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オーセンティック・バーでも提供されることの多い自家製の「漬け込み酒」。実は何でもかんでも好き勝手に造れる訳ではなく、一応、法的な規制が厳然と存在します。バー業界のプロでも意外と知らないこうした日本国内での法的ルールについて、(以前にも一度書きましたが)改めて最新情報も含めてまとめてみました。ご参考になれば幸いです。 ◆2008年に自家製造のお酒の規制が緩和 バーUKでは、4種の自家製造の酒(しょうがを漬け込んだウオッカ、7種類のスパイスを漬け込んだラム、ザクロを漬け込んだカルバドス、レモンピールを漬け込んだリモンチェロ<ベースはスピリタス>)をお客様に提供していることはご承知の通りですが、友人やお客様から「それって、法律的に問題ないの?」と聞かれることが時々あります。 日本国内では、お酒を製造・販売(提供)するには酒類製造免許が必要です。お酒のメーカーが業として行う「果実や穀物などの原料から酒類を製造する行為」だけではなく、バーや飲食店等がお酒に様々な材料や他のお酒等を混ぜ合わせる「混和」という作業も、法的にはお酒の製造(新たなお酒を造っている)と同じ扱いを受けます。そして、アルコール分1%以上のお酒はすべて課税されます。 従って、バーや飲食店が無許可で自家製のお酒を造って提供するのは、基本、違法行為です。違反した場合は、酒税法第54条《無免許製造の罪》の規定に該当し、10年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処せられます(単なる無許可販売の場合は1年以下の懲役又は50万円以下の罰金=同法第56条)。 しかし現実には、許可を得ることなく自家製の果実酒等を提供している飲食店は、昔からありました。様々な果実やスパイス、ハーブ、コーヒー豆、茶葉等を漬け込んだ自家製のお酒を「店の名物」にしているバーも少なくありませんでした。厳密に言えば、2008年の法改正までは、こうしたバーや飲食店等での「製造・提供行為」は限りなく「違法」行為でした。 国税庁もこれ以上「違法状態」を放置できないと考えたのか、それとも実態に合わせて少し制限を緩和すべきと考えたのか、2008年<平成20年>に租税特別措置法(酒税関係)が改正され、特例措置(例外規定)が設けられました。それは「客等に提供するため酒類に他の物品を混和する場合等、一定の要件を満たせば、例外的に酒類の製造に該当しないこととし、免許や納税等が不要となる」という特例です。 この結果、例えば「焼酎で作る梅酒」「しょうがを漬け込んだウオッカ」「ウオッカにレモンを漬け込んだリモンチェッロ」等は、酒類免許がなくても、バーや飲食店は法的な裏付けを持って堂々と製造し、提供することが可能になりました。 一方、個人が自分で飲むために造る酒(例えばよくある梅酒づくり等)は、かなり昔からとくに法的な規制はなく、旧酒税法(1940年<昭和15年>施行)でも禁止する規定はありませんでした。すなわち、個人の場合は事実上「黙認」状態でしたが、1953年<昭和28年>に施行された新・酒税法で初めて、「消費者が自ら消費するために酒類(蒸留酒類)に他の物品を混和する場合は新たに酒類を製造したとは見なさない」とする特例措置(酒税法43条11項)ができ、めでたく法的にも認められることになりました。 ◆使用が禁止されている穀物や果実に注意 このバーや飲食店等を念頭に置いた租税特別措置法の特例措置についてもう少し詳しく説明しましょう。適用対象は「酒場、料理店等、酒類を専ら自己の営業場において飲用に供する業」であり、具体的には、下記のようないくつかの条件を満たす必要があります。(1)酒場、料理店等が自己の営業場内において飲用に供することが目的であること(2)飲用に供する営業場内において混和を行うこと(3)一定の蒸留酒類とその他の物品の混和であること ※酒場や料理店等が客に提供するために混和する場合だけでなく、消費者(個人)が自ら消費するため(又は他の消費者の求めに応じて)混和する場合も、この「特例措置」と同様の規制を受けます。 また、使用できる酒類と物品の範囲は、以下の通り指定されています(この規定は個人が自分で飲むために造る場合も順守する義務があります)。(1)混和後、アルコール分1度以上の発酵がないもの(2)蒸留酒類でアルコール分が20度以上のもので、かつ、酒税が課税済みのもの(具体的には連続式蒸留焼酎、単式蒸留焼酎、ウイスキー、ブランデー、スピリッツ<ウオッカ、ジン、ラム、テキーラ等>、原料用アルコール)(3)蒸留酒類に混和する際は、以下に示す禁止物品以外のものを使用すること (イ)米、麦、あわ、とうもろこし、こうりゃん、きび、ひえ若しくはでんぷん、又はこれらの麹 (ロ)ぶどう(やまぶどうを含む)=【末尾注1】ご参考 (ハ)アミノ酸若しくはその塩類、ビタミン類、核酸分解物若しくはその塩類、有機酸若しくはその塩類、無機塩類、色素、香料、又は酒類のかす (ニ)酒類(※国税当局に問い合わせたところ、「蒸留酒、醸造酒を問わず、ベースの蒸留酒と同一の酒類以外の市販の全ての酒類を指す」とのこと) ※なおこの特例措置は、前記のように店内での飲食時に提供する場合に限られ、お土産として販売するなどの客への譲り渡しは出来ません(個人が自宅で造る場合も、同居の家族や親しい友人等に無償で提供することはできますが、販売することは出来ません)。 ◆蒸留酒はOK、醸造酒はダメ 以上のように、例えばバーや飲食店等でよく見かける梅酒は、「蒸留酒である焼酎やウオッカ等(アルコール度数20度以上)に漬け込む」のはOKですが、日本酒は「醸造酒であり、通常アルコール度数も20度未満」ですから、二重の意味でNGです(まれに、度数20度以上の日本酒も存在しますが、バーや飲食店で提供する場合は「蒸留酒」しか使えないのでやはりダメです)。 また、梅酒に自然な甘さを出したいからと言って、氷砂糖の代わりに「麹」を使うのも「(3)の(イ)に抵触する」ため、当然NGです。また、ぶどう類を原料にして自家製ワインのようなものを提供すれば、ベースが醸造酒・蒸留酒等に関係なく、完全に違法行為となります。 さらに、年間に自家製造できる量の上限も、営業場ごとに1年間(4月1日から翌年3月31日の間)に1キロリットル以内と決められています(バーUKの場合は、4種類全部合わせても、たぶん月間で最大2~3リットルくらいなので、全然大丈夫です)。なお、この特例措置を受ける場合は、所管の税務署に特例適用の申告書を提出しなければならないとされています(バーUKも一応、申告書を提出しております)=【末尾注2】ご参考。 ◆「自家製サングリア」の提供は基本NG 気をつけなければいけないのが「自家製サングリア」です。サングリアとは「ワインにフルーツやスパイスを漬け込んだワインカクテル」のこと。アルコール度数も低く、フルーティで、お酒が苦手な女性にも飲みやすいので、「自家製サングリア」を食前酒やカクテルとして提供するバーや飲食店も少なくありません(私も何軒か知っています)。 しかし、ベースがワイン(醸造酒)なので前述した条件の「ベースが蒸留酒」にも「20度以上」というルールにも引っかかり、事前に漬け込むことが一般的なサングリアは、場合によっては「発酵」も起こるので、租税特別措置法の特例措置は適用されません。許可なく製造・提供すれば違法で、刑事罰(前述)が科せられます。 従って、現在の日本国内では、基本、サングリアの提供はNG(違法行為)です。プロのバーテンダーの人でも、この規定を知らない人を時々見かけますので、本当に注意が必要です(ただし、サングリアを公然と、あるいは内緒で提供していたというバーが国税当局に摘発されたという話は、個人的には過去聞いたことはありませんが…)。 なお、お客様が飲む直前にワインにフルーツを入れて提供するような場合については、「店舗内で消費(飲む)の直前に酒類を混和した場合(例えばカクテルのようなドリンク)は、そもそも酒類の製造に当たらない」という特例措置と同等に扱われるため、まったく問題ありません。 ◆目に余る行為でない限り、現実には「黙認」 くどいようですが、日本国内でお酒を製造するには、(そこがバーであろうとなかろうと)酒類製造免許(酒造免許)の取得が義務づけられています。なので免許を取れば、店内で自家製のビールやワイン、そしてサングリアを製造・提供することも法的には可能です=【末尾注3】ご参考。 しかし免許取得には、管轄税務署より「経営状況」「製造技術能力」「製造設備」等の審査、免許を受けた後も1年間の最低製造数量を満たしているか等の審査があります。製造しようとするお酒の種類ごと、また製造所(店舗)ごとに免許が必要です。普通のバーや飲食店等が独自で取得するのはかなり高いハードルがあり、そう簡単ではありません。 現状では、「自家製サングリア」を提供するバーや飲食店は時々見かけますが、それはかなりの部分で「グレーな行為」だと思われます。だが、国税当局は「年間通して常時、公然と一定量を提供したり、お土産で販売したりする」ような目に余る行為でもない限り、事実上「黙認」している状況です(いちいち摘発する手間も大変だからでしょう)。 個人的には、年に1~2度くらいの特別なイベント時なら、事前に申請すれば例外的に自家製サングリアの提供を認めてほしいと強く思います。しかし現状では、何かのきっかけで国税当局が厳しく規制してくることも十分考えられますので、まぁ基本的には、バーでは手を出さない方がいいと考えています。サングリアに近いアルコール・ドリンクを提供したい場合、前述したように、飲む直前にワインにオレンジやレモン、ライムなどのフルーツを加えるしかありません。 ここまで書いてきたことの要点(大事なポイント)をまとめておきますと、バーで提供できる自家製のお酒は、(1)20度以上の蒸留酒を使うこと(2)ぶどう類以外の材料を使うこと(米などの穀物類や麹もダメ)(3)店内で作り店内だけで提供すること(持ち帰り販売はダメ) ということです。この3つだけは常に頭に入れておきましょう。 ◆その場でつくるカクテルはOK では、バーの花形である「カクテル(Cocktail)」はどうでしょうか? バーでのカクテルは通常、お客様の注文を受けてその場でつくられ、飲む直前に提供されます。1953年に成立した酒税法には「消費の直前に酒類と他の物品(酒類を含む)を混和した場合は、前項の規定(新たに酒類を造ったものとみなす)は適用しない」(第43条10項)という例外規定があり、2008年の租税特別措置法の改正でも、この例外規定は受け継がれています。 従って、その場で作ったカクテルを提供することは全く問題ありません。提供の直前につくるカクテルなら、フルーツなどを混ぜても「発酵」することはあり得ないからです。また、店舗前のテラス、ベンチ等は、客がその場で短時間で消費する前提であれば、店舗内と同じ扱いとなります。ただし、店舗内・店舗前に関係なく、自家製酒や作ったカクテル等を容器に詰めたりして販売する(無償譲渡することも含む)などの行為は、「無免許製造」となるのでできません。 なお、個人が自宅においてカクテルを飲む直前につくる場合、家庭内で消費する限りは家族や来訪した友人にも自由に提供できますが、(別の場所に住む)他人の委託を受けてつくったりすると「違法」になるので注意が必要です(当然、販売行為もNGです)。 ◆「期限付酒類小売り免許」も一時制度化されたが… ちなみに、国税庁は2020年4月、コロナ禍で苦しむ飲食業を支援するため、バーや飲食店等が6カ月の期限付きで酒類の持ち帰り販売ができる「期限付酒類小売業免許」を新設しました(現在ではこの制度は終了)。昨年は、この「期限付小売業免許」を取得して、ウイスキー等を量り売りするバーもあちこちで目立っていました。 加えて、国税庁が「カクテルの材料となる複数の酒類や果実等を、それぞれ別の容器に入れて、いわゆる”カクテルセット”として販売することも、期限付酒類小売業免許を取得すれば可能」という見解を示したことを受けて、カクテルの持ち帰り販売(材料別に密閉容器等に詰めての販売)をするバーも登場しました。 ミクソロジストとしてバー業界でも著名なバーテンダー、南雲主于三(なぐも・しゅうぞう)氏は「期限付免許」を取得したうえで、自らの店舗で持ち帰り用のオリジナル・カクテルセットを販売されました。その後は、酒類製造免許を持つ会社とタイアップして、完成品の瓶詰めオリジナル・カクテルの販売(通販がメイン)も始められました。その南雲氏の体験談はとても参考になります(出典:食品産業新聞社ニュースWEB → https://www.ssnp.co.jp/news/liquor/2020/04/2020-0413-1634-14.html)。 ◆出来たこと・出来なかったこと ご参考までに、「期限付酒類小売業免許」で出来たこと・出来なかったことや許可要件等を少し紹介してみます。(1)瓶(ボトル)や缶のままでの販売は可能(※この場合の瓶や缶とはウイスキーやビール、ジン等の未開栓の商品を指す)。(2)来店時にその場で酒類を詰める量り売りも可。量り売りの場合、容器は客側が用意することが前提(店側が容器を用意する場合、容器代の伝票は別にすること)(3)来店前にウイスキー等の酒類を詰めておく「詰め替え販売」は、詰め替えをする2日前に所轄の税務署に届け出をすれば可能。(4)カクテルなどをプラカップに入れて蓋をして販売することはできない。(※ただし、事前にカクテルを材料別に密封容器に詰めておく「詰め替え販売」は、(3)と同様、事前に所轄の税務署に「詰め替え届」を出していれば可能)=【末尾注4】ご参考。(5)量り売りの場合はラベル表示は不要だが、詰め替えはラベルが必要。(6)2都道府県内にまたがる配送は不可。(7)酒税法10条(酒類製造・販売免許を得るための人的・資格要件)に違反していないこと。(8)新規取引先から購入したものは販売不可。既存の取引先からの酒類に限り、販売が可能。 ◆「期限付免許」は2021年3月末で終了 前述したように、期限付免許での「詰め替え届」が出ていれば、カクテルを材料別に密閉容器にボトリングまたは真空パックにしてセット販売することが出来ました。南雲氏は例えば、ジン、カンパリ、ベルモットを密閉容器に詰めて、オレンジピールと一緒にして「ネグローニ・セット」として販売。お客様も自宅で手軽に、プロ並み(に近い?)のカクテルが楽しめたのです。 南雲氏は当時、「小売と同じことをしても価値はない。バーにしかできない売り方が付加価値となります。例えば、ウイスキーのフライト(飲み比べ)セット、自家製燻製とウイスキーのマリアージュセット、クラフトジンとライムとトニックのジントニックセットなど、可能性は無限大です」と大きな夢を描いていました。素晴らしい取り組みだと思いました。 しかし、国税庁はこの「期限付酒類小売業免許」を2度の期限延長を経た後、今年(2021年)3月末を持って終了(廃止)してしまいました。4月以降も継続を希望する場合は、通常の「酒類小売業免許」を申請するように告知しています。コロナ禍がここまで長引くとは思わなかったということもありますが、せっかくの「期限付免許」はコロナ禍が収束するまでは存続させてほしかったし、一方的に終了してしまった同庁の姿勢はとても残念に思います。 その後も南雲氏は、日本国内のバーで、カクテルのデリバリー販売、テイクアウト販売が常時認められることを目指し、様々な団体やバーテンダーと連携して、国税庁への働きかける活動を精力的に続けられています。ぜひ応援していきたいと思っています。 ◆出張バーテンダーの扱いは? 時々見かける(そして、私自身もたまに依頼される)出張バーテンダーっていう営業は、出張先で用意された酒や材料を使ってカクテル等つくる場合においては、法律的な縛りはまったくありません(出張料理人・シェフも同じ条件ならば合法的な行為と見なされます)。厳密に言えば、食中毒を起こさないように注意する程度です。 ただし、出張先(店舗外)で提供するカクテルを、事前に作り置きして容器に詰めていくことはできません。租税特別措置法では、「当該営業場以外の場所において消費されることを予知して(事前に)混和した場合、特例措置にいう『消費の直前に混和した』こととはならず、無許可の酒類製造に相当する」とされています。 要するにバーにおいてのカクテルは原則として、「自らの店の中でつくって提供すること」「注文の都度つくること(作り置きすることはNG)」「注文した人が飲むこと」の3つの条件を満たす必要があり、出張先においても「(出張先は)自らの店と同じ扱いになる」ことも含め、この3条件を守らなければなりません。 以上、長々と書いてきました。2020年1月以降長く続くコロナ禍で、バーを含む飲食店は、非科学的なアルコール規制のために、苦境に立たされています。しかし、ピンチはチャンスでもあります。我々バーテンダーは、コロナ禍が収束した暁に、バー空間で味わうお酒の楽しさをお客様に実感してもらえるように、関係する諸法律には誠実に向き合いながら、より一層の創意と工夫を加えて新しい自家製酒やカクテルを提供していこうではありませんか。【注1】他の果物は混和してもいいのに、なぜ、ぶどう類だけは禁止になっている理由について国税庁は説明していませんが、おそらくは(正式の免許を受けて醸造している)国内のワイン農家の保護という観点があるのではないかと考えられています。【注2】特例適用申告書については、店で少量の自家製酒を不定期に提供している何人かのバーのマスターに聞いてみましたが、実際、個人営業の店で申告書を出しているところはそう多くないようです。現実には、少量で不定期ならば、国税当局も事実上「黙認」しているようですが、私は、妙な疑いをかけられるのも嫌なので、一応、法律に従って申告しています。 【注3】アルコール度数1%未満であればビールやワインを醸造するのに許可は必要はありません。市販の自家製ビール(またはワイン)製造キットがこれに当たります。なお、店内に簡易で小型の蒸留器を置いているバーを見かけることがたまにありますが、無許可でアルコール度数1%以上の蒸留酒を造る行為は「違法」になるのでご注意ください。【注4】南雲氏との2020年4月の一問一答で、国税庁酒税課は「カクテルは、仕様がグラスやカップ、プラカップ等で直後に飲むことを前提としている容器であれば(店舗内での)提供」と答える一方で、「結果として客側が持ち帰ったとしても、直ちに販売と言うのは難しい」との見解も示し、蓋のない容器での「テイクアウト」も事実上容認していました。しかし、期限付免許が終了した現在、カクテルの「テイクアウト」販売は残念ながら再びNGになっています。【おことわり&お願い】この記事は、バーにおける「自家製漬け込み酒」等について、現時点での酒税法、租税特別措置法上の一般的なルールや法的見解等をまとめたものですが、個別具体的な行為や問題についての適法性まで保証するものではありません。個別のケースにおける疑問や法的な問題、取扱いについては、バーや飲食店等の所在地を所管する税務署や保健所にご相談ください(※ご参考:酒税やお酒の免許についての相談窓口 → 国税庁ホームページ掲載リンク)
2021/06/04
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◆「Harry's ABC Of Mixing Cocktails」にみるクラシック・カクテル 19.ホワイト・レディ(White Lady) 「ホワイト・レディ」も1920年代から伝わる代表的なクラシック・カクテルです。現代の標準的なレシピは、「ジン(30~40ml)、ホワイト・キュラソー(またはコアントロー、トリプルセック)(15ml)、レモン・ジュース(15ml)」(シェイク・スタイル)という感じでしょうか。 カクテル名は、このカクテルの「輝くような白色」から「貴婦人(レディ)」をイメージして付けられたのだと想像されていますが、命名者や考案者は確定していません。誕生の経緯については従来、以下の(1)や(2)のような説が、数多くの文献やWEB専門サイト等で紹介されてきました。 (1)パリの「ハリーズ・ニューヨーク・バー(Harry's New York Bar)」のオーナー・バーテンダー、ハリー・マッケルホーン(Harry MacElhone)が考案した(マッケルホーン自身は、その著書「Harry’s ABC Of Mixing Cocktails」(1919年刊)に「1919年、ロンドンの社交クラブ「シローズ・クラブ(The Ciro’s Club)勤務時代に考案した」と記しています)。 (2)ロンドン・サヴォイホテル(The Savoy Hotel)のバーテンダー、ハリー・クラドック(Harry Craddock)が1920年代に考案した(サヴォイ・ホテルのHPは「ハリー・クラドックが同ホテルのアメリカン・バーで考案した」と記し、「サヴォイ・カクテルブック(The Savoy Cocktail Book)」=1930年刊=にも収録されています。レシピは「ジン2分の1、コアントロー4分の1、レモンジュース4分の1」です)。 上記以外では、フランス・カンヌのカールトン・ホテル(The Carlton Hotel)のバーで考案されたという説を紹介するサイト(出典:バー業界団体の一つ、PBOのHP)もありましたが、時期や裏付け資料は示されておらず、信憑性はよく分かりません(写真=White Lady @ Utena Bar, Okayama City)。 ただし、(1)のマッケルホーンのレシピは、1919年の考案当初、「ホワイトクレーム・ド・マント3分の1、コアントロー3分の1、レモンジュース3分の1(シェイク・スタイル)」で、現代の標準的レシピとは似ても似つかないものでした。 それを2年後の改訂版では、「ブランデー3分の1、クレーム・デ・マント3分の1、コアントロー3分の1(シェイク・スタイル)」と変更。さらに8年後、1929年の改訂版では、「ジン3分の1、コアントロー3分の1、レモンジュース3分の1」と、現代に近いレシピに変更しています(出典:1986年刊行の同書復刻改訂版)。 マッケルホーンが短期間になぜ二度もレシピを変更したのかはよく分かりません。ここからはうらんかんろの推理(想像)ですが、ロンドンのサボイホテルでクラドックが1920年代に考案したジン・ベースの「ホワイト・レディ」が好評で、その噂がマッケルホーンの耳にも入っていた。 一方で、「シローズ・クラブ」時代にマッケルホーンが考案した最初のレシピは、いまいち評判がよくなかった。そこで、2年後に「ブランデー・ベース」に変えたが、レモンジュースをやめてしまった分、アルコール度数がきつくなり過ぎて、女性客の受けがあまりよくなかった。 あれこれ考えた末、マッケルホーンも結局、サヴォイ・レシピの方が「ホワイト・レディ」という名にふさわしいと考え、変更したのではないか。しかし、サヴォイ・レシピ(ジン2分の1、コアントロー、レモンジュース各4分の1ずつ)をそのまま頂くのは、マッケルホーンのプライドが許さなかったので、「3材料同量」レシピに変えたのではないでしょうか。 なお、欧米のBarでは、1940年代までは、卵白を加えてシェイクする「ホワイト・レディ」も一般的でした。今でも欧米では、卵白入りを標準レシピにしているバーも時々見かけます。 では、1920~1950年代の主なカクテルブック(「Harry's ABC…」「The Savoy Cocktail Book」以外)は「ホワイト・レディ」をどう取り扱っていたのか、どういうレシピだったのか、ひと通りみておきましょう。・「Barflies and Cocktails」(ハリー・マッケルホーン著、1927年刊)仏 コアントロー3分の2、ブランデー6分の1、クレーム・ド・マント6分の1(シェイク・スタイル)・「Cocktails by “Jimmy” late of Ciro's」(1930年刊)米 コアントロー3分の2、ブランデー6分の1、クレーム・ド・マント6分の1(スタイル不明)・「The Artistry Of Mixing Drinks」(フランク・マイアー著 1934年刊)仏 ジン2分の1、コアントロー4分の1、レモンジュース4分の1(シェイク)・「World Drinks and How To Mix Them」(ウィリアム・T・ブースビー著、1934年刊)米 ジン2分の1、コアントロー4分の1、レモンジュース4分の1(シェイク)・「The Official Mixer's Manual」(パトリック・ギャヴィン・ダフィー著、1934年刊)米 ジン2分の1、コアントロー4分の1、レモンジュース4分の1(シェイク)・「The Old Waldorf-Astoria Bar Book」(A.S.クロケット著 1935年刊)米 掲載なし・「Mr Boston Bartender’s Guide」(1935年刊)米 ジン1.5onz(45ml)、生クリーム1tsp、パウダー・シュガー1tsp、卵白1個分(シェイク)・「Café Royal Cocktail Book」(W.J.ターリング著 1937年刊)英 ジン2分の1、コアントロー4分の1、レモンジュース4分の1(シェイク)・「Trader Vic’s Book of Food and Drink」(ビクター・バージェロン著 1946年刊)米 ジン1onz(30ml)、コアントロー0.5onz、レモンジュース0.25onz、生クリーム1onz(または卵白1個分)・「Esquire Drink Book」(フレデリック・バーミンガム編 1956年刊)米 ホワイトレディ=コアントロー3分の2、ブランデー6分の1、クレーム・ド・マント6分の1/ホワイト・レディ2=ジン11分の8、トリプルセック11分の1、レモンジュース11分の2、卵白1個分/※「Judy Holliday's White Lady」というレシピも併せて紹介=ジン3分の2、コアントロー6分の1、グレープフルーツ・ジュース6分の1「Booth's Handbook of Cocktails & Mixed Drinks」(ジョン・ドゥザット著、1966年刊)英 ジン2分の1、コアントロー4分の1、レモンジュース4分の1 卵白1tsp(シェイク) 「ホワイト・レディ」は日本へも1930年代には伝わっていたと思われますが、残念ながら現時点では、収録した文献・資料とは出合っていません。確認した限りでは、日本で最も早く「ホワイト・レディ」を活字で紹介したのは、1954年刊の「世界コクテール飲物事典」(佐藤紅霞著)です。著者の佐藤氏は、1950年代までに登場した主な「ホワイト・レディ」レシピを網羅する形で、以下の3つを紹介しています。 ホワイト・レディ1=ドライジン2分の1、コアントロー4分の1、レモンジュース4分の1、ホワイト・レディ2=コアントロー3分の2、ブランデー6分の1、クレーム・ド・マント6分の1、ホワイト・レディ3=ジン3分の1、キュラソー3分の1、レモンジュース2分の1個分、卵白1個分 「ホワイト・レディ」は今日のバーでも人気カクテルの一つですが、初期の頃の卵白入りのホワイト・レディを頼む方はほとんど見かけません。うらんかんろは、ぜひ一度飲んでみられることをお勧めします。ジンの強さをあまり感じない、思いのほかまろやかな味わいに驚かれると思います。ただしできれば、そのバーが比較的すいている時に頼んであげてください。生卵を扱うカクテルは、(バーテンダーは顔は出さないでしょうが)忙しい時には、おそらく嫌がられるドリンクですので(笑)。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2015/09/06
