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2023年08月02日
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カテゴリ: 仏教、神話、哲学



通常は「辟支仏」「縁覚」という言葉があることから「発見」が正しいと見るべきだろう。つまりお釈迦様以前から真理としての「十二因縁」は存在したということ。

しかし私は「発明」だったのではないかと考えている。ということは構築されたもの。普遍的なものではないということ。

というのも十二因縁は上部構造と下部構造とで分類するなら、上部構造の因果を説くと思われるからだ。
時間軸の物理的因果ではなく、精神的な論理の因果関係を説くのが十二因縁。
それはソシュールの構造主義と同じで、恣意的に構築されたものだと考えるからだ。

この説明では分かりにくいだろうが、「現在から過去を振り返り、反省で以て作られた」ものだと考えるからだ。
お釈迦様は覚る過程で「十二因縁」の過程を観想し、後で以て「十二因縁」という概念が与えられた。ヴィパッサナーと同じで現実を観察する。そしてそこに言葉が与えられる。ラベリングされたようなもの。
戒律と同じ。事が起きてから戒律が作られる。

「作られた」ものであるというのなら「恣意的」に設けられたものが十二因縁と云っても問題ないだろう。

そしてこれは重要ななことなのだが、普遍的なものでないということは、「客観的」に存在するものではないということだ。十二因縁は「主観的」に作られたものであるということ。





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最終更新日  2023年08月02日 19時56分44秒
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