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第38回「真の万物の日」記念礼拝の御言

成約八年 2000年6月2日(陰暦5月1日)
ニューヨーク市


 きょうは何の日ですか? (「『真の万物の日』です」)。きょうは「真の万物の日」ですが、何の日から始まりましたか? 「真の父母の日」です。「真の神の日」を立てる前に、「真の父母の日」と「真の子女の日」と「真の万物の日」を立てることによって「真の神の日」が始まるということを知らなければならないのです。

 「真」という言葉をつけたのですが、 そのような意義があるということを知らなければなりません。「真の万物の日」です。「真の父母の日」と「真の子女の日」と「真の万物の日」を持つことができるようになったので「真の神の日」が始まりました。「真の神の日」が立てられるまで、小さいところからずっと千年まで発展してきたのが蕩減復帰の路程であり、創造理想完成の路程なのです。​

 いちばん下は何かというと、万物です。「真の父母の日」、「真の子女の日」、「真の万物の日」です。すべてここに帰らなければなりません。帰ろうとすれば、神様を解放しなければならないのです。神様を解放するにおいては、人間から上がっていくのですが、「真の万物の日」の前に「真の子女の日」があり、「真の子女の日」の前に「真の父母の日」があり、「真の父母の日」の前に「真の神の日」があります。

 平面的な万物の日が出てきたというのです。万物を食べて暮らすすべての人が真の人になれるのではありません。それは、真の父母の教育を受け、真の父母の道に従っていくことによって真の人となり、真の夫婦として一つになり、真の天の国を解放しなければなりません。

 そのようにして摂理の歴史は始まり、すべての正道を通過するのです。ただ一つ残るものは、神様の愛と神様の生命を中心とした血統と家庭と世界です。神様の恨は何かというと、真の愛の血統によってつづられた家庭と氏族、民族、国家を中心として世界を一つにし、天上世界と一つになり、天上世界の自由奔放な解放圏と地上世界の自由奔放な解放圏を成し遂げようとしたことであり、それが堕落以降の救援摂理史における全体目的であったのです。アーメン。(「アーメン」)

 それで、きょうが何の日なのですか? (「『真の万物の日』です」)。きょうは、どのような話をしてあげればよいでしょうか?。どのような話ですか?

 皆さんのことに関する話をしてあげればよいでしょうか、万物に関する話をすればよいでしょうか、人に関する話をすればよいでしょうか、真の父母に関する話をすればよいでしょうか、神様に関する話をすればよいでしょうか?

 もし万物と真の父母と人間が一つになったとき、その全体が掲げるあるものを、自らの代身として自分のもののように愛すれば、全体を愛したという条件になるということを知らなければなりません。

 ですから、蕩減条件が必要なのです。蕩減条件です。全体を代表し、過去、現在、未来を代表します。個人時代、家庭時代、氏族時代、民族時代、国家時代、世界時代、いかなる時代を横的に代表するとしても、その条件を立てるにおいて、夜も昼も、過去や現在や未来においても変わらない内的なものが、神様の救援摂理史上に現れた蕩減条件であるというのです。条件的な表示物が重要であるということを皆さんは知らなければなりません。分かりますか?

 きょう皆さんと「これを(チョークを持って話される)持つ人には天下を上げる」という約束をしてから、これを放り投げ、ある人が足を先に出してからこれを左手で間違いなくつかんだならば、これを持った人に天下を渡さなければならないでしょうか、渡してはならないでしょうか? (「渡さなければなりません」)。渡してあげなければなりません。

 さあ、それでは、きょうはどのような話をしましょうか?。いちばん良い話や悪い話をしますか、悪い話、良い話をしましょうか?。統一教会の教会員は、このような集会のときには必ずイヤホンを持ってこなければなりません。



 日本のメンバーでイヤホンを持っている人、手を挙げてください。アメリカのメンバーでイヤホンを持っている人、手を挙げてみてください。一人もいませんね。ただが好きな西洋のメンバー、いつも持ち歩きなさい。分かりましたか? (「はい」)。それをいつも準備しなければなりません。ドイツ人が十人来て、韓国語が分からなければ強くけ飛ばしてしまうのです。

 このような日には、ここで必ず韓国語で話すようになっています。先生は、韓国語で話すようになっているのです。英語や日本語が分かっても、それらの言語で話すようにはなっていないというのが原則なので、話を理解できるように韓国語を分かる人が英語や日本語に通訳してあげなければなりません。橋を架けざるをえないのです。他の国の言葉を話す人のかわいそうな立場であるということを知らなければなりません。ノーメンですか、アーメンですか? (「アーメン」)。ノーメンは、KNOWでもよいです。NOではありません。

 さあ、良い話からしましょうか、悪い話からしましょうか?。悪い話からしましょうか、良い話からしましょうか?。どちらですか?。選択したとおりに……。(「悪い話からしてください」)。なぜ悪い話からするのですか?。きょうは良い日ではないですか?

 見てください。良いものでも良く、悪いものでも良いというならば、本当に良いでしょう?。皆さん、見てください。手をこのようにしてください。いちばん長い指はどれですか? (左右の手の中指を立てて、合わせながら)やってみてください。両手でこのようにしてみてください。

 大きいもの(左右の中指)同士、左手と右手の両手でこのようにすれば、どのようにしたいですか?。どちらが長いのか、二つともぴったりと同じものを合わせてみたいでしょう?。大きいですか、小さいですか、ぴったり同じですか? (左右の中指を前後に動かしながら)このように比べてみても、このように比べてみても同じでなければならないというのです。

 男性と女性では、男性が大きいですか、女性が大きいですか? (「男性が大きいです」)。男性と女性は、何を中心として同じなのですか?。愛を中心として同じなのです。男性と女性は、何を合わせるのですか?。真ん中を合わせます。真ん中です。

 この宇宙の中心になることができ、最も高い所から最も低い所にまで通じることができるので、それを合わせるのです。それが真の愛であるというのです。男性と女性が同じであるためには、真の愛を中心として高低がない一つの体にならなければなりません。アーメンです。分かりますか? (「はい」)

 (中指を指しながら)これは何番目ですか?。これは良いところです。(親指から数えて)一、二、三番目で、良いところです。(小指から数えて)一、二、三、すべて良いのです。この二つが一つになってこそ……。(片方の手の五本の指先をつけて)このようにつかむとき、皆さんの手の親指がどこにつくかというと、これ(中指)と比例します。

 一度やってみてください。(中指と親指の先をつけながら)このようにしてみてください。このようにするのです。(五本の指先をつけながら)これ(親指)は、どの指にでもついてまわります。(四本の指が親指の)囲いになるのです。これ(中指)が男性、これ(薬指)が女性です。それから、(人さし指と小指が)息子・娘であり、(親指が)神様です。このように、このすべての宇宙がぴたっと四位基台になるのです。

 合っていますか? (五本の指をつけられながら)これがぴたっと四位基台です。ですから、これ(中指)を中心としてこれ(薬指)も喜び、これ(小指)も喜ぶのです。良い話でも喜び、悪い話でも喜ぶということです。中心さえ立っていれば、真の愛さえあれば、悪口を言っても喜び、褒めても喜ぶのです。アー (「メン」)。(笑い)

 ですから見てください。(親指から数えて)一、二、三、三数です。(小指から数えて)一、二、三。三です。(親指から数えて)一、二、三、四、五、(小指から戻って)六、七、八(中指に戻る)。三・八。三八度線は宇宙的な壁です。




 これを見てください。赤ん坊が腹中にいるとき、手をどのようにしていますか? (親指を外に出して手を握られながら)このようにしていますか、(親指を中に入れて手を握られながら)このようにしていますか? (親指を出して)このようにすれば、つめが引っかかります。何に引っかかるのですか?。子宮です。ぴたっと(親指を中に入れて)このようにすれば、引っかかるところがありません。

 ですから、腹中でこのように(親指を中に入れて)手を握っているのではないですか? (親指を外に出しながら)このように握っているのはばかだというのです。引っかいてしまいます。ですから、しっかりとこのように(親指を中に入れて)握るのです。

 (親指を立てられながら)これは何ですか?。ナンバーワンです。ナンバーワンとは何ですか?。神様を象徴するのです。二性性相です。二性性相を中心として、一、二、三、春夏秋冬、十二か月がぴたっと神様を中心としているのです。男性性相、女性性相、二十四の節気です。四位基台を中心として二十四の節気が一つになるのです。

 それゆえに、人間は、二十四の節気を守らなければなりません。節気に従って自分が行うべき礼法を備えて生活することができなければなりません。法度に合わせなければならないのです。西洋は、このことを何も知りません。そのような意味において、東洋思想には偉大な内容があるということを、皆さんは知らなければならないのです。

 これを見てください。(目を指されながら)これは神様でしょう?。人が行ったり来たりしながら、このように回るのは何によってですか?。これが回るときは、何によって回るのですか?。体がいくら大きくても、目によって回るのです。



 呼吸をするのは、何を食べることですか?。空気を食べることです。口では何を食べるのですか?。見えるものを食べなければなりません。見えるものと見えないものを一緒に食べなければならないのです。口と空気の穴は通じていますか、通じていませんか?。これ(鼻)をふさいでも、「ふふふ」……。(口をふさいで鼻で呼吸をされる)しかし、ご飯を食べなければ死んでしまいます。ご飯が必要でしょう?。空気を食べることがより必要ですか、ご飯を食べることがより必要ですか?。

 共産党は「ご飯だ」と言うのです。「ご飯によって生きる」と言っています。生きていくのに、空気がより必要ですか、ご飯がより必要ですか? (「空気です」)。わたしはご飯です。(「空気です」)。この者たち。ご飯です。(「空気です」)。そうです。空気がより必要なのです。

 統一教会に入れば、四十日断食は普通に行います。四十日食べなくても生きていけますが、空気はどうですか?。十五分だけでも呼吸しなければ、二×七は十四で、十四分過ぎただけでも死んでしまいます。(鼻をふさぐジェスチャーをされる。笑い)

 ですから、生命がどこにかかっているのかといえば、ご飯にかかっているのではありません。見えない空気の世界に生命要素があります。それは、すべての骨と肉に育っていくことができるものなのですが、この体は、肉を維持する食物を食べているのです。分かりますか?。それで鼻は、次元の高いものを食べるのに必要なのです。

 神様の生命は何かというと、愛です。神様は空気も吸います。それは霊界にもあります。しかし、神様にとって最も重要なものは何であるというのですか?。お金は必要ありません。お金はいくらでもつくることができます。神様は知識の王です。権力の王です。

 地上では、大統領になると、お互いに死ぬか生きるかという、あらゆることをしていますが、それはすべて流れていってごみ箱に入っていく者たちです。しかし愛だけは、神様にとって絶対に必要なのです。そうですか、そうではないですか? (「そうです」)そのことをどうして知っているのですか?。愛が一番なのかどうか、どうして知っているのですか?。愛を行ってみれば分かるのです。分かりますか?。行わない人は、愛がご飯よりも劣り、空気よりも劣ると考えるのです。

 しかし、愛の味を感じた人は、ご飯を食べることよりも、空気を食べることよりも、愛を食べるほうがもっと素晴らしい味があるというのです。どのようにして食べるのですか?。むしゃむしゃ。一度むしゃむしゃと言ってみてください。(口を開けてむしゃむしゃとする音を出される)では、愛を食べてみましたか?