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2010年10月9日の日記で、東京・丸の内にある「東京會舘」のBarにお邪魔して、名物の會舘フィズを味わったことを記しました。 東京會舘をあまりよく知らない方のために、前回とのダブりを承知で少し説明しておけば、1922年(大正11年)創業で、宴会場とフランス料理店、Bar等を備えた格式と風格のある建物です(写真左=初代の東京會舘 (C)東京會舘のパンフから)。 現在の東京會舘は1971年(昭和46年)、同じ丸の内エリアで移転したので、建物としては2代目ですが、その歴史と伝統を十分に受け継いでいます。 そして、この東京會舘のもう一つの名物は、「メインバー・ロッシーニ(Main Bar Rossini)」。日本のBarの歴史を語る際、欠かせない酒場です。数多くのバーテンダーがここから育ち、沢山のカクテルがここから日本全国へ普及していきました。 東京會舘は敗戦直後の1945年、米進駐軍に接収されました。そして、GHQ本部に近いこともあって、メイン・バーは米軍将校専用のBarとなりました。ここを利用した米軍将校を通じて、そこで働く日本人バーテンダーは、それまであまり知らなかった新しいカクテルを次々と覚えていくのです。 この東京會舘のBarからは、日本にマティーニを広めた恩人とも言える今井清氏(故人)も育ちました(写真右=初代・東京會舘のメイン・バー (C)同會舘のパンフから)。 そして、この東京會舘から日本じゅうのホテルや街場のBarへ広がったスタンダード・カクテルは数知れません。例えば、マティーニ(Martini)、ジン・リッキー(Gin Rickey)、モヒート(Mojito)、マルガリータ(Margarita)、ミント・ジュレップ(Mint Julep)、サイドカー(Sidecar)、ブル・ショット(Bull Shot)…。とくにマティーニをオン・ザ・ロックで飲むスタイルは、日本ではここから始まったと言われています。 前回うらんかんろがお邪魔した際は、GHQ最高司令官・マッカーサー元帥がこよなく愛したというミルク入りのジン・フィズ、「會舘フィズ(Fizz)」を味わいました。そして先日、二度目の訪問が実現しました。僕は、とりあえず名物のカクテルはすべておさえておきたいと思い、まずマティーニ・オン・ザ・ロックを注文しました。 今井さんは確かジンはゴードンを使ったと聞いていました。だが、ジンはビフィーターでした(まぁジンの銘柄には、僕はそうこだわらない)。つくってくれたバーテンダーに、ジンとベルモットの割合を尋ねると、「ステアするミキシンググラスをベルモットで濡らす程度で、ほとんどがジンですね」との答えでした。 さて2杯目はもちろん、東京會舘のもう一つの名物「ブル・ショット」(写真左)。ウオッカのコンソメ・スープ割りというちょっと変わったカクテルですが、夏はアイスで、冬はホットで飲むことができます(ビーフ・コンソメを使うBarもありますが、東京會舘はチキン・コンソメを使います)。 ただし通常、冷蔵庫ではゼラチン状に固まってしまうコンソメを温めなおしてからまた冷やすというめんどくさい手順が必要です。だから日本では普通のBarでは、このカクテルをメニューに入れているところかなり少ないと思います。 このカクテルのポイントはなんと言っても、コンソメのクオリティです。その点、宴会場やレストランを持つ東京會舘は上質のコンソメ・スープを常備しています。だからこのブル・ショットの美味しさは格別です。ウオッカとコンソメが別々に出てきて、自分で好きな濃さで味わえるのも嬉しい心遣いです。 皆さんも東京會舘を訪れる機会があれば、ぜひ、會舘フィズとともに、このブル・ショットを味わってみてください。感動すること間違いなしです(でも、手が込んでいるだけ、お値段はちょっとお高~いです)。【東京會舘メイン・バー】東京都千代田区丸の内3-2-1 電話03-3215-2113 午前11時半~午後10時 日祝休こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2012/06/09
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先日のこと。ある海外のバー業界関係の方から「過去誕生したジャパニーズ・カクテルのなかで、知っておくべき重要なカクテルを教えてほしい」という依頼を受けました。 そこで、まがりなりにも長年カクテル史を研究してきた私が、独自の?視点で25のカクテルを選んで、DeepLの力を借りて(笑)英訳したうえでお伝えいたしました(うち2つは日本人の考案ではなく、滞日外国人が考案した or 関わったと伝わる日本生まれのカクテルですが…)。 以下はその日本語版です。「プロなら知っておくべきジャパニーズ・カクテル」と、その考案者(不明なものもありますが)、誕生の時期・由来等について簡単に紹介いたします(かつて私のBlog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話」で取り上げたものについては、その該当ページへのリンクも貼っておきます)。1.横浜(Yokohama)(19世紀末から20世紀初頭、考案者は不詳) ジン30ml、ウォッカ15ml、オレンジジュース15ml、グレナデン・シロップ10ml、アニゼット0.5tsp(ティースプーン) ※横浜・外国人居留地のバーもしくは欧州航路の客船内のバーで誕生したと伝わっている。いずれにしても欧州航路の客船を通じて1920年代には英国にも伝わり、サヴォイ・カクテル・ブック(1930年刊)にも収録されることになった。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:横浜(Yokohama)」】2.チェリー・ブロッサム(Cherry Blossom) 田尾多三郎(1923年) チェリー・ブランデー30ml、ブランデー20ml、オレンジ・キュラソー10ml、レモン果汁5ml、グレナディン・シロップ5ml ※田尾氏(故人)がオーナー・バーテンダーをつとめていた横浜・伊勢佐木町の「カフェ・ド・パリ」(現在は関内に移転し、「パリ」と改名)で誕生した伝わっている。カクテル「横浜」と同様、欧州航路の客船を通じてロンドンやパリなどの欧州の大都市にも伝わった。サヴォイ・カクテル・ブック(1930年刊)にも収録されている。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:チェリー・ブロッサム(Cherry Blossom)」】3.マウント・フジ(Mount Fuji) 東京帝国ホテルのインペリアル・バーで誕生(1924年)、考案者は不詳 ジン45ml、パイナップルジュース15ml、レモンジュース10ml、シロップ1tsp、マラスキーノ1tsp、 生クリーム 1tsp、卵白 ※「マウント・フジ」カクテルには他に2つのバージョン(JBAバージョンと箱根富士屋ホテルバージョン)が伝わっている。詳しくは、連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話」の「マウント・フジ(Mount Fuji)」の項をお読みください。4.ライン・カクテル(Line Cocktail) 前田米吉(1924年) ジン25ml、スイート・ベルモット25ml、ベネディクティン25ml、アンゴスチュラビターズ2dash ※前田米吉氏(1897年~1939年)は大正時代のバーテンダーであり、日本初の実用カクテルブック『コクテール』(1924年刊)の著者。【ご参考:拙Blogの記事「『コクテール』の著者・前田米吉氏の素顔とは」】5.會舘フィズ(Kaikan Fizz) 東京會舘内のバー発祥(1945年)、考案者は不詳 ジン45ml、牛乳60ml、レモンジュース15ml、砂糖1tsp、ソーダ ※敗戦後(1945年9月)、東京會舘は占領軍に接収され、1952年まで将校専用の社交場(「東京アメリカンクラブ」)として使用された。「會舘フィズ」は朝から酒を飲みたい将校が、バーテンダーに「お酒に見えないアルコール・ドリンクをつくってくれ」と頼んで、考案してもらったのが起源と伝わる。【ご参考:拙Blogの記事「東京會舘メインバー:歴史の重みに酔う」】6.カミカゼ(Kamikaze) 考案者不詳(1945~46年頃) ウォッカ30ml、コアントロー30ml、ライムジュース30ml、ライム・スライス ※第二次世界大戦後(1945年~)、東京の占領軍キャンプ(米軍基地)内のバー発祥と伝わる。 7.青い珊瑚礁(Blue Coral Reef) 鹿野彦司(1950年) ジン40ml、グリーンペパーミント・リキュール20ml、マラスキーノ・チェリー、あらかじめグラスの縁をレモンで濡らしておく。 ※1950年5月、戦後初めて開催された本格的なカクテル・コンクール「オール・ジャパン・ドリンクス・コンクール」(日本バーテンダー協会=当時はJBA=主催)で1位に輝いた。考案者の鹿野氏は(当時)名古屋のバー「くらぶ鴻の巣」のオーナー・バーテンダー。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:青い珊瑚礁(Blue Coral Reef)」】8.キッス・オブ・ファイア(Kiss of Fire) 石岡賢司(1953年) ウォッカ30ml、スロージン20ml、ドライ・ベルモット、レモンジュース5ml、砂糖でグラスをスノー・スタイルにして ※1953年に開催された「第5回「オール・ジャパン・ドリンクス・コンクール」(日本バーテンダー協会主催)でグランプリに輝いたカクテル。石岡氏は残念ながら、この受賞から数年後に他界された。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:キッス・オブ・ファイア(Kiss of Fire)」】9.雪国(Yukiguni) 井山計一(1959年) ウォッカ45~55ml、ホワイト・キュラソー10ml、ライムジュース5ml、ミントチェリー、砂糖でグラスをスノー・スタイルに ※1958年、山形県酒田市のバー「ケルン」のオーナー・バーテンダー井山計一氏が、川端康成の小説「雪国」をモチーフに考案。翌年の1959年に開催された「第1回寿屋(後のサントリー)カクテルコンクール」で最優秀賞を受賞した。 日本人が考案したスタンダード・カクテルとしては、「雪国」は日本国内では今なお最もよく知られている(日本生まれのカクテルとしては「バンブー」が世界的に有名だが、これは残念ながら、明治期に米国から来日した外国人によって考案されたもの)。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:雪国(Yukiguni)」】10. スカイダイビング(Sky Diving) 渡辺義之(1967年) ホワイト・ラム30ml、ブルー・キュラソー20ml、ライムジュース10ml ※1967年10月に開催された全日本バーテンダー協会主催の大会でグランプリを受賞したカクテル。海外ではあまり知られていないが、日本ではほぼ「スタンダード」になっており、国内で出版されるカクテル本にも頻繁に登場する。渡辺義之氏は大阪のバーテンダー。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:スカイダイビング(Sky Diving)」】11. レッド・アイ(Red Eye) (1970年代後半?沖縄発祥。考案者は不詳) ビール150ml、トマトジュース150ml、スパイス(セロリソルト、ブラックペッパー...) ※トム・クルーズ(Tom Cruise)主演の映画「カクテル(Cocktail)」(1988年公開)に登場する生卵入りカクテル「レッド・アイ」に似ているが、この日本発祥の「レッド・アイ」は全く別物で、映画公開前の1970年代後半には沖縄の米軍基地周辺のバーで流行っていた。その後、80年代半ばには東京や大阪などの大都市でも広く知られるようになった。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:レッド・アイ(Red Eye)」】12. メロンボール(Melonball) (1978年、考案者は不詳) ウオッカ20ml、ミドリ(メロン・リキュール)30ml、オレンジジュース80ml ※1978年、サントリー社がメロン・リキュール「ミドリ(MIDORI)」を米国で先行発売するに際して、提案したオリジナルカクテル(オレンジジュースの代わりにグレープフルーツジュース、パイナップルジュースを使うバージョンもある)。13. ソル・クバーノ(Sol Cubano) 木村義久(1980年) ホワイト・ラム45~80ml、グレープフルーツジュース60ml、トニックウォーター60ml、グレープフルーツ・スライス、フレッシュミント ※1980年に開催された「トロピカルカクテル・コンクール」(サントリー社主催)でグランプリを受賞。木村氏は神戸のバー「サボイ北野坂」のオーナー・バーテンダーとして今も活躍中。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:ソル・クバーノ(Sol Cubano)」】14. 照葉樹林(Shoyo Jurin=means Shiba Forest.) (1980年頃、考案者は不詳) 緑茶リキュール 60ml、烏龍茶 120ml ※サントリー・カクテルスクール東京校発祥と伝わる。15. 吉野(Yoshino) 毛利隆雄(1983年) ウォッカ60ml、キルシュワッサー0.5tsp、緑茶リキュール0.5tsp、桜花の塩漬け ※奈良県の吉野は桜の名所として有名。毛利隆雄氏は、東京・銀座「毛利バー」のオーナー・バーテンダー。16. スプモーニ(Spumoni) (1980年代半ば、考案者は不詳) カンパリ30ml、グレープフルーツジュース30ml、トニックウォーター ※日本のバーで最も人気のあるカクテルの一つ。アルコール度数が低く飲みやすいため、とくに女性に人気がある。日本のカクテルブックでは「イタリア生まれのカクテル」と紹介されることが多く、バー関係者でもそう誤解している人が多いが、日本生まれのカクテル。 1980年代半ばに、日本のカンパリ輸入業者と、イタリア料理ブームに便乗した外食産業関係者によって考案され、広まった。「スプモーニ」の語源は、イタリア語の「泡を立てる(spumare)」から名付けられたという。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:スプモーニ(Spumoni)」】17. キングス・バレー(King’s Valley) 上田和男(1986年) スコッチ・ウイスキー40ml、ホワイト・キュラソー10ml、ライムジュース10ml、ブルー・キュラソー1tsp ※1986年に開催された「第1回スコッチウイスキー・カクテルコンペティション」での優勝作品。作者の上田氏は、東京・銀座「Bar TENDER」のオーナー・バーテンダー。18. サケティーニ(Saketini) (1980年代半ば~後半に登場、考案者は不詳) ドライ・ジン40ml、日本酒(SAKE)30ml、オリーブ19. フォーリング・スター(Falling Star) 保志雄一(1989年) ホワイト・ラム30ml、パイナップル・リキュール15ml、オレンジジュース10ml、グレープフルーツジュース10ml、 ブルー・キュラソー 1tsp、レモンピールは星型にくり抜く。ブルー・キュラソーで銀河のようにコーラル・スタイルにしたグラスに ※1989年、日本バーテンダー協会主催の「全国バーテンダー技能競技大会」で総合優勝した際の創作カクテル。保志氏は現在、東京・銀座「バー保志」のオーナー・バーテンダー。20. チャイナ・ブルー(China Blue) 内田輝廣(1980年代後半〜1990年代前半) ライチ・リキュール30ml、ブルー・キュラソー10ml、グレープフルーツジュース45ml、トニックウォーター45ml(トニックウォーター無しのバージョンもある) ※ライチ・リキュール「ディタ(DITA)」の輸入発売スタートにあたり考案されたと伝わる。カクテル名は、中国の陶磁器「景徳鎮」の鮮やかな青色に由来するという。内田氏は富山市にある「バー白馬館」のオーナー・バーテンダー。21. ミルキーウェイ(Milky Way) 岸 久(1996年) ジン30ml、アマレット30ml、ストロベリークリーム・リキュール10ml、ストロベリー・シロップ15ml、パイナップルジュース 90ml ※1996年の「インターナショナル・カクテル・コンペティション(ICC)」ロングドリンク部門での優勝作品。岸氏は、東京・銀座「スタアバー」のオーナー・バーテンダー。ICCで優勝した日本人バーテンダーは岸氏が初めてである。22. オーガスタ・セブン(Augusta Seven) 品野清光(1997年) パッソア(パッションフルーツ・リキュール) 45ml、パイナップルジュース90m、レモンジュース15ml ※パッソア・リキュールの日本での輸入販売を開始するにあたり、オリジナルカクテル考案の依頼を受けた大阪の「バー・オーガスタ」オーナー・バーテンダー、品野清光氏が考案した。その後、人気漫画「バー・レモン・ハート」でも紹介されたことで全国的にも知られるようになった。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:オーガスタ・セブン(Augusta Seven)」】23. スピーク・ロウ(Speak Low) 後閑信吾(2012年) ダーク・ラム50ml、ペドロヒメネス・シェリー5ml、抹茶1tsp、レモンピール ※2012年、「バカルディ・レガシー・カクテル・コンペティション」の優勝作品。後閑氏は日本人では、現在世界で最もその名が知られているバーテンダー。【番外編】・バンブー(Bamboo) 1890年、横浜外国人居留地にあった旧・横浜グランドホテルの支配人だった米国人、ルイス・エッピンガー(Louis Eppinger)氏が考案したと伝わる。 ドライ・シェリー50ml、ドライ・ベルモット20ml、オレンジビターズ(ステア)【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:バンブー(Bamboo)」】・ミリオンダラー(Million Dollar) 19世紀末または20世紀初めに、横浜グランドホテル内のバーで誕生? バンブーと同じエッピンガー氏の考案とも伝わるが、これを裏付ける文献資料は確認されていない。 ジン45ml、スイート・ベルモット15ml、パイナップルジュース15ml、グレナデン・シロップ、卵白(シェイク)【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:ミリオンダラー(Million Dollar)」】★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2023/04/01
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56.ミリオネア(Millionaire) レシピは、ベースが違う様々なものが伝わっていますが、現在も生き残っているのは主に以下の3種類(ウイスキー・ベース、ラム・ベース、ジン・ベース)です(容量の単位はml。スタイルはいずれもシェイクです)。【レシピ1】バーボン(またはライ)・ウイスキー(60)、ホワイト(またはオレンジ)・キュラソー2dash、グレナディン・シロップ4dash、卵白(1個分)【レシピ2】ラム(15)、スロー・ジン(15)、アプリコット・ブランデー(15)、ライム・ジュース(15)、グレナディン・シロップ1dash【レシピ3】ジン(40)、ペルノー(またはアブサン)(20)、アニゼット1dash、卵白(1個分) 20世紀初め(1900~1910年代)に、英国で誕生したと伝わる代表的な古典的なカクテルの一つです。カクテル名は直訳すれば、「百万長者」というめでたい名前ですが、誕生の詳しい経緯や命名の由来は、残念ながら定かではありません。 欧米のカクテルブックで「ミリオネア」が紹介されたのは、現時点で確認できた限りでは、英国で1919年に出版された古典的名著「ABC of Mixing Cocktails」(ハリー・マッケルホーン<Harry MacElhone>著)が最初です。そのレシピはウイスキー・ベースで、「ライ・ウイスキー3分の2、卵白1個分、グレナディン・シロップ1tsp、オレンジ・キュラソー2dash(シェイク)」となっています。 誕生の時期については、米国の禁酒法時代<1920~33>と紹介する海外の専門サイトもいくつか見受けられますが、上記の「ABC of …」に掲載されていることからも、少なくとも1910年代後半には登場していたことは間違いありません。また誕生の場所については、「ロンドンのリッツ・ホテルのバーで考案された」とも言われていますが、裏付ける史料等は伝わっていません。 著名なカクテル研究家のデヴィッド・ワンドリッチ氏は「1925年までのある時期に(ロンドンの)リッツ・ホテルで考案された」(出典:http://www.esquire.com/food-drink/drinks/recipes/a3759/millionaire-drink-recipe/)と書いています。しかし、マッケルホーン自身が「ABC of …」の中で「ロンドンのリッツ・ホテルのバーのレシピを参考にした」と付記していることからも、少なくとも1910年代後半には、この同ホテルでウイスキー・ベースの「ミリオネア」が提供されていたことは間違いないでしょう。 さて、この「ミリオネア」は、1920~30年代から、ウイスキー・ベース以外にも、ラム・ベースや、ジン・ベースなど複数の違うベースのレシピが存在してきた変わったカクテルとしても知られています。同じ名前のカクテルなのに、なぜこのように様々なベースを使ったバリエーションが生まれていったのかはよく分かりません(今後の研究課題です)。 参考までに、「ABC Of …」以外の1920~1950年代の主なカクテルブックで「ミリオネア」のレシピがどうなっているか、ざっと見ておきましょう。・「Cocktails: How To Mix Them」(Robert Vermeire著、1922年刊)英 ライ・ウイスキー3分の1ジル(【注】1ジル=120ml)、グレナディン・シロップ6分の1ジル、キュラソー2dash、卵白1個分(シェイク)・「The Savoy Cocktail Book」(Harry Craddock著、1930年刊)英(ラム・ベース、ジン・ベースの2種を紹介。ウイスキー・ベースのものは収録せず) ミリオネアNO.1=ジャマイカ・ラム3分の1、アプリコット・ブランデー3分の1、スロー・ジン3分の1、グレナディン・シロップ1dash、ライム・ジュース1個分(シェイク) ミリオネアNO.2=ドライジン3分の2、アブサン3分の1、アニゼット1dash、卵白1個分(シェイク)・「Cocktails」(Jimmy of the Ciro's Club著、1930年刊)米 ライ・ウイスキー3分の2、グレナディン・シロップ3分の1、キュラソー2dash、卵白1個分(シェイク)・「World Drinks and How To Mix Them」(William Boothby著、1934年復刻版)米(ベースの違う「ミリオネア」3種と、「ミリオネア・ロイヤル」と称するカクテルを紹介。スタイルはいずれもシェイク) ミリオネアNO.1=ウイスキー2分の1ジガー、グレナディン・シロップ4分の1ジガー、キュラソー2dash、卵白半個分 ミリオネアNO.2=ジン2分の1ジガー、アブサン4分の1ジガー、アニゼット1dash、卵白半個分 ミリオネアNO.3=ラム3分の1、アプリコット・ブランデー3分の1、スロー・ジン3分の1、グレナディン・シロップ1dash、レモン・ジュース1tsp ミリオネア・ロイヤル=ウイスキー2分の1ジガー、グレナディン・シロップ4分の1ジガー、アブサン2dash、キュラソー1dash、卵白半個分・「The Artistry of Mixing Drinks」(Frank Meier著、1934年刊)仏 ライ・ウイスキー2分の1、ペルノー(アブサン)1dash、グレナディン・シロップ1dash、卵白半個分(シェイク)・「Mr Boston Bartender's Guide」(1935年初版刊)米 ライ(またはバーボン)・ウイスキー45ml、キュラソー15ml、グレナディン・シロップ4分の1tsp、卵白1個分(シェイク)・「The Waldorf-Astoria Bar Book」(A. S. Crockett著、1935年刊)米(※「マティーニ」のバリエーションとして紹介している珍しい例) ジン3分の2、ドライ・ベルモット3分の1、グレナディン・シロップ on Top、レモン・ピール(ステア)・「The Café Royal Cocktail Book」(W. J. Tarling著、1937年刊)英 ジャマイカ・ラム3分の1、アプリコット・ブランデー3分の1、スロー・ジン3分の1、グレナディン・シロップ1dash、ライム・ジュース1個分(シェイク)・「The Stork Club Bar Book」(Lucius Beebe著、1946年刊)米(スロー・ジンをベースとする珍しいレシピ) スロー・ジン約53ml(1+4分の3オンス)、ジャマイカ・ラム15ml、アプリコット・ブランデー15ml、グレナディン・シロップ1dash(シェイク)・「Trader Vic's Bartender's Guide」(Victor Bergeron著、1947年刊)米(※なんと6種類もの「ミリオネア」を収録。スタイルはいずれもシェイク) ミリオネアNO.1=バーボン・ウイスキー4分の3オンス、グレナディン・シロップ4分の1オンス、キュラソー2dash、卵白1個分 ミリオネアNO.2=バーボン・ウイスキー1オンス、ペルノー4分の1オンス、グレナディン・シロップ4分の1オンス、キュラソー1dash、卵白1個分 ミリオネアNO.3=ジン1オンス、ペルノー(アブサン)0.5オンス、アニゼット1dash、卵白1個分 ミリオネアNO.4=プリマス・ジン1オンス、スイート・ベルモット0.5オンス、グレナディン・シロップ1tsp、パイナップル・ジュース1tsp、卵白1個分 ミリオネアNO.5=ジャマイカ・ラム0.5オンス、アプリコット・ブランデー0.5オンス、スロー・ジン0.5オンス、グレナディン・シロップ1dash、ライム・ジュース1個分 ミリオネアNO.6=スロー・ジン1.5オンス、ジャマイカ・ラム0.5オンス、アプリコット・ブランデー0.5オンス、グレナディン・シロップ1dash・「The Official Mixer's Manual」(Patrick Gavin Duffy著、1948年刊)米(スタイルはいずれもシェイク) ミリオネアNO.1=ジン3分の2、ペルノー(アブサン)3分の1、アニゼット1dash、卵白1個分 ミリオネアNO.2=ジャマイカ・ラム3分の1、アプリコット・ブランデー3分の1、スロー・ジン3分の1、グレナディン・シロップ1dash、ライム・ジュース1個分 ミリオネアNO.3=バーボン・ウイスキー1ジガー、キュラソー3分の1ジガー、グレナディン・シロップ1dash、卵白1個分・「Esquire Drink Book」(Frederic Birmingham著、1956年刊)米 ウイスキー1.5オンス、キュラソー0.5オンス、グレナディン・シロップ1dash、卵白1個分(シェイク) 以上のように欧米では歴史的に、「ミリオネア」のベースのお酒はウイスキー・ベース、ラム・ベース、ジン・ベース他のものが乱立してきました。現在、英国や米国で発行されているカクテルブックのみならず、バーの現場でも「ミリオネア」と言えば、この主な3種類をベースにしたものがそれぞれつくられています。 これも参考までに、グーグルで「Millionaire Cocktail」で検索し1頁目に表示された10件の欧米の専門サイトでは、7件がウイスキー・ベース、3件がラム・ベースでした。しかしカクテルブック等では、今なおジン・ベースのミリオネアも紹介されています。結局のところ、どれが正しく、どれが間違いというものではなく、どのお酒をベースにするかは、そのバーテンダーやお客様の好みによるところが大きいのかもしれません。 「ミリオネア」は、日本にも比較的早く1920年代には伝わりました。当初はウイスキー・ベースの方が主流でしたが、現在のバー・シーンでは、ラム・ベースの方が比較的多くつくられているようです。 ちなみに、最新の「NBAオフィシャル・カクテルブック」(柴田書店刊)ではラム・ベースをメインとして紹介していますが、ウイスキー・ベースのものも「主に米国で飲まれている」との付記して収録しています。【確認できる日本初出資料】「コクテール」(前田米吉著、1924年刊)。※レシピはウイスキー・ベースで、「ウイスキー3分の2オンス、グレナディン・シロップ3分の1オンス、キュラソー1dash、ガム・シロップ2dash、卵白1個分。シェイクしたる後、グラスに注ぎ、アブサン少々を加えてすすめる」となっています。・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2017/06/25
