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今まで「源氏物語」に登場する女性たちについて、
私なりの解釈と思い込みで「幻」のあたりまで書いてきました。
私が「源氏物語」を素晴らしいと感じる理由の一つには、
慣用句がほとんど使われていないということがあります。
たとえば、後深草院の二条という女性によって
鎌倉時代に書かれた「とわずがたり」という回想録があります。
これは「増鏡」にも盗用されるほどリアルで正直な内容ですが、
やはり「比翼連理」といったような慣用句が多用され、
そのために面白みが半減しています。
しかし紫式部は中国から漢文とともに渡来した慣用熟語に頼らず、
自身の持つ言葉と表現を使い、源氏物語の世界をみごとに構築しています。
当時、女性が漢文を読むことを好しとされなかったことが、
反って新しい文学を生みだしたのかもしれません。
そしてそこにあるのは「古典文学」としての古さではなく、
いつの世も変わらない人間の持つ情と人の世の理不尽さであり、
だからこそ現代でも共感をもって読み継がれているのではないかと思います。
私は54帖のうち源氏の死までは、読者の期待によって書かれたような気がしています。
読者の催促が作者を励まし、創作意欲を刺激し、
背中を押されるようにして書いていったのではないかと思うのです。
そうして紫の上の死を描き、源氏の死を迎えたとき、作者は一時休筆したのではないか
と、そんな気がしています。
今でいう燃え尽き症候群のような、そんな状態に陥ったのではないかと想像します。
ところが宇治十帖に、私は作者の違った意思を感じるのです。
つまり、以前は読者のために書いたけれど、
宇治十帖は作者自身の救いのために書かれた、そんな思いが心に浮かぶのです。
単なる源氏ファンでしかない私に、明確な理由を述べることはできませんが、
書くことによって自分の思いを確認し、思考を深めていった、そんな気がするのです。
宇治十帖の中では、私は断然浮舟が好きです。
狂言自殺を演じた卑劣な女性という意地悪な見方をする男性もいるようですが、
それは本当の浮舟を捉えていない薄っぺらな解釈でしかありません。
ところで私は、宇治十帖に登場する女性たちについて、なぜか書けないでいます。
源氏を中心とした六条院の世界から解脱できず、宇治十帖に進めないのです。
そうしてしばらく源氏物語から遠ざかっているうちに、
私なりに現代語訳をしてみたいと思うようになりました。
何年かかるのか、どこまでできるかは分かりませんが、トライしてみようと思っています。
「私訳・源氏物語」にお付き合いくださいましたら、たいへん幸甚に存じます。
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