差(比)を算出し、原則としてその趨勢を直線的に延長して2025年の市区町村別の較差を設定し、その後2050年までは一定と仮定した。これを、全国推計による2025-2050年の男女・5歳階級別人口による将来の子ども女性比に乗じて得た市区町村別の子ども女性比を仮定値とした。 ただし、4時点の相対的較差の変化が直線的かどうかを市区町村ごとに検討し、直線的推移の場合はその趨勢を2025年まで延長し、そうでない場合は直近の地域差の動向を投影した。具体的には下記。・1時点の較差のみが極端な値の場合は、当該時点を除外して直線的趨勢を延長・2010-2020年の較差が明瞭に低下した場合は、当該3時点又は直近2時点の較差の趨勢を投影・2015年、2020年の2時点の較差がほとんど変化ない場合は、2020年の較差が2025年まで継続するとして将来に投影(5)将来の0-4歳性比 全国推計による2025年以降各年次の施肥を一律に適用。3 封鎖人口推計について 地域別推計では、参考として、「封鎖人口を仮定した」男女・年齢階級別推計が示されている。これは、地域間の人口移動をゼロとした(出生と死亡の要因のみによる)推計である。 なお、この各地域の合計値は、全国推計で示されている「条件付き推計」の一環としての封鎖人口推計(出生中位・死亡中位)と一致する。全国推計の場合の封鎖人口推計は、国際移動だけをゼロにしたものになるが、地域別推計における封鎖人口推計は、国内の地域間の移動(各地域の移動を足し合わせると全体でゼロになる)もないと仮定した推計である。 ちなみに、封鎖人口を仮定した推計はどのように相違するか。・宮城県の場合(県単位) 移動を仮定した地域別推計では、 (2020年)2,301,996人→(2050年)1,829,565人 指数(2020年対比)79.5 封鎖人口仮定では、 (2020年)2,301,996人→(2050年)1,792,773人 指数(2020年対比)77.9・丸森町 移動を仮定した地域別推計 12,262 → 4,974 指数40.6 封鎖人口仮定 12,262 → 6,995 指数57.0・秋田県(県単位) 移動を仮定した地域別推計 959,502 → 560,429 指数58.4 封鎖人口仮定 959,502 → 613,338 指数63.9・東京都(都単位) 移動を仮定した地域別推計 14,047,594 → 14,399,144 指数102.5 封鎖人口仮定 14,047,594 → 11,541,143 指数82.2東京は、地域間移動がなければ将来人口が減ることになる。秋田は、いずれにしても人口は減るが、地域間移動がなければ減りは少ない。丸森町も同様だが、宮城県全体では移動を仮定した方が人口減は緩和されている。
2024.04.25
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昨日(19日)のニュースには驚いた。大崎市民病院の歯科医師が、診察室内で歯科衛生士の首を絞めて、殺人未遂と傷害の疑いで逮捕されたというのだ。捜査段階なので罪状を決めつけて論ずるべきではないが、衝撃である。ところで、河北新報の紙面(20日朝刊)では「大崎市民病院医師を逮捕」の見出しで、これは問題がある。法制度(医師法、歯科医師法)の上でも一般の認識でも、医師と歯科医師は別個独立の職種であり、歯科医師は医師に含まれないだろう。記事本文では正しく歯科医師とあるが、見出しがこうなるのは河北新報の編集担当者の無知か不注意か。目くじら立てるほどではないかも知れないが、医師たちは無用に印象悪くされたと思うかも。何より、読者に事実を伝える報道の役割としては明らかに失格だ。当たり前だが、他のメディアでは歯科医師や歯科医の語で見出しを付けている。今日見ると河北新報オンラインでは見出しは「歯科医師を殺人未遂容疑で逮捕」とされている。
2024.04.20
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4月18日の新聞記事であった。縄文人と弥生人の二重構造モデルに疑問を投げかける内容で、縄文、関西、東北の3系統に分けられる可能性が高い、とする。■理化学研究所プレスリリース 全ゲノム解析で明らかになる日本人の遺伝的起源と特徴以下に、要点をまとめる。・全国7地域の医療機関に登録された3,256人の日本人の全ゲノム情報を分析。・まず、コモンバリアントに基づいて従来の主成分分析を実施。以前の研究と同様に、沖縄と本土クラスターの二重構造が再現された。・次いで、レアバリアントを使用した次元削減分析で、前例のない遺伝構造が明らかになった。・具体的には、本土の領域間のより明確な分離と、本土クラスターから沖縄クラスターのより明確な区別が観察される。また、東北の人々が細長いエリアにクラスタリングされる。・さらに、ADMIXTURE分析の結果、日本人口は、3つの祖先の混合によって最もよくモデル化できることを示唆する。すなわち、K1(沖縄)成分は、本土サブグループで安定した割合、K2(東北)成分とK3(関西)成分は西から東北に徐々に変化する。・以前の研究により、日本人が縄文人及び東アジア(EA、主に漢民族)の祖先をもつことが示唆されている。最近の古代ゲノム分析から、北東アジア(NEA)の祖先の影響も指摘される。この背景のもと、縄文、EA、NEAの現代及び古代の遺伝データを今回データと共に分析した。・縄文の祖先比率は、沖縄がもっと高く(28.5%)、次いで東北(18.9)、関西は最も低い(13.4)と推定。これは縄文人と沖縄の人々に遺伝的親和性を示す以前の研究と一致。また、関西地方は漢民族と遺伝的親和性が高いことが明らかになった。・また、関西人と黄河又はその上流地域の中新石器時代および後新石器時代古代中国集団との間に顕著に密接な関係が見受けられた。対照的に、東北地方の個体は縄文人との遺伝的親和性が顕著に高く、また、沖縄の宮古島の古代日本人ゲノムや古代韓国人(三国時代)とも高い遺伝的親和性が示された。・最新の確率的手法IBDmixを使用し、現生人類の近縁で絶滅したネアンデルタール人やデニソワ人由来の遺伝子配列が検出された。・本研究は、日本人の起源に関する重要な洞察を提供する。従来の二重構造モデル(縄文時代の狩猟採集民と大陸からの弥生時代の稲作移民の混血)に対して、最近出土した人骨のゲノム研究による三重構造モデル(縄文人の祖先集団、北東アジアに起源を持ち弥生時代に日本に渡った集団、東アジアに起源を持ち古墳時代に日本に渡った集団の3集団の混血)が提唱された。しかし、先行研究では古人骨全ゲノムのサンプル数が制限されていたところ、大規模な現代日本人ゲノム情報に基づいた今回の研究により、三重モデルの裏付けになる可能性がある。・さらに、初めて日本人の遺伝的構造に対する東北地方人の祖先の影響の重要性が強調された。居住していた蝦夷(エミシ)の起源を調べる必要がある。報道は分かりやすさを求めるが(これで決着?)、あくまで数理上の解析であり、三重モデルをよく説明できそうだということだろう。人類学的視点、古い地形や古気象学など様々な観点から研究の深化が求められると考えるが、今回の成果が支持しそうな仮説的な3系統とは、次のようになろう。1.縄文系 沖縄に多い2.関西系 関西に多い。古代中国黄河付近の漢民族と親和3.東北系 東北に多い。縄文人や古代韓国人とも親和。由来が不詳(蝦夷?)■関連する過去の記事・東北の縄文人の特徴(2016年4月7日)・東北縄文人はどこから来たか(08年11月23日)・ミトコンドリアDNAと日本人の起源(07年11月4日)・縄文人と弥生人(07年6月5日)その他、下記のフリーページの記事リストに関連する記事あると思います。・東北とは何か・歴史に見る東北・東北の民俗・言語・文化・出版・思想・科学
2024.04.19
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もう1年ほど前のことになるが、仙台駅から「ひたち」で出かけた。終着の品川駅が表示されることに、新鮮さを感じながら乗車した。さらに数年前のことだが、仙台駅で「女川」の文字が灯ったときの熱い感動を、思い出したのだった。
2024.04.18
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利府町の黄金山神社。桜が満開でした。藤田地区公民館の夫婦桜はこの手前(撮ればよかった..)。訪問日 2024年04月14日
2024.04.15
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(前回記事旭山(石巻市北村)を訪れる(その1 桜と眺望)(2024年04月14日)に続いています。)山頂に、朝日山計仙麻神社がある。旭山神社ともいい、かつては深谷一宮旭山宝竜大権現とも称されていた。延喜式神名帳にも名を残し、古くから河南地区の産土神として信仰を集めている。創祀の年代は不明で、大同年間(806-810)坂上田村麻呂が陸奥侵攻に際し、戦勝を祈願、戦勝後千束の田を寄進したことが社伝にみられる。本殿は昭和11年改築。祭神 倉稲魂命 豊玉姫命例祭 4月下旬(下記の宮城の旅サイトから。)参道をのぼる途中、左右にもみどころがあった。坂道の下の方から取り上げていくが、まず、旭山観音堂だ。説明版を読んでみる。------------旭山観音堂旭山観音堂は亡学童や戦没者の冥福を祈らんため発願し 昭和13年建立したもので 文豪徳富蘇峯(ママ)定礎し御堂は東北大学小倉強教授の設計 平安時代の様式で三間二面単層四注造の本瓦葺回廊をめぐらし 前面は張り出し 背面の子持石とよく調和し 結構荘厳清水観音堂を髣髴せしめる 聖観音像は元帝展審査委員国方林三の作 国宝的傑作である 扁額「観自在」は蘇峯(ママ)の筆旭山御堂の中に拝みぬ 端厳微妙の聖観世音 土井晩翠------------参道から観音堂に分かれ行く箇所には、左に上記の説明版、右には愛知揆一書になる「旭山聖観音」の石碑がある。小径を進んでいくと、しばらくして断崖にせり出すように建立された観音堂が現れる。すぐ上には奇岩が聳え立っている。説明版に言う子持石だろう。堂宇の周りを歩いてみた。次に、聖観音の入口から参道を少しだけ登ったところに、桃太郎神社の入口がある。左に分け入って歩くと、すぐに開けた場に出て、小さな祠と大きな石碑がある。碑には、「日本一桃太郎神社 内閣総理大臣 岸信介 書」とある。お社には、なぜか猫たちが大集合。立派な碑の裏側を読んでみる。次のように刻まれていると思うが、判読しかねる部分もあり、自信がない。------------桃太郎 ここに生まれて ふるさとの なほ新しく 栄ゆる 旭山昭和三十二年四月二十八日 斎藤 荘次郎 謹------------桃太郎神社から参道に戻りさらに登ると、右手に「旭山不動尊」と石柱がある。右側面には、「日本大学総長勲一等医学博士鈴木勝書」とある。左側面には「昭和五十一年四月二十八日 日本大学理□ 医学博士 □野一 建立」と(読み間違い容赦下さい)。さて、石碑の辺りから脇に立ち入ると、下り道の石段があり、降りていく。石は整形に切られており、最近整備された道のようだ。不動明王様は、東日本大震災の後、今は北村の高福寺に移されているのだそうだ(下記サイト)。なお、上の画像でお堂前の高台に至る手前から、下の沢に降りる階段がある。湧き水の場所に降りるためだろうか。・宮城の旅 旭山・石巻市サイト 県立自然公園旭山訪問日 2024年4月14日■今回訪問の記事・旭山(石巻市北村)を訪れる(その1 桜と眺望)(2024年04月14日)・旭山(石巻市北村)を訪れる(その2 神社、観音堂など)(2024年04月14日)
2024.04.14
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夏のような暖かさで、桜もほころびた県立自然公園旭山。のぼってみました。大鳥居のわきの広場になぜかヤギさん。さて、山頂にのぼる急な坂道。下の画像からさらに進んでいくと、地元の方々だろうか清掃活動をしておられた。山頂にあるやや新しめの説明版。読んでみる。------------県立自然公園 朝日山 旭山は標高174m、山頂からの眺望はすばらしく、春は桜の名所として広く親しまれている。 大正の初期、豊富な芝が生えるこの山野を名所にすべく、私財を投じ、整備に傾注したのが斎藤荘次郎氏である。 昭和8年、皇族東久邇宮殿下が登臨なされるなど由緒ある公園である。昭和10年旭山観音堂が建立され、昭和15年12月16日、県立自然公園として旭山が松島に次いで2番目に指定された。 現在は、地元の愛護団体等が清掃活動などを行い、大事に守り続けている。平成27年9月 宮城県 観光課------------桜が青空のもと、見事に咲いている。眺望がまた、すばらしい。最初のは、南郷・木間塚方面か。前谷地・和渕の方向だろうか。以下は石巻市街地を望んでいる。拡大した画像を続けるが、日本製紙工場のさきに浮かぶのは、田代島だろうか。・宮城の旅 旭山・石巻市サイト 県立自然公園旭山訪問日 2024年4月14日■今回訪問の記事・旭山(石巻市北村)を訪れる(その1 桜と眺望)(2024年04月14日)・旭山(石巻市北村)を訪れる(その2 神社、観音堂など)(2024年04月14日)
2024.04.14