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オランダ滞在4日目となりました。さて、オランダの美術館巡りでは、ゴッホと並んでもう一人、熱い思いを抱き続けてきた画家がいます。映像のような写実的な手法と綿密な空間構成、そして光と影を生かした巧みな質感表現を得意とした天才的アーチスト。それがヨハネス・フェルメール(Johnaness Vermeer<1632~1675>です(ちなみに英語だと「ヴァーミア」、オランダ語では「フェアミア」と発音します)。 ハーグ郊外のデルフトという街に生まれたフェルメールは、父親が画商だったことからその影響を受けて絵を描き始めたとのことですが、若い頃の詳しいことはよく分かっていません。 1653年、21歳の時、カタリーナ・ボルネスという女性と結婚。結婚後してまもなく、フェルメールは妻の実家で、裕福な母親とともに暮らしを始めます(左は、フェルメール自作の絵の中で、自画像と考えられている人物。引用元:Wikipedia<元の絵自体はドレスデンのアルテ・マイスター絵画館所蔵のフェルメール作「取り持ち女」=1656年作>)。 フェルメールは、妻との間に15人もの子をもうけた(4人は夭折しましたが、それでも13人の大家族でした)子だくさんの家だったため、画業だけでは家族を養うことができませんでした。妻の実家に頼ったのは、主に経済的な理由だったと言われています。 その後フェルメールは、1657年頃から、デルフトの醸造業者で投資家でもあるピーテル・ファン・ライフェンという生涯最大のパトロン(支援者)と出会います。ライフェンはフェルメールを支え続け、彼の作品を20点も購入したと伝わっています。現存する作品はわずか36~37点というフェルメールですが、寡作でもなんとか暮らしていけた背景には、ライフェンの援助が大きかったことでしょう。 しかし1670年代になると、フェルメールにとって逆風の時代が始まります。第三次英蘭戦争の勃発でオランダの経済が低迷します。一方で、新しい画風の若手画家たちの台頭によって、フェルメールの人気も陰りを見せ始めます。この頃、パトロンのライフェンも亡くなり、戦争勃発以後、彼の作品は1点も売れなくなったといいます(写真は、フェルメールの故郷の街を描いた「デルフトの眺望」<1661年作>=マウリッツハウス美術館蔵)。 フェルメールは1675年、43歳の若さでデルフトで死去します。義母マーリアは、フェルメールが残した莫大な借金・負債から11人の孫たちを守ろうと、その遺産を直接孫たちに渡したため、妻カタリーナの生活は困窮を極め、結局破産しました。カタリーナは、彼の死後12年経った1687年、56歳で死去しました。 フェルメールは謎の多い人物ですが、その生涯の一部については、先般、映画化されています(2003年英国映画で、タイトルもそのまま「真珠の耳飾りの少女(Girl with a Pearl Earring)」)。コリン・ファースがフェルメール役を、スカーレット・ヨハンソンが絵のモデル「少女」役を演じて話題になりました。とても興味深い、いい映画なので、機会があればぜひご覧ください。 さて、オランダ4日目はフェルメールの名作に会うために、オランダの政治・行政上の首都であるデン・ハーグ(Den Haag)へ。ここには3点のフェルメールを所蔵するマウリッツハウス美術館があります。デン・ハーグは、アムステルダム中央駅から列車で1時間弱です(電車は10~15分おきくらいに、たくさん出ているのでとても便利です)。 なお、駅の切符自動販売機は、クレジットカードかコインでしか購入できません。なんとお札が使えないのです。デン・ハーグまでは往復で€23.4(約3050円)ですが、そんなにたくさん小銭(コイン)を持ち合わせているはずはありません。仕方なくカードで購入しましたが、JCBはダメでVISA、AMEXなど国際的に通用しやすい会社でないと買えません。 ちなみに、オランダはカード社会がかなり進んでいて、カード支払いでなければ精算できないという店やレジも目立ちます。そのうちお札やコインは姿を消すのかもしれません。 マウリッツハウス美術館は、「ビネンホフ(Binnenhof)」と呼ばれるオランダの立法・行政機関(国会議事堂、総理府など)の建物が集まる一角にあります(写真は、デン・ハーグ中央駅から美術館へ行く途中の光景。オープンカフェがたくさんあります)。 マウリッツハウス美術館(写真の右端)は、もともと17世紀にブラジル総督オラニエ家のヨーハン・マウリッツ伯爵の私邸として建てられました。 ルネサンス風の建物は2年間の改修工事を終えて、2014年に再オープンしました。内部も本来の色彩や装飾が復元されたそうです。 それではマウリッツハウスが世界に誇る名画の中から少しご紹介します(ここもフラッシュをたかなければ撮影OKなのが嬉しいです)。これは言わずと知れた、世界中のフェルメール・ファンを魅了する代表作「真珠の耳飾りの少女」(1665年作。「青いターバンを巻いた少女」という別のタイトルもあるそうですが)。オープン間もない時間だったので、展示室には僕ら以外に誰もいません。名画を独占できる幸せは言葉にできません。 ちなみに、フェルメールと言えば、この少女のターバンの色のような、「フェルメール・ブルー」とも呼ばれる独特の青色が特徴です。これは当時純金と同じくらい高価だったラピスラズリを原料とする「ウルトラマリン」です。この貴重な顔料を惜しみなく絵に使用できたのも、裕福な義母の援助のおかげとも言われています。 このフェルメールは初めて観ました。「ダイアナとニンフ」。初期(1655~56年頃)の作品です。 マウリッツハウスにもレンブラントの名作があります。彼の出世作となった「テュルプ博士の解剖学講義」(1632年作)。美術の教科書でもよく見かける代表作の一つです(少しピンボケですみません!)。 こちらは「ビネンホフ」エリアに入る門。そばにパトカーは停まっていましたが、欧州の他の国にように衛兵はいません。 ビネンホフの中の広場。現地の人に聞くと、「閣僚や国会議員も普通にうろうろ歩いています」とのこと。 毎年9月の国会の開会式には、この広場で王と衛兵のパレードがあるそうです。なお、皆さんもよくご存知かと思いますが、有名な国際機関の一つ、国際司法裁判所はこのデン・ハーグの「平和宮」という建物内にあります(場所はビネンホフから少し離れた場所に位置していますが)。 デン・ハーグには、オランダの名物料理「ニシンの塩漬け」の屋台があちこちにあります。そのまま手でつまんで食べたり、ホットドッグのようにパンにはさんで食べます。王室の人たちもお付きの人なしで買いに来るそうです(日本や英国と違って、基本、外出の際は警護<SP>なしで行動されるそうです。国民との垣根はほとんどなく、とてもオープンな王室なんだとか)。 僕らは、パンにはさんだのを注文。刻んだタマネギが一緒に入っています。ニシンはあっさりした味付けで、磯の香りもしてとても美味しいです。ちなみに、比較的海に近いデン・ハーグにはカモメがよく飛んでいます。僕らはこの「ニシン・ドッグ」を買う際、「外で食べたら、カモメにニシンを狙われるから屋台の中で食べた方がいいよ」と言われました。 なお、このニシンが水揚げされるのはデン・ハーグから北西へ5kmほど行ったところにあるスケベニンゲン(地元の日本人の方も「変な名前の町です」と言ってました(笑))という港町です。ニシン料理等のレストランもたくさんあって、夏の観光地としてオランダでは有名なんだとか。 さて、マウリッツハウス美術館での鑑賞を終えて、僕らはデン・ハーグを少し散策しました。これはビネンホフのすぐそばにあるショッピング・アーケード「パッサージュ」。凄く歴史があるような雰囲気です。 パッサージュを抜けた辺りにある、オランダ最大規模とかいう高級デパート「バイエンコルフ(De Bijenkorf)」にもお邪魔しましたが、やはりデパートの立派さ、品揃えの凄さでは日本の方が上かなという感じです。 さて、デン・ハーグでの日程も終えて、早めにアムステルダムへ戻ることにしました。再び中央駅から約1時間電車に乗りますが、「少し小腹がすいたね」ということで、中央駅にあったオランダ名物のコロッケの自販機で2個買って、帰りの車内で食べようかと。 味はよく分からなかったので、見かけの色で濃いものと薄いものをそれぞれ買いました。結論から言うと、想像してたよりもどちらも美味しかったですが、1個2€はちょっと高いかな。さてアムスに着いたら、また次の予定が待っています。 <10回目に続く>※過去の「旅報告」連載は、トップページ中ほどのリンク「旅は楽しい」からお読みになれます。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2018/07/24
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◆フェノール値 & ppm って何だ? モルト・ウイスキーの味わいを表現する形容詞に、スモーキー(smoky)、ピーティー(peaty)という言葉があります。そして、「スモーキーさ」「ピーティーさ」の程度を表す数値として、(あまり一般的ではありませんが)しばしばフェノール値という言葉が登場し、「ppm」という単位が使われます。最近では、ウイスキーのパンフレットやラベルの説明にもお目見えするようになりました。 しかし、「フェノール値とかppmとかって何なの?」と聞かれて、正確に答えることが出来る人は、ウイスキーに詳しいバーのマスターやバー業界関係者でも、意外と少ないのが現状です。そこで、自分なりに得られるだけの資料を使って、友人のサポートも受けながら、精一杯まとめてみました(※お読みになってもし何かお気づきの点があれば、ご指摘頂ければ幸いです)。 1.ピートが生むスモーキーさ スモーキーなウイスキーが誕生するためには、ピート(泥炭)、原材料の大麦、酵母、仕込み水、樽の種類などいろいろな要素が絡んできますが、なかでもピートと原材料の大麦の影響が大きいと考えられています。ピートはヒースなどの野草や灌木などが長い歳月で堆積して炭化したもので粘土状のものです。スコットランドでは昔から、掘り出して乾燥させ、冬季には貴重な燃料源として燃やして暖房に使ったりしています。 スモーキーなウイスキー造りの際には、発芽後の大麦(モルト)をしばしばピートを燃やしてその煙と熱で乾燥させます(逆に、最終商品として「スモーキーなウイスキー」を造らない場合は、ピートは使いません)。ピートはスコットランドの北部や南部、島部など広い地域で採掘されますがその成分は産地によって違います。アイラ島などはピートに海藻や貝殻、海の生物、海水が結構含まれているため、燃やすと燻製香、ヨード香が強く出ます。一方、内陸部のピートは灌木や草花(ヒースなど)といった植物系の成分が多いのでスモーキーさも穏やかです。ピートのどの部分(成分)が、どのようなスモーキーさを生み出すのかは、まだよく解明されていません。 2.製麦はほとんどがモルトスター頼み ただし、スコットランドでも現在はほとんどの蒸留所が、大手のモルトスター(製麦会社)から乾燥済みの原料大麦を購入しており、フロアモルティング&乾燥を自ら行っているところは稀です(ボウモア、ラフロイグ、キルホーマン、ハイランドパーク、スプリングバンクなど7~8カ所程度です)。そして、フロアモルティングしている蒸留所でもウイスキー造りに使う大麦の全量の製麦はできないため、多かれ少なかれモルトスターから購入しています。 モルトスターは蒸留所からの注文に応じて、ノン・ピーティド大麦、ピーティド大麦を販売し、ピーティド(焚き込み)のレベルも、例えば「40ppm程度で」などの注文に応じています(自社生産している蒸留所は、過去の経験値からピートを燃やし乾燥させる量や時間を調整し、目指すppmレベルに近づけます)。 3.スモーキーさの「一つの指標」 ウイスキー造りの世界では、このピート由来の香り=「スモーキーさ」はフェノール値の数字「ppm」という単位で表されます。すなわち、ppmは「スモーキーさの指標」であり、「フェノール化合物の濃度」です(ppmは「parts per million」の略。1ppmは0.0001%、1%は10000ppmに相当します)。 ピートを燃やして乾燥された大麦は、そのピートの種類や量、乾燥時間などで一般的に、ライト・ピーティド大麦(一般に5ppm以下)、ミディアム・ピーティド大麦(6~19ppm)、ヘビリー・ピーティド大麦(20ppm以上)、スーパー・ヘビリー・ピーティド大麦(概ね80ppm以上)と分けられます。 ピートの使用量は一般的に、ヘビリーの場合で麦芽1トンに対して20~30kg、ミディアムで15kg、ライトで10kgくらいです(この部分の出典:集英社新書「日本のウイスキー 世界一への道」輿水精一&嶋谷幸雄 共著から。※ちなみに、日本国内の蒸留所は現在、ウイスキー用大麦麦芽のほぼ全量を海外から=主にスコットランドから=輸入しており、国産大麦を一部使っているのは秩父蒸留所のみ、国産ピートはニッカの余市蒸留所や新興の厚岸蒸留所が使用していますが、採掘規制もあり、使用量はごく一部です)。 なお、ピートで乾燥させない大麦は「ノン・ピーティド大麦」と呼ばれますが、ノン・ピーティドでも、ウイスキーの製造過程でピート層を通った仕込み水を使ったりするので、アイラ・モルトなどでは1~5ppm程度のフェノール値が検出されることがあります。 4.「スモーキーさ」を生む化合物 ppmは「フェノール化合物の濃度」と先ほど書きましたが、この化合物には様々な種類のものが存在します。代表的なフェノール(phenol)、クレゾール(cresol)以外にも、エチルフェノール(ethylphenol)、グアヤコール(guaiacol)など。いわゆる「スモーキーさ」を生むのは、クレゾール、エチルフェノール、シリンゴル(syringol)、キシレノール(xylenol)、ビニルグアヤコール(vynylguaiacol)という化合物が要因です。 通常は、出来たてのウイスキーのフェノール値を測定する場合、様々なタイプの検査機器、例えばHPLC(High Performance Liquid Chromatography=高効率液体クロマトグラフィー)や、GC/MS(ガスクロマトグラフィー<GC: Gas Chromatography>と質量分析計<MS: Mass Spectrometry>を組み合わせた測定機器)などを使いますが、上記のような様々な化合物の含有量の総量がフェノール値としてppmで表示されます。 5.フェノール値(ピートレベル)は何で測るのか フェノール値は、完成したウイスキーの液体そのものではなく、通常、ピートの燻煙で乾燥させた大麦麦芽を使って測ります。フェノール化合物はそれぞれ特有のにおいを持っていますので、含まれる割合によってウイスキーのにおいも異なります。それがウイスキーの個性とも言えます。ただ、フェノール値だけで「どの化合物がどれくらい含まれているか」を判断(数値化)することはできません。また、フェノール値(ppm)が高いからと言って、最終商品としてのウイスキーの「スモーキーさ」が強くなるという訳ではありません。 この理由には、いくつかの要因が指摘されています。例えば蒸留後、冷却して出来上がった原酒は通常、最初に出て来る部分と最後の残りの部分はカットされて、真ん中の部分(ミドルカット)のみ樽熟成に回されます。「前後の部分」をどの程度カットするかは、各蒸留所の製造方針によって違います。また、どのような種類の樽でどのくらいの期間、どのような環境で貯蔵・熟成するかによっても、最終商品のスモーキーさは変わってきます。 従って、(大麦麦芽段階での)フェノール値が高いほど「よりスモーキーな(臭い)ウイスキーになる」というのは迷信・誤解です。フェノール値100ppmのモルトウイスキーより、50ppmのモルトウイスキーの方がスモーキーだったということもしばしば起こります(例えば、フェノール値が軒並み100ppm以上の「オクトモア」より、50ppmのアードベッグの方がよりスモーキーさを感じるように)。 6.フェノール値(ppm)は、麦芽の乾燥時間で経験的に決めている? ここで私の友人で、職業柄「サイエンス・ライティング」に詳しい、ウイスキー愛好家の安部祥輔氏の示唆に富む見解を紹介しましょう。 安部氏は「私の中での仮説でしかないのですが、(各蒸留所が目指す)フェノール値は『ピートで麦芽を※時間乾燥させたから**ppm』というふうに乾燥時間で決めているような気がしています」と話します。 海外サイトを見ていると、フェノール値は「麦芽の乾燥の度合い」とか「ピートを焚きこんだ度合い」といった記述がけっこう見受けられます。安部氏ならずとも、単位がppmなので、濃度にばかり意識が向きます(実際にほとんどのサイトは濃度について言及しています)が、「なぜ乾燥度合いがppmなのか?」と疑問に思います。 安部氏は「しかしながらフェノール値は、フェノール化合物が含まれている実際の濃度ではなく、単にピートを使った乾燥時間と考えると、腑に落ちることがたくさんあります。経験的に、製麦業者や蒸留所の製麦職人は、乾燥時間からおおよその数値を類推しているのではないでしょうか。乾燥時間が長ければ、麦芽に含まれるフェノール化合物量が増えてフェノール値が大きくなるのでしょうが、含まれる化合物の割合はこの値からはわかりません」と語ります。 なので繰り返しになりますが、ppm値が大きいからといってスモーク臭が強いわけではなく、「含まれるフェノール化合物の大半がクレゾールならボウモアのような香り、すなわち消毒薬のような匂い」になる、一方で、「グアヤコールが多ければ(ラフロイグのような)正露丸のような香り」がする、などという合理的な説明ができます。ppmは100万分の1単位という極微量単位だから測定誤差も考慮すれば、乾燥時間でppm値をざっくりと決めたとしても罪はないでしょう。 7.フェノール値の定義(算出方法)と測定方法は不明確 「どこを探してもフェノール値の定義と算出方法に関する記述が見つけられない」。ウイスキー愛好家から、しばしばこういう声を聞きます。フェノール値の算出方法としていくつかの手法が考えられますが、個々のメーカー(蒸留所)は、具体的にどのように測定・算出しているのかは公表していません。 安部氏は、以下のような手法を推測しています。 議論の前提として、そもそもフェノール値とは、測定対象(モルトやウイスキー)から検出されたすべてのフェノール化合物の濃度をすべて合算した数値なのか、何種類かのフェノール化合物をあらかじめ決めておいて、それらの濃度を合算したものなのか、それが判然としません。どのHPを探しても記述が見つけられません。いずれの方法でもない可能性もあります。 あるメーカー(蒸留所)が、例えば「以下のようなフェノ―ル化合物の濃度の合計値」を自社ウイスキーのフェノール値とするとあらかじめ決めていて、 フェノール(phenol)5ppm、 o-クレゾール(o-cresol)4ppm、 m-クレゾール(m-cresol)2ppm、 p-クレゾール(p-cresol)3ppm、 グアヤコール(guaiacol)8ppm、 4-エチルフェノール(4-ethylphenol)9ppm、 4-エチルグアヤコール(4-ethylguaiacol)10ppm だった場合、 合計値(合算値)である41ppmがそのウイスキーのフェノール値ということになります。 一つ手掛かりとなるのは、日本の大手メーカー(蒸留所)の手法です。先に紹介した輿水氏&嶋谷氏の共著のなかでは、「(サントリー社は)輸入された麦芽を、定性的にはガスクロマトグラフィー分析によって、ピーティングの度合いを調べ、定量的には全フェノール値、揮発性フェノール値を用いる」と紹介されています。 そこで、ここでは前者の算出方法、すなわち「検出されたすべてのフェノール化合物の濃度のすべてを合算」した場合を説明してみましょう。 ウイスキー中のフェノール値を算出すると、ピート由来だけではなく樽由来のフェノール化合物、さらに双方に由来するフェノール化合物とエチルアルコール(言うまでもなくウイスキーの主成分)との反応物であるフェノール化合物など、すべての製造工程で生成したフェノール化合物の濃度が算出されるわけです。 だとすれば(樽由来のフェノール化合物はスモーキーさとは縁遠いものもありますので)、フェノール値をもってスモーキーさを議論することはまったく不毛であることは誰にでも理解できることでしょう。 完成品としての(ニューポットではなく樽熟成後の)ウイスキーのフェノール値に言及している記事も多々あります。しかし、モルト中のフェノール値を算出するにしても、いったい何種類くらいのフェノール化合物が含まれるのか分かりませんが、スモーキーさの要因となる化合物とそうではない化合物のすべての濃度を算出することにあまり合理性が感じられません。従って、モルト(乾燥麦芽)中ではなく完成品のウイスキー中のフェノール化合物を、同じ指標で語ることはナンセンスだということです。 8.フェノール値の測定・算出方法とは? 「フェノール値の定義(算出方法)についての記述が見つからない」と書いているのは、ここまでの考察や推察を含んでの話です。ウェブサイト上でどんなに探しても「フェノール化合物の濃度」とか「ガスクロマトグラフィーを使って測定する」というレベルの域を超える記述は見当たりません。 もちろん分析化学や環境化学を専門としている研究者の文献を探せば、サイエンスに基づいて厳密に書かれた論文はいくらでも見つかりますし、ウイスキーの成分分析に関する論文もいくらでも見つけられますが、フェノール値の定義(算出方法)はどこにも書かれていません。 測定方法についても、やや専門的過ぎるかもしれませんが、改めて少し確認しておきましょう。専門家が紹介している様々な情報から推察すると、ウイスキーに含まれる成分の分析では、ガスクロマトグラフィー(GC: Gas Chromatography)単体ではなく、質量分析計(MS:Mass Spectrometry)を組み合わせた「GC/MS」や、高効率液体クロマトグラフィー(HPLC:High Performance Liquid Chromatography)と「MS」を組み合わせた「LC/MS(液体クロマトグラフィー質量分析法)」が用いられていることが多いのではないかと思います。GC単体やHPLC単体で調べるよりも、精度が高く分析も簡単だからです。 ただ、いろんな文献を検索して読んでいると、近年は、「GC/TOFMS(ガスクロマトグラフ飛行時間質量分析計=最新の分析機器です)」もよく使われているような印象です。 ちなみに、10社近くのモルトスターのサイトを調べてみると、多くの会社が「IoB Methods of Analysis」という測定手法を採用しているようです。これはイギリスの「The Institute of Brewing and Distilling」という業界団体が推奨する方法のようです(同法人のサイトには分析法の詳細が記載されているようですが、会員制サイトなのでIDとPWがなければアクセスができません。残念…)。 モルトスターは、IoB Method以外にもThe American Society of Brewing Chemists(ASBC)、The European Brewing Convention(EBC)という業界団体が推奨する分析法を使っていることもわかりました。国や業界(ビール、ウイスキー、ワインなどなど)ごとに基準があるようです(以上、測定方法については、しっかりとした「裏取り」はしていないうえでの記述であることをお含みおきください)。 ただしそもそも、こうしたモルトスターや蒸留所が、どのようにサンプリング(試料採取)しているのか、1回の測定に使用するモルトは何グラムか、どのような試薬を使って対象化合物を抽出するのかなどの測定手順やルールは公表されていません。微量成分の分析を行うのであれば、モルトスター間で分析手法を統一しなければ、測定データのバラツキが大きくなってしまいますが、それも不明です。 このように考えると、誤解をおそれずに言えば、本当にモルトスターや蒸溜所が(フェノール値の)濃度をきちんと測定しているのだろうか、データの信ぴょう性はどうなのかという疑問すら生じます。 9.結び 本稿を締めくくるにあたっては、やはり、安部氏の言葉を紹介しておきたいと思います。 「個人的には、やはりピートの焚き具合でppm値を決めていると思いたい。そのほうがサイエンスの手法で数値をはじき出すよりも、家内制手工業的なウイスキー製造にロマンを感じるからです。自社でフロアモルティングをやっている蒸溜所に、GC/TOFMSのような最新の分析装置がセッティングされていたら興ざめじゃないですか」。 私もまったく同感です。ウイスキーは数字で楽しむ(飲む)ものではないと思います。ウイスキーが嗜好品である以上、何でも機械や科学で決めてしまうより、蒸留所の職人たちが長年の経験を活かして、原材料や仕込み水、発酵条件、樽や熟成期間、風土等という様々な「偶然」と向き合いながら造る方が、より魅力的なウイスキーが出来ると信じています。 【御礼】この稿の作成にあたっては、本文中にも紹介したサイエンス・ライティングに詳しい安部祥輔氏のほか、堀正明氏(ウイスキー文化研究所認定ウイスキーセミナー講師)、大北賜氏(大阪「リトル・バー」マスター、※現在は「マスター・オブ・ウイスキー」)の御三方に貴重な情報、ご助言を頂きました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2020/03/08
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我が家のオーディオのメインのスピーカーはSONY製で、中くらいの大きさ(高さ36cm)なのですが、もう20年近く使ってきて最近はさすがに音の出が悪くなり、更新しようということになりました(えっ、20年もなんて使い過ぎだって?)。昨日、ヨドバシへちょっと下見に行ったのですが、SONYは最近はもうあまりスピーカー製造に力を入れていないせいか、あまり種類がありません。 スピーカー売り場で幅をきかしていたのは、ボーズ、ヤマハ、デノン、ケンウッド、JBL、タンノイ、パイオニア、マランツなどですが、どうも置き場所の関係で高さ36cm未満のサイズで探してみたのですが、値段が適当なのがありません(予算は一応2台で7万円以内)。 ボーズもいいのですが、縦置きにするので横書きのロゴが縦になってしまうのが不細工で気乗りしません。ヤマハはデザインに凝りすぎて、台形をしているのがちょっと気に入りません。値段もやや高めです。 そんな中で、僕の目を引いたのは、DALIというデンマークのメーカーの製品「LECTOR2」(定価7万3500円)と、Bowers & Wilkins(通称「B&W」)という英国のメーカーの製品「685」(定価9万2400円)です。値段も手頃(どちらも値引き後の価格が2台で約6万円。B&Wの方が値引き率がいい!)ですし、大きさもほぼ希望のサイズで、デザインもなかなか良いのです。 店員さんに聴くと、「どちらもヨーロッパでは有名なメーカー。向こうでは映画館や音楽スタジオでよく使われている」とのことですが、これまで僕はずっと国産党だったので、少し迷っております(ちなみにDALIはデノンが、B&Wはマランツがそれぞれ代理店です)。 ブログの友人の皆さんで、このDALIとB&Wのスピーカーのこと、詳しい方はいらっしゃいますか? もしいらっしゃれば何かアドバイスをいただければ幸いです(今は最終的には、この2社から選ぶことになるような予感がしています)。 【追記】その後、ある友人から「ドイツのALR/JORDANの『ENTRY・M』というスピーカーもなかなかいいよ」と教えられました。この機種も候補の一つにしたいと思います。
2009/12/31