 男性と女性は、なぜ生まれたのですか?。男性はどうして男性として生まれ、女性はどうして女性として生まれたのですか? 「愛を食べるために生まれた」というのは合っていますか、そうではないですか? (「合っています」)。その愛を食べる食器はどこにありますか?。愛を食べることのできる食器はどこにあるのですか?。ご飯のお皿がどこにあるのかというのです。どこにありますか?。わたしも知りません。学ぼうと思っているのです。愛を食べることのできるお皿がどこにあるのかと尋ねているではないですか?。この者たち。(「生殖器です」)。何ですか、生殖器ですか? 「生植器」と言えば、韓国語では「生きているものを植えておく皿」という意味もあるのです。

 それでは、その生殖器で何を食べるのですか? (「愛です」)。何ですか?。愛を食べるのですか?。愛を食べるのを見ましたか?。見てはいませんが、味を知っているのです。

 本物の男性となり、本物の女性となり、そのふたりが夫婦になれば、生殖器を通して愛を食べる味が分かりますか、分かりませんか?。郭クァク錠煥氏。(「分かります」)。梁昌植シク氏。(「分かります」)それから、この優秀だという人、分かりますか、分かりませんか? (「分かります」)。どうして分かるのですか? (「食べてみました」)。食べてみてどうでしたか? (「おいしかったです」)。味がどうなのかと聞いているではないですか? (笑い)(「言葉では言えません」)

 五官がストップして、死んだ人が口を開いて笑っているように寝入ってしまうのです。愛の味がそうなのです。いろいろな悪口を言い合いながら死ぬか生きるかというほど、めちゃくちゃにけんかをしても、愛を味わえば、すべてが溶けて、愛に酔い、「夜よ、早く来い、早く来い。昼よ、早く来るな」と、あらゆることをしても幸せだというのです。(笑い)なぜ笑うのですか?

 「統一教会の教主であるという人が、あのような話ができるのか?。やあ、まったくあのようにして教主の役目ができるのならば、わたしもなってみよう」と思う人がたくさんいるでしょう。しかし、味が違います。他の人の味と、わたしが教えてあげた味とは違うのです。それゆえに、統一教会の人々が愛の味を知ってみると、文先生が教えてくれるものがいちばん良いので、その先生に従わざるをえません。それが何のことか、わたしには分かりません。

 先生が好きですか? (「はい」)。(拍手)じっとしていてください。夫婦で座っているときに、自分の夫や妻よりも先生がもっと好きなのかと尋ねれば、その夫や妻に失礼ですか、失礼の反対の得礼ですか? (笑い)ですから、それよりももっと良い「父」というものをつけたのです。分かりますか? 「父」とは、幼いときから愛の味を教えてくれたかたであり、母もそのようなかたです。

 父と母の懐に入っていって愛を受けるときには……。母親の懐に抱かれてオッパイを飲むとき、左のオッパイを飲んでいる赤ん坊が「お父さんが来て、右のオッパイを飲むのを見たい。触りたい……」と思いながら、お父さんが来ることを願うでしょうか、願わないでしょうか?

 郭錠煥氏。きょうは良い日なので、良い話を尋ねているではないですか? (「考えれば結論が出ると思います」)。考えなければならないということは、愛の味を知らないという話でしょう。

 自分が左のオッパイを飲んで母親が胸を出しているのに、お父さんが右のオッパイを飲んだからといって赤ん坊が足でけ飛ばし、顔をがりがり引っかいたりするでしょうか、顔をさわって……。(「喜びます」)。喜ぶのなら、「喜ぶ」と言わなければならないでしょう?。そのような説明をしなければ分からないほど鈍いので、「天国に行きなさい」といってもびりに近いということを知らなければなりません。(笑い)分かりますか?

 夫婦で赤ん坊を生んで、右のオッパイを飲ませるとき、その息子は、お父さんがお母さんの左のオッパイを飲んでくれたらよいという思いがないことはないということを知らなければなりません。そのようにすれば、お母さんと子供とお父さんと一つになっていますか、なっていませんか? (「なっています」)。何を中心としてですか?。お母さんを中心としてです。だれか、そのような家庭がありますか?。そのような家庭があるのかと聞いているではないですか?。なければ偽物です。

 「お母さん、赤ん坊がオッパイを飲む?」と夫が言えば、妻は「どうしたのですか?」と尋ねてきます。そして夫が「分かっているでしょう。赤ん坊が飲みたがっているよ」と言い、妻が「そうですか」と答えれば、統一教会の教会員たちは、赤ん坊よりも先に胸に飛びついていって……。赤ん坊も、オッパイを飲もうとすれば、口が渇くではないですか。

 ぱっとくわえてぬらしてあげて、自分が教えてあげると言いながら、ちゅうちゅうとすれば、それは失礼ですか、有礼ですか?。そのようにしたからといってお母さんが夫を足でけ飛ばすでしょうか、歓迎するでしょうか?。アメリカの女性たち、どうですか?。アメリカのお母さんたち、どうですか?

 妻と夫が、「お父さん」、「どうした」、「赤ん坊にオッパイを飲ませましょうか」という、やりとりをするようになるのです。「口が渇き、乳首が乾いているので、うまく飲めるようにしてください」ということです。そうして、ちゅうちゅうと吸ってあげれば、それを見て赤ん坊がオッパイを飲むことを学ぶのです。それをお母さんが見詰めるとき、不幸でしょうか? (赤ん坊がオッパイを飲むのをまねされる)

 両手でお父さんとお母さんを抱いて……。それで寝転がってもよいのです。赤ん坊を抱いて愛するようにです。分かりますか?。お父さんとお母さんがこのように暮らしていたということを子供に教えてあげてもよいのです。そのようにすれば、不幸な家庭になるでしょうか、幸福な家庭になるでしょうか?

 きょう、わたしは何の話をしているのでしょうか?。きょうは「真の万物の日」なのに。(笑い)このくらいで終えればよいでしょう?。終えればよいですか、やめればよいでしょう? (「NO」)。「ノー」はKNOWです。それも「ノー」です。ああ、これほど照れくさい話をしているのですが、いつまた聞けますか?。十年後、二十年後に統一教会を離れずにいれば、その話を聞くことができるのであり、その前に離れれば聞くことはできないでしょう。

 きょうは、「真の万物の日」です。「真の万物の日」を、真に分かりました。(板書される)韓国語は、本当に難しいのです。わたしはお母様に学んできました。真に分かりました。このように書かなければならないのです。お母様、ありがとう。真に分かりました。言ってみてください。(「真に分かりました」)。本当に分かりました。(「本当に分かりました」)

 「本当」と「真」とは、どのように分かることですか?。真の味を知ったあとは、「本当に分かりました」と言うのです。愛が「真」であるならば、愛の味を知ってからは、「愛が本当に分かりました。愛が分かりました」と言うのです。「愛が本当に分かりました」と言わなければなりません。

 全員、愛が本当に分かりましたか?。分かりましたか、分かりませんか?。この者たち。分からなければ、ろくでもない者たちでしょう。愛が本当に分かりましたか、分かりませんでしたか? 「フリーセックスが真の愛である」と言うことができますか? (「できません」)

 わたしは、のどがかれてつらいのです。今ではもう八十を超えました。語る時間を好むでしょうか、嫌うでしょうか?。八十になった老人は語る時間が長いことを願うでしょうか、短いことを願うでしょうか?

 今まで先生が語ったものの中で、一時間、二時間、十時間とありますが、十六時間四十五分まで話したことがあります。ですから、通訳をしながら大便をもらし、小便をもらし、ありとあらゆるにおいをかぐ生活をしたのです。歴史が多いのです。

 それはなぜですか?。数多くの群れを生かしてあげようとするからです。話は簡単です。真に分かりました。真の愛が本当に分かりました。本当に分かりました。そして、「気がついてみると、死にそうです」。そうすれば、それですべてです。

 韓国人が、ときどき言うでしょう? 「ああ、うれしくて死にそうだ」と。何がうれしくて死ぬのですか?。愛の味がそのようであるというのです。ですから、韓国人の言葉を聞いてみると、「ああ、うれしくて死にそうだ」と言い、人に会えば「出会えたことがうれしくて死にそうだ」、「ああ、あなたの顔を見て、喜びで死にそうだ」と、すべて「死にそうだ」という言葉をつけるのです。奇妙でしょう?

 そのような民族は、良いものをうれしく思い、悪いものまでもうれしく思うことができ、内外共に身もだえしながら暮らしても「不幸だ」と思わずに幸福の道を開拓することのできる民族性があるのです。神様の心の中に記憶されうる民族とならざるをえないのです。ノーメン?。アーメン? (「アーメン」)。よく知っていますね。

 それでは、郭クァク錠煥氏。尹貞恩さん(郭錠煥会長夫人)が好きで死にそうですか?。一度キスしてみてください。(笑い)してみてください。拍手してください。(歓声、拍手)そのようなキスを神様の前に行ってしなければならず、国の王の所に行ってしなければならず、祖父の前でもしなければならず、父の前でもしなければならず、自分の子女の前でもしなければなりません。そのようにして自由解放の時代が来るのです。

 それでは、これから服を着て暮らさなければなりませんか、脱いで暮らさなければなりませんか?。実際に愛するときは、服を着て愛しますか、脱いで愛しますか?。わたしは分かりません。女性たち、夫と愛し合うとき、良い下着、ありとあらゆる色とりどりの布団をかぶって愛しますか、パンツまで脱いで愛しますか? (笑い)尋ねているのですから、笑わずに答えてください。

 新郎の部屋に入っていくとき、たくさん服を着て入っていきますか、何かを履いて入っていきますか、かぶって入っていきますか、脱いで入っていきますか?。服だけ脱いで、このようにしていれば、どのようになるでしょうか? (笑い)解放です。夫婦関係は、男性と女性の生殖器を中心として、恥ずかしいことをすべて解放することができ、その主人を選択することが夫人であり、結婚式なのです。このことから知らなければなりません。

 ですから、夫の前で胸を出して「吸ってください」と言うことは恥ずかしいことですか、誇らしいことですか?。おばさん、どちらですか?。アメリカの女性はよくするはずですが?。吸ってくれることを願っているというのです。夫の前で胸を出すことを妻は恥ずかしく思うでしょう?。郭錠煥氏? (「思いません」)。(笑い)

 この胸が踊らなければならないでしょうか、泣かなければならないでしょうか?。このことを知らなければなりません。胸が踊ります。胸が踊るので、胸とおしりが合うのです。前の山と後ろの山の二つがバランスを取るのです。(爆笑)

 おしりも踊ります。胸とおしりが踊れば、上には手がぶら下がっていて、下には足がぶら下がっているので、手と足が踊ります。このようなことをするのです。そのようにすれば、自分自体が思いどおりに解放されるのです。このようになるのです。(笑い)
 これは常識として知っておかなければなりません。自然の法則です。文総裁が特別な話をしているようですが、これは自然の道理なのです。愛の立ち居ふるまいの一つの象徴的な姿を語っているだけであって、心の世界では、それ以上に激しいことを願っています。祝福を受けた人、手を挙げてください。分かりましたか?。今からそのように暮らすのです。分かりましたね?