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4月11日のニュースで、浪江町大堀地区で大堀相馬焼の登り窯に実に14年ぶりに火が入ったという報道があった。以下は、NHKの報道内容のポイントだ。------------・浪江町に伝わる国指定伝統的工芸品の大堀相馬焼の産地で、原発事故の影響で途絶えていた伝統的な登り窯による作品を焼く作業が、14年ぶりに行われた。・大堀相馬焼は、大堀地区に300年以上前から伝わる。繊細なひびの模様や馬をあしらった絵柄などが特徴。・避難先で活動するなどしている窯元の組合は、昨年、事故前の恒例行事登り窯まつりを来月3月に復活させることを決め、まつりで展示する作品を伝統的な登り窯で焼く作業を11日から始めた。・地震で壊れ昨年再建した窯に、11日朝6時に窯元2人が火を入れ、薪をくべた。・焼くのは地元の子などの作品約800点。13日昼まで7人の窯元とボランティアが交替で温度を調整する。・「休閑窯」の半谷秀辰さん(談話)。・大堀相馬焼協同組合理事長で「半谷窯」の半谷貞辰さん(談話)。------------このニュース映像をTVで見ていて、アッと声をあげそうになった。湯呑かカップが映し出されたのだが、深い青緑色の器の上半分には細かいひび割れのような模様が見え、濃く彩られた下半分は内外の二重構造で外側に小さな窓がいくつか開いている。これが、子どものころ家にあった記憶の中の湯吞みと一致したからだ。祖父が使っていたような気がする。なお、河北新報の記事(12日)もあり、ポイントは以下。------------・大堀相馬焼協同組合の半谷貞辰理事長が展示施設「陶芸の杜おおぼり」の登り窯に火を入れた。・窯の中には町内の児童や住民が作った品や、大堀相馬焼職人の作品を入れた。・焼いた作品は、5月3日-5日に同施設で開催される「大せとまつり」で展示する。・大堀相馬焼は300年を超える伝統を有する。・浪江町によると、大堀地区を中心に26軒の窯元があった。原発事故で全員避難。その後、県内外の避難先で12軒が再開。昨年3月の避難指示解除で1軒が大堀地区に帰還した。------------福島県には、国指定の伝統的工芸品が5品目ある。(福島県サイト)・会津塗・会津本郷焼・大堀相馬焼(昭和53年国指定、平成9年3月31日福島県伝統的工芸品指定)・奥会津編み組細工・奥会津昭和からむし織(会津郷からむし織)大堀(おおぼり)相馬焼は、相馬藩士半谷休閑(はんがいきゅうかん)の下僕の左馬(さま)によって創始されたという。佐馬が中村で陶器の学び方を学んで帰ると、さっそく井手村〔おだずま註;明治町村制で大堀、井手など8か村が合併して標葉郡大堀村が発足〕の美森(うつくしがもり)で土を発見し、小さな窯をつくり陶器制作に成功。主人の休閑がこの技術を村人に伝える。技術は近隣に広がり、相馬藩の特産物として保護育成され、江戸末期には窯元の数は100戸を超え、北海道から関東関西にまで販路が広がる。明治になり藩の援助がなくなると産地は次第に衰退。大堀相馬焼の特徴は、「青ひび」が器全体の地模様になっていること。青ひびは青磁釉によるもので、主原料となる砥山石は大堀焼産地ただ1カ所にのみ産出する原料だ。また、珍しい特徴として「二重焼」の構造があり、お湯が冷めにくく持ちやすい。・東北経済産業局サイト東北の伝統的工芸品・うつくしま電子事典 半谷休閑大堀地区は浪江町の山側の区域。双葉郡大堀村が昭和の合併で同郡浪江町と統合された。私は、大堀(浪江)は双葉郡なので、相馬中村藩領から外れているのではと一瞬思ったのだが、大堀も相馬藩領だった。明治に発足した双葉郡の名は、標葉と楢葉の2郡を統合したものだが、北部の旧標葉郡は藩政時代に相馬藩の領地である(南部の旧楢葉郡は磐城平藩)。ちなみに、相馬郡も明治の発足で、宇多郡(現相馬市、新地町)と行方郡(現南相馬市、飯舘村)が統合されたものだった。なお、旧宇多郡でも、今の新地町(駒ヶ嶺以北)は仙台藩領であった。福島県浜通りの歴史は、よく勉強しておきたい。浪江は磐城寄りのようにも感じるが、地図では茨城県境よりむしろ宮城県境に寄っている。
2024.04.13
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先日も、石ノ森章太郎の出身でないのに石巻市がなぜマンガッタンなのか?的な話を受けた。たしかに、石ノ森章太郎の生家は登米市石森だ。石巻市の北上川河口にある中洲の中瀬には昭和24年から映画館を営業している岡田劇場があり、石ノ森少年は高校時代通っていたという。そんな石巻に思い入れの深い同氏に、1995年に石巻市長が石巻の活性化の協力を依頼し、石ノ森氏が快諾。翌年、市は石巻マンガランド構想を打ち立てる。岡田劇場のあった中瀬には2001年石ノ森萬画館が建てられ、その中瀬には石ノ森氏によってマンガッタン島の愛称が付けられた。じつは、氏は昭和36年に23歳で70日間の世界旅行に出かけたが、アメリカにも3週間滞在しニューヨークのマンハッタン島にも行っている。長さ約20kmのマンハッタン島と、北上川河口の600メートルほどの中瀬とはサイズこそ違うが、細長く伸びた形はよく似ている。■参考 木村浩二監修『意外と知らない宮城県の歴史を読み解く!宮城「地理・地名・地図」の謎』実業之日本社、2014年
2024.04.11
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かなり前の記事で、三八、上十三、上北下北、東西南北中の津軽郡、十三湖などなど、方位や数字の組み合わせ地名が豊富な青森県は、抽象的幾何学的コンビネーション地名では絶対に世界一だ、と書いた。(青森県東部の地理概説(三八、上十三などの意味)(09年8月1日))東北の経済界を長らく牽引された黒田四郎さんの著作を読んでいたら、青森県の地名について書いておられた。以下に引用してみる(一部を算用数字に変換しました)。■出典 黒田四郎『東北見聞録:歩く・会う・語る・住む』八朔社、1997年(東北通商産業局「東北通産情報」の連載エッセイをもとにしたもの。ここで引用したものは、1988年4月号が初出。)------------ あるとき、青森県の市町村を調べていたら、名前の中に数字がある市町村が多いことに気がついた。数えてみると、下北半島の南の方から、三戸、五戸、六戸、七戸、八戸、十和田、十和田湖、百石、三沢、六ヶ所、と10個あり、津軽半島の方に五所川原と三厩と2個あって12個となる。12コといえば、「十二湖」という湖が青森県にあるのも面白い。 それに加えて市浦は昔は四浦といったという話がある。もしそうならば13個となる。13個といえば、不思議なことに青森県には、「十三湖」という湖もある。 青森県の市町村は67あるので、数字の入った市町村の占める割合は、20%になる。日本の各県のなかで、このように名前の中に数字がある市町村が13個もある県、そしてまたその割合が20%もある県は、ほかにないようである。 最近各県が日本一を競う風潮にあるようであるが、それならば青森県は、これを日本一と数えあげてはどうであろうか。 ところで、このことをかつて、青森に勤務したことのある同僚のTさんに話したところ、数字はデジタルであるから、「それならば、青森県は”デジタル県”ですね」という言葉が返ってきた。面白い発想であり、私はこれを頂戴することにした。------------おだずま編集長の発想と同じような、といっては大家に失礼かも知れないが、このような見方をされていたことに非常にうれしく感じた。共鳴しながら、時代を超えた「対話」のつもりで読んでいた。■関連する過去の記事 十三の読み方 再論(2015年5月26日) 十三(じゅうさん)湖と十三(とさ)湊、とさの語源(2013年7月14日) 「三八地方」を考える(再論)(2011年12月4日) 五能線の名の由来を考える(10年5月24日) 青森県東部の地理概説(三八、上十三などの意味)(09年8月1日) 南部の戸(へ)の地名(07年12月17日)
2024.04.10
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県道3号塩釜吉岡線の東を並行する小西川の土手沿いの小径に、立派な赤い鳥居がある。地図には天満宮とある。『宮城縣黑川郡誌(完)』(黑川郡敎育會、大正13年)には、村社天神社として、次の記載がある。村社天神社 鶴巢村太田字川原田に在り。祭神 菅原道眞由緒 勧請年月を詳にせず明治5年1月村社に列す境内に神明社あり幕柳八幡社外6社を合祀す其神社及び年月左の如し(1)幕柳字廣畑村社八幡神社 明治43年5月21日指令(祭神、由緒を略。以下、関場神明社以降を除き同様)(2)幕柳字砂子田無格社愛宕神社 明治43年5月31日指令(3)幕柳字石ノ澤無格社熊野神社 明治43年5月13日指令(4)幕柳字宇津野無格社神明社 明治43年5月13日指令(5)小鶴澤字堰塲村社神明社 明治42年11月17日指令祭神 天照皇太神由緒 不詳 明治5年1月 村社に列す(6)小鶴澤字上ノ澤無格社南龜稻荷神社 明治42年11月17日指令祭神 倉稻魂命由緒 不詳(7)山田字土井下村社神明社 明治42年10月2日指令祭神 天照皇太神由緒 不詳 明治5年1月村社に列す(一部新字体にしました。番号はオダズマ振付け)明治初年にこの天神社(天満宮)が村社とされ、明治後期の合祀政策により付近の7つの神社をまとめたという。(5)小鶴沢神明社と(7)山田神明社は、小字名が合致するので、今回の探訪で訪れた(下記記事)神社のことで間違いないだろう。(6)の小鶴沢字上ノ沢の稲荷神社とは、訪問した稲荷神社(下記記事)のことだろうか。現在の小字名で上の沢(かみのさわ)は、神明社の町道をはさんだ南側のあたりで場所が離れているので、違うような気がする。(1)から(4)は旧幕柳村の神社。今回の探訪では行かなかったが、(1)は県道3号沿いで地図に載っている。■関連する過去の記事(明治の神社統合) 神社の多い福島、少ない岩手(2014年2月9日)訪問日2024年4月4日午前■この日の訪問の記事 天満宮(大和町鶴巣太田)(2024年04月09日) 神明社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月08日) 稲荷神社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月07日) 神明社(大和町鶴巣山田)(2024年04月06日) コミュニティセンター山田(大和町鶴巣山田)(2024年04月05日) 黒川神社(大和町鶴巣北目大崎)(2024年04月04日)
2024.04.09
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県道3号塩釜吉岡線を利府しらかし台から北上して、大和町に入り丹勝ゴルフ場の信号で右折して大郷町に進む。この町道は何度も通っているが、路傍の小高い丘に鳥居がみえる。神明社だ。民家の裏庭を崖下に見下ろす位置にあるので、恐縮しながら幅の狭い石段を登り、杉林の中のお社に参詣させていただいた。前回記事の稲荷神社は、この付近からさらに別の町道に入ってすぐの位置にある。『宮城縣黑川郡誌(完)』(黑川郡敎育會、大正13年)には、村社天神社として、次の記載がある。村社天神社 鶴巢村太田字川原田に在り。祭神 菅原道眞由緒 勧請年月を詳にせず明治5年1月村社に列す境内に神明社あり幕柳八幡社外6社を合祀す其神社及び年月左の如し・幕柳字廣畑村社八幡神社 明治43年5月21日指令(祭神、由緒を略。以下、関場神明社以降を除き同様)・幕柳字砂子田無格社愛宕神社 明治43年5月31日指令・幕柳字石ノ澤無格社熊野神社 明治43年5月13日指令・幕柳字宇津野無格社神明社 明治43年5月13日指令・小鶴澤字堰塲村社神明社 明治42年11月17日指令祭神 天照皇太神由緒 不詳 明治5年1月 村社に列す・小鶴澤字上ノ澤無格社南龜稻荷神社 明治42年11月17日指令祭神 倉稻魂命由緒 不詳・山田字土井下村社神明社 明治42年10月2日指令祭神 天照皇太神由緒 不詳 明治5年1月村社に列す(一部新字体にしました)堰塲村社神明社が、今回訪問した社であろう。今の表記だと鶴巣小鶴沢字関場になる。また、最後の山田字土井下神明社は今回訪問した(下記記事参照下さい)県道3号沿いの神社で間違いないだろう。小鶴沢字上ノ沢の稲荷神社とは、訪問した稲荷神社(前回記事)だろうか。現在の小字名だと少しズレているが。訪問日2024年4月4日午前■この日の訪問の記事 天満宮(大和町鶴巣太田)(2024年04月09日) 神明社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月08日) 稲荷神社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月07日) 神明社(大和町鶴巣山田)(2024年04月06日) コミュニティセンター山田(大和町鶴巣山田)(2024年04月05日) 黒川神社(大和町鶴巣北目大崎)(2024年04月04日)
2024.04.08
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通ることのなかった町道に入ってみると、小さな神社の鳥居が。脇には土地改良事業の記念碑があり、子孫に美田を残したことが記されていた。訪問日2024年4月4日午前■この日の訪問の記事 天満宮(大和町鶴巣太田)(2024年04月09日) 神明社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月08日) 稲荷神社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月07日) 神明社(大和町鶴巣山田)(2024年04月06日) コミュニティセンター山田(大和町鶴巣山田)(2024年04月05日) 黒川神社(大和町鶴巣北目大崎)(2024年04月04日)
