三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本 0
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九月一日、関東大震災が発生した。そのため関東各地の一三四ケ所から火災が発生し、十四万人にも及ぶ死者行方不明者と、三〇〇万人もの負傷者を出したのである。被害は調査が進むにつれ、さらに拡大する様相であった。福島県原町の無線塔から世界に向けて発せられたこの第一報は、日布時事の編集局を大混乱に導いた。同業英字紙からも電話で知らせを受けたが、はじめは電文が簡単でさっぱり要領を得なかった。ところが第二報、第三報と情報を接受するに及んでその被害の大きさに驚き、東京全滅の号外を出す騒ぎとなった。日本人たちは、その号外に群がった。 二日、山本権兵衛内閣(地震内閣)が成立。直ちに政府は、「食糧の準備に最善の努力をしている」との声明を発表した。駐日アメリカ大使・サイラス・ウッズは、大使館の建物が倒壊した上その後の火災で全焼していたが、帝国ホテルに臨時の大使館を開設してその日のうちに帝国政府に出頭、対日援助を申し入れた。「アメリカは、日本を救助する名誉を求めている」 ウッズは、詳細な地震情報を本国へ打電し、食糧援助を要請した。排日運動とは無関係に、アメリカは日本への援助をはじめたのである。クーリジ大統領が援助実行の陣頭指揮に立って、次々と必要な指令を発していた。 1 中国駐留のアメリカ艦隊に、日本へ救援物資を積んで出航す るよう命令。 2 フィリピン駐留のアメリカ陸軍に、救援物資に加えて医師や 看護婦の派遣を命令。 3 太平洋航路の民間船に対して一ケ月のキャセルを命じ、運搬 船を確保。 4 義援金募集の大キャンペーン(Japan need you)を実施し、 二五〇〇万ドル、(現在のカネで六六〇億円)を集めた。 東京では三日未明まで関東大地震による火災が続いていた。そして四日目の五日には、救援物資を積んだアメリカ駆逐艦七隻が、中国より東京湾へ入港したのである。 ウッズは援助に際して日本の立場や考え方を尊重し、この時期の日米間の緊張をこれ以上高めないように努力していた。そのために、「アメリカは、日本をパートナーとして援助する」と伝えていた。しかしウッズの善意にかかわらず、アメリカ政府の意志としては、「この援助を通じてアメリカの国力を見せつけ、日米間の緊張を緩和する」ということにあった。政府が表面に出るということは、それだけでも必ず政治的な意味合いを持つということであったのである。 これに対し日本側は、救援物資を積んで到着したアメリカ軍艦を、駆逐艦二隻で執拗に追跡し監視した。救援を名目に、軍事施設の偵察されるのを恐れていた。東京湾には日本の軍事拠点が並んでいた。そのため日本はすべての外国船の自由航行を禁止し、その入港を横浜に限ったのである。 この日以降、世界三十ケ国の救援船が続々来航した。 突如、共産主義革命間もない、しかも国交もなかったソ連の救援船レーニン号が、東京湾に姿をあらわした。日本の共産革命の好機と見たソ連は、船名をレーニン号と変えて送り込んで来たのである。しかも「救援物資は労働者階級のみに配布せよ」との命令を受けていることを知った政府は、これの退去を命じた。ここでも互いの政治的確執が、見え隠れしていた。 十八日、フィリピンからアメリカの医療団が上陸し、テント張りの病院を開設した。これらアメリカの迅速かつ効果的な援助は日本人を大いに感激させていたが、日本軍部の一部は援助に感謝することよる親米化を恐れていた。 ホノルルのアエラ公園でも、被災者救援の在留民大会が開かれた。弁士は山崎総領事と富造であった。富造の演説も前半は非常に熱のある名演説であったが、段々おしまいの方が怪しくなり、はては十八番の鶏の鳴き声まで飛び出し、羽ばたきまでやってのけた。はたせるかな翌日の朝刊で、「場所柄を知らざるもの」と非難された。いずれにしても日系人を中心に、大きな救援運動に発展した。 新聞には、次のような記事が載った。 布哇に於ける 義捐金募集運動 母国震災救援會の活動 関東震災の飛電達するや總領事山崎馨一氏の発意にて九月三日 午後五時總領事館に開かれたホノルヽ各団体の代表者會にて母国 震災救援會の組織さるヽや同會の義金募集の締切り日二十五日迄 三週間の間常務委員、地方委員、各島支部委員及これを応援する 各種団体員は挙げて啻一途に飢偈困憊の罹災民救助の念に焔へ不 眠不休とも云ふべき大活動を続け布哇島の大部分を除くオアフ、 マウイ、カワイの各島同胞から三十三萬八千弗の義金と壱百六十 七噸の救恤品を募集す。 救援美談 涙の出るやうな三弗の義捐金、濱本ツヤ女の赤誠 募集委員は語る私は今迄随分各種の寄附金募集運動に干輿しま したが此度のやうに気持ちの良い事はありません一館府へ行けば 悦んで而も頭を下げて皆持って来て呉れるので真實涙の出る程嬉 しい思をしましたわけで七十の坂を越江た寄る邊なき孤獨の 濱本ツヤと云う寡婦が私も日本人ですと三弗投げ出した健気な振 舞は震災義捐金募集美談中の美談でせふ。 生気の溢る義捐金 馬哇島カナバク大村彌平氏の義心 永年馬哇島カナバクに在住する大村彌平氏は募集委員に對し母 國震災に深甚の同情を表し尚國家に奉公するは此時なりと赤誠を 披瀝し八月分の労銀勘定袋の未だ開封せざる其儘を差出した。委 員は同人の面前で開封したが五十六弗八十五仙入って居った。委 員は此美擧には感泣したと云う事である。(ホノルル第7埠頭に運び込まれた義捐物資第2船の一部・ハワイ ジャパニーズセンター所蔵) アメリカは一九一〇年の国勢調査を基準として、出生国別に外国生まれのアメリカ人の比率を出し、その三%を国別の移民とする割当移民法を実施した。アジアからの移民の制限が目的であった。 一九二四(大正十三)年、アメリカはさらに移民の絶対数を十五万に制限し、一八九○年当時の移民実績をもって各国への割当て基準とした。その結果、イギリス系をはじめ北欧系には有利になったが、南欧、東欧諸国系を含むその他の外国人の入国許可率を三%から二%に引き下げた。さらにその法律は、合衆国市民になることのできない外国人の入国を禁止するとしたため、日本、中国人などアジア系の移民は全面禁止となってしまった。それゆえこの移民法は俗に排日移民法と呼ばれ、排日運動の頂点となった。 これに抗議したウッズは、駐日大使を辞任した。関東大震災に対するウッズの善意は、アメリカ国内でついに生かされることがなかったのである。 この排日移民法が実施されたため、呼び寄せ妻の入国も禁止された。この最後の船が入港した際、富造は感無量となった。花嫁たちを船のデッキに並ばせると自分が音頭をとって花嫁万歳を三唱したのである。これを見た船舶記者が感動し、「海燕ために驚く」と書いた。日本からの移民は全面禁止となった。 富造は移民局での仕事を失い、しかも六十歳になったのを機に移民局をリタイアーして本業の獣医に戻ったが、すでに馬は少なくなり、自動車の時代になっていた。 (富造の獣医の看板 トーマス・カツヌマ氏所蔵) ここでアメリカの海軍が大演習やって、のォ。日本と・・・あ の頃は、とてもなく日本人を排斥しよったんだから。日本人を〔ア メリカやハワイに移民で〕入れなくしちまった、あの時よ。ここ で、ハワイの近海で大演習したですよ。ハーッ、こいつらもう、 ラハイナ沖からこっちまで、軍艦が、いっぱい! よく見えまし たでェ、わしらんとこからァ。一九二五年でした。 (ハワイ日本人移民史) 排日気運の強いこの時期は、移民たちが帰国か土着かを命題にして慎重にわが身の振り方や子孫の行く末に対して考究し、家業や職業についても検討、さらに日本にある親類縁者や財産の整理などについて、とっくり考慮を払わなければならなくなっていた。特に一世には帰化不能人種という烙印を押されてしまったし、一世から二世への世代交代の時期にもなっていたからである。 アメリカに於ける反日感情に対応するかのように、日本に於いても高まる反米感情に抗し得ず、東京の末日聖徒イエス・キリスト教会日本伝道部が閉鎖された。そのため大量の日本語による出版物が回収されてホノルルに送られてきた。このことは日本人対象の伝道の助けとなり、在ハワイ日本伝道部の再開に利用された。この日本伝道部再開の最初の日曜日に、富造、奈知江常、池上吉太郎らが求道者集会に出席した。「神よ。罪深きわれらを憐れみたまえ」 ペレタニア街末日聖徒イエス・キリスト教会ワイキキ側礼拝堂で、大勢の日本人の、敬虔な祈りが捧げられていた。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.06.13
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アメリカ政府が少数の出兵といい、日本に七千人と注文をつけたはずの出兵の要請は、無慮、七万三〇〇〇の大軍となってシベリアの大地に送りこまれていた。アメリカの援助なしには軍隊を動かすことは出来ないと言い続けたのはどこ国であったかと、世界が唖然とするような日本の態度の変化であった。日本軍をはじめ干渉軍はシベリア各地に存在した多くの反革命政権に梃子入れしたが、その多くは一九二〇年までには失敗した。この状況と干渉戦争批判の声に押されてイギリス、フランスは派兵中止の方針を明らかにし、次いでアメリカもこれにならい、一九二〇年一月九日出兵打切りの方針を日本に通告した。 ところがボリシェビキに恐怖心を持っていた日本は、「居留民の生命財産の安全が保証されず、過激派の勢力が朝鮮・満州に波及するおそれがある」として出兵目的を変更し、なおもシベリアに居座りつづけた。一九二〇年四月には、革命軍武装解除戦と呼ばれる作戦行動により、ロシアの革命派指導部と朝鮮独立運動とに大弾圧を加えていた。 五月、シベリアのニコライエフスクで、日本人の虐殺事件が起きた。撤兵をしない日本にロシアのパルチザン側が反撥して日本守備隊及び居留民約七〇〇名を襲撃、殺害したこの事件は尼港事件と呼ばれ、これを理由に日本は北樺太の保障占領を敢行、日本側による反露運動の象徴となった。そして九月、目的であったチェコ軍が全員ヨーロッパに引き上げを完了したことに伴い、ついに最後まで居残っていた日本軍は、財政的困難もあって為すところなくシベリアから引き揚げたのである。(監獄の壁に書かれた尼港事件犠牲者の遺書「大正9年5月24日午後12時忘ルナ」Wikipediaより) このような中で、末日聖徒イエス・キリスト教会は、着実にその教会員数を増やしていた。排日の嵐の中で精神的救いを求めていたのであろう、日系人の数は一万一〇〇〇人以上となっていた。 そして人々は、映画に娯楽を求めていた。 日本の映画は、東洋劇場、国際劇場、ホノルル座、日本劇場な どでやっていました。私たちの場合、アメリカン・ムービーより も日本の映画がとても好きでした。もう土曜、日曜っていうと、 子供たちがラインナップ(行列)するの。子供は十セン(10 cents) で、何歳からか上は二十五センになっていました。それでグルー プの中で一番若く見えるのに買わせてね。十センで入ったのよ。 いろいろな映画を見ました。里見八犬伝、まぼろし城、丹下左膳、 水戸黄門、四十七士・・・。(ハワイ日本人移民史) しかし移民たちは、日本文化ばかりでなくアメリカ文化の影響も受けていた。クリスマスにはクリスマス・プログラムがあり、劇をしたりクリスマスキャロルもやっていた。しかし日本人社会は完全にアメリカ化することを望まず、日本の文化を大切に培っていた。つまり心の深奥では、日本人であることに強い誇りを感じていたのである。そしてそのことがまた、排日の一つの理由となっていた。 その年の暮れ、姉の縫が三春で死去した。丁度七十歳であった。 ││姉さん。考えてみたら、俺も五十八歳になっていたよ。もうすぐ還暦だ。 一九二一(大正十)年三月二十六日にホノルル市ワイキキ海岸の塩湯において有志の主催による草分け同胞の親睦会が開催された。「この時の模様を勝沼富造氏は、元年者およびその子孫に会って深い感動と様々な教訓を得たと、次のように述べている。 三月二十六日ホノルル市ワイキキ塩湯の勇公(東京人)方に於 て、草分け同胞の親睦会を催しました。馬哇島キバフル耕地耕地 の石井仙太郎翁(八九)加哇島リフエ耕地の佐久間米吉翁(八二) ホノルルの谷川(棚川)半蔵翁(八二)同棚田(吉田)勝三郎翁 (七六)の四氏、及び其の子孫などに面会し、深き感銘と色々の 教訓を得ました。再び、かかる会合に出会うことは、六カ敷いこ とと考えています」 (「甘藷のしぼり滓」より) この年の暮れ、ワシントン会議が開かれた。この結果、米英日仏伊中ベルギー、オランダ、ポルトガルの間で次のような九ケ國条約が調印された。 1 海軍軍縮問題(米五、英五、日三、仏一,六七、伊一、六七) 航空母艦の制限、無限潜水艦戦、毒ガス不使用 2 中国に於ける機会均等、中国領土の保全 3 米英日仏による太平洋の現状維持の四カ国条約 この第2項により、日本が日露戦争やシベリア干渉戦中に目指した中国に於ける独占的地位は、否定されてしまった。 一九二二(大正十一)年、世界に恐れられていたソビエト社会主義連邦共和国が、ついに成立した。そして十一月、あの小沢試訴は連邦最高裁判決において、人種を理由として一世の日本人はアメリカに帰化する権利を否定された。どう言った理由であれ、日本人一世の市民権の取得は拒否されたのである。ホノルルの連邦地裁に申請後、すでに八年も経過していた。「こんなに排斥されるのであれば、日本人はアメリカに同化せず、日本人のままであった方がよいのではないか?」 こんな考え方も、提示されるようになってきていた。富造にしても、この結果には強く反感を覚えていた。 このような排日論とそれに対抗する愛国ムードとの高まりの中で、日本語学校存続の行く末を案じた日本人関係者たちは、十二月、バラマ日本語学校を先頭に日本語学校数校が政府に陳情書を提出し、ついに憲法違反の理由で政府を訴えるにいたった。この裁判という手段を支持する訴訟派は、翌年四月、一四四校中八八校にのぼった。アメリカ側が強力に差別し圧迫するほど日本人としての意識を強くし、本国に頼る気持ちも高まる人も多くなっていった。しかしこの裁判は、たとえ法的に勝利したとしてもアメリカ人の疑心はむしろ増大するのではないかと心配する反訴訟派と対立し、感情的な醜い闘争と化していた。日本人の子どもでも、貧困や離婚、その他の理由で、中国やフィリピンなど外国人の養子となるのも多く、それなりの問題もあったのである。 その一方では、明治三十八(一九〇五)年に日本で末日聖徒イエス・キリスト教会のバブテスマを受けていた奈知江常は、日本人への布教を目的として、七十歳でハワイに渡ってきた。この奈知江常を中心として、ジェーン・ハンキンスやエリザベス・ハイドの努力で布教力が強化された。七十歳という老齢にも拘わらず、新たな布教に努力する奈知江常の姿に、同じ年で亡くなった姉の姿を重ね合わせて富造は強い感銘を受けていた。なお奈知江常については、一八五六年生まれ、一九〇五年末日聖徒イエス・キリスト教会でバブテスマを受けたこと以外の詳細は不明である。 一九二三(大正十二)年、オクラホマ州で第二次KKKの運動が全盛を極め。黒人差別が強まっていた。そしてそれに応ずるかのように、日本人には土地を譲らないという土地法を提訴したが敗訴、日本人への締め付けは更に強まっていた。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.06.12
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排日という日本人社会全体への圧力が顕著になるにつれ、奥村牧師らの社会的活動も拡大して日系人社会全体を対象とするようになった。同化・アメリカ化運動は一九一九年から二一年頃をピークに、一九二○年代を通じて行われた運動であるが、生活改善運動とも呼ばれるほど生活の隅々にいたる細かな点までが対象となった。例えば、新渡来の花嫁が激増し、簡易な単衣ものや浴衣に類する簡単な服装がふえて人前で胸もあらわに嬰児に授乳する姿や、浴衣に三尺帯をしめ腕まくりした下駄ばきの男子が町を歩く姿が他の民族の注目をあびていたことから、服装改善運動がはじまった。運動委員が青年会や日本語学校、劇場で講演会を催すのみでなく、街角に立ってメガホンを持ち、通行人にいちいち注意を与えるといった日々が三か月ほど続いた。これにより以後、日本婦人の服装は特別の催しを除いていっさい洋装となり、授乳などでのしどけない着方は影を潜めるにいたった。このほかにも虚礼廃止、節約と貯金の奨励、英語習得の奨励、日本国籍離脱の奨励といった運動が展開された。 この年の十一月に提出された日本語学校取締法案がハワイ臨時議会で可決、制定(一九二一年七月から実施)され、教員や教科書の許可制をはじめとして日本語学校をハワイ領土教育局の統制下において管理されることになった。日本人移民が子供たちの教育のために協力して運営していたハワイの日本語学校であったが、アメリカという国家に愛国的ではないと批判する当局や白人リーダーによる日本語学校弾圧の要求は弱まることなく、その後もさらに政府当局側の介入を強める取締法が次々に制定、実施された。このような対立の潮流は、すでに以前から存在していた。一九一○年頃から日本語学校に対する白人系住民側からの批判が強まりはじめて以降、ハワイの日本人教育界は、奥村多喜衛牧師が創立した日本人小学校の後身である中央学院と今村恵猛の開設した本願寺小学校、ハワイ中学校の対立に象徴されるように、日本人(日本語)学校が二派に分かれて対立する傾向があった。子弟の教育をめぐって、ことにハワイがアメリカ化を強いられた過程で仏教派とキリスト教派の対立が鮮明になっていった。また同化派は、日本語学校のアメリカ化の必要性も認めていた。 (ホノルルの旧日本人学校) 同化派運動の中心的指導者であった奥村多喜衛牧師は、日本人移民社会の片隅に出来た酒と悪魔の醜窟を撲滅する目的で矯風事業を開始した。この種類の運動は、美山貫一牧師や安藤太郎総領事が試みた経緯もあったが闇の社会は根強く生き残り、むしろ勢力を拡大していた。川沿いのバウアヒ通りとマウナケア通りを中心とするホノルルの一角には、人呼んで魔窟という無頼の徒のたまり場があり、酒と女の声が満ち満ちていた。紅灯は夜通しあかあかと点もり、みだらな唄、三味線の音、罵声などが絶えることなく、騒鳴が遠近に反響した日々が続いていた。心ある日系人は、このような街を日本人社会の恥と捕らえていた。 一九一三年の外国人土地法を強化する排日土地法がカルフォルニア州民の一般投票により実施された。その結果日本人は土地所有権のみならず借地権さえ認められず土地を自分の子供のアメリカ市民(二世)の名義にしようとしても不動産の後見や財産管理の権利も認められなくなった。また写真花嫁への旅券発給も中止された。 私は四年前、写真結婚のためホノルルに着きましたが、トラホ ームのため強制送還されてしまいました。故国に帰って再渡航の 準備をしていたところ、夫から、『いま大ストライキ中であるか ら見合わせるように』と言ってきました。しばらくして落ち着い たようなので、再渡航をしてきました。移民局から連絡したとこ ろ、まだ見ぬ夫は日本に迎えに行き、太平洋で行き違いになった ことが分かりました。本来なら引受人が明確でないので、強制送 還なのですが、八方手をつくし、上陸の許可を得ることが出来ま した。(ハワイ日本人移民史) 移民局で富造らは、最大限の努力をしていた。 このようなカルフォルニア州の状勢は、すぐハワイにも波及した。ハワイ人住宅委託法が制定されたのである。これはハワイ併合時に、旧ハワイ共和国がアメリカ側に割譲した土地のうちおよそ十%をハワイ人に保留するというものであった。日本人はこの法律の適用を受けられず、致命的な打撃を受けることとなってしまった。 当時マングースが、砂糖黍を害する鼠の駆除を目的にジャマイカから輸入されていたが、その繁殖力が強く害獣とされて駆除されるようになった。そのため、日本人は多産系であるとのことでマングースに例えられた。そのためもあってアメリカの諜報機関は、ハワイ防衛のため農園経営者らの協力を得て、日系人に対する秘密調査を行っていた。軍当局は日本人の脅威を封じ込め、日本化を根絶し、白人文化の優位を維持し、旧ハワイ王朝の復活を阻止しようとしていた。 ところでハワイ人がハワイの指導者になることを夢見てハワイに戻っていたクヒオ王子は、中央集権的制度の改革、ハワイ人に地方(離島)自治を委ねること、そしてハワイ人住宅委託法の改革に力を注いでいたが、すでにハワイは一九〇〇年の基本法により知事任命制となっており、白人でない王子が知事になれることはなかった。間もなく王子は、失望のうちに心臓病のためワイキキの自宅で亡くなった。このとき富造は故クヒオ王子の霊棺通夜の守衛二十名とともにカワイハオ寺院に行き、三十分の交代をした。「誠に名誉なことであった」 富造は、そう語っていた。 カルフォルニア州のターロックで多数の白人が夜中に日本人農業労務者を襲い、武器を突きつけて数台のトラックに乗せて市外に運び出し、二度と戻ってくるなと脅迫する事件が発生した。この事件は裁判にかけられたが、被告となった白人たちは結局全員無罪となった。同じような事件が、カルフォルニア、オレゴン、アリゾナ州の一部でも起きていた。「何故、日本人は疎まれるのか? ストライキが何故反米とみなされるのか?」 日系人たちは、そこのところが理解できないでいた。しかし日系人たちは、いつも外国人を意識することなくやっている御真影や演壇の後ろに掲げられた日の丸への最敬礼、さらには祝日に行われる宮城遥拝、これらのことがアメリカ人に疑心暗鬼を与えていることに気付かなかった。その疑心暗鬼が、異質なものの排除や差別につながる一因であったのである。 日本は国際連盟に正式に加入し、常任理事国に就任した。このことは日系人に強い自信を培ったが、それは独りよがりに過ぎなかった。排日の嵐が、止まることがなかったのである。ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.06.11
