仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2012.10.27
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カテゴリ: 宮城
雄勝に味噌作なる地名がある。石巻市民だった私はもちろん知っている(雄勝に住んだわけではないが)。釜谷トンネルから雄勝の町に入ると、中学校付近のT字路を左に折れて中心部や役場、病院方面に至るが、T字路を右に行けばやや山側に向かって住宅地がある。そのあたりが、「味噌作」だったと思う。

海の幸、雄勝硯、こじんまりした商店街路。旅館に投宿したこともある。美しいリアスの入江に佇む印象的な町、だった。津波が街を消し去った。

宮城県地名研究会「地名 第30号」(2009年11月)に、「石巻市雄勝町の「味噌作・ミソサク」地名について」という論考があった。千葉昌子先生(石巻市桃生町)の寄稿である。素晴らしい雄勝の町を思い出しながら、勉強させてもらった。

ミソサクの地名、その背景として桃生郡と牡鹿郡の勢力地図、そもそも雄勝は一貫して桃生郡だったのかなど、大変興味深い。



10年ほど前(odazuma注:原文の表現)に町の文化財保護委員は、延徳2年(1490)の古文書に大崎今泉の高橋記六という者がこの地を拓き、坊の入(坊の沢)の熊野権現を祀る年四度の精進味噌を煮たことから部落名に転用された、と説明されていた。

頼朝は平泉を討って奥州を支配したとき、奥州総奉行葛西清重に5郡2保(磐井、胆沢、江刺、気仙、牡鹿。2保は黄海、興田)を与え、牡鹿と境を接する桃生郡は山内首藤経俊に与えられた。これが300年後の永正合戦(1511-15)につながるのである。

中世の恩賞は大掴みで近世のように村名がしっかり記されていないこともあるという。桃生郡雄勝町がその例で、首藤氏の領地に含まれるかどうかはっきりわからない。

首藤氏の領地は、旧桃生町全部、旧河北町全部(大森地区は微妙)、旧北上町のほぼ全域(一部は本吉郡)で、旧河南町広渕と旧矢本町、旧鳴瀬町は深谷保になるし、旧河南町和渕は遠田(小田)郡に入る。和渕は後に葛西領になったとも思われるが。



しかし疑問は、雄勝には延喜式内社桃生六座の一つ石神社が鎮座する。延喜から延長年中に編纂された延喜式の神名帳にある桃生郡石神社が雄勝の石神社であるならば、平安時代には雄勝は桃生郡であった。これはどう解釈すべきなのか。平成6年の佐藤雄一氏『雄勝町の板碑』は、
 ■中世期の雄勝町の姿はわからない
 ■鎌倉時代には牡鹿郡は葛西氏、桃生郡の内深谷保は長江氏、残る桃生郡が山内首藤氏によって支配されていたことは文献で確認できる
 ■従って現雄勝町地域は山内首藤氏の支配下にあったように見えるが、確たる文献がみあたらず、現在ではおそらく葛西氏支配下であったろうと推定されているようだ
と記している。

葛西氏と首藤氏が争った永正合戦で首藤氏が敗れた結果、桃生郡北方は葛西氏領地となるが、それ以前については正確にわからない。

服部英雄『景観にさぐる中世 -変貌する村の姿と荘園史研究-』によると、ミソサクは御正作で、「御さうさく」が「御そさく」となったと思われるとする。御正作は、中世における領家、荘官、地頭などの直営田であり一等田。みそざくは御正作故地を示す地名である。従って、みそざく地名を調査することによて中世水田や灌漑用水のあり方、在地領主の館である堀の内や村落との関わりがわかるはずである、と。

では、雄勝の「味噌作」は御正作になりうるか。延徳2年文書の「坊の沢の熊野権現」が現存するかについては、熊野神社は8百年前に坊の沢から下雄勝の山上に祀られたという。坊の沢から味噌作に至る途中に地元の人がトーバと呼ぶ小地点があるが、何だかわからない。新山神社には合祀されていないという。雄勝に検地帳などの古文書がないのは度々の津波で家ごと流されたためとのことだ。

旧雄勝町の要覧では、「奈良時代は牡鹿郡に属し、のち桃正(odazuma注:原文ママ)郡に属した。大浜の石峰神社は延喜式内社石神社と推定されている。平安末期は平泉藤原氏の所領となり山崎氏や熊野氏がいたという。中世は遠島と呼ばれた荘園公領の一部。鎌倉時代は初め北条得宗家のち葛西氏の所領となった...」とある。

つまり、奈良時代雄勝は牡鹿郡であった。桃生郡が建てられたのは、続日本紀の天平宝字元年(757)に陸奥国桃生が見えるのでその何年か前と言われる。石峰神社は延喜式内社で800年代には既に祀られていたと考えられ、もしかしたら桃生建郡の頃まで遡るかも知れない。平安末期の藤原氏の所領はうなずけるが、この頃の熊野氏が熊野権現と何らかの関わりがないだろうか。そして、雄勝の味噌作は古代より修験の地とされた紀伊熊野神社の荘園だったのではないか。

ところで、旧河北町と旧北上町にかけて流れる皿貝川があるが、地区の奥が深いことはまさに「更なる峡(かい)」であり、そこにも「味噌作」と「熊野堂」の地名がある。このあたりの地頭職は山内首藤氏、後に葛西氏であるが、御正作の荘園領主は熊野堂主だったのではないか。








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最終更新日  2012.10.27 12:39:39
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