 さあ、女性たちも、百里の道、千里の道を汗をかきながら歩いてきて足が疲れたときに、「お父さん。わたしの足が痛くて死にそうなので、ちょっともんでください。靴下は履いていましたが、汗をかいたので、においがするかもしれません。においがしたらいけないのですが」と夫に言って、夫がにおいをかいだとすれば「この悪い夫」と思いますか、「良い夫だ」と思いますか?。良い夫であると思わなければなりません。

 「そのようににおいをかいだのなら、それだけでなくこの足を一度なめてみてください」と妻が言ったとしても、夫が本当に妻を愛していれば、飛び出していくでしょうか、なめるでしょうか?

 愛に汚いものがありますか、ありませんか?。皆さん、キスをしてから、鼻の穴まで鼻をすべて掃除してみましたか?。今から、それを全員しなさいというのです。(笑い)なぜ笑うのですか?。口からいちばん近いのに、鼻の穴も掃除すれば、どれほど気分が良いでしょうか?。そのような夫と暮らす女性は幸福ではないですか?。そうでしょう?。他のところに十回嫁に行ったとしても、夫の顔が醜くても、その夫のところに再び訪ねてくるというのです。

 さあ、それでは、においのする足にキスしなさいと言えば、キスできますか?。アメリカの女性たち、できますか、できませんか?。赤い色ばかりを好むアメリカの女性たち、東洋の人が本当に愛する白、七種類の色が一つになった白を愛することを好む東洋の人。赤いものを好む西洋の人になりますか、白を愛する心を持った東洋の人になりますか?

 良いものと悪いものの七種類の色を合わせた白い色を好きにならなければなりません。愛には色がありますか、ありませんか?。愛には色がありませんか、ありますか?。真の愛には色がありますか、ありませんか? (「ありません」)。どのような色ですか?。白です。白は降伏を意味します。

 夫がここに墨を塗ったとしても、「お母さん、これが消えないので、舌で消してください」と言えば、消してくれるのです。先生のおしりがかゆくて、「ああ、かゆい。ここをちょっとかいてください」と言えば、かいてあげなければなりません。

 女性が最も愛するものは何ですか?。男性のあれでしょう?。それのために生まれたのです。この者たち、なぜ変に思うのですか?。それが創造原理でしょう。わたしが作った話をしているのではありません。

 神様が男性と女性を愛するときに、最も愛するのはどこですか?。それを愛するのです。絶対、唯一、不変、永遠な愛の起源を愛するときには、寝ていた神様も、夢を見ていた神様も、ぴくっと起き上がり、「わたしのものだ」と言って訪ねてこられるのです。分かりますか、分かりませんか?。理解したという人は手を挙げてください。理解したことはしたのですね。下ろしてください。そのように暮らさなければなりません。(「はい」)

 パンタナールに行けば、鳥が本当にたくさんいます。朝寝坊の鳥がいるはずです。メスは楽にしていて、オスが捕まえてくれる魚をもらって食べながら暮らし、オスは明け方から日が暮れるまで、急降下して魚を捕まえてメスを養うのですから、どれほどくたびれるでしょうか?

 くたびれて帰ってきて、妻が準備した食事を食べようとするとき、座ってこっくりこっくりと居眠りをすれば、「この悪い夫」と言ってけ飛ばさなければならないでしょうか、布団を敷いて愛して、食事は次の日の朝、食べるようにしなければならないでしょうか?

 自分勝手に暮らしてはいけません。自分のために夫が疲れたのなら、それを慰労してあげて、新しい希望の朝の一日を迎えることができるようにしてあげなければならないのです。夫が困難な谷間にいればそこを満たしてあげ、自分に良いことがあれば、それを夫のために与えてあげなければなりません。水平にしなければならないのです。水はいつでも水平です。

 水平にしてくれるのは水です。水は、どのような形態にでもなり、生命を永遠に養殖することのできる元素になっているということを知らなければなりません。水は、どのような形にでも合わせることができます。人の体の四分の三は水なのです。女性たちは、家庭における平和な水面のようにならなければなりません。

 女性一人が過ることによって、すべて……。おじいさん、おばあさん、八代先祖、数百人がいたとしても、ぴったりと形を満たすことができるのは、女性が水のような……。
 愛も水のように流れます。そのような水のように流れる愛の起源を養成するのが母親です。おなかから息子、娘を生んで愛で育てるのです。愛には形がありません。いつもお皿を充分に満たしてあげることのできる女性にならなければなりません。そのようにすることのできる家庭だけが幸福な天国の家庭を受け継いでいくことができるのです。アーメンですか、ノーメンですか? (「アーメン」)。アーメン、ノーメン? (「アーメン」)。わたしはノーメンです。(「アーメン」)

 さあ、それでは、「真に分かりました」と一度言ってみてください。(「真に分かりました」)。何を真に分かったのですか?。神様を真に分かったのですか、真の愛を真に分かったのですか?。どちらがより良いのですか?。神様を真に知ることが良いのですか、神様が分からなくても真の愛が分かることがより良いのですか? (「真の愛です」)

 有名な画家が描いた傑作品があるとします。その傑作品を描いた画家のことは知らなくても、その絵が好きで毎日のように泣きわめき、「ああ、素晴らしい」と言いながら一週間、過ごしたとすれば、その傑作品をつくった主人はその絵をその人に上げたいと思うでしょうか、上げたいと思わないでしょうか?。世界のために生き、本当に自分の傑作品を愛する人に上げたいと思うでしょうか、上げたいと思わないでしょうか? (「上げたいと思います」)

 それは、神様も同じことです。宇宙をつくられた主人が神様ですが、その傑作品をあなたたちが愛し、その愛を千年万年と神様よりももっと愛すれば、神様ご自身が男性も女性も万物もすべてのものを皆さんに与えることができるという話が通じるということを理解しなければなりません。アーメンです。分かりますか? (「はい」)

 神様は分からなくてもよいのです。神様は分からなくてもよいのですが、真の愛の味を知って死ぬほど愛し、その愛を世界的にまいていけば、神様が訪ねてこられて……。神様は種をつくるということを知りませんでした。「それを教えてあげましょう」と言って、神様がその種を持つようになるときに、男性と女性がそのように愛して種が生まれてこそ、その種を神様がさらに愛することができるのです。

 ですから、愛する息子と娘が真なる男性と女性となり、だれよりも愛するようになれば、自分にあるすべての才能と主人の位置まで与えるということが起きるので、より愛する人、最も愛する人が全体の王となり、主人となることができ、相続権を持つことができるのです。アー 何ですか? (「メン」)。「アーメン」は「エイメン」です。ナンバーワン・メンのことです。アーメン。

 さあ、それでは、神様が喜ぶなら一体どれほど喜ばれ、愛するならどれほど愛されるのかというのです。神様が本当に愛されるのならば、五官の中の耳が一つない四官だけの人に対して、五官の中のなくなった五分の一の分を減らして愛するでしょうか?。それとも、五分の一がないとしても同じように愛することこそ、真の愛でしょうか?。

 「五分の一を減らした愛でしか愛せない」と言ってこそ、それが真の愛なのでしょうか? 「五分の一がなくなったとしても、百パーセントのもののように愛することができる」というのが真の愛でしょうか?。

 どちらが真の愛なのでしょうか?。目をすべて取ってしまったらどうですか?。目まで取ってしまったら、五分の二がなくなるのですが、五分の二に制限して愛するのが真の愛の主人であられる神様なのでしょうか?。五分の二がないとしても、そのことが「よりかわいそうだ」、「それよりももっと良い耳と目をつくってあげよう」という心を中心として、愛する心がさらに大きくなっていく主人になってこそ、真の愛の主人となるのでしょうか?

 どちらが主人になると思いますか?。後者ですか、前者ですか? (「後者です」)。そうです、後者です。知っていることは知っているのですね。愛するものが五分の五なくなったのを見るとき、「ああ」と言って、ごみ箱に投げ捨ててしまうでしょうか?

 かわいそうに思って五分の五を自分がもう一度つくってあげて、「あなたが本当に神様を愛することができ、天地に対して尊敬されることのできる道がある」という、その道を神様は選ばざるをえない、という結論を出さざるをえないのです。アーメン。

(「アーメン」)。そして、そのような神様は、「怨讐を憎め」と言うことができるでしょうか、「怨讐も同じように愛しなさい」と言われるでしょうか? (「『同じように愛しなさい』と言われます」)

 きちんと答えが出ました。怨讐をも同じように愛さなければなりません。神様は、すべてを奪われてしまいました。神様はお一人です。宇宙のすべて、水の中にいるカニからすべての昆虫、最も小さい微生物から人間まで、すべてを奪われてしまったのです。すべてを奪われてしまいましたが、神様は、この奪われた世界を中心として、奪われる前に愛していた本来の心を失ってしまわれた神様になるでしょうか、「それよりももっと愛そう」という神様になりたいと思われるでしょうか?