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一九二○(大正九)年一月、バーマー司法長官の命令で、全米各地で共産主義者と目される二七○○名にものぽる人々(大半がアメリカ市民であった)が一斉に検挙された。それは共産主義に限らず、異質なイデオロギーを排除しようとしたものであった。排日主義者たちは単にプロテスタントの伝統という立場からだけではなく、日系人は東京の天皇に第一の忠誠をささげる者という具合に、天皇が排斥運動の思想的枠組みに利用されたのである。 ハワイにおいての同化派の日本人キリスト教系の指導者は、農園経営者が教会に非常に協力的であることを理由に、都市に多い日本人労務者のストライキに反対していた。そのためストライキに参加して農園から追い出された日本人労務者に食料や避難所を提供したのは、仏教寺院であった。奥村多喜衛牧師は、ストライキをする労務者が敷会施設を利用することを許可しなかった。それには奥村ら日本人キリスト教指導者の要請もあって、白人砂糖キビ農園経営者や渋沢栄一などの日本の有力者が、アメリカの同化運動の支援や資金協力を行っていたこともあった。 このような運動の中で、日本人労働連盟会は第二次オアフ島大ストライキに突入した。しかし今回は、日本人のみで組織した第一次ストの失敗の経験からフィリピン人と共同戦線を張った。オアフの日本人労務者の種々の要求、なかんずく従来の彼らが受けていた一日七十七セントの最低賃金を一ドル二十五セントに上げること、一日八時間労働にすることという二つの要求をひっさげていた。 すると早速ホノルルのスター・プレテン紙は、「ハワイの産業界の支配権はアングロサクソンの手にとどまるか、それとも外国人たる日本人煽動者に移らんとするか?」「真実の成りゆきを見失ってはいけない。ハワイはアメリカのものとして残るか、日本のものとなるかだ」「日本人煽動者の傲慢なる野心に対し、何事にもあれ徹底的に抗争し、擁護しようとしないアメリカ市民は、アメリカの民衆に対する裏切者である」との報道をした。 スター・プレテン紙が、この煽動者というあくどい言葉を繰り返し使用したことは、排日の気運の高揚に異常な成功を収めた。耕主組合側はこのストライキを、危険分子の煽動による人種的な糖業乗っ取り運動であると断定し、ハワイの日本人労働団体を破壊して糖業の安寧を期することを目的とする、という見解を持っていた。そのため耕主組合側はきわめて頑強にストライキに対抗し、一切の妥協を断固として排撃した。そのためこの人種を超えた共闘も一枚岩になるに至らず、またも失敗に追い込まれた。 アメリカ側は、「外国人である日本人が狙っているのは、ハワイにいる耕地労働者の全部を、人種にかかわらず日本人が支配することにある。もし日本人が支配力を持ったら、彼らはハワイの運命を決める絶対的支配者となろう。ハワイの産業の支配権はアングロサクソンが持つべきであって、外国人たる日本人に渡すべきでない」と主張していた。このストライキは日本人のアメリカ社会に対する反抗であり、ハワイを日本化する企てである、と写っていた。「そんなことはない。これは単なる人種差別からきた論法だ」 富造は白人にそう言って抗議した。「なに? 人種差別だって? われわれはそんなことを考えもしない。そんなダーティな話題にこだわるな。現に君ともフランクに付き合っているではないか」「フランクだって? それは俺もそう思う。ありがたいとも思う。しかし俺は付き合い方を言っているのではない。そういうこととは違うんだ。差別する君たちは単に自分の意見を言うだけの積もりであろうが、それだけに被差別のわれわれの側は心の奥底までこたえるんだ。こういう問題では、差別される側の意見を先に聞いてもらいたい。そこから話し合いがはじまるのではないか?」 富造は、人種差別の根の深さを思い知らされていた。 六月三十日の深夜に、ハワイ島オーラアの坂巻銃三郎宅を、ダイナマイトで爆破するというまったく予想もしなかった惨事が突発した。しかしこの事件による被害は、階下の床を破っただけで二階に就寝中の一家は無事であった。阪巻は通訳を業とし、クリスチャンであった。しかもストライキの反対者であったため、これは日本人労働連盟の策謀によるものと判断された。 この事件の直後、事態は急変した。すなわち当時の曹洞宗別院監督の磯部峯仙による斡旋と調停の名目の下に、労使双方の代表者がヤング・ホテルで会談したのである。しかし耕主側の態度は強硬で、結局、労働側が耕主組合の誠意を認めるということのみで、遂にうやむやのうちに七月一日ストライキは終了した。この坂巻宅爆破事件は、労務者側が暴動事件を起こすことなく、純然たる労働運動として正当・公平にストライキを続けていただけに、大きな不利益をもたらすこととなった。 一方、労務者の待遇改善については、スト直後みるべきものはなかったが、要求の一部は徐々に改善され、耕主側に反省と認識を深めさせたことは大きな収穫であった。またこのストライキは日本人労務者自身の反省を誘い、時局の認識と知性の向上を実現させ、他産業へ進出する起点を与えたことなどは無形の収穫とみるべきであろう。 この大ストライキに対する白人側の見解の一つとして、パーカーの著書から引用する。「日本人はハワイの労働、産業、さらに進んではハワイの政治的運命の絶対的支配権を握らんとして躍起になっている」 この第二次オアフ島耕地大ストライキと先の第一次オアフ島大ストライキは、日本人学校試訴事件に次ぐ日本人のハワイ発展史上の二大事件であったが、大きな目て見ればハワイ労働界の向上と進歩を目標とする人種を超越した運動であり、生活改善思想に根ざした草の根運動でもあった。ただ第二次オアフ島耕地ストライキにおいては、耕主組合の性格と組織についての研究と認識、他人種、ことに白人側に対する事前の研究に、いささか欠けるところがあったのである。そのために数をたのみにするような群衆心理や、一部幹部の人格と適正の欠如や、幹部間相互の感情的対立、資金乱用行為など、内部的問題と一部の信用失墜が、ストライキの失敗に拍車をかけるに至ったのである。 結局これを一つの転機として(第一次ストライキの直後もそうであったが)、農業からの日本人労務者の転業が増加し、都会集中による他産業の発展が著しくなった。また一方、甘蔗耕地に復業した者は従来見られた一種の移り気をなくし、じっくりと腰を落ちつけて精進・努力し、一層個々の実力を養う気風が見えた。そして多くの者は熟練者として信用を高め、同時に地位と収入も上ってきたのである。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.06.09
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排 日 の 嵐 アメリカ本土ではまたも排日運動が盛んとなっていた。We donユt want any JAPS Back here EVER(日本人は二度と来るな!)JAPS Keep Moving This is a white manユs neighborhood(ここは白人の住処だ。日本人は出ていけ!) そんな垂れ幕が、町中に溢れていた。排日運動の事態はさらに悪化し、カルフォルニア州では日朝人排斥協会が組織され大会を開いて日本人排斥を決議した。日本人の種々の運動のすべてを共産主義と結びつけて考えたアメリカ人の警戒心は、ハワイにも飛び火した。しかしこれはハワイだけの間題ではなかった。これは全米の風潮であり、また共産主義を警戒するのは、日本も含めて世界的な風潮であった。しかしハワイの日本人の運動を共産主義者の破壌活動と連想したハワイの白人支配層の一部は、このような陰謀説的認識では納まらず、日系人は天皇を神とする大日本帝国の指令で動いている、という疑惑に集約されていった。 この世論に押されて国会の批准を得られなかったウッドロウ・ウィルソン大統領は、人種差別反対の日本案に賛成することができなくなってしまった。結局アメリカは国際連盟の設立に力を注ぎながら、参加することがなかったのである。 ドイツの旧植民地は、国際連盟が預託するという名目で、実質は大国への委任統治という形でその権益を割譲した。日本は旧ドイツ領の山東半島と南洋諸島を手に入れた。しかし中国は山東半島の返還を日本に強く要求し、両国はこれを巡って紛糾していた。 富造の主催していた婦人会でも、いろいろな話が出ていた。「毎年のように日本から軍艦が来て水兵さんたちが来るでしょ。そうすると子どもたちが日本語学校に行きませんでね、すぐ軍艦を見に行ってしまうのだそうですよ」「見に行くだけならいいのですが、水兵さんたちと一緒に腕を組んで町を歩いたりしていましてね。私、学校に言いつけましたわよ」「まぁー、それでは子どもたちも、先生に叱られたでしょうねぇ]「でもあの遠洋航海に多くの士官候補生が来ますからね。それはそれで子どもたちには魅力的だったのでしょう」「子どもたちに云わせると、学校の友だちで行きたい人が集まって一緒に行ったらしいですよ。日本語の稽古にもなるとか申しましてね」「あらら、それを言われますと困りますわね」 富造が言った。「奥さん方、水兵たちと交際してもなにも心配はいりません。わが帝国海軍の軍人に限って、妙なことは起こしませんから・・・」「あらまあ、さすがに馬笑庵先生は、日本男子らしいことをおっしゃいますわね」 このようなアメリカや中国の排日ムードの中で、第一次世界大戦後の不況がハワイにも押し寄せていた。生産の合理化、機械化も手伝って、失業者はアメリカ本国で年間二〇〇〇万人とも言われた。ここに、移民の数を制限し、その質を統制しようという動きが再び出てきたのである。 第一次オアフ島大ストライキ以後、ハワイの日本人耕地労務者の多くは、より多くの収入を求めて町に出るようになった。フィリピンからの移民がその穴を埋めていたが、日本人もフィリピン人も満足出来るような待遇にはなっていなかった。日本人の二世たちは、青年会を作り、それが日本人労働連盟会に発展していった。 カルフォルニア州で、動物の子を貰うようだと言って、写真花嫁の反対運動が起きていた。富造もその著書・甘蔗のしぼり滓の中に、次のような一文を載せて反論を加えている。 米大陸でも、ハワイでも、日本人が、数度、手紙を交換した上、 本国より、妻女を呼び寄せるのを、普通、写真結婚(ピクチャー ブライド)なる名称をつけましたが、之は、聊か軽侮の意味があ ることで、私は、いつも写真結婚云々を耳にすれば、不快の念を 起こします。素より、双方に媒介者があって、本人等の身元、性 質、容貌等、細微の点に至るまで、相互の調査を済ますわけです から、決して、写真ばかりで、結婚の契約が、成立するものでは ありません。尤も欧米にも、代理結婚(クロキシーマリッジ)と 申すこともありますが、日本の如く、仲立ち、又は、仲人のみを 信頼して、一生涯の、わが妻や、夫を、定むる国柄は、他に多く はありますまい。 富造は、ハワイ報知新聞の攻撃を受けていた。 勝沼富造という元獣医が通訳官として移民局内で権勢をふるっ ていたし、先の数珠つなぎ結婚(写真花嫁の集団結婚式)司式の 本川源之助などもしげしげと移民局に出入りしていたのだが、こ の人たちは、移民局の日本人、殊に日本婦人の取り扱いについて、 あるいはその改善についてはほとんど見るべき努力をしていない ことに驚かされる。勝沼や本川などは、日本でどんな家庭で成人 したのであろうか? 日本の農村などでその頃行われていた結婚 の形式などに対する知識の断片さえ持ち合わせていなかったので あろうか? また、当時の在ハワイの日本人男性の置かれた立場 に対する理解なども全く示されていない。 この記事を見て、ミネが悔しがっていた。「まあ、そう気にするな。こちらが激高して反論すると、かえって事が紛糾する。そのうち分かってもらえる」 富造はそうは言ったが、心の中は煮えくりかえっていた。 周太郎の次男の保次が、帰国の途中、ホノルルに寄港した。「叔父さん、見たところハワイはともかくとして、アメリカ本土も住み難くなりました。本土の差別はこんな程度じゃないですよ」 富造は保次の話を、腕を組んで聞いていた。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.06.09
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この第一次大戦中、オーストリアの支配下にあってロシア軍と戦っていたチェコスロバキア軍の多くはロシアに投降し,ロシア軍側のチェコ軍として対ドイツ戦に加わっていた。しかしロシアの地でドイツと戦うことを嫌ったチェコ軍は、シベリア経由でヨーロッパ戦線へ戻り、ドイツと戦おうとしていた。 一九一八(大正七)年一月十二日、日本は軍艦・石見をウラジオストックへ示威派遣をした。ボルシェビキの共産主義に対して、軍事的に牽制しようとしていた。日本は紛れもなく、潰されつつある帝政ロシアと同じ帝政国家であったのである。 イギリス(王国)や日本(帝国)はシベリアに出兵することで帝政ロシア軍を背後から支援してボルシェビキ革命を挫折させる計画を立て、アメリカのウィルソン大統領にその意向を打診した。しかしウィルソン大統領は、ボルシェビキの呼びかけに応えるかのように和平のための十四ケ条の提案を行った。これは民族自決とアルザスロレーヌのフランスへの返還を除けば、無賠償・不併合という提案であった。当然英仏は、不快感をあらわにした。そのためロシアに対しては、独自の干渉政策を見出だす必要に迫られた。丁度このとき、ボルシェビキ政府は単独講和を行ってドイツとの戦争を終結させ(ブレスト・リトフスク条約)、チェコ軍の要望を受けてその東進を許可した。 五月、ウラルのチェリャビンスク駅で、東進中のチェコ軍とドイツ・オーストリア軍の俘虜との間に小競合いが起こった。この事態を知ったウィルソン大統領は、「チェコ軍がシベリア各地で殲滅されかかっている」と誇張し、それを口実にして日米共同でシベリアへ派兵する方針を示した。そしてウラジオストクに日米同数の各七〇〇〇名の陸軍を派遣し、チェコ軍団の救援目的を終了し次第撤兵することを日本に提議した。(ウラジオストクでパレードを行う各国の干渉軍 Wikipediaより) この方針の変更を、富造は不思議に感じていた。これはアメリカが、アジアに影響力を留保しようとしている行為ではないか? とも考えられたからである。 日本はアメリカの提案に同意しながらも、自主的行動をとる含みを残した妥協的回答を送った。満州の北部からシベリアにかけてロシアとの軍事的緩衝地帯を望んでいた日本にとって、これは思いもかけない大きなチャンスとなった。 八月二日、日本は共同出兵の宣言「アメリカ合衆国の提議に応じシベリアにいるチェック軍 (チェコ軍) 救援のために出兵する」を発した。そこで十二日には日本軍、十九日にはアメリカ軍がウラジオストックに上陸を開始した。シベリア出兵は日本・アメリカのほかにイギリス・フランス・イタリア・カナダ・中国がそれぞれ小部隊を派遣した。ただし日本軍は四月にはすでに陸戦隊をウラジオストックに上陸させ、満州里に軍隊を集結して本格的な干渉戦争に備えていた。戦いの準備の整っていた日本軍は、チタ、ニコライエフスク、ハバロフスク、ブラゴベシチェンスクを占領し、九月の末には連合軍の立場でアムール鉄道の全線を確保した。「さすがに日本軍は強い」「日本は元寇以来、対外戦争に負けたことがない」「神風に守られる日本は、神の国だ」「無敵皇軍、向かうところ敵無し」 これらの声が、日本人社会に広がっていった。そしてこの年に、アメリカでは外国人の市民権取得の条件が緩和されたが日本人には適用されず、相変わらず人種差別の壁は高かった。 この頃、ライエの神殿が完成した。富造は小松ハルを末日聖徒イエス・キリスト教会に誘ったが、彼女は身体の弱いナヲミを連れて帰国することになった。そして帰国して間もなく、ナヲミが山口県玖珂郡麻里布村の祖父の実家で死去したことを知らせてきた。「可愛い子だったのに、可哀想なことをした」 二人はライエに赴くと敬虔な祈りを捧げ、丁重な弔文を書き送った。 一九一九(大正八)年六月二十八日、ヴェルサイユで世界大戦の講和条約が結ばれた。この講和会議で、富造の信奉するトーマス・ウッドロー・ウィルソン大統領は国際連盟の設立を提案した。日本はアメリカの提案した民族自決の提案に賛成し、人種差別反対を国際社会に打ち出した。ウィルソン大統領はこれに賛意を表し、アメリカ国会の承認を得るため一時帰国した。彼は敬虔なクリスチャンで、学者で、理想主義者であった。 七月十四日、パリ祭(フランス革命記念日)の日、パリで世界大戦に出兵した連合軍の凱旋パレードが行われた。数千人に達する傷痍軍人が先頭となって凱旋門からシャンゼリゼ通りを通過し、コンコルド広場までの長い長いパレードで埋め尽くされた。傷痍軍人の次は馬上の二人の元帥、ジョフルとフォッシュに導かれた一五〇〇人ずつの栄光のフランス軍連隊が続いた。そしてパーシングに率いられたアメリカ軍、さらにイギリス軍、ベルギー軍、チェコ軍、ギリシャ軍、イタリア軍、日本軍、ポルトガル軍、ルーマニア軍、セルビア軍、ポーランド軍が続きそしてまたフランス軍が最後尾についた。しかし開戦直後に、フランス軍救出のため英雄的にベルリンに向け突撃して全滅した連隊を有していたにも拘わらず、ロシア軍の姿はなかった。共産革命が嫌われたのである。「日本軍がパリの凱旋門で閲兵式をやった」 これは全島を揺るがす大ニュースであった。「わが日本は、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアと並んで世界の五大国、一流国になった」「大日本帝国万歳。皇軍万歳」 この一枚岩とも見える日系人の行動が、アメリカ人の眉をくもらせていた。そしてサンフランシスコの連邦裁判所に上告されていたあの小沢試訴は、連邦最高裁にされた。しかし最高裁は日米外交上の配慮から、この判決を遅らせていた。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.06.08
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日本は練習艦隊を地中海へ派遣した。これはヨーロッパに海軍力を誇示しながら、日本の存在をアピールするのがその目的であった。そうしておいて日本は、中国に対して対華二十一ケ条を要求した。そのため中国の抗日運動が、激しくなっていった。中国の孫文は、「日本は西洋覇道の爪牙となるか、東洋王道の干城となるか」と演説して日本を牽制していた。その一方で日本は、台湾の原住民ゲリラを制圧してようやく全土を掌握した。 大正天皇の即位式が、京都で開かれることになった。これに出席することになった富造は、勝沼福島県観光団を組織した。あの第一回移民船から数えれば、すでに二十年以上経っていた。この故郷訪問の誘いは、多くの人たちの共感を得た。参加した人たちは、故郷に錦を見せようと精一杯張り切っていた。中には故郷で英語を使いたいと言って急に習いはじめ、怪しげな英語を使う者まであらわれた。「ユウ、ツモウロ、ジャパンゴーか。マイタイのう。ボーイ、スタップオウライ オウライ」 (徳永カネ談・マイタイ:ハワイ語で、良いこと)「この馬鹿。それでは俺にも何を言っているか分からん。なんで日本語が通じる所に行くのに日本語を使わないんだ?」 そう互いに言いながらも、みんなの顔がほころんでいた。「私は勝沼観光団にまじって日本に帰り、早稲田の大隈重信公の邸宅を訪問させて頂きました。団員は五十名くらいだったと思います。なにしろ一世を風びした大偉人であり、時の総理大臣でもあるので、その権勢は大したものでした。邸園内の緑の木陰にテーブルを据えて一同を引見、長い話しをいたしました。当時勝沼さんは、五十歳ばかりの男盛りであり、私もまた三十一歳で若かったです。それから各地の観光を終え、故郷に帰って卷女という妻をめとり、夫婦揃って再渡航致しました。ヒロ付近の十余名の県人たちは、クラブのようにして集まってくれました」(菅野武談) この旅行団の引率は、富造にとっても晴れがましいことであった。飯坂温泉を中心に、それぞれの出身地や実家への訪問も含んでいた。東京に戻ったとき、富造は銀座の電友社を訪ねた。重教やその家族の大歓待を受けた富造は、電気事業発展史を贈られた。重教は三千頁におよぶこの本を、著述刊行していたのである。重教の話によると、ここに来るまでに、一〇〇冊に余る専門的著作と論文があったという。「凄い本を作ったね」 富造は本当に喜んだ。 間もなく富造は、本来の目的である京都に向かった。 今上天皇陛下の御即位式に参列の為め、東海道を、京都へ赴く 列車の中で、偶然にも板垣伯に邂逅し、談、偶、翁の身の上に及 びし時、伯は、もし、今回の大典に、贈位授爵の御恩命ありとす れば、戊辰の役の際、官軍が、奥羽須賀川口より、三春城を攻め 落とさんとせしところ、同藩が、翻然、大義名分を明らかにし、 官軍に投ずるに至りたるは、之れ、当時、僅か、十八歳であった 河野広中の働きに依るのであるから、当然、河野を一番最初に行 賞すべきものと思われる。然し、河野は、現時、農商務大臣たる 要職にあれば、或は、其の儀に及び難きかも知れぬが、明治維新 の、勤王家である事は、後人が記憶すべきである。と私に話され た。翁は、亦、慥に、早くより大義を辯へられた烈士であったの です。私の亡父、柔道師範加藤木逸八郎直親なども、早駕籠にて、 藩と京都との間を往復なして、翁らと共に、奔走したことを、聞 いてゐます」(甘藷のしぼり滓より) 河野広中のことは、富造にとって自由民権運動の思い出につながっていた。その思い出は喜多方事件、加波山事件、そして田母野秀顕、岩田琴松、山口守太郎の死、やがてそれは自分自身のサンフランシスコでの新聞発行に連なっていった。 ──随分いろいろのことがあったな。 そう思いながらも、大正天皇の即位式に出席できる自分自身に感激していた。 勝沼福島県観光団は、成功のうちにハワイに戻った。 富造夫婦は、一緒に生活していた小松ハルの娘の六歳のナヲミを自分たちの養女とした。ミネが一時帰国したとき、子どもたちが世話になったことの礼の気持ちでもあった。「ハルは幸せの薄い女だ」 富造はミネにそう言って同情していた。子どもたちもハルに懐き、彼女もこの家で誠心誠意働いていた。「そうですね。しかしハルは、よく陰でこう言っているそうです。『私の子どもも法律的にはアメリカ人でありながら、私と同じように顔つきだけで差別される。もし次に子どもが生まれるなら、白人に近い容姿であってほしい』と」 庭で遊ぶ子どもたちを見ながら、富造は憮然として言った。「うん。まぁその気持ちは分かる。しかしそれを言い出したら、われわれ日本人はアイデンテティをどこに求めればいいのかね。あの子どもたちは、何をよりどころにすればいいのかね」 あの小沢試訴が、ホノルル連邦地裁で「日本人は帰化法の規定する自由白人でもなく、アフリカ人種でもない。日本人は蒙古人種であるから許されない」という判決で敗訴した。小沢は再審を求めて地裁に申請を提出したが却下され、サンフランシスコの連邦裁判所に上告した。 ペテログラードから発生したロシアの共産革命は旧体制を転覆し、よりよい世界の実現を目指していた。カール・マルクスの経済理論に刺激を受けたボルシェビキは、資本主義を叩き潰すため立ち上がった。レーニンは、労働者階級が一致して世界経済に立ち向かうよう呼びかけた。私有財産は罪とみなされ、レーニンは人が人を搾取する経済に終止符を打つと約束した。この第一次世界大戦中に起こったロシア革命のプロレタリア独裁という主張に、世界中の王制、共和制の国々の心胆を寒からしめていた。このことは日本においても例外ではなかった。共産主義は各国の在来の政治的存在をおびやかす脅威、として受け取られたのである。 この戦争に参加した日本は、ヨーロッパ列強と共にアジアの盟主として戦勝者の椅子につくことを目的としていた。そのために膠着するヨーロッパ西部戦線に、日本は二十個師団を派兵すべきだ、という強い意見もあったのである。しかしヨーロッパでもアメリカでも人々が日本を語るとき、明らかに「あの成り上がり者が」と表情に出していた。 富造はそれらの表情に出会うたびに、悔しい思いをしていた。 ──われわれ日本人も一緒に血を流して戦っているのではないか。それなのに、これはいったい何なのだ! 日本を馬鹿にするのか! そう思っていた。しかしそれは思うだけで口には出せず、それらの表情に対しては曖昧な笑いを返すことでごまかしていた。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.06.07
