仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2008.02.17
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カテゴリ: 宮城
この際正確に知識を蓄えよう。知っているようで曖昧な、東北の大河北上川の改修と流路変更の歴史について。

1 前史
最も古い改修は、宝亀11年(780)から24年にわたって坂上田村麻呂が行った舟運を目的とした低水工事とされる。また洪水対策も原野を田畑にするのに応じて行われてきた。
北上川の舟運は各豪族の関心事であり、安倍氏により河畔に城柵が数多く建立されていたとされる。現在も、一関市川崎に石積みの跡が確認でき、石積みの技術が存した以上当然河川改修も行われていたと考えられる。
慶長以前の流路図

2 伊達宗直の改修
1604年に登米に移された白石(伊達)相模宗直は、慶長10年(1605)に暴れ川北上川河道の変更に着手。北上川を川面付近で遮断し、約5年の歳月をかけ、米谷へ湾曲させて二股川に合流させる堤防(相模土手)を完成。息子の宗貞と親子二代にわたり北上川改修工事は続けられた。こうして森と吉田の流路はなくなり、北上川は平野の東に寄せられ、かつての流域は広大な新田として開発された。
宗直工事後の流路図

3 川村孫兵衛の改修
伊達政宗は仙台藩の基盤をより強固にするため北上川をはじめとする河川の改修と利用を押し進めようと考えた。そのため、長州出身で冶金や土木にすぐれた川村孫兵衛を招き、数々の治水・利水事業を手掛けた。中でも最大の功績は、元和9年(1623)から4年の歳月をかけた北上川改修工事。柳津-飯野川間の遮断、北上川・迫川・江合川の流路を和渕で合流させ、後に、その合流に北上川の西流を戻すことで、北上川、迫川、江合川の三大河川を一本化し、舟運路としての北上川の機能を飛躍的に高めたものである。この付替工事により、河口石巻は、江戸廻米の一大集積地となり、奥州の中心的な港として栄えた。
川村孫兵衛工事後の流路図
孫兵衛は1648年に没するまで牡鹿郡門脇村に住み、屋敷跡が普誓寺とされ、墓が残っている。

しかし、孫兵衛の改修では、迫川、江合川は北上川に合流させられ、川幅が絞られたこの合流点上流域では毎年のように水があふれた。繰り返される氾濫に人々は水山(盛り上げた土の上に建てられた小屋)を作り、洪水と共存した生活を営むことを余儀なくされた。

4 明治以後
明治13年(1880)から35年にわたって、河口の石巻から盛岡まで、航路改良を目的とした低水工事を実施。
明治43年の2度にわたる大洪水をきっかけに明治政府は北上川改修に着手。明治44年(1911)から昭和9年(1934)にかけて、河口部の放水路として開削を実施。柳津から飯野川までの新水路の開削、追波川の拡幅による新北上川の整備という抜本的な改修が行われ、飯野川可動堰の完成をみる。
昭和22年、カスリン台風は登米市中田町大泉で北上川の堤防を破り、翌23年アイオン台風が再び北上川流域を襲い、迫川などの支川で破堤氾濫を引き起こす。これら多大な被害を受け、従来の治水計画を再検討とし、上流部(岩手県内)には5大ダム(石淵、田瀬、湯田、四十四田、御所)を整備し、下流部でも洪水調整のためのダム建設を行う、上下流一貫した北上川改修計画を確立。昭和53年には飯野川可動堰に代わり、北上大堰が竣工。現在もこれらの計画を基本に治水事業が行なわれている。
明治以後の流路図

■参考
 北上川下流河川事務所のサイト( 河川改修の歴史
 『宮城県の歴史散歩』山川出版社、2007年 978-4-634-24604-1
■関連する過去の記事
北上川流域の「水山」 (08年2月11日





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最終更新日  2008.02.17 06:35:42
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