 「どちらになられたいだろうか?」という問題を尋ねれば、神様はどのように答えられるでしょうか?。すべてを失ってしまった空の位置において、「失ってしまった」と身もだえし、「わたしは死ぬ」と言って、世界をすべて壊してしまう神様になられるでしょうか?。すべてを失ってしまったとしても、すべてを失う前より以上の愛の心を育てていけるのかという問題に対して、どのように答えなければならないのかというのです。

 石竣昊氏。(「はい。……」)。なぜ黙っているのですか?。答えなければならないでしょう。(「もっと愛さなければなりません」)。ええ、何ですか? (「もっと愛さなければなりません」)もう一度言ってみてください。もっと愛さなければなりません (「もっと愛さなければなりません」)。もっと愛さなければなりません。

 さあ、サタンとはどのような者ですか?。愛の怨讐です。どのような愛の怨讐ですか?。神様は、この万宇宙を自分の代わりとして、愛するすべてのものをつくったのですが、それを一度に滅ぼしてしまいました。滅ぼしたのではなく、一度にすべて盗んでいったのです。

 神様が空になりました。自分がつくって愛していたものや、昔のことを思い出しても、あまりのことに言葉も出ないのです。それらを見詰めながら希望を抱いていたのですが、それがどれほど真っ暗闇の天地となり、地獄のような世界になってしまったことでしょうか?

 サタンがすべて奪っていって暮らしているのをごらんになるとき、「こいつ、きょうからめちゃくちゃに雷に打たれろ」と考えられるでしょうか? 「おい、サタンよ。わたしの怨讐だが、愛することのできる限界線まで、わたしがすべての精誠を尽くして愛して満たせば、すべてをわたしに渡しなさい。おまえ以上の愛をわたしが教えてあげる」と考えられるというのです。

 そのようにできるサタンならば、サタンにはなれません。そのようなサタンは、復帰されるのです。それは何のことか分かりますか?。すべてをサタンに渡して、それを神様が愛そうとするとき、どれほど憎らしく思われたでしょうか?。憎らしく思われたでしょうか、保護されたでしょうか?。尋ねているではないですか?。保護されたでしょうか、憎まれたでしょうか? (「保護されました」)

 なぜですか?。神様が憎めば、神様の威信を立てるときが永遠になくなります。憎めば、それで終わりです。審判したとすれば「すべてサタンのものになった」という結論になってしまいます。

 どのように考えられたでしょうか? 「そこはサタン側だが、わたしが委託し、任せてあげただけである。わたしの時代、わたしが愛することのできる時代が残っている」と、愛する時代が残っていると思われたでしょうか、愛する時代はないと思われたでしょうか?

 神様は、サタンよりも優れていなければならないでしょう?。サタンは、「神様が愛することのできる時代はない」と考えます。しかし神様は、怨讐の悪党に「おまえの愛以上の愛を願う相対がいれば、愛せないときが来るはずだから、そのときになればわたしがそれ以上に愛する道も教えてあげておまえに与えてあげる」と言われるのです。

 神様ご自身が「所有しよう」と言われるのではありません。怨讐のサタン側の山であっても、自分の種を植え、リンゴや柿の木を植え、実を結んだものを中心として、その怨讐が取って食べながら喜び、売ってお金持ちになれば……。

 人はそうなのです。恩恵を受ければ返さなければならないので、柿を売ったり、何かを売ったりして、秋が過ぎて利益が生じれば、何百分の一であったとしても返したいという思いを持つでしょうか、持たないでしょうか?。持つというのです。

 最後はそのようにならざるをえないのです。神様を中心として変わらずに愛するときには、その愛に入っていって自分のすべての過去を夜寝るように洗い流すのです。そして、朝のように新しい太陽を吸収して歓喜の同参者となり、昔主人を悲しませた何百倍、何千倍も主人を歓迎してあげて孝子となり、忠臣となるというとき、神様も「わたしの心に似たな」と言われるのです。そこで、「わたしに似た」といって一緒に暮らすことのできる道がないことはないということを考えなければなりません。分かりますか?

 天の国の最も良いものもすべてサタン世界に行ったのです。家庭の王は母親です。女王を奪っていきました。母である女王を奪っていったのです。女性たちをサタンがすべて奪っていきました。

 そのようにして女性たちをじゅうりんするのがサタンです。夫の名によって愛するという条件を立てましたが、女性を売ってあらゆる道理に背く行動をし、女性の胸に釘をたくさん打ち込み、罪のふろしきにくるまって暮らしていながら恥ずかしさを知らないサタンの後継者がたくさんいるでしょう?。分かりますか?。たくさんいるのです。

 そのような女性たちは、どのようにならなければなりませんか? 「このサタンめ。恨みを晴らさなければならない。男性という種は怨讐だ。切り捨ててしまわなければならない」と言うのです。そのようにすれば、女性たちは天国に入っていくことができますか? 「男性たちはすべてどろぼうであり、全員道理に背く者たちだ」と言って切り捨ててしまい、無視し、蔑視するならば、天国に入っていくことができるでしょうか?

 天国は夫婦で入っていく所です。男性が滅んで、女性が天国に入っていくことができますか?。ヨルダン川を越えていく前にモーセがネボ山で死んだのと同じことです。嘆息して三度祈祷しても、神様が「だめだ」と言われました。天国に入っていくことはできません。

 このことが分かったとき、女性は「ああ、この世の中で最も愚かな男性の中の愚かな怨讐の男性を、わたしが同じ愛で愛すれば、「最も高い愛を行った女性」という看板がつく」と考えるのです。そして、そのように生きてあの世に行き、天国の門に入るとき、「私は、怨讐である男性たちを愛しましたが、天国に入っていこうとすれば、つえのような男性が必要なのに、その男性がいません」と言えば、神様が「おいおい、心配するな」と、すぐにりっぱな男性をつけてくださり、どのようにしてでも天国に送り出してあげることができるのです。

 真の愛を持たなくては、天国に行くことはできません。真の愛の世界において、王になりたいですか、なりたくないですか?(親指を立てて右手を前に出されて)王になりたい人は皆、このようにしてください。真の愛の世界である天の国に行って王になりたい人は皆、このようにしてみてください。全員、なりたいのですね。お母様はしないのですか?。お母様。このようにしてみてください。(笑い)

 もう一度やってみてください。このようにしなければならないでしょう。神様のあごを支えるようにしなければなりません。全員なりたいでしょう?。そのようになれば、間違いなく一等賞を下さるはずですが、一万人が一等ならどのようになるでしょうか?。万等に分けることができますか?

 一万人全員が一等であると言うとき、神様が賞を下さるでしょうか、下さらないでしょうか?。尋ねているではないですか?。下さるでしょうか、下さらないでしょうか? (「下さいます」)。同じだからです。ある人とある人を入れ替えても同じです。全員が同じなのです。どれを取っても一等であるというのです。

 ですから、世界の女性たちがそのようにして一等になり、全員が王圏の立て札を掲げていれば、世界の愚かな男性たちは喜ぶでしょうか、幸福でしょうか?。最も幸福になることのできる男性は、どのような人でしょうか?

 世界で一等の女性が、世界で一番のびりの男性を訪ねていって神様以上に愛そうというとき、神様が関心を持たれるのです。一等の女性が一等の男性を愛そうというのと、一等の女性が一番びりの男性を愛そうというのでは、どちらが神様の注目の対象になるでしょうか?

 びりですか、一等ですか?。びりですか、一等ですか? (「びりです」)。びり、言ってみてください。(「びり」)。びり (「びり」)。今、自分で答えましたか、先生が「言いなさい」と言ったので一緒に答えたのですか?。自分で答えたならば、その一等に先生がなれなくても自分がなることができるのです。「先生が一等になれなくても、その一等はわたしである」というようになります。ですから、そのような人は極から極までの愛を行ったので、天の国の博物館において、神様が愛される場に同参できるのです。

 そのようになった人は、天の国に行って神様の玉座から遠い位置に座るのですか、近い位置に座るのですか?。わたしには分かりません。どちらですか? (「近い位置に座ります」)。本当ですか? (「はい」)。本当であると思う人は両手を挙げてみてください。おうおうおう。もう説教はすべて終わりました。(笑い)説教はすべて終わったというのです。

 それでは、きょうは「真の万物の日」なのですが、この地上でだれがいちばん万物を愛しましたか? 「神様ではなく、わたしです」と言えるほど愛してみましたか?先生は、パンタナールに行って、夜も昼も、雨が降っても台風が吹いても、「神様は、わたしのように、このような万物を愛することはできなかっただろう」と神様と競争してみるのです。

 最初は大きい動物を愛して「オーケー」です。それから手で地面を掘って虫の幼虫が出てくるのを見て、「神様がこのようなものを愛することができなかった」と考え、「この土地だけでなく、あの山の谷間、北極の雪の下に隠れている虫まで神様は愛することができなかったが、わたしは、それまで愛するので神様に負けない」と思いながら、愛し精誠を尽くしていくと、南米の濁水の天地にあらゆる動物が暮らしていたのです。

 人間が捕まえて食べるので、人間を恐れます。ですから、隠れるのに良い所が濁水の天国です。パンタナールの水は濁水です。その濁水の中にあらゆる原初的な動物がすべてすんでいます。なぜですか?

 人間たちは見つけさえすれば捕まえて食べます。捕まえて殺すというのです。ですから、見えない所にすみます。いくら泳いで入っていっても、水の中が見えなければ捕まえることはできません。十メートルどころか五メートル先も見えないので、捕まえることができないのです。ですから、地獄のような水の中に魚の群れがすんでいるのです。

 この魚を神様が創造されたとき、澄んだ水に放してあげたでしょうか、濁った水に放してあげたでしょうか?。濁った水に放してあげたと思う人、手を挙げてください。その手を切ってしまいなさい。(笑い)そのように考える頭を切ってしまいなさい。そのように考える人は、一人もいないということです。

 神聖で、とても美しい万物を神様が精誠を尽くしてつくられ、澄みきった泉の中に放ちたいと思われたものが、どうしてこのように濁った水で暮らしているのですか? 「地獄に行く人間たちがわたしたちを残さずに捕まえてしまい、価値も分かってくれず、怨讐に捕まえられて食べられるのよりももっと人間たちが恐ろしく、絶滅させようとするので、ここに来て隠れているのです」と言うのです。その答えは、正しいですか、正しくありませんか?

