仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2013.03.08
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カテゴリ: 東北
奥羽街道は三戸から五戸、三本木、七戸を経て野辺地に向かう。1891年(明治24)9月に盛岡青森間を一気に開業させた日本鉄道は、南部支藩の城下町で青森県東部最大都市であった八戸に近づいたため、また、地形的に建設しやすいルートを選択したこともあって、尻内(現八戸)、古間木(現三沢)経由で千曳、野辺地へと向かった。

三戸ヨリ七戸ヲ経テ千曳ニ至ル鉄道として1922年(大正11)年4月公布の改正鉄道敷設法別表で予定線に編入されたが、実現の兆しはなかった。

1922年9月5日に十和田鉄道(後十和田観光電鉄)が開業したこともあって、三戸郡下の中心地五戸と東北本線を結ぶ鉄道建設の気運が高まった。地元の有力者ら10人を発起人に、尻内-五戸間地方鉄道敷設申請は、1925年4月に免許となり、26年(大正15)2月に五戸電気鉄道が設立された。当初は倉石村大橋付近に発電所を建設して五戸町に電力供給を目論み、五戸電気鉄道は十和田湖を経て秋田県に至るという遠大な目標も掲げていた。

しかし資金不足から動力は蒸気、内燃に変更となり、1929年(昭和4)8月に尻内-上七崎仮駅間6.2kmが開業した。志戸岸延伸は同年10月、五戸まで12.3kmの全通は翌1930年4月であった。

全通はしたものの金融恐慌に発端する不況や凶作で営業成績は伸び悩んだ。1936年(昭和11)5月には電気の文字が消えて五戸鉄道に改称。宣治統合では公営3者、民間3者のバス事業を買収し、1945年1月に南部鉄道に社名を変更した。

五戸鉄道時代の1941(昭和16)年度に30.2万人、1946(昭和21)年度に71.2万人、47年度83.6万人を記録。石炭の値段が高騰し非電化私鉄の多くが電化されたこの頃、南部鉄道も1949年に電化を計画したが、数年の違いで燃料事情は好転し実施は見送られ、車両の大型化と気動車運行再開で対応した。

昭和30年代前半は60万人台、後半は70万人台の旅客を輸送。昭和40年度は87.2万人を記録して戦後混乱期を上回った。会社は八戸を中心に青森県南部・岩手県北部に路線網を有するバス事業が基幹となり、バス収入は鉄道の4倍だった。

なお昭和23年1月には、尻内-八戸中央-種差間の17.5kmの免許を得ている(昭和35年に八戸中央-種差間5.9km失効)。

鉄道の幕を引いたのは、輸送人員の低下でもモータリゼーションでもなく、1968年(昭和43)5月16日9時49分発生の十勝沖地震であった。全線運休。37か所で道床が損壊、レールと枕木が宙づりとなった。復旧費用は2億円近くと見込まれ当時の鉄道収入の4年分を要することから、結局1969年3月27日許可、4月1日実施により廃止となった。会社は1970年5月に南部バスに改称。



【停車場・停留場】
尻内-張田-正法寺-七崎(ならさき)-豊崎-志戸岸-県立種鶏場前(地蔵岱から改称)-五戸
【隧道】
県立種鶏場前停留場付近に地蔵岱トンネル253mがあった。

■参考文献:寺田裕一『私鉄の廃線跡を歩くI北海道・東北編 この50年間に廃止された全私鉄の現役時代と廃線跡を訪ねて』JTBパブリッシング(キャンブックス) 2007年





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最終更新日  2013.03.10 17:49:38
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