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皇 軍 出 兵 一九一四(大正三)年ヨーロッパで、第一次世界大戦が勃発した。英船ルシタニア号がアイルランド沖で独潜水艦に撃沈され、アメリカ人一二八名が犠牲となった。ハワイが確実にアメリカの、そして世界の動きに巻き込まれていったことは、この大戦が象徴していた。ヨーロッパの戦場からはるかかなたに位置していたにもかかわらず、ハワイの大勢の人々が、軍事的、経済的、あるいは赤十字のボランティアとしてアメリカ本士への貢献をするようになったのである。この時期、ハワイに国民軍が編成配置され、真珠湾でも海兵隊の兵舎が利用されはじめた。 日英同盟下にあったイギリスは、日本に対してドイツの武装商船を捜索通知をしてほしいと依頼してきた。日本の参戦は期待していなかった。しかしアジアでの権益拡大を目論でいた日本は、これを機に対独宣戦を布告した。自ら大戦に飛び込んでいった日本の陸軍はドイツ領青島要塞を攻略し、海軍は南洋諸島を占領してハワイ在留邦人を喜ばせたが、それ以上に沸き立たせる事件が発生した。ガイヤー号事件である。 ドイツ巡洋艦ガイヤー号と石炭船ロックサム号が、イギリス艦隊に追われてホノルル港に逃げ込んできた。当時中立宣言をしていたアメリカは国際法に依り、入港後二十四時間以内にドイツ軍艦の退去を命ずべき義務があった。しかし富造は、鬱々としていた。ホノルルには、日本よりの民間移民船・春洋丸が近づきつつあったからである。 ──もしアメリカの退去要求によってガイヤー号が出航すれば、単独で航行している客船・春洋丸が。敵国船としてドイツ海軍の攻撃にさらされる危険がある。 その富造の心配をよそに、ガイヤー号は動かなかった。「ガイヤー号は機関の修理中だ」 移民官事務所にも事情が報告されてきた。しかしそのため、運よく春洋丸は、ガイヤー号が停泊している時間的間隙を縫うようにしてホノルルに入港し、移民を無事に上陸させることができたのである。 やがて帝国海軍の浅間、肥前の両艦が、ホノルル港外に姿を見せた。肥前はアメリカ側のアームストロング砲台と二十一発の礼砲を打ち交わした。その殷々たる砲声はホノルル港を揺るがした。海岸に押し寄せた多数の日本人は、「アメリカと日本は仲間だ」と話し合い、肩を叩き合い、感激の眼をあげて凝固と海上の船影を見守った。このときばかりは、人種偏見も差別もなかった。 帝国軍艦はホノルル港外の公海に仮泊すると、ガイヤー号が出航するのを待っていた。その姿は、獲物を狙って伏せている虎にも擬せられていた。急に気の強くなった日本人たちは、かくなる上はガイヤー号が出航して帝国海軍に撃沈されるのを一目見ようと、大騒ぎになった。港の周囲の丘は、手製の赤いいびつの日の丸や星条旗を手にした人々で、まるで海戦の観戦席と化していた。ところが二十四時間経っても、ガイヤー号は動こうとしなかった。「アメリカは不都合だぞ! 何故敵艦を長く港内に留め置くのだ」「二十四時間以上の港内停泊を認めるのは、中立国としての国際公法違反だ!」 轟々たる非難が起きた。「今日はいよいよ出航するぞォ」「いや、明夜になったそうだ、昼は出るとすぐ日本にドカンとやられるから、駄目なんだそうだ」 知ったかぶりに囃し立てながら腰弁持参で海岸に押し掛ける見物人の数は、増える一方であった。 その騒ぎの間、日本の太平洋漁業会社のギャリソン船一五一号が、ガイヤー号周辺で税関の巡視船に押さえられ中立法違反の嫌疑で取り調べられた。船中には野菜などを納入する御用商人・太平洋漁業の支配人の山城松太郎と、漁夫に変装した布哇新報記者・阪部武三郎がいた。「あの人たちは、肥前と総領事館の情報連絡も受け持っているそうだ」「それでは、ガイヤー号の偵察にでも行ったか?」 見物人たちはそう囁き、頷きあった。 そのうちガイヤー号の出航問題は、日布間の現地交渉から国際間の交渉へと発展した。機関の修理を理由にずるずる様子を見ていたアメリカ政府も、「十一月七日十二時に限り、ガイヤー号はホノルル港を出航すべし。もし該期間に於いて出航せざる時は武装を解除すべし」との命令をガイヤー号に発っせざるを得なくなった。それを知った人々は、ホノルル港外での海戦を見物すべく、夜を徹して待った。「今度こそ帝国海軍が勝つのを、目の前で見られるぞ」 日本人に限らず、多くの人々が目を凝らしていた。しかしガイヤー号は、遂に出航しなかった。入港したまま、アメリカの武装解除に応じたのである。 この戦争の影響で、一国家、一国旗、一言語運動がアメリカ中に広がった。ハワイはアメリカ的ではないアメリカ領土であったため、この運動に大きく影響を受けた。日本人コミュニテイへの風当たりが、また強くなった。また戦争のため物価が上がり、賃金を据え置かれた労務者たちの生活は、苦しくなっていった。このようなときに小沢孝雄がホノルル連邦地裁に起こした帰化訴訟事件があった。小沢試訴とも言われた。「日本人一世にも市民権を与えよ」という主旨のものであった。 帝国政府はパナマ大博覧会に参加するなどして、排日運動の緩和につとめていた。そのことや第一次大戦の日米共同戦線の実施などもあって、排日運動は一時鎮まったかにみえた。 ところがハワイでは、日系人に対する警戒心が日本軍艦を応援するガイヤー号事件を契機にして、再び燃え上がった。この風潮は、アメリカが第一次世界大戦中から特に愛国心を強調し、敵性物は勿論、不同化物は排除して米化一辺倒に傾倒してきた大きな波であった。これらの問題の中で日本語学校学童の問題は、アメリカ側が問題にする最も大きな焦点となった。その教育内容が、あまりにも神話による皇民教育に偏向していると攻撃されたのである。 ハワイの末日聖徒イエス・キリスト教会は、この年教会員数九四〇〇人以上を数えるようになっていた。そこで教会はオアフ島北部のライエの土地の献納を受けて、ハワイ神殿の建設をはじめた。「ライエは、俺がハワイに赴任してすぐに起きたストライキの説得に行った、カフクのすぐ南の村だ」 富造は椰子の林が風にそよぐ昔を思い出しながら、ミネに説明した。「今もそうだろうが、静かな土地だった。神殿の建設には絶好のいい場所だ」(ライエの教会の前で、右より ブリガムヤング大学グブラー教授 著者 トーマス・カツヌマ氏夫妻) ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.06.06
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しかし移民たちの多くは農民の出身であった。日本にいる時は、農民として生まれれば農民として虐げられたまま死ぬのが一般的であったが、海外雄飛という大志をいだいた移民の多くは、自分の子供は教育さえ与えれば親の自分を越えて成功できると考えるようになった。それはまた、アメリカ式の考え方でもあった。辛抱人、(我慢して勤倹節約してカネを貯める人。苦労人の意も含む)という言葉が生まれた。 欧米視察の旅行をしていた重教は、兄弟の住んでいるホノルルに寄港した。「ヨーロッパは凄いぞ。マルコーニという人が成功した無線通信が、船舶や遠いところとの間で実用化が進んでいる」「それじゃ昔、重ちゃんが開発していたガワーベルみたいなものじゃないか?」「うん、まあな。いずれわが社も、この通信機を作りたいと思ってな」 重教の会社・電友社は、順調に発展していた。「で、ハワイはその後どうだ?」「うん、なかなか難しいよ、特に人種問題がね。しかしハワイだけでも、末日聖徒イエス・キリスト教会の会員が八、一〇〇人以上となったよ。時間がかかっても、いずれこの教会の教えが広がって解決に向かっていくと思うよ」「うーん。それは凄いことだ」 清国で辛亥革命の狼煙があがった。武昌の占領を契機として一斉に決起した革命党は国土の三分の二を手にいれ、独立を宣言した。これに対する日本の動きは、素早かった。第三師団から歩兵一大隊を派遣して清国駐屯軍の指揮下にいれ、駐清派遣軍を編成して漢口に送ったのである。 この年代、アメリカは空前の繁栄の中にあった。それに引きずられるように日本も繁栄の中にあり、自称、五大国の一つと豪語していた。しかしこの年、カルフォルニア州が排日土地法を制定して日本人の土地所有を禁止したことは、ハワイが直接この法律の規制を受けないにしても、アメリカで排日の気運が盛り上がったということに対する精神的な影響は大きかった。サンフランシスコでは、排日運動の高まりから、またも日米開戦の噂が立っていた。日米間には、奇妙な平和が成立していた。 このようなとき新渡戸稲造は、「太平洋に平和を! 願わくば、我れ太平洋の架け橋とならん」とスタンフォード大学で講演をしていた。その一方で南極探検に行っていたアムンゼン南極点到達成功は、人類に新たな夢を与えていた。 一九一二(明治四十五・大正元)年七月、明治天皇が崩御し、大正天皇が践祚した。そして九月、乃木希典大将夫妻が殉死した。これらの訃報は、日系人の間にも強い日本との連帯感を生んでいた。 同じ月、母の要子が御殿山で亡くなったとの報が知らされ、その十日後、今度は父の直親が平で死去との知らせがハワイにもたらされた。「いったい親たちに、何が起きているんだ!」 相次ぐ訃報にハワイに滞在していた周太郎と重教が、慌ただしく帰国して行った。富造はベランダから、二人の兄が出航していった海を見つめていた。 ──この海が、平の浜まで続いているんだ。 そう思いながら富造は、亡くなった両親の重みを感じていた。いつしか合わせた手の上に、涙がこぼれ落ちていた。「両親はとても仲がよかったのだろう。まるで母の後を、父が追ったような死だった」このような手紙を受け取った富造は、三春の縫らと姉弟四人で、平町字胡摩沢の長源寺に両親の墓碑を建立した。 日本にいるとき農業に従事し、アメリカ本土へ行ってから別の産業に就職していた多くの日本人移民は、排日気運の強い工業などの労働組合を逃れて再び農業へ戻っていった。やがてそれらの日本人たちは集約的農業をとり入れて成功していったが、それが単なる成功では済まず、結果として白人農民の強力な競争相手となっていくことになった。この日本人の成功を見たカルフォルニア州議会は、外国人(実質的に日本人)が農地を買ったり借りたりできない外国人土地法を成立させ、日本人移民を農業からも締め出そうとした。その理由として日本人移民は、 祖国の生活を守り、天皇への忠誠を誓い続け、アメリカ国家へ の忠誠を尽くそうとしない。 アメリカに同化することが出来ない。 アメリカ生まれの者でさえアメリカ市民としての義務を果たそ うとせず、アメリカにとって危険な存在である。このような外国 人が、異常なほど沢山の子どもを産んでいる。 勤勉で低い生活水準に耐え、楽しみにお金をかけることもなく、 長時間働く意欲がある。 お互いに助け合い団結する。その力は異常なほどである。アメ リカ大陸に大和民族を繁栄させようと決意している。と主張していた。 これに対して帝国政府は、カルフォルニアの排日運動に抗議し、州政府に止めさせるようにとの陳情書を提出した。日本人として意識するほどのことではない勤勉さと天皇への畏敬が、アメリカにとって嫌なことであったのである。 両親を失った周太郎は平の家を整理すると、樺太の酒造会社に就職して行った。そして間もなく樺太庁より三十一万坪の官有地の無償交付を受け、牧畜業として独立した。アメリカでの勉強や日本での経験を生かし、着々とその地歩を固めはじめていた。「兄貴も、随分と寒い所に行ったな。こことは雲泥の差だろう」「それにしてもあなたがた兄弟も、三春、樺太、東京、ハワイとばらばらになりましたわね」「そうは言っても、ここ以外は全部日本国内だがな」 間もなく、男の子が産まれた。六番目の三男であった。この名を付けるのに、夫婦の間で小さな諍いが起きた。富造は、尊敬していたアメリカ大統領のウッドロウ・ウィルソンにあやかって、ウッドロウという名にしたいと言い出したからである。 (注)ウッドロウ・ウィルソン。アメリカの二十八代大統領。プリ ンストン大学卒業、バージニア大学法学大学院を修了し、ジ ョンズホプキンズ大学大学院博士課程修了した後プリンスト ン大学教授(法学、政治学)となり、やがて同大学学長に就 任した。その後彼は政治家に転身して一九一〇年ニュージャ ジー州知事に当選、一九一二年民主党から出馬して大統領に 当選した。彼は[新しき自由]を唱え、独占資本の横暴から 個人や中小企業を守ろうとした政治学者出身の、理想主義を 掲げた政治家であった。彼はアメリカがメキシコと緊張関係 に陥った時に、アルゼンチン、ブラジル、チリ三国の調停を 受け、国際紛争を国際会議で公明正大に解決することが望ま しいという方針を打ち出した人物であった。 (ウッドロウ・ウィルソン大統領 Wikipediaより) 上の五人と同じく日本名を付けたかったミネは、ついに伝家の宝刀? を引き抜いた。「私の家系はあなたの家系より高い階級の武家です。ですから、私の言うことを聞きなさい!」 それを持ち出されると、富造も苦笑いをするほかなかった。確かにミネの実家は、三春藩の高い地位の家柄であったからである。だからと言って、言い出した富造も引くに引けなかった。 二~三日の論戦(?)の後、ようやく二人に妥協が成立した。漢字で、宇土朗を当て字とし、ミドルネームには祖父に当たる直親とした。結局赤ん坊のフルネームは、宇土朗・直親・勝沼(Woodrow Naochika Katsunuma)となったのである。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.06.05
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このような問題は、船の中でも起きた。「甘藷のしぼり滓」の中に、次のような記述がある。 日本人の花嫁の一人が船員に嫌がらせをされたという事件が起 こり、船内は大騒ぎとなりました。怒った人たちが会議を開いて 話合いましたが、花嫁がアメリカで待っているご主人のことを考 えていたので問題は片づきません。本当はその男に襲われたのに、 彼女はそのことをはっきり言いたくなかったのです。それで結局、 「乗組員が彼女に嫌がらせをしようとしたが、抵抗して身を守っ た」ということにしました。いろいろな話が飛び交いましたが、 そういう話に落ち着いたのです。しかし何人か、途中で海に身を 投げた女の子がいました。 これら花嫁たちを港に迎えに出るのも、移民官・富造の仕事であった。船で着いた十二~三名の写真花嫁を連れて検疫所への桟橋を渡っていると、板の朽ち果てた所で足を踏み外し、花恥ずかしい花嫁たちが着のみ着のまま海中にザブンとばかり墜落、みな濡れ鼠となってしまった。中には骨まで挫いた者まで出てきて、大騒ぎをしたこともあった。「あれには参ったな」 そう言って頭をかく富造に、移民官事務所は大笑いになった。 (ホノルルに着いた写真花嫁・ピクチャーブライド) 富造は連日の日布時事紙上で、労働条件の悪い日本人耕地労務者の待遇改善の論陣を張っていた。そしてオアフ島アイエア耕地で日本人のストライキが発生した。これがワイパフ、ワイアルア、カフク、ワイアナエ、エワと拡大しオアフ島七千人がストに突入した大ストライキの原因となったのである。 日布時事は、耕地から追われた労務者たちをテントや日本人所有の建物に臨時に収容したが、最終的には三千人の人々がホノルルで収容された。夜になると、これら多くの労務者たちが街に向けてデモをかけた。結局四カ月の間、七千人の日系人が団結して闘ったのである。しかし日布時事がこのストライキの元凶と目されて相賀社長ら四名が投獄されると、団結が乱れた。ストライキは失敗に終ったが、事実上ハワイの日本人移民を半奴隷的境遇から解放する突破口となった。これが第一次オアフ島大ストライキである。このようなとき、ミネが子どもたちを連れて周太郎とともにハワイに戻ってきた。長男の克巳は三春小学校、磐城中学を卒業して十九歳、長女の清水は東京青山小学校を経て平小学校の四年生の十歳、東京で生まれた三女の淑子は三歳になっていた。それにホノルルで生まれた七歳の次男の丈夫と五歳の次女の靖子が同居したのであるから、急に賑やかな家庭となった。ミネの留守中子どもたちの世話をしていた小松ハルは、急に大家族となったこの家の子どもたちの世話を続けることになった。富造は大きくなった子どもたちと日本語で話をしながら笑っていた。「参ったなミネ。清水は折角覚えていた英語を、忘れてしまったそうだ」 しかし良いことばかりは続かなかった。折角ハワイに来た十九歳の克己が、病気のため急逝してしまった。転地療養を兼ねた渡布であったが、間に合わなかったのである。彼は近くの、マキキ墓地に埋葬された。 周太郎は、今度はハワイ慈善会の書記に就職した。彼はこまめな人で、日曜には一週間分のパンを焼き、バターやチーズも自分で作ったりしていた。「出来ることは何でもして、この家から追い出されないようにしないことには」 周太郎は富造夫妻の気を引き立てるために、そんな冗談を言っては笑わせていた。 一九一〇(明治四十三)年日韓併合が実施された。それらもあってハワイの社会は、強力な日本国感と優秀な日本人感とともに、国粋主義的色彩が強くなっていった。それは人種差別や偏見への反抗でもあったが、それが理由で締め付けも強くなっていた。 諸子の父祖は、遠く祖国を離れて、太平洋ただ中のこの布哇に 来たのである。多数の諸子は布哇に出生し、布哇県の公立学校に 教育せられ、将来米国市民たるべき特権を有せんとしておる。米 国市民としての権利を有する諸子は、必ず善良な米国市民として 世に立たなければならない。これ諸子の父祖と父祖の属する日本 国とが、ひとしく希望するところである。 日本国の歴史は、日本国民が如何に優良な特質を持っているか を表すものである。幾多の美しき史上の実話を学び、今の日本国 の発達を知れる諸子は、他人種の間に立って生活するに当たって も、優良なる日本国民の子孫たる自信を失うことがないであろう。 日本民族の長所を忘れず、その美徳を保って、さすがは日本民族 系の米国市民であると、米国各人種の間に尊重せられるように心 掛けよ。これ諸子が米国に尽くすゆえんであって、同時にまた、 その父祖の国に報いるゆえんである。 諸子よ、将来米国市民たるべき諸子よ。諸子は決して父祖の名 を汚すことなく、父祖の国の名を恥ずかしめることがあってはな らぬ。 (ハワイ日本人移民史) これは明治的日本人をベースにしながらの、アメリカ人を指向していた。日本で生活しているインテリ層は、「日本は遅れている」「日本は特殊なんだ」と言い続けてきた。それはまた、西欧を指向する言い訳でもあった。もちろんそれは日本の教育にも原因があったが、富造もまた紛れもなくその日本人の血を引く日本人であり、インテリであると自負していた。そしてあの脱亜の志士の片鱗を背負っていた。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.06.04