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家に帰ると、冊子小包が一つ届いていました。封を切ると、1冊の本と1冊の雑誌、そして手紙が入っていました。 手紙は親しくして頂いている博多のBarのマスターからでした。読んでいくうち、驚きのあまり、言葉を失いました。そこには、一昨年12月、博多でBar巡り(2010年12月6日の日記)をした際お邪魔した中洲の老舗、パブ「西川亭」のマスター、西川英夫さんが昨年秋、亡くなったことが記されていました。享年77歳でした。 手紙によれば、「昨年8月、突然店を閉められました。人づてに病気で、ガンであることは聞いていましたが、入院されて1カ月もしないうちに逝かれました」ということでした。 西川亭を訪れた時のことは昨日のように思い出します。明るく気さくな人柄の西川さんは、遠くから突然店にお邪魔した僕を、とても歓待してくれました。終戦後、進駐軍相手に仕事をしていた頃の思い出話などもたくさん聞かせて、楽しませてくれました。 その際、75歳と聞きましたが、とてもお元気そうだったので、また再会できることを願っていました。突然の訃報に、ただただ残念というしかありません。 同封されていたのは、西川さんが店を閉める4カ月前に、お店の8人の常連客の皆さんが限定出版した西川さんの素晴らしいカクテルブック「パブ西川亭ドリンクノート」と、亡くなった西川さんの追悼記事が掲載された雑誌でした。 カクテルブックは263頁もあるぶ厚い本で、西川さんが収集した約1600ものカクテルのレシピが収録されています。元になった手書きノートの表記は基本、英語です。日本語のカクテルブックがまだほとんどなかった修業時代から、仕事の合間をぬって原書にあたり、コツコツと訳して記録された精進の結晶です。一生努力し続けることの大切さ、尊さを僕らに教えてくれます。 ただオーセンティック・バーを愛し、カクテルの歴史を研究しているだけの一個人のうらんかんろとして、出来ることは限られていますが、これからも、この西川さんの精進とこのカクテルブックに恥じないよう生きていきたいと思います(今後の研究にもぜひ活用します)。西川さんのご冥福を心からお祈りいたします。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2012/05/14
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久しぶりに神戸でBARホッピング。神戸には月に1~2度は遊びに行くけれど、普段は、出張先でのように5軒も6軒もBARをはしごすることはない。 神戸なんていつでも行けるから、別にガツガツとBAR巡りをしなくてもいいからと思っているから。 だから、最近はせいぜい1軒か2軒で長居することが多い。ご無沙汰しているマスターも多いのだけれど、ごめんなさい。 で、今回は駆け足で、BAR巡り。最近ご無沙汰しているところを中心に回った。まずは、スターターとしてアイリッシュ・パブへ。 三宮駅前すぐ北にある「Ryan's Irish Pub」(写真右上)。アイリッシュの代表的な名字を店名にしたパブだ。この手の酒場によくあるように、客の外国人比率が高い。スタッフも外国人が多い。 夕方の早い時間は「ハッピー・アワー」。ビールが半額(銘柄は指定されてるけど)なのが嬉しい。時々ライブもある。フィッシュ&チップスをアテにキルケニーを飲んで、さぁ準備完了。 2軒目はここ数年、時々お邪魔している中山手通のBar「Keith(キース)」(写真左)。マスターのIさんとは、あるパーティーで出会い、親しくなった。 スコットランドによく旅しているマスターは、ウイスキーに詳しい。もちろん僕の好きなモルトの知識もばっちり。 いつもここでは、もっぱらマスターおすすめのシングルモルトやオールド・ボトルのブレンディドをいただく。 あまりおしゃべりじゃない静かなマスターだけれど、応対はとても親切で丁寧、純朴な人柄がにじみ出ている。 居心地の良さでは、神戸では一、二かなと僕は思う。さて3軒目。「Keith」からもほど近い。Bar 「Savoy北野坂」(写真右)へ。 この「Savoy北野坂」の木村義久マスターさんは、その店名からも分かるように、神戸を代表する老舗BAR(だった)「Savoy」で修業した。 修業の期間が34年と半端じゃない。そして5年前に独立された。その「Savoy」は昨年末、惜しまれながら店を閉じた。 「Savoy」の空気と歴史を伝えてくれる場所は、今はこの「Savoy北野坂」しかない。木村マスターが「Savoy」を継いでくれたら良かったのに、と今も思うけれど、今さら言っても仕方がない。 物腰の柔らかい接客、いつも変わらぬ温かい笑顔。カウンターに座り、Kさんの顔を見ているだけで癒される。今夜は、いまや神戸一有名になった木村マスターのオリジナル・カクテル「ソル・クバーノ(Sol Cubano)」を飲もう。 さて、元町方面へ転戦しようと思ったが、もう1軒、久しぶりに顔を見たいマスターがいた。Bar「Alco-hall(アルコホール)」(写真左)のNさん。 誰が言ったか知らないが、「しゃべり出したら止まらないモルト博士」。確かにその通り。いつお邪魔しても、楽しそうにしゃべり続けている。 こちらが口をはさむヒマもない、と言うか、1杯目が空になってお代わりを頼もうかと思っているのに、頼まさせてくれない(笑)。話し上手で、すすめ上手。Nさんの言葉につい酔わされて、僕はついつい杯を重ねてしまう。 相変わらず元気で、エネルギッシュなNさんの姿を見て安心した僕は、店を出て元町方面へ歩みを進める。酔い覚ましに歩くには程良い距離だ。 たどり着いたのは元町の中華街・南京町。その中心部に、目指すBar「Puerto(プエルト)」(写真右)はある。実はこの酒場、「Savoy北野坂」の姉妹店。 店は気さくなマスターK君が営む。嬉しいことに、この「Puerto」は全ての酒がワンコイン(500円)で飲める。 何種類かあるモルトだって500円である! だからあまり他人には教えたくない酒場の一つ。僕は中華街で晩ご飯を食べた後、よくぶらっとお邪魔する。 最後にとっておきの話。あの「Savoy」のマスターだった小林さんが今この「Puerto」で、平日に何度かはカウンターに立たれるという。運が良かったら、貴方も神戸の伝説のバーテンダーに会えるのだ。 さて、この夜の神戸BARホッピングの締めに僕が選んだ酒場は、Bar「Moon-lite(ムーンライト)」(写真左)。 このBARには結構古くから来ている。元町にまだいわゆる純粋な「外人バー」が何軒かあった頃、日本人も出入りOKの数少ないBARの1軒だった。 暗い路地に怪しげなネオンサイン。当時はドアを開けるのに少し勇気が要ったが、今はそんなことも懐かしい思い出。 そう言えば、当時ママだった女性は今、なんと歌手として活躍している(皆さんもきっと知っているくらいの有名な人)。僕もテレビなどでその姿を見るたびに、「頑張って!」とつぶやいている。 神戸っていいなぁ。いつ訪れても僕はそう思う。異国情緒と先進的な雰囲気とよそ者を排除しない心意気。外国人との共生を考える場合、神戸はこれからも模範になる街でいてほしいと心から願っている。【Ryan's Irish Pub】神戸市中央区加納町4-3-2 コンドービル7F 電話078-391-6902 【Bar Keith】中央区中山手通1-15-7 電話393-0690 【Bar Savoy北野坂】中央区中山手通1-7-20 第三天成ビル4F 電話331-8977 【Bar Alco-hall】中央区北長狭通1-2-13 シマタビルB1F 電話331-1846 【Bar Puerto】中央区元町通2-2-7 尾下ビル2F 電話なし 【Bar Moon-lite】中央区栄町通2-2-12 電話331-1067(営業時間、定休日等は各店へお尋ねください)こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2007/08/01
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神戸には、今はもう姿を消した伝説的なBARがいくつもある。「ルル」「ギルビー」「サンシャイン」「マダムマルソー」「キングズ・アームズ」…そして、忘れてはならないのが「コウベハイボール」(「神戸ハイボール」ではなく、こう名乗った)。 その多くは、バブル期の地上げや後継者難で、さらに、追い打ちをかけたあの阪神大震災での被害のために、閉店を余儀なくされた。そうした伝説的なBARに出入りする機会が持てた私はある意味幸せだったが、店がなくなってしまった今では、寂しさばかりが募る。 とくに、最後に名をあげた「コウベハイボール」。私が神戸で仕事をしていた頃、勤め先があったビル(神戸朝日会館)の地下にあったので足繁く通った、とても想い出深いオーセンティックBARである(ついでに言えば、同じビルの地下にあった「銀串」という焼鳥屋にもよくお邪魔した。老夫婦が営む味わいある店だった)。 「コウベハイボール」は昭和29年(1954)の開業。店は平日、午後3時にはオープンしていた。私は夕方を待ちかねたように、同僚らと会社をそっと抜け出しては地下へ下り、スイング式のドアを開けた。スタンディングのカウンターはいつも、6時前にはもう客が溢れていた。 大阪キタにある「北新地サンボア」で先日、そんな「コウベハイボール」の想い出話をしていたら、お店の方が「昔の写真、ありますよ」と数枚のプリントを見せてくれた。セピア色の写真には、もっとも円熟していた頃の「コウベハイボール」(写真左上)と、マスターの河村親一さん(写真右&左下)が紛れもなく写っていた。 この古き良き酒場の情景を皆さんにも見て欲しいと思って、接写させてもらったのがこの日記でも紹介した3枚。どれも、私にとっては、懐かしさで涙が出そうなほどの情景だ 河村さんはいつも白いバーコートに蝶ネクタイというスタイル。あまり笑わない、寡黙なマスターだったが、仕事は何もかも超一流だった。お店の名物の「ハイボール」は、きんきんに冷やしたサントリー・ホワイトとウイルキンソン炭酸でつくる。 今はなき「神戸サンボア」の歴史を受け継いだお店とあって、河村さんは氷なしのサンボアスタイルを継承したが、これが絶妙の旨さだった(当時1杯確か400円)。ついでに言えば、付きだしで供されるカレー風味のピクルス、これがまた美味だった。 酒場でのマナーにも厳しい人だった。大声を出したり、騒いだりする客には厳しく注意したし、スタンディングのカウンターはできるだけ多くの客が飲めるようにと、いつも気を遣い、客に声をかけていた。は、この「コウベハイボール」でBARという場所での大人の飲み方や、酒場でのマナーを学んだと言っても過言ではない。 「コウベハイボール」は、入居していたビル(朝日会館)の建て替えにぶつかった1990年、惜しまれながら、半世紀近い歴史に幕を閉じた。当時まだ68歳の河村さんだったが、後継者がいないこともあって建て替え後のビルには入らず、一代で店を閉じる決断をした。 最終日には、「コウベハイボール」に通い詰めた客たち(僕もその場にいた)が、古き良き酒場に悲しいお別れをした。私は友人らと費用を出し合い、河村さんに花を贈った(河村さんは1995年頃、一度お会いしたが、その後の詳しい消息は知らない)。 「コウベハイボール」のバック・バーの棚は幸い、しばらくの時を経て、冒頭、写真を見せてもらった「北新地サンボア」(大阪市北区曽根崎新地1-9-25 電話06-6344-5945)に移設された=写真右(オーナーのSさんの情熱のおかげだ)。 大阪に、「コウベハイボール」の想い出に浸れる空間があることはとても嬉しいが、個人的には、「コウベハイボール」という素晴らしい空間(酒場)がこの世から消えたことが痛恨というか、残念でならない。 古き良き酒場のない都会(街)には、私はほとんど魅力を感じない。人の匂いも、潤いも、温かさも感じられない、そんな街には私は住みたくない。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/10/10
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◆プロなら知っておきたい「知られざるカクテル」<下> ※原則、年代順に紹介しています。レシピは標準的なものです。★印は近年においても欧米のバー・シーンでは頻繁に登場する、とくに重要なカクテルです。★エスプレッソ・マティーニ(Espresso Martini) (1983年、考案者=ディック・ブラッドセル<Dick Bradsell>) ウオッカ40ml、エスプレッソ・コーヒー20ml、コーヒー・リキュール10ml、シロップ1tsp。シェイクしてカクテルグラスに注いだ後、表面にコーヒー豆2~3粒を浮かべる ※1983年、当時ロンドン「ソーホー・ブラッセリ―(Soho Brasserie)」に勤めていたディック・ブラッドセル氏(1959~2016)が考案した。当初は、裏メニューとして「ウオッカ・エスプレッソ」の名前で提供されていたが、90年代末、ブラッドセル氏が移籍した「マッチ(Match)」というバーで初めて「エスプレッソ・マティーニ」の名でオン・メニューとなり、幅広く知られるようになった。その後米国の大都市のバーにも伝わり人気が定着した。近年、欧米の人気カクテル・ランキングでは常に上位にランクされている。 ブラッドセル氏は、1980~90年代に活躍し、数多くの「モダン・クラシック」カクテルを遺したことで知られる。ロシアン・スプリング・パンチ(Russian Spring Punch) (1986~87年頃、考案者=ディック・ブラッドセル) ウオッカ45ml、クレーム・ド・フランボワーズ7.5ml、カシス・リキュール7.5ml、レモンジュース23ml、シロップ7.5ml、生ラズベリー6~7個。シェイクした後、氷を入れたタンブラーに注ぎ、シャンパンで満たす ※ディック・ブラッドセル氏(上記45の説明ご参考)が、1986~87年頃、当時バーテンダーとして働いていたロンドンの「ザンジバー(Zanzibar)」で友人のために考案したと伝わる。★トミーズ・マルガリータ(Tommy’s Margarita) (1987~88年頃、考案者=フリオ・ベルメイヨ<Julio Bermejp>) テキーラ40ml、アガヴェ・ネクター(シロップ)15ml、ライム・ジュース15ml(シェイク)、塩でスノースタイルしたロック・グラスに注ぐ ※サンフランシスコのメキシカン・レストラン「トミーズ(Tommy's)」のオーナーで、“テキーラ・マスター”の異名を持つフリオ・ベルメイヨが、1987~88年頃考案したと伝わる。「マルガリータ(Margarita)」のバリエーションだが、マルガリータがホワイト・キュラソー(コアントロー、トリプルセック)を使うのに対して、このカクテルではアガベ・ネクターを使う。ロック・スタイルで味わうことも多いが、ショート・カクテルでも提供される。「アガベ・ネクター」はアガベ・シロップとも呼ばれるフレンチ・マティーニ(French Martini) (1980後半~90年代前半、考案者は不詳、ディック・ブラッドセル考案説も) ウオッカ60ml、ラズベリー・リキュール15ml、パイナップルジュース45ml(シェイク) ※ロンドンもしくはニューヨーク発祥。1997年の「Class Magazine」誌によれば、Chambord社のキャンペーンのために考案されたという(「Keith London」発祥説も)。セレンディピティ(Serendipity) (1994年、考案者=コリン・ピーター・フィールド<Colin Peter Field>) カルバドス45ml、アップル・ジュース45ml、シュガー・シロップ7.5ml、生ミントの葉5~6枚、シェイクした後、氷を入れたタンブラーに入れ、シャンパンで満たす ※パリのリッツホテル(The Ritz Hotel)内「ヘミングウェイ・バー(Hemingway Bar)」のチーフ・バーテンダー、コリン・ピーター・フィールド氏(1961~)が、常連客のためにオリジナル・カクテルをつくったところ、予想を超える美味しさに感激したその客が「Serendipity!」(直接の意味は「素敵な偶然に出会うこと」)と叫んだことから、その言葉がそのままカクテル名になったという。★ジン・ジン・ミュール(Gin Gin Mule) (2000年、考案者=オードリー・サンダース<Audray Sannders>) ジン(タンカレー)50ml、ジンジャー・ビア30ml、ライムジュース20ml、シロップ15ml(シェイク)、フレッシュミントの小枝=飾り ※ウオッカ・ベースの「モスコー・ミュール」のジン・バージョン。サンダース氏は当時ニューヨークの「Beacon Bar」のバーテンダー。オリジナルレシピではホームメイドのジンジャービアが使われているが、通常の缶入りジンジャービアでも構わない。このカクテルは、後にサンダース氏が独立・創業したバー「ペグー・クラブ(Pegu Club)」の看板カクテルにもなった★ポーン・スター・マティーニ(Porn Star Martini) (2002年、考案者=ダグラス・アンクラーー<Douglas Ankrah>) ウオッカ40ml、パッションフルーツ・リキュール15ml、ライムジュース20ml、ヴァニラ・シロップ15ml、パッションフルーツ・ピューレ30ml(シェイク)※小ぶりのタンブラーに入れたシャンパンを別にサーブ ※アンクラー氏は当時ロンドン・ナイトブリッジ「タウンハウス・バー」のバーテンダー。その奇抜な名前もあって、英国内のカクテル・バーで人気を集めるようになり、現在では「モダン・クラシック」の一つとして定着している。ちなみに、2019年には英国内最も飲まれたカクテルだったという。 アンクラー氏がなぜこんな名前(Porn Star=ポルノスター)を付けたのかはよく分からないが、生前(同氏は2021年に死去)のインタビューで「だって、パーティーのスターターとしては、とてもセクシーで、楽しい、気取らない究極のドリンクだろう?」と語っていたと伝わる。リボルバー(Revolver) (2004年、考案者=ヤン・サンター<Jon Santer>) バーボン(銘柄は「Bulleit」を指定)60ml、コーヒー・リキュール15ml、オレンジ・ビターズ2dash、オレンジ・ピール(シェイク) ※サンター氏は当時サンフランシスコ在住のバーテンダー。有名なカクテル「マンハッタン」のバリエーションとして考案したという。その後、ニューヨークの有名カクテルバーのメニューにも取り入れられ、幅広く普及するようになった。 「ブレイト(Bulleit)・バーボン」は1997年に復活したブランド。「リボルバー」とは回転式拳銃のことだが、ベースのバーボンの銘柄「Bulleit」と音の響きが似ている「ブレット(Bullet=銃弾)」からの連想で、この名を付けたのかどうかは、調べて限りでは分からなかった。オールド・キューバン(Old Cuban) (2004年、考案者=オードリー・サンダース<Audrey Sanders>) ラム45ml、ライムジュース23ml、シロップ15ml、ビターズ2dash、生ミント(シェイク)、シャンパンで満たす ※オードリー・サンダース氏は、米国の伝説的バーテンダーで著述家のデイル・デグロフ氏の弟子にあたる。サンダース氏自身も、現在ではニューヨークを中心に活躍する著名な女性バーテンダーで、数多くの「モダン・クラシック」を考案している。スパイシー・フィフティ(Spicy Fifty) (2004~05年頃、考案者=サルバトーレ・カラブレース<Salvatore Calabrese>) ヴァニラ・ウオッカ50ml、エルダーフラワー・コーディアル15ml、ライムジュース20ml、ハニー・ジンジャー・シロップ10ml(シェイク) ※あらかじめ底に唐辛子1個置いたグラスに注ぎ、最後にレッドホット・チリペッパーを少し振る。 ※カラブレース氏は当時ロンドンのバー「フィフティ」のバーテンダー。★ペニシリン(Penicillin) (2005年、考案者=サム・ロス<Sam Roth>) ウイスキー60ml、レモンジュース15ml、ジンジャー・ハニーシロップ15ml、1tsp、アイラ・シングルモルト(できれば「ラフロイグ=Laphroaig」で)1.5tsp(シェイク) ※「ペニシリン」は2000年以降に誕生した「モダン・クラシック」の中でも、群を抜いて知名度を獲得し、人気カクテルとなった。ロス氏は、当時ニューヨーク・マンハッタンの人気カクテルバー「ミルク&ハニー(Milk & Honey)」のバーテンダー。現在はブルックリンでバー「ダイアモンド・リーフ(Diamond Reef)」を営み、フローズン・バージョンも提供しているという。 ジンジャー・ハニーシロップは、サントリー社のプレミアム・シロップ「和 tsunagi 生姜」で代用することも可能。ペーパー・プレーン(Paper Plane) (2008年、考案者=サム・ロス) バーボン、アペロール、ビタースイート、レモンジュースを各4分の1ずつ(シェイク) ※サム・ロス氏が2008年、「店のオリジナル・カクテルをつくってほしい」と依頼してきたシカゴの友人、トビー・マロニー氏(バー「ヴァイオレット・アワー(The Violet Hour)」オーナー)のために考案した。カクテル名は、英国の世界的ラッパーM.I.A.の曲名から名付けたという。ちなみに、当初はアペロールではなく、カンパリを使っていたが、その後「甘さと苦さのバランスがよくない」と感じたロス自身がアペロールに変えたという。★メスカル・ミュール(Mescal Mule) (2008年、考案者=ジム・ミーハン<Jim Meehan>) メスカル45ml、ジンジャー・ウォート【注参照】30ml、ライムジュース23ml、パッションフルーツ・ピュレ23ml、アガヴェ・シロップ15ml(シェイク)。飾り=キュウリのスライス3片、砂糖漬けの生姜 ※ジム・ミーハン氏は当時ニューヨークの超人気バー「PDT(Please Don't Tell )」のオーナー・バーテンダー。「メスカル・ミュール」は数多くの「モダン・クラシック」を考案してきたミーハン氏の代表作の一つ。「ソンブラ・メスカル」の創業者のために捧げられたという。 ミーハン氏はクラシック・カクテルへの造詣が深いことでも知られ、彼が近年に出版した「PDTカクテルブック」と「バーテンダーズ・マニュアル」は「21世紀のサヴォイ・カクテルブック」とも称されている。現在はオレゴン州ポートランドのジャパニーズ・レストランバー「TAKIBI」で、バー部門の責任者として活躍している。 【注】ジンジャー・ウォートは、水、生姜のみじん切り、キビ砂糖、ライムジュースを煮詰めて漉し、つくる。難しければジンジャー・ビアで代用することも可。トリニダード・サワー(Trinidard Sour) (2009年、考案者=ジョセッペ・ゴンザレス<Giuseppe Gonzalez>) アンゴスチュラ・ビターズ30ml、オルゲート・シロップ20ml、レモンジュース15ml、ライ・ウイスキー10ml(シェイク)、「サワー」と言う名が付くがカクテルグラスで提供されるのが普通 ※カクテルでは普通は数滴しか使わないビターズをこんなに多く使ったら、とんでもないカクテルになりそうだが、予想は裏切られ、甘酸っぱさと苦さと複雑な香りが”同居”する不思議な味わいに変身する。現在ではIBA公認カクテルにも認定されている。ゴンザレス氏は当時ニューヨーク・ブルックリンの「クローバークラブ・バー」のバーテンダー (なお、オリジナル・レシピではビターズは「45ml」も使うが、それは150~200mlも入りそうな容量の大ぶりのカクテルグラスで提供することの多い欧米での話。総量70ml前後で提供することの多い日本のバーでは冒頭の分量比で適切と信じる)。ネイキド&フェイマス(Naked & Famous) (2011年、考案者=ホアキン・シモ<Joaquin Simo>) メスカル、ビタースイート・オレンジレッド・アペリティーボ、イエロー・シャルトリューズ、ライムジュース各4分の1ずつ(シェイク) ※シモ氏はニューヨークのバー「Death and Co」のバーテンダー。ビタースイート・オレンジレッド・アペリティーボはアペロールで代用できる。Ve. n. to(ヴェネト) (2021年、考案者=サムネーレ・アンブローシ<Samnele Ambrosi>) グラッパ45ml、レモンジュース23ml、ハニー・ミックス15ml、カモミール・コーディアル15ml、卵白(シェイク) ※カクテル名はイタリアの「ヴェネト(Veneto)州」に由来。アンブローシ氏は「Riva Bar」(所在地不詳)勤務のバーテンダー。同氏曰く「グラッパをベースにした過去にもない、初めてのカクテル」。【以下のカクテルについては、まだ情報は不足していますが、近年、欧米のバーの現場ではしばしば目にするものです。詳しいい情報を入手でき次第、改めて追記いたしますのでご了承ください】イリーガル(Illegal) (2000年代、考案者は不詳) メスカル30ml、ホワイト・ラム15ml、ファレナム(【注】ご参照)15ml、マラスキーノ1tsp、ライムジュース20ml、シロップ10ml(シェイク) ※【注】「ファレナム」はライム、ジンジャー、アーモンド・リキュールでできたトロピカル・シロップ。オルゲート・シロップで代用できる。イエロー・スコーピオン(Yellow Scopion) (2000年以降、考案者は不詳) ウオッカ45ml、パイナップルジュース45ml、ライムジュース0.5tsp、シロップ0.5tsp、アニスシード1tsp(シェイク)ホアン・コリンズ(Juan Collins)(2000年以降、考案者は不詳) テキーラ45ml、レモンジュース30ml、アガヴェ・シロップ15ml、シェイクしてソーダで満たす。レモン・スライス=飾りブレイブ・ブル(Brave Bull) (2000年以降、考案者は不詳) テキーラ40ml、カルーア20ml、氷、ロック・スタイルで(ビルド)エンヴィ・カクテル(Envy Cocktail) (2000年以降、考案者は不詳) テキーラ45ml、ブルー・キュラソー30ml、パイナップルジュース15ml(シェイク)、マラスキーノ・チェリー=飾りブラッディ・マリア(Bloody Maria) (2000年以降、考案者は不詳) テキーラ60ml、トマト・ジュース120~180ml、スパイス類(シェイク)、レモン・スライス=飾り※レシピから分かるように、ブラッディ・メアリーのテキーラ版。【謝意】この回の執筆にあたっては、Robert Simonson氏の著書「Modern Classic Cocktail」(2022年刊)から多くの参考情報を得ることができました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。
2023/04/19
