真理探究と歴史探訪

真理探究と歴史探訪

2005年06月28日
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ここで「一の宮(いちのみや)」とは、旧国域のなかでも由緒が深く最も格式の高い神社のことをいう。例えば、山口県東部の旧国域は、明治以前は周防国(すおう)といい、その周防国の一の宮は、玉祖神社(たまのおや・防府市内)である。


しかし、お宮参りを重ねてきても、あるいは重ねれば重ねるほど、なぜか自分の内面に腑に落ちないところが出てきていた。そういうなかで、弥生以前の1万年以上の歴史・文化のある「縄文」に目覚めていったのだと思う。縄文系の神社もあるが、多くの神社祭祀は、弥生時代以降の中国系帰化人がもたらした中華思想のひとつである「道教」の思想信仰が組み込まれている。例えば、神前に置かれた「三種の神器」のひとつの「鏡」への崇拝は、道教思想の習合から生まれたとされる。

というよりも、戦いに敗れた万単位の大量の中国人が、日本列島に亡命してきて、
そこで大陸伝来の自分たちの祭祀を始めたのが、現在の神社祭祀につながっていると考えたほうが良さそうである。歴史研究の最前線では、BC5世紀の中頃、呉越の戦いに敗れた中国の呉の大量の海軍の軍勢が一気に敗走し、日本の有明海にたどりついて、そこで都市づくりをした跡が、佐賀県の吉野ヶ里遺跡とわかってきた。

真偽のほどは別として、それが日本列島における弥生時代の始まりとする研究書が、言論の自由のもとに出版されたところが素晴らしい。既存の歴史学会などでは受け入れがたいだろうが・・・。よく歴史認識と言うが、日中韓で真剣に手を取り合って、歴史を掘り起す努力をすれば、もっと深い歴史の流れが表に出てくるはずである。そこで私なんかは「なるほど、それで呉服というわけか・・・」と感じたところで休憩である。(笑)

加えて、紀元後の3世紀、大陸の三国時代において、魏呉蜀の三つ巴の戦いがあったが、やはり戦いに敗れた呉の孫権(孫氏)の一族が、大軍団を率いて大量に日本に亡命しており、この孫氏の海を渡っての移住を「天孫降臨」という・・・という研究書もある。アマテラスという神名よろしく、発声音からも「天」は「海」とも解釈できるので、言い得て妙である。ちなみに、呉国からの移住が、日本神話における「出雲の国譲り」などに関連し、それまでの弥生時代から古墳時代への転換期と重なるようである。

この大陸で敗戦して呉国から移住した人々の大規模な墓地として想定されるのが、宮崎県西都市にある西都原古墳群(さいとばる)である。
ここに天孫降臨された方々が、ニニギ命の御一行であり、その系統から神武天皇が即位したとなると、いわゆる神武紀元は紀元前660年ではなく、紀元後の4世紀はじめ頃が、いわば古墳革命と言える端緒ではなかったかというわけである。



話はかなり横道にそれたが、いよいよ本題の「縄文の垂直(高さ)」の話題にしよう。そんなことで、弥生時代以降の中国伝来の道教思想をはじめとする、様々な中華思想の影響が色濃い神道祭祀への傾倒の時期を経て、縄文の歴史が刻まれた遺跡の現場を訪ねる旅が始まった。私は、現場主義を心がけるタイプなのである。

そんな折、自由な時間ができて、約1ヶ月をかけて山口から東北、そして北海道まで、車で一人旅をする機会を得た。別に縄文遺跡を巡る旅というわけでもなかったのだが、結果的には主に東北地方の約10ヶ所の縄文の遺跡巡ができた。2001年の初夏のことである。

不思議にもその時期、巡った数々の縄文遺跡の近くに、出土物などを陳列した資料館が開館したばかりなど、各地域の縄文の文化財をじっくりと拝見する機会を得たのはうれしかった。