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アメリカ本土における日本人への差別は、太平洋沿岸諸州議会の排日決議となって悪質化し、ハワイからの日本人の大陸転航禁止令が出されるまでになっていた。山本権兵衛首相はルーズベルト大統領と接触し、アメリカとの関係改善に努力した。ルーズベルトから排日運動中止の具体策の約束を取り付けたのである。 一方でオランダのハーグで開かれた第二回国際平和会議において、韓国皇帝の密使が日本からの解放を訴えた。しかしポーツマス条約で日本の朝鮮支配を認めていたロシア、アメリカ、イギリスは、韓国皇帝の派遣した代表との面会を断った。これを知った帝国政府は直ちに閣議を開き、強硬な方針を統監の伊藤に知らせた。伊藤から帝国政府の方針を伝えられた韓国政府は、韓国皇帝の御前会議において、ついに皇太子への譲位を決定した。この譲位が公表されると韓国民衆が反対のため大漢門前に集まり、日本警官と衝突、流血の惨事となった。そしてこの惨事の五日後、日本は第三次日韓協約を結ばせて韓国の保護国化を進めた。ハーグ密使事件と呼ばれた。 ──やはり外交は武力か。 明治日本の軍国主義が、無言のうちに軍事力による国の拡大発展を約束していたのである。そしてこの約束は、当時の世間知らずで正直な、海外に出た移民を含む日本国民をそそのかし、丸のみにしてしまったのである。「天皇陛下万歳! 大日本帝国万歳!」 あの日露戦争の祝勝会のときの熱気が、日本人の頭にこびり付いていた。 明治天皇がイギリスよりガーター勲章を授与された際の答礼使として、ご名代の伏見宮貞愛親王がイギリスからの帰途、ホノルルに寄港した。在留民は盛大な提灯行列を行って、歓迎の意を表した。このとき親王は、皇室への土産として二頭の名馬を船倉に積んでいた。ところがそのうちの一頭、金門号が病気になったのを歓迎会で知った富造が、この馬を診察した。親王は帰国の後、富造に馬の快癒の感謝の意として、侍従官を通じて真珠のカフスボタンとスカーフピン、それに丁寧な礼状が贈られてきた。感激した富造は、日本の家族に手紙とそのことが掲載された新聞の記事を送った。アメリカ人であろうとする富造の意志とは裏腹に、これは実に光栄なことであった。 ホノルルの日本総領事館が老朽化したため建て直すことになり、払い下げが決定された。相談を受けた富造は、日本のためと思いこれの買収を即決した。その代金は、新領事館の建設費用の一部に当てられることを知ったこともあった。富造はこの旧領事館を、自分の所有地、ホノルルの高台のノトカーフ街に移築した。そしてこの建物を、自分の雅号でもある馬笑庵と命名した。それは伏見宮の馬を診察したとき、あの馬が笑うような仕草をしたことがあったのを思い出したのである。このことは伏見宮との大事な思い出であり、そしてもう一つ、昔、奥羽地方を旅して奥の細道を書いた松尾芭蕉に、心秘かに掛けていたのである。それから後、この邸宅のベランダで読書を楽しんでいる富造の姿が、よく見られるようになった。 (富造の移築した旧日本大使館・馬笑庵) ハワイの砂糖産業の白人資本家たちは、豊作に恵まれ高い利益を上げていたにも拘わらず、日系人労務者の賃金を他の人種と差別して安くしていた。このようなときアメリカ本土からやってきた根来源之が白人との労働条件に隔たりが大きいことを指摘し、待遇改善を主張した論文を執筆した。しかし日本語の新聞・布哇新報が掲載を拒否したため、日布時事がこれをとりあげた。このため日布時事を中心に、増給論が盛り上がった。 しかしアメリカ本土では、少し事情が違っていた。ハースト系の新聞が日本人を過剰なまでに敵視していたのである。例えば、フィリピンのアメリカ太平洋艦隊が日露戦争に勝利した日本の連合艦隊に奇襲されるのではないか、などとまことしやかに書き立てた。しかしこの考え方は、アメリカ政府部内でも広がっていた。ルート国務長官はマハン海軍提督に、「日本人の間に反米感情が広がっているので、なにかの偶発事故が日米戦争にならないという保証はない」という書簡を送っていた。 このような事情もあって、アメリカ海軍は帝国海軍からの防衛とフィリピンに至る広大な太平洋地域の安定のため太平洋側の防衛力を高める必要を感じ、戦艦十六、巡洋艦二、駆逐艦六、輸送船八隻からなる大西洋艦隊を太平洋に回航することになった。本来なら、一番近いパナマ運河を通過してサンフランシスコに回航すれば済むことであった。しかしアメリカは、各国海軍との友好と練習を名目に、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピンの港を回り、横浜港に入ったのである。これは日本国民にはもちろんのこと、全世界にアメリカ海軍の威力を見せつける意味合いもあった。この日本軍部を強く牽制する三十二隻の大艦隊に対し、アメリカは幕末のペリーの黒船を意識して全艦を白く塗った。白船艦隊と呼ばれたこの艦隊は、それだけでも日本の連合艦隊の倍以上の戦力を有していた。日本軍部は、この日本寄港を威嚇と受け取った。そのようなときハースト系新聞は、「世界最強を誇るアメリカ大西洋艦隊が白船で東京湾に現れれば、日本軍がこれを迎え撃って大戦争がはじまる」という悪意の報道を全世界に発信した。 この報道に対して、帝国政府は冷静沈着に対応した。つまりこの寄港を逆手に取り、逆に国民を煽って熱狂的に歓迎させたのである。横浜港に入った白船艦隊は善隣友好を理由に、一般市民に対しても艦内見学を許可した。そうすることで、アメリカの軍備の強大さを日本国民に見せつけようとしていた。日本人に戦争をすることを諦めさせるための宣伝活動をしていたのである。しかしその半面ルーズベルトは、「この巡航の際、帝国艦隊がアメリカ艦隊の留守を狙ってハワイを攻撃してくる恐れがなきにしもあらず」と予測していたという。ハワイは厳戒態勢に入っていた。そしてそれを裏付けるかのように彼らが去った後、日本の連合艦隊はアメリカ艦隊を仮想敵として、九州の東南沖で海軍大演習を行ったのである。 今度はそれに対抗して、アメリカはハワイ・オアフ島のレイレフア高原の一万五○○○エーカーに、スコウフィールド将軍の名にちなんでつけられた陸軍軍事基地の拡張をはじめた。また海軍も、真珠湾に幅一八〇〇m、深さ一〇〇mの港の拡張工事をはじめ、さらに、三〇〇〇mあまりの乾ドック建設も開始された。日本とアメリカの間の目に見えぬ対立は、互いの軍備拡張の動きとなっていた。 このようなきな臭い状況を沈静化するため、日米紳士協定、いわゆるルート高平協定(両国の現状維持、清国の独立と領土保全)が結ばれた。しかしこの協定は、アメリカが日本人労務者の入国禁止をしない代わりに、日本が自粛の形をとることにしたものである。確かにこの協定では正式な移民が認められなかったが、再渡航して十八ケ月以内にアメリカ領に戻る者、アメリカ領に居住する者の両親及び妻子、農業家としてアメリカ領にいたことのある者に対しては除外された。このために写真結婚や呼び寄せ結婚が、全盛となった。 写真結婚とは、一獲千金を夢見た初期の出稼ぎ移民の間には単身の若い男子が多かったため、写真を交換しただけで結婚を決め、渡米した花嫁のことである。この若い移民たちはハワイの耕地労務者として辛抱して働いていたがなかなか思うようにカネが貯まらず、貯まったとしても遊女屋やバクチに霧消することも多かった。出稼ぎの目的を実現しないまま四十歳位にもなり、耕地労働に疲れ真黒く日焼けした者たちの中には、頼母子でまとまったカネを作って身替りにした若い色白の青年の写真とともに送金し、郷里より花嫁を迎える者などもいた。替玉写真を送らないまでにも、夫となるはずのカチケンやハッバイコー(作業)疲れの真っ黒に日焼けした労務者移民の姿を見て、日本からハワイ生括を夢見て来た新着の花嫁移民のなかには、こんな人と結婚するはずではなかった、と強いショックに悩むものも数多くあった。港に出迎えた初めて見る夫の姿に驚き、そして砂糖キビ労働の激しさに二重のショックを覚えた写真結婚の花嫁のなかには、自発的に単独でキビ畑のなかを逃亡して町に出るものも少なくなかった。博徒の組織が綺麗な呼寄せワヒネに目を光らせていて、男前の若者に金ダラをじゃらじゃら持たせてそのような女性を連れ出したりしていた。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.06.03
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黄 禍 論 アメリカにおける排日感情を一時的に抑えたのは、日露戦争であった。大国ロシアに抗するアジアの小国の姿が、好感されたのである。しかし皮肉なことに、その後激化する排日感情の引き金を引いたのも日露戦争だった。予想外の日本の勝利が、黄色人種を害悪とする黄禍論を巻き起こすのである。特に、たまたま訪日中に戊辰戦争になり、第三国士官として長崎から函館まで従軍した記録を持つアルフレッド・S・マハン(元海軍士官学校長) は、世界史上に前例のない短い期間に工業化に成功し、先進国とみなされていた中国やロシアとの戦争に連勝した日本人を好戦的な国民とみなし、「もし日米戦争になれば、ロッキー山脈以西をあきらめなければならないだろう」と警告していたこともあった。 ところで日本はロシアと満州を分割したことによって、清国に対する権益が一致したこととなった。戦後の日露は、かえって接近したのである。そしてこのことは、アメリカに対抗してヨーロッパで起きていたイギリス、フランス、ロシアの接近に、日本が参加していくことになるのである。 この排日の世論とは別に、アメリカ政府はカルフォルニア州での排日運動を押さえる工作をしていた。このため、日本人のアメリカ移住者数は急速に伸びていた。ところがこれら移住者の増加が悪循環となり、逆に排日運動の世論が盛んとなった。 一九〇六年四月十八日早朝、サンフランシスコを大地震が襲った。新築の煉瓦造りの市庁舎は瞬時に全壊し、カリフォルニア・ホテルのドームは粉々に砕けて大音響とともに消防署の屋根に降り注いだ。木造家屋の多かった市街地は三日間にわたって燃え続け、約六百七十人の死者、約三百五十人の行方不明者を出す大惨事になった。 (大地震の被害を受けたサンフランシスコ市庁舎・Wikipediaより) サンフランシスコ市教育委員会は「震災で学校施設が手狭になった」という理由で、日本人の児童は清国人(東洋人)学校へ通うことを義務づけた。差別のにおいをかぎ取った日本人は、猛反発した。これがカリフォルニアで表面化した最初の排日運動の一つ、サンフランシスコ学童隔離事件である。背景には、日露戦争後に噴出した黄禍論があった。 私の小さい時は向こう三軒両隣、日本人ばかりでしたから、日 本語で話しました。それでも私はエレメンタリーに入ったとき英 語を知っていました。ところが私の下級生となると、一年になっ たときイングリッシュしかわからなくて、自分も困ったし先生も 困ったそうです。学校では月曜から金曜まで公立学校の放課後、 毎日一時間授業があり、土曜は半日授業で日曜にはサンデースク ールがありました。そこでは先生や奥さんがとても上手に四十七 士の話などしてくれました。毎日の授業は、読本、修身、綴り方、 地理、歴史、唱歌などでした。土曜には女は裁縫、男は外で運動 をしました。 修身では孝行や忠君愛国を習いました。この時先生が、皆さん はアメリカ人ですから、自分の国アメリカに忠義を尽くしなさい と注意された。二宮尊徳の話や東郷元帥のお母さんの話など、日 本の偉人の話はよく教えられた。子どもはいずれは偉い人になる ということで、子は宝と習った。親孝行はよく強調された。 (ハワイ日本人移民史より) 事件は五カ月後、日本人児童を元の学校へ再編入という形で決着したが、日米紳士協定による移民渡航の自粛が定められた。 このようなことからサンフランシスコ・エグザミナー紙は、「日本との間に、すぐにでも戦争がはじまるのではないか」と不穏な世論を煽るような記事を載せていた。日本人の生活の場は、狭められていった。 父の直親と母の要子の住んでいた平で、大火災が発生した。罹災した直親から「スグカエレ」の電報が届いた。子どもたちは、全員平から離れていたのである。たまたま周太郎は逸郎をサンマケオに残し、単身帰国の途中で富造の家に立寄っていた。富造は妻・ミネを周太郎とともに帰国させ、父母を見舞わせることとした。 ミネはハワイの私立小学校に入ったばかりの清水を連れ、五歳の次男・丈夫と三歳の次女・靖子をホノルルに置いて行くことになった。そこで若くして日露戦争に出征した夫に戦死され、寡婦となっていた小松ハルを引き取って留守中の子どもたちの世話をさせることにした。ハルの夫は、富造が止めるのも聞かず日本に帰って陸軍に志願し、戦死していたのである。ハルは富造とミネが弔問に訪れたときさえ気丈にも見せなかった涙をこぼして、感謝した。 ミネの留守の間に、富造のくすぶっていた問題が解決に向かっていた。それは富造が以前ユタ準州で取得していた市民権が、本来与えられるものではなかったという意味で、ハワイのカーター知事から異論が出されていたのである。しかし知事がフレアーに変わり、なおかつ地方検事ブレッコンズの協力により、憲法十五条の規定が適用された。それによって富造は、ようやく正式にアメリカ市民権の取得を再承認されたのである。これは本来与えられる筈のなかった日本人への市民権が富造に与えられていたことに対する、問題提起であった。 ところで妊娠したまま日本に渡っていたミネは、東京で三女の淑子を出産した。 ──参ったな、これでは家族分裂だ。 知らせを受け取った富造は、本当にそう思った。妻と長男、長女、そして三女が日本であり、自分と次男、そして次女がハワイなのである。富造ならずとも、これは本当に困った事態となった。その上、母の要子から、叱責の手紙が届いたのである。「いくら注意しても、ミネは男のお前のように、家の中でさえ大股で肩で風を切って歩いています。私は恥ずかしくて、嫁と一緒に買い物にも出掛けられません。日本にいたときは上品で淑やかな女だったのに、こんなにしたのは、お前の教育が悪かったからではないですか。これではハワイへ戻せません。今後は充分に注意なさい」 ││参ったな母上。こちらの国では、他人のことを斟酌して接してくれる人など誰もいません。自分の意志は明確に主張しないと、誰にも理解されないのです。 その一方で富造は、やまと新聞を日布時事に改題、相賀安太郎を社長として自らは副社長に退いていた。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.06.02
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六月二十五日、ハワイ島オーラア耕地の日本人労務者全部がストライキを企て、種々の要求を出して騒ぎになったが、大きなことには至らなかった。労務者の要求は、耕地医のカムティスならびにその事業所掃除人の罷免、および耕地事務所所員坂巻銃三郎の免職を迫るものてあった。日露戦争の勝報が日本人移民の自信を高め、その気持ちを高揚させ、人種平等の要求と重なっていた。 七月九日、小村寿太郎全権はアメリカの客船・ミネソタ号で横浜を出航した。しかしその間にも、日本陸戦隊は七月三十一日、警備の手薄であったロシア領の樺太に上陸、これを占領してしまった。講話会議中のこの戦闘行為は、講和会議を日本に有利に運ばせる材料であったにしても、問題を残した。日本国内ではその実力を知らぬ国民が、「ハルビンからウラジオストックまで占領せよ」などという勇ましい主張が蔓延していた。 ロシアでは、この間に厭戦気分が蔓延しはじめていた。首都のペテルブルグでは血の日曜日事件が起こり、皇帝ニコライ二世の弾圧政治に対する不満が民衆のみならず兵士にまで及んでいた。この進行が、ロシアに日本との講和を急がせていた。現に日露戦争ではロシア領での戦いは無く、皇帝ニコライ二世は「大きな妥協を要求されるなら、断固戦え」と命じていた。ところが戦艦ポチョムキン号の反乱が起こり、皇帝の意志に反した共産革命が、ロシア国内に燎原の火の如く燃え広がっていったのである。第一革命と呼ばれた。 そして八月三十日、ポーツマス条約は日本に朝鮮だけでなく満州の支配を認め、清国をこれ以上侵害しないことで調印された。 勝利に沸き返る日本。その日本の新聞各紙は、日露講和条約の成立を報ずると同時に、一斉に講和条約に対する激しい非難の論説を掲載した。「この屈辱」「あえて閣臣元老の責任を問う」「やるせなき・悲憤国民黙し得ず」 九月四日正午前、河野広中は同士会を代表して宮内省におもむき、「閣臣全権委員は、実に陛下の罪人にして又実に国民の罪人なり」という講和成立反対を天皇に訴える上奏文を提出した。 九月五日、この流れの中で、講和条約反対の群衆による交番焼き打ちから日比谷事件が発生した。富造は日比谷事件を報じる新聞に、講和条約締結反対の演説をする河野広中の姿を発見した。 日本は凶作の中にあり、特に宮城・福島・岩手県は大凶作であ る。ことに強露を征して輝く光栄を担って郷里に帰れる出征兵士 は、痛ましくも明日より食うに食なくの惨めさである。国会では 田租免除を議決、その租税を免じた。しかるにこの小村の弱腰外 交は何事か・・・。(河野広中小伝より) (焼き討ちにあった施設・Wikipediaより) ││河野さん。それはちょっと違うよ。日本はアメリカに助けられたんだ。日本の戦費の多くはアメリカやイギリスの援助だったんだ。ハワイの移民もずいぶん協力した。いま講和を結ばずに戦ったら、日本は地上から完全に抹殺されてしまうよ。 富造は、日本とアメリカとの感覚の違いに慄然としていた。しかも、あの自由民権運動を組織し指導した河野広中さえ、この感覚であったのである。富造はアメリカ政府が日本に友好的であったのは、大国ロシアに対し小国日本に同情をよせたからだと想像していた。しかしアメリカはこの調停の成功で、世界政治の舞台に華やかに登場し、その一歩を確実に示すことができたのである。 十月五日、アメリカ船ダコダ号で帰国した小村全権に対して、日本の世論は騒然としてこれを迎えた。しかしこの戦争の結果は、アメリカにおける日本人の地位を高めるであろうと言っていた富造の思惑を、大きく外れていた。日本という小さな国が大国ロシアを負かしたことで、逆にアメリカのジャーナリストに恐怖心を沸き起こしてしまったのである。アメリカの世論は、政府の動きとは反対の動きをはじめた。ロスアンゼルスの新聞は日本人の悪口を記事にし、「アメリカは、このような恐ろしい連中を国に入れるな」と書き立てたのである。これ以後、日本人排斥運動がさらに激化していった。サンフランシスコには東洋人排斥協会(のちに日朝人排斥協会と改めた)が組織され、その支部がオレゴン州やワシントン州にまで設けられたのである。 このような中での日本人同士の繋がりは、日本に自分たちの現実の立場を擁護して欲しいということに帰結していった。だからその運動は外交や民族の融和にではなく、心理的に日本という国の武力を頼ることになっていった。 周太郎は病院を辞めると、長男の逸郎とともにアメリカ本土に転航して行った。サンフランシスコの南のサンマケオに土地を取得し、農場の開設を夢見たのである。しかしその時期の大陸転航は、決して周太郎親子にとって、心弾むものとはならなかった。 一方日本にいた重教は、日露戦争後の満州の産業視察に出かけて行った。 一九〇六(明治三十九)年一月十六日、ハワイ島パパイコウ耕地に起った全耕地日本人労務者のストライキは、政治的なものではなく賃金に関するものであった。結局要求は貫徹した。これに関する本田緑川の記述は、次の通りである。 一月十六日ハワイ島パパイコウ耕地の日本人カチケン組と耕地 支配人との間に、請負賃金のことから意見対立となってストライ キ状態に入り、翌十七日は請黍業労働者全部がカチケン組への同 情ストに発展、二十日にはパパイコウ全耕地日本人労働者の応援 ストライキと拡大した。そこで労働者側の要請に応じてホノルル からチリングウオース弁護士と丸山金一郎通訳らが出張し、労資 調停に努めて紛争解決に漕ぎつけ労働者の勝利に帰した。 (注*カチケン:英語 Cutting sugar cane の日本的略語) ところで列強は、満州への日本の進出をこれ以上認めたくなかった。アメリカとイギリスはロシアを満州から駆逐するためだけに日本の朝鮮支配を認めたのであるから、それだけに止めて置きたかった。しかし日本としては、ロシアとの戦争でようやく手に入れた南満州の諸権益を、手放す積もりはなかった。 一方ロシアは、日露戦争の敗戦の結果として南満州を日本に譲ったが、広大な北満州をその手に残すことには成功した。当時のロシアは世界最強の陸軍国であると言われていた。その面目にかけて、必ず日本に再戦を挑むであろうという観測が、日本国内に蔓延していた。その恐れが、戦後の満州から日本人以外の商人を締め出す政策となって現れた。そしてこの閉鎖主義こそがアメリカが満州に望んだ商業権益の拒否につながり、戦争中日本に友好的だったアメリカの世論を完全に冷却させることとなったのである。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.06.01