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さて、いよいよ「カクテル(混合酒調合法)」の本文です。24頁分の目次の後、本文ではアルファベット順に、125種類のカクテルが掲載されています。では、順番に紹介していきましょう。*************************************** 御家庭でたやすく出来、街で酒場も経営される カクテル --混合酒調合法-- 宮内省大膳寮厨司長 秋山徳蔵編 A アブサント・カクテル(Absinthe Cocktail) 小さい調合器【注1】に砕き氷を入れ、アンゴスチュラ・ビター一滴を落とし、オルジェート・シロップ【注2】一注(つぎ)【注3】とアブサント一ジガー【注4】を加え、充分にかき混ぜ合わせてカクテル・グラスに漉(こ)してうつし、レモンの皮一そぎを押しつまみ、浮かしてすすめます。 アブサント・フラッペ(Absinthe Frappe) 中位の調合器に砕き氷を四分の三位まで入れ、アブサント一ポニー【注5】を加え、充分に振蕩(しんとう)【注6】してカクテル・グラスに漉(こ)してうつし、凍りそうに冷たいところをすすめます。これは「アブサント・アメリカン・スタイル」とも呼ばれます。 アブサント・イタリアン・スタイル(Absinthe Italian Style) 調合器に砕き氷を入れ、アブサント一ポニー、マラスキーノ二注、及びアニゼット二分の一ポニーを加え、充分にかき混ぜ合わせてカクテル・グラスに漉しうつしてすすめます。 アブサント・ヴェイリューズ(Absinthe Veilleuse) ソーダ水呑【注7】に角砂糖1個を入れ、水少しを加えて溶かし、氷水を四分の三位までつぎ入れ、アブサント一ポニーを加え、かき混ぜ合わせてすすめます。 アギナルド・パンチ(Aguinaldo Punch) ソーダ水呑に砂糖大匙(さじ)で一杯を入れ、水又はソーダ水大匙で二杯を加えて溶かし、次にレモンジュース四注、フレンチ・ヴェルモット四注、ラム四注、及びウイスキー一ポニーを加え、充分にかき混ぜ合わせて、砕き氷を二分の一位まで加え、ソーダ水を八分目までつぎ入れ、季節の果実を浮かし、麦稈(むぎから)【注8】をさしてすすめます。 エール・サンガリー(Ale Sangaree) ソーダ水呑に砂糖大匙で一杯を入れ、水大匙で二杯を加えて溶かし、別の壜(びん)のまま冷やしたエールを九分目までつぎ入れ、ナッツメグほんの少しをおろしかけてすすめます。このエールには、新しいものと、古いものとがありますから好みな方を用います。 アーフ・エンド・アーフ(Alf and Alf) これは、英国風ではポーターとエールとを半々に合わせ、米国風では新しいエールと古いエールとを同じく半々に合わせてすすめます。したがって、いずれか好みの方を調合してすすめるのでありますが、いずれの場合でも、あらかじめ壜のまま冷やして置いて用います。 アップル・ブランデー(ホット)(Apple Brandy, Hot) 水呑に四分の三位まで熱湯をつぎ入れ、角砂糖一個を入れて溶かし、アップル・ブランデー一ジガーを加え、かき混ぜ合わせてすすめます。注意:普通、「ブランデー・ホット」或いは「ウイスキー・ホット」と言えば、大抵この方法で調合されますが、好みによりブランデーの量は増減します。 アップル・パンチ(Apple Punch) 林檎(りんご)とレモンを別々に薄切りにして鉢か甕(かめ)の中へ、砂糖をふりかけながら、段々に半分位まで入れて、赤葡萄酒を八分目までつぎ入れ、きれいな布巾(ふきん)をかぶせ、紐(ひも)でまき結(ゆわ)へて、およそ五六時間寝かして置きます。 そして後、別の鉢か甕の中へ、きれいな漉し袋かまたは布巾で漉してうつし、大きい氷の塊一個を入れて充分につめたく冷やし、パンチ・グラスにつぎ分けてすすめます。 アラック・パンチ(Arrack Punch) パンチ・グラスに小さい氷の塊一個を入れ、その中へバタヴィア・アラック【注9】を四分の三、ジャマイカ・ラムを四分の一の割合で入れて置き、別の調合器の中へ砂糖大匙一杯を入れて、ゼルツェル・ウォーター【注10】大匙で二杯を加えて溶かし、次にレモン一個の露を搾りこみ、充分にかき混ぜ合わせる。 前に用意して置いたパンチ・グラスの混合酒をうつしかえ、更にシャンパン一注を加え、再び充分にかき混ぜ合わせてパンチ・グラスにつぎ分け、薄く扇の地紙形に切ったパインアップル一片ずつを浮かしてすすめます。 オートモビル・カクテル(Automobile Cocktail) 調合器に砕き氷を入れ、ガム・シロップ二注、オレンジ・ビター二注、イタリアン・ヴェルモット【注11】とスコッチ・ウイスキー、およびオールド・トム・ジン【注12】の三種を各一ジガーずつを加えてかき混ぜ合わせ、カクテル・グラスに漉してつぎ分け、オリヴかチェリー一個ずつを浮かしてすすめます。【注1】「調合器」とはこの連載の2回目でも紹介したが、シェーカーやミキシング・グラスのこと。【注2】「オルジェート(Orgeat)・シロップ」とはビター・アーモンド・シロップのこと。オルゲート・シロップとも呼ばれる。現在でも「MONIN(モナン)」社のシロップ・シリーズで入手可能。【注3】「一注(いちつぎ)」とは、現代における1Dash(約1ml)のことか。【注4】「一ジガー(Jigger)」とは、英国式の場合2オンス(約60ml、米国式だと45ml)のこと。秋山氏が用いている「ジガー」が英国式なのか米国式なのかは、現時点ではよく分からない。【注5】「一ポニー(Pony)」は、連載2回目でも紹介したように、1オンス(約30ml)に同じ。【注6】「振蕩」とは、シェイキングのこと。【注7】「ソーダ水呑」という表記は、連載2回目にも登場するが、秋山氏は「8オンス以上の大形の切立形グラス(脚付きでないもの)」と説明しており、10~12オンスくらいのタンブラーのようなグラスと推察される。【注8】「麦稈」とはストローのこと。【注9】「アラック(Arrack)」とは、中近東からアジアにかけて幅広く造られている蒸留酒。原料は米やサトウキビ、ナツメヤシ、ジャガイモ、ヤシの花穂など。バタヴィアとはオランダ植民地時代のジャカルタの呼び名。インドネシアでもアラック造りは盛んで、バタヴィア・アラックは現在でも流通している。【注10】「ゼルツェル(Seltzer)・ウォーター」とは、要するに炭酸水のこと。19世紀以降、ヨーロッパでは、「薬効がある」と信じされたこともあって富裕階級を中心に広く飲まれるようになった。【注11】この当時は、現在のスイート・ヴェルモットはイタリアン・ヴェルモットと呼ばれ、ドライ・ヴェルモットはフレンチ・ヴェルモットと呼ばれた。【注12】「オールド・トム・ジン」とは、ドライ・ジンに1~2%の糖分を加えた英国生まれの甘口ジンのこと。18世紀、ロンドンにあったジンの販売機は猫の形をしていて、ジンを買うと猫の足の部分からボトルが出てきた。俗語(スラング)で雄猫のことを「トム・キャット」と言うことににちなみ、新製品に「オールド・トム」という名前が付けたと伝わる。 ちなみに20世紀前半までは、「トム・コリンズ」などジンを使うカクテルでは、オールド・トム・ジンでつくるのが多かったという。なお、最初に製造・販売した英国のボーズ社はその後、米国ミズーリ州セントルイスに拠点を移し、生産している。他にもカナダのメーカーでも製造・販売している。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2010/11/21
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◆(4)禁酒法施行の前と後 ―― バー業界は、カクテル文化はどうなったか 禁酒法施行前の1890年~1920年の頃、米国のカクテル文化は急速に発展し、当時世界の最先端を行っていました。その背景には、この時期欧州各国から多数の移民が米国へ渡り、欧州各国特産のリキュールやハーブ、スパイスを持ち込み、各国の多様な文化を伝えたことも大きかったといいます。 しかし、禁酒法施行とともにホテルのバーや街場のサルーン・バー、クラブの多くは閉店を余儀なくさせられました。なかには、表向きは酒を出さないレストランに宗旨替えしたところや、裏通りに移転し、「もぐり酒場」に転向するところもありました(A、B、C)。 ニューヨーク・マンハッタンの高級レストラン・クラブだった「21Club」(今も現存)は、表向きは酒を出さない高級レストランとして営業しながら、常連客にはこっそりと酒を提供し続けました(写真左=禁酒法施行下の「もぐり酒場」の様子。女性がバーで飲む機会が増えたのも、実はこの時代だったという)。 「21Club」では店の玄関にドアマン(監視員)を常駐させ、客を装った取締官らしき人間が来たら店内に合図を送らせました。また、同じくニューヨークにあった会員制高級社交クラブ「The Yale Club(イエール・クラブ)」では、法施行前の猶予期間中に10年以上のストックをため込んだと伝わっています(A、B)。 これまで書いてきたように、法施行後、大都市ではマフィアやギャングが経営する非合法の「もぐり酒場」が急増しました。「1軒のバーが潰れると、2軒の『もぐり酒場』が生まれる」とも言われました(A、C)。(写真右=禁酒法時代には、酒のポケット瓶を足に隠して持ち歩くのが流行した。( C )Culver Pictures INC.)。 有名ホテルや街場のクラブ、バーで働いていたバーテンダーらは職を失い、別の職種に転向した者もいましたが、バーテンダーとしての働き続けるために、やむを得ず「もぐり酒場」へ移った者も少なくありませんでした(ニューヨークだけでも数万人いたとか)。 一方、当時ニューヨークで働いていたハリー・クラドック(後年の名著「サヴォイ・カクテルブック」の著者)に代表されるような志の高いバーテンダーの多くは、船で欧州やキューバなどのカリブ海諸国へ渡りました。彼らは渡航先のホテル・バーなどで働く場を得て、最新の技術・知識を持っていた米国のバーテンダーは、欧州などで高く評価され、歓迎されたといいます。 どのくらいの数のバーテンダーが米国外へ出たのかについては、現時点では正確な資料に出合っていませんが、その数は数百人とも千人以上とも言われています。結果として、当時最先端だった米国のカクテル文化が欧州に広まり、さらに発展することにつながったのは歴史の皮肉と言っていいでしょう。 意外なことですが、禁酒法時代は、カクテル文化がある種の発展を遂げた時代とも言われています。警察の目からアルコールであることをごまかすために、あるいは質の悪いアルコールの味をごまかすために、皮肉にも、フルーツ・ジュースやシロップ、リキュールを混ぜる工夫・技術が進んだのです。その結果、今も伝わるような有名なカクテルも誕生しました(例えば、「オレンジ・ブロッサム」=写真左、( C )WEBサイト「100%カクテル」から画像拝借。多謝です!=のような)。 輸入禁止となったスコッチ・ウイスキーや、医薬用以外では製造禁止となった国産のバーボン・ウイスキーに代わり、この時期、カナダ産のライ・ウイスキーやメキシコ産のテキーラ、カリブ海諸国産のラムなどが密輸入され(A、B)、「もぐり酒場」では多様なカクテルが発展していったのです。 【禁酒法時代の米国に続く】【主な参考資料・文献】「WK」→「Wikipedia(ウィキペディア)」(Internet上の百科事典):アメリカ合衆国における禁酒法「A」 →「禁酒法――『酒のない社会』の実験」:岡本勝著(講談社新書、1996年刊)「B」 →「禁酒法のアメリカ――アル・カポネを英雄にしたアメリカン・ドリーム」:小田基著(PHP新書 1984年刊)「C」 →「酒場の時代―1920年代のアメリカ風俗」:常盤新平著(サントリー博物館文庫 1981年刊)こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/11/11
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久しぶりに言葉(方言)をテーマに。「他県人を震えさせる大阪弁の”罵(ののし)り”フレーズ」14選。本当に腹の立つ相手に使ってみてください。ただし関西人以外の方は、使うときはくれぐれもよく注意して使ってください。後で、どうなっても私は一切の責任は負えませんから(笑)。 1.しばいたろか、このガキ(or オッサン)! 2.いてこましたろかー! 3.いてまうど(or いてこますぞ)、オラァ! 4.いわしたろか! 5.どついたろか、オンどれ! 6.なめとんのかー、このバッハやろう! 7.たいがいにせーや!ワレェ、血ぃ見るどー! 8.何さらしてけつかんねん(or けつかるねん)! 9.どたまかち割ったろかー、ワレェ! 10. ドラム缶にコンクリ詰めして大阪湾に沈めたろかー! 11. 何ごたごた ぬかしとんねん! 12. どたまかち割ったろかー、ワレェ! 13. どたまカチ割って脳みそチューチューしたろかー! (※吉本新喜劇・未知やすえの決めゼリフ) 14. ケツの穴から手ぇ突っ込んで奥歯ガタガタいわしたろかー! (※同じく吉本のご存知、故・岡八朗の名ゼリフ)
2021/08/30
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82.サイレント・サード(Silent Third)【現代の標準的なレシピ】(液量単位はml)スコッチ・ウイスキー(30~40)、コアントロー(またはホワイト・キュラソーかトリプルセック)(15)、レモン・ジュース(15) 【スタイル】シェイク サイドカーのスコッチ・ウイスキー版です。1930年代前半に、英国とカナダでコアントローの独占販売権を持っていたガース・グレンデニング(Garth Glendenning)という英国の実業家が考案したと伝わっています。グレンデニングの会社は、60年代の前半に独占販売権を手放すまで、このカクテルをPRして、コアントローの販売促進につなげたといいます(出典:欧米の専門サイト「The Cigar Smoking Man.com」)。 「サイレント・サード」という名前は、グレンデニングが、彼の愛車「Railton」のサード(トップ)・ギアがとても静かでスムースだったのを自慢したことに由来します(出典:同)。「『物言わぬ第三者』という意味」と解説している国内のサイトも目立ちますが、最初に誰かが書いた間違った説が定着し、一人歩きしてしまった例の一つでしょう。 「サイドカー」の陰に隠れてしまっているせいか、欧米のカクテルブックで収録している例はなぜか少なく、確認した限りでは、1937年に英国で出版された「カフェロイヤル・カクテルブック(Café Royal Cocktail Book)」(W.J.Tarling著)くらいで、「カクテルブックではこの本が初出」と紹介している専門サイトもありました(ちなみに、レシピは「スコッチ・ウイスキー、コアントロー、レモン・ジュース各3分の1ずつ<シェイク>」となっています)。 「サイレント・サード」は欧米の専門サイトでは、多数紹介されていますが、そのレシピは実に様々です。例えば、「Diffordsguide.com」では、「ブレンディド・ウイスキー30ml、トリプルセック(ホワイト・キュラソー)20ml、レモン・ジュース15ml、冷たいミネラルウォーター10ml、レモンピール」となっています。 なお、スコッチ以外のウイスキー(バーボンやカナディアン等)を使う場合は単に「ウイスキー・サイドカー」と呼ばれます。スコッチ・ウイスキーをアイラ系モルトに替えるレシピも最近は人気があり、「スモーキー・サイドカー」という言い方もあります。 日本で知られるようになったのは、戦後の1980年代以降です。バー現場では結構知名度があるカクテルですが、カクテルブックでの収録例はなぜか数えるほどです。個人的には、とくにアイラ系モルトウイスキーをベースにした「サイレント・サード」はとても好きです。国内のバーでも、もっと広まってくれたらいいなぁと願っています。【確認できる日本初出資料】「マイ・スタンダード・カクテルズ」(内田行洋ら3氏共著、2004年刊)。そのレシピは「スコッチ・ウイスキー2分の1、コアントロー4分の1.レモン・ジュース4分の1(シェイク)」となっています。 ※もっと早い時期に国内で紹介している本があればご教示ください。
2018/04/21
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日本にカクテルというものが初めて伝わったのは、約150年前、明治の開国直後です。1860年(万延元年)、横浜の外国人居留地に開業した「横浜ホテル」に我が国初のバーが誕生し、その半世紀後の1910年(明治43年)には、銀座に日本で初めての街場のバー「カフエ・プランタン」が生まれました。 大正時代(1912~1926)に入ると、大正デモクラシーの雰囲気も相まって、大都市では相次いでカフエやバーが開店。そして、日本人の手によって初めて体系的な、本格的なカクテルブックが生まれます。今から93年前、1924年(大正13年)のことです。この年、2冊のカクテルブックが誕生しました。秋山徳蔵氏著の「カクテル(混合酒調合法)」、そして、秋山の本から1カ月遅れて出版された前田米吉氏=写真左=著の「コクテール」です。 著者の前田米吉氏は当時、東京・四谷の「カフエライン」という店に勤めるバーテンダーでした。ハードカバー260頁の「コクテール」には、287種のカクテルのレシピが紹介されていますが、その内容(書き方)は実用に徹したものになっています。秋山氏の本が個々のカクテルの作り方をすべて文章だけで表現しているのに対して、前田氏の「コクテール」は「***2分の1、***3分の1」というように、今風の分量表記で作り方を説明しています。 なので、当時のプロのバーテンダーにとっては、前田氏の本の方がより実用的で、仕事に役立つカクテルブックだったに違いありません。洋酒に関する情報や材料が乏しい時代に、このような完成度の高い本を書き上げる苦労は並大抵のものではなかったと思います。本書は、「バー業界の先駆者の汗と涙の結晶」とも言えます。 不思議なことに「コクテール」には、この6年後に出版される歴史的名著「サヴォイ・カクテルブック(The Savoy Cocktail Book)」=1930年刊=で、欧米で初めて紹介されたカクテルがいち早く、30数種類も!登場しているのです。なかには、明らかに著者ハリー・クラドック(Harry Craddock)のオリジナルと思われるカクテルも含まれているのが、大きな謎です。出版6年も前に、遠い東洋の日本でどのようにレシピを知り得たのか、非常に興味をそそられるところです。 著者・前田氏は経歴等がほとんど分からない謎の人物でした。私は、復刻版「コクテール」の編者として、「前田氏はおそらく、『カフエライン』に勤める以前に、外国航路の客船でバーテンダーとして働いていて、同僚だった外国人バーテンダーや外国人乗客から直接、サヴォイ・ホテルのバーで1920年代につくられていた(印刷物として紹介される前の)カクテルについて細かな情報を得ていたのではないか」などと記し、想像をかき立てました。 定価は「金五円」と、当時としては決して安くはなかった(【注】)本にも関わらず、数多くの飲食業界(とくにカフエやバー関係)の人たちに支持されたのか、発売後にすぐ再版されています(【注】大正13年当時の「金五円」はどれくらいの価値だったのか。「値段史年表」=朝日新聞社刊=という本によれば、都内・板橋の4部屋の家の家賃が5円20銭、小学校教員の初任給(月給)は12~20円。この本の値段は相当高価なものだったことがわかります)。 しかし残念ながら、「コクテール」は戦前の段階で絶版となり、現在では古書市場でも手に入れることは極めて困難です。私は「貴重な内容がこのまま陽の目を見ないのはもったいない。現在のバーテンダーにもその内容をぜひ紹介したい」と願っていましたが、先般、幸運にも「コクテール」の原本をお持ちのバーテンダーから貸してもらえたのを機会に、その内容をBlogで完全復刻する形で、解説付きで連載することができました(2011年2月~5月)。そしてその際、以下のような「おことわり」を記しました。 「出版から70年以上が経過しているため、出版元の著作権は切れています(一般的には、出版社に帰属する場合がほとんどです)。ただし、前田氏のご遺族がもし著作権を継承していた場合は微妙です。死後まだ70年が経過していなかった場合は、著作権侵害になる恐れがあります。前田米吉氏本人は生年没年不詳で、現在ではご遺族や関係者等まったく消息不明です。出版元で勤務先でもあった『カフェライン』も現在はありません。私自身は前田氏のご遺族と連絡をとりたいと願っていますが、未だ叶っていません。 万一、前田氏のご遺族からクレームがあった場合は、『前田氏の偉大で貴重な功績を後世に伝えるための連載で、私自身、一切の利益は得ていないこと』を伝えて理解していただくつもりですが、ご理解を得られない場合は、その時点で連載は中止し、過去分についてもすべて消去しますので、あらかじめご了解ください。」 幸い、連載中、ご遺族からのクレームはありませんでしたが、残念ながら、連載終了時までにご遺族の消息は不明なままでした。その後、2016年6月に出版された本「進化するBar」(柴田書店刊)の中で、私は、カクテルの歴史を紹介するページを担当させて頂きましたが、その際にも、前田米吉氏については、以下のように書かざるを得ませんでした。 「前田米吉:出身地、生没年ともに不明。1924年、日本初の実用的カクテルブック『コクテール』の著者。出版当時、東京・四谷の「カフェライン」に勤務するバーテンダーという以外、経歴はほとんど伝わっていない。秋山の『カクテル』1カ月遅れで出版された同著には、287のカクテルが紹介されているが、なかには1930年刊の『サヴォイ・カクテルブック』のレシピを先取りしているものもあり、前田氏がロンドンの最新情報に接していたことに驚かされる。」(写真左は、昭和初期の撮影と思われますが、詳しい年月日は不明。) そして、それから約1年経ったある日、(先般もこのBlogでも紹介しましたが)予期せぬ、大変な幸運が巡ってきたのです。Blogを見た前田米吉氏のご子孫が、私に直接ご連絡をくださったのです。直系のご遺族ではありませんが、米吉氏の姪に当たる加代子さん(76)と、そのご長男英樹さん(46)が、それぞれ東京と栃木からわざわざバーUKまでお越しくださいさました(インターネットという発明がなければ、こうした嬉しい出会いもなかった訳です。本当に有難いことです)。 繰り返しになりますが、前田氏は、この歴史的名著の著者としてバー業界ではそれなりに名は知られていますが、これまでは「(出版当時)『カフェライン』でバーテンダーをしていた」ということ以外は、経歴等がまったく不明で、謎の人物でした。今回、そんな故・前田氏の経歴や親族に伝わっている人柄について、貴重で、興味深いお話(情報・データも含め)がたくさん聞けました。嬉しいことに、前田氏に関する貴重な未公開の写真も何枚か頂けました。 とりあえず、今回正確に判明したのが前田氏の生没年です(戸籍謄本や死亡届の写しまでご持参くださいました!)。明治30年(1897年)4月8日生まれで、「コクテール」刊行時はまだ27歳の若さだったことになります。そして、亡くなられたのは昭和14年(1939年)11月27日。42歳という夭折でした。 そして、前田氏の経歴・横顔について、以下のような興味深い貴重なお話が伺えました(カクテル史の空白が、少しは埋められたような気もしています)。 ・鹿児島県吉野町(現・鹿児島市吉野町)の出身。四男三女の三男として生まれた。実家は造園会社を営んでいた。 ・1920年(大正9年)、23歳の時、2歳年上のユワという名の女性と結婚。戸籍をみると子供が一人いたことが分かるが、すぐに亡くなっている。妻も翌年、亡くなっている(その後、再婚したかどうかは不明)。少なくとも直系の子孫はいないという。 ・上京した時期は不明だが、「コクテール」の前書きにも、(出版時点で前田氏は)「多年コクテールの研究者」だったと記されていることからも、結婚後まもない時期(少なくとも1921年までには)には東京でバーテンダーとして働いていたことは間違いない。 ・上京後、前田氏は「カフェライン」でバーテンダーの職を得た(前田氏はなぜバーテンダーの職を志したのか、その理由は不明)が、同時に洋酒の販売も手がけていた。 ・前田氏は「コクテール」出版後に「カフェライン」を退職し、昭和の初め、銀座に自らの酒類販売店「前田米吉本店」を興した。 ・「前田米吉本店」は洋酒だけでなく、瓶詰めのカクテルも販売し、三越百貨店とも取引があったという(当時、新聞広告を出すほど羽振りが良かったらしい。パトロンには李香蘭<山口淑子>もいて、ニッカの竹鶴政孝とも交流があったという)。 ・前田氏は、昭和14年、42歳の若さで亡くなったが、死因は急性アルコール中毒だったという。 私は「前田氏がなぜ、1924年の時点で海外のカクテルについて、あれほど詳しい情報(レシピなど)を入手できたのでしょうか?」「海外に行かれたとか外国航路の客船で働いていたとか聞かれていませんか?」と加代子さん、英樹さんに尋ねました。しかし残念ながら、お二人ともその答えは「現時点ではまったく手がかりはなく、分からないんです」ということでした。 もちろん、1921年頃には東京で飲食の仕事をしていた前田氏が、東京を訪れていた外国人から直接、あれこれ情報を仕入れたという可能性もあります。サヴォイ・ホテルのドリンク・メニューやレシピを何らかの方法で入手できたのかもしれません。しかしそれにしても、サヴォイ・カクテルブックの出版よりも6年も早く、そのカクテル・レシピを紹介できたのは凄いことです。 しかし、お二人が私にお持ちくださったこれまで未公開だった写真の一つ=写真右=に、その答えにつながるかもしれない驚きのヒントがありました。おしゃれな白っぽいスーツを着た前田氏が、なにやら額入りの感謝状のようなものを手にした記念写真ですが、その写真には旧海軍の軍艦が映っています。大正末期か昭和初期か時期は不明ですが、この頃、海軍は欧州に「親善訪問」という名目で艦隊をたびたび派遣しています。 このような感謝状をもらうということは、前田氏はひょっとしてこの艦に乗船して、料理や酒を振る舞う仕事をしたのではないか。そして欧州訪問にまで同行したのではないか。そんな秘話があったとしても決しておかしくないと思っています。 前田米吉氏を巡る謎は、まだ解明された訳ではありません。何よりも「サヴォイホテル(サヴォイ・カクテルブック)」との関係で謎は多く残っています。しかし今回ご子孫のご協力で、少なくとも前田氏の出生地や生没年、そしてバーテンダー、ビジネスマンとしての姿も少しは明らかになりました。加代子さん、英樹さんの温かいお申し出、ご協力に心から感謝したいと思います(将来、ひょっとして前田氏の貴重なカクテルノート等が発見されることを、今は心から願っています)。 以下に、今回初めてご提供頂いた前田氏の他の写真も、紹介しておきます。(昭和初期、「前田米吉本店」開業の頃。前田氏は盛装しています。)(鹿児島の実家前での前田氏。隣で椅子に座っているのは新婚早々の妻ユワさんではないかと考えられています)。***********************************【ご参考】最後に、この歴史的名著「コクテール」の冒頭部分を紹介しておきたいと思います(なお、私の解説を加えた復刻版「コクテール」は現在絶版となっていますが、本文は、拙Blogのリンク「カクテルブック」からお読み頂けます)。 「コクテール」發行に就いて コクテールは欧州戦後【注1】間もなく東京に芽生えまして、お客様の御愛用になる医薬上・衛生上・嗜好上乃至(ないし)交際上快く可からざる新しい飲み物で御座いましたが、震災【注2】の為め生活必需品にあらざるコクテールは一時その影を潜めました。が、段々東京の復興に連れまして、此頃又コクテールの御愛用が多くなりました事は誠に結構な事と存じます。 奢侈(しゃし)を戒め、勤倹を勤むるは勿論の事で御座いますけれども、徒(いたずら)に思想や生活問題の悲観にのみ沈んで向上を唱えないのは、個人としても発展の途ではありません。東京としても復興の意氣ではありません。又國家としても新興の策ではないと存じます。 この意味に於きまして寧(むし)ろ恐ろしき震災の記憶を新たにするよりも、過ぎ去ったことは忘れて仕舞い、希望ある将来を追求して大いに働き、大いに食ふと云うことが、今日の東京のお方に尤(もっと)も必要な事ではないかと存じます。 コクテールには医薬・衛生・嗜好或いは交際場に於きまして、必ずしも奢侈品とは申されません。一日の労務に依って得た一部を以(もっ)て、此の無量の快感を与える一盃のコクテールを傾けるのは同時に翌日の為に無限のお活動力を貯えるので御座いまして、如斯くにして個人も社会も國家も向上発展して行くのではないかと存じます。 閑話休題。コクテールは其の配合すべき各種飲料並びに香料等に一定の分量が極まって居りまして、此の分量が違っては医薬にもならず嗜好にも適しませんのみならず、却って身体に害があります。又、各種分量をコクテールセーカに入れてセーク(攪拌)するにも、一つの技術を要します。 そこで優秀なバーテンダーが居ない処のコクテールは多くお客様の嗜好に適しません。是はコクテールの流行が最近でありまして、其の知識が普及されて居りませんのと、研究すべき何等の材料も御座いませんので止むを得ない次第で御座います。 其の為め、多くのカフエー業者並びに一般の御家庭でも何かコクテールに関する著述を渇望して御出でになる矢先に、多年コクテールの研究者前田米吉さん【注3】が此の大方の御希望を満たす為め、其の蘊蓄(うんちく)を極めたバーテンダーの「六韜三略(りくとうさんりゃく)」【注4】とも申すべき所謂(いわゆる)「虎の巻」を開放して、茲(ここ)に此の処方を發刊する事になりましたのは勿論、一般御家庭に取っても天来の福音でありまして、同時に日本コクテール界の為め祝ばしき事で御座います。 因みに著者は当分、弊店のバーテンダーとして働かれますから本書に就き御氣付きの点は御遠慮なく御叱正賜り度く御願ひ致します。 大正十三年十月【注5】 カフエライン【注6】 主人 天草 よし 識(しる)す【注1】「欧州戦後」の「欧州戦」とは第一次世界大戦(1914~1918)のことを指す。【注2】この「震災」とはもちろん、この「コクテール」発刊の前年の1923年に発生し、首都圏を中心に死者・行方不明者約10万5千人余という惨事となった関東大震災のこと。【注3】本書の著者である前田米吉氏については、その写真は本書に掲載されているものの、「当時、カフエラインに勤めていたバーテンダー」ということ以外、生年没年、経歴などはまったく不明の謎だらけの人物である。【注4】「六韜三略」とは、中国古代の代表的な兵法書である「武経七書」のうちの「六韜」と「三略」を指す。紀元前11世紀、周の軍師・呂尚が編んだとされるが、著者については他にも諸説あるという。ちなみに呂尚は別名を「太公望」とも言い、釣り好きの代名詞として今日でもその名を残している。また「六韜」の中の「虎韜」は、今日で言う「虎の巻」の語源(由来)であるとされる(出典:Wikipedia)。【注5】この前書きが書かれた日付は「大正十三年十月」だが、本書が実際に発刊されたのは翌「十一月五日」だった。このため、「日本初のカクテルブック」の称号は、同年十月にいち早く出版された秋山徳蔵氏の「カクテル(混合酒調合法)」に譲ることとなった。【注6】本書の出版元でもある「カフエライン」は大正期に東京に数多く開店したカフエの一つだが、現在は存在していない。本の奥付によれば、住所は「東京市四谷区鹽(しお)町2丁目1番地」とある。「鹽町」は東京の旧町名専門サイトによれば、1947年まで存在した町名で、現在の地下鉄・丸の内線「四谷三丁目駅」付近だという。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2017/12/30
