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Dec 12, 2007
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カテゴリ: 劇評
現在形の批評 #73(舞台)

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金満里ソロ公演

11月23日 ソワレ 25日 マチネ ウイングフィールド


立ち上がらない身体


舞台上で行われていることに対して安寧とはしていられない、観る側の態度というものを大いに問うてくる作品群であった。それは観る前から半ば予測していたことではあった。舞台と客席が寸断され、観る・観られるという上位下達に意味内容を伝達する状況の改組が演劇における前衛運動の目論見の一つだとすれば、これらの作品は寸断をより誇張し固定する。だからこそと言ってよいか、舞台上で粛々と執り行われる異様なまでにせり出してくるただ事でない光景に、座って身動きできない状態のままどう過ごすかの問いかけ、つまり観客個々の注ぐ眼差しの深度を計られるような居心地の悪さを感じさせるのだ。舞台と観客の形式が決して前衛か否かを示すのではない。


『ウリ・オモニ』『月下咆哮』のソロ二作品連続上演を試みた金満里は、1983年旗揚げの身体障害者が創り・演じる劇団態変の主宰者である。金自身は「三歳でポリオに罹患、全身麻痺の重度障害者となる」(チラシ)とある。劇団の名前とその舞台形式は幾度も仄聞しながらも実際に態変の作品が未見である私は、大野一雄をオマージュしたソロ二作品によって初めてこの世界の一端に触れたわけであるが、障害者による表現はやはりまずある種の「異様なまでの光景」としか感受し得ず、その感覚が強すぎてどのように対峙すればいいか口をつぐまされる思いがした。なぜなら、衆目に晒されながら障害者が懸命に何かを表現することに対する驚きや、人間存在はすべからく平等で何人も自由に選択行動する権利を有する云々という卑近な一般倫理や道徳という同情心にややもすれば言説がすべて回収されてしまう恐れがあるからである。金の思惑は当然そういう次元にないのは明らかであり、事実舞台上での優雅で堂々たる様は、確実に一つの小宇宙を形成していた。その宇宙に観客はいかに介入していけるか。〈場〉に集う者の人間性を強烈に丸裸にする壮大な問いが発せられる時にこそ、演劇の肝があるはずである。


轟音と共に舞台奥の黒幕から首を出してやって来るシーンが始まりの『ウリ・オモニ』(監修・大野一雄、振付・大野慶人)。母親をテーマとしたこの作品は、冒頭シーンの生命の誕生から無邪気な子供の戯れ、性への目覚めから結婚を思わせる道筋が示すように、金の成長とそれに欠かせない母との関係を描く。『月下咆哮』(監修・大野慶人)では一転、胸に抱えた子供を気丈に守る母、滝廉太郎「荒城の月」をバックにした孤独で物悲しい咆哮の様に、気丈な女性の「強さ」が目立つ。とは言え、二作品の中でスタティックな優雅さとファナティックな強さのグラデーションが多彩な変化を付けて展開される。金が創生させる小宇宙とは、母、月、大野一雄といったものを全身で感受し交信しようとする身体の在り様のことであり、時折目に涙を流しながら執り行われる儀式にも似たその様に凝集する集中力には得も言われぬエモーションが含まれていた。


ではそれを実現しようとする身体とはどのようなものか。金の身体はまず立てない身体である。下半身が使えないため、多くの動きは腕による動き、寝た姿勢から転げての移動、腕の力のみで這いずるといった動きに制約されている。しかし、この身体には一考の余地があるように思われる。


人は立つことから全てが始まると言っていい。その上で発語し、他者と関係し文化・社会を綾なして経済を主導する知的営為を可能となる。食事・排泄行為という動物的な行動はその与件であり、それ自体を目的としている動物とは峻別した地点へ立とうとする。いわば立つことは人として生きる入り口であり、この前提を基底にしてはじめて豊かな主観であるアイデンティティを得るため様々な装飾を施す資格がある。この普段疑いもせず不断に続けられる一連の作業が人間にとっての「自然行為」なのである。


だが、金の身体はそのような規格から全くはずれ立たずに「這う」のである。立てない身体を立たせることもなく、そうであることを受け入れ、その身体である必然性を思考する。立つという我々にとっての自明が相当な事件であることを金の身体は批評する。舞台の上に立てば何かせずにはいられない俳優の悲しい自意識から解き放たれた極めて無垢で純粋な身体だからこそ、小宇宙を形成せしめる資格と余地を有することを示すのである。


マジョリティーの側の「自然」の身体から見れば、文字通りの障害を背負い「自然」行動が制限された身体は「不自由」と見なすが、金にとっては、その「不自然」こそが「自然」なのだ。そしてその「自然」はマジョリティーの「自然」が放つ視線から様々な意味内容を読み取り揺さぶられ、自己客体化と他者との関係性を意識せざるを得ない身体と成らしめるだろう。それはそのまま「舞台身体」の前提条件なのだ。倫理的道徳的感情へと見るものを回収してゆかず、健気で純粋無垢なそれ自体全てだと思わせる身体であったのは、立とうとする身体、すなわち無自覚な「自然」という自明裡に支配されたマジョリティーへの意識を微塵も持たず、その一歩手前に懸垂して獲得された「自然性」の発露が故なのである。





宮沢章夫は、余計な主観を排し純粋なる丸ごとの身体で舞台に「ただ立つ」身体から〈只構築〉する演劇を思考しようとした。まさしく金の身体はそのようなものだろう。宮沢に倣い私は「ただ立つ」よりも「ただ這う」という言葉を持ち出したい。「這う」=「HOW」である。


二人の黒子が座った姿勢の金を持ち上げ、運んでハケてゆく光景はやはり異様であった。





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Last updated  Dec 12, 2007 05:01:25 PM


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