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四月八日、バルチック艦隊、マラッカ海峡を通過。 五月九日、バルチック艦隊、フランス領カムラン湾でロシア第三太平洋艦隊と合流。 五月十八日、この合流したバルチック艦隊は、ベトナム沖を離れるとイギリスの監視網をかいくぐり、その消息を絶ってしまった。 この艦隊の所在不明は、ハワイの日本人の間でも、その航路への憶測を生んだ。その憶測は、日本軍部も、日本国民も持った憶測と全く同じであった。それはバルチック艦隊が、対馬海峡を経てウラジオストック港に入るか、宗谷海峡を経て入るかであった。「日本の海軍力としては、両海峡で待ち受けるほどの戦力はない」という報道がハワイでもなされていた。「日本としては兵力を集中しなければ足らないそうだ。そのため、どちらの海峡から入って来るかが問題だそうだ」 この噂が飛び、移民たちの間でも大きな動揺となっていた。富造は、国際政治の厳しさを痛切に感じていた。「結局は武力か・・・、国際関係も勝てば官軍か。すると負けたら大変だ。日本は世界の悪人にされてしまう」 西欧諸国はアフリカ、アジアに植民地を広げ、すでにアメリカもハワイ、サモア、フィリピン、キューバ、パナマなどを手に入れていった。そしてロシアは満州を席巻し、朝鮮国境に近づいていた。日露戦争は、それの押し返しでもあった。 日本は日清戦争で台湾と遼東半島を得たが、その後遼東半島を露独仏の三国干渉で失っていた。そこで朝鮮に手をかけた日本に「待った」をかけたのが、ロシアであった。「日本がロシアを恨むのは当然だ。だが戦争に勝てるだろうか?」「もし制海権を失ったら、帝国陸軍は海の補給路を失い、しかも日本への退路を完全に断たれてしまう」 これは日本人社会共通の危機感であった。「それにしても、バルチック艦隊はどこへ行ってしまったのか?」 アメリカの雑誌サイエンティフィック・アメリカンは、「日露戦争の勝敗の定まる時期は迫っている」「まさに開始されようとしている日露両艦隊の海戦は、歴史上かってない大規模なものであり、世界の人々は今やおそしと待っている」と述べ、海戦の予測記事が載せられていた。しかしその予想はロシア側の圧倒的優位を伝えており、日本人の移民の心に暗い陰を投げかけていた。 このような五月七日、移民の有志はククイ街聚楽館に会合して革新同志会を結成し、移住事業の不合理や移民会社の不法行為を糾弾、暗にそれらを支持する総領事をも更迭、移民会社と京浜銀行の不正行為の廃止を決議した。このストライキの結果だけをいえば、日本の外務省を動かして、八月以降京浜銀行による強制預金行為は禁止された。それに日露戦争中に起きていたストライキの目的は、賃金の問題だけではなかった。そのすべてが酷使、契約違反、不法取り扱い、それに半奴隷的待遇への反撥であった。このため本来コップの中の嵐であったはずが、アメリカの世論を硬化させた。この五月十四日、アジア人排斥同盟がサンフランシスコに結成され、十九日には集会が開かれて一四○○人が集結した。日清戦争に続く日露戦争の推移に、アメリカ市民が日本に脅威を感じはじめたということでもあった。反日運動が露骨に活動をはじめたのである。富造はこれら日露戦争の結果から出てくる日本人の強気な行動に、危惧の念を抱いていた。 これと並行するように、五月二十日夜にラハイナ耕地にストライキが発生した。マウイ島ラハイナ耕地において起こったこの日本人労務者の大ストはやや暴動化がみられ、日本人一名が死亡、三名が負傷するという事態となった。この事件について、次に本田緑川の記述を引例する。 一九○五年(明治三十八年)五月二十日からマウイ島ラハイナ 耕地に、ルナの日本人労働者からストライキが起きた。此処では 警官隊の干渉と労働者の衝突で同胞側死者一名、重傷者三名を出 す不祥事で事が大きくなり、ラハイナ全区の日本人千四百余名の 大ストとなったので、時のハワイ県知事カーター氏は国民軍の非 常召集を行いジョンソン大尉引率の一部隊に野戦砲一台を曳かせ、 高等警部以下十名の警官隊をも同行させ、汽船キナウ号を臨時チ ャーターしてラハイナに急航せしめた。といふのだから一般を驚 かしたに相違ない。しかし罷業現地に国民軍が着いてみると労働 者は休業してゐるだけでその後は不穏な形勢も見せず、兵隊も大 砲も張り合い抜けで手持ち無沙汰。その中に交渉進展で解決した といふのだから、国民軍の出動は結果から見れぱ知事が大事を取 り過ぎたともとれるし、耕主組合が大袈裟な威嚇で一挙に鎮定の 方策を講じたものとも見られる。 五月二十七日、帝国海軍はバルチック艦隊の行方が分からぬまま、対馬海峡を戦場に選んだ。そしてその賭が当たった。日本海々戦である。「敵艦見ゆ」「Z旗揚がる」「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」 この海戦の勝利は世界を驚かせ、そしてこの新聞記事はハワイの日本人を驚喜させた。日本が、あの大ロシアのバルチック艦隊を撃ちのめしたのである。「よもやロシアが、たかだか五十年前には、ろくな船一艘持っていなかった日本という国に負けるとは・・・」 これがアメリカの大方の世論であった。アメリカ人たちは、冷ややかな目で日本を見ていた。 六月十二日、日本はルーズベルト大統領の講和会議開催の提議を受け入れた。アメリカは、日本の期待に応えてくれたのである。アジアの小国があの大ロシアを破ったという驚愕は、中近東から極東にかけての非圧迫民族や植民地の中に、深く影響していった。 ハワイの日本人社会の驚喜は、頂点に達した。ただちに盛大な祝勝会と模擬陸海軍の観兵式がホノルルとヒロで挙行され、各地でも祝勝会が開かれた。 いよいよ当日となりぬ。朝来ホノルル市中の日本人商店は悉く 国旗と球灯とを以て装飾し、領事館の門前には高さ二丈の緑門を 設け、上に天皇陛下万歳、其左右に陸海軍万歳と大書し、国旗、 球灯も草花を以て飾り、館内には門より連続せる無数の球灯を垂 らし、祝捷会委員其他此に集まりて先ず祝意を表す、殊に当日異 彩を放てる擬海軍のマヌケア街の大本営を出て楽隊を先導とし、 擬陸軍亦騎兵隊を先駆として、キング街の集合地より何れも領事 館に会し順次隊伍を整えて遥拝し畢りて、この日の式場たる公園 に悉く集合したり、式場は荘厳なる緑門と数百の球灯と数十流の 国旗とを連ね陸海軍は号令一下、最敬礼をなす、同時に百一発の 砲声は殷々天を震動す、次で開会奏楽と共に順序に依り、最も盛 大厳粛なる式を挙行し畢りぬ。(ハワイ日本人移民史より) 富造の気持ちも高ぶっていた。 ──流石に日本。神武天皇様以来、外患に犯されたことがない。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。z
2008.05.31
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この第二次ワイパフストライキは労務者の主張が入れられないままに復業したが、理由がやや薄弱であるにもかかわらず拡大したのは、第一次ストで全面的勝利を得ていた労務者たちが図にのった行き過ぎであった、ともみられている。いずれにしても、日露戦争の有利な推移がその背景にあったことも否めない。 五月十三日、次女の靖子が生まれた。ホノルルの家族は五人になった。「なるべく早く日本から克己を呼び寄せたいな。戦争からも離せるし・・・」 富造はミネのベットの傍らで言った。「そうですわね。それに兄弟姉妹は、一緒に育つ方が良いですわ」「うん。ところで今日、街で面白いものを見てきた。各国人種の新聞の売り子が、通行人に買って貰おうとして競って集まってくる。俺は誰か知人の車でも来ないかと待つときなど、一番年少で可哀想な子から買いたいと思うがそれも難しいので『ジャンケンをやれ』と言ってみた。すると日本、アメリカ、イギリス、清国、トルコ、ポルトガル、フィリピンなどの八歳から~十二三歳の売り子たちが、おれの目の前で『ジャンケンポ、アイコデショ』とはじめたのには驚いた。それで勝った子から新聞を買ったのだが、『よくまあ、どうしてあんなに上手に覚えたのか?』と訊いてみたら、『学校で日本人の児童に習った』という。ジャンケンも世界的なゲームになったもんだな」「まあ、知り合いの車を待つなんて‥‥。ハワイの人々は大抵自動車の運転が出来るのに、あなたには出来ませんものね」 ミネがいたずらっぽく言った。「うん。俺は顔が広いから、片手さえ上げれば誰彼なく自宅まで送ってくれるんだ。ライセンスなど不要だよ」 日露戦争は無慈悲に進んでいた。ハワイに日本軍兵士の遺骨となって帰って来る者も多くなっていた。日布時事などの日本語新聞に戦死広告の出る日も増え、その葬列も目に付くようになっていた。 ロシアは、押され気味の旅順の太平洋艦隊の補強に、第二太平洋艦隊と改称したバルチック艦隊の派遣を決定した。旅順の太平洋艦隊は、戦艦七隻を持つ大艦隊である。そこへバルチック艦隊の戦艦九隻が合流すれば、全艦で三十隻を超える巨大艦隊となる。対する日本の連合艦隊は、戦艦が四隻に過ぎなかった。日本としては、バルチック艦隊の旅順到着以前に、ウラジオストック艦隊に大打撃を加えておく必要があった。旅順港閉塞作戦での死闘が続いていた。 十月十六日、バルチック艦隊が、レトアニアのリバウ港を出航し、間もなくオランダのスカゲン岬に投錨したとの情報が入った。この戦いにおいでイギリスは中立を守っていたが、日英同盟の関係もあって、その航行の状況を日本へ知らせてきていた。植民地の多いイギリスは、世界各地に情報網を持っていたのである。 十一月一日、 スペイン領ウイゴ軍港。 十一月六日、 フランス領モロッコのジブラルタル港。 十一月十六日、フランス領ダカール軍港。 十二月一日、 フランス領カプーン港。 十二月七日、 ポルトガル領グレートフィッシュ湾。 十二月十六日、マンクラベケナ。 富造や日本人移民たちは、新聞を食い入るように見ていた。彼らの多くの子弟が、日本に戻り、日本軍に入隊していた。「この大艦隊がウラジオストックに入港したら、日本はどうなるのか? ハワイから出征している若者たちはどうなるのか?」 皆がそう心配して話し合っていた。そして日本が勝つようにと心から願っていた。その上でもう一つの願いがあった。この戦争に勝つことで日本が有無を言わせぬ大国になり、人種差別の迫害を免れたいと考えるようになったのである。 しかし外に出れば、いつものような労働の日が続いていた。そして空は、抜けるように青かった。この西に続く遠い空の下で、日本とロシアの大きな戦いがあるとは、まるで信じられなかった。農場や工場で会う白人や清国人は、陽気にゲームでも見ているような感じであった。富造はそれらの人に対して、平静を保つのがやっとであった。 この間にも、帝国陸軍はだんだん近づいてくるバルチック艦隊の到着以前に、旅順港のロシア艦隊を潰そうと必死の戦いを挑んでいた。しかしそのバルチック艦隊が到着するまでの時間を稼ぎをするために、東洋でロシア最強の要塞といわれていた旅順港から梃子でも動かぬウラジオストック艦隊を、やむを得ず背後の二〇三高地から攻撃する作戦を立てた。しかしこの二〇三高地攻略戦での日本軍の死傷者は六万とも言われる多大の犠牲を払ったが、ようやくこれを陥とすことに成功した。 一九〇五(明治三十八)年一月一日、日本軍は、旅順市街に攻め込んだ。三日後、ついに旅順港が陥落し、七日には水師営でステッセル将軍が降伏文書に調印した。「勝った勝った、日本が勝った」 ハワイの日本人たちも歓声を上げて喜んでいたが、しかしその間にも、バルチック艦隊は刻々と日本に迫っていた。「勝った」と言って喜んではいたが、それは陸上の局地戦に過ぎなかった。いずれ雌雄を決する海戦がはじまる筈である。そのことはまた、ハワイの移民たちにとっても気になることであった。世界地図を持ち出しては、その艦隊の動きに一喜一憂していた。 一月六日、バルチック艦隊はフランス領マダカスカルのセントマリー島に寄港した。一方日本軍は大陸を北上し、沙河、奉天に至っていた。島国である日本からこの陸軍への補給は、海路に頼らざるを得なかった。日本はどうしても、制海権を確保しておく必要があったのである。「あのときアメリカ人は、日本人は気が狂ったと思ったようです」 後に富造は、そう述懐している。 このような二月二十八日、サンフランシスコ・クロニクル紙が「日本人の侵略ム現代の問題」という見出しで掲載し、激しい反日キャンペーンの口火を切った。結果はまだ出ていないが、いまのところ優勢な日本軍を背景にした移民たち動きに、「日本人の侵略」というテーゼを与えたのである。 それに対抗するかのように、日本はこのとき世界の意表を突く行動を起こした。四月五日、早稲田大学の野球部がアメリカ遠征に出発したのである。アメリカでは、スタンフォード大学、カルフォルニア大学、ポマナ大学、デンバー大学、アイオア大学、シカゴ大学、コレア大学の野球部とそれぞれ対戦の予定であった。野球はアメリカの国技である。日本は戦争の最中に、平和の使節を送り込んだのである。日本は日英同盟の下にあったが、ロシアとの戦後処理の場合、アメリカの好意を必要としていたからである。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.05.30
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日 露 戦 争 それまで不調であった日露関係から、一九〇四(明治三十七)年二月六日、日本は対露国交断絶を通知し、同月九日、日本艦隊は仁川のロシア軍艦、ワリャーグとコレーツを攻撃してこれを撃沈させ、翌十日には宣戦が布告された。日露戦争である。そしてその三日後には秋田沖を航行中の商船・奈古浦丸がロシア軍艦に撃沈され、十五日には朝鮮の仁川沖で本格的な海戦がはじまった。陸上では朝鮮半島の仁川に上陸した陸軍が平壌に達し、さらに北進をはじめた。それから数度に渡って旅順大海戦や旅順閉塞作戦が行われたが、雌雄を決し得なかった。在満州ロシア陸軍総司令官のクロパトキン将軍は大軍を擁し、旅順救援のため奉天へ南下してきた。 ハワイの日本人会でも、議論がされていた。「本当に日本は、勝つ積もりなのであろうか? 日清戦争とは、訳が違うのではないか?」 「うん。武力は国の大きさに正比例しないとしても、国の面積は日本が一に対してロシアは六十もある。その上ロシア軍は、朝鮮の国境にまで進出してきている」「短期戦、地域限定戦ならともかく、果たして日本に、ロシアの大地を首都ペテログラードにまで攻め上る力があるだろうか? ペテログラードは、シベリアの遙かに先だ」「それにあの日清戦争という大戦争から、いまだ十年と経っていない。戦費は賄えるのか?」「今度、アメリカ海兵隊がハワイに常駐するようになった。アメリカは、戦火がフィリピンに波及すると恐れているらしい」「それらも心配だが、日本軍に志願して帰国する若者もいる。やはり日本人の血は争えないのかな?」「お国のためとはいえ、また若者が死ぬのか・・・」「しかしお国のためとは言うが、われわれのお国とは日本かアメリカか? われわれはアメリカのために死ねるか?」 誰も、それに対する解答の持ち合わせがなかった。その話になると、自然と沈黙が支配せざるを得なかったのである。 (日露戦争の経過 Wikipedia より) 四月、富造は東京へ戻った。今回は移民の仕事ではなかった。日露戦争の推移と国民の感情を知りたかったのである。そして末日聖徒イエス・キリスト教のテイラー日記によると、富造は東京の末日聖徒イエス・キリスト教会の日本伝道本部を訪問している。あのソルトレークで一緒に過ごした仲間や、その知り合いがいたのである。その再会の第一声は、「懐かしい」の一言であった。 ハワイのカツヌマ兄弟が四日の日曜日、(伝道本部)訪ねてき た。カツヌマ兄弟は世界中で最初に教会に入った日本人である。 何年も前、彼はユタで改宗した。彼はアメリカ市民になり、今は 公務員として働いている。(略)彼は今日本の親戚を訪問してい る。(略)(彼は)私たちが成し遂げたことを喜んでいる。(略) 彼はいくつかの賛美歌が自分の母国語に翻訳されていることを知 って喜び、さらに翻訳できるようにと、伝道部の書記に十ドルを わたした。 (日本末日聖徒史より) 単身三春に帰った富造は、十五歳になった長男の克巳と再会した。しかし喜ぶ克巳に、「いま少しな。必ず迎えに来るから、もう少し待っていてな」そう言って慰めるのが精一杯であった。その顔は、辛さでこわばっていた。 富造がハワイに戻った五月、エワ耕地の大ルナおよび耕地雇い巡査による非行が起き、全耕地の日本人労務者がストライキを決行した。これは前回(一月)にまさる、大騒動となった。このため中央日本人会会長の斉藤幹、同会理事で大和新聞社長・石川淡、同理事・小沢健三郎(元年者の次男、二世で弁護士)の三名が出張して調停し、二日後の五月二十九日にようやくストライキが収まった。 この同じ月、オアフ島ワイパフでもストライキが起こった。これは一週間にもわたり、最も大がかりなものとなった。このストライキの原因となったのは、耕地創業以来の大ルナとして羽振りきかしていた一白人が、毎月一回ないし二回の富くじを日本人労務者に売り付けて暴利を占めていたことにある。無理な押し売りに苦しめられた結果、ついに日本人移民の結束のもとにストライキ決行となったのである。この事件の調停にあたって、斎藤総領事を会長とする中央日本人会に対する不平や、同会ワイパフ支部長安達の不正行為などがからんで一時は混迷したが、布哇新報社長・志保沢忠三郎が地元の有志・森田栄らの懇望によって尽力し、富くじ売りの大ルナのパターソンを辞職の名目で解雇することを支配人に承認させることに成功した。その他日本人キャンプの巡査の罷免、小ルナ数名の解雇などが容れられ、一週間目に日本人労務者の完全な勝利となってようやく復業した。 このワイパフ耕地のストライキ後、わずか二カ月目に第二次ワイパフストライキが起こった。この時は、七月二十一日に日本人のルナの末広の横暴を理由として馬使いの日本人労務者がストライキを起し、末広を解雇するよう耕地主に交渉したが理由薄弱として拒杏された。そこでこれを見過ごしては日本人労務者の体面にかかわるとして、全耕地の大ストライキに拡大した。 この頃、中央日本人会と対立する形でワイパフにはワイパフ日本人会があり、この会の暗躍があるというデマも飛んで混乱し、斎藤総領事、小沢健三部、志保沢忠三郎らの調停も奏効せず、最後の手段として念仏宗門の総長で西本願寺監督今村恵猛に調停を要請した。結局今村の仏教精神による説得によって和解したのであるが、今村は当時のことを次のように述べている。「憤激したる同胞労働者は、総領事の訓辞に耳をかさず、却って総領事館や移民会社が耕主と内通しているものと推量して、悪罵を放つものさえあって、折角の出張も却って労働者を益々激せしめ、薪に油を注いだような結果に終って終った。私は同胞の罷工を耳にすると、早速耕地に出張し懸間旁々罷工の実状を調査していると、耕主は之を喜び、直ちに私に向い、同胞を慰論して呉れと頼んだので、依頼に応じ活動の結果ようやく慰撫することが出来た。復業したのは罷業開始後十一日日であったろうと思ふ。(注・復業は七日目であった)耕主が本願寺を認めたのは其時からである。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.05.29
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「日本民族とは、何を考えているか分からない民族である」 アメリカ人とは、まったく価値観が別であった。この時代にも、日本の国内では人が世を捨てるということ、つまり国家と個人は別という考えはあった。しかし移民たちにとっては、人間と日本人が同意語であった。そのため海外に出た日本人が、日本を捨てるということはあり得なかった。だから移民たちには、アメリカ人の主張に対して何かどうしようもなく固いものが、その心の中に詰め込まれてしまったのである。そしてこの思いこそが、日本人を嫌悪する日本人を生むことになってしまったのである。 大西洋と太平洋のつなぐ運河の建設を考慮していたアメリカは、当時コロンビア領であったパナマに独立運動を起こさせ、これを救援する名目で軍隊をパナマに派遣してパナマを分離し、独立させることに成功した。そこでアメリカはパナマの傀儡政権との間に条約を結び、運河地帯を永久に租借することにした。永久に租借とは、実質的にアメリカ領土になったということでもある。「たしかに昔やった末日聖徒イエス・キリスト教のサミエル・ブランナンのように、大西洋から南米のホーン岬を回って太平洋に来るのでは、いざ鎌倉という事態には、間に合わないが・・・」 アメリカは自己の都合に合わせ、そのテリトリーを拡大していた。 アメリカ本土においても、日本からの移民およびハワイからの転航者の増加は、排日運動を次第に組織化しはじめた。アメリカ労働総同盟がサンフランシスコで大会を開き、日本人労務者の排斥を決議した。清国人に次いで、日本人もその目標となってきたのである。 排日論の根拠にあげられる日本人非難の論点は、いくつかに分類できる。日本人移民がアメリカに渡った初期に見られた非難点は、「アメリカに同化せず喧嘩早い」「頑固で短気である」「公徳心が低く風紀が悪い」「生活状態が悪い」ということや、「余裕金は日本へ送金して、アメリカの経済に寄与せず、資金を枯渇させる」「長時間低賃金で働き、労働基準を乱す」という点であった。 前半は、文化的・宗教的基準で日本人の生活を批判したもので、明らかに非文明的なことや野蛮なことを軽蔑し嫌悪するキリスト教的価値観、とくに、禁欲的に勤労と貯蓄を奨励するビューリタン的道徳観が表わされている。それであるから同化という言葉は、こうしたアメリカ的価値観や道徳感への一元化を意味していた。 また後半の指摘は、経済的に限られたパイの分け前が減ることへの恐怖感が表明されている。このことはさらに、自由と機会の国アメリカにとって、経済的機会がいかに重要な意味をもっているかを表しているともいえよう。 さらに時を経るにつれて、日本人移民への非難は、「出産率が高い」「禁酒法に従わない」「日本への愛国心が強い」「協調的でない」「アメリカに対する忠誠が疑われる」「二重国籍である」という点に向けられた。焦点は明らかに、アメリカ合衆国という国家への忠誠間題に関わっていた。これらの指摘は、アメリカの文化、宗教、経済、政治に及んでいた。これらはいずれも、アメリカの琴線に触れる間題であったのである。ハワイでも、排日の流れが強まってきた。しかしそれでも日系移民の比率が、アメリカ本土に比べてハワイの方が高いことで、その危険な均衡を辛うじて保っていた。アメリカの移民官として、しかしまた日本人として、富造は移民たちの生活とその向上に、両者の間で腐心していた。 富造夫妻は移民の妻たちの集会、婦人会を立ち上げた。慣れない所でする苦労や悩みの解消の場にしようとしたのである。 今日もミネはメンバーに誘いの電話をしていた。「ハーイ奥さん。なにもありませんが、二月五日、どうぞお出で下さいまし。ハイ、お昼飯を上がらずに・・・。ハイ、さようなら」 それを聞きながら嫌な顔をしていた富造は、ミネと電話を代わった。「イヤ。この二月五日の日曜には、ご婦人方の大集会を拙宅で開くことになっています。お昼飯を差し上げようと思いますが、ご馳走も沢山あります。ハイ、十二時半までには是非お出でを願います、ハヽヽハイ、お子様もお連れ下さい。ハイお待ち申します。さようなら」 ミネが変な顔をした。「『なにもありません」と言うことも日本の結構な習慣かも知れないが、粗茶、粗飯を差し上げますから是非、の方がいい。『なにもありません』は、There is nothingという意味ではあるまい? それからついでに言っておく。雑煮などを作るとき、先に一度切り餅をアイスボックスで冷やしてから作るとうまい。三春は寒かったろう?」 今度はすかさずミネが逆襲した。「あなた。マウナケアから氷でも取ってきてくださいます?」「・・・」 移民局の経費の都合で、三月から各員交代で一カ月の無給休暇があった。そのエイプリルフールの日、富造は甘藷を持って総領事館やホテルを回り、法外な高価で売りつけた。冗談の金額と分かっていても、富造の人柄を知る人たちは誰も断れなかった。「あなたは商人になれば、大成功間違いなしね」 ミネの言う冗談に、「あぁ、なんでもやらせてみろ。うまくやってみせるから」 富造は得意げな顔をした。ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.05.28