2024.04.07
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県道3号塩釜吉岡線を利府しらかし台から大和町に入って進んで、二つ目の信号のある交差点。西に分かれると富谷市大亀山方面。階段を登っていくと、高台に3坪ほどの建物。おそらく、お社を取り囲むように作ったようだ。なお、この交差点のちょっとだけ手前にコミュニティセンター山田がある(前回記事)。訪問日2024年4月4日午前■この日の訪問の記事 天満宮(大和町鶴巣太田)(2024年04月09日) 神明社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月08日) 稲荷神社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月07日) 神明社(大和町鶴巣山田)(2024年04月06日) コミュニティセンター山田(大和町鶴巣山田)(2024年04月05日) 黒川神社(大和町鶴巣北目大崎)(2024年04月04日)
2024.04.06
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何度も通っている県道(3号塩釜吉岡線)沿いにあるがさほど気に留めていなかった。はじめて車を停めて眺めてみた。建物の妻にデザインされたcYcは、コミュニティセンター山田の意味か。消防小屋が併置されていた。眼前を黒い小さな一羽がスーッと飛んで行った。よくみると、ツバメの巣があるのだった。ずいぶん久しぶりにツバメを見た気がする。大和町の例規集をネットでみたが、吉岡コミュニティセンター、南部コミュニティセンター(杜の丘)、吉田コミュニティセンターについてはそれぞれ条例等があるが、「コミュニティセンター山田」はないようだ。町立ではなく自治会の施設なのか。選挙の投票所にはなっているようだ。訪問日2024年4月4日午前■この日の訪問の記事 天満宮(大和町鶴巣太田)(2024年04月09日) 神明社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月08日) 稲荷神社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月07日) 神明社(大和町鶴巣山田)(2024年04月06日) コミュニティセンター山田(大和町鶴巣山田)(2024年04月05日) 黒川神社(大和町鶴巣北目大崎)(2024年04月04日)
2024.04.05
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黒川神社を訪れた。「東方乃薬師 黒川神社 参拝のしおり」から------------【黒川神社御由緒】 当社の起源は多賀城の鎮守府将軍大野東人の流れをくむ黒川郡三ヶ内城主報恩寺可則(よしのり)が仁和年間(885-889)智証大使(ちしょうだいし)の作になる薬師の像を霊験あらたかな当所にお祀りしたことに始まると伝えられています。 この薬師像は、永承年間(1046-1053)源義家が東征に際し尊崇して「袖振薬師」と称しました。 安永年間の風土記(1774)によれば、この薬師像は「功徳山八聖寺」と言われ、黒川郡を領していた黒川晴氏が特に「東方の薬師」と称し崇敬されました。 明治元年になりますと、新政府によって神仏分離令が発せられ、同5年薬師堂は村社「黒川神社」となりました。 旧社殿は前出の風土記によれば三間四面の堂宇とあり、現在の社殿は明治11年に起工、同13年竣功されたもので、用材はすべて境内周辺の木材が充てられ、建設当時は本殿・幣殿は木羽葺、拝殿は茅葺屋根でした。 昭和3年、無格社・住吉神社が合祀されました。【御祭神と御神徳】 御祭神は薬師如来と通ずるところから「少彦名命」(すくなひこなのみこと)が祀られています。 命は『古事記』では神産巣日神(かみむすびのかみ)、『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子で、大国主命の国土経営に助力し、貢献されました。また、医療・医薬・温泉・禁厭(まじない)・酒造の道に優れた神でもあります。 薬師如来は衆生のあらゆる病気・災難を取り除く役割を担っていたとされ、氏子崇敬者は今もって「お薬師様」とも呼び、家内安全・病気平癒・無病息災・災難防除・商売繁盛・子育て・交通安全・学業成就等を祈願しています。【仁王尊】 仁王尊は仏法の守護神であり、寺門の左右に寺門神として仁王像が立てられることが多く「金剛力士像」と言われます。 向かって左の那羅延(ならえん)金剛は口を開いた「阿形」、向かって右の密迹(みつしゃく)金剛は口を閉じた「吽形」に表されます。《阿吽の呼吸》 3尺2寸の本尊に対して仁王尊は6尺8寸と大きく、昭和60年解体修理の際に「永享4年(1432)再興勧進」という胎内の記述が判明しました。 桧の寄木造りで、子どもがその股をくぐると「はしか」が早く治るという言い伝えがあり、無病息災を願う人に親しまれています。 現在の仁王堂(鞘堂)は昭和60年に建立されたもので、元は本殿に安置されていて明治15年4月より現在の位置に新築された記録があります。 また、仁王像後方に祀られております十二神将は1尺8寸でやはり智証大師の作と伝えられ、薬師如来の「十二の大願」を護持するための守護神です。------------黒川神社は明治以前は「薬師堂」として1200年もの歴史を持っているが、その間火災にも会わず奥の院に当初からの薬師如来が祀られている。明治になって神社になり、薬師如来と一致する少彦名神が御祭神として祀られることになった。(社報黒川神社第24号から)訪問日2024年4月4日午前■この日の訪問の記事 天満宮(大和町鶴巣太田)(2024年04月09日) 神明社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月08日) 稲荷神社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月07日) 神明社(大和町鶴巣山田)(2024年04月06日) コミュニティセンター山田(大和町鶴巣山田)(2024年04月05日) 黒川神社(大和町鶴巣北目大崎)(2024年04月04日)
2024.04.04
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岩切の入山から、住宅街の車道を県民の森中央公園に登っていく途中に、岩切城跡の説明版がある。------------史跡 岩切城跡 指定年月日 昭和57年8月23日 別名を高森山、鴻の館(こうのたて)とも伝えられる。仙台市岩切入山と利府町神谷沢にまたがり、急峻な地形を生かした典型的な中世時代の山城である。 平泉藤原氏の滅亡後、源頼朝は重臣伊沢将監家景(いさわしょうげんいえたて)を陸奥国の留守職(るすしき)に任じた。伊沢氏は留守姓を名乗り、岩切城を居城とする。七北田川の水運にも恵まれたこの地は、東北地方の政治、経済の中心地として大いに栄えた。貞和2年(1346)、足利尊氏は奥州管領(かんれい)として吉良貞家(きらさだいえ)、畠山国氏(くにうじ)を任命するが、足利家内部で兄尊氏と弟直義(ただよし)の対立が激化すると、両者も二派に分れて争うことになる。留守氏は畠山氏、宮城氏とともに尊氏側に加担したが、正平6年(1351)ここ岩切城での合戦に敗れ、岩切城は落城、留守氏は衰えた。 その後、留守氏は伊達氏と親族関係を結んで勢力を回復、藩政時代は水沢に1万6千石を領し、一門格に列せられた。なお、岩切城は元亀(げんき)年間、留守氏が居城を利府城に移すとともに廃城となっている。(航空写真があり、その説明)高森山を中心に、頂上や尾根を平に削り出して、数多くの平場を構えている。各平場は空堀で区画され、あるいは土橋で結ばれている。(書状の画像があり、その解説)岩切城の合戦に際し、野田盛綱(もりつな)が吉良方に属したことを示す文書(軍忠状)。留守氏が徹底的な打撃を受けたことが文中に見えている。(鬼柳文書)------------城跡に登る。仙台市中心部や、岩切、利府方面がよく望める。利府町神谷沢の東雲院の近くからも、城跡に登る道がある。畑の中を進む道はすぐに杉林に囲まれた坂道になる。史跡の区域に入ったからなのか石標がある。とうはつの森という看板がある。やがて、空が開けて平場に出る。シダレ桜が咲き始め。利府方面の新幹線の高架がよく見えた。ここにある説明板。高森山頂に近いはずだが、利府町域なのだろう。利府町教育委員会と記されている。読んでみる。------------岩切城跡(高森城跡) 仙台市岩切と利府町神谷沢にまたがり、自然地形を生かした典型的な中世の山城です。 平泉藤原氏の滅亡後、源頼朝は重臣伊沢将監家景を陸奥国留守職に任命しました。伊沢家は留守姓を名乗り、岩切城を居城としました。七北田川の水運にも恵まれたこの地は、東北地方の政治、経済の中心地として大いに栄えました。貞和2年(1346年)、足利尊氏は奥州管領として吉良貞家、畠山国氏を任命します。足利家内部で兄尊氏と弟直義の対立が激化すると、両者も二派に分かれて争うことになりました。留守氏は尊氏側に加担しましたが、正平6年(1351年)の観応の擾乱にてここ岩切城での合戦に敗れ、岩切城は落城、留守氏は衰えました。 その後、留守氏は伊達氏と親族関係を結んで勢力を回復し、藩政時代は水沢に1万6千石を領し、一門格に列せられました。なお、岩切城は元亀年間、留守氏が居城を利府城に移すとともに廃城となりました。平成21年12月 利府町教育委員会------------仙台市側の説明板に比較して、ですます体と若干の送り仮名の異同のほかには、「観応の擾乱」の語が入っている。去年よりはだいぶ遅れたが、仙台でも桜開花と報道された。早い遅いはあっても毎年毎年、花は咲く。何百年前の合戦に思いを馳せながら、陽気に包まれた散策だった。(4月2日午後)■関連する過去の記事(中世の岩切周辺) 中世宮城の名族たち(その2)(2016年12月26日) 中世宮城の名族たち(その1)(2016年12月23日) 中世の郡、保、荘と宮城郡の特殊性(その2)(2012年5月6日) 中世の郡、保、荘と宮城郡の特殊性(その1)(2012年5月6日) 東北の「館」を考える(2011年9月25日)(宮城の古代・中世の「館」) 中世の留守氏(10年9月21日) 国分氏と仙台平野の名族たち(09年8月9日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日)■関連する過去の記事(もう少し広く、岩切・燕沢・東仙台など) 比丘尼坂(2023年09月05日) 大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日) 御立場町(2023年09月02日) 小鶴城跡(2023年09月01日) 南口新設 変わるか岩切駅周辺(2016年2月14日) 七北田川の自転車道、中野小学校、日和山(2015年11月22日) 今日の七北田川(2015年9月13日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 四野山観音堂(2013年4月2日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 茨田踏切(2011年12月31日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 松原街道(07年8月18日) 漂泊の旅 岩切「おくのほそ道」(06年11月4日) 燕沢の名前(06年3月17日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2024.04.02
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丸森町の神明社。裏手の高台。みはらし畑で手入れをしておられる方に挨拶して、街を見下ろしてみた(丸森中学校、R113舘矢間バイパス丸森大橋)。ここは宮城県でもっとも早く桜が咲くと聞いた。穏やかな初春でした。(3月28日午前)
2024.03.31
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薬師十二社を訪れた。県道塩釜亘理線の亘理大橋(阿武隈川渡河)の西方、東部道路より少し内陸側になる。初春のやわらかで伸びやかな空気に包まれていました。鳥居をくぐると境内には遊具。堂宇の裏には集会所があり、東側は竹林。説明版があったので読んでみます(原文縦書き)。------------亘理町指定文化財(昭和57年5月1日指定)毘沙門天(びしゃもんてん)木像 毘沙門天木像は、本尊薬師如来、十二神将(じゅうにしんしょう)とともに堂内に納められている。高さ80センチメートルの一本彫りで、作者は不明であるが、鎌倉時代後期(約700年前)の作とみられる。 この像の形と線には、素朴ながら古風な面影が残り、優れた作品である。 毘沙門天は、仏教では四天王の一つで、多聞天といわれ、多くの鬼神等を統率し、仏法を守護し、福徳と子宝を授ける神である。 形像(けいぞう)は忿怒(ふんぬ)の相を表し、甲冑を着け、左手に宝塔(ほうとう)、右手に宝棒(ほうぼう)を持っている。 わが国では七福神の一つである。 平成17年9月1日 亘理町教育委員会------------「亘理町文化財マップ:亘理の歴史巡り」(令和5年3月、亘理町教育委員会発行)には、次のように書いている。------------毘沙門天木像(蕨薬師堂)木像一本造りで高さ約80cm、鎌倉時代後期の作品。本尊薬師如来、十二神将と共に堂内に納められており、12年に1回、寅年に開帳されます。町指定文化財。【住所】亘理町逢隈蕨字福田92------------薬師十二社のすぐ南に、厳島神社という小さな祠がある。次の写真は南側から両社を望んだもの。薬師十二社の大きな鳥居が、椿の樹に隠れています。訪問の契機はひと月ほど前カーナビで不思議な地名が目に留まったから。十二神を祀る社を中心に方角にあわせて地名を付けた(おそらく耕地整理後に)と考察した。■以前の記事 十二支と天地人(亘理町)(2024年03月12日)ちなみに、カーナビでは薬師十二神と表記され、マークが卍ですね。■関連する過去の記事 大崎市の戦中地名(2024年03月20日)=耕地整理で振り付けた地名 合併と広域地名(名取市、柴田町、本吉町、宮城町など)(2024年03月19日) 十二支と天地人(亘理町)(2024年03月12日)=蕨薬師堂周囲は方角地名か 亘理町を知る(地域区分、大字など)(2024年03月10日) 地名(市町村名)の付け方の類型論(2024年03月05日)=方角地名、瑞祥地名など