旅を終えて帰ってきてからも、縄文への思いを巡らすうちに、ある時ふと気づいたことがあった。それは、縄文の持ち味は「垂直(高さ)」だということである。


「縄文人は、ひとり一人、宇宙と垂直につながっていた・・・。 間違いない。」

「今を生きる我々もそうである。みんな直接的に、宇宙と結ばれているのだ。自分と宇宙との間に、だれか特別な人を介さなければ、宇宙とアクセスできないと考えることは、主体性欠如・他力依存・責任転嫁を、みずから容認することになるのではないか。そのとき、ひとり一人の肉体こそ、自分の「心」が鎮座する神殿なのだだということに気づいたのである。真実の相手は自分なのである。」」


縄文遺跡の中でひときわ目を引くのは、青森の三内丸山遺跡を代表とするように、大きな柱が立っていた跡である。縄文人は、この大きな垂直に屹立する柱をたよりに、宇宙とつながっていたのではないか・・・。この直観は、いつしか私の中では確信に変わっていった。

そういえば、縄文由来の祭りを残すとされる長野県は諏訪大社の御柱祭。なぜ、柱を立てることに、あれほどまでに力を注ぐのか。神社で祭る御祭神を、一柱、二柱などと柱で数えるのも、これも縄文由来なのではないか。また、世界レベルでみても、古代の定住地などや、現在でも文明の入らない秘境の地などでも、その地域の人々の共同の生活の場の中心に、天地を結ぶ象徴たる大きな柱を立てて、その柱を要として人々の和合を図っていたなど・・・。

そうすると、紐解けてきたのである。そうか、縄文が垂直軸で高さ、弥生が東西軸で横、そして古墳時代以降が南北軸で縦が、それぞれの時代の持ち味だったのか。
そして、なぜ自分が、真理探究の手がかりとして、縦・横・高さの3要素が基本の
「立体構成」を選択し活用してきたのかということが判然としたきたのである。




そう感じたのは、一万年以上続いた縄文時代の生活の場は、気候が変動したある時期は別として、ほとんどが海辺の生活だったというところからだ。その海辺の生活を左右するのは、潮の満ち干であり、その潮の干満を強く左右するのが「月」のはたらきだからである。

また月は、地球に生かされて活きるわれわれ人類を含む生命にとって、垂直方向にはたらく重力(引力)作用に関係が深い(太陽や他の天体と比べて)というところから、[ 縄文時代・垂直軸・月 ]という関連付けとなってきたわけである。

以上の観方によって、現在という視点から、3つの歴史時代の大きな流れを、3つの方向性と3つの天体を手がかりに、全体的に俯瞰するという時空認識ができるのではないかと考えるわけである。

この縄文・弥生・古墳という歴史の流れの順序に対応するように、[ 月・日・星 ]という順序が大切である。この順序を日々の生活に取り入れた暦が、「太陰太陽暦」すなわち「旧暦」である。月の満ち欠けを基本にした生活の道しるべだ。
現行暦は、明治の初めに太陽暦を導入して以来、旧暦とほぼ一ヶ月ずれた季節感覚となっている。例えば、もうすぐ来る7月7日の七夕祭りは、旧暦の7月7日が本来の日取りの月日であり、現行暦では今年は8月11日となる。そのころ織姫・彦星が夜空に輝いていて、七夕まつりにふさわしいわけで、来月の7日に七夕イベントをしても夜空には織姫・彦星はまだ見えず、意味がないわけである。


を、この地球という星に生かされている我々は、日々の生活の道しるべとして活かしていくことで、自然の営みと歩調を合わせていく、あるいは本来の生活のリズムを取り戻す足がかりにしていきたいものである。

(巷には、「13の月の暦」という、月の満ち欠けとは関係のない暦らしきものが流布しているが、本来のマヤ暦とはかけ離れているということである。日本列島の生活では、江戸時代にかなりの精度で編み出されたとされる旧暦のこよみで良い。毎年の年始に神社で配られる暦に記載された旧暦を参考にすれば充分である。)


以上、かなり濃い内容となったわけだが、これもひとつの捉え方として、面白いと感じたところだけでも、「何らかのお役に立てたら」と思いつつ記しました。
ここまでお付き合い下さり、ありがとうございます。







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最終更新日  2005年07月01日 08時16分34秒


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