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2021年07月13日
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カテゴリ: 仏教、神話、哲学
以前梵字や真言について
「じゃあ真言や梵字は本当に神聖なものなの?ということだ。
たとえば月面探査で阿字が発見されたとか、宇宙空間に真言が流れていたという類いのものではない。人間が作ったものなんですよね。ただの音声や記号が、他の言語に比して特に神聖である可能性は低い。」
このように述べた。

しかしこれはサンスクリットである必然性はないという意味であって、真言自体はあらゆる存在(六大全て)が本来的な真言であり、仏の説法なのです。ですから宇宙空間には真言が響き亘っています。

そして(仏説を離れて)仏説を説く者、説かれる者、という主客の分別はそこにはありません。天然自然に仏説が仏説に仏説を説くというような、自受法楽の自性があるばかりなのだと私は考えております。

しかも仏説は仏身で悟りとも等しい。三密は平等なのです。

かるが故に、仏身がそれとは別に内証智を秘してしまっていると考えるのはとてもナンセンスなことだと思っています。

しかしそこで敢えて、(仏説から洩れる)最後に残るものを考えてみると、それは自心ということになるでしょうか。自己ともいいます。見る者は自身をみることができません。見る者は見られる対象ではないのです。死角があるんですね。この自己は言語化できません。



しかしそれは、代名詞「私、我、彼、あなた」みたいなもので特定の対象自体を指し示した言葉ではない。分かりにくければ別の例えで。それは「穴」のようなもので穴の周囲の輪郭を説明することで穴を説明することができる。空間だけでは穴を説明できない。あらゆる存在、仏説も輪郭というわけです。

では、穴の中心には「何か」があるのか。何もないですね。代名詞、例えば「我」という言葉。「我」がある、というと、我の実体があると勘違いしてしまいますが、実際は無我です。
しかし心理機能としての我は存在しています。心理機能は自性が生み出した世界内存在。だから死角があって当然。

世界は複数の主観が折り重なり揺らぎの中に成立しています。
絶対的客観世界が存在しない以上、世界外存在たる自己は明確には存在せず、死角部分を補い完全に至るというのはできないのが当然。
これは不完全性定理と不確実性原理の合わせ業です。

とならば「空」も「本不生」も「我」も心理内の言語機能にすぎません。
これらの「空」を言語として認識するのが密教。沈黙すら言語として扱う。

言語は比較分別の枠だ。明確に「そのもの」を言い表す言葉など存在しない。恣意的に名を対象に押し付けているだけ。
自己は分別がもたらした概念。だから実体がない。
そこで空の沈黙を言語の原初と考え神聖視してしまうと比較分別のヒエラルキーができてしまいます。これが大乗から密教初門までの段階。






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最終更新日  2021年07月13日 02時12分00秒
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