2024.03.30
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市町村合併と広域地名について何度か書いたが、例えば名取郡における名取町(名取市)の命名を岩沼町はどうみただろうか、などと余計なお世話で考察したりしてみる。ここで、市町村合併と命名の経緯を振り返る。●明治22年町村制施行(現在の岩沼市及び名取市の地域) ・岩沼町 ←(単独)岩沼本郷 ・玉浦村 ←下野郷村、押分村、早股村、寺島村 ・千貫村 ←北長谷村、南長谷村、小川村、志賀村、長岡村、三色吉村 ・増田村 ←増田村、田高村、手倉田村、上余田村、下余田村 ・東多賀村 ←閖上浜、牛野村、大曲村、小塚原村、高柳村 ・下増田村 ←下増田村、杉ケ袋村 ・館腰村 ←植松村、飯野坂村、堀内村、本郷村 ・愛島村(合成地名) ←北目村、塩手村、笠島村、小豆島村 ・高館(舘)村 ←吉田村、川上村、熊野堂村●明治29年 増田町(町制施行)●大正4年 茂ケ崎村が長町に(町制、改称)●昭和3年 東多賀町が閖上町に(町制、改称)。長町が仙台市に編入●昭和22年 亘理郡逢隈村の阿武隈川以北(吹上地区)を編入●昭和30年 3町村合併により岩沼町●昭和46年11月 岩沼市(市制施行)振り返ると、明治22年町村制の際に、名取郡下で町を名乗ったのは岩沼だけ。遅れて増田村が町に昇格したのが明治29年、茂ケ崎村が長町になったのは大正4年だ。 昭和30年に合併で成立した名取町が、市に昇格したのは昭和33年10月で、岩沼より10年以上早い。今や駅名も名取で旧名取郡の中心だったかのようだ。たしかに、藩政時代には名取郡南方の会所が置かれ(北方は長町)、名乗る資格有りと言えそうでもある。 かたや岩沼から見れば、奥州街道と浜街道の分岐する重要な宿場で武隈の郷に竹駒神社もある、岩沼本郷から岩沼町に昇格は増田村より早く、郡制廃止後には県の名取亘理地方事務所が置かれ中心性は十分、自分たちは誇り有る岩沼を名乗り続けるが、郡名(広域地名)を増田や閖上が称するのはいかがなものかと異議もあったのでは(おだずまジャーナル勝手な憶測です)。岩沼町立だった岩沼高等女学校を戦後新制の県立高校にする際に、一時的ではあるが岩沼町が中心となり学校組合を作った。組合には、閖上町、増田町などにとどまらず、逢隈村(亘理郡)、槻木町(柴田郡)も加入している。校名を岩沼とせず名取高等学校としたのは広域地名的な命名だが、岩沼町が地域の子女の教育にかけてきた熱意はまさしく中心性が高いと大いに評価したい。■関連する過去の記事(名取高校の経緯) 組合立だった名取高校、岩ヶ崎高校、岩出山高校など(2024年03月21日)■関連する過去の記事(合併と広域地名、名取と岩沼の関係など) 合併と広域地名(名取市、柴田町、本吉町、宮城町など)(2024年03月19日) 地名(市町村名)の付け方の類型論(2024年03月05日) 丹取郡と名取(10年3月17日)
2024.03.22
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岩沼市にある名取高校は、女学校としてスタートし、戦後は学校組合立を経て県立に移管された。同様の動きは県内各地にみられ、その経緯をたどると、子女の教育の充実を図ろうとする地域の熱意と新制高校づくりに向けた県と市町村の連携の足跡が知られる。1 実科高等女学校(『岩沼市史』(昭和59年1月、岩沼市史編纂委員会)から当ジャーナル要約。以下2、3も同じ。) 実科高等女学校の制度は明治43年にできた。女子教育の進歩発展に伴い、各郡市の中心小学校内に実科高等女学校の設置を要望する気運があった。修学のために父母から遠く離れることなく、学校と家庭の連絡を密接にしようとするもの。入学資格は、12歳以上で尋常小学校卒業程度以上の学力。修業年限は4年(尋常小学校卒程度)、3年(高等小学校1学年修了程度)、2年(高等小学校卒業程度)とされ、高等小学校に併置する場合に限って許可された。2 岩沼実科高等女学校の経緯 ・明治32年 岩沼小学校に裁縫専修科を付設 ・明治33年 補習科と改称。 ・明治43年 町立岩沼実業補習学校創立。修業3か年、男49女59 ・大正13年(1924) 町立岩沼実業補習学校女子部が昇格して、岩沼実科高等女学校を岩沼小学校内に設置する。 生徒 岩沼91人、玉浦16人、千貫18人、他に愛島、館腰から19人 ・昭和18年 宮城県岩沼高等女学校と改称3 戦後の高校昇格と県立移管 昭和23年4月新制高校の昇格が認可され、男女共学の町立高校となる。このとき、岩沼外10カ町村による学校組合が組織された。 参加町村は、岩沼町、閖上町、千貫村、玉浦村、館腰村、愛島村、下増田村、逢隈村、槻木町。昭和23年11月に増田町が加入する。(おだずま注:市史の文中には「岩沼外十か町村の組合立」と記載がある。しかし、年表中に記載された参加町村は上記の通りで数えると1つ足りない。岩沼町を含む10か町村、という意味(本文が誤り)なのか、それとも年表の中の列挙に1つ(高館村か)の記載が漏れたのか、いずれかと思われる。) 新制高校として存続の危機に遭遇したものの「名取高等学校(仮称)設置要望の趣旨」に躍如として記されている。「仙南四郡の広きに亘る一般大衆の憧憬と思慕とを集めてきた我が岩沼高等女学校の宮城県立高等学校昇格は、私どもの心から熱望するところである」 昭和24年、学校用地として日東産業岩沼工場の敷地建物を買収。町立、組合立を経て、昭和25年4月県立に移管。男女共学の学区内唯一の普通高校であった。定員は全日制451人、定時制507人〔おだずま注、名取高校HPによると昭和25年県立移管時の定員男女600人〕、3分校を設置(玉浦、増田、館腰)。4 学校組合立と県立移管 佐々久『近代みやぎの歩み』(宝文堂、1979年)には次のように記されている(p157-、一部要約と下線おだずま)。------------ 戦後の物価高や土建関係の多忙、食料欠乏と買い出しなどの混乱が続いた。この時期に、岩沼、岩出山、岩ヶ崎、飯野川に4つの高等学校が町村組合立で静かに開校され、数年ならずして南郷農学校と共に県立に移管された。名取、玉造、桃生の3郡には県立高校がなかった。栗原の西部にも高校がなかった。この地理的情勢に着眼した一視学が、高等小学校に附属していた廃校の運命にある、町立実科女学校を高校に昇格することを考え、各町に出向いて説きまわった。 当時の飯野川の五島町長、佐藤カゴ屋の主人、高良印刷店主、岩沼の森喜吉前市長、当時の石垣町長、岡崎元町長、岩出山の富岡小学校長、髙橋源治医師(現古川市)、坪井亘先生、岩ケ崎の千葉惣小学校長、太宰作右衛門元町長、三浦薫、岩林豊平氏、各関係町村の議員諸氏の当時の努力の様子が思い出される。南郷農学校県立移管に当っては、県会議員諸氏が大勢で視察にでかけた。米所南郷で餅ぶるまいをうけたという話もきいた。県立移管を最も喜んだのは、創立者の長者野田真一翁であった。 このほか、桃生郡鹿又の実科高女が、髙橋軍治小学校長の不抜の見識により町立高校に昇格し、しばらく後に遅れて県立となった。いまの河南高校である。------------ 佐々先生の説明だと、高等女学校を母体に県立高校を実現したのが、岩沼(名取)、岩出山、岩ヶ崎に加えて、飯野川高校(廃校)、河南高校(現石巻北高校)がある。もっとも河南高校は学校組合をつくらなかったようだ。各町に出向いて回った一視学とは佐々先生ご自身のことかも知れない。それはともかく、名取高校と似た事例が宮城県内で他にもあるのだ。県としては、県立にするためには単独町だけでなく周辺の村ともよく協議調整して体制整備と施設整備を求めたのだろうか。 次に、『宮城県教育百年史 第三巻 昭和後期編』(昭和50年3月、企画編集宮城県教育委員会)から、関連する記載を探してみたので、下に掲げる(おだずま要約と下線)。------------【組合立高校や県立移管に関して】 昭和23年3月31日告示第111号によって、4月1日県立高等学校を36校設置することが定められた。36校は、男子主の普通科9、女子主の普通科11、農業科10、水産科2、工業科3、家政科1である。このほか、市町村立、組合立の高校としては、仙台高校(以下「高校」を略)、仙台工業、仙台商業、仙台図南、塩竈、塩竈女子、石巻商業、石巻家政、大河原、名取、志津川、岩出山、岩ヶ崎、飯野川、鹿又女子、村田、津谷農林などであった。これらの高校のうち、昭和24年度中に県立に移管されたのは、志津川、岩出山、名取、飯野川、岩ヶ崎、津谷農林、大河原の各高校である。【定時制分校に関して】 働きながら学べることから入学者が多かったが、問題を抱えていたのは分校。数が多すぎて、不振の分校もあった。そこで、昭和26年2月「高等学校(定時制課程)分校設置基準」が定められた。 第2 分校設置は市町村又は一部事務組合の地域とする 第3 一分校の6粁以内に既設分校ある場合は、之を廃止して組合立の独立本校を設置することができる。又、新たに分校を設置しようとするときは、隣接町村の修業希望に応じて組合立の独立本校を設置することができる 一方で分校振興のため、分校所在の町村と密接に連絡を取り充実に努めた結果、昭和27年4月には、田尻、米谷、前谷地、矢本が独立して町村立の定時制高校に昇格したのである。------------5 各事例について●岩ヶ崎高校(学校HPから) 昭和16年 岩ヶ崎町立宮城県岩ヶ崎実科高等女学校 →昭和18年 岩ヶ崎町立宮城県岩ヶ崎高等女学校 →昭和23年 岩ヶ崎町立宮城県岩ヶ崎高等学校(男女共学、募集定員200) →昭和25年2月 組合立に移管(1町6村=岩ヶ崎、文字、栗駒、尾松、鳥矢崎、鶯沢、津久毛) →昭和26年4月 県立移管●岩出山高校 『岩出山町史 通史編・下巻』(平成23年11月、発行大崎市、編集岩出山町史編さん委員会)から引用する。一部おだずまで要約と下線。------------ 町財政の厳しい中で、新たに中学校の建設も必要となる上に、高等女学校は廃止してはどうかとの声も出てきた。しかし、教育関係の有識者によって岩出山高等女学校を存続させようとする動きも現れた。町立の高等女学校ではあるが、近隣の玉造郡2町6村から生徒が通学していることを踏まえて、廃止の危機を乗り越えるには、県立に移管することで存続させようとの運動が展開された。昭和21年11月、郡内町村会で県立移管の請願が決定された。 しかし、県立に移管させるためには「新制高等学校実施の手引き」に定められた基準を満たすことが条件であり、校舎の増築が必須の課題であった。昭和22年に町議会や建設促進委員会の活動、それに卒業生のバザーによる募金集めなどを経て、岩出山町議会では新校舎建築を決議し、工事費を予算化。昭和23年2月玉造郡内町村会で、新制高校が(小学校中学校より一年遅れの)昭和23年4月より施行されるまでには県立移管が難しい状況を踏まえ、とりあえず玉造郡内町村組合立としてスタートさせ、費用も分担することなどを決定した。------------ 昭和4年 岩出山町立宮城県岩出山実科高等女学校 →昭和18年 岩出山町立宮城県岩出山高等女学校 →昭和23年4月 組合立に移管(玉造郡2町6村) 「玉造郡二町六ヵ村組合立宮城県岩出山高等学校」となる。組合構成町村は、岩出山町、鳴子町、東大崎村、西大崎村、一栗村、真山村、川渡村、鬼首村。必要経費は岩出山町が50%を、郡内他町村が50%を負担することとした。川渡(中学校)、真山(小学校)に分校設置。(上掲町史から) →昭和24年4月 県立移管●飯野川高校 『河北町誌 下巻』(昭和54年8月、著者河北町、編者河北町誌編纂委員会)には各学校の年表が掲げられている。飯野川高校の部分から一部を引用する。おだずま要約と下線。------------ 昭和2年 飯野川高等女学校(本科57名入学) 昭和4年 補習科設置 昭和23年 新制高等学校として認可(組合立)、管理者として飯野川町長五嶋三右衛門引継を施行。4月宮城県飯野川高等学校開校。定時制を設置、大川、中津山、二俣に定時制分校。 昭和25年3月 校舎移転(飯野川旧屋敷元桃生郡役所跡)、4月県立移管公布。 昭和26年 定時制二俣分校廃止、定時制十三浜・桃生分校認可 昭和34年 定時制桃生分校と中津山分校を廃止し桃生町分校設置 昭和40年 大川分校廃校 昭和41年 桃生町分校廃校------------ 飯野川高校の学校組合構成町村はわからなかったが、分校のあった桃生、中津山、二俣、大川、(本吉郡)十三浜などが参画していたのではないか。 なお、平成22年閉校し、校舎は現在、石巻北高校飯野川校である。