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【2005年7月17日の記事の再投稿です。原則として、当時書いたままの文章を再録しています】 キリンのお茶「茶来」のCMに、芸能界に復帰した中山美穂が登場している。ミポリンには特別興味はない私だが、バックに流れている曲を聴いて、思わず「あぁ、懐かしいなぁ…。いい曲だなぁ…。でも、40歳以下の人はこの曲、誰の曲か分からないだろうなぁ…」と独りつぶやいていた。 曲名はCM画面の片隅にも出ている通り、「地球はメリー・ゴーランド」。1972年、GARO(ガロ)という3人組のグループが出した2枚目のシングル曲(デビューアルバム=写真左=にも入っている)である。GAROと言ってもすぐピンと来ない人でも、「『学生街の喫茶店』を歌っていたグループ…」と言えば、思い出されるかもしれない。 GAROは、1971年にデビューした。堀内護(愛称「マーク」、当時22歳)、日高富明(同「トミー」、同21歳)、大野真澄(同「ボーカル」、同22歳)の3人からなるグループ。当時は「フォーク・ロック」というジャンルに入っていたかと思う。アコースティック・ギターによるコーラス・バンドで、カバー曲以外の、オリジナル曲づくりも自分たちでこなした。 当時、同じくギター・バンドをやっていた私にとっても、GAROはお手本でもあり、目標でもあった。彼らの曲もよくコピーし、歌った(写真右=GAROが残した唯一のライブ・アルバム。CS&Nなどの洋楽を演奏したライブ音源も、ぜひCD化してほしいが…)。 当時GAROは、単に「フォーク・グループ」と呼ばれることが多かったが、私は今でもこの言い方には馴染めない。高いコーラス・ワークとギター・テクニックを誇った彼らは、メジャー・デビュー前から、「和製CS&N(クロスビー、スティルス&ナッシュ)」とも言われ、注目されていた。実際、彼らが目指していたのも、フォークとかいう狭いジャンルにとらわれない音楽だった。 デビュー・アルバムでは、曲づくりやコーラスで、その素晴らしい才能があちこちに垣間見れる。初期の頃は、冒頭で触れた「地球は…」のほかにも「1人で行くさ」「涙はいらない」など、音楽的にもレベルの高い、クオリティの高い曲が多かった。しかし、大ヒットという訳にはいかず、GAROは一部の熱狂的なファンの間での存在だった。 それが一転したのが1973年、3枚目(4枚目説も)のシングルとして発売された「学生街の喫茶店」の大ヒットだった。実は当初、この曲は「美しすぎて」というシングル曲のB面だった。それが、GAROの「大衆化路線」を目論むレコード会社やプロデューサーの方針で、発売直前、B面の「学生街…」がA面に差し替えられたという(このためジャケットの裏面の歌詞では、A面は元の「美しすぎて」のままだった)。 この曲をつくったのは、すぎやまこういちという当時の売れっ子作曲家・編曲家だった(代表曲にタイガースの「花の首飾り」、ヴィレッジ・シンガースの「亜麻色の髪の乙女」などGS<グループサウンズ>に数多くの曲を提供していた)。GAROのメンバーは、この「歌謡ポップス」のような曲を、最初あまり歌いたくなかったと聞く。しかし、デビュー間もない3人に大レコード会社、大作曲家に抵抗できるはずもなく、言われるがまま「学生街…」がA面として売り出された。 それが幸か不幸か、それがオリコン・チャートで1位になり、70万枚を超える大ヒットになってしまった。その年のNHK紅白歌合戦にも出場し、この曲を歌わされることになる。そしてそれ以後、GAROと言えば、「学生街…」というレッテルが付いて回った。もともと洋楽志向だった3人にとって、「歌謡ポップス」のグループのように見られるのは、辛い現実だったに違いない(写真左=GAROのアルバムはほとんどが廃盤になっていて、現在はこのベスト盤のみが発売されている)。 GAROはライブなどでは、思い切り、洋楽のカバーや洋楽をルーツにしたオリジナル曲を歌っていたが、テレビではやはり、「『学生街…』を歌ってください」ということになる。しばらくは我慢していた3人だが、結局は、「これは僕らの求めていた音楽ではない」と気づく。そして、12枚のシングルと8枚のオリジナル・アルバムを残して、3年後の1976年に解散。3人はそれぞれの道を歩むことになる。 マークは、その後3枚ほどソロ・アルバムを出したが、その後は芸能界から姿を消した。しかし、90年代半ばからは再び音楽活動も再開し、様々なユニットでアルバムも出した。だが、残念ながら2014年12月、病気(胃がん)のため65歳で亡くなった(この箇所は2015年に追記)。 トミーは解散後、ロック・バンドを結成し、ライブ活動をしていたが、皆さんもご存じのように、1986年、飛び降り自殺をして、36年の短い生涯を終えた。音楽的な行き詰まりが原因とも聞くが、本当のところは分からない(私も詳しいことは知らない)。 ボーカルは、レコード・プロデューサー、ディレクターに転じて、現在も音楽業界にいる。7、8年前にはテレビに出て、「学生街…」を1人で歌っていたのを見たことがあるが、私は切なくて、悲しくて、途中でチャンネルを変えてしまった(自分たちの音楽の原点を壊してしまった曲を歌うことに、心に抵抗はないのだろうか)。 実質5年余の活動で音楽界から消えた伝説のバンド、GARO。その解散も、トミーの死も、私は今でも残念でならない。もし彼らが「望む道」を歩んでいたら、きっと、60代の今も現役で活躍しているCS&Nのように、息の長いバンドになっていたにかもしれない。彼らを間違った運命へ導いたレコード会社の幹部やプロデューサー、そしてGAROのために「学生街…」をつくったすぎやまこういちなる作曲家を、私は今も恨む。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2020/05/23
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1924年(大正14年)、日本で初めて出版された実用的カクテルブック「コクテール」(前田米吉氏・著)の英語翻訳での復刻版が、私も含めた豪・英・日の関係者の協力でこのほど完成しました!以前にもお伝えしましたが、僭越ながら、私はこの英語版の序文を執筆させて頂きました。出来上がったばかりの本を手に取ると、感慨ひとしおで、喜びが込み上げてきます。なお、現在アマゾンで発売されているのはこのペーパーバック版だけですが、近いうちに前田氏の原著(日本語)=国会図書館所蔵=のリプリント(複写)版をカップリングしたハードカバー版も完成しますので、これも発売されることを願っています。 ★元になった私の投稿(2017年12月30日)は、こちらカクテルやその発展の歴史にご興味のある方は、機会があればぜひ手に取ってご覧頂ければ嬉しく思います。
2022/09/19
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約2週間ぶりにBar UK写真日記です(By うらんかんろ)。 マスターの“第二の故郷”徳島から、馴染みのバーのマスターらがバーUKに来られました。Long BarのMマスター(写真右端)には徳島在住時、とてもお世話になったそうです。ちなみに、Mマスターは、好評発売中の成田一徹さんのバー切り絵作品集『to the BAR』にも登場されています。 最近は、新しいボトルはそう増えていませんが、話題の「ブラックニッカ・ディープブレンド(Black Nikka Deep Blend)」はカウンターにお目見えしています。ピートが効いて、アルコール度数45度のしっかりした味わい。ストレート、ロック、ハイボール、水割りとどんな飲み方でもいけるオールマイティなブレンディド・ウイスキーです。1Shot(45ml)¥600です。 韓国から、マスターの懐かしい友人がUKにお越しになられました。マスターが徳島時代にお世話になった元NHKのOさん(写真左)です。Oさんと一緒にご来店されたのは、現NHK大阪放送局・チーフアナウンサーのSさん(同右)。 OさんはNHKを定年退職後、先般まで大分の大学で教壇に立たれていました。そして現在は、韓国KBS放送の海外向け放送部門で働かれています。異国で新たな挑戦に励まれているOさんの姿に、マスターも良い刺激を受けたようです。 前の写真にも登場するOさんからマスターが頂いたのは、深紅のバラのプリザーブド・フラワーです。花屋さんに「ウイスキー・バーにふさわしい花を」と注文されたそうです。深紅は、シェリー樽熟成のモルト・ウイスキーの色のようでもあり、素敵なチョイス&センスにマスターも心から感激していました。 フード・メニューの見直しを進めているマスターですが、6月8日から、新たに「コンビーフ・サンド」がお目見えしました。コンビーフ、ピクルス、チリソース、塩、コショウでつくった、温かいオープンサンドです。腹持ちも良くて、お客様にはとても好評とのこと。バーUKの「看板フードメニュー」に育ってくれるといいのですが。 ちなみに、同時に「ご飯でがっつりカレー」という本格的なカレー・メニューも8日から登場しています。【Bar UK】 大阪市北区曽根崎新地1-5-20 大川ビルB1F 電話06-6342-0035 営業時間 → 平日=午後4時~10時半(金曜のみ11時まで)、土曜=午後2時~8時半、定休日=日曜・祝日、別途、水曜と土曜に各々月1回程度お休み。店内の基本キャパは、カウンター7席、テーブルが一つ(4~5席)。午後4時~7時はノーチャージ、午後7時以降はサービス料300円こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2015/06/14
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5. アラウンド・ザ・ワールド(Around the World)【現代の標準的なレシピ】ジン(40)、クレーム・ド・マント(ミント・リキュール)(15)、パイナップル・ジュース(15)、氷(ロックスタイルの時)【スタイル】シェイク クラシック・カクテルの中でもそこそこ知名度のあるカクテルで、日本で50年代以降に出版されたカクテルブックにもよく紹介されています。航空機時代を迎え、各国が世界一周飛行の実現を競っていた1920~30年代に登場したと伝わっていますが、考案者は不詳で、誕生の詳しい経緯・由来もほとんど伝わっていません。 Wikipedia(日本語版)によれば、「旅客機の世界一周航路開設を記念して開催された創作カクテルコンクールの優勝作品で、作者は米国人バーテンダー」なのだそうですが、根拠となる出典などのデータは示されていません。そもそも世界一周航路が初めて開設されたのは1947年ですが、カクテルは遅くとも1930年代にはお目見えしているので、根本的な疑問がわきます。 また、有名な映画「80日間世界一周」(1958年公開)の原題とカクテル名が同じということもあって、この「映画の公開を記念してつくられた」と紹介しているカクテルブックもありましたが、このカクテルの方が先に誕生しているので、映画とは直接関係ありません。 一方、前述の映画の原作となった「フランスの作家、ジューヌ・ヴェルヌの同名小説(1873年発表)にヒントを得て、米国のバーテンダーが考案したらしい」と紹介する文献(橋口孝司著「ちょっと大人のカクテルストーリー」)もありました。可能性としてはこちらの方があり得るかなぁと思われますが、同書には裏付けとなるデータは書かれていませんでした。 何よりも不思議なのは、欧米のカクテルブックでもなぜか、収録している本は極めて少ないということです。WEBの専門サイトでの紹介例はありますが、本では、(確認できた限りでは)米国の「ミスター・ボストン・バーテンダーズ・ガイド(Old Mr. Boston Official Bartender's Guide)」(1935年版&1940年版等)の他に、70年代の1冊のみです。ちなみに「ミスター・ボストン…」でのレシピは、ジン15ml、クレーム・ド・マント15ml、パイナップル・ジュース30ml(シェイク・スタイル)と、現代と比べてジンは少なめです。 いずれにしても、現在の欧米ではほとんど忘れ去られたカクテルで、まだ日本国内の方が知名度があるという謎の多いカクテルとも言えるでしょう。なお、欧米のWEB専門サイトでは昨今、以下のような別レシピの「Around the world」も紹介されています。 1.ダーク・ラム(25)、コニャック1.5tsp、オレンジ・ジュース(40)、シロップ(15)、クレーム・ド・ノワヨー1.5tsp、クラッシュド・アイス。すべての材料をブレンダーにかけてフローズン・スタイルで(出典:Drinkmixer.comほか) 2.ドライベルモット(40)、パイナップル・ジュース(20)、クレーム・ド・マント2dash、シェイクしてカクテルグラスに。マラスキーノ・チェリーとパイナップル・スライスを飾る(出典:Absolutdrinks.com)。※冒頭のレシピのジンをベルモットに代えたものとも言えます。 【確認できる日本初出資料】「カクテルの本」(間庭辰蔵著、1959年刊)。レシピは、ジン(15)、クレーム・ド・マント(15)、パイナップル・ジュース(30)(※「ミスター・ボストン…」のレシピとまったく同じです)。・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2016/11/15
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「M」のマスターも奇跡の快復を果たしたので、久しぶりにBARの話に戻る。ブログで紹介するBARについては一応、東京や京阪神に関しては、老舗をまず優先している。老舗とは言っても、僕の行ったことのある(あるいは今も通う)BARに限定しながらも、もうかなり取り上げてきたつもりだけれど、それでもまだ紹介しきれていない店はたくさんある。 僕がよくお邪魔する馴染みのBARのマスターで、僕がブログをやっていることを知ってる人のなかには、「うちの店は、いったいいつになったら取り上げるんやろか」と思っている方もいるかもしれない。 ご心配なく。いつかは必ず紹介するつもりをしている。ただ、今はそういう馴染みのBARや隠れ家的に使っているBARの名前は、できれば、まだそっとしておきたいと思ってるのも事実。 だから、馴染みのマスターの皆さん、ご安心を…。そして、BAR好きの読者の皆さんには御免なさい(出し惜しみしている訳じゃないんだけど。僕にも、会社を離れて心から落ち着ける場所=BARが必要なのです)。 という訳で今回のBARは、まだ取り上げていなかった大阪キタの老舗。久しぶりにお邪魔したそのBARは、新地本通りから1本北の筋、ほとんど御堂筋寄りのところにある。 Bar「瀧(たき)」(店の入り口の看板は、なぜか「Taki」とアルファベット表示だ=写真左上)。1966年の創業と聞くから、ことしで41年目になる、文字通りのキタの老舗である(写真右=落ち着いた雰囲気の「瀧」の店内)。 ここの名物は、キンキンに冷やした錫(すず)のマグカップで供される「ジントニック」(写真左下)。常連客はなぜか「カンカン」と呼ぶが、これがまた旨い。「大阪でジントニックが一番美味しいBAR」と言われる所以も納得させられる(他にもフレッシュ・フルーツを使ったカクテルも売りだ)。 僕も他の常連と同じく「カンカン」を頼む。接客は、昔と変わらずフレンドリー。カウンターで僕の相手をしてくれたのは若いバーテンダーさんだったが、僕の先日の秋田BAR巡りの話に、楽しそうに聞き入ってくれた。 マスターのNさんも相変わらず若々しい。カウンターには入らず、テーブル席の横に立って、ニコニコと客と談笑している。店内をもう一度ゆっくり見渡したが、たぶん、25年前とそう変わっていないと思う。変わらぬことの良さをかみしめる僕。 「カンカン」を飲み干した僕は、フェイマス・グラウスの水割りを頼んだが、バーテンダーさんはマグを下げる前に、「ライムも、しがんでちゃんと味わってください。ビタミンとらなあきませんよ」と勧めた。そうだった。この「瀧」では、ジントニックに使った、絞ったライムを必ず勧めるのが流儀だった。 久しぶりの「瀧」は、今どきの新地でも珍しい、居心地のいい気楽なBARだった(お値段も新地にしては良心的!)。入り口の看板には「Snack & Bar Taki」とある。そうだ。ここは料理もなかなか充実していたことを思い出した。店のジューク・ボックスもそのまま。今度は、何かリクエストでもしながら美酒を楽しもう。【Bar瀧】大阪市北区曽根崎新地1-8-3 遅ビル1F 電話06-6345-5727 午後5時~12時 日祝休こちらもぜひ見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/05/18
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サントリーの角瓶の復刻版ボトルが最近また発売されたので、早速少し買ってみました。この復刻版ボトルは5年ほど前にも一度限定発売されたことがあり、その時も購入しましたが、いまだにもったいなくて飲めていません(笑) さて、今回の復刻版を買って、改めてボトルを見て、驚きを通り越して、少し悲しくなったことがあります。ボトルの裏側のラベルの表示です。 製造者と住所の表示ですが、5年前の復刻版(写真の右)にはちゃんと「製造者・サントリー株式会社 大阪市北区堂島浜2丁目」となっていたのに、今回の復刻版(写真の左)では「製造者・サントリー酒類(株) 東京都港区台場2丁目」と記されているではありませんか! 大阪発祥のサントリー。現在でも商法上の本社(登記)は、大阪本社に置いていると聞きます(東京の台場は社内では「ワールド・ヘッドクォーター」という位置付けだそうです)。大阪で生まれた角瓶の「復刻版」ということであれば、やはりラベルの製造者や住所表記は、5年前と同じにしておくべきだったでしょう。 サントリーもご多分にもれず、会社の主要機能は事実上、東京へシフトしてますが、「創業の地(原点)」とか「大阪で創業した誇り」を忘れる姿勢が情けないです。このラベル表示に、社内で異議を唱える人は誰もいなかったのでしょうか? Barのマスターの皆様、もしサントリーの営業の方が店に立ち寄られたら、貴社と貴社のウイスキーを愛し、こういう思いを持っている人間もいることをぜひお伝えください。 PS1.最近購入した通常の角瓶の裏側を見たら、すでに表記は「サントリー酒類(株) 東京都港区台場2丁目」でした。いつから表記変わったんでしょうかねぇ…。 PS2.詳しい友人に聞いたところ、2009年に持ち株会社と子会社に分離して以来、持ち株会社のサントリー・ホールディングスのみ大阪に本社を置き、それ以外はすべて東京へ登記も移したそうです。従って、ラベルの表記も2010年くらいには変わっていたのか。気が付きませんでした。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2012/05/02
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6月1日の日記で、サントリーのウイスキー「山崎」「白州」の裏ラベルの製造者住所の表示が、山崎は蒸留所の住所になっているのに、白州はそうではない(「東京都港区台場2丁目」となっている)ことについて、「同社の営業担当者に尋ねているところです」と記しました。 しかし、営業担当者の説明は疑問に十分答える内容ではなかったので、改めて、同社のお客様センターに直接尋ねました。その返答が一昨日とどきましたので、うらんかんろのブログの読者の皆様にもお知らせいたします。以下がその内容です。 *************************************** ****様 ご連絡をいただきましてありがとうございます。また、日頃からのご愛顧に心よりお礼申し上げます。お問い合わせの件につきまして、以下のとおりご案内いたします。 1. 商品表示に関する法律で、基本的には「製造者名」と「製造所所在地」を記載することになっています。ただし同一製品を複数の工場で製造している場合は、「製造者名」、「本社所在地」、さらに「製造所の固有記号の記載」という 方法をとることができます。 「白州」につきましては、貯蔵は白州蒸溜所で行っていますが、瓶詰めの設備がないため、瓶詰め工程は別の場所で行っております。そのため、「製造者所在地」をサントリー酒類株式会社の住所(台場)にしております。 「山崎」については、貯蔵も瓶詰めも山崎蒸溜所で行っているので、山崎蒸溜所の住所を、そのまま記載してあります。 2. 白州の裏ラベルにある製造者名「サントリー酒類(株)A」のアルファベットは製造所固有記号で、「A」の工場の所在地は大阪府です。 3.「白州」は、大阪にあるサントリーの工場で瓶詰めしています。 今後とも皆様にお喜びいただけるような製品づくり、企業活動に努めてまいりますので、引き続きご支援を賜りますようお願い申し上げます。 こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2012/07/04
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※この記事は、2012年10月にアップされたものですが、今回、2018年の日本の著作権法改正を反映させて、以下の記述内容を少し修正いたしました。 私は法律の専門家でも何でもありませんが、ブログをやっていることもあり、不本意なトラブルを招かないように、著作権問題、名誉毀損問題などには普段から強い関心を持っていて、専門家(弁護士、大学の法学担当教官ら)の意見・見解も時々伺っています。 先日のことですが、ふと、素朴な疑問が浮かびました。「ミッキー・マウスって、1920年代に誕生したから、もう著作権の保護期間は終わってるんじゃないのか?」と。そこで、とりあえず、自分で調べてみることにしました(もし間違い等があったら、ご指摘ください。修正いたします)。 ◆外国の著作物は、日本国内で日本の著作権法が適用されるのか 最初に、基本的な知識や事実、データを10点ほどおさえておきたいと思います。 1.他国の著作物であっても、日本国内では、日本の現行著作権法(1971年1月1日施行、直近の改正は2018年&2019年)が適用されます。 2.日本の著作権法での保護期間は従来、「著作者の死後50年間、または法人・団体名義の著作物は公表後50年間」となっていました(ただし映画だけは2003年の法改正で「公表後70年」になりました)。しかし、「TTP協定」署名に伴う2018年12月30日成立の法改正で、保護期間は著作者の死後「70年間」に、また映画以外の著作物も「70年」に延長されました。 (※ただし、1953年以前発表の映画の保護期間は「公表後50年」のままです。また、2018年12月29日以前に、著作権が消滅しているものについては延長されていません。ちなみに旧著作権法<1899年~1970年。以下「旧法」と略>では「発表後または著作者の死後38年」でした)。 3.太平洋戦争時の旧連合国(英米仏カナダなど)の作品の著作権は、「戦時加算」としてさらに保護期間がさらに10年加算されます(第二次大戦中、日本が著作権保護に十分に取り組んでいなかったことが理由とのこと)。 4.ミッキー・マウスが初めて登場したのは、1928年製作・発表の映画「蒸気船ウィリー」です。 5.著作権の開始年の数え方は、「著作物の発表または著作者の死亡が公表された翌年を1年目する」となっています。 6.改正著作権法の規定を適用すれば、1953年以前に発表された「蒸気船」のミッキー・マウスの日本国内における著作権は、ディズニー社の作品であるという前提に立てば、発表翌年の1929年(始期)+70年(保護期間)+10年(戦時加算)で、2009年に消滅しています(法律専門家の間ではこの見解が多数派とのことです)。 一方、「蒸気船」でのミッキーがもしウォルト・ディズニー個人名義の創作物であるという前提に立てば、著作権の保護期間は、ディズニー没年の翌年1968年(始期)+70年+10年で、2048年で消滅ということになります。 7.現行法の附則には、「旧法による著作権の存続期間の満了日が、新法による著作権満了よりも後であれば、旧法の存続期間を優先する」となっていますが、旧法で計算すれば、映画が法人(ディズニー社)名義の場合、1928年(旧法では発表年が始期)+38年(旧法の保護期間)+10年(戦時加算)で、1976年に著作権は消滅しています。 もしディズニー個人名義ならば、1967年(旧法では死亡時の年が始期)+38年+10年で、2015年に著作権が消滅ということで、現行法を適用した方が保護期間が長い(2048年)ので、この規定はあまり意味を持ちません。 8.もちろん、ここでいう著作権とは「蒸気船ウィリー」に登場したミッキーに関するもので、現在よく知られているアニメのミッキーや、ディズニーランドで子どもに愛想を振りまいているミッキーは、少し顔が違うため、後年に公表されたミッキーは別の著作物という考え方が一般的です。 9.米国の著作権法は1998年に延長法が成立し、保護期間がそれまでより20年間長くなりました。原則、著作者の死後70年間に、法人の場合は発表後95年間となりました。その結果ミッキー・マウスの米国内での著作権も、最大2024年まで延長されることになりました。 10.ディズニー社は、ミッキー・マウスの国内著作権についての日本国内の専門家からの問い合わせに対して、現時点では「著作権に関しては一切お答えしない」との立場です。 ◆日本国内の著作権が切れたらどうなるのか 2009年に日本国内でのミッキー・マウスの著作権保護期間が切れたのかどうかについて、ディズニー社は今なお公式見解を出していません(出典:Wikipedia)。しかし結論として、Webで何人かの法律専門家の見解を読む限り、少なくとも1929年に公開された映画のミッキーは現時点では、保護期間は終了しているという意見が多数派です。 そして、たとえどんなに長くても、ディズニー没後60年の2027年には「蒸気船」のミッキーの著作権は消滅します。 その時には、ミニー・マウスも含めてパブリック・ドメイン(公共の物)になり、原則、誰でもブログなどで自由に使えるようになります。 ただし、気をつけないといけないのは、その後に誕生した顔が少し違うミッキー・マウスについては、まだ法人としてのディズニー社が、今なお著作権を持っていると考えられます。権利保護に関しては周到なディズニー社ですから、マイナー・チェンジを繰り返し、その都度創作の時点を延長、延長している可能性もあります。著作権が切れている初期のミッキーを真似た芸術作品をつくったつもりでも、「似ているから違法だ」と訴えられるおそれがあります。 また、いかがわしいアダルト・サイトがミッキーやミニーをキャラクターに使えば、「著作者人格権」(【注1】)の侵害として訴えられるでしょう。注意すべきことは、著作権は切れたとしても、商標権は、登録者が更新し続ければ半永久的に維持されることです。自分の会社の商品にミッキーの絵を描いて勝手に販売すれば、必ず商標権侵害で訴えられます。場合によっては巨額の賠償を請求されます。 ディズニー社は現在でも、個人がブログなどで私的に使用・利用する分についてはあまり目くじらは立てない方針のようですが、営利目的で使おうものなら、きっと厳しいクレームが来るのは間違いありません。