







加えて由緒にも記されているように、当社から北西に向かう緩やかな上り坂を少し登った道沿いに、「天之真名井(あめのまない)」と呼ばれる「五角形」の井戸があり、その井戸を祀る「大泉神社」を訪れた際に撮影した画像が以下の三枚である。
もうお分かりのように、ここで興味深いのは、上掲画像の「五角形祭壇」といい、下に掲載した画像の「五角形井戸」といい、共通する「五角形」の呪術性が感じられるところである。


もともと当社の鎮座地は「気延山(きのべやま/標高212m)の山頂であったが、推古天皇元年(593年)に山麓の現社地に遷座したとの伝承があることを知り…まさか…と思いつつも、下の画像のように地図上で「気延山」の山頂と「八倉比賣神社」の現社地を線で結んでみると、なんと!その軸線上に「大泉神社」があることには驚いた。
…となれば山麓の「五角形祭壇」、そして中腹の「五角形井戸」とくれば、自ずと山頂の旧跡も「五角形」の祭壇だったのでは…などと感じられ、歴史ロマンあふれる想像の翼が羽ばたくのであった。
この地図にもあるように、当社周辺は「阿波史跡公園」として整備されており、縄文期から古墳期までの遺跡が発掘され、古代の集落が復元されている。
その園内には「三角縁神獣鏡」が完全な形で発見された宮谷古墳や八倉比売神社1号・2号墳、奥谷古墳など、約200基が点在し、県下最大の古墳群を形成している。
また、当社の東南1.4kmの地点にある矢野遺跡から、高さ98cm、重さ17.5kgの突線袈裟欅文銅鐸(とっせんけさだすきもんどうたく)という「矢野銅鐸」(国重要文化財/下の画像)が出土している。
これは県内で発見された42点の銅鐸の中では最大で、国内でも最大級。弥生時代後期に作られた最新型式とみられている。
以上のことから、「気延山」の東南域一帯は、 縄文時代から古墳時代にかけて阿波国の中心地となってい
たことが推考され、当社の神体山である「気延山」は、前回の日記で取り上げた「阿波三山」とは別格となる御山であったことがうかがえよう。
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