●河南高校(現石巻北高校) 『河南町史 下巻』(平成17年、編集河南町史編纂委員会、発行宮城県河南町)から、経緯をまとめてみた(おだずま要約、下線)。------------ ・大正13年12月 宮城県鹿又実科高等女学校として認可。 本科2年、補習科1年、専科1年。定員120名。 鹿又村素封家高橋三郎が女子教育の重大さを認め、資産を寄附創設。 ・大正14年4月 鹿又小学校の一部を使用し開校 ・昭和18年 高等女学校令改正により宮城県鹿又高等女学校となる。本科2年、専攻科1年。定員300名。 ・昭和21年4月 学制改革で修業年限3カ年となる ・昭和23年4月 学校教育法制定により宮城県鹿又高等学校となる。定時制併置 ・昭和41年 校名変更により、宮城県河南高等学校 (前谷地高校を廃止。県立農事講習所が閉所)1966年(昭和41)までは、鹿又高等学校、前谷地高等学校、農事講習所の3つの高等教育機関が存在した。これらを統合して県立の高等学校を創立しようとする動きが以前からあり、同年4月1日に「宮城県河南高等学校」としてスタートし、1968年(昭43)4月には県立移管が実現したのである。------------ 女学校時代と戦後の鹿又高校は、鹿又村立だったと思われる(鹿又村など5村合併による河南町の成立は昭和30年)。 次に、『河南町誌 上』(昭和42年3月 編集河南町誌編纂委員会、発行河南町)を見てみた。河南高校の創立と県立移管に関して、以下に要点を記す。------------・昭和34年 町議会で校地の購入を可決・昭和35年 PTA校地獲得実行委員会開催・昭和37年 宮城県・鹿又高等学校校地造成促進委員会発足・同 鹿又駅向かいの耕地24枚(8000坪)買収を町議会で採決・昭和39年 町議会で本校新校舎建築予算議決・昭和40年 校舎落成記念式(旧鹿又高校分)・昭和41年 第二期工事竣工(農事講習所分)・昭和41年から町立河南高等学校発足------------ 昭和41年に3施設統合により(形式は鹿又高校の改名で)宮城県河南高等学校が河南町立としてスタートし、43年に県立に移管した。(上記要点抜き書きでは省略したが)上記の『河南町誌 上』には、町側の県への陳情や要望の経緯と、施設を町が整備することを条件に県立に移管する協議が進められた関係資料が収載されている。 なお、平成22年に石巻北高等学校となる。飯野川高校を併合した形である。●米谷工業高校 米谷工業高校は、学校組合の事例として取り上げる。同校の場合は組合立の期間が長い。上記の『宮城県教育百年史 第三巻 昭和後期編』の記載のように、県の基準に沿って、昭和27年に分校から本校に昇格する際に組合立としたもののようだ。 ここで、『東和町史』(昭和62年3月、監修佐々久、編纂東和町史編纂委員会)から関係する部分を読んでみた。以下に(おだずま要約)。------------ 宮城県登米高等学校定時制米谷分校として昭和23年7月、米谷公民館を教場として発足。まもなく米谷中学校を借りての夜間の学習であったが、土日は昼間通学もできた。次第に米谷地区の近隣の地域からも入学者が増加。昭和26年、米谷中と浅水中が合併して米谷中校舎が全面的に空いたので夜間から民間教授への切り替えができるようになった。そこで、同年4月から、昼間週3日授業になる。 独立の気運はこのころから次第に高まり、隣接の米川、浅水、錦織と4ヵ町村による組合立の議がまとまり、県に設置認可申請をし、昭和27年4月米谷高等学校として独立設立が認可された。 定時制課程の独立校となったが、課題は教育課程の検討。地域の農林業に就くものは30%程度に過ぎず、商工業や家庭科が望まれた。また、独立校舎建設の課題は、昭和29年米谷町議会が独立校舎建設を議決、昭和30年7月落成。教育課程も普通科と家政科とした。独立校舎を契機に全日制課程の併置と県立移管の気運もまた高まってきた。 昭和32年5月東和町が発足し、東和・中田両町の組合立高校となったが、議会、組合議会、組合教育委員会等が一体となり県立移管と工業課程(全日制)併置の陳情請願を行った。昭和33年4月、工業課程(機械科)が認可され、生徒は、週6日(1から3年生)、週1から2日(4年生)となり実質的に全日制に。昭和36年4月1日、宮城県米谷工業高等学校が設立認可(機械科、電気科、自動車科)。翌37年4月1日県立移管がなる。------------以上から整理すると、次の通りだ。 昭和23年 宮城県登米高等学校定時制課程米谷分校(米谷町立であろう) →昭和27年 組合立(米谷町、米川村、浅水村、錦織村の4町村)に移管、組合立宮城県米谷高等学校 →昭和36年 組合立宮城県米谷工業高等学校 →昭和37年 県立移管 (平成27年閉校)■関連する過去の記事(組合立学校) 東北の組合立学校(08年6月19日) 明星中は公募による命名だった(10年6月21日)=明星中学校は組合立だった■関連する過去の記事(岩沼と名取の関係) 合併と広域地名(名取市、柴田町、本吉町、宮城町など)(2024年03月19日) 地名(市町村名)の付け方の類型論(2024年03月05日)
2024.03.21
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亘理町逢隈蕨の十二支地名(方角地名)について書いた(十二支と天地人(亘理町)(2024年03月12日))が、耕地整理の際に命名したのではないかと推察した。じつは、昨年参加させて頂いた地名研究会で、耕地整理で字名変更が行われた大崎市の「戦中地名」についての研究報告があったことを思い出したからだった。以下、大崎市の「戦中地名」について。下記文献から当ジャーナル整理。(■鈴木進、鴇田勝彦「大崎市古川大崎を歩く」 宮城県地名研究会『地名』第58号 所収)1 地域の概要 大崎市古川大崎は、次のような経緯をもつ地域である。・明治8年 大崎村←名生村+伏見村・明治22年 大崎村←大崎村+新田村+清水村+下野目村+南沢村・明治29年 (分村)→東大崎村(大字大崎・新田・清水)、西大崎村(大字下野目・南沢)・昭和25年 古川市大崎・平成18年 大崎市古川大崎(↓画像 「大崎市古川大崎」の区域。なお、隣接して「古川清水」「古川新田(にいだ)」の区域がある。) 名生舘(みょうたて)、名生北舘などの字名が残るが、名生館(名生城)は南北朝時代から戦国時代の城で、江合川西岸の段丘の上に築かれた。大崎5郡を領地とした大崎氏の城で1351年に斯波(大崎)家兼が築城したといわれる。〔当ジャーナル注釈〕合併と広域地名の関係論(下記参照)でいうと、大崎氏が居城し、また陸羽東線を挟んで大崎神社もあり、明治初年に大崎村を名乗ったのは、その資格十分ありということだろうか。(参照 合併と広域地名(名取市、柴田町、本吉町、宮城町など)(2024年03月19日))2 耕地整理と戦中地名 東大崎村では昭和17年の耕地整理で大幅な字変更が行われた。ここで下記のような戦中地名が集中的に生まれた。・(古川大崎)朝日、共和、更生、新興、信念、交合、銃初稔、自力、神力、先制、善勝、総力、東亜、日の丸、奉公、富国、報国、躍進・(古川清水)精農、新成・(古川新田)朝日、共栄、興和、銃後稔、十陸稔、末広、世紀、宝稔朝日と共栄を除くと、多くが全国的にみても東大崎村特有の地名である。 これらはあくまで耕地名であり、宅地の字(囲)名はそのまま残った。例えば、「古川大崎字自立」の小字の中の宅地に「古川大崎字伏見新田」が地図で見ると海に浮かぶ小島のように残存する。明治以来、当地域は「名生○○」「伏見○○」という40ほどの字名だったが、耕地整理で戦中地名を含む新字が付けられ、水田などの地域の大部分はこの新しい小字に変わったが、ただし、宅地部分だけは明治以来の字名が残ったという構図である。3 具体例・「報国」 昭和17年に名生西川原と名生新田に生まれた耕地名・「銃初稔」(じゅうはつねん) 昭和18年の意味で、「銃」を使った戦中地名。名生中川原のうち渋井川と陸羽東線に挟まれた水田。・名生上代(わだい)では、「昭和」、瑞祥地名の「弥栄」なども生まれた。・名生六角は、安永風土記にある「六角辻」が語源とみられるが、渋井川を挟んで西に「六角」、東に「共和」の新字名を付けた。前者は「古川大崎字六角」であり、「古川大崎字共和」に囲まれて残る「古川大崎字名生六角」とは別である。・「富国」は伏見樋下の一部、伏見津花立、伏見八反田の新しい耕地名。「善勝」は伏見樋下の8割方についた新字名。なお、平成期の耕地整理で、「善勝」と「富国」の西3分の1が新たに「新善勝」となり、また、「富国」の東3分の2と周囲(更生、東亜、巴、十陸稔、世紀など)は東大崎最大の水田面積を持つ新しい字「富国」となった。宮城県古川農業試験場、農業大学校もここにある。4 なぜ付けたか 15年戦争、なかんずく太平洋戦争時には国民は総動員体制のもと、農村は食糧増産のための耕地整理が緊急の課題だった。これと戦意高揚が結びついて、特にこの東大崎村で戦中地名が集中的に生まれた。誰がイニシアティブをとったか分らないが、村民の支持をかなり得たと思われる。5 補足(当ジャーナル) この研究報告では、現地調査によって「屋号」が多く確認され、伝承、氾濫などにまつわる由来などが非常に興味深かった。鈴木さん鴇田さんの調査に心から敬意を表します。■関連する過去の記事 十二支と天地人(亘理町)(2024年03月12日) 合併と広域地名(名取市、柴田町、本吉町、宮城町など)(2024年03月19日) 亘理町を知る(地域区分、大字など)(2024年03月10日) 地名(市町村名)の付け方の類型論(2024年03月05日)
2024.03.20
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合併による新市町村名に「広域地名」を付したと考えられる宮城県内の事例を考えてみた。ここで挙げた他に、平成の合併の大崎市、栗原市、登米市も広域地名と言えるが、これらは言わば素直な命名でスケール感の齟齬もないだろう。また、前回記した亘理町の場合は、小堤村が領主居住地なので広域地名を名乗る資格があったと思う。(過去の記事 亘理町を知る(地域区分、大字など)(2024年03月10日)を参照ください)。しかし、むしろ興味を抱くのは、地理的範囲や中心性の一般的認識と齟齬をきたしたり混乱を招いたりするケース、具体的には、その広域地名(郡名や旧国名など)の中心地と言えないような一部地域が新町名に採用するような場合である。そんな観点で、宮城県内のケースを取り上げてみる。■関連する過去の記事 地名(市町村名)の付け方の類型論(2024年03月05日)1 名取市 昭和30年4月1日に2町4村が合併。名取町とされた(昭和33年市制)。 名取郡は、伊達氏所領下では66か村があり、南方(増田に会所)と北方(長町に会所)に二分された。明治11年の郡区町村制により、郡役所を茂ヶ崎村(長町)に置く。大正10年に郡制は廃止されるが、昭和17年、県庁の地方事務所が、名取郡と亘理郡の2郡を範囲として岩沼町に置かれた。以上は、『名取市史』(名取市史編纂委員会、昭和52年3月)による。 余談だが、岩沼市に現在の名取市域をも管轄にする県の保健所や警察署が置かれたのは、名取亘理地方事務所が岩沼に置かれた経緯が関係しているのではないか。なお、県立名取高校は、もと岩沼高等女学校だったが、昭和23年に高等学校組合立宮城県名取高等学校となり、昭和25年県立に移管。(名取高校の経緯、学校組合の構成などは下記記事を参照ください。)■関連する過去の記事 組合立だった名取高校、岩ヶ崎高校、岩出山高校など(2024年03月21日)なお名取市増田の名取北高校は昭和54年創立。以下には、『名取市史』(上記)から、合併の経緯を記す。------------ 昭和28年10月の町村合併促進法施行以後、県町村合併推進協議会及び名取亘理地方事務所等の関係町村に対する働きかけの積極化に伴い関係町村の動きも漸く活発化し、増田町・下増田村・高館村・愛島村・館腰村はそれぞれ合併研究会若しくは協議会を設置して、住民の啓発宣伝につとめ、積極的な合併の促進をはかるに至ったが、閖上町は法に規定する標準規模の人口八千以上を理由とし、合併には極めて関心薄くしたがって当局の住民え(ママ)の啓発も消極的であり、むしろ仙台市との合併を強力に要望する傾向が強かった。 このような状勢の中に、同年末及び翌29年2月と相次いで増田町・閖上町・下増田村・愛島村・高館村及び館腰村のうち植松・飯の坂(ママ)を一地区とする県の合併試案が発表された。 この試案によって分割合併が想定されていた館腰村では、岩沼ブロックに編入を予定されていた同村堀内及び本郷地区住民は、岩沼ブロック賛成と増田ブロック賛成の二派に分かれて対立するという事態が起り、村当局の寧日のない奔走によっても収集がつかなかったため、地方事務所のあっせんによって、その帰すうを住民投票で決定することに両派代表者の妥協が成立、住民投票の行われた結果、全村一致で増田ブロックによる合併が決定された。 このような紆余曲折を経て昭和29年8月10日に至り独立か或いは、仙台合併を強力に主張する閖上町を除く1町4カ村による合併協議会の設立を見た。 しかる時たまたま大仙台市構想が発表されたために、愛島、高館両村民の動向は変化し、両村一部住民が仙台合併えの(ママ)研究を始め、閖上町と共に署名運動を展開するなどの動きが起り、このため1町4ケ村による協議は中断された。 しかし、その間にあって残る3ケ町村による協議会は続けられていたが、下増田村がこれ又仙台市との合併方向に傾く様相を見せるに至ったため、ここに県試案による合併は一頓挫をきたした。 