 「おまえたち。真の父母は、この濁った水を澄んだ水にして、ここですんでいる魚がすべて絶滅しないように、澄んだ水、泉のような水であらゆる種類のものを育てて分配し、神様が理想としていた原初的な愛の解放された魚にしたい」と言うのが先生なのです。そのような心で、このアンデス山脈の谷間から流れてくるアマゾン川やパラグアイ川の水をきれいにして、全体を解放して魚が澄んだ水の中にすむことができるようにするのです。

 そのような魚のように、行く道が分からずに地獄の天地に暮らす人間たちを解放するために、汚れた水を澄んだ水にして解放の王子となり、そのために人類が動員されてそのことを成せば、人類は自動的に解放され、明るい天国に入っていくのです。アーメン (「アーメン」)

 それゆえに、海を愛する文総裁になったのです。文総裁は滅びなければならない 「ノーメン」ですか、「アーメン」ですか? (「ノーメンです」)。「ノーメン」は「NO」でもよく、「KNOW」でもよいのです。どちらでもよいのです。

 それでは、文総裁に従っていきますか、従いませんか? (「従っていきます」)。それでは、パンタナールの濁った水を飲みなさい。アメリカは今から、濁った水を飲みなさい。おいしい泉の水よりもさらにおいしく、湧き水でも何でも、ろ過器を……。長雨になって、豚のふん、何かのふんと、ふんの天国のように、ふんが混ざったものを薬であると思い、「おいしい」と言って飲めば、薬の中の薬になるのです。

 信じて飲めば、病気が治るかもしれないでしょう。濁った水を飲み、濁水の中で体を洗い、魚以上に汚い水の天地で暮らしたとしても愛することのできる、主人の代わりになろうという人がいれば、文先生がそのようになろうと言えば、それを歓迎できる人はどのくらいいますか?。歓迎できるという人は、永遠に生きることができます。

 では、「文総裁がしようと言うとおりに、パンタナールの水辺を湧き水のような澄んだ水にして、神様が澄んだ水にすむように魚を創造されたように、魚たちが神様の原初的な基準において解放的で統一的な群れとなるよう、神様の代わりに再創造の王になろう。アーメン」と言うことのできる人は手を挙げてみましょう。わわわ、わわわ、先生がするとおりに従っていきますか、従っていきませんか?

 さあ、海を愛しましょう。澄んだ海だけを愛する人、そのような人が、サタン世界を料理することができるでしょうか?。良い面が澄んだ水で、悪い面が濁った水とするならば、濁った水を嫌う統一教会の群れが、明るい世界をつくることができるでしょうか?。できますか、できませんか? (「できません」)

 絶対にできます。(「できません」)。唯一的にできます。(「できません」)。不変的にできます。(「できません」)。永遠にできます。(「できません」)。神様の属性は絶対、唯一、不変、永遠です。

 雨が降る日には、そこにどれほど……。泥と水でひどい状態ではないですか。一度滑れば、氷の路面よりひどいのです。足をこのようにしたとしても、地は粘土になって、いくつもの手錠をがちゃっとかけられたように自由に動けなくなります。じっとしていても、いくらでも滑っていってしまいます。

 さあ、そのような統一教会の教会員を見れば、すべて……。統一教会の女性たちは、楽に暮らそうとして足が偏平足だと思います。偏平足では軍隊に入ることもできません。姜賢實シルさんは偏平足になりましたか、土踏まずがある足になりましたか?。ソ連に行ってきて、凍った路面を最頂上から平地まで押し出されてしまうのですか?

 今回、百六十匹を釣りにいって、「ああ、わたしには死んでもできない」と報告していましたね。氷の世界でいつ女王になることができるのですか?。水を貯蔵することができてこそ、氷も溶けずに万年雪が残るのでしょう。

 水が嫌いな人、手を挙げてください。水が嫌いな人、手を挙げてください。それでは、水が好きな人、手を挙げてください。知っていることは知っているのですね。(笑い)

 「水が嫌いな人、手を挙げなさい」と言ったときには、悪口を言っても黙っていましたが、それでは水をどのくらい好きなのですか?。水が好きだというのならば、どのような水が好きなのかということが問題になります。

 澄んだ水が好きですか、ふんの混ざったような水が好きですか?。水はすべて好きなのですか?。澄んだ水が好きですか、汚水が好きですか?。好きだといっても、いくつもの系統があるのです。三百六十度があるということを知らなければなりません。

 それでは、先生が好きですか? (「はい」)。本当ですか? (「はい」)。皆さんは方向性が分かっていません。自分を中心として、自分の基準に合うものだけを好んでいます。先生が好むものをすべて好むのですか?。地獄までも天国にしようとしている先生を好きだというのですか?

 「パンタナールに来なさい」と言っても、来る人は一人もいません。今回も、グロスターで海洋事業を始めました。四十年前、四十三年前です。そのようにしたので、その結末をつけるためにです。このニューヨークなど、魚がどのように暮らしているのかすべて調査したところです。

 ヘーソン港、ニューヨーク港、ロングアイランド・サウンドなどで、海洋事業の出動を中心としてここにいる魚から大洋に広がっていく魚までをわたしが捕まえ、それを中心として神様の前に祭事をささげ、海洋の勝利の王子となって帰ってきて最後を締めくくってあげたのです。今回、帰ってきてそのことをしました。他の人がついてくるので、昔は眠らずに明け方二時にグロスターに出発しました。

 そこで準備をしようとすれば、一時間以上かかります。準備に一時間かかるので、五時に行こうとすれば四時から準備をしなければならず、一時間半前に準備しなければならないときもあります。運動をして、祈祷もしなければならないでしょう?

 ですから、家で一緒に暮らす人の中でわたしを好む人は一人もいません。「ああ、いつまであのようにするのだろう?。早くやめればよい。続けようとするなら病気にかかればよい」と考える者たちがでてくるのです。

 郭錠煥氏が近くにいれば、そのように考えたかもしれません。柳光烈ニョル氏は、本当にそのように考えたかもしれません。詩を書いて、筆をつかんでそのようにしていますが、何をしようというのですか? 「わたしが死ぬか、先生が死ぬか、二人のうち一人が死ななければならない」と、そのように考えているのではないですか? (笑い)それは、当たっているでしょう? 「ああ、あのような姿をいつまで見るのか?」と思っているというのです。そのような姿を見るのは皆好きではありません。

 そのような姿を見るのを好まないということを知っていながら、わたしはなぜそのようにするのですか?。この地に教えてあげなければなりません。地に負債を負いました。主人に出会うことができなかったので、主人を教えてあげなければならないのです。水も主人に出会うことができなかったので、教えてあげなければなりません。

 霊界に行った霊人たちも自分たちがしたことを好むのであって、先生がしたことを好まないのです。これを清算し、澄んだ水辺で、愛する園で遊んでいたアダムとエバの基準を復帰するという心情からそのことをしているのです。分かりますか?

 ですから、水というものは、濁水にも、汚水にも入っていって踏みしめていかなければなりません。(アメリカの女性が何か答える)ありがとう、アメリカの女性。そのようなときは早いのです。世の中の人と同じように出世しようというのですか?。分かりますか?

 水をどのくらい愛していますか?。水を愛していますか、いませんか? (「愛しています」)。愛していなかったとしても、きょうは「百パーセント愛している」という仮説を定めてでも、そのようにしなければならないでしょう?。何パーセントですか? (「百パーセントです」)。仮説が本当になれば解放されるのです。

 目も水が必要です。水が出るでしょう?。鼻も水が必要です。鼻が乾けば、鼻くそが乾くでしょう?。水分が必要なのです。口にも必要です。耳にも必要です。これを乾かしてみてください。耳かすで、耳がふさがってしまいます。いつも湿気がなければなりません。

 水が必要なのです。自分の生命をもって生きていく生涯の路程は、水と調和を成しながら生きていくのです。そうですか、そうではないですか? (「そうです」)。わたしたちの体の四分の三は水です。肝臓の水が違い、胃の水が違い、大腸の水が違い、小腸の水が違います。すべてに水がありますか、ありませんか?。そこにある脂肪はすべて水です。脂肪の水分は六十パーセントであり、脂が四十パーセントです。脂だけではいけません。絶対に水が必要です。水、言ってみてください。(「水」)

 おなかがすいてご飯が食べたいと思うのと、のどが渇いて水が飲みたいと思うのでは、どちらがより切実ですか?。皆さん、「のどが渇いて死にそうだ」ということを、よく言うでしょう?。おなかが空いて死にそうでも、そのようなことは言いません。水から離れては生きていくことができないのです。

 (服を指して)ここに水分がなければ、ぱさぱさになります。水が絶対に必要なのです。体の五臓六腑にある多くの種類の水を補充するのに、この地球上にあるあらゆる種類の水の要素を吸い込んで貯蔵して生きているのです。

 それでは、神様の本性的なきれいな水を補給できる自らになっているのか、仮の水で補充できるのかというのです。長雨で濁った水になり、豚が流されていき、虎の子どもが死に、何かのふんや人が流されていった水、黄土が混ざった水、それらがすべて混ざっている水でしょうか?

 神様をお迎えし、皆さんの中にある水をすべて搾っておささげすることができるでしょうか、めちゃくちゃになって肥料の山に持っていって捨てるものになっているでしょうか?ですから、ろ過器に何回くらい入っていけば神様をお迎えすることができますか?

 きのう、わたしはニューヨークの貿易センターの約二、三百メートル前で釣りをしました。(録音がしばらく途切れる)……それをそのまま流せば、その水はどのようになるでしょうか?。汚水になるでしょう?。これを、ろ過装置を通して水蒸気になるのにちょうどよいくらいの海水と差がない水になるので、魚が飲むのです。酸素補給、窒素補給、すべてのことを考慮しても分量が適切なので生きることができるのです。そうでしょう?

 事実をみれば、トイレから出てきた、その水です。混ざっているでしょうか、混ざっていないでしょうか?。小便を上に浮くようにして、これをろ過装置にかけて澄んだ水をつくれば、それを飲んで病気になるでしょうか、死んでしまうでしょうか?

 小便や大便を貯蔵していた水をこして澄んだ水をつくっても、魚も喜び、人間もそれを水道水として飲んで生きるのです。循環です。循環します。それゆえに、空気なら空気、窒素、酸素……。木が二酸化炭素や窒素を吸って酸素を吐き、循環しながらろ過したものを飲んで生きているのです。ですから、一人で生きるということは、罪悪の中の罪悪です。分かりますか?

