仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2013.04.16
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カテゴリ: 宮城
今回も、前2回に引き続いて、仙台・宮城の地名について教えてくれる下記文献から。古代人による移民地名の章から。

■太宰幸子『仙台城下の地名』(国宝大崎八幡宮 仙台・江戸学叢書14)大崎八幡宮 仙台・江戸学実行委員会、2008年

■関連する過去の記事
縄文海進海退の跡を示す地名 (2013年4月15日)
燕沢の地名を考える(再論) (2013年4月14日)(県内の災害崩壊地名)


朝廷はエミシの同化政策として、関東エリアなどからたくさんの人を移民させて、地元民との融合と稲作普及を図ったと思われる。その証拠のように、遺跡から関東系土器があちこちで出土する。移民は生活用品も持参したのだろう。



(1)玉造(たまづくり、たまつくり)
『続日本紀』神亀5年(728)の条に「丹取軍団を改め、玉作軍団となさんことを...」と記載されている。古代の玉造郡にゆかりの人が常陸や下総などから地名も持ってきたと考えられる。東松島大曲浜に玉造神社があるが、下総や常陸から海を北上して大曲浜に到着した古代玉造郡の人々が勧請したと思われる。さらに内陸に向かい江合川(江戸期には玉造川と呼ばれた。もとは前谷地から現在の定川の流路を大曲浜に流れていた。)を遡り鬼首方面へ移住した。

旧岩出山町には一栗字玉造の地名が残るが格別遺跡は確認されない。しかし『鳴子町史』には、河内玉造(玉沙)、出雲玉造(瑪瑙)、陸奥玉造(石英)の日本三玉造があった、とされ、さらに「玉作部の集団が駿河の玉造、下総の玉作地方から移住して土着し水晶の玉を製作朝貢したので一躍名玉の産地とうたわれたと伝えられている」と記載される。
禿岳は古来水晶の山と知られ、「火の沢」の地名があるが、ヒは鉱脈を示すことから鉱脈のある沢という意味で、実際にこの沢の上流には磁鉄鉱や石英の資源が確認される。

玉造の地名でよく知られるのは、島根県、大阪府、千葉県、茨城県、福島県など。

(2)志田郡
常陸国志太郡の移民と思われる。『和名類聚抄』では古代には志田郡志太郷と玉造郡志太郷があったとある。はじめ駿河郡志太郡が設置され、常陸国へ志太郡の移民があり、さらにそこから宮城県に移民があったようだ。

志太郡は「孝徳天皇の白雉4年(653)に物部河内と物部会津が、東国の総統轄する長官に願い出て、筑波と茨城の両郡のうち700戸を割いてもらって、新しく建郡した所」(谷川健一『白鳥伝説』)で、鹿島神社や香取神社を奉斎しながら北上した物部氏や多氏の一族が関係していたと思われる。加美郡城生遺跡からは物部国と書かれた須恵器が出土するなど、江合川や鳴瀬川流域には足跡を確認できる。

(3)朝廷の勢力
大和朝廷の力が宮城県内に及んできた時期は、前方後円墳の築かれた4世紀末から5世紀初頭に築かれた前方後円墳と関係があるのではないか。

大崎市鳴子温泉の石の梅古墳は、確認されたわけではないが前方後円墳でないかとされる。そうだとすると県内最北の前方後円墳である。日本の最北は岩手県の角塚古墳(5世紀末から6世紀初)で、石の梅古墳から約100年を要したことになる。



鳥取部とは、『日本書紀』では、垂仁天皇皇子の誉津別王子(ほむつわけのみこ)が成長しても言葉を発することが出来なかったものが、ある時、鳥を見て声を出した。喜んだ天皇から命じられて天湯河棚命が出雲で大鳥を捕まえたことから、鳥取部の姓を与えた。鳥取部派物部氏の一族であったから、土器は物部氏ゆかりの人たちが東北に移動したことを伝えている。

(4)移民による地名
『宮城県の歴史』(山川出版)には「移民を出した地域は、坂東八国、信濃・甲斐・駿河国・陸奥国南部の磐城・行方・磐瀬・白河・会津五郡である。」とある。移民した人々は、柵(き、さく)という大きなエリアの中で柵戸(きのへ)として普段は稲作を、戦時は戦闘員となり、地元民と少しづつ同化していったと思われる。特に大崎地方を中心に仙台平野から栗原地方まで関東系土器が出土することから、多くはエミシの抵抗の最前線であるこの地方に住まされたかのかも知れない。

■『和名類聚抄』にみる陸奥国への移民地名対照(『宮城県の歴史』(山川出版)より)
(凡例 陸奥の地名:移民元の地名)

名取郡磐城郷:陸奥国磐城郷
宮城郡磐城郷:陸奥国磐城郷
小田郡賀美郷:武蔵国賀美郷
賀美郡磐瀬郷:陸奥国磐瀬郷
色麻郡安蘇郷:下野国安蘇郷
色麻郡相模郷:相模国
玉造郡:常陸国、下総国
宮城郡白川郷:陸奥国白河郷
宮城郡多賀郷:常陸国多賀郷
玉造郡志太郷、志太郡志太郷、志太郡:常陸郡志太郷
新田郡:上野国新田郡
牡鹿郡賀美郷:武蔵国賀美郷
日理郡望多郷:上総国望多郷

(5)東北からの移住
古代から中世にかけては関東からの移住だけでなく、東北から移住して行ったこともわかっている。それも国により移住させられたもののようである。例えば、東北で多く出土する蕨手刀は日本刀の原点だが、もともと東北の鉄文化で岩手、宮城の出土が多い。この蕨手刀が九州の福岡、熊本、鹿児島の各県からも出土している。熊本県の製鉄遺跡の中でも荒尾市や玉名市境の小岱山麓の製鉄炉は半地下式で、東北の形であり、近くには「鬼王」という奥州刀の刀工鍛冶名と同じ地名もある。菊池郡だけに納豆文化もあるという。

宮城県旧桃生町山田には、蕨手刀と同時期の立鼓柄太刀(りゅうごつかのたち)が出土するが、熊本県八代市のみかん畑からも出土している。

平安時代中期の『延喜式』の三大格式のひとつに、俘囚稲の量が国別に記載されている。不思議なことに肥後国が一番多い(173,435束)。俘囚稲とは、その国に配置された俘囚が食料とする稲を生産する量を表したもので、東北の人々があちこちに移配された事実を知る手がかりとなる。肥後国の俘囚稲が一番多いのは、そこに連れて行かれた東北人が一番多くいたこと。

なお、「俘囚」とは律令側の政策に力を貸した、あるいは同化した人たちのこと。中間の人たちを「夷俘」、馴染まなかった人たちはそのままエミシと呼ばれていたようだ。





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最終更新日  2013.04.16 22:27:24
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