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東北地方は冷害に襲われ、凶作に苦しんでいた。その後も富造は、ハワイに日本人移民を多く受け入れることは偏見の緩和になると考え、福島県からの移民の受け入れに力を入れていた。富造の依頼を受けていた渋谷金四郎は熊本移民合資会社の出張所にも関係していたが、独自の会社・東西移民会社を保証金三万円で設立し、福島の陣馬町(いまの稲荷神社の南側)に事務所をおき佐原七郎を業務担当者としていた。また一方では、広島海外渡航株式会社の代表麦田宰三郎(広島選出衆議院議員)は、移民取扱人渋谷金四郎の名義を借りて代理業務を行なう手続きのため書類進達願等を提出した。その上で熊本移民会社福島支部の小山雄太郎などの活動により、福島県からの移民たちは順調に集まっていた。 明治三十五(一九〇二)年の二月二十日、ホノルルで次男が生まれた。「今度こそ名前は丈夫にしよう」 富造は前から考えていた名を付けた。長男の克己の、虚弱な体質を気遣ってのことであった。その半面、富造夫妻は三春に残して来た子どものことが気になっていた。 そしてこの年の一月三日一時、第三回福島移民船・レノックス号が、福島県人百二十人を乗せて横浜を出帆、十四日午前十時ホノルルに着いた。 しかしこの日本から移民を決心する人たちの多くは、資本家や地主による搾取、高額な租税、さらに努力にそぐわない収入などで貧しさに喘いでいた人たちであった。その貧しさから逃れるために移民の覚悟はできても、今度は多額の旅費が必要であった。その旅費の借り入れのために、また借金が嵩んだ家は多かった。借金に借金を重ねた移民たちは、なんとしても働いて返さなければならなかった。そして移民に出す家族自体が、彼らからの送金を期待していたのである。 まず移民をするための費用として、熊本移民会社福島支部に手数料が二十円、横浜からホノルルまでの船賃が六十円、さらに横浜までの汽車賃と乗船のための検査と船待ちの宿賃で二十円の合計約百円を必要とした。百円は大金である。これら移民のほとんどが百円の都合をやっとつけて船に乗るのであるから、ホノルルに着いたときは無一文の人が多かった。その移民たちの生活に、さらなる苦しみが待っていた。その苦しみは、経済的な意味で日本に帰る手段を断たれたことになったため、一層重さを増すことになるのである。 海外雄飛という大志を抱いて来た移民たちであったが、ハワイに着いた当初の生活は厳しかった。 私がハワイに上陸すると、白河の者でカナカ土人を女房にして いる男が、この馬鹿め、ハワイに綿入など着てくる奴があるか、 と言って私を怒鳴り突きとばしました。ハックに乗って町を通り 抜け、柳井屋という旅館にとまりました。青バナナを買って口を そざし、番頭さんにひどく笑われました。 (福島移民史 栃久保ヤス) 現地の事情に疎い彼らは、まず砂糖キビ農場に雇われた。そこには小さな共同住宅があったが、そこの便所、馬小屋などから立ちのぼるさまざまな臭いは、鼻を刺すようでそこら中に充満していた。照明は暗く、人々の身体は不潔で虫だらけだった。食べ物はしつっこい味で粗末であり、たまの肉はたっぷりの塩で塩漬けにされており、ひどい味がした。病気になっても身体の具合が悪くなっても手当されることはなく、ただ病気に堪え忍ぶだけであった。そして屋内にいても、厳しい暑さから逃れる術はなかった。 このような事情を知らなかったか無視をした代表的な移民県である山口県の知事・原保大郎が、ハワイ移民に与えた告諭「山口県民布哇国出稼者に告ぐ」の一部を左に引用する。当時の為政者の感覚が知れよう。 (砂糖黍畑で働く女性移民) (略)嗚呼郷土の恋々たるを離れ遥かに万里の波涛を超えて出稼 ぎするものは何の為めなるか。其意果たしていずれに在るや。決 して日本人民の恥辱を海外にもたらし、以て外人の笑侮を招く為 にあらざるなり。又た飢餓に迫り路傍に彷徨する如きことを希ふ ものにあらざるなり蓋し其目的とするところは、能く其業を努め 得る所の金銭他日帰朝のの後由て以て一家の生計を立て其身家を 利せんとは欲するにあらずんばあらず。出稼者あに注意せざるを 可けんや。今や出稼者は故郷を辞し、将に海外に赴かんとす。余 は出稼者に向って説に戒告する所あり、即ち他にあらず。彼国渡 航の上は、能く諸般の規則を遵守し、違反の責を受くること勿れ 愛国の赤心を有して邦家を忘るること勿れ。厳に品行を正し、ふ して日本臣民たるものの恥を海外に貽すこと勿れ。能く其業を勤 めて金銭を浪費すること勿れ。同胞和扶持し、互に猜忌すること 勿れ。凡そ此数件の事は必ず日夜服膺して忘るることなく、能く 三年の期を終へ、健康富を致して、帰国するを待つものなり。出 稼者の発するに臨み一言述べて、以て贐となす。 もともと、日本人移民の背後に大日本帝国という国の強力な軍事的影を意識するアメリカ人は少なくなかった。彼らは日清戦争における日本の戦勝と領土的膨張につれて、日系移民を含む日本人全体を陰であやつっている組織があり、人間がいるのではないか、という猜疑心をつのらせていた。その上、在ハワイ日本総領事館が、在留日本人の出生届や死亡届、さらには日本の国勢調査を管理して徴兵猶予願いを扱っていたことも、警戒される一因であった。それは日本の主権が、ハワイにも及んでいることを示していたからである。さらにもっとさかのぽれば、移民渡航開始当時、例えば、一八八五年に広島県知事が記した「広島県民布畦出稼者に告ぐ」という告論の中で、「日本の臣民たる事を忘れず、恥を海外に胎す可らず」と諭しており、また一八八八年には大隈外相が、ハワイの憲法改正による在留邦人の参政権喪失に対して抗議するなど、ハワイの日本人移民に関する間題は日本国内間題の延長上で扱われることも多かった。さらに、出先公館でも、一九○三年には斉藤幹総領事が日本の統一団体である中央日本人会を利用して日本人を指導し、さらに現地の日本人間題に直接介入していたこともあった。 こうした帝国政府や出先公館のハワイ日本人移民社会への干渉は、一九○○年初頭まで続いた。しかし他方、日本人移民の側も、高圧的な日本の官僚の采配には強く反発することが多かった。 例えば移民会社の傍系事業会社として京浜銀行が設立され、官僚たちは移民の預金や本国送金だけでなく、移民各自からの手数料のほかに資本家組合側からも手数料を受け取るなど、二重三重の収益をあげて移民や労務者からの反発をかっていた。中央日本人会の役員が、日本総領事のほかに移民会社や京浜銀行系の人物が多かったこともあり、現地日本人が一九○五年に結成した革新同志会(志保沢恵三郎委負長)が、布哇新報、布哇日々、新日本を通じて攻撃していた。このため一九○五年以降、外務省当局は京浜銀行に対し、ハワイ移民に強制的預金をさせることを禁止し、以前に作成した預金契約についてもその履行を強制することを厳禁した。 そして極めつけは、初期の日本の学校と何ら変わりのない教育方針による、ハワイでの日本人学校教育に問題があった。学校では日本の三大祝日には皇居遥拝をして拝賀式を挙行し、天皇皇后両陛下の御真影に最敬礼をし、君が代を歌って教育勅語を奉読した。これは多くの一世に永住土着の気持ちが薄く、ほとんどが故郷に錦的な帰国を目標としていたため、子どもたちをアメリカ市民にしようという信念がなかったこともあった。しかし白人の社会は天皇を神とみなしそのように遇する日本人社会に、疑惑の思いを強くもっていた。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.05.27
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このようなときに起きた事件について富造が相賀に聞いたのは、その日の夜のことであった。それはホノルルに入港したアメリカ丸の検疫に際して、アメリカの検疫官コッファーが、日本女子留学生二名と日本領事官補夫人とその侍女の四人を素裸にして、下劣卑猥な手段を弄したという侮辱事件であった。 日本人移民の強い反発の世論にもかかわらず、その後何日経っても日本領事館側は解決に消極的であった。そのため富造はアメリカ官吏の移民官であるということから板挟みになり、難しい立場に立たされた。しかし後に、この侮辱を受けた被害者の一人が外交官の夫人であったことを知った日本人移民たちは激昴し、ホノルル日本人小学校に二千名余の人々を集めて糾弾大会を開催するに至った。この騒ぎがアメリカ政府をも動かし、その結論として、アメリカ政府の正式な謝罪とコッファーの更迭、以後の女性の検疫には女医を当てることで一応の決着をみることとなった。「相賀さん。ペスト焼き払い事件、今度の婦人侮辱事件、各地での差別事件と日本人への差別が多すぎます。日本人の権益擁護と発展のために、ハワイ全島を統一した代表機関が必要です。日本人なら誰でも頼れる中央日本人会を結成し、何か事が起こったらすぐ行動するようにしませんか?」「勝沼さん。私も賛成です。私は先ず日本人が日本人として、ここで恥ずかしくない生活が出来るようにしたいと考えていました」 しかしこの日本人が日本人としてと言うのは、易しいようで難しい問題であった。ここはアメリカの領土であったからである。 相賀は民間の新聞人として中央日本人会の役員に参加して行ったが、富造は移民官という立場上役員にならなかった。しかしこの会を設立するため、ハワイの日本人たちの指導的立場にあった富造や小野目文一郎、そして奥村多喜衛などは各地を遊説して歩いていた。 やまと新聞を改題した富造らの日布時事は、人種偏見の廃止、日系アメリカ人としての意識の高揚、参政権の獲得、労働条件の緩和、賃金の改善などに、その論調を置いていた。また日布時事は、本土転航の高まりに追随してアメリカ本土に渡ってもハワイより特に良い訳ではない、いわゆるアメリカン・ドリームは医師や弁護士など一握りの資格や技術を持った者たちにしかないと主張し、啓蒙していた。これは富造の、サンフランシスコでの自分の経験を踏まえての論調であった。 ハワイの日系二世などの若者の間に、アメリカ化運動が起きた。被差別から逃れるための一法と考えたのである。しかし日本人対決派などは、「アメリカ人のようにふるまわなければアメリカ人ではないというのはおかしい」と反駁していたが、日本人労務者や一世の反応も、概してこのようなものであった。特に白人には黙って従うことがアメリカ化だと若者が錯覚することを恐れ、同化派の運動に反発する者も多かった。また同化するにしてもどの程度、どのような形で行うかが議論の対象となっていた。そしてこの同化派と対決派の対立は、キリスト教徒(支持者)と仏教徒(支持者)の対立をも顕在化させていった。末日聖徒イエス・キリスト教会の会員であった富造は、微妙な立場に立たされていた。とにかく日系移民の間では、折に触れてこの問題が浮上した。これは移民たちの、アイデンティティの確認の作業でもあったのである。 このような時に、ソルトレーク・シティの末日聖徒イエス・キリスト教会の本部は、東京に日本伝道部を設立するとの声明を発表した。「伝道は成功します。なぜそう思うかと言えば、日本人が驚くほど進歩的な人々であるからです。もちろん、私は読んだり聞いたりしたことの他は、日本人のことをまったく知りません。(略)東洋人のなかでも、彼らは疑いなく最も進取的で聡明です。(略)ある専門家たちによると、知識を吸収することに関して、世界で彼らに勝る者はいないとのことです」 そして間もなく、一〇〇人以上の人々に見送られた四人の宣教師たちが、汽車でソルトレークを出発、オグデンを経てオレゴン州のポートランドへ、さらに汽車でシアトルを経て、バンクーバーへ向かった。バンクーバーからは、カナダ太平洋鉄道の蒸気船、エンプレス オブ インディア号に乗船、日本に向けて出航して行った。「日本でも布教をはじめる」 このニュースは、ハワイの教会でも嬉しい出来事として受け取られていた。「迫害された歴史のある末日聖徒イエス・キリスト教会が、欧米から迫害されている日本にも必ず根づく」 富造は教会員たちに、そう話していた。それはまた自分の経験であり願いでもあった。 朝鮮ではロシアが満州から南下して鴨緑江を渡り、龍厳浦を占領して新たな軍事拠点を作りはじめた。龍厳浦は、旅順や大連とウラジオストックを結ぶ要衝でもあった。日本が大陸に進出しようとした裏には、ロシアに樺太や朝鮮から攻め込まれるのではないか、という恐れが強かったからである。そのために日本はロシアを仮想敵国とした日英同盟を結び、これを背景にして朝鮮、清国を舞台にロシアとの対立を深めて行くことになるのである。 この年に、清国人移民禁止法が完全に実施された。富造は、またアメリカは人種で差別するのかと思ったが、これが日本人には吉と出た。日本人移民に対して需要が高まったのである。それには、ハワイにアメリカの法律が適用されたため、ハワイと本土の間の交流が自由となったこともあった。そのため過酷な砂糖キビ畑の労働から逃れようとした日本人たちは、アメリカ本土に新天地を求めて大移動を開始したのである。いわゆる大陸転航である。ハワイの農園経営者たちは、これら日本人移民を農園に繋ぎ止めようとしたが、うまくいかなかった。そのためにハワイの側では労働力が不足となり、慌てたハワイの農園経営者たちは日本人移民の移動をくい止めようとしていた。労力温存のため大陸転航阻止運動を起こしたのである。ところが逆に、多くの日本人に押しかけられたアメリカの本土でも日本人排斥運動が広がり、大陸転航阻止運動となった。はからずも双方の側で、大陸転航阻止運動が起こったことになった。 わしらオオラウで、兄が頭で大きなカントラッキをやりおった。 三○○人ほども仕事人を使って。それを三年目に人に取られちま ったのよ、入札で、ね。それを取ったのが、岩佐(末次)ってい う人よ。こりゃァ、福岡県の人だ。二年やって三年目に岩佐カン トラクターに取られちまったために、今度は渋谷カントラクター が、財政上自分の車廻らんようになっちまったわけよ。みんなブ ランテーションの仕事だから、大きい車廻らんようになっちやっ て、自分の人間がみんなそっち〔岩佐の方〕にムーブしちまった から、三○○人位でナニしよったのが、五○人ばっかになっちや ったでしょうがァ。そいであの野郎が無茶苦茶になって、『おら、 アメリカさ行ぐ』ちうて。『おら、勝沼ンとこさ行って、アメリ カさ行くように頼んでくる』って。そしてホノルルへ出てきたわ けよ。そして勝沼さんにオッケもらうたよ。 (福島県移民の記録より)ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.05.26
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このようなとき、ハワイにペストが大流行した。 ホノルルのアジア系人居住地域に発生したペストの患者総数は七十一人にも及び、そのうち死亡者は六十一人にもなった。そのために不潔な黄色人種が住む清国人街や日本人街が病気の巣窟であると認識したハワイ領土政府は、大胆にもカナカ教会付近の患者発生家屋を焼却しようとして火を放った。ところが、患者の発生した家だけを焼く積もりの火が周辺一帯に燃え拡がり、約六〇〇〇人の罹災者を出してしまったのである。大きな火の渦に焼け出され、少しばかりの家財道具を持って逃げまどう人々を見ながら、富造は子どもの頃に見た三春の大火の様子を思い出していた。 ──お姉ちゃん大変だ。あのとき以上の大火だ。しかも今度は、ハワイ領土政府が付け火の犯人だ。 燃え上がった火が、竜巻のようになって風を巻いていた。 この焼き払い事件による被災日本人は三五八九人、家屋は一七六軒にも及んだ。焼け出された日本人たちは、日本人小学校などに収容されたが入りきれず、総領事館でも緊急のバラックを建てて対応した。その一方でハワイ領土政府は、類焼した白人の避難民のためにクインズホテルなどを提供した。自分たちとの差を見た下層の白人やバラック住まいの移民たちが抗議したが、ハワイ領土政府は軍隊を派遣し、力でこれを押さえ込んでしまったのである。 (ホノルルのペスト放火事件) ──またも武力か・・・。力で押し切ることが正義か! 富造らはアメリカをバックにしたハワイ領土政府の行動に、無力感を感じていた。しかし富造や相賀らは、当面の被害者救済と政府への損害賠償要求に備えて、臨時日本人会を組織することにした。「立ち上がれ日系人。いま、われわれが立ち上がらなかったら、悔いを千歳に残す」 その共通する思いから、従来からあった日本人慈善会、日本婦人会、日本人医会など組織が結束して臨時日本人会を作り、さらに同じような大被害者であった清国人とも手を組んで日清人連合大会を開き、共同戦線を張ることとなったのである。あの日清小戦争の後遺症が、消えようとしていた。 ──歴史は、こういうことから作られていく。 富造はそう思った。 日本でも新聞が、この事件に対するアメリカ政府の態度を糾弾していた。 それに対応するかのように、アメリカの軍事改策立案者らは、アメリカ連邦議会から一○万ドルの歳出を得、軍艦の大型化と真珠湾の入口付近の珊瑚礁をさらに剤り取る工事を開始した。移民たちの反抗に備えるという名目で、ハワイでの軍備拡張をはじめたのである。アメリカからの軍事的圧迫を感じた日系人は、強く反撥していた。 このハワイ日本人街焼失事件は、日本の新聞でも大きく報道された。これに驚いたか、周太郎が自分の長男の逸郎と富造の妻のミネとその幼い清水を連れて駆けつけて来た。ミネは、長男の克巳を三春に預けての渡布であった。三春の親元ではハワイの様子を心配するミネに、「今回は長男を置いて様子を見に行き、落ち着けるようであったら子どもを連れに戻って来い」という条件で送り出したのである。このはじめての外国への航海に、ミネは驚かされることばかりであった。 (富造と清水) 「船に乗ってからだが、ミネさんは外国人の船員に握手を求められたとき、どこかへ引っ張って行かれると思って逃げ出したそうだ」 この周太郎の饒舌に、富造は思わず笑った。ミネは、義兄さんは何もそんなことを言わなくともいいのにと思いながら心の中で睨みつけ、「それにしても、ハワイは暑いところですわね」と言って話題を変えた。「ところがミネ。このハワイでも雪が降るんだ」「えっ、ホノルルにも雪が降るんですか?」 意表を突かれて、富造は思わず笑った。「まさかホノルルには・・・、山に降るんだよ山に」「まあー、それにしてもどこの山ですか?」 ミネは清水を抱き上げながら訊いた。「ちょっと南のマウイ島のヘレアカラ山、それからさらに南のビッグアイランド(ハワイ島)のマウナケアやマウナロア山にも降る。マウナケアはハワイ島の北半分を占める休火山だが,海抜四二〇五mで富士山よりも高い。頂上に万年雪があるところからハワイ語で『白い』または『雪を頂く』という意味のケアという名がついた。マウナは山だ。伝説では雪の精や雪の女神のポリアフが住んでいるのだそうだ。ここには十一月の末から三月まで積もる。それと極く稀にだが、同じ島のフアラライ山にも降ることがある」 ミネはこの南の島にも雪が降るところがあることに、大いに驚いた。子どものときの雪遊びの話に花が咲いた。その話をしながら、富造は深い望郷の念に沈んでいった。 周太郎親子は、しばらくハワイで暮らすことになり、富造の口利きで日本人病院に勤務することになった。 アメリカの本土やハワイでは劣悪な労働条件に不平も言わず、日本人移民たちが明治の人間らしい勤勉さで働いていた。その就業職種は、鉄道敷設、缶詰工場、材木切り出し、鉱山労働、そして砂糖キビ畑での肉体労働であった。ところが白人の肉体労務者にとっては、彼らの仕事を奪うという意味で日本人も清国人も同じことであった。この労働機会の減少に対する白人労働者の不満の高まりに対し、カルフォルニア州知事ゲージは、カルフォルニア州議会への教書のなかで次のようなことを述べた。「清国人労務者より受ける危険と日本人労務者の無制限な移入によって受ける危険とは同一性質のものである。労賃の低廉さがアメリカ人労働者の大きな脅威となる。日本人移民を制限するために日本と条約を結び、同時に連邦議会を動かして排日法案を制定させることが必要である」そのことを知った富造の脳裏の中で、汽笛を鳴らし荒々しい音を立ててあの貨物列車がアメリカの大地を走っていた。排気とクランクの音が通り過ぎる途端投げ出された荷物、そしてそれらを拾い集める日本人労働者。あのジャップキャンプ周辺の景色が、苦い思いとともに思い出された。 ところで一八九五年のハワイの反革命運動に参加したクヒオ王子は逮捕監禁され、釈放後ヨーロッパに逃亡していたがハワイに戻り、ホームルール党(旧反革命者が結党)に入党していた。彼は白人に対して怒りをもち、ハワイ人のためのハワイを標榜していた。しかしホームルール党は白人攻撃と併合非難のみに終始したためこれに幻滅して共和党に移り、連邦議会代議員に当選した。このことにより、ハワイ人指導者とアメリカ資本との間の蜜月状態が、しばらくの間続くことになった。 ハワイでは、社会の支配層を形成していた白人の間でも抗争があった。それは砂糖耕主層とそれ以外の都市居住の実業家や自由職業層との間に展開されていた。それはさらに、低賃金で労力を提供する日本人など移民の大量移住者による契約労働をめぐって顕在化していた。 それらもあってアメリカ政府は、日本と旧ハワイ王国との間で結ばれていた官約移民を廃止したが、自由な契約による移民の入国には理解を示していた。そのため、毎便六十人程度の日本人移民が、ハワイに入島していた。富造の移民局における仕事は、増えこそすれ減少することはなかった。日本からの移民船があると、富造ら移民官は税関吏とともにランチに便乗して沖合いに仮泊中の汽船に乗り込み、桟橋や埠頭に横づけになるまでの間に乗客の下調べをした。上等船客はいたって簡単だったが、移民の多い三等船客たちはまず移民局に収容された。ここで富造は、彼らの必要な調査に立ち会っていたのである。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.05.25