 ですから循環するということです。そのような原則から、良い人とはどのような人ですか?。アメリカ人、ドイツ人、皆、怨讐です。日本人、アメリカ人、ドイツ人、韓国人は怨讐ですが、怨讐の国の人が皆、喜ぶように、ろ過器を通してこして、自分の父と母、自分の愛する人以上に愛すれば、神様の友達になることができるのです。

 ろ過装置を通せば、だれでも飲むでしょう?。王でも飲むでしょう?。だれでも、上下高低を問わず、平均的に供給することができます。王も飲むことができ、使い走りも飲むことができ、同じ生命を維持し、この宇宙に堂々と存在の価値を維持するにおいて欠如しているものはないというのです。同じことです。

 皆さんがろ過装置を通した水を、どのくらい取り入れて生きているのか考えてみましたか?。皆さんをそのままぎゅっと搾って水を出しておけば、だれが喜ぶでしょうか?。自分の愛する夫が喜ぶでしょうか?。湧き水のように澄んだ水はだれもが、夜でも昼でも、一年中、永遠を中心として喜ぶようになっているというのです。同じことです。

 そのような水を持つことのできる自分の水源をつくらなければならず、そうでなければ、ろ過器でもつくって暮らしなさいというのが、宗教という機関なのです。宗教とは、ろ過装置のようなものです。そのように考えればよいのです。

 では、皆さんは百パーセント純潔な水にならなければなりませんが、皆さんは何パーセントの水ですか? 「わたしは百パーセントの水である」という人、手を挙げてください。

 皆さんは、〇点以下でしょう。宗教でみれば、〇点以下です。自分が天の国に入っていくときには、ろ過装置にかけられた純潔な百パーセントの価値を持っていなければなりませんが、その前にろ過装置を百回、千回、万回以上通過してきれいに、きれいに、きれいになることができる過程を経なければなりません。

 それは、なぜでしょうか?。堕落の血筋から神様の血筋に変えようとすれば、どれほど大変でしょうか?。宇宙も反対します。このように汚れたものがこのように良くなろうとすれば、これが転換されなければなりません。ろ過の過程をすべて経ていかなければなりません。分かりますか?

 ろ過の過程を経ましたか、経ていませんか?。経ていますか、すべて終わりましたか、経ていこうとしているのですか?。どれですか? (「経ていこうと思います」)。いつ終わるのですか?。死ぬ前に終えなければなりません。

 そのようにしようとすれば、どのようにしなければなりませんか?。真の愛は、どのような水であっても、ろ過させて浄水をつくることができる源泉なのです。分かりますか?。真の愛の水さえ経ていけば、取るに足らないものでもすべてろ過されるのです。細菌までろ過されるというのです。

 では、真の愛のろ過器を持っていますか、持っていませんか? 「先生の話を聞けば、わたしは真の愛のろ過器を持っています」という人は、手を挙げてください。一人もいませんね。ですから、洪水の水辺からくんできた、うじ虫がうようよし、あらゆる種類の昆虫や菌がいる、そのような水です。ろ過器を何回通過したのですか?

 では、統一教会に入ってきて涙を流して悔悟したことがあるでしょう?。それでは、十パーセントくらいになったでしょうか、二十パーセントくらいになったでしょうか?。二十パーセントろ過されて、八十パーセント汚れたものをだれが食べるのですか?。つばを吐くというのです。

 絶対にろ過装置が必要ですが、ろ過装置の過程を経ていくということは真の愛であり、真の愛のろ過装置を経ていこうとすれば、自分のために生きるということがあっては、本当の本質的な百パーセントの源泉水の位置に到達することはできますか、できませんか? (「できません」)。できませーん、一度言ってみてください。できませーん(「できませーん」)。できませーん (「できませーん」)。なーい (「なーい」)。命令形にしなければなりません。「できません」は相対的であり、「ない」は「わたしには必要ない(断定=絶対という意味)」です。

 神様は百パーセント、浄水ろ過装置を準備されたでしょうか、されなかったでしょうか?。神様が百パーセント、ろ過装置を人間のために準備されたでしょうか、されなかったでしょうか? (「されました」)。あなたは準備したと思いますか? (「……」)。「準備した」と思うのかというのです。

 それでは、そのろ過装置を一番の都会のうじ虫がわくような所に設置されたでしょうか、白ペク頭山の頂上、エベレストの山頂、ヒマラヤ山脈最高のエベレストの山頂よりも、もっと高い頂にろ過装置を設置されたでしょうか?。だれもがやたらと来ても困ります。

 まじめに一所懸命働き、至誠を尽くして、神様まで起こしてでも自分が称賛することのできる、そのような精誠を尽くした所にろ過装置を設置しなければなりません。「訪ねてくることができる人は訪ねてきなさい、そうでなければだめだ」と言うことのできる場所に、ろ過装置を設置しておくのです。だれでも行くことができるのではありません。

 サタンはそれを知っているでしょうか、知らないでしょうか?。問題はそれです。サタンが知っているでしょうか、知らないでしょうか?。サタンがろ過装置を持っていったら神様が困るのではないですか?。サタンは、いくらやっても持っていくことはできないというのです。

 サタンは「自分のために生きろ」と言ったのです。ですから、これを持っていこうとすれば、どうなるでしょうか?。持っていったその結果、サタンが神様よりも「ために生きる」ことができるようになれば、「神様、より「ために生きる」ことのできるあなたが願う所にろ過装置をおきましょう」と言うのです。分かりますか?

 大変なことであったとしても、ろ過装置を経ていくためには、ついていかなければなりません。九十九・九九九九になって〇・〇〇〇一が残っているとしても、その一つを満たすために、「あらゆることが起きて険しくても行けないところはない、行ってあまりあり、千回、万回でも行く」と言うことのできる人、「ために生きよう」という人だけが、ろ過装置の門を通過できるのです。

 柳鍾寛氏が何かの長(責任者)をしていたとしても、わたしが足でけって、「こいつ、なぜこのようにするのか?」と言えば、三言も言わず顔をしかめて、「なぜ、わたしにだけつらくあたるのか?。郭クアク錠煥のことは愛しておきながら」と思うのです。そうなのです。わたしは郭錠煥氏を愛していません。見た目のどこが良いのですか?。どこに見るに値する所がありますか?(笑い)しかし、郭錠煥氏は、心の使いどころがあなたたちと違います。だれかが誤ったことをすれば、だれが何をしたのか、先生はすべて知っているのです。最近でもそうではないですか?

 責任者のだれだれから報告を受けておいて、それを郭錠煥氏は先生に直接、報告しなければならないはずなのに、そのことを聞いてみると郭錠煥氏は「知りません」と言うのです。「こいつ、わたしがすべて知っているのに知らないのか?。見なかったのか?」と言うと、そのときになって、やっと「見ました」というのです。

 それはどういうことなのかというと、「自分が責任を執る」ということです。しかも、それで終わるのではありません。「そのようなすべてのことは、自分が注意して統一教会の一つの標準になります」という、その心情が貴いのです。先生をとらえるのはその心情です。分かりますか?

 アメリカの女性たち。「先生が好きだ」と大騒ぎして、先生がどこかに行けば旗を掲げて大騒ぎしていますが、最近では皆、前に座って目をむき、「先生はどのような話をするのか」と思いながら、悪い話はすべてノートに記録し、良い話はポケットに入れているというのです。悪い話を中心として後でこき下ろそうとしています。そのようなことはあってはならないというのです。

 悪い話は、「自分が責任を持とう」と思い、「自分がアメリカ人を代表し、天上天下を代表して、自分が見て自分が語ることには、自分で責任を持とう」と思わなければなりません。わたしは、五十年前に天地の秘密をすべて知っていましたが、話しませんでした。なぜでしょうか? 「わたしが責任を持つ」というのです。困難な苦労の峠が問題ではありません。困難であれば困難であるほど、「そのことが早く解決されることが恐ろしいので、千辛万苦して狭いろ過装置の穴を通らなければならない。血と汗を流し、またが裂けても通過する」という一片丹心なのであって、分裂した心ではありません。そのような人は、浄水の中の浄水になるのです。アーメンです。分かりましたか?。真に分かりましたか? (「はい」)

 それでは、ろ過器を通過した浄水になるのですか、浄水をつくる浄水器になるのですか?。二つとも好きにならなければなりません。浄水を好む以上にろ過器を好んでこそ、浄水のためにそれが願うとおりに動いてあげてこそ、浄水になるということを知らなければなりません。分かりますか? (「はい」)。真に分かりました。何になりたいですか?。水の中できれいな水です。

 世界は、「水」で象徴されてきました。今日、地獄のような濁り水を解放した源泉によって、すべての万物をつくろうと苦心している先生の後に影が天下をすべて……。ここから三八度線と「以北(北朝鮮のこと)」が生じました。統一教会の人はどこに行っていますか?。先生が受難の道を行っているので自分が道案内をし、先生が楽に行くことができるようにと船をつくり、「折れないさおと切れない釣り糸を準備してさしあげよう」と思いながら、「苦労する先生を助けてあげよう」と考える人は一人もいません。わたし一人で成してきたというのです。

 そうです。先生は、かわいそうな人なのです。そのような先生を中心として苦労させる神様は、もっとかわいそうなかたです。なぜ、苦労させるのですか?水蒸気をつくって雲になるようにし、この天下でよく肥えた土地に雨を降らせればよいでしょう。雨を降らせるにしても、根まで濡らす必要はありません。季節にしたがって少しずつ少しずつ貯蔵して、貯金通帳からお金を引き出すようにすればよいというのです。

 洪水を起こして、汚いものを一度に洗い流してしまうようなこともしなければなりません。そのようにしなければ、土地が腐り、草木が死んでしまうのではないですか?。そのような悲運の歴史がわたしの生涯にはあり、環境的条件の均衡を崩して、死ぬか生きるかという混乱した問題が起きるのです。

 さあ、それでは、浄水器、ろ過器を通すべきでしょうか、通すべきではないでしょうか?(「通さなければなりません」)。アメリカが世界を支配しようとすれば、アフリカの最も貧しい国を王のように侍らなければなりません。そのようにしてこそ、いかなる国の人でもアメリカの水をおいしく飲むことのできる浄水器になることができるのです。

 世界の人は皆、アメリカ人を嫌っています。アフリカに行っても、「ヤンキー、ゴーホーム」と言っているのです。それでは、世界は自分の思いどおりになりません。浄水器を通さなければなりません。ろ過器を通さなければなりません。では、ろ過器はどこにありますか?。機械に愛を通すことができますか?。そのろ過器は、浄水器をつくる機械のチャンピオンですが、その機械として来るのがだれかというとメシヤなのです。救世主です。



​ しかし、それは「救世主」ではいけません。「救世主」は、世の中の救いだけです。救世主は、世の中を救ってくれる存在です。必要なのは、 ​「救父母主」​ です。世の中を救うのですが、父母を救わなければなりません。父母を救うのですが、兄弟を救わなければなりません。兄弟を救うのですが、家庭を救わなければなりません。それをなしてから世界を救うのです。​