営利目的での利用は基本NGと考えておいて方が無難です。 ◆著作権はどこまで保護されるべきか 米国では、ディズニーという巨大資本の圧力で、議会が著作権法の保護期間を二度(1976年、1998年)にわたる延長しました。いずれもミッキー・マウスの著作権が切れる直前に延命を図ったようなものだったので、“ミッキー・マウス保護法”と揶揄されました。98年の延長には、「自由な芸術活動よりも企業の利益を優先させるもの」と米国内からも大きな批判が巻き起こり、2002年には違憲訴訟も起きましたが、連邦最高裁は2003年、7対2の多数決でこの著作権延長を合憲と判断しました。 「著作権は一定期間保護されるべきだ」という考え方にほぼ全員が賛成すると思います。しかし、その期間が長すぎることについては、作家や音楽家の中からも、著作権が特定の団体、個人に独占されてしまうと、クリエイティブな創作活動にかえってマイナス面が大きいと反対する声も多いのです。 言うまでもありませんが、小説や映画、音楽などあらゆる芸術は、過去の古典や名作など蓄積の上に、新たなヒントを得ながら創作活動をしていると言っても過言ではありません。過去の創作物は一定期間が過ぎれば、人類共通の財産として、自由に活用できなければ、新たな創作物は生まれてこないでしょう。そういう意味でも、保護期間はできるだけ短い方がいいと思います。 ◆TPP参加問題を巡る米国からの圧力 新聞やテレビがあまり報じないのですが、米国は今、日本政府に対して「TTP(環太平洋戦略的経済連携協定)に参加したいのなら、著作権の保護期間を米国と同じ70年、95年にしろ!」と要求してきています。2003年の法改正で映画の保護期間が70年に延長されたのも、実は米国からの圧力があったのが背景でした。 現行の50年を70年へ延長することについては、国内には反対意見が数多くあります。「古い芸術作品の流通・販売が阻害され、ビジネスが成り立たなくなる」「新たな創作活動への障害にもなる」「インターネット時代にこれ以上の保護は必要ない」「著作権を持つ大企業、大資本が得をするだけで、一般大衆の利益にならない」等々。 しかし、すでにTTP協定に参加した国のなかには、韓国、オーストラリアなど米国の要求(圧力)に屈して70年に延長した国も少なくないということです。日本は米国の圧力に屈せず、現行の50年を死守してほしいと願うのは僕だけではないでしょう。【追記】残念ながら、前述した通り、2018年12月の著作権法改正で、保護期間は「70年」に延長されてしまいました。 ◆余談ですが… 最後に一つ、Web専門サイト「著作権講座」さんから拾った興味深い余談を紹介します――。日本で有名な人気キャラクターたちも、いつの日か著作権の保護期間が切れます(商標権は更新し続ける限り存続しますが…)。キティちゃんは2044年に(1974年に「サンリオ」名義で発表後70年)、サザエさんは2062年に(作者・長谷川町子さん没後70年)、ドラえもんは2066年(作者・藤子・F・不二雄氏没後70年)に、それぞれ著作権が消滅します(出典:著作権講座=http://www.geocities.jp/shun_disney7/club1.html)。ほかにも鉄腕アトムは2060年に著作権消滅(作者・手塚治虫氏没後70年)。 個人的には、こうした日本国民に広く愛されているキャラクターたちは、著作権が消滅したからと言っても、そのイメージが汚されることのないような何らかの仕組みができることを祈ってやみません。 【注1】著作者人格権 著作者の人格的な利益について保護しようとする権利。具体的には、公表権(著作物を公表するかしないか決定できる権利)、氏名表示権(実名かペンネームを著作物に表示するかしないか決定できる権利)、同一性維持権(無断で著作物を修正・変更されない権利)の3つがある。「一身専属性の権利」で他人には譲渡できない(著作権法18条~20条、59~60条、116条、119条第五項)。(出典:知的財産用語辞典= http://www.weblio.jp/content/ ほか) 【御礼】この稿を書くにあたって、以下の専門サイトから貴重な情報や多大な示唆を数多くいただきました。この場をかりて、著者、編者の皆様に御礼申し上げるとともに、参考にした専門サイトを紹介しておきたいと思います。 ・「著作権講座」→ http://www.geocities.jp/shun_disney7/club1.html ・「見えない道場本舗」→ http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20080509/p4 ・「米国最新IT事情」→ http://itpro.nikkeibp.co.jp/members/ITPro/USIT/20021012/1/ ・「米連邦最高裁、合憲と判断:WIRED ARCHIVES」→ http://wired.jp/archives/2003/01/17/ ・「アメリカの著作権延長法について」→ http://homepage3.nifty.com/machina/c/c0004.html ・「著作権延長法」「著作権の保護期間」→ http://ja.wikipedia.org/wiki ・「知的財産用語辞典」 → http://www.weblio.jp/content/ ・ 文化庁HP「TTP協定の締結に伴う著作権法の改正」→ https://www.bunka.go.jp/seisaku/chosakuken/hokaisei/kantaiheiyo_hokaisei/ ・「著作権が自由に使える場合」(公益社団法人・著作権情報センター)→ https://www.cric.or.jp/qa/ ・「著作物・著作権をめぐるルール改正(解説)」(GVA法律事務所HP)→ https://gvalaw.jp/6253 ・「著作権保護期間、50年から70年に延長。一部非親告罪化も」(Watch Impress)→ https://www.watch.impress.co.jp/docs/news/1152341.htmlこちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2012/10/06
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英スコットランド生まれのハリー・マッケルホーン(Harry MacElhone 1890~1958)は、知る人ぞ知る、世界で一番有名な街場のバー、パリの「ハリーズ・ニューヨーク・バー」の創業者です。 そして、彼が1919年に著した、世界初の体系的なカクテルブック「Harry's ABC Of Mixing Cocktails」は、ジェリー・トーマス(Jerry Thomas)の「How To Mix Drinks or Bon-Vivant’s Companion」(1862年刊)やハリー・クラドック(Harry Craddock)の「The Savoy Cocktail Book」(1930年刊)とともに、カクテルブックの三大古典的名著とも言われ、プロのバーテンダーにとってはマスト・アイテムとなっています。 マッケルホーンのカクテルブックは、20世紀初頭のカクテルのことを知るうえで、重要な基礎資料の一つですが、初版本は出版部数があまり多くなかったのか、古書市場に出てくることは極めてまれです(サヴォイ・カクテルブックは初版本が時折古書市場に出てくるのと対照的です)。 現在この「Harry's ABC Of …」が古書市場に出てきたら、その稀少価値が故にかなりの高値がつくでしょう。復刻版も残念ながら、現在まで出版されていないために、初版本の詳細な内容は一部のコレクターしか知り得るすべがありませんでした(写真左=「ABC Of …」の本文の表紙頁。左側頁の写真でポーズをとっているのが著者のHarry MacElhone)。 現在でも市販されている「Harry’s ABC…」は1986年に、息子のアンドリューと孫のダンカンが編集した復刻改訂版がベースとなっており、うらんかんろ持っているのもこちらの方です。復刻改訂版には369種類のカクテルが収録されていて、ハリー・マッケルホーンの簡単な伝記も付いています。 しかし、この復刻改訂版は、戦前最後の改訂となった1939年版がベースになっていることに加えて、アンドリューらによって、1980年代までに生まれた比較的新しいカクテルが、かなり追加収録されています。 せっかく「古典的名著」と言われているのに、収録カクテルのうち、どれが(初版時に収録された)1910年代の欧州で登場していたカクテルなのか判然としないことが、古い時代のカクテルのことを調べている僕にとっては大きな不満でした(写真右=本文中には、このような広告がたくさん掲載されています)。 これまでは、同じハリー・マッケルホーンが1927年に著したもう一冊のカクテルブック「Barflies and Cocktails 300 recipes」(こちらは初版の忠実な復刻版が出ています)の内容から、「Harry’s ABC…」の初版の中身を類推するしかありませんでした。 この「Harry’s ABC…」初版本の詳しい中身が分かれば、有名なカクテルの誕生の時期について、これまで「**年代に生まれたらしい」とか「いつ頃生まれたかはっきりとは分からない」とか伝えられてきたものについて、誕生の時期がかなり絞り込めます(少なくとも1910年代に欧州に登場していたかどうかが分かります)。 私は「せめてコピーでいいので、初版本の中身を知りたーい」とずっーと、願い続けて、古書市場もずっと探し続けてきました。すると今回、突然、吉報が舞い降りてきました! 神戸の懇意なバーテンダーで、古い時代のカクテルについてとても造詣の深いMさんが、「**さん、やりましたよー! ついに古書オークションで手に入れましたよー!」と興奮して連絡してきてくれたのです。 >こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2013/07/05
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日本のフォーク、ロック、その黎明期を振り返る ◆歌謡曲、演歌、民謡しかなかった邦楽の世界に いま振り返ると、1960年代後半から70年代後半の約10年間は、日本の音楽シーンにとっては、とても重要な時期だったように思います。 60年代後半、それまで歌謡曲、演歌、軍歌、民謡くらいしか聴かれなかった邦楽の世界に、まずフォークというジャンルの音楽が登場します。70年代に入るとフォークは、フォーク・ロックという方向へ発展し、そして初めて日本語で歌うロックが生まれ、その後「ニュー・ミュージック」という新たなジャンルが生まれていくという、まさに新感覚の邦楽の黎明期でした。 この60年代後半から70年代初めにかけては、「米国の音楽に負けるな!」と、情熱あふれる若いアーチストたちが数多くデビューし、職業作詞家・作曲家に頼らず、自分たちの感性でメロディーや詩をつくり、歌うアーチスト(シンガー・ソングライター)が輝きを持ち始めた時代でした(歌謡曲の世界でもその後、職業作曲家が洋楽のセンスを織り込んだ和風ポップスの曲を生みだしてゆきます)。 先日、ある友人から、当時の音楽シーンはどういう状況だったのかを尋ねる質問を受けました。そこで、私の記憶や印象に今も残り、多大な音楽的影響を受けた歌手、グループを、当時のレコードレーベルも含めて、そして私自身の音楽遍歴も交えて振り返ってみました(データは一応Wikipediaなどで確認しましたが、正確性の保証はありませんので、悪しからずご了承ください)。 ★1965~69 ◆まずフォークから始まった 1960年代後半、日本にフォーク・ブームが起きます。そのきっかけとなったのは、60年代半ばに米国から伝わったPPM(ピーター・ポール&マリー)やジョーン・バエズ、ブラザース・フォー、ボブ・ディラン、キングストン・トリオらのレコードでした。小学校5年生で初めてギターを買ってもらった私が、まず始めたのもPPMの曲のコピーでした。 まもなく日本ではマイク真木が歌う「バラが咲いた」(1966年)やブロードサイド・フォーの「若者たち」(同)、森山良子の「この広い野原いっぱい」(1967年)が大ヒットし、大学ではカレッジフォーク・ブームが起きて、フォーク・ソング同好会やサークルが次々と誕生していきました。 加山雄三がフォーク路線を狙って「旅人よ」を出したのもこの頃でした(ビートルズも64、65年頃には日本で人気を得ていましたが、ビートルズから直接影響を受けて誕生した、オリジナルを歌う歌手やバンドというものは、残念ながらこの頃まだ登場しなかったと記憶しています)。 一方、関西では、思わぬ形でフォークが注目を集めるようになります。1967年12月、京都の大学生3人(加藤和彦、はしだのりひこ、北山修)からなるフォーク・クルセダーズ(通称フォークル)というグループがメジャー・デビュー。デビュー曲の「帰ってきたヨッパライ」は爆発的にヒットし、オリコン初のミリオン・セラーとなりました。 このコミック・ソングのようなデビュー曲は、私はあまり好きではありませんでしたが、その後の発表された、「悲しくてやりきれない」「イムジン河」「青春は荒野をめざす」はお気に入りで、友人と一緒にやっていたフォーク・バンドでもレパートリーにしていました。当初「1年限りのプロ活動」を公言していたフォークルは、68年10月に解散しました。 (加藤は解散後、サディスティック・ミカバンドやソロ歌手としてあるいは作曲家として活躍したが、2009年に自殺。はしだの「その後」は本稿の「はしだのりひことシューベルツ」で後述。京都府立医大の学生だった北山は、解散後は芸能界とは距離を置き、九州大学医学部教授も歴任、精神科医・エッセイストとして現在も活動している) ◆反戦・平和、そしてプロテスト・ソング 1968年になると、ベトナム反戦運動や反安保闘争がさらに活発化してきます。フォーク歌手のなかにも、娯楽的な歌詞から一線を画し、社会的、政治的メッセージの色濃いプロテスト・ソングを歌う人が増えてきました。曲も自分たちでつくるシンガー・ソングライターが次々と登場してきます。 69年には、「URC(アングラ・レコード・クラブ)」という関西フォークを発信する独立系レコードレーベルが誕生します。URCは社会性の強いアーチストを発掘したのが特徴でした。この頃、活躍し始めた歌手やグループには、高石ともや、五つの赤い風船、中川五郎、岡林信康、高田渡、斎藤哲夫、遠藤賢司、加川良らがいました。このなかで、私が一番好きだったのは岡林信康です。 岡林のセカンド・アルバム「見る前に跳べ」とサード・アルバム「おいら、いち抜けた」は今でも、凄い名盤だと思います。後に“路線転向”した岡林ですが、この頃は反戦・反権力をメインテーマにしていました(「見る前に跳べ」では、後の、はっぴいえんどがバックをつとめていました)。当時、大阪の「春一番」ライブや、中津川のフォークジャンボリーは「フォークの聖地」として人気を集めていました。 ★1970~73 ◆日本語を初めてロックに載せたはっぴいえんど 70年安保の混乱と熱気が去った後、様々な音楽が生まれ、その中から大瀧詠一、細野晴臣、鈴木茂、松本隆の4人からなるバンド、はっぴいえんどがバンドとしてメジャー・デビューを果たします(70年8月、当初はURCレコードから発売、のちベルウッド)。 はっぴいえんどはご承知のように、「日本語をロック音楽に乗せて歌った初めての本格バンド」と位置づけられています。1stアルバム「はっぴいえんど」(1970年発表)と2ndアルバム「風街ろまん」(1971年発表)は不滅の名盤だと思います。私は、「風街ろまん」発売直後のライブを大阪・難波の高島屋ホールで聴く幸運な機会が持てましたが、大瀧詠一亡き今、とても貴重で少し自慢できる思い出です。(少し個人的な話で恐縮ですが、ちょうどこの頃、私の参加していた3人編成のギター&コーラス・バンド「木の葉がくれ」も結成されました。はっぴいえんどの音楽は私たちの心をとらえ、当初は、その曲のコピーに熱心に取り組みました。洋楽では、もっぱらCrosby, Stills, Nash & Youngのコピーをよくしてましたが、その後、自分たちでオリジナル曲もつくるようになり、それは2枚のアルバムに結実しました)。 一方、旧来のフォーク路線でも、第二世代の歌手たちが登場してきます。1969年、吉田拓郎、泉谷しげる、海援隊らを世に出す「エレック・レコード」という会社が設立されます(しかし、エレックは放漫経営がたたって76年に倒産します)。 ◆「学生街…」が大ヒットしたガロの悲劇 この頃デビューした歌手・グループで、前述以外では、どんな人たちが記憶に残っているかといえば、次のような面々です。ガロ、ザ・ディラン2(セカンド)、赤い鳥、六文銭、あがた森魚、はしだのりひことシューベルツ、ブレッド&バター、はちみつぱい、RCサクセッション等々(ブレッド&バターは今でもまだ現役で活動してます)。 このなかで、私がとくに好きだったのはガロとザ・ディラン2、赤い鳥、シューベルツでした。 ガロは1971年、「日本のCrosby, Stills & Nash」を目指して結成された、コーラスを重視した3人編成のバンドでしたが、72年にリリースしたシングル盤の「学生街の喫茶店」(当初「美しすぎて」というシングル盤のB面用の曲だったのがレコード会社の意向でA面に差し替えられた)が大ヒットしてしまったのが不幸の始まりでした。 ガロにはその後、歌謡曲っぽいイメージが付きまとい、テレビで歌わされるのは「学生街…」ばかり。本人たちも不本意だったのか、わずか5年で解散してしまいました(メンバーの1人日高富明は1986年に自殺。もう一人のメンバー堀内護も2014年病死、現在は大野真澄だけが健在です)。 ディラン2は、60年代末、西岡恭蔵、大塚まさじ、永井ようの3人が当初「ザ・ディラン」の名で結成し、活動していました。彼らのオリジナル、「プカプカ」「サーカスにはピエロが」は今でも凄い名曲だと思います。メンバーのうち、西岡は1971年に脱退し、「ディラン2」自体も74年に解散します。 西岡恭蔵はグループ脱退後、ソロ歌手として精力的にライブハウスなどで活動していましたが、残念ながら1999年、その2年前に先立った妻の後を追うように自殺してしまいました…(涙)。残るメンバーだった大塚まさじ、永井ようは現在もそれぞれソロで精力的に活動し、時折り一緒にステージに立っています。 ◆「翼をください」は今や教科書にも 5人グループだった赤い鳥は「竹田の子守唄」でデビューし、ヤマハの「ライトミュージック・コンテスト」で優勝します。当初はフォーク路線でしたが、その後、紙ふうせん(2人)とハイファイ・セット(3人、現在は解散)に分裂してしまいました(赤い鳥時代の「翼をください」と「忘れていた朝」は今も大好きな曲です。「翼をください」は今では教科書にも載っていますね)。 「風」が大ヒットしたシューベルツは、フォークル解散と同時に、はしだのりひこが結成したバンドでしたが、メンバーの突然死もあって解散。はしだはその後、クライマックス(「花嫁」が大ヒット)、エンドレスと次々グループを換えながら音楽活動を続けました。晩年はパーキンソン病を患い、闘病生活をしながら時折りソロ活動も続けましたが、2017年、72歳で亡くなりました。 はっぴいえんどは1972年に解散。URCからその版権を引き継いだのが「ベルウッド・レコード」(1971年設立)でした。当時の「ベルウッド」のアーチストとしては、ほかにはっぴいえんど解散後ソロになった大瀧詠一や、山下達郎、大貫妙子らが目立っていました。 ◆1974~77 ◆数多くのスターを生んだポプコン 井上陽水、吉田拓郎、泉谷しげる、小室等の4人が1975年、「フォーライフ・レコード」を設立します。ただし、経営方針をめぐるゴタゴタもあって、印象に残るような実績はあまり残せずに、2001年に会社は解散しました。 一方、ヤマハが1967年~71年に開催した「ライト・ミュージック・コンテスト」と、1969年に始まった「ポピュラー・ミュージック・コンクール」(通称「ポプコン」)からは後にメジャーになるアーチストが巣立っていきます。 ポプコン出身で目立っていたのは、中島みゆき、オフコース、チューリップ、小坂明子、八神純子らです(チャゲ&飛鳥もポプコン出身ですが、注目されるのはもう少し後です=1979年の「ひとり咲き」でメジャー・デビュー)。 中島みゆきは現在でも息長く活動中。オフコースのメンバーだった小田和正やチューリップのメンバーだった財津和夫はその後、ソロ歌手(シンガー・ソングライター)として活動し、現在でもなお名曲をリリースし続けています。 ◆ユーミンの衝撃デビュー ポプコン出身以外で衝撃的なデビューを果たしたのは、1972年に登場した荒井(現・松任谷)由実です。彼女の音楽は、コード進行やメロディーが当時としては、とてもおしゃれで、斬新でした。フォークでもロックでもない新しい感性の音楽分野は、まもなく「ニュー・ミュージック」と呼ばれるようになりました。 デビュー・アルバム「ひこうき雲」(1973年発売)と、セカンドの「ミスリム」(1974年発売)は、やはり日本の音楽史に残る名盤だと思います。昔、荒井由実時代のライブを天王寺野外音楽堂で聴けたことは、今でも私の自慢の一つです。 かぐや姫が人気を得たのもこの頃(1973~74年)ですが、個人的には、私たちのバンドの音楽的志向と少し違っていたので、「神田川」(73年発売)や「赤ちょうちん」(74年発売)はあまり好きではありませんでした(唯一、「妹」=74年発売=は好きでしたが…)。また、かぐや姫解散後、伊勢正三らがつくった「風」のシングル「22才の別れ」も結構好きで、聴いていました。 1973年にデビューした、名古屋出身の「センチメンタル・シティ・ロマンス」も都会的なセンスあふれる大人のロックを創り出すバンドで、現在でも息長く活動を続けています。 ◆ロック史上に輝く名盤「ソングス」 1975年、大瀧詠一は独自の「ナイアガラ・レーベル」を設立します。このレーベルからは、シュガー・ベイブ(山下達郎、大貫妙子らが中心となったグループ、76年に解散)やソロでの山下達郎、佐野元春、杉真理らが育ち、メジャーになっていきます。 この頃、私は邦楽では、荒井由実時代の4枚のアルバム(上記の2枚&「コバルト・アワー」=1975年発売、「14番目の月」=1976年11月発売)と、73年にデビューしたセンチメンタル・シティ・ロマンスの1stアルバム(75年発売、タイトルはバンド名と同じ)、それに75年4月に発売されたシュガー・ベイブのデビュー・アルバム「ソングス」を、レコードの針が擦り切れるほど聴いていた記憶があります。 「ソングス」は今聴いても素晴らしく、日本のロック史に輝く名盤と言っていいと思います。とくにこのアルバム1の名曲「ダウンタウン」はその後、エポら多くのアーチストによってカバーされています。 以上、駆け足でしたが、日本のフォーク&ロック黎明期の10年を振り返ってみました(でも、急いでまとめたので、誰か大事なアーチストを忘れていないかなぁ…)。 (文中敬称略)【おことわり】ロカビリーやGS(グループ・サウンズ)はなぜ“無視”したのかと言われそうですが、ロカビリーについては60年代前半までがピークだったことに加えて、米国音楽の翻訳・模倣音楽であるため、日本人によるオリジナルとは言えないというのが理由です。 また、GSは基本的に歌謡曲の延長線上に誕生し、曲も職業作詞家、作曲家に頼っていたグループが多かったので、あえて触れませんでした(ブルーコメッツは作曲も取り組んでいましたが、曲の雰囲気はフォークでもロックでもなく、歌謡曲がポップに発展したものと僕は考えています)。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2012/09/24
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秋田で6月末に開催されたNBA(日本バーテンダー協会)の全国コンクールについて先日、少し触れたけれど、今年は、上位入賞者に異変があった。 関西勢から大阪北支部の小西広高さん(Bar Blossom=写真右は店内の様子)が見事総合優勝した。そして、総合3位には、僕が懇意にしている徳島のバーテンダー鴻野良和さん(Bar鴻=こうの)=写真左下=が入ったのだ。 NBAのコンクールは創作カクテル、課題カクテル(マティーニ)、フルーツ・カッティングの3部門で争われる。創作や課題カクテルは味だけではなく、パフォーマンス(テクニック)、ネーミングも審査対象になる。 上位入賞(とくに優勝者)は、いつも東京の支部(とくに銀座支部)の「指定席」と暗に言われてきた。実際、優勝者はいつも東京のバーテンダーだった。なぜかは、はっきり書きたくはない。ただ、審査員の構成が首都圏偏重だったことが原因の一つであることは、「NBA所属のバーテンダーなら誰もが感じていた」(関西のあるバーテンダーの話)と言う。 ところが、今年は審査員が全国の地域にバランスよく分けられ、平均年齢も10歳ほど若返った。こうした変化(変革?)が「フェアな審査を生み、実力重視の結果につながった」とあるバーテンダーは断言していた。 関西勢が優勝したのは約30年前に一度あっただけ。今は兵庫県西宮市の苦楽園という所で、Bar「The Time」を営む宇座忠男さんという方だ(現在は関西の重鎮として後進の指導に当たっておられる)。 小西さんはまだ30歳という若さ。僕は個人的にそれほど懇意という訳ではないが、大阪の若手ではもちろん実力派として知られていた。だが今回優勝するとは、本人はもちろん関西のバーテンダーらも誰も予想していなかったという。 そして、徳島の鴻野さん。今年42歳。何回目の挑戦かは忘れたが、「自分で納得できる結果が出るまでは」と毎年出場し続けた。 徳島時代は、カクテル・アーティストとしての鴻野さんをそれほど意識しなかった僕だが、努力の末に素晴らしい才能を開花させた彼に、心から拍手を送りたい。 鴻野さんへは早速、お祝いの花(アレンジメント)を贈った。知り合いに(バーテンダーの奥様です)製作を頼んだのだけれど、「暗い店内でも映えるような花を選びました」とメールで送ってきてくれた写真(右上)で見ると、とても素敵な雰囲気。送った翌日の夜、鴻野さんから御礼の電話があったが、とても気に入ってくれたようで嬉しい。 鴻野さんは総合では3位だったが、創作カクテル、ベスト・テイストの両部門で1位に輝いた。その創作カクテルの名前は「Besito(ベシート)」(写真左)。 スペイン語で出会いという意味とか。テキーラベースでマンゴのリキュール、オレンジビター・リキュール、ライム・ジュースというレシピ。爽やかな辛口で、絶妙な味わいだ。 「創作や味で、日本で一番と認めてもらえたことの方が嬉しいです」と鴻野さん。でも、日本一になっても、驕った様子は微塵もない。いつもと変わらず、気さくで、心底フレンドリー。 何度も書いてるけれど、愛されるバーテンダーは、やはり人柄がいい人が多い。長年の苦労と努力が報われたことは、僕も自分のことのように嬉しい。 【Bar Blossom】大阪市北区曽根崎2丁目1-6 電話06-6311-6530 午後5時~午前1時 日祝休【Bar 鴻(こうの)】徳島市栄町1丁目67-2 橘ビル3F 電話088-624-0067 午後7時~午前3時 こちらもぜひ見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/07/14