かかる情勢を憂慮した県当局及び地方事務所は、越えて30年3月8日9日の両日関係町村代表者を招き、協議を行い、最悪の場合には知事勧告も辞さないという強硬方針を以て関係町村当局及び議会等に協力に勧奨し、続いて宮城県町村合併促進審議会の勧奨もなされた結果、遂に関係町村が県試案に同調するに至り、かくて同月14日2町4ケ村から成る町村合併協議会が開催され、施行年月日を昭和30年4月1日とし、又町名を名取町とし、その他合併諸般の具体的事項を決定し、翌15日関係町村一斉に合併関係議案を議決するに至り、ここに昭和30年4月1日、名取町が誕生したのである。------------ 新町名の採用の事情は『名取市史』には記載がない。新町名としての「相応しさ」には微妙さもあるが、今では駅名にも採用されて(増田駅→名取駅)、他方で郡は既に消滅し、若い人たちは名取市こそ名取郡の中心だったと自然に思うのだろう。 なお、字名の表記については、合併に伴う協定事項で、字名については旧高館村と旧愛島村は新町名(名取町)の後に旧村名をつける、とされた。2 柴田町 『柴田町史 通史編Ⅰ』(柴田町史編さん委員会編、平成元年3月)から記す。舟岡村は、政宗の時代に名を改められた(風土記御用書出)。その前は四保(シノオ)と呼ばれた。シノオは、湿気を示す(シトドニ濡れる、と同義)。白石川、荒川と四保山(船岡館山)が造った自然堤防の後背地の沼沢地をシノオとよんだと解される。四保氏は本姓に復して柴田氏となったと伝えれるが、地名は四保から舟岡となった。四保山の山容が舟のようだからと考えてよいのでないか。 『柴田町史 通史編Ⅱ』(同上編、平成4年5月)から。明治5年の大小区制(明治11年まで変遷あり)は民衆の支持を得られず、明治11年に三新法が公布(郡区町村編成法、府県会規則、地方税規則)される。現柴田町域は14か村であった。 舟岡村、上名生村、中名生村、下名生村、舟迫村、入間野村、入間田村、四日市場村、上川名村、海老穴村、小成田村、成田村、富沢村、葉坂村 明治22年市制町村制では、次の通り。 ・船岡村←船岡、上名生、中名生、下名生 ・槻木村←入間野、入間田、四日市場、上川名、海老穴、小成田、成田、富沢、葉坂、船迫 昭和29年9月22日県の合併計画答申では、柴田郡は3つのブロックとされた。 ・柴田郡一 大河原町、槻木町、船岡町、金ケ瀬村、沼部村 ・柴田郡二 村田町 ・柴田郡三 川崎町、富野村 同日の通知によると、特に第一ブロックについて、答申の際には村田町は地理的及びその他の事情にかんがみ一応保留の意味を持ってブロック外としたが、同町の現在の規模をもってしては将来における行財政の合理的能率的な運営の確保を期待することは困難と思われ、また四囲の合併町村の規模等を勘案し大同合併することが最も適切と考えられるのである、とされた。 昭和28年12月に船岡町議会は合併の方向を伊具郡北郷村、東根村と定めて検討していたが、29年8月に県案は変更しないとされたため、船岡は、早々に自主案(槻木との単独合併)で進むことに。他方、槻木町では、県案、自主案の対立があった。大合併案(5か町村。6町村の意見も)は町長が、小合併案(2町)は議会が与した。 9月22日県の最終案とされる答申案を受けて、船岡町議会は既定方針通り満場一致で二町合併を促進する決議。槻木町は、時期尚早とする大沼金治町長の行政執行に批判的な議会が合併推進に動く。30年3月31日の議会は翌日午前1時まで延長の上で、町長不信任の動議を可決して0時30分閉会。町長による議会解散により4月30日選挙。5月20日初の臨時会で、町長の退職承認の議案が上程されるも、不信任を先議して可決。6月12日町長選挙は接戦だが、神谷重雄が当選し、大沼が負ける。昭和30年中は合併の議論をせず、31年2月の臨時会で、「大」「小」の記載をする投票を行い15対7で船岡との合併が決まる。 なお、新町の名称については、『柴田町史 通史編Ⅱ』は、自然にこれしかないという趣旨の書き方だ。伊達家重臣の柴田氏の存在などに触れられているが、合併の際に町名が論議されたなどの記述はない。3 (旧)宮城町 『宮城町誌(本編)』(昭和44年3月、宮城町誌編纂委員会)による。 昭和30年2月1日、広瀬村と大沢村の二か村合併で、宮城村と称した。なお、大字名は、広瀬と大沢の村名の次の表記を新村名に続けることとした。 同年4月1日には名取郡域の新川地域を編入して、昭和38年11月3日町制に。 新村名採用の事情などは記載がないが、宮城郡のなかではもっとも西にある新村が名乗るのはかなり「大物狙い」だったと言えよう(おだずま感想)。現在、仙台市の宮城総合支所の名称に残っている。また、仙台宮城ICの名は、開通当時の仙台市と宮城町の存在が関係しているが、若い人たちや転入者は違和感を持つかも知れない。4 (旧)本吉町 『本吉町誌Ⅱ』(昭和57年3月、佐々久監修、本吉町誌編纂委員会編集)による。------------ 本吉(モトヨシ)の語源は、夷語のモトウシュで、モトは起元、原始、土着者の意、ウシュは場所の義。さらば元蝦夷の部落なりしを何等かのじこありて転住したる蹟だろう。また、モトは小沼の義にも謂いウシュイは湾の義ともなる。(藤原相之助「日本先住民族史」より抜粋して説明) 志津川町が以前、本吉村と呼ばれ、古くはこの地方が本吉荘・本吉郷といわれた。 昭和30年3月30日、津谷町、大谷村、小泉村が合併し本吉町となったが、この町名は本吉郡の中央部に位置し、中央町村として将来の発展を期待して命名された名である。------------ 新町名の論議の有無や経緯はわからないが、理由付けは郡の中央ということのようだ。5 その他明治8年にできた大崎村(その後、東大崎村と西大崎村)や、旧栗駒町にある栗原の字などは、歴史的には明治の頃に一部地域が大きい地名を取るという構図だったのではないか。別途検討したい。今回取り上げた4つの新町村名、亘理町のほかにも、桃生町(明治の市町村制で桃生村)、牡鹿町(昭和の合併、鮎川町+大原村)は当てはまる(大物狙い?)かもしれない。
2024.03.19
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三陸道を走っているとカーナビに浮かんだ文字が、寅、卯、辰、巳... 左の方に亥も見えます。これは、十二支ですね。亘理町逢隈蕨の付近と示されています。地図ソフトで見ると、この逢隈蕨(大字)には、子、丑、寅... の十二支の小字がすべて揃っています。さらには、天、地、人もあり(地がカーナビ画面に出ています)。甲、乙(カーナビ画面)もあれば、艮(こん)に福という小字もあります。逢隈蕨地区の真ん中あたりに、薬師十二社(カーナビでは薬師十二神)があり、ここの小字は福。神社を取り巻くように十二支の字があるのかもしれません。前の記事に書いたことでしたが、改めて。■前の記事 亘理町を知る(地域区分、大字など)(2024年03月10日)以下は推測で書きます。これらは、薬師十二神にちなんで、方位を表す地名として使われたのではないでしょうか。十二支の方角は、子が北で時計回り(従って南北方向を「子午線」という)なので、カーナビでもそのように見えます。艮(うしとら)は、北東の方角で、丑(時計でいうと1時)と寅(2時)の間。ちなみに、同様に巽(南東=辰と巳の間、たつみ)、坤(南西=未と申の間、ひつじさる)、乾(北西=戌と亥、いぬい)。また、甲乙丙丁...の「十干」は、甲と乙が東(十二支の卯)で、真東の卯を挟む形で北に甲、南に乙が配置され、同様に、丙丁が南、庚辛は西、壬癸は北です(戊己は中央)。薬師は古くからあるようですが、地名は意外と耕地整理された際の最近の命名ではないかと思います。ウイットで命名ではないでしょうか。■関連する過去の記事(地名などについて。下記記事最後に掲載の記事リストご覧ください) 地名(市町村名)の付け方の類型論(2024年03月05日)
2024.03.12
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亘理郡亘理町の名は郡名に由来すると思うが、合併と大字表記の取扱い状況はどうだろうか。また、町内のエリア区分はどうか。地名に着目しながら理解を深めよう。1 歴史と「わたり」の名 郷土資料館でもらった『亘理町文化財マップ:わたりの歴史巡り』(亘理町教育委員会、2023年3月)をもとに。 町内には100か所近い遺跡があり古くから人が住んでいた。わたりの名は、川を渡るが由来と考えられている。奈良時代には朝廷の政治圏に入り海道筋の要衝地とされた。平安時代には郡衙が置かれた。三十三間堂官衙遺跡(国指定史跡、逢隈駅の西側)。 郡衙が役目を終えたころに登場したのが亘理権大夫藤原清経(子が藤原清衡)。文治5年奥州合戦で奥州藤原氏が滅ぼされると、戦いで活躍した千葉常胤の三男武石胤盛が亘理郡を拝領。武石氏はのち亘理氏を名乗る。天正19年(1591)伊達政宗の命により亘理氏は涌谷へ移り、片倉景綱が亘理を治めるが、さらに慶長7年(1602)景綱が白石に移され、伊達成実が亘理領主となる。成実は政宗の右腕として特に戦場で活躍し、政宗、忠宗と二代にわたり藩主を補佐。また、町場の整備や新田開発を行い現在の亘理の基礎を築いた。その後、亘理伊達家の城下町として発展していった。 明治3年亘理領主14代伊達邦成は多くの家臣と北海道に移住、現在の伊達市(姉妹都市)に発展した。2 地域の概要(エリア区分) 上記パンフレットによると、町内は亘理、吉田、荒浜、逢隈の4エリアとして紹介されている。 町の行政組織では、荒浜、逢隈、吉田、亘理に4つの地区交流センター(旧各支所)が置かれていることからも、この4つのエリア区分が定着していると思われる。・亘理エリア 城下町の風情が残る町並み(上記パンフの表現。以下同じ) =(主な施設等)亘理駅、悠里館、伊達成実霊屋、亘理領主伊達氏歴代墓所、称名寺のシイノキ・吉田エリア 山裾に広がる太古のくらし =浜吉田駅、大塚古墳、慶月院(原田甲斐の母)の墓・荒浜エリア 阿武隈川と太平洋を繋ぐ港町 =鳥の海、湊神社、御城米蔵跡、河村瑞賢滞在地跡・逢隈エリア 由緒ある歴史を受け継ぐ里 =三十三間堂官衙遺跡、安福河伯神社、毘沙門天木像(蕨薬師堂)、義民北原金平顕彰碑(中泉八幡神社) 4つの地区交流センターの所管区域は、「亘理町行政連絡区設置並びに区長選任に関する規則」に定められている。概ね次の通りだ。 ・亘理地区 31行政区 =(大字のない)字○○、逢隈鹿島、逢隈神宮寺、逢隈高屋のなかの小字(その一部などの表記も多い) ・吉田地区 16行政区 =吉田、長瀞 ・荒浜地区 6行政区 =荒浜、逢隈高屋のなかの小字 ・逢隈地区 15行政区 =逢隈上郡、逢隈下郡、逢隈小山、逢隈田沢、逢隈中泉、逢隈牛袋、逢隈十文字、逢隈榎袋、逢隈鷺屋、逢隈蕨 なお、逢隈地区交流センター管内には、「逢隈(逢隈○○ではない)字蕨」(蕨行政区)と「逢隈字郡」(下郡行政区、早川行政区)があるようだ。3 大字等の表記(1) 現状 「宮城県亘理郡亘理町」の後に続く地名の表記をまとめてみる。 いわゆる大字と思われるのが、荒浜、長瀞、吉田、逢隈○○(逢隈中泉など13地名)である。ただし、「大字何々」とは表記しない(cf.蔵王町の場合)。また、大字地名がなく、「亘理町」の後に小字名が続く場合は数多いが、おそらく旧亘理町(明治の小堤村)エリアが昭和の合併の際に表記上大字を省略する(字○○のように「字」は表示する)こととしたためだろう。大字を表示しないのは、旧亘理町エリア以外でもあるが(例:字苺里←以前は吉田字某だったろう)、新たに地名をつける際に大字の表記を省略したと思われる。(表記例) 町役場 亘理町字悠里1番地 吉田地区交流センター 亘理町吉田字大塚185番地 逢隈地区交流センター 亘理町逢隈田沢字鈴木堀6番地8 荒浜地区交流センター 亘理町荒浜字中野33番地■関連する過去の記事(大字、小字などの表記方法について) 蔵王町を知る(その1 永野と宮の謎)(2024年01月18日) 市町村合併と住所の表記(07年8月25日)(2)合併の際の経緯 『亘理町史 現代編』(亘理町史編纂委員会編、亘理町発行、平成20年3月)を読んでみた。 昭和30年2月1日に、亘理町(まち)、荒浜町、吉田村、逢隈村の2町2村が合併し、新たな亘理町(ちょう)が発足。県の2度にわたる合併計画試案(昭和28年、29年)はいずれも亘理郡を北4町村、南2村で合併するもので、これに従った。 当時の人口は、亘理町(まち)7,296人 荒浜町5,845人、吉田村6,554人 逢隈村9,094人で合計28,789人だった。 合併建設計画とは別に、17項目の合併条件事項があり、昭和30年1月18日に関係町村長が連署した。そのうち、第13として「字名について」。「旧町村名はつけない。ただし、荒浜地区及び逢隈地区は新町名の次に旧町村名をつける」とされた。また、第17として「支所の名称」は、荒浜支所、吉田支所、逢隈支所の3つ。 念のため、上記資料より古い『亘理町史 下巻』(亘理町史編纂委員会編、亘理町発行、昭和52年3月31日)を確認したが、合併に際する字名の取り扱いについては、合併条件事項を紹介しており同様の内容だ。 上記のように、昭和の合併で、新町名の「亘理町」のあとに、荒浜地区と逢隈地区で旧町村名をつけるとされた。上記(1)の現状に照らしてみると、まず逢隈地区では「亘理町(大字)田沢字鈴木堀...」としなかったのは、逢隈村を構成する13の大字(これらは明治町村制の前の村である。5(1)参照)の地域的一体感を表示で残すべきとの声があったのだろう。他方で、「亘理町逢隈大字田沢字鈴木堀...」も冗長なので、「逢隈」の2語を冠する13の大字名にした、ということだろう。 次に、荒浜地区は現在も「荒浜字○○」が主流だ。