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一八九九(明治三十二)年一月十四日、福島県からの移民第二船レノックス号が、ホノルルに入港した。そしてその二十四日、長女が三春で誕生した。名は富造の希望通り、清水(きよみ)と付けられた。しかし産後のこともあって、またも家族を呼び寄せるチャンスを失っていた。 この時期、多くの日本人移民がハワイに渡ってきた。ハワイのサラッとした風は、日差しとは似合わぬ涼しさを運んでいたが、それは家の中や椰子の木陰での話で、暑い太陽の下での砂糖キビ畑での労働となると、その話は一変した。強い日差しが、彼らの肉体を苛んだのである。その上、彼ら移民してきた労務者たちは、雇用主やルナに名前で呼ばれたことがなかった。すべての移民は番号で処理され、呼ばれていたのである。それはまた、人間として認められていない、ということを実感させられていた。この予想外の差別と重労働を、移民たちは歌で紛らわしていた。 ホレホレ節 一回二回でヨー 帰らぬ者は 末は布哇でポイの肥え 明日はサンデーじゃヨー カネはハナワイわしゃ家に 出稼ぎは来る来るヨー 布哇は詰まる 相の中山金が降る 行こかメリケンヨー 帰ろかジャパン 此処が思案の布哇国 条約切れたらヨー 頼母子落とし 行こうかマウイのスペクル(スペクル耕地)へ 雨が降りゃ寝るヨー 日和なら休む 空が曇れば酒を飲む 旅行免状のヨー 裏書き見たが 間夫をするなと書いちゃない 頼母子落として ワヒネを呼んで 人に取られてベソをかく 注 カネ=夫。ハナワイ=仕事。ワヒネ=女性・妻。 たまたま車を運転中に聞いたこの歌の合いの手に、「烏な ぜ泣くの」のメロディが入っていた。ただし最初からそ うであったかどうかは、分からずじまいである。 ──雇用主やルナたちは、日本人移民を人間だなどと思っていないのではなかろうか? この重い思いが、富造を末日聖徒イエス・キリスト教会の敬虔な信者としていた。この年に、この教会のハワイ地域大会が、ホノルルではじめて開かれた。そのときの司会をした富造はハワイ語でこなし、参加者を驚かせた。集会後、富造は礼拝堂に行った。久しぶりの教会訪問であり、聖餐式であった。 ──末日聖徒イエス・キリスト教会の福音を伝達するためハワイ王国に渡り、カラカウア王の内閣の首相まで務めたギブソンの遺志がハワイに残っていて欲しい。 そういう祈りと願いでもあった。 ハワイでは岡村多喜衛牧師などにより、日系人小学校が各地に創立されはじめていた。しかし学校教育の経験のない彼らは、日本の国定教科書を取り寄せて授業をはじめたため、結果として、日本の精神風土をそのままハワイへ持ち込むことになってしまった。それは天皇への忠誠心を形成し、良き帝国臣民を育てるために構成された教科書であったからであり、またほとんどの家庭では、天皇皇后両陛下の並んだ御真影を飾っていたからである。そのことは日系人以外の人たちに、疑心と不安を沈潜させることとなった。ハワイの日本人にとって、この教育がそんなことになる原因であるとは思ってもいなかった。富造はアメリカ人になりきろうとしたがそれは無理なことであったのではないか、と考えていた。しかしそれはまた、自分とはなにか? という疑問との闘いでもあった。 (廃校となった日本人小学校・ハワイ島) 明治三十三(一九〇〇)年、 清国の山東省に発生した義和団が清朝の積極的支持を得て、急速にその勢力を拡大していた。イギリス、アメリカ、ドイツ、フランスは軍艦を太沽に派遣し、清国政府に義和団鎮圧を要求した。それに抵抗した清国政府は、日本、ロシア、イギリス、フランス、アメリカ、イタリアに宣戦を布告したが、たちまち連合国に制圧された。清国は世界から、「張子の虎」と揶揄された。「日清戦争に勝ち、義和団事件に連合国の一員として参加した日本は、世界の日本になったと考えてもいいのではないか?」。 なかなかアメリカ人になれきれないと考える富造にとって、この事件は母国の発展にも思えた。相賀や小野目も「これでアメリカ人も日本人に敬意を払うようになり、ひいてはハワイでも日本人の地位向上になると良いのだが」と言って期待していた。それはまた全日系人共通の思いでもあった。ところがロシアは、義和団事件後各国が引き上げた後も満州を占領していたため、そのことを恐れた日本と対立することになった。「大変なことにならなければよいが」 これは富造に限らず、母国から遠く離れ、正確な情報から隔離された日系人たちの心配の種でもあった。 ハワイがアメリカの領土となって、アメリカの諸法が全面的に適用されるようになっていた。そのためハワイ共和国時代の移民に関する労働契約のすべてが無効とされ、移民に対する半奴隷的な労働の制度は許されないこととなった。しかしそれは名目的なものに過ぎなかった。ルナによる職権乱用が続いていたのである。そのためもあって、法的に認められるようになった移民によるストライキが、この年だけで二十件も起きた。しかもそのすべてに、日系人が参加していた。不当な人種差別に抵抗する意識が強まってきたのである。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.05.24
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揺 れ る 心 この年の十一月三日、ハワイがアメリカ領になって最初の天長節(明治天皇誕生日)に、ホノルル駐在の斉藤幹・総領事を中心に、富造ら十七人が準備委員となって祝賀会が催された。アメリカ併合後の日本人としての結束を固めるのが、その目的であった。祝賀会の当日、内田ドクトルが司会者となり、斉藤総領事、佐藤五郎と富造ら三人が祝賀の演説をした。席上、新たに大日本倶楽部の設立が提案され、富造も役員の一人となった。この時以来、天長節はハワイにおける日本人社会の重要な年中行事の一つとなった。このパーティのとき踊った富造のソーシャル・ダンスは、参会者の大喝采を受けた。「いつの間に、どこで覚えたんだ?」 近づいて来た小野目文一郎に訊かれて、富造は照れた。そして照れ隠しに、小野目だけに内緒で鶏の羽ばたきと鳴き声の真似を、おどけてして見せた。「ワーオ、これまた、うまい」 悪のりした富造は、続けて馬が笑う真似をした。 一瞬、驚いた顔をした小野目が真面目な顔で訊いた。「本当に馬が笑うのか?」 富造は思わず声を上げて笑った。 間もなく重教より、無心していた印刷機が届いた。富造は、日布時事に随筆の連載をはじめた。それはもちろん、移民に対する啓蒙教育の意味が色濃く出ていた。 日米親善の実行方法 一 日曜日を以て、安息日と思ふこと。 二 住宅を清潔となし、其の周囲などには、古缶、古紙などを、 一切、放棄せぬこと。 三 常に、頭髪や、鬢髭の手入れをなし、髭は、少なくと隔日 に剃ること。(労働者のような忙しい人でも、日曜日には、 必ず剃刀をあてること) 四 男女とも、不必要に、金歯の細工をして貰わぬこと。 五 婦人は、紅白粉の厚化粧をなさぬこと。 六 アンダシャツにて、店先に現れ、又は、外出をせぬこと。 七 爪楊枝を、他人の目の前で、又は、電車内にて、使用せぬ こと。 八 電車にて、夫婦、又は、友達などゝ同行する時、前後左右 別々に座を占め、高声を発して談話を交へぬこと。 九 歩行、又は、自動車にて道路を通行する時には、必ず右側 をとり、他人の通行を邪魔しないこと。 十 請負師、洋服屋、洗濯屋、及び、庭園師に至るまで、決し て、約束の期日を違はぬこと。 十一 奉公人が、暇を貰はんとせば、少なくとも、一週間前に、 偽等ざる理由を主人に話すこと。 十二 卸問屋、又は、各商店にありては、支払期日を必ず怠ら ないこと。 十三 商店の二階に、洗濯物、布団、又は、漁網などを乾拡げ ぬこと。 十四 水道の水を、無駄に使用せぬこと。 十五 他人の談話中、断りなく、其の一方の人々に話しかけぬこ と。 十六 自動車礼儀を、必ず、守るべきこと。 (日布時事) 富造はゴルフをはじめた。ハワイ領土政府の要人や、仲間との接触に努めていたのである。ある日、ヒロのシーサイドクラブでコンペが開かれた。どうもクラブの従業員に日本人が多いと思った富造は、一緒にプレイしていたアメリカ人に訊いた。「ここのホテルは誰が経営しているのか?」「なんだ知らないのか? 君と同じ日本人のミスター・ソーバァだよ」 日本人にしては妙な名だと不審に思い、別の日本人に訊いてみた。「うん。ここは日本人の西本さんの経営なのだが、西本さんが反っ歯で有名なんだよ。それでわれわれ日本人は親しみもあって、ソッパさんとあだ名で呼んでいるんだ。ところが事情を知らぬ外国人は、ミスター・ソーバァという苗字だと思っているらしいんだ」 これには大笑いになった。 十二月十日、アメリカ、スペインの両国はパリで講和条約に調印し、戦いが正式に終わった。この講和条約によって、アメリカはキューバの主権とプエルトリコ、パルミラ島、グアム島を領有し、さらにフィリピンを二〇〇〇万ドルで買い受けた。その他にもドイツとはサモア諸島を分割し、ウエーキ島を領有してその版図を西へと伸ばした。このため本来大陸国家であったアメリカは、ハワイをはじめ太平洋の諸島とカリブ海に領土を有する一大海洋国家と変質していった。 このアメリカによるフィリピンへの領土の拡大により、日本はその領土の台湾とバシー海峡を挟んでの隣人となった。しかし日本に軍事的脅威を感じていたアメリカは、太平洋岸およびハワイの軍艦の配備を強化するため、ニカラグア(やがてパナマに実現する)に運河建設を計画した。「しかし勝沼。こういう大きな考えをするとは・・・、やはりアメリカ人だな。あの地域を日本と比較すると、大阪湾から若狭湾まで掘削してつなぐことになる。これは大工事だ」「うーん、ただなあ小野目。途中にあるニカラグア湖を利用するだろうから、掘削する距離はそこまでにはなるまいが、あの巨大な湖に海水が流れ込んだら、自然環境には大きな影響があるだろうな」 一大海洋国家となったアメリカは、国防を考えれば、太平洋と大西洋の間の軍艦の行動を常にスムーズにしておかなければならないという、軍事的状況に立ち至っていたのである。 一方清国では、列国による租借が相次いでいた。 ──こうやってアメリカの対外政策を見ていると、基本的にアメリカは、カネと武力の支配する国だという気がする。気は許せないぞ。それにしても日本は、今後ハワイにどう関わっていく積もりなのであろうか。 富造はそう思った。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.05.23
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その沈黙を破って、相賀安太郎が言った。「勝沼、おめでとう。第二子誕生だそうだな?」 富造は絶句した。ハワイでそのことは内緒にしていたからである。子どもについては三春からミネが妊娠しており、予定日は来年の一月と知らせてきていた。それなら、今度こそは父親の自分が名を付けようと思っていた。長男の命名のときは、親にまかせっきりだったからである。富造は東京の直親と世話になっている三春のミネの実家に、「男児の場合は丈夫に育つように丈夫(じょうぶ)、女児の場合はミネの実家の所在地・清水(しみず)にちなみ清水(きよみ)と命名するよう依頼の手紙を送っていた。その話がどこからか漏れてしまったのである。まごつく富造に、「学生の頃から忙しい男だったが、ハワイにいながら仕事の片手間にこんな大仕事をするとは、やはり忙しい男だな」 菅原はそう冗談を言って大きな声で笑った。みんなも釣られて笑ったが富造は、「東京で一緒に学んでいたと思ったら、故郷の小学校の校長になったり中学校の英語の先生になったり。そして今度はまた学生に舞い戻りか?」と菅原に言われたことを思い出していた。顔が真っ赤になっていた。 富造は、心情的には王制派であった。ハワイ人はカラカウア王が日本を高く評価した移民条約を締結したことなどもあって日本人には好意的であった。しかし一方の白人たちは、有色人種に偏見の目を持っていた。しかしアメリカでの生活の経験が、彼にハワイ人への肩入れを声高にすることを躊躇させていた。この富造の、いま将に消えんとするハワイ共和国の移民官就任には、帝国政府とアメリカ政府の思惑が大きく与かっていたこともあったからである。 キューバでは一万七〇〇〇名のアメリカ陸軍部隊が上陸し、七月十七日サンチャゴを陥とし、間もなくプエルトリコ島をも占領した。戦争は、アメリカに有利に運んでいた。「いずれ、アメリカが勝つのだろう」 富造らはそう話し合っていた。 帝国政府はハワイ共和国政府に対して、膠着していた上陸拒否事件の解決金の二十五万円を十五万円に減額することを提案した。八月一日、それを受けて、ハワイ共和国政府は、ドルにして七万五千ドルの損害賠償の支払いに応じた。これでアメリカが巻き込まれそうになった日布間の最大の懸案事項が、ようやく解決することになった。 ──しかしこの解決方法はおかしい。何か大きなもの、国家主権といった目に見えないものを日本はカネで失ってしまったのではないか? 現にわれわれ一世移民たちの市民権は、まだ得ることのできる状況にはない。 富造は疑問を感じていた。 八月二日、アメリカ本土へ渡ってハワイ独立の理解を得ようと努力していたリリウオカラニ女王はその意志を潰され、失意のうちにハワイに戻った。しかし戻ったものの、もはやハワイの女王としての立場は失われていた。彼女は心労に苛まれながら、ホノルルで長い余生を送ることとなる。そのこともあって彼女が以前に作った曲、アロハ・オエは、祖国を失った最後の女王による悲痛な国民との惜別の歌、となってしまったのである。恋人たちの別離でなぞらえたこの歌は、今でも別れの歌として愛唱されている。 アロハ・オエ 山を横切る雲が 美しい雨を降らせている さよなら、あなた さよなら愛しい人よ 木陰にたたずむ 素敵なあなたを抱きしめたい 私が去る前に また会えるときまで 優しく奏ずるは ゆかしウクレレよ ハワイの波静か 夢をのせて揺する アロハ・オエ アロハ・オエ 木霊するあの調べよ アロハ・オエ アロハ・オエ さらば我が友「アメリカもひどいことをする。リリウオカラニ女王といえば、ハワイの元首ではないか、それを退位させてしまうとは・・・」 (リリウオカラニ女王の身柄拘束) 八月十二日、アメリカとスペインの間で停戦が合意された。そしてこの日ハワイでは、アメリカの国務長官から贈られた星条旗(星の数は四十六)が官庁街に掲げられ、ハワイ共和国の大統領であったドールがハワイ領土(テリトリー)知事に任命された。主権が正式にアメリカ合衆国に移譲されたのである。アメリカはハワイを正式に領有したが、正式な州とはしなかった。もし州とすれば、ハワイに住む日本人もアメリカ人となって、アメリカそのものの政治に参加することになる、と恐れたからである。そしてそのわずか四日後には、アメリカ陸軍歩兵隊がハワイに上陸し、さっそく軍事基地の建設を再開した。もっともハワイが共和国のときでさえ、すでにアメリカの傀儡政権下にあったのであるから当然と言えば当然の行動であった。戊辰戦争の際三春に乗り込んできた新政府軍の傲慢さを、富造はアメリカ軍の行動に感じていた。 併合と同時に、アメリカ合衆国の法律はハワイ共和国の法律に優先して施行されることになった。そのためハワイ共和国の法律で制限されていた自由労務者の流入が、アメリカの法律では解除されることになってしまったため、ハワイへの入国は即アメリカへの入国と同じこととなってしまった。この点において、アメリカは自己の恐れていた事態に直面することになってしまったのである。 これらの状況変化の中で、ハワイに在留していた日本人移民たちは、これら両国政府の思惑とは少し違っていた。彼らはこの政変に対して、そこに生活する者として、より現実的に対応していたのである。それであるから彼らの行動は、ハワイ王政復古派への協力でもなければ、白人合併派への協力でもなかった。いわゆる中立を守りながら、ただ市民権や参政権を得ること、つまり白人たちと同等の権利を獲得することにあった。 このようなときでも富造の知識人であるという責任と誇りは、留学先でもあり教育を受けたところでもあるアメリカへの親近感と、彼の移住先であるハワイを支配する国・アメリカに対して反抗しようとする精神との間に、冷静な均衡を保たせていた。このとき富造は、ハワイ共和国移民官としての身分が、そのままアメリカ合衆国移民官にスライドされることになった。いい意味で富造は、アメリカと日本の架け橋となることの強い責任と義務を感じていた。 翌日、スペイン領グアム島を占領していたアメリカ陸軍は、すでに海軍に制圧されていたマニラに上陸を開始した。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.05.22
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フィリピンでの戦争が、その補給、平站基地としてのハワイの重要性を、アメリカにようやく気付かせていた。戦時という状況下で、ハワイ併合派は俄然優位に立った。極東の軍事的展開に、港や補給基地が太平洋上に必要であるという主張が説得力を持ちはじめたのである。連日新聞が、戦争キャンペーンを張っていた。 六月十六日、アメリカはハワイ併合の秘密の議論を公然化した。軍艦オレゴンをハワイ共和国に派遣して軍事的圧力を加え、ハワイに星条旗を掲げて米布併合条約を持ち出したのである。アメリカは、ハワイ併合に一歩踏み込んだのである。いままでの水面下の動きが、表面に押し出されてきていた。 動揺した星駐米公使は帝国政府に、「米布併合を挫折させるには・・・即座に強力な軍艦を送り、邦人保護の名のもとにハワイ諸島を占領する方法以外ない」と繰り返して主張していた。一方のアメリカ側は、「併合によって日布条約は消滅するが、日本の正当な権益は認められる」と妥協策を提示して、日本との直接対決を避けようとしていた。ハワイに移民などの権益を得ていた帝国政府は、アメリカのハワイ併合の主張に反対し、アメリカとの交渉を執拗に続けていた。それもあって帝国政府は、水面下でアメリカの併合反対派と情報交換をするとともに、ハワイにおける反併合派や王制派、そしてハワイ愛国連盟などとも連絡をとりあっていた。 アメリカ政府はハワイ併合を急いでいたが、ハワイ共和国と日本の間の懸案事項である上陸拒否事件の結論がまだついていなかった。スペインと戦っていたアメリカは、併合に際してこのようにこじれた日布関係を引きずるのを嫌った。そこでアメリカ国務省のムーア次官補は、六月二十九日、ハワイの駐米公使ハッチに日本船に対して行われた上陸拒否事件に対して早期に解決するようとの圧力を、ハワイ共和国にかけさせた。アメリカ政府としては、ハワイ共和国の存続している段階で、日本とハワイとの間の事件として整理しようとしていた。アメリカは、この問題整理の当事者になるのを拒んでいた。そこまで手を出す積もりはなかったのである。 七月五日の英字新聞は、「アメリカ上院議員のホアが、『我々が阻止しなければ、ハワイ諸島は軍事的征服によってではなく、移民によって日本の餌食になってしまう。日本がハワイを武力で獲得したり、移民を増やして呑み込むことは許されない。アメリカ固有の民族を第一に考えよ。アメリカ人の雇用を減らすな。アメリカ人の税金を外国人に使うな』などと議会で演説している」と伝えていた。 その一方で、富造が日本に行っている間に米西戦争と関連して、彼自身の身分に関する大きな事件が起こっていた。つまり七月七日、アメリカ大統領の署名をもってハワイ併合の意志が表明されたため、富造ら日本人の移民官は、ハワイ共和国の消滅とともにその仕事を失うことになりそうになっていたのである。富造の留守中に、彼自身の身分を保障してくれていたハワイ共和国そのものが微妙になっていたのである。周太郎が、明治維新後の廃藩置県の政策により、三春県、磐前県、福島県と合併を重ねていくたびに味わったと同じような苦悩を感じさせられていた。「永遠だと思い、その存在さえ気に掛けなかった国家にも、消えるときがあるのか!」 そう考えた富造は同じ移民官仲間の小野目文一郎を訪ね、首を手で切る真似をしながら言った。「これでは浦島太郎もいいところだ。戻って来てみたら馘首になっていたじゃ、ブラック・ユーモアにもなりゃしない」 二人は笑ったが富造には笑って済ます訳にはいかない事情があった。生活の方法を考え直さなければならなかったのである。女房、子どもを連れて来られなかったことに、逆に若干安堵していた。富造は小野目文一郎に相談をかけた。「ハワイで発行されている、やまと新聞と関係をもちたい」 富造は、なんとか次の収入の道を付けなければならなかった。勤めでも何でもやむを得ない、と思ったのである。 