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3連休の一日、久しぶりに映画を楽しみました。と言っても、混みあっている映画館ではなく、レンタルDVDを借りて、家でゆったりと…。 選んだのは、解禁になったばかりの「ダ・ヴィンチ・コード」ではなく、3年ほど前に公開されたサスペンス映画です。「ライフ・オブ・デビッド・ゲイル」というタイトル。 映画は基本的にはサスペンス&ミステリーなんですが、「死刑制度と冤罪」という重いテーマを扱っているせいか、公開当時、日本ではさほど話題にならなかったような気がします。 関西では上映されていた記憶もありません。上映していたとしてもあまり当たらず、公開期間はきっと短かったのでしょう。 配役は結構豪華です。主演の2人は「ユージャル・サスペクツ」などで知られる個性派俳優・ケビン・スペイシー、そして「タイタニック」でブレークしたケイト・ウインストレット。主なあらすじは、以下のようなものです。 主人公は、大学で哲学を教える教授デビィッド・ゲイル(ケビン・スペイシー)。ゲイルは死刑廃止運動にも取り組んでいるが、運動の仲間・コンスタンス殺害の罪で死刑判決を受ける。 彼は死刑執行の3日前、自分のインタビューをとらせるため、雑誌記者のビッツィー(ケイト・ウィンスレット)を指名、ビッツィーはテキサスの刑務所まで赴く。 デビッドは「自分は殺していない。冤罪である」と語り、その真相を明らかにするためビッツィーを選んだという。ビッツィーは、「冤罪」なのかどうか確信は持てなかったが、戸惑いながらも取材を続けるうちについに、ある証拠を手に入れる。 それはゲイルの無実を証明する決定的な証拠となるはずだったが…、最後にたどり着いた真実は衝撃的なものだった。 詳しい結末は書けませんが、これまで観たサスペンス映画のなかでも、なかなかの出来(脚本)だと思います。ソフトバンクのCMじゃないけれど、貴方もきっと「予想外だぁ…。やられたなぁ」と思うはず。 ケビン・スペイシーははまり役で、やっぱり上手い! ケイト・ウインスレットもタイタニックの時と比べると格段に演技力はアップして、難しい役をこなしています。 10点満点で採点すれば、9点は間違いなく付けられる出来だと思います。ネットで感想を記している人の日記を読むと、ほとんどが評価していました。観て絶対に損はない映画だと思います。まだ観ていない方には、ぜひおすすめします。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/11/06
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大阪キタのBarアルテミスで長年、店長として活躍したMさんが念願かなって独立、このほど北新地のはずれに、すてきなスペイン・バルをオープンさせました。 アルテミス時代のMさんは、シェリーに詳しいバーテンダーとしては、関西屈指の方でした。当然、シェリーの品揃えも関西のBARで群を抜いていました。 Mさんはまた、オロロソ・シェリーをグラスに注ぎ入れるヴェネンシアという技を披露できる「ヴェネンシアドール」という資格(しかもスペイン政府公認資格!)を持つ数少ない日本人バーテンダーの1人でもあります。 アルテミスはどちらかと言えば、オーセンティックBARでしたが、Mさんは「いつかシェリーをウリにした気軽なバルを持ちたい」というのが以前からの夢でした。店長を10年つとめた後、「そろそろチャンス」と独立されたのです。 新しいお店は、願っていた通りの「気軽なバル」です。キャパはややこじんまりしていますが、シェリーの品揃えの充実ぶりはもちろん、フード(タパス=小皿料理)の種類もたくさんあって、2軒目、3軒目でも十分楽しめるスポットです。 店の名前は「バル・キンタ(Bar Quinta)」。「Quinta」は「五番目の」とかいう意味のスペイン語ですが、ご本人は「語呂が気に入っただけで、とくに意味はないんです」笑っています。 気さくで親切なMさん。店の雰囲気も、アルテミス以上にアットホームで、オープン間もないというのに、昔からのMさんファンで賑わっています。もちろん一人で訪れても、居心地は抜群です。もし大阪・北新地あたり行かれる機会があれば、皆さんもぜひ一度覗いてあげてください。【バル・キンタ(Bar Quinta)】大阪市北区曽根崎新地1丁目11-6 昭和ビルB1F 電話06-6345-1911 午後6時~4時(土曜3時~0時) 日祝休
2007/12/17
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◆「Harry's ABC Of Mixing Cocktails」にみるクラシック・カクテル 16.サゼラック(Sazerac) 「サゼラック(Sazerac)」は、1850年代、米国ニュー・オーリンズのバー「サゼラック・コーヒー・ハウス」で誕生したと伝わる、最初期の代表的なクラシック・カクテル(出典:Wikipedia英語版ほか。末尾の【注】もご参照)です。考案者は、このバーのオーナーだったアーロン・バード(Aaron Bird)であるとWikipedia英語版は紹介しています(出典:The Sazerac of New Orleans: A History from the Sazerac Company Archives )。 しかし、欧米のカクテルブックに「サゼラック」が登場するのはかなり後のことで、うらんかんろが現時点で確認している限り、20世紀に入ってからです。確認できる最も古い文献は、サヴォイホテルのチーフ・バーテンダー、ハリー・クラドック(Harry Craddock)が著した「The Savoy Cocktail Book」(1930年刊)です。そのレシピは、「ライ・ウイスキー1Glass、アンゴスチュラ・ビターズ(またはペイショーズ・ビターズ)1dash、角砂糖1個、アブサン1dash(事前にグラスを濡らす)、レモンピール」(ステア・スタイル)です。 「サゼラック」は元々は、同名のコニャックをベースにしたカクテルでした。しかし、1870年にフランス全土のブドウ畑が病害虫で壊滅状態になったため、米国へ輸出されるコニャックが激減。その結果、代用品としてライ・ウイスキーが使われるようになり、そのまま定着したとのことです(現在では、ライの代わりにバーボンを使うレシピもよく見られます)。 さて、「Harry's ABC of Mixing Cocktails」(1919年刊)には、「Zazarac」というカクテルが登場していますが、「Sazerac」はなぜか収録されていません。「Zazarac」のレシピは、「ライ・ウイスキー3分の1、バカルディ・ラム6分の1、アニゼット(マリブ・リザール)6分の1、ガム・シロップ6分の1、アンゴスチュラ・ビターズ1dash、オレンジ・ビターズ1dash、アブサン3dash、レモンピール」(シェイク・スタイル)となっていて、ラムが加わるところ以外は、ほとんど「サゼラック」と言っていいでしょう。 ちなみにWikipedia英語版では、この「Zazaracは、Sazeracのバリエーションである」と説明しています。20世紀初頭には間違いなく「Sazerac」は欧州にバーにお目見えしていたのですが、マッケルホーンはなぜか、「Sazerac」は無視して、そのバリエーションと言われる「Zazarac」の方をを取り上げています(その理由はよく分かりません。ちなみに、サヴォイ・カクテルブックは「Sazerac」と「Zazarac」の両方を取り上げています)(写真=Sazerac @ BAROSSA Cocktailier, Gifu City)。 末尾でも紹介している「The Artistry of Mixing Drinks」(1934年刊)の著者フランク・マイアー(パリのリッツホテルのバーテンダー)は、同書の「Sazerac」の項で「SazeracとZazaracの間で混乱・混同が見られている」という注目すべきコメントを記したうえで両方を収録し、別のカクテルであることを強調しています。つまり、1920~30年代ですら、バーの現場では両者の混同があったようです。ちなみに、マイヤーが紹介した「Zazarac」はバーボンウイスキー・ベースで、ソーダも加えるレシピになっています。 なお、現在も市販されている「Harry's ABC…」の復刻改訂版(1986年刊)では、「Zazarac」は消えて、「Sazerac」に代えられています。レシピは「アニス4dash(でグラスを濡らす)、アンゴスチュラ・ビターズを振った角砂糖1個、ロックアイスを入れて、バーボン・ウイスキー60mlを満たす」(ステア・スタイル)となっています。 では、1880~1950年代の主なカクテルブック(「The Savoy Cocktail Book」以外)は「サゼラック」をどう取り扱っていたのか、どういうレシピだったのか、ひと通りみておきましょう。・「Bartender’s Manual」(ハリー・ジョンソン著、1882年刊)米、「American Bartender」(ウィリアム・T・ブースビー著、1891年刊)米、「Modern American Drinks」(ジョージ・J ・カペラー著、1895年刊)米、「Dary's Bartenders' Encyclopedia」(ティム・ダリー著、1903年刊)米、「Bartenders Guide: How To Mix Drinks」(ウェーマン・ブラザース編、1912年刊)米、「173 Pre-Prohibition Cocktails)」 & 「The Ideal Bartender」(トム・ブロック著、1917年刊)米、・「Cocktails by “Jimmy” late of Ciro's」(1930年初版刊、2008年復刻版刊)米 いずれも掲載なし・「The Artistry Of Mixing Drinks」(フランク・マイアー著 1934年刊)仏 サゼラック・ブランデー1Glass、キュラソー1tsp、アンゴスチュラ・ビターズ1dash、ペルノー1dash(事前にグラスを濡らす)(ステア・スタイル)・「The Official Mixer's Manual」(パトリック・ギャヴィン・ダフィー著、1934年刊)米 ライ・ウイスキー1jigger、ペイショーズ・ビターズ1dash、角砂糖1個、ペルノー(事前にグラスを濡らす)、レモンピール(ステア・スタイル)・「World Drinks and How To Mix Them」(ウィリアム・T・ブースビー著、1934年刊行)米 ウイスキー4分の3jigger、ペイショーズ・ビターズ2dash、シロップ2分の1tsp、アブサン(事前にグラスを濡らす)、レモンピール(ステア・スタイル) ※同書にはサヴォイ・カクテルブックと同様、「Zazarac」も収録されていて、そのレシピは「ウイスキー2分の1jigger、バカルディ・ラム1tsp、アニゼット1tsp、シロップ1tsp、アブサン3dash、アンゴスチュラ・ビターズ3drops、オレンジ・ビターズ1dash(シェイク・スタイル、カクテルグラスで)」となっています。・「The Old Waldorf-Astoria Bar Book」(A.S.クロケット著 1935年刊)米 バーボンまたはスコッチ・ウイスキー1jigger、スイート・ベルモット1dash、アブサン1dash、ペイショーズ・ビターズ2~3dash(スタイルは不明)・「Mr Boston Bartender’s Guide」(1935年初版刊)米 ライまたはバーボン・ウイスキー2onz(60ml)、ビターズ2dash、角砂糖2分の1個分、アブサン4分の1tsp(事前にグラスを濡らす)、レモンピール(ステア・スタイル)・「Café Royal Cocktail Book」(W.J.ターリング著 1937年刊)英 ライ・ウイスキー1Glass、アンゴスチュラ・ビターズ1dash、角砂糖1個、アブサン1dash(事前にグラスを濡らす)、レモンピール(ステア・スタイル)・「Trader Vic’s Book of Food and Drink」(ビクター・バージェロン著 1946年刊)米 ライ・ウイスキー1onz、シロップ1dash、ペイショーズ・ビターズ1dash、アブサン(事前にグラスを濡らす)、レモンツイスト(ステア・スタイル)・「Esquire Drink Book」(フレデリック・バーミンガム著 1956年刊)米 バーボンまたはライ・ウイスキー60ml、角砂糖2分の1個、ペイショーズ・ビターズ3dash、ペルノー(事前にグラスを濡らす)、レモンピール(ステア・スタイル) 日本へはサゼラックは、少なくとも1920年代までに伝わり、「カクテル(混合酒調合法)」(秋山徳蔵著、1924年刊)、「コクテール」(前田米吉著、1924年刊)の両書に収録されています。すなわち、あのサヴォイ・カクテルブック(1930年刊)より早く、印刷物に掲載されたサゼラックとしては世界で最も早いということになります。欧米よりも日本の方で早く紹介されたという点が面白いところです。なお、両書に収録されたレシピは以下の通りです。 秋山本=サゼラック・ブランデー1ジガー、ビターズ3滴、ガムシロップ小さじ1杯、レモンピール(シェイク・スタイル)、前田本=ウイスキー1オンス、アンゴスチュラ・ビターズ1振り、角砂糖1個、アブサン(事前にグラスを濡らす)、レモンピール(シェイク・スタイル、カクテルグラスで)。 秋山本は、初期のスタイルのサゼラック・レシピを再現していると言ってもいいでしょう。これに対して、前田本はサヴォイ・レシピとほぼ同じです。サヴォイが刊行される6年も前に、こうしたレシピが日本に伝わっていたことはとても驚くべきことです(秋山氏、前田氏はどのようにして、このレシピを知り得たのかとても興味が募ります)。マッケルホーンが「Harry's ABC…」を発刊した頃(1919年)、サゼラックが欧米のバーですでに普通に飲まれるカクテルだったことを裏付ける傍証でもあります。 さて現代の日本では、標準的なレシピはどうなっているかと言えば、戦後は意外なことですが、1963年の「JBAカクテルブック」(金園社刊)、1984年刊の「サントリー・カクテルブック」(TBSブリタニカ刊)、2005年刊の「カクテルバイブル」(福島勇三著、象形社刊)くらいしか収録例がありません。そのレシピを紹介すると以下の通りです。 JBAカクテルブック=ライ・ウイスキー5分の4、シュガー2分の1tsp、アンゴスチュラ・ビターズ1dash、アブサン1dash サントリー・カクテルブック=ウイスキー1Glass、シュガー1tsp、アロマチックビターズ1dash カクテルバイブル=ライ・ウイスキー5分の4、シュガー1tsp、アンゴスチュラ・ビターズ1dash、アブサン1dash(事前にグラスを濡らす) 「カクテルバイブル」の著者の福島さんは88歳の現在も(東京・赤坂の永楽倶楽部バー・コーナーで)カウンターに立つ、人格、技量ともに素晴らしい業界の大先輩です。終戦直後、進駐軍のバーからずっとバーテンダーの仕事を続けておられる、「生き字引」のような方でもあります。その福島さんが半世紀以上前から、ずっと書きとめてこられたレシピが、一冊の本に結実した訳です。 「クラシック・カクテルの再評価を」といつも繰り返しているうらんかんろとしては、30年余り途絶えていた日本国内での「Sazerac」カクテルに、改めて光をあててくださった福島さんには、感謝してもし切れないほどです。 【注】Sazeracは、「ペイショーズ・ビターズ(Peychaud's Bitters)」の考案者でもあるニューオーリンズの仏系移民、アントワーヌ・ペイショー(Antoine Peychaud)が1830年代に考案したという説をとなえるサイト( http://ycos.sakura.ne.jp/Cocktail/cgi-bin/cdb_form.cgi?../Whisky/Sazerac.key )もありますが、裏付ける資料は示されていません。ただし、ペイショーは1869年~80年まで「サゼラック・コーヒーハウス」で働いていたこともあり、オーナーのアーロン・バード(サゼラックの考案者であると伝わる)にレシピの改良等でアドバイスをした可能性は十分に考えられます。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2015/08/07
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念!ITTETSU GALLERY:知られざるバーと酒の世界 (9)名前の分からない酒場<9> 1990年代? ※今回も、故・成田一徹さんの切り絵で、原画が残されているものの、「店名の分からないバー」の絵を。詳しい制作時期や何かの媒体で発表されたのかどうかも不明。どなたか手掛かり(情報)をお持ちの方は、ぜひご教示願いたい( → arkwez@gmail.com までお願いします)。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。【ITTETSU GALLERY:もう一つの成田一徹】について 成田一徹氏のバー切り絵作品集『NARITA ITTETSU to the BAR』改訂増補版の発行を記念して、Bar UKの公式HPでは、「Office Ittetsu」全面協力のもと、オンライン上に「ITTETSU GALLERY:もう一つの成田一徹」を開設しています。バー・シーンを描いた切り絵で有名な成田一徹氏ですが、実は、30年以上の画業の中で、バー以外をテーマにした幅広いジャンルの切り絵も、数多く手掛けています(その数、2千点以上!)。 花、鳥、動物、職人の仕事、街の風景、庶民の暮らし、歴史的な出来事、時代物(江戸情緒など)、著名人・歴史上の人物、伝統行事・習俗・風俗、生まれ故郷の神戸、小説やエッセイの挿絵、切り絵技法書のためのお手本等々(切り絵以外にも、初期には油絵や水彩、版画、ペン画、デッサン、オブジェなど多彩な作品を残しています)。 この機会に、バー・シーンとは一味違った切り絵を含む「一徹アート」の多彩な魅力を、一人でも多くの皆さんに知ってもらうことを願って、膨大な作品群のなかから、厳選した逸品を1点ずつ、不定期に紹介します。時には、バー関係をテーマにした作品も含まれおりますが、通常のモノトーンの切り絵ではない表現手法のものも含めて、ぜひお楽しみください。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2023/01/07
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念!ITTETSU GALLERY:知られざるバーと酒の世界 (11)名前の分からない酒場<11> 1990年代? ※今回も、故・成田一徹さんの切り絵で、原画が残されているものの、「店名の分からないバー」の絵を。詳しい制作時期や何かの媒体で発表されたのかどうかも不明。どなたか手掛かり(情報)をお持ちの方は、ぜひご教示願いたい( → arkwez@gmail.com までお願いします)。【追記】早速、貴重な情報が寄せられ、神戸・北野の「キング・オブ・キングス」(現在休業中)にほぼ間違いないと思われます。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。【ITTETSU GALLERY:もう一つの成田一徹】について 成田一徹氏のバー切り絵作品集『NARITA ITTETSU to the BAR』改訂増補版の発行を記念して、Bar UKの公式HPでは、「Office Ittetsu」全面協力のもと、オンライン上に「ITTETSU GALLERY:もう一つの成田一徹」を開設しています。バー・シーンを描いた切り絵で有名な成田一徹氏ですが、実は、30年以上の画業の中で、バー以外をテーマにした幅広いジャンルの切り絵も、数多く手掛けています(その数、2千点以上!)。 花、鳥、動物、職人の仕事、街の風景、庶民の暮らし、歴史的な出来事、時代物(江戸情緒など)、著名人・歴史上の人物、伝統行事・習俗・風俗、生まれ故郷の神戸、小説やエッセイの挿絵、切り絵技法書のためのお手本等々(切り絵以外にも、初期には油絵や水彩、版画、ペン画、デッサン、オブジェなど多彩な作品を残しています)。 この機会に、バー・シーンとは一味違った切り絵を含む「一徹アート」の多彩な魅力を、一人でも多くの皆さんに知ってもらうことを願って、膨大な作品群のなかから、厳選した逸品を1点ずつ、不定期に紹介します。時には、バー関係をテーマにした作品も含まれおりますが、通常のモノトーンの切り絵ではない表現手法のものも含めて、ぜひお楽しみください。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2023/02/11
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バーUKは、本日5日(水)は店休日となります。何卒ご了承くださいませ。 Today( June 5th )the bar UK is closed.
2024/06/05
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このところ、推理作家・東野圭吾の作品で、加賀恭一郎(かが・きょういちろう)という刑事が出てくる一連のシリーズ(計8作品あるそうです)を、むさぼるように読んでいます。 昨年発表され、ベストセラーになった最新作「新参者」から、発表年をさかのぼって読んでいるので、まだ全作品制覇に至っていませんが(現時点では5作品=「新参者」「赤い指」「嘘をもうひとつだけ」「私が彼を殺した」「悪意」です)、どの作品も睡眠不足になるほど、ハマッてしまいます。 加賀恭一郎が初めて登場したのは1986年、東野のデビュー第2作「卒業」です(これは未読です)、加賀は国立T大学に通う大学生で、在学中に巻き込まれた連続殺人事件の探偵役として登場します。その3年後の1989年の「眠りの森」(これも未読)では、警視庁捜査一課の刑事として再登場します。 さらに、1990年代中盤から後半にかけては主に警視庁捜査一課や練馬警察署に勤めているという設定で、「悪意」や「どちらかが彼女を殺した」「私が彼を殺した」「嘘をもうひとつだけ」という作品で登場しています。 2002年発表の「私が彼を殺した」は、(ネタばらしになるので詳しくは書けませんが)容疑者たちの中から、加賀刑事(すなわち作者)が犯人を明確に提示しないで終わるという“掟破り”の書き方で読者に論争を巻き起こしました(袋とじの「推理のヒント」が付いているという凝りよう)。 2006年に刊行された「赤い指」では住宅街の公園で起きた少女の死体遺棄事件から、どこの家族にでもあるかもしれない「闇」の部分に迫りました。そして2009年、あの書評家としても有名な俳優・児玉清氏をして「今年出版された本の中で文句なしに最も面白い!」と言わしめた話題の「新参者」へと続きます。 「新参者」では、加賀刑事は前作の練馬警察署から日本橋警察署へ転勤したという設定ですが、日本橋界隈という下町を舞台にした9つの短編がそれぞれ、「完結した人情推理もの」になっていながら、すべてが結末編へつながってゆくという構成が、実に見事というしかありません。 加賀刑事は独身で、30代半ばから30代後半という設定。初登場時は大学生でしたが、東野作品のプロフィール設定では卒業後に教師になったものの、ある出来事から「教師としては失格」と思って教師を辞め、父親と同じ警察官になりました。母親は蒸発しており、その原因が父親の多忙さにあると思っていて、父親とは仲はあまり良くありません。 警視庁では本庁捜査一課と練馬署(捜査一係)を往復した後、最新作の日本橋署へ異動します。国立大の社会学部の出身ですが、在学中は剣道部の部長(段位は六段)を務め全日本選手権で優勝したこともあるので、どちらかと言えば体育会系でしょうか。 警察官になってからは、どちらかと言えば協調性の少ない人間として描かれています。先輩や同僚と協力しながら事件を解決するというよりも、単独行動して事件解決の糸口をつかむのが加賀のやり方です。しかし、冷静沈着で、事件全体を見通せる能力はピカ一です。まぁ推理小説の主人公の刑事としてはよくあるパターンでしょう。 加賀は口数は少ないけれど、人情に厚い刑事です。犯罪者に対しても、優しさや思いやりを失いません。「新参者」では、ある事件の裁判で弁護側の情状証人として出廷したことが記され、そのせいで所轄の日本橋署に異動(左遷か?)となったとのことです。ちなみに加賀の趣味は、「新参者」の中では茶道とクラシックバレエ鑑賞となっていますが、小説の中では趣味に打ち込んでいる場面は出てきません(笑)。 残る「加賀シリーズ」は3作(「卒業」「眠りの森「どちらかが彼女を殺した」)ですが、全部すぐ読み終えてしまったらつまらないので、あわてずに挑もうと思います。現実の警察の世界では、加賀のようなキャラの刑事はなかなかいないでしょうが、そこはまぁ小説の世界だから許しましょう。東野さん、加賀刑事が日本橋界隈で活躍する「下町人情もの」の続編をぜひ書いてくださいなー。 ※本の表紙画像は基本的にAmazon上のものを引用しています。Amazon.Japanに感謝します。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2010/01/31
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すみませーん。今回はデジカメ写真が主役の日記です。お許しくださーい。25日(水)は「なにわの夏の風物詩」として有名な天神祭があり、100万人を超える見物客が大阪市中心部の大川沿いに集まりました。 2年前の日記でも一度ブログで書いたのですが、この日は毎年夕刻から、飾り船によるパレード「船渡御(ふなとぎょ)」や「奉納大花火大会」が開かれます(写真左=すみません。この写真だけは祭全体の雰囲気を知ってもらいための借り物でーす。(C )朝日新聞)。 一昨年、「うちのマンションのベランダから、ビールでも飲みながら一緒に花火を見ようよ」と誘われた友人から、今年また嬉しいお誘いを受けて、夕方からお邪魔してきました。 この友人宅で、美味しいビール&弁当をいただきながら見る花火は、もう最高のエンターテインメントです! 友人のマンションは、花火のメーン会場近くの桜宮というところにあります(写真右=この夜のベスト・ショットと僕が思う1枚)。 しかも高層マンションで、20階以上のフロア。ちょうど打ち上げ場の一つが川を挟んで反対側にあるというベスト・ポジションです。 何たる幸運! 2年前に初めて訪れた際も、僕だけでなく全員がそのド迫力に大感激しました。 天神祭の花火は、約5千発も打ち上げられるということです(関西ではPLの花火に次いで多いのかな?)。 一昨年もカメラを持ってでかけたのですが、準備不足もあって、写真は散々な結果でした。 今年はリベンジということで、事前にキヤノンIXY800の説明書もきちんと読んで行きました(写真左=「夜空で見たまま」を撮るというのはほんと難しい)。 キヤノンIXY800には「花火撮影モード」というのがあります。このモードにしておけば簡単に撮れるはずでした。 しかし、そうは問屋が卸しません。スロー・シャッターだから普通に撮れば手ぶれを起こします。 シャッターが4~5秒開放状態です。手ぶれを防ぐためには三脚が必要です。 もちろん三脚持参で行きました。三脚さえあって、スロー・シャッターなら何とかなるだろうと…。 しかし、三脚を目一杯伸ばした高さは約110cm。ベランダの手すりの高さは120cmくらい(写真右=この迫力が伝わればなぁ…)。 あー、ちょっと足りない。結局三脚を付けたままのカメラを手で持ち、ベランダの手すりにしっかり押しつけるような感じで…。 撮りました、撮りました。花火が上がるたびにシャッターを押した回数は、おそらくは200回以上。 「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」とはまさにこういうのを言うんでしょうね(笑)。 デジカメだから撮ってすぐに確認して、失敗だったらすぐ消去して…。そんな作業を繰り返しました。 で、最終的になんとか、少しましに撮れたのは約40枚弱。打率2割という感じです。プロのカメラマンはやはり尊敬します。 何と言っても難しいと思ったのは、シャッター・ボタンを押すタイミング。 打ち上げた瞬間か、打ち上がって花が開く直前か…(写真左=こんな芸術的な(?)写真も撮れました(笑))。 何回撮っても、その辺りのタイミングがよく分かりませんでした。やはり、デジカメとは言ってもコツをつかむまでには年季が要るんでしょうね。 でも2年前と比べたら、かなり上手く撮れたと思うんですが、どうでしょう? 久里風さん、ご要望とあって、1枚追加いたしましたよ。 この夜は、花火を見ながらシャンペン3本を開け、ビールも飲んで、友人の知り合いという割烹屋さんから特別のお弁当(写真右=なんと超有名タレントが大阪ミナミで経営する割烹屋さんと屋号がまったく同じ。でも別の店とか)も堪能しました。おかずが一杯で、旨かった! 素晴らしい花火と出会う機会と最高のひとときを与えてくれた友人夫妻に、改めて感謝でーす。本当に有難うございました!こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2007/07/27
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