逢隈地区と違うのは、大字が単一だったので複雑でない(明治もひとつの村)なので、「亘理町字中野...」とする手もあっただろうが、ここも荒浜(町)の語を残す意識が強かったで、合併条件事項のとおり旧町名(荒浜)を大字として残したのだろう。 吉田地区は、現状でも吉田と長瀞の2つの大字がある。合併条件事項では、吉田地区は旧町村名をつけないとされたことから逆算して考えると、昭和の合併前は「吉田村吉田字○○」「吉田村長瀞字○○」と表記していた(明治の町村制で吉田村と長瀞村が合併。5(1)参照)ではないか。4 小中学校(1)小学校 小学校は6校。通学区域(学区)を確認すると(町規則)、小学校は次の通り。小字の一部が対象や対象外とされている場合を除外して、概要をつかむ。 ・亘理小学校 字○○、逢隈鹿島字○○、逢隈神宮寺字○○ ・荒浜小学校 荒浜字○○ ・吉田小学校 吉田字○○ ・長瀞小学校 長瀞字○○ ・逢隈小学校 逢隈上郡字○○、逢隈下郡字○○、逢隈小山字○○、逢隈田沢字○○、逢隈中泉字○○、逢隈牛袋字○○、逢隈十文字字○○、逢隈榎袋字○○ ・高屋小学校 逢隈高屋字○○、長瀞字○○(各小字の一部とされる)、逢隈鷺屋字○○、逢隈蕨字○○ 以上のとおりで、13ある逢隈を冠する大字(逢隈○○)が3つの小学校区に分かれているようだ。(2)中学校 中学校は、亘理、荒浜、吉田、逢隈の4校だ。 ・亘理中 ←亘理小学区+吉田小学区+逢隈高屋字○○ ・荒浜中 ←荒浜小学区+逢隈高屋字○○ ・吉田中 ←長瀞小学区 ・逢隈中 ←逢隈小学区+逢隈鷺屋字○○、逢隈蕨字○○ つまり、高屋小学校だけが中学校になると学区が分割される。すなわち高屋小の学区のうち、逢隈高屋は、亘理中と荒浜中に分かれて進学し、逢隈鷺屋と逢隈蕨は逢隈中に進学する。5 町村合併の経緯 『亘理小史』(亘理町史編纂委員会編、亘理町発行、平成2年10月1日)から。(1)明治の町村制 明治5年の大小区制で、亘理郡は第19大区となり、さらに、8つの小区に分けられた。現在の亘理町域は、次のようにされた。 ・小1区(9)=上郡、下郡、小山、田沢、中泉、牛袋、十文字、榎袋、鷺屋 ・小2区(3)=蕨、高屋、高須賀 ・小3区(3)=小堤、鹿島、神宮寺 ・小4区(5)=長瀞、吉田(一部は現山元町へ) 明治11年、大小区を廃して郡区町村をおく。 明治21年4月に市町村制が公布され(翌22年4月施行)、現亘理町域は次のようにされた。 ・亘理町(まち)←小堤村 ・吉田村←吉田村、長瀞村 ・逢隈村←牛袋村、榎袋村、鹿島村、高屋村、上郡村、下郡村、小山村、鷺屋村、十文字村、神宮司村、田沢村、中泉村、蕨村 ・荒浜村←高須賀村 鹿島村など13村が「逢隈村」とされたのは、『亘理小史』によると、昔「逢隈の里」と呼ばれた地域であったことによる。 小堤村が単独で広域地名の亘理を名乗ったのは、亘理氏の館や亘理伊達氏城下町の歴史から名乗る資格があったということだろう(おだずま意見)。(2)その後の経緯 荒浜村が荒浜町となる(昭和18年)。昭和の合併で2町2村が合併したのは上記3(2)のとおり。6 余談 先日三陸道を走っているとき、運転している編集長に助手席の特別秘書(娘です)がカーナビ画面をみながら声をあげた。「十二支のような地名があるよ!」と、写真も撮っていた。あとでネットで検索したら、大字「逢隈蕨」の地域の中に、十二支の動物や、天、地、人の地名(小字)がある。非常に面白いと思いました。■別建てで記事にしています 十二支と天地人(亘理町)(2024年03月12日)■関連する過去の記事(地名などについて。下記記事最後に掲載の記事リストご覧ください) 地名(市町村名)の付け方の類型論(2024年03月05日)
2024.03.10
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これまでも地名について考えてきたが、命名のパターンについて、今尾氏の著作をもとに、整理してみた。主として、市町村合併の際に新たに命名する際の手法の類型論だ。今尾氏著作の内容からの引用を示しながらも、類型の抽出や命名は当ジャーナルでの整理もあります。■今尾恵介『市町村名のつくり方:明治・昭和・平成の大合併で激変した日本地図』日本加除出版、2020年(1)合成地名 合併した複数の村の一文字づつ取って町名をつくる手法。大田区など。明治22年の町村制に際して、内務省は、町村合併標準(明治21年内務大臣訓令352号)で、「殆ど優劣なき数多の小町村を合併するときは各町村の旧名称を参互折衷する等努めて民情に背馳せざることを要す」と助言したため、合成地名が激増。平成の大合併でも便利に使われた(今尾)。 宮城県では、山元町、東北では、風間浦村、八峰町などだろう。 福島県飯館村は、今尾氏著作でも詳しく解説されているが、勝ち抜き戦のような長い経緯がある。昭和31年に飯曽村と大舘村が合併したが、じつは両村とも合成地名。大舘村は昭和17年に大須村と新舘村が合併。さらに大須村は明治22年町村制で大倉村と佐須村が合併したもの。一方の飯曽村はやはり明治町村制で飯樋村と比曽村の合併による。さらに言うと、昭和17年に飯曽村に編入された石橋村も合成地名(臼石、二枚橋)だった。昭和17年まで存在した新舘村の名は、明治町村制(8村の合併)の際の合成地名ではあるが、村名の合成ではなく、新井(にいた)川と草野にある館跡(舘)を合成したもの。結局、明治町村制以前の藩政村18村のうち、「勝ち残った」のは飯樋村のみ(飯の文字)とのこと。 (おだずま補遺 愛島村(現名取市)も合成地名)(2)村数地名 千葉県富里市は明治の町村制で13村が合併したので、十三の里の意味の富里とした。他にも、埼玉県三郷市など(今尾)。 宮城県だと、七ヶ浜、七ケ宿、仙台市内の六郷や七郷だろうか。東北では六ヶ所村か。(3)瑞祥地名 非地名系で縁起のいい地名をつけるもの。長野県栄村など。横手市南部にも昭和26年まで栄村(えいむら)が存在したが、明治町村制で6村合併で誕生したもの(今尾)。(4)時代地名 「明治村」がかつて多数存在した。全国で24あり、東北でも、現在の羽後町、山形市、福島市にあったが、現在は残っていない。このうち福島県伊達郡の明治村は、意外にも(明治時代でなく)昭和5年に飯野村から分立して誕生したが、昭和2年に大火で村役場が焼失した後の新役場設置場所で紛糾した結果だという。昭和30年に飯野町に戻り、旧明治村村域は「大字明治」(現在は福島市飯野町明治)として残った。(今尾) 福島県昭和村(昭和2年に野尻村、大芦村が合併)はこれだろう。また、仙台市宮城野区の平成(1丁目、2丁目)は、平成の最初までは原町苦竹(字中原など)だった。※おだずま補遺 この記事の後の記事です 大崎市の戦中地名(2024年03月20日)(5)仲良し系地名 今尾氏の表現をお借りして類型名にしてみた。むつみ村、平和村、共和(協和)村など。秋田県協和町は昭和の大合併に4村合併で誕生。現在は大仙市の大字の名として残る。 大和(やまと、たいわ)も含めていいだろう。(6)イメージ系地名 雰囲気を重視した地名が平成の合併では散見される。栃木県さくら市、群馬県みどり市など。その土地に関係はあるのだろうが、歴史的地名に関係なく印象の好感度を重視したもの。 北海道大空町(空港がある)、熊本県あさぎり町(盆地に朝霧)など。熊本県和水(なごみ)町は平成18年に三加和町と菊水町が合併した新町名で、合成地名ともいえるが、もともと三加和は仲良し系命名で、菊水は菊池川に由来する。(7)広域地名 定義的に言えば、合併した際にその地域を含むより広域の呼称を採用するもの。古典的な例として明治43年に岐阜県上有知(こうづち)町が改称した美濃町で、戦後に激増した。戦後の古株は備前市、日向市、鹿児島県薩摩町(現さつま町)、秋田県羽後町、加賀市など。平成の大合併ではさらに増えて、越前市、下野市、奥州市、南九州市など。政令指定都市では、北九州市、相模原市、さいたま市(以上今尾)。 郡名や旧国名などが着目されるが、例えば郡名を採用した場合に競合や混乱が生じる場合がある。伊豆市、伊豆の国市が平成の合併で誕生。なお、東伊豆町、西伊豆町など伊豆を冠する自治体名は多い(伊東市も伊豆の東の伊東郷から)(以上今尾)。 南相馬市の名について。かつて相馬郡内最大の町は原町だったが、昭和の合併で原町市とともに誕生したのが、中村町を中心とした相馬市。相馬市は相馬中村藩の伝統から郡名を名乗るに相応しいと言えるかもしれないが、平成の大合併で原町市側は南相馬市を名乗ったので、逆転現象のような形ではないか。(当ジャーナルの勝手な印象なので、後によく検証したいと思います。) (過去の記事 原町(南相馬市)とJR原ノ町駅(10年6月9日)) 宮城県名取市は、昭和30年に合併して名取町(昭和33年市制)としたが、増田町(増田駅がある)と閖上町(旧東多賀村、人口は増田町より多かった)の二大人口集積地があり、役場所在地や新町名の調整が簡単ではなかったのではないかと察する。(これもよく検証したいと思います)。郡役所は長町だったし、岩沼町も大きな町だった(県立名取高校は昭和23年改名)。今の若い人たちは名取市こそ郡の中心地と思っているのではないか。 (過去の記事 西多賀を考える(07年5月23日)、丹取郡と名取(10年3月17日))※おだずま補遺 この記事の後の記事です ・合併と広域地名を再び考える(岩沼と名取)(2024年03月22日) ・合併と広域地名(名取市、柴田町、本吉町、宮城町など)(2024年03月19日) ・亘理町を知る(地域区分、大字など)(2024年03月10日)(8)山川(やまかわ)地名 自然地形や水系などの名称を採用する事例(命名おだずま)。(以下今尾)山では駒ヶ根市、富士市、ニセコ町など。川では、高知県の四万十市と四万十町、新潟県の阿賀野氏と阿賀町。川の名は以前から東京23区などにも採用されてきた。海では、鹿児島県錦江町、熊本県不知火町(現宇城市)、高知県黒潮町、岡山県瀬戸内市など。北海道オホーツク総合振興局(管内)は初のロシア地名か。湖だと、山梨県富士河口湖町、秋田県田沢湖町(現仙北市)、八郎潟町、滋賀県びわ村(現長浜市)、神奈川県相模湖町、北海道洞爺湖町、茨城県かすみがうら市。(9)温泉地名 兵庫県の有馬町や城崎町は、郡名でもあるが有名な温泉の名を用いた。また、長野県野沢温泉村の例もある。なお、(何も付かない)温泉村という自治体が全国に4か所あった。神奈川県(現箱根町)、兵庫県(現新温泉町)、宮城県(鳴子町→大崎市)、島根県(現雲南市)。(10)名産地名 柿の名産地だった能登町柿生は、明治8年の3村合併で柿生村が誕生し明治の町村制で大字になる。神奈川県の柿生村は現川崎市麻生区。藍の特産地だった徳島県藍住町(藍園村と住吉村の合成地名)。桑の地名も多い。戦後では、橘町(現周防大島町)。 発想が近いものに、イベント地名もあるのでは(当ジャーナル)。実現しなかった山形県花笠市。最上川市(やまかわ地名か)との間で新市名をめぐり揉めたという。花笠市ならユニークなイベント市名だろう。 (過去の記事 尾花沢線の歴史(10年5月9日)をご参照ください)(11)東西南北地名 西東京市(田無市と保谷市)、東松島市など。今尾によると、方角付き市名には3類型あり、(1)地域内のどこにあるか(東村山市、南房総市)、(2)他市への配慮から位置関係を示す(東久留米市、東松山市)、(3)ある地域のどちら側にあるか(西東京市、北名古屋市)。このうり(2)は昭和45年の自治次官通知(既存の市と同一や類似とならないよう十分配慮すること)が徹底されたためだ。 中、中央、上下などが頭に着くのも類似と言えようか。※おだずま補遺 この記事の後の記事です 十二支と天地人(亘理町)(2024年03月12日)(12)国名付き地名 高田といういう地名に旧国名を冠したのが、陸前高田市、大和高田市、安芸高田市、豊後高田市。すでに新潟県に高田市(現上越市)が存在した事情から。最初に国名を冠したのは、昭和17年の泉大津市で、昭和の大合併では大和郡山市を最初に、近江八幡市、美濃加茂市(新潟県加茂市の三週間後)、常陸太田市、土佐清水市、会津若松市など旧国名市名が激増した。 重複回避のため、国名以外の冠を用いたのは、大阪狭山市(河内でない)、京田辺市など。(13)「新」地名 北海道には、大水害を機に移住した元の故郷の名をつけた新十津川町、分村独立した経緯を持つ新篠津村(篠津村から分村)がある。ほかに、兵庫県新温泉町、長崎県新上五島町。重複回避のための「新」の例は新南陽市(現周南市)で、山口県内の南陽町、山形県南陽市が存在したため。■関連する過去の記事(地名に関して。主にタイトルから拾いましたが、他にも記事中で地名譚や命名、比較論などを扱ったものは多数。