仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2009.05.13
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カテゴリ: 仙台
朴沢は静かな山あいの里を感じさせる集落。連休の合間に訪れたが、未だに印象が強く残る。たまたま最近、国道457での死亡事故、山林での殺人事件で容疑者逮捕、など朴沢に関する強烈なニュースが続いてしまったが、あの純朴な農村風景はいつまでも脳裏にある。

朴沢について、少々。

往古の奥州街道は根白石から朴沢を経て宮床に通じており、要害があった朴沢は要所であった。安永風土記御用書出には、朴沢要害について記されている。中世に地頭大江戸氏一族が村々に分かれて土着。根白石朴沢を分与された大江戸経家が朴沢蔵人を名乗る。

「書出」の「本要谷(もとようがい)」は、今その地を知ることができない。古来、寺山(新城の北東600m)とか、的場山(同、南東700m)を当てる人もあるが、当地に館跡と推定できる遺構もなく、また「平城」とあるので適合しない。おそらく新城の東、今の要害前、または、東向囲あたりであろう。しかし一面水田と化し、城跡をしのぶ何ものもない。

〔安永風土記御用書出〕
本要谷  古城
御城主国分様御家臣朴沢蔵人と申御方之由申伝候処、右年月相知不申、蔵人と申御方者朴沢利右衛門様御先祖と申事ニ御座候事
〔仙台領古城書立〕
平城   東西二十六間 南北二十三間


なお、朴沢新城については、朴沢の要害屋敷と古称される早坂氏之進家の屋敷を中心とした、屋敷地が城郭であったといわれる。土塁、石垣、そして水濠跡と思える窪地が認められる。

南に接する興禅院の縁起によると、同寺は朴沢の地頭朴沢加賀守が根白石満興寺の英伝慶哲を招き大永七年(1527)開山というが、満興寺記録によると、第四世慶哲は文明二年(1450)入寂とあり、戦国初期かも知れない。最初は寺山にあった同寺が、正徳四年(一七一四)朴沢新城の南に移って現在に至っている。
〔仙台領古城書立〕
新城   東西三十一間 南北二十三間
右此城主朴沢蔵人右城(朴沢古城)より取移申候、只今ハ何も(古城共)百姓共罷在候
〔安永風土記御用書出〕
要谷 新城
右ハ蔵人と申御方古城より取移御居城ニ付、新城と申由ニ御座候処此又年月相知不申候事

(出典: 仙台領内の古城跡  仙台市公式サイト中の資料)

朴沢学園(仙台大学と明成高校)は当地出身の朴沢三代治夫妻が明治12年に創立した松操私塾が前身。家庭科教育に重点を置いた。


 木村孝文『根白石・七北田の史跡を訪ねて 仙台・泉の散歩手帖』宝文堂、1998年

■関連する過去の日記
朴沢をめぐる(続・画像) (09年5月2日)
朴沢をめぐる
中山(なかやま)道を考える (09年3月25日)
中山道のむかし (09年3月23日)





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最終更新日  2009.05.13 06:17:35
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