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Dec 20, 2007
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カテゴリ: 劇評
現在形の批評 #74(舞台)

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桃園会

12月16日 マチネ 精華小劇場


奇妙さを成立させる距離の消失


幕開き、紀伊川淳の発語する姿を見て私は違和感を感じた。しっかりとした声の大きさが支える発声でもって舞台上での存在感を大いに示そうとするその身体にである。この舞台が不満だったのは、開始早々に抱いたこの違和感が終演まで解かれることがなかったからであり、その一点から敷衍された問題について以下記すことになるだろう。


紀伊川淳の身体の違和感とは、桃園会がこれまで創出してきた舞台空間にそぐわなかったのである。そして以前の強みから隔絶するかのようにそういった身体を舞台に上げた深津篤史の演出も同様である。確かに、声の大きさが持つ発語力の靭さが伴った上に空間に言葉が投げかけられることが、観客へ正確に意味を伝え、戯曲世界という物語を立体化させるための必要手段であり、役割であるとするならば、俳優の重要な仕事と役割を果たしていると言えるだろう。しかし、朗誦術を駆使させるテクストを野外空間に響き渡らせるギリシャ劇ならいざ知らず、極めて日常的な言葉で構成されたテクストを相手にするならば、微妙なニュアンスをそれに込めて発語することが要求される。いや、抵抗としての他者の書いた言葉を自らの身体に宿し肉化させる格闘の内に俳優の劇的プロセスが孕まれているのであれば、現代に生きる我々と全く異なる韻文の方が、日常の言葉を操る場合異なり明確な距離を取れる分だけ組しやすくなるだろう。桃園会の劇世界が大仰に言ってギリシャ悲劇と比肩するくらい壮大な印象を私に与えてきたのはひとえに言葉と身体、身体と空間の間に距離を持たせていたからに他ならなく、決して言葉が紡ぎ出す物語性だけに関心を寄せてきたわけではない。それこそがあの「静か」系のあらゆる作品郡とは異なり、人間存在の幾何学的な光彩を放って交錯する混沌とした欲求をあぶり出すにまで降り立ち、人間の表面的な立ち居振る舞いとの距離を生み出していたのである。しばしば桃園会について言及される「エロス」とはこの押し殺しきれない混沌がこぼれた出た時に漂う奇妙で且つ、空白感が支配する劇世界そのものものの謂いであり、観客にとっても、その空間に引き込まれざるを得ない内なる欲望を暴露し、言い知れぬ快感を与える侵犯性のことである。


四畳半的日常生活と宇宙空間が同時に存在する不安定で奇妙な劇空間を創出してきたことで侵犯性が生まれてきたはずだが、そのことに紀伊川はあまりにも無頓着で、しっかりと舞台に立つことだけに専念ていた。幾度か桃園会の劇評を書く度に指摘してきたことだが、額縁をわざと切り取るかのように赤糸が張られていることが一つの肝だと私は思っている。赤糸は、物理的に上下の舞台袖で取り付けられて張られていることは十分に知りつつも、それで形成されたプロセニアムから成る平面的な空間は小さな舞台空間を突き破ってどこまでも続いているかのような印象を与えると同時にそれを創る遠因となった糸もどこから来てどこまで続いているのか判然と出来ない生命力を持ったものに思えた。そしてその平面とは地球という球体の表面を剥がして広げたかのような永遠性を感得させる。奇妙で且つ、空白感な舞台空間とは、人間自身の距離ともう一つ、日常可視的に体験可能な平面的な世界と、遠大な地球内部の混沌という人間存在をすっかり覆い尽くしてしまう宇宙レベルの距離とが同時に存在することとパラレルなのであり、この2つでもってして極めて不安定な抽象空間を成り立たせてきた。この求心性がなければ観る者に侵犯性を付与することはないだろう。紀井川の身体に始まる不満は、今作での6本の糸が後景に追いやられてしまったために、プロセニアムを一片として始まる特異な空間生成が瓦解したことで、ただの四畳半的日常生活のみを懸命に追いかけて、物語世界に傾注しようとする人物でしかなかったからである。


戯曲世界は、空間を立ち上げる一要素に過ぎないのならば、そしてこの劇団における抽象とは要素の繋がり全体が放つものでありそこが肝だと私が考えているために、戯曲の内容のみが突出することには一向に興味を示さないし、理解することができなかった。沖縄の南の島と大阪のミナミ(難波)が掛詞となり、両方を舞台に錯綜する幻想物語、その繋がりを円形の舞台美術で可視的に表そうとする演出は、戯曲世界へ虚焦点が合わされている限り、これまでの広い世界の捉え方と比べて随分矮小的であざといと私は感じた。加えて2匹の犬、ジョン(橋元健司)とシロ(森川万里)の不可思議な登場人物の異物感がただ単に異形であるだけに留まっているのもそういったことに関連しているだろう。昨年の『もういいよ』で、江口恵美がザリガニのきぐるみを着た時のおかしさはあくまでも全体性が放つ奇妙な空間に溶け込んだ一種の自然な異形であったのだ。


では、単なる「静か」系舞台から隔絶した地点に桃園会を引き上げたその持ち味の奇妙な空間が雲散霧消してしまった原因とは何だろうか。それは闇への対峙の仕方にあるのではないか。桃園会の舞台空間である四畳半的日常生活と宇宙空間の同時存在とは、黒い舞台背景と切り離して語ることはできない。あらゆるものを吸収してしまうという果てしない聖性としての黒い闇、その中にぽつんと日常の属性に拠った具象的設定が入り込むからこそ不安定な抽象空間が出来する。日常生活で様々目にする空間に立つ場合には、作品世界をより具体的にする背景装置は、そこに立つ身体のリアリティを引き立てることになるのだろうが、闇とはそれ自体強く主張するものであるため単なる黒い素舞台の背景として処理することは不可能なのだ。加えて前述したように、これまでの作品には見られなかった舞台美術自体が抽象的になったことで俳優は戯曲の文体のより良い立体化のみに向かった。全ては、闇を含めた抽象の中で己が身体という具象をくっきりと存在させようとする二項対立、この闇を敵対するものという意識の下、あの声の大きさと靭い発語が現れてしまったのではないだろうか。


演劇を含めたパフォーマンスとはこれを構成する各要素が単独でそれのみが傑出することなく、反発し合うことも含め全体で一つの世界が形成されねばならない。この作品の場合では、戯曲文体が描き出す人間存在の根源的欲求を抉り出す書き言葉を操る俳優と、闇との共通項を探られねばならなかったはずだ。なぜならば、闇=宇宙という混沌さは、人間に恐怖を与える意味で対立するものであるが、と同時に人間の隠された一部でもあるからである。人間と闇の対立が生み出す即時的な距離を一歩も二歩も踏み込み、懸垂してゆく先でシンクロする一点にたどり着いたときにこそ奇妙な全体性が創生されるはずだ。それは俳優が舞台に立つ根拠をも示している。


抽象に抽象が覆う空間である今回の公演が示すのは、桃園会のこれまでの成果が闇という存在への思慮を欠くことのできないものだったということの逆証である。





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Last updated  Dec 20, 2007 01:27:34 PM


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