仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2022.03.28
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カテゴリ: 東北
高橋克彦さんは藤原泰衡をどう描いたのか。改めて知りたくなって、本に接してみた。

■高橋克彦『東北・蝦夷の魂』現代書館、2013年



阿津賀志山の防塁は10万の頼朝軍を何日も凌げたのに、泰衡は一日でいなくなった。なぜか。一番の問題は頼朝が朝廷の命を受けている点だ。頼朝を討ち負かすことは、朝廷と源氏を相手に、とてつもなく長い戦いになる。平泉はどんなに頑張っても都に攻め上がる軍事力はない。長い目でそういう判断だったのだろう。

戦わずして負けたのは弱腰だったからではない。入り込んだ20万の敵兵と戦えば、平泉や奥六郡が灰になる。それよりは自分たちが立ち去ることで国と民を守ろうという判断をしたのだろう。臆病だったのではなく、清衡の血の流れる泰衡の中には、ここは自分たち支配者だけの国ではないという思いがあったのだと思う。自分さえいなくなれば国土が無傷で残ると信じたから、戦いを放棄したのだ。

阿津賀志山の後、退却を続けた泰衡だが、『吾妻鏡』では、平泉を立ち去る際に火を放つよう命じたため頼朝が入ったときは焼け野原になっていたとある。だが、中尊寺は残っていた。泰衡が焼いたのは、平泉の組織や金山の場所を記した書類を収めていた役所だけだったろう。金色堂の輝きが残っている限り、いつかまた蝦夷の手で新しい町が作られると泰衡は信じていたと思っている。

泰衡は、自分は命令に従い義経を討った、討伐される罪は犯していないので御家人にしてほしいという内容の書状を頼朝に送ったが、これもまた陸奥を頼朝軍から守りたいという思いの表れだったのではないか。この書状に、返事を比内郡のあたりに送ってほしいと記したので頼朝軍が追捕に出るが、居所を書いたのは他の地域を荒らされないためだろう。泰衡が本当に卑怯者なら、隠れ場所をわざわざ知らせるはずがない。

泰衡は、百年かけて平泉がこしらえた理想の人間だと思う。清衡が言葉で語った万人平等を、泰衡は体で現した。

(同書から、おだずまジャーナルで若干の要約をしています。)

泰衡の評価にわたる部分だけ記した。秀衡が義経を受け入れた狙い、頼朝による義経の扱いや平泉攻めの真意、などなど高橋克彦さんの見方には非常に興味をそそられるのだが、改めてまた。

■関連する過去の記事
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最終更新日  2022.03.30 21:29:54
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