 真の父母によって真なる父と母になり、真の息子、娘を育てて真なる家庭を備えなければならず、そこから世の中に繁殖していって世の中を救うことができる礎となり、その礎に合わせて家を建ててこそ、すべての世界が入ってきて暮らせる平和な家庭になることができるのです。理論的にアーメンです。分かりますか?。分かりますね? (「はい」)

 それでは、ろ過器になりますか、水になりますか?。先生は、水ですか、ろ過器ですか? (「ろ過器です」)。水ですか、ろ過器ですか? (「ろ過器です」)。あなたたちは何ですか? (「水です」)。洪水で五万種類のものが入っている汚い水です。

 最初に泉がわき出る所には、ろ過器は必要ありません。見えない穴で菌までを抜き出す必要はありません。雑巾の切れ端のようなものはろ過されるのです。それを知らなければなりません。

 そして、統一教会に入ってきて、入るやいなや皆、「先生に会う」と言うのです。きょうも、だれかがここに先生に会いにきましたね。この位置がどのような位置ですか?。天の前に敬礼して礼を尽くさなければならないのです。神様に敬礼する前に、人を使って道に外れたことをさせることはできません。

 きょうも、だれか大統領が会おうというのを「だめだ」と言って、飛ばしてしまいました。その人は今、先生に会いに来て、ニューヨーカー・ホテルで待っているというのです。しかし、わたしが終わるときまで会うことはできません。天に侍ることのできる礼法、環境条件を整え、そこにおいて自分がろ過器になったのかどうかが重要です。ろ過させることのできる主人となり、ろ過器に通さなければならないのですが……。

 嫌でも、捕まえて逆さまにしてでも、横向きにしてでもそのようにできるのならば、ろ過器を通過するようにしてあげることが愛の中の愛であり、名声を得た一等の人になれる道がそこにあるので、良い人の中でも最高に良い人なのです。アアアアアアアア、言ってみてください。アアアアアアアアアアアア(「アアアアアアアア」)。すべて入りました。メメメメ。アーメーン (「アーメン」)。解放だということです。(拍手)

 では、先生が「しなさい」と言うとおりにしなければならないでしょうか、してはならないでしょうか?。先生も、神様がろ過器を制作する方法を教えてもらってつくったので、これを通らなければなりません。これは不可避的な運命ではなく、宿命的な責任です。父子の関係なので、死んでも分けることはできません。分かりますか?

 先生がろ過装置をつくり、最も困難で耐え難いことをすべて行ったので、千の峠があるならば、自分がそれを越えていこうと思う人たちが、百の峠を越えたのか、千の峠を越えたのかということを比較した基準に従って、天の国で神様に侍ることができる序列や、系列における自分の位置を永遠につかむのです。アーメン。(「アーメン」)

 何回死にますか?。穴がこのくらいでも出ていくのは大変です。百回、千回、万回ろ過器を通らなければならないのなら、万回死んで目覚めても自分を否定しなければなりません。「理解してほしい」と思ってはいけないというのです。

 「ああ、文総裁。絶対信仰、絶対愛、絶対服従、独裁者の王だ」と、このように思ってはいけません。 それで何をしようというのですか?。わたしがその機械をつくるのは簡単です。み言がその機械です。み言どおりにしなければなりません、この者たち。「訓読会」をしていますか、していませんか?

 アメリカの上下院議員、連邦政府の国会議員やトップの人たちを皆、集めておいても、これに感動するようになっています。全員が「そのとおりです」と言うようになっているのです。天下が公認することのできるろ過装置を準備したので、み言の過程を経ていかなければなりません。経ていかなければ落第です。

 いくら博士の学位を持っていたとしても、責任教授のサインをもらわなければなりません。そのようにしようとすれば、責任教授の子供を育ててあげる生活を六か月訓練するということまでしてでも努力すれば、サインをもらうことができるというのです。すべてに通じなければなりません。

 柳鍾寛氏は、先生から訓練を受けていません。(「受けています」)。わたしは訓練していません。「昔から道を築いて峠を越えていきながら、このような峠もあり、このような橋も築いたのだなあ。ああ、先生が苦労され、わたしは見物して越えていったなあ」というのではないですか?

 あなたをここに送るために、食口たちが血と汗を流しながら苦労し、支援したのです。そのような困難な事情を知っているのですか?。負債を負って生きています。「ここには飛行機に乗ってきたので、一日でも断食していかなければならない」と考え、三食のうち一食でも蕩減条件を立てて生きていくことができなければなりません。わたしは、そのようにしています。

 わたしは、一日に大きなお金を使うことのできる力を持っていますが、一銭も使いません。あなたたちのために使うのです。それが原則です。だれの世話にもなりません。それゆえに堂々としているのです。

 アメリカを滅ぼすためではありません。生かすためなのです。国をつくるためです。日本を苦労させるのも、日本を滅ぼすためではありません。より次元の高い国にするためです。韓国を苦労させるのも同じことです。わたしが統一教会員を苦労させるのも、あなたたちが生きてきた国以上に良い国をつくるためなのです。

 この世が嫌うところに天の国が訪ねてくるのです。この世が嫌だということを「好きだ」ということができる所で天国が完成するのです。分かりますか?そのことが分かりませんでした。今では、真に分かりました。分かりますか?。結論を出しましょう。

 神様は、サタンが本当に愛していたものを愛することができるのでしょうか?。答えてみてください。一人の女性を中心として、サタンが抱いていたその女性を神様が愛することができるのでしょうか?。この答えが出てこなくては復帰の道がありません。柳鍾寛氏。(「はい」)。答えてみてください。(「……」)。郭錠煥氏、答えてみてください。

 どのようにして愛することができるのかというのです。それを愛することはできません。絶対にできません。それで「真に分かりました」なのです。真に分からなかったので「真に分かりました」という言葉が出てくるのです。

 国の王がいれば、その王の十倍、百倍愛するのです。千年の事情を抱えて完成した「わたし」が愛した階級は、だれもついていくことができない愛であり、そのような千万倍高い次元で愛するのです。その怨讐の妻を自分の勝利の王宮の最高の位置で愛する、それ以上の愛で愛そうという心情があったというのです。ですから、薬を飲めばすべての汚れたものをすすぎ落としていくことと同じです。相対できないもの、相対しない位置で……。

 統一教会はそうです。父と母がいて、おじいさんとおばあさんがいるのに、なぜ先生に従っていかざるをえないのかというのです。母親という標準があれば、「母親以上に愛することのできる心情をどのようにして人類に対して持てるのか?」ということを神様が考えなければならないということです。これが問題になるのです。

 サタンがどれほど悪辣だったか知っていますか?。七代の先祖にいる、すべての王女たちを犯したのです。神様の前でです。三代は普通です。おじいさんとおばあさんの三代ではありません。七代です。曾祖父、高祖父、それ以上までです。それをどのようにして愛するのですか?。そのように汚されたものをどのように愛するのですか?

 自分が愛したその愛を人々が知れば、数万年間愛した自分に対して、全体がついてくるというのです。蘇生、長成級ではなく、その何段階以上の次元の高い愛を行ったので、その愛の味を知った人は、永遠にそこには行かないというのです。

 統一教会には、そのような何かがあるのです。そのような伝統精神を立てました。怨讐の妻を、自分が愛するだれよりも愛し、怨讐の娘を、怨讐の母親を、怨讐の女性の一族を、悪なる王が天の国の女性を道理に背く行動をして滅ぼした、その何千倍、何万倍の愛で愛したので、サタンはその道についていくことができないというのです。それゆえに、その心情を思うとき、怨讐を愛する心情は、怨讐同士で親戚になることが問題ではないというのです。分かりますか?

 怨讐が「三代の妻たちを取り替えて暮らそう」と言えば、神様は驚くというのです。しかし、問題はありません。他の人々の何十倍愛するので、他の人々には絶対についていかず、自分についてくるというのです。柳光烈ニョル氏。(「はい」)。それが何のことか分かりますか? (「はい」)。分からなければ、新しい女性と暮らす資格はありません。

 サタンが屈伏して、自分の一族の三代まで、おばあさんまでが三代ですが、三代をすべて任されるようになれば、それまですべての精誠を尽くして生きてきた、その愛が問題になるのです。

 わたしの愛には、完全に溶かされてしまうのです。歴史上のいかなる怨讐であっても愛してあまりあり、そのるつぼの中に入っていけば、金だけが残るのであって、石はすべて煙となって流れていってしまうのです。そのような心情です。怨讐を愛する心情が問題ではありません。

 今から、柳鍾寛氏が「現在の妻をおいて、サタン世界の怨讐の国のおばあさんと暮らしなさい」と言えば、暮らしますか? (「……」)。尋ねているではないですか? (「お父様が『暮らしなさい』と言えば、暮らさなければなりません」)。わたしが「暮らしなさい」と言うのですか?。自分が願わなければならないでしょう。(「相当に難しい質問だと思います」)。難しいでしょう。しかし、そのような質問はまだまだ普通です。

 ですから見てください。タマルが義父とくっついたのです。怨讐の嫁が来たとしても、歓迎の意を表さなければならないというのです。そのような心情を持たれた神様が、どれほどかわいそうであられるか理解してみてください。世の中から見れば、かわいそうでしょう。涙を浮かべて進んでいかなければならない路程があったということを知らなければなりません。分かりましたね?

 神様が何度、結婚しようとされましたか?。アダム時代、それからいつですか?。イエス時代、再臨主時代、それから第四次アダム時代です。 四度目に定着したというのです。歴史的な怨讐に汚された愛を天の愛に変えなければ、霊界にいるアダムの後孫、イエス様の後孫、再臨主の後孫を救う道理がないのです。その愛の前には、サタンの千年の事情、万年の事情がすべて溶けてしまうのです。何のことか分かりますか?

 「愛には汚れたものはない」と言ったでしょう?。サタンは汚れたものではありません。本来、抱いて愛することのできる天使長です。一つの家で暮らそうという心情をいつも持っているのです。「わたしが解怨されるとき、おまえにも相対をつくってあげよう」という、そのような心情は変わりません。

 そのようにするために、わたしが橋を架け、捨てられたすべてのものを救ってあげるために、億千万世を経て数多くの人が犠牲になりながら、さまざまな社会の複雑に分かれた幾重もの道を経て、埋め合わせてきた歴史であったということを知らなければなりません。ですから、「わたしは嫌いだ」、「好きだ」と言うことができますか? 「わたしにはできない」と言うことができますか?。分かりますか?

 では、もう本当に分かりました。今回、わたしがインディアンが住んでいるネバダ州の農場に行ってみると、そこには男性が六十二人で女性が二人しかいませんでした。それをそのままにしておけば、どのようになりますか?。絶滅です。五十年すれば、すべていなくなるというのです。それを見てどうするのですか?