この新聞は、一八九二年にハワイ最初の新聞・日本週報として小野目文一郎によって発行された後に、布哇週報(発行者不明)、布哇新聞(星名謙一郎)、やまと新聞(一八九五年に医師の内田重吉、水野波門、安野伸太郎が買収)、と転々と転売されていた。発行部数も僅かであったこれらの新聞は、タイトルや営業権の売買というより、実質的には石版印刷の設備の売買のようであった。ゲーリック(日本人)街の、薬屋の二階を借りて発行されていた。富造はこの新聞を使って、ハワイ共和国政府や清国人による日本人侮蔑を糾弾し、正義と人道を主張しようとしていた。 (やまと新聞) ハワイでの人種差別は、三~四重の構造を持っていた。白人は非白人を差別し、清国人は日本人を、日本人は沖縄県人を差別していたのである。富造は、やまと新聞に関係すると同時に、東京の銀座に電友社を興し、事業的に成功していた次兄の重教に印刷機の贈与を依頼した。販売先の拡大を計画し、大量の印刷に備えようとしていたのである。それらの手配をしながら、富造はサンフランシスコでの自由民権運動の新聞を思い起こしていた。新聞社を経営することは、一般に知られない情報を早急に手にすることにもなった。その最新の情報は、日本はなお執拗にアメリカによるハワイ共和国併合反対の立場をとり、西欧諸国の協力を取り付けようとしていることを伝えて来たが、西欧諸国は遠い太平洋の小さな島国に対して傍観的態度に終始していた。 さらにまた、伊藤博文がヨーロッパからアメリカに渡った際、アメリカの新聞のインタビューに応じて、「アメリカ人は日本人を理解していない。日本人は他の東洋人と同類ではない。驚異的早さで近代化を遂げ、偉大な国家的発展を遂げているからだ。わが国の余剰人口は数年のうちに近隣地域に十分な余地を見いだすであろうから、カナダやアメリカが日本人の流入を危惧する理由はない。ハワイに関しては、以前、ハワイ王国政府の方から日本人を送るようにとの要請があり、特別な条約のもとで大勢の日本人がハワイに渡った経緯がある。日本がハワイを併合しようと企んでいるという論理は、まったく根拠のないことだ」と主張していた。富造たちも、その主張は正しいと考えていた。しかしその主張は、やまと新聞の小さな記事として掲載されたに過ぎなかった。 菅原は、政友会から日本の国会議員に出馬するために帰国することとなった。アメリカ移民の声を、日本の国会に反映させる必要を感じたからである。そのために有志が集まって、歓送会が開かれた。富造にとってハワイの混乱は、父の直親や長兄の周太郎をも巻き込んだあの幕末の戦争と重複して見えていた。「もしあの戊辰戦争とき、幕府がフランスを、薩長がイギリスの兵力を国内に引き入れていたら、今の日本は無かったかも知れない。国内戦での犠牲は大きかったが、外国の勢力を入れなかったということは素晴らしいことだった」 そう言う富造に菅原が言った。「それにしても、ハワイ王国は日本にとっても夢の国だと思っていたのに、その指導的立場にあったカラカウア王が亡くなってしまったのは残念なことだった。リリウオカラニ女王としても辛いところだろう。カラカウア王もこれが見えていたからこそ、日本との連帯を明治天皇に申し入れたのかも知れないな」「うーん。下手をすると日本も、いまのハワイのようになるところだったのだろう。あの戊辰戦争の中の日本は、西欧諸国の軍事力の中の弥次郎兵衛みたいな、微妙な平衡感覚の中にあったからな」 富造がみんなに聞いた。「結論として、ハワイにはもう独立はない、ということになるのかな?」 ──ハワイが共和国のうちは傀儡政権とはいえアメリカ人にもまだ遠慮があった。しかし合併すると彼らにとっても自分の国であり、そのために自分のやり方を押し通すようになるだろう。また本土とハワイがすべて同じ法律で律せられるようになると、すべてがアメリカと錯覚するようになるだろう。以前と変化のないままの土着の人たちの考え方は、無視されることになる。 話をしながら富造はそう考えていた。 誰もが返事をしなかった。みんなの間に、沈黙が支配した。その沈黙を富造は、みんなもこのように思っていると理解していた。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.05.21
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ハ ワ イ 併 合 オアフ島カフク耕地に事件が起きたのは、富造が移民募集のため日本に行っていた三月の二十六日のことであった。 当時カフク耕地には三百人ほどの日本人が居住していたが、清国人の方が多く古参であった。しかしそのような中での日清戦争の勝利は、日本人移民に、精神的な昂揚感を持たせてしまったのである。移民の中には日本の兵役法により帰国して参戦し、戦後ハワイに戻った者も少なくなかった。それもあって、ハワイの労働界に於ける日清人の間の力学的立場を、逆転させてしまったのである。これまで日本人労務者は、先住多数の清国人労務者に一歩を譲り、とかく侮蔑と圧迫を受けて劣勢であった。それなのに日本が日清戦争に勝ってしまったのである。日本人の驚喜は頂点に達していた。カフクでそれが、暴発したのである。最初はささいな個人間の喧嘩であった。それが集団暴動に発展して乱闘の末、日本人側は三人の清国人を殺し、二十余名の重軽傷者出させてしまったのである。その後も日本人移民たちはカフク耕地全体を閉鎖状態にし、鎮圧に来たハワイの官憲を入れなかった。この事件は、ハワイ全土に大きな衝撃を与えていた。 日本から戻ってきたばかりの富造に、首謀者への説得要請があった。こうなればハワイの共和国政府であろうがハワイ領土政府であろうが問題ではなかった。とにかく日本人のためにやるだけのことであった。 とるものもとりあえず、富造は帝国総領事館の弁理公使事務代理・平井深造とともに現地へ急いだ。カフク耕地はホノルルから西のクウラウ山脈を越えて二十キロメートル、カネオヘから北へ転じて四十キロメートルほどのオアフ島北端の地である。シュガーミル(砂糖精製工場)を有する大耕地であった。うねるような大きな山襞の続く景色を、今は愛でるような気持ちではなかった。それは山脈を左手に、右に海を見ながらの一本道であり、特にそんなに人が通る訳でもない淋しい道であった。二人を乗せた領事館の車は、土埃を立てながら走って行った。 カフク耕地のシュガーミルの食堂に入った二人はテーブルの上に立ち上がり、目を血走らせて集まった百人以上もの労務者たちと対峙していた。すでに血を見てしまった彼らは清国人の報復を恐れる気持ちもあり、騒然としていた。 富造は叫んだ。「お前らァ! ここに居られる方を、どなた様と心得ておる! 大日本帝国総領事館の平井様だァ!」 ざわめきが、ちょっと落ち着いた。すかさず富造は、大声で続けた。「総領事館の館長とわァ、畏くも天皇陛下のご名代であるゥ!」 天皇陛下を持ち出され、急に会場は静まった。「只今より、平井様よりお話がある。天皇陛下のお言葉と思って拝聴するように」 そう言うと、富造は平井を紹介した。 平井は、労務者たちに諄々と道を説いた。労務者たちの中から泣き声さえ沸き起こってきた。(ハワイ島移民資料館長・故大久保清氏談) 日清小戦争と言われたこの事件で、二十九人の日本人が暴徒召集罪で逮捕、告発された。死刑の判決を受けた井原石五郎らの裁判の弁護に、富造は積極的に関わった。首謀者とされた井原の判決は死刑となったが、後に死一等を宥恕され終身懲役となって十三年八ケ月入牢し、その後特赦で放免となった。この事件によって富造の名声が一挙に日本人間に拡がり、敬意を受けるようになっていった。 あとで平井が述懐している。「勝沼さん。あのとき畏れ多くも、天皇陛下の御名が出たときは、よくまあ言ったと思って本当に驚いて足が震えましたよ」「いやあ、私もあのときは何とか暴動を押さえようと、必死でしたからね。あとになってから、あんなことを言ってしまって不敬罪になるのではないかなどと考えて、冷や汗をかきました」 平井が続けて言った。「それでもここは日本ではないから、どうにか内密にもできますが、私にしても総領事館の館長にされてしまいましたからね。冷や汗ものですよ」「いや、それにしても笑い話にできるようになって、よかったです」 二人は大きな声で笑った。「しかし一応これで済んだからよよかったものの、どこかで日本人としての矜持を持たせねばなりませんね」「実は私も、今それを考えていました。勝沼さん、なにかいい方法がありませんかね」「いやあ私もそれについては考えていたのですが、まず各県毎に県人会を作って互助の精神を育てて一体感を持たせ、しかるのちに日本人会のような連合組織にしたらどうかと思っているのですが・・・」「うむ、それはいい。どうですか勝沼さん、あなたの出身地の福島県からそれをやってみてくれませんか」「そうですね、早速やってみましょう」(カフクの旧シュガーミル・現在は観光施設として利用されている)
2008.05.20
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何度か勧誘の講演に行っていた福島の町で、ようやく一人の男が手を挙げた。伊達崎村宮北(だんざきむら・いまの伊達郡桑折町)の岡崎音治であった。富造は岡崎を、移民第一号と呼んで喜んだ。やがてそれが突破口となって、次々と移住希望者が応じてきたのである。「ミネ、喜べ。希望者が百人を超えたぞ!」 富造は喜色満面で妻に報告した。「それにしてもこの短期間にこれだけの人が応募してきたということは、貧しい日本への逼塞感が蔓延していたのであろう。彼らに応分の収入を得られるようにしてやらなければな・・・」 ミネは夫の力強い言葉を、頼もしげに聞いていた。 富造は自分に課した新しい義務に強い責任を感じていたが、さらにもう一つの責任を果たそうとしていた。そのため仕事の合間に、富造はミネと克巳を連れて上京したのである。それはハワイに二人を同道する相談のためであった。しかし直親はこれに強く反対した。ハワイでの日本人社会の環境と教育の状況が整っていないというのが、その最大の理由であった。三春ではミネの両親も強く反対をしていた。米西戦争も、その理由の一つとされた。 当時のハワイの日本人社会は、アメリカ社会への順応と協力を説く同化派が会衆派マキキ教会の創始者奥村多喜衛牧師をはじめとする日本人キリスト教指導者を中心に、積極的にアメリカ化教育運動を進めていた。彼らは各農園を訪ねて日本人労務者を集め、「日本人は日本的慣習を捨ててアメリカ文化に同化することによって、ハワイの日本人と白人との関係が改書され、アメリカ人と友好関係を築くことができるのだ」と訴えた。 (マキキ教会) また逆に当局との対決姿勢をも辞さず、日本人への差別や圧力をはねのけようとする勢力(対決派)も存在していた。そのためもあって双方の親から、「克己をハワイに連れて行っても良い環境と教育を与えられる状況にはない」と言われ、また「身体の弱い克己を外国にやるわけにはいかない」と主張されれば、反論も致しかねたのである。それらのことなどを考えれば、富造も二人を連れて行くことは、今回は見送らざるを得ない、と判断した。「日本はいいなあ・・・」 東京からの帰りの汽車で、富造はミネに言った。「日本は単一民族のせいかお互いの気持ちがよく見える。考え方の基準が同じであるからかも知れないが思いやりが通じる。その点アメリカは多くの民族が集まっているせいか、自分をしっかり主張しなければ埋没させられてしまう。あ、うん、の呼吸が分かる日本は、気が休まる」 それを聞かされたミネは、いずれ自分もそんな国へ行って大丈夫なのだろうかと思ったのか、心細そうな顔をした。 富造はこの移民募集事業に帰福したとき以後、福島県での募集事業に戻って来ることはなかった。あとは渋谷や佐原に、一切をまかせたのである。富造は日本から離れるとき、本当は戻りたくなかった。このまま日本に住み続けたいと心底思った。この切なさは、言葉として言い表せなかった。苦い涙を、喉の奥深くに飲み込んでいたのである。 六月二十三日、富造は再び家族と別れ、この最初の福島移民団を引率して福島県を出発した。そして横浜に着いた移民団は、種痘を終えて渡航の準備の一切が完了した。ただしこのときの移住者名の記録は、ない。そして六月二十八日、この第一回福島移民団は横浜をドウリック号で出帆、ハワイに向かった。 富造は船に乗ると、自分の気持ちが次第に日本人からアメリカ化していくのが分かった。外国人の船員や船客と英語で話すうちに、自然に自己主張をしていたのである。 ──そうだ、俺は日本人じゃなくなっていたんだ。 それは自分から望んだことではあったが、富造は一人、苦笑していた。 この船に乗っていた移民のひとり、斉藤太伊蔵の手記が残されている。「私の乗った船は、清国人ボーイばかりでした。勝沼さんが『皆を裸にして、相撲をとらせたのは、大いに悪かった』とみんなに謝っていた。いくら相撲とは言い、外国人の船長から、衆人看視の中で裸にしたことへの苦情が出たのである」「安達郡の松本なんとかという人だった。ホノルル港に着いたとき、『みんな集まれ』と勝沼さんが言うんで甲板に上がった。その男も遅ればせに上がって来た。絣の着物を端折って中歯の下駄をガラッコガラッコいわせながら煙草入れを腰にぶら下げた格好だった。わしどもが見ても、少し不味いなと思った。血相を変えた勝沼さんがその男の所につかつかと駆け寄って靴で蹴り上げ、倒れたところを二~三度踏みつけ、『ここをどこだと思っている。福島の面汚し奴!』と怒鳴った。勝沼さんは、後輩移民の意識の向上に対し、常に情熱をもっていた。だから福島県出身者のうちに、他県より立派な移民を見ると、口を極めて賞賛したものだった」 (渋谷百次談) ハワイに戻った富造は、本来の移民官の仕事に戻った。福島県からの移民の上陸手続きは、スムーズに行われた。移民のほとんどは、砂糖キビ畑の労働力としてハワイ全土に散っていった。しかしこの移民たちは、農家の出身者ばかりではなかった。鍛冶屋などの技術者や商家の出身者などが、多く混在していた。それが一律に農地に追われたことから、やがて不満が顕在化することになる。
2008.05.19
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家に戻った富造の胸に妻のミネが顔を埋め、声を潜めて泣いていた。「私、あなたが出かけてからは、毎日ただただ、ご無事をお祈りしていました」 そう言いながら滂沱と涙を流すミネの顔を見ながら、富造は為すすべを知らなかった。「一人にしておいて済まなかった。今度は必ず一緒に連れて行く」 呻くように言う富造の言葉が、ミネの今までの苦労が、すべて消え去ってしまったかのように思えた。富造は心底、妻に済まなかったと何度も謝っていた。 富造は十年の空白を埋めるために、意識して多くの時間を家族と過ごした。新暦にも拘わらず、五月五日には大きな鯉のぼりを揚げて克己の端午の節句を祝い、家の前の小川で魚をとったり、近所の山に分け入って一緒に遊んだ。蝉もとった。蜻蛉もとった。山に野兎も追った。農家に連れて行って、山羊の頭も撫でた。桜の花は終わっていたが、あの思い出深い滝桜も見に行った。それは富造が、自分が子どものときに遊んだことと同じ遊びであった。しばらくは疑惑のまなざしで父親を見ていた克己も、慣れるのは早かった。「やはり親子だわ」 ミネはそう言って安心していた。 しかしミネの両親は、娘のハワイ行きには不安の目で眺めていた。可愛い孫が、いなくなることも淋しいことであった。しかしその反面、町の人たちに誇らしさも感じていた。なんと言っても娘の婿は、『ハワイ共和国政府の移民官』様なのである。 富造は、移民募集の活動を活発にはじめた。三春、平、福島、会津、白河・・・。足を棒にして駆け回ったが、なかなか希望者が表れなかった。たしかに移住とは、口で言うのはたやすいが大変なことである。本人たちの故郷を捨てるという気持ちを思えば、無理からぬことではあった。 それに参加者たちが移民をすることを思い切れない理由の一つに、米西戦争があった。アメリカはスペイン軍を破ってフィリピンを手に入れたが、今度はそのフィリピンで独立戦争が起こったのである。アメリカは、これの武力鎮圧に乗り出した。戦火が日本領の台湾とバシー海峡を挟んだだけのフィリピンということが、移住を考えている福島県人たちに、むしろ戦争を身近に感じさせていた。移民募集の講演には多くの聴衆が集まったが、移住希望者はなかなか集まらなかった。富造は焦っていた。 五月十日、富造は初めてのハワイ移民募集の広告を、福島民報新聞に次ぎのように掲載した。 今般本県下ニ於テ布哇国出稼契約移民募集致候問望ミ御仁ハ至 急当出張所へ御申越ニ相成度候但シ委細ノ手続等ハ出張所佐原七 郎宛御紹介被下度候 信夫郡福島町七丁目塩六旅店内 熊本移民合資会社福島 出張所 応募資格 父母および戸主の同意を得た者で、年齢二十歳以上 四十歳以下のもの 身 体 丈ケ五尺以上にして無病健康のもの 職 業 農業者に限る 兵 役 予備後備補充の関係なきもの 保 証 二百円以上の資産を有するもの二人の保証を要す 入 籍 夫婦は入籍後一ケ年を経週したるもの この募集広告は福島民報紙上に連日掲載されたが、特に十三日と十四日は第一面の最上段に出て、一般読者の強い注目を集めていた。当時一ドルは大雑把に二円といわれていたから年収三○○ドルは、大きな刺激であった。さらにまた、『布哇出稼移民の心得」が福島民報の五月十三、十四日の両日に連載された。 移民の心得渡航著は懐しき故郷を離れ遥々数千里を隔てたる外 国に赴くものなれば、尋常の奪発にては叶はぬことと知るへし。 左れは第一自己の身体を大切にして病気に罹らぬよう注意し、一 心不乱に雇主の為めに働きさへすれば立派に渡航の目的を達せら るへし。酒を飲み博突を打ち怠惰に流れ仲間のもの又は雇主等に 対して喧嘩口論なとすることありては終に彼の国の法律に触れて 罪人となり、日本人全体の此上なき恥辱となるものなれは予て能 くよく注意して誠実に勉強すること肝要なり。 給料 男子は一ケ月十二弗半(二十五円)女子は一ケ月七弗半 (十五円)とす。 増給 一時間に付男子十仙(二十銭)女子七仙(十四銭)なり。 但し三十分以下の増給なし。 貯金 移民契約中の家屋、飲水、薪炭等は雇主より無料にて給 与せらるるものなれは食糧其他諸費一ケ月五・六弗と見 積れば十分なるを以て契約中移民は毎月六・七弗(十三・ 四円)貯蓄せさるべし。而してホノルルには京浜貯金銀 行出張所ありて、預金には利子を附し親切と丁寧に取扱 はるるに付大に便利なり。 一年中の休日 一月一日、十一月三日、日曜日、布哇国祭日。 病気 契約年期中病気に罹りたるときは雇主より医薬を供給す るも、病気中は給料を支給せす。 雇主の取扱 雇主が条約に背き不都合の取扱をなしたるときは決して 抵抗することなく静に善悪を考へ、十分自己に道理あり と思ふときは直にホノルル府の会社出張所に申出つへし。 然るときは出張所に於て相当の処置を為すへし。渡航者 の用意渡航者の服装は別に制限はなけれ共成るへく夏洋 服(小倉地)麦藁帽子、靴を揃ふるを可とす。此他毛布 一枚と小なる手荷物の必要なるへし。日本服は布哇にて 役に立たぬなり。 (注)このとき富造が雇用していた渋谷金四郎が、一 時移民取扱人として移民会社を興し、これを経 営したのははっきりしているが、その詳細につ いては調査が行き届いていない。また事務担当 者として雇った佐原七郎は、熊本移民会社の関 係者であり、菅原伝の紹介によるものであった。 ついでに当時の各移民会社が福島県知事に提出 した 『手数料許可願』によると、移民各人から徴収 した手数料は大人ひとり二十円、『携帯児』は 十二歳未満が無料、十五歳未満が十円であっ た) (熊本移民合資会社の契約書)
2008.05.18
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三月、富造は初期の目的であるハワイへの移民募集のため、帰国の準備をはじめた。そのために菅原伝を通じて彼の関係していた熊本移民会社のライセンスを利用し、故郷の福島県に支店を開設し、移民を募ろうとしたのである。福島県庁には、「熊本移民会社の社員、安●敬●に熊本移民会社の福島支店の設置届」を提出させて、下段取りをしていた。やがて熊本移民会社の小山雄太郎から、許可が下り、事務所を福島の万世町(いまの稲荷神社の北側)に開設したとの知らせが富造に入った。 (注 ●は判読不能) 戊辰戦争後、賊軍とされた東北や福島県民は不作などもあり、決して恵まれた立場にはなかった。その一方で長いアメリカの生活を経験していた富造は、努力によっては経済的には恵まれるようになることを知っていた。それであるから、ハワイへの移民を薦めることは、天与の聖職、とも思えた。 ──ハワイへの移民は、貧乏な日本を救うための民族の大移動だ。 (注 ハワイ島移民資料館長・故大久保清氏談) 富造はそう信じていた。その上、ハワイの移民官になったことで生活の安定は計られたし、ついて来てくれるかという心配はあったが、妻子を一緒に連れてくる絶好のチャンスとも思えた。思い起こせば富造が渡米してすでに十年になる。これから日本に戻ってする移民募集の手順も、一応済んでいた。 ──アメリカに来てから産まれた克己も、もう十歳になるのか・・・。 準備が整うと、急に故郷の山河が思い起こされた。 ──あれから日本も、随分変わっただろうな。 この思いと家族へのみやげの準備が、さらに富造の気持ちを日本へと駆り立てていた。嬉しくて眠れない夜が続いていた。 富造の乗った船が太平洋を日本に向かったのは、それから間もなくであった。 ──とにかく俺は、貧乏な福島県から移民を募り、彼らがハワイで働いて得た外貨を日本に送金をさせて、お国のためにならなければ・・・。 富造は胸の中で自分の仕事についてそう再確認していたが、生まれた日本と、アメリカが併合を目論でいるハワイ共和国、そして市民権を有するアメリカにどういうスタンスで対応すべきか、その微妙な立場に困惑もしていた。 出発直前の四月十九日、アメリカの国会では上下両院で対スペイン宣戦の合同決議がなされた。五月一日、