仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2022.12.22
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カテゴリ: 東北
大船渡線は、竜ののたうつ形状から愛称ドラゴンレール、また鍋の取っ手にも見えて鍋弦(なべづる)線とも呼ばれる。その形成過程はどうだったのか。

■参考 今尾恵介『地図帳の深読み 鉄道編』帝国書院、2022年
■関連する過去の記事
幻の一関西部鉄道構想 (2013年4月24日)
幻の鉄道計画 改正鉄道敷設法の予定線(その1) (2013年4月19日)(大船渡線がナベヅルになった理由)

大船渡線は、一ノ関と摺沢の間が大正14年(1925)7月26日開業、次いで、昭和2年(1927)7月15日に摺沢と千厩の間が開業。その後、同3年折壁まで、同4年気仙沼まで、同10年に盛までが全通している。

菅原良太氏(一関市文化財調査委員、東磐史学会会員)によると、この地域の鉄道計画は明治20年代から存在し、最初は一関町と気仙沼を結ぶ磐仙鉄道が摺沢村の有力者らにより創立認可願が明治30年提出されたが挫折。建設促進のハードルを下げる軽便鉄道法の施行を機に、やはり摺沢村の佐藤秀蔵が発起人総代となり明治45年に磐仙軽便鉄道として敷設申請された。



他方で大正7年に政府鉄道会議で一ノ関と気仙沼間の国有軽便鉄道敷設案が可決される。ここで、摺沢と千厩で誘致運動が盛んになった。原敬内閣(立憲政友会)は、四大政綱のひとつに交通機関の充実を掲げ、新線建設を進めた。大正9年総選挙岩手6区では、立憲政友会新人で摺沢村の佐藤秀蔵の長男佐藤良平が、立憲民政党のベテランで中里村(一関市市街地の北)の柵瀬(さくらい)軍之佐を破る。このことが、摺沢経由を決定したと思われる。

ところが、次の大正13年(1924)5月第15回総選挙では、柵瀬が返り咲く。それまで摺沢からほぼ真っすぐ折壁に向かうはずだった線路は、猛運動により千厩経由に変更された。昭和2年7月には摺沢-千厩間が開業するのだが、選挙から開業まで3年という短期間だったのは、かつて工事認可された磐仙軽便鉄道の支線(摺沢-千厩)の設計を流用できたからだろう。


今尾恵介氏のこの本には、政治路線の有名な例として、長野県の「大八回り」も紹介されている。中央本線が岡谷から南下して、辰野駅からまた北上して塩尻に至る大きなV字のルートだ。伊那谷出身の代議士伊藤大八が、上伊那郡北端の辰野を経由させたという話だ。実際には、フォッサマグナの困難地質を抱える塩嶺峠にトンネルを掘るのは当時の技術では難しかったためらしい。





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最終更新日  2023.01.03 09:08:13
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