 統一教会の子女たちは放っておいて、女性たちを連れてもう一度嫁がせて……。そのようにして、「自分の娘であっても嫁にして後孫を残そう」と、そのような女性を探してペアを組もうというのです。「罪にならないように、わたしが防波堤をつくってあげよう」。先生は、このような考えを持っている人です。

 梁昌植シク氏。(「はい」)。自分の妻が自分の娘を連れて、そのようにしたらどのようにしますか? (「……」)。尋ねているではないですか? (「……」)。できないでしょう?。自分の愛する人を譲り渡してあげることのできるほどの雅量がなければなりません。

 中国は、今から十年、二十年後になれば、大変なことになるのです。一人しか産めないようにしていますが、男性ばかり残しているのです。女性がいません。皆、死んでしまったというのです。どのようにするつもりですか?

 最近、韓国人が結婚するときには、歩き回りながら結婚相手を探してくるのですね。上手ですね。道を築いておいたので、これからは、韓国の女性たちを世界じゅうに生んで満たしておけば、そのように結婚相手を探してくることはできません。平準化して、地獄までも穴を埋めてあげようと考えているのが先生なのですが、どうですか?。そのようなことまで考えているのです。

 六十を超え、七十を超えた男性は、器官が衰退するでしょう?。郭錠煥氏。(「はい」)。何歳ですか? (「六十四歳です」)。昔と同じではないでしょう? (「違います」)。劉正玉オク氏。(「はい」)。どんどん曲がっていくでしょう。(「はい」)。(笑い)

 六十を超えれば、老けた妻が世話をするよりも、世話をしてくれる娘がいたり、孫娘がいれば、孫娘を連れてくるほうがよいというのです。妻が世話をしてくれるのは、不便でしょう?。そこで子供、孫がたくさんいるので、中国人を一人連れてきて二世が生まれて、「天下にない傍系の系列をつくって、二つの世界の父に一度なってみよう」ということです。

 神様がそのようなことをなさっているのです。何のことか分かりますか?。神様が、正にそのようなことをなさっているのです。自分が最も愛する人を怨讐に分け与えるのです。そうですか、そうではないですか? (「……」)。そうですか、そうではないですか、この者たち。(「そうです」)

 できないことはないというのです。国を取り戻さなければなりません。何が体面ですか?。一族を残すことができ、一国を引っ張っていくことのできる伝統を立てれば、滅びません。

 さあ、そのような意味で、今まではよく分かりませんでしたが、今では「真に……」何ですか? (「分かりました」)。「分かりました」。周囲にいる女性たちを、かわいそうな男性たちを助けてあげるために動員し……。

 「二十年、三十年くらい一人で暮らしなさい。寺に行って精誠を尽くし、天国に行って天の国の皇族圏内に入っていくことのできる特権がある」と言って連れて行き、解放的なことをするかもしれないということです。

 そのようにしたからといって、神様が「おいおいおい、真の父母がそのようなことを考えてはいけない」と言うことはできないというのです。そのように言うことができないので、心配でしょう。全員、分かったでしょう? (「はい」)。さあ、分かりましたか?。真に分かりました。(「真に分かりました」)

 ですから、怨讐の妻と自分の妻を取り替えたとしても、それを愛してあまりある真の愛によって天の国をつくれば「オーケー」です。怨讐と親戚関係を結び、その娘を嫁だと思い、その息子を婿だと思うことは問題ないということです。

 そのようにしてこそ、国境がなくなり、怨讐がなくなるのです。そのいちばんの近道がそこにあるということが分かったので問題ありません。いつでも「オーケー」です。分かりますか?

 今からの課題は、自分にどのような願いがかけられたとしても、それを断行することができるかどうかです。「息子に対して、妻に対して、娘に対して、新しく願われることがあれば、天下を改革するためならばどのようなことでもできる」ということです。分かりますか? (「はい」)

 先生は、側近をすべてそのように整理していくことができるのです。何のことか分かりますか?。分からなければ、石にしがみつくように自分の頭をかかえて祈祷してみるのです。その心情が分からなければ、真の父母を解放することができる安息基盤の礎石を置くことはできません。そのようにしてこそ、神様を解放する根源ができるというのです。西洋人には考えられないでしょう。

 真に分かりました (「真に分かりました」)。今までは真に分かりませんでした。(「真に分かりませんでした」)。どのように生きるべきなのか分からなかったのですが、怨讐を愛することは何でもありません。怨讐に家を買ってあげ、怨讐に福を与えてあげることは何でもありません。


 怨讐の国の王が敗亡し、その一族をすべて生かしてあげるための道を、自分が責任持たなければならない立場に立っているということを知らなければなりません。サタンの王宮を尊重視することのできる価値(観)を持ってこそ、サタンが千年、万年屈伏するというのです。そこに「怨讐だ」という心があれば、「いつか復讐してやる」という心が消えないということを知らなければなりません。何のことか、分かりますか? (「はい」)


 今まで、真に分かりませんでしたが、今では本当に分かりました。万物を愛し、昆虫、魚、万物から人類全部を愛するのです。私たちの園は、百八十五か国の孤児と、その国の王子王女が暮らす園にならなければならないというのです。そのような家にならなければなりません。

 神様は、その複雑な環境を成して地上天国をつくっているという大王陛下なのです。一つの園、一つの国の国境内において、一つの大陸内においてそれを成し遂げることは問題ありません。分かりますか? (「はい」)

 アメリカの国民が「オーケイ、オーケイ」と言うのは、「オー・キング」という、そのような意味があります。先生を中心として「オー・キング」の位置で、世界のどこでも、天国のどこにでも通じることのできる道を相続させてあげても嫌だという国民は、どのようになりますか?。滅びる兆しが見えるというのです。

 あなたたちはしっかりして、このような膨大な「ために生きる」愛、ろ過器を通るために、ために生きなければなりません。なぜですか?。浄水になるためには、すべて投入して忘れるのです。

 世界を一つにするためにどのようなことでもする、このように「より、ために生きよう」という人は、その人からために生きてもらった人たちが、その人を父のように侍り、女王のように侍り、神様のように侍るのです。アーメン。(「アーメン」)。分かりますか?

 ために生きると、「私」を受け入れて、中心の位置に立てるのです。それゆえに、「父の代わり、王の代わり、神様の代わりに、永遠に絶対ために生きよう」という位置には、父の代わり、国の王の代わり、神様の代わりに侍ろうと思うので、そのような位置を経た人たちは、神様の直属の息子、娘になることができるのです。それゆえに、天の国に行って王子王女、皇族の中でも主流の皇族になることができるのです。アーメン。(「アーメン」)

 万物からために生き、人間のために生き、そのようにして新しい水、浄水のようになって、すべての人が浄水のようになって王の位置まで上がっていくためには、ために生きて、ために生きるのです。

 そのようにすれば、すべてのものが逃げていくのではなく、すべて一つに集まって自分を中心存在として侍ろうとするのです。天運が、天の運勢が訪ねてくるのです。ですから、それを収拾するまで時間がかかるだけであって、継続していけば天運が「私」に侍って、中央の位置に立てるというのです。

 徒党を組んでけんかをし、民主主義の大統領、共産主義の大統領になろうとすれば滅びるのです。自然屈伏して整理され、自分を中心として、天運とともに侍ることのできる中心が環境的条件に設定されれば、この世界は天の国の王圏とともに地上の王圏が、千年万年続く幸福と平和の基地となるのです。アーメン。(「アーメン」)。神様解放、真の父母解放、万民解放、万宇宙解放、神様の本然の……。

 ブラジルに行けば、ホテルアメリカーノ(支店)は基礎聖地、「源焦聖地」です。「源焦聖地」とは何かというと、神様の創造理想の聖地です。それから何ですか? 「根源聖地」です。

 人類歴史の根源は堕落です。堕落を知らなければなりません。神様を失ってしまったのです。父母を失ってしまい、すべてを失ってしまいました。神様を失ったので、地を失ってしまい、家庭の父と母を失ってしまいました。根源を知らなければなりません。「根源聖地」です。堕落した道です。

 それから「勝利聖地」です。蕩減復帰勝利完成を成さなければなりません。そのような三つの名称を持った聖地を決定したのです。ですから、その家庭を中心として祝福家庭四十日修練を中心として、その運勢に従って、源焦基準の解放者であり、根源基準の解放者であり、勝利基準の解放者として、南北統一とともに入籍時代を再び準備するのであり、今この時は、先生が世界的な運勢をすべて決算する、そのような時であるということを知らなければなりません。アーメン。(「アーメン」)

 それゆえに、霊界と肉界の統一、地上世界の統一、そしてアメリカにおける朝野、上院と下院の統一をするのです。宗教と国の統一、このようなことを清算しなければならず、今年六月を中心とした、新しい統合運動を全世界的に提示しなければならないのです。そのような集まりの出発が、今回の第三十八回「真の万物の日」に参加した皆さんが待っている時間なのです。アーメン。(「アーメン」)。ですから、意義深いというのです。

 解放の位置において、愛の主人である神様の位置に立って万物を愛して食べ、食べて愛したその万物は、神様と万物と人類全体を愛することのできる位置から本源地に帰っていくのです。そのことによって、地上、天上天国解放の天地、万事が「オーケイ」となり、「キング・オブ・オーケイ」時代が来るのです。アーメン。(「アーメン」)

 わたしたちは、そこに向かって突進します。前進しますか、突進しますか? (「突進します」)。前進ではありません。突進です。跳躍しますか、飛躍しますか? (「飛躍します」)。エレベーターのようにさーっとです。エレベーターに乗って昇っていかなければなりません。そのような時が来たのです。

 家庭の基盤を築いてあげ、国の基盤を築いてあげ、世界の基盤を築いて、神様の玉座の前にさっと……。自然の世界で暮らしながら動物たちに命令して、あらゆることをする人を何と言いますか?。ターザンです。ターザンとは何ですか?。乗り回す商売がターザンです。上手に乗るではないですか?。猿も他の動物も、ターザンの声さえ聞けば、朝から集まってくるのです。

 神様の前に、神様の息子、娘に代わるターザンになって「アーアーアー」と言えば、全世界がわあっと押し寄せてくるのです。このようにすることのできる所が、一つに統一された天国であったのです。そのような「ターザン王宮のターザン王」になるためのものが、統一教会の飛躍する者たちがしていることなのです。アーメン。(「アーメン」)。千年、万年、アーメン。




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。
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Last updated  2023.11.10 21:05:03
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