記事リストをご覧ください)(仙台) 定義(如来)をどう読むか(2023年09月23日) 芋峠(2021年8月9日) 芋峠(仙台市)と感染症(2020年11月28日) 稲荷小路の名の由来と歴史(2016年1月20日) 条里制の名残 六丁の目(2014年3月22日) 足軽町だった柴田町、成田町、三百人町など(2014年3月25日) 広瀬川の名を考える(2013年11月30日) 仙台・泉区の赤生津を考える(2013年10月14日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 定義は「じょうぎ」か「じょうげ」か(2012年6月17日) 仙台の団地名を考える(荒巻方面)(2012年5月27日) 昭和30-50年 仙台の団地造成の概要(その2)(2012年5月22日) 昭和30-50年 仙台の団地造成の概要(その1)(2012年5月22日) 仙台の団地名を考える(再び)(2012年5月20日) 仙台の「団地名」を考える(後編)(2011年12月11日) 仙台の「団地名」を考える(前編)(2011年12月11日) 郡山市の八丁目と三町目(2011年11月5日)(仙台市六丁目の名の由来) 角五郎と四郎丸の地名(2011年10月28日) 高松と小松島(2011年10月20日) 杉山台ノ原(2011年10月8日) 七曜と仙台・宮城・東北の地名(最終更新)(2011年2月26日) 仙台の数字が揃いました(2011年1月17日) カラフル仙台 色の付く地名を考える(2011年1月15日) 仙台と数字を考える(2011年1月12日) 飛び地の多い上谷刈(2010年11月15日) 七郷、六郷と呼ばれる旧村名を言えますか(10年9月10日) 南光台と南光学園(東北高校)を考える(09年10月12日) 行人塚の地名の由来(08年9月12日) 仙台の名の由来(07年9月20日) 旭ヶ丘などの表記「ケ」を考える(07年8月3日) 星陵町の名の由来(07年5月31日) 西多賀を考える(07年5月23日) 歴史的町名復活検討事業を考える(06年4月19日) 燕沢の名前(06年3月17日) 仙台の地名 福田町と高砂について(05年11月10日)(宮城) 蔵王町を知る(その1 永野と宮の謎)(2024年01月18日) 小牛田の名の由来(2016年1月27日) 仙北・県北・南北の読み方 再論(2015年5月16日) 涌谷町の地名 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十三(じゅうさん)湖と十三(とさ)湊、とさの語源(2013年7月14日) 「三八地方」を考える(再論)(2011年12月4日) 五能線の名の由来を考える(10年5月24日) 青森県東部の地理概説(三八、上十三などの意味)(09年8月1日) 南部の戸(へ)の地名(07年12月17日) 津軽の由来(再)(07年12月12日) 旧浪岡町の合併と分町運動(07年12月4日) 市町村合併と東通村(07年12月2日) トリプル飛び地の青森・津軽地方(07年12月1日) 「むつ」の語源(07年8月27日) 津軽の名の意味(07年4月6日)(岩手) 陸前高田は「たかた」か「たかだ」か(2011年4月20日) ビッグな市町村名を考える(10年5月17日)(奥州市について) 花巻と里川口(花巻川口町)(10年5月13日) 金ケ崎町は大きな「ケ」で決まり(07年9月29日) 誕生!奥州市(06年2月20日) 「北上市」という命名を50年後の今賞賛する(05年11月18日)(秋田) 大潟村の誕生と地方自治法(2015年10月9日) 五能線の名の由来を考える(2010年5月24日) 東北の合成地名 再び(09年6月28日)(藤里町について)(山形) 日本で唯一の地名を持つ東根市(2016年9月13日) 山形と新潟の県境にある山 日本国の伝説(2013年10月9日) 山形県の小学校名を考える(北部、南部など)(2013年7月7日) 飛島中学校と飛鳥中学校(2013年7月6日) 左沢(あてらざわ)を考える(2010年12月20日) 尾花沢線の歴史(10年5月9日)=最上川市、花笠市 東北文教大学と再び東北各県の「東北」を探す(10年1月18日)(福島) なすびも。やはり「けんぽく」だ(2016年6月17日) 福島も「けんぽ(po)く」です(2015年11月24日) 広瀬川の名を考える(2013年11月30日)(伊達郡の広瀬川) 郡山市の八丁目と三町目(2011年11月5日) 東北の駅名を考える(2011年5月2日)(岩代の名が少ないこと) ハンダの名の由来 桑折町(10年8月7日) 原町(南相馬市)とJR原ノ町駅(10年6月9日) 会津若松市の名称を考える(09年3月15日) 伊達市が打ち破った先例(09年3月14日) 福島の OBAMA は二本松にも!(08年11月7日) 東北の OBAMA 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2024.03.05
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またまた、議員報酬とは何かを考えさせられる報道が、あった。以下に要約して引用。------------●(2月22日朝日新聞県内版)岩沼市議会が、出席停止議員の報酬を停止日数に応じ減額する規定の廃止を決定した。21日の議会運営委員会で、条例改正案の提出が了承され、22日の本会議で可決される見通し。そもそも岩沼市議会では、議員の言動に対する懲戒処分が繰り返されて問題となっていたが、出席停止の場合の報酬減額は2012年に決められた。こうした規定は全国でも少数だという。2023年仙台地裁が、出席停止処分を裁量権の逸脱として違法と認定。議員報酬の減額分の支払いを市に命じる判決を相次いで下し、確定。今回の条例改正は地裁判決を受けた動きとみられる。●(2月23日河北新報県内版)岩沼市議会は22日、出席停止の懲罰を受けた市議の報酬を減額する規定をとりやめる条例案を、全会一致で可決。昨年の3月と5月に、少数会派の市議に科した出席停止の懲戒処分を裁量権の乱用として取消などを命じた2つの仙台地裁判決が確定。2012年12月に設けられた報酬減額規定にも出席停止が対象となっており、昨年12月の市議会改選後、議員が見直しに動いていた。酒井信幸議長「裁判を踏まえて時代にそぐわないと判断した」。(ここまで新聞記事の要約)------------経緯を簡単に整理する。2016年9月に大友健市議が、市議会での発言が品位を欠くとして、23日間の出席停止処分を受ける。市議は処分取り消しと報酬支払いを求めて仙台地裁に提訴。地方議会の出席停止処分が審査対象となるかが争点だったが、2018年1月地裁は訴え却下。2審は審査対象と認め、市側が上告。最高裁は2020年大法廷で60年ぶりに判例を変更し、審査対象となるとして審理を差し戻した。そして、2023年3月仙台地裁は処分取り消しと議員報酬支払いを命じる判決(確定)。大友さんは、2023年12月24日の市議選で再選されている(得票数3位)。むかし憲法で学んだ「司法権の限界」論では、(議会の)自律権や部分社会の法理として、議会(や団体)の自立性を尊重し裁判所は立ち入らないのが基本だ。地方議会は、民主主義に立脚して多数派少数派のダイナミックな渡り合いがあるのはむしろ当然で、政治に司法が介入するべきでないという実質論的な事情もある。しかし、その社会の構成員から除外する処分(議員懲罰なら除名)はさすがに司法も判断するべきだ、ということだったと思う。60年ぶりに判例を変更したという。最高裁の判断の内容をちゃんと勉強すべきだろうが、割愛。そして、こうした問題の本論とはちょっと離れるのだが、議員報酬について考えた。判決に従って岩沼市議会としては出席停止処分自体を取り消して議員報酬も支払ったのだろうから、その点では条例が支障にはならないのだが、条例改正の問題は、「出席停止処分中の議員に報酬を支払わないことの是非」に直結した別の議論だ。朝日は、こうした条例は全国でも少数という。ここで、改正前の岩沼市の条例では、出席停止中の議員報酬を減額するというので、その内容を見ると、以下のようだ(下線は当ジャーナル)。------------議会議員の議員報酬、費用弁償及び期末手当に関する条例(抜粋) (議員報酬、期末手当の減額)第6条 (略)3 議会活動ができない事由が公務災害による療養のとき、又は議長が特に認めたときは、第1項の規定にかかわらず議員報酬の月額の全額を支給する。(略)第6条の2 第2条の規定にかかわらず、地方自治法第135条第1項第3号に規定する一定期間の出席停止の懲罰を受けた議員に係る議員報酬を減額するものとし、減額する額は、第3条第3項の規定〔おだずま注:日割り計算〕を準用する。2 前項の規定により返納金が生じた場合には、第3条第4項の規定を準用する。(平24条例30・追加)------------一般職の公務員なら、懲戒処分で停職ならその間無給になる。制裁として賃金を与えないことが主旨だ、また、減給処分より重いのだから当然とも説明できるし、ノーワークノーペイ原則にもかなう。では、議会議員はどう考えるべきだろうか。労働者としての大切な生活給を制限される一般職とのバランスから、政治的地位にある議員は不支給が当然だ、との論法があろう。他方で、多数派が少数派をつぶそうとするなどまさに政治の世界であって(多数派が議案通すために少数派を出席停止させる事例←司法が介入してくれるようになったから考慮しなくていいとの反論もあるか)、懲罰を受けるのもいわば議員の仕事で、他方で議会の外での政治活動継続も役割として期待されているのだから報酬支払うべき、という民主主義機能面からの論陣も成り立ちそうだ。問題を定式化し、「(出席停止処分などの)議員活動が制限された場合の議員報酬の支払」について、まず、国会議員の場合を含めた法制や解釈をいくつかの場面に分けて確認しよう。(1)懲罰による場合 地方議会における議員の懲罰は、戒告、陳謝、出席停止、除名の4種類だ(地方自治法135条)。国会議員の場合は、憲法58条の議院自律権に基づき、国会法122条で、戒告、陳謝、登院停止、除名の4種がある。国会議員の歳費、旅費及び手当等に関する法律では、除名に関してだけ記載があり(4条、11条の2)、歳費等は辞職と同様の扱いとなる。規定がない登院停止は歳費等を支給する扱いだ。 地方議会については、懲罰による出席停止期間中の報酬を減額や不支給とする条例規定を認める解釈(昭和32年自治庁)が示されている。(2)理由のない欠席の場合 じつは(登院停止とはちょっと異なるが)理由なく登院しない議員の歳費を4割減額する法案が、昨年参院に提出されたことがある。NHK党のガーシー議員の問題をうけてのことだ。法案には、登院しないことに加えて、何らかの懲戒処分を受けることを要件とし、また出席すれば支給する、などの「配慮」も盛り込まれたようだ。結局、ガーシー議員が除名され(最初は陳謝の処分、次いで除名となった)、法案も審議されなかったようだ。 地方議会の報酬条例で、議会や委員会に不出席の議員の報酬を不支給とする規定を設けることはできるというのが公権解釈(昭和24年地方自治庁)のようだ。現に都道府県議会レベルでも事例がある。宮城県議会の場合も、議員報酬条例に規定がある(3条の2)。なお、欠席が公務災害や出産などの事情による場合は、除外としている。岩沼市の条例でも上記引用の通り。(3)当選無効となった場合の無効確定までの期間 どう考えるべきか難しい問題だが、地方議員について50年ほど前に自治省が返還請求できないとの解釈を示していたが、大阪市の事例で、昨年12月に最高裁判決が支給すべきでない(返還求めよ)の判断を示して、国会議員にも及ぶのかを含めて反響を呼んだ。■前回の記事 当選無効と議員報酬の返還を考える(2024年2月12日)(4)逮捕などの場合 これも難しい問題。国会議員には不逮捕特権(憲法50条)もあるほどで、少数派を政治圧力から守る法制や解釈が重要であると言えそうだ。ただし、地方の場合はその要請はそれほどでもない(団体自治を重視)ともいえるし、現に拘束される期間は議会外を含め議員活動ができない訳だし、逮捕が不当であった場合は事後救済策を措置すればよいという考え方が可能と思われる。住民意識にも適うだろう。 宮城県議会の場合は、昨年(2023年)に条例に次の規定が追加された。------------第三条の三 前条の規定にかかわらず、県議会議員が被疑者又は被告人として、逮捕、勾留、その他の身体の拘束を受けたときは、当該身体の拘束を受けた日から身体の拘束を解かれた日までの期間(以下「拘束期間」という。)に係る議員報酬の支給を停止する。ただし、拘束期間の始期が議員報酬の支給日の直前であることその他の理由により当該支給を停止することができない月の議員報酬については、この限りでない。2 (略)〔おだずま注:日割り計算にする規定〕3 第一項の規定による議員報酬の支給停止(以下「支給停止」という。)は、当該支給停止に係る行為に関し次の各号のいずれかに該当する場合にこれを解除する。一 公訴を提起しない処分があった場合二 無罪の裁判が確定した場合------------■関連する過去の記事(類似の論点を含むもの。地方議会に関するもの。他にもあるかも知れません) 当選無効と議員報酬の返還を考える(2024年2月12日) 国会議員の懲罰を考える(2023年03月19日) 別れさせ屋と不法原因給付(2013年2月15日) 山形県の無免許元教諭の返還額を考える(2016年2月25日) 山形県教委の教員任用無効の法理を考える(2016年2月23日) チケット不正転売禁止法の謎(2019年6月16日) 仙台厚生病院の提訴の件(続き)(2016年7月25日) 仙台厚生病院が市議を提訴した件を考える(2016年7月23日) 条例の取消を求めて提訴 青森県の新渡戸記念館の廃止で(2015年7月1日) 大衡村の議会解散を考える(2015年3月18日) 今度はラン問題の大江町議会(2012年4月11日) 大江町議のその後(2011年11月30日) またも議員飲酒運転か(2011年11月26日)(大江町議) 仙台市議会と定員問題を考える(10年8月26日) 警部補飲酒運転と山形県議会(08年4月23日) 山形県村山県議の動向(07年12月5日) あの飲酒運転山形県議、お隣さんからも三行半(07年8月10日) 村山県議問題を考える(07年7月11日) 山形県議会議員の飲酒運転問題を考える(07年5月25日) 鳥取県の人権侵害救済条例について真剣に考える(05年10月13日)
2024.02.24
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