


今を去ること1075年ほどの昔、桓武天皇5代の皇胤鎮守府将軍・平良将の子将門公は、下総国に兵を起こし、たちまちにして板東八ヶ国を平定、自ら平新皇と称して政治の革新を図ったが、平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ、馬上陣頭に戦って憤死した。享年38歳であった。世にこれを天慶の乱(てんぎょうのらん)という。
その後、将門公の首級は京都に送られ獄門に架けられたが、三日後に白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちた。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったとされ、村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。これが、この将門塚と語り伝えられている。
その後も度々将門公の怨霊が崇をなすため徳治2年、時宗二祖真教上人は、将門公に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し、塚前に板石塔婆を建て、日輪寺にて供養し、さらに傍らの神田明神にその霊を合わせ祀ったところ、ようやく将門の霊魂も鎮まりこの地の守護神になったという。
天慶の乱の頃は平安朝の中期に当たり、京都では藤原氏が政権をほしいままにして我が世の春を謳歌していた。遠い板東では国々の司が私欲に走り善政を忘れ、下僚は収奪に民の膏血をしぼり、加えて洪水や旱魃が相次ぎ、人民は食なく衣なくその窮状は言語に絶するものがあった。そのため力の弱い多くの人々が将門公によせた期待と同情とは極めて大きなものがあり、今もって関東地方には数多くの伝説と将門公を祀る神社がある。
このことは将門公が歴史上朝敵と呼ばれながらも、実は郷土の勇士であったことの証である。また天慶の乱は、武士が台頭する烽火であったとともに、弱きを助け悪を挫く江戸っ子の気風へとつながり、
今日の社会にも大きな影響を伝えている。
(以上は「将門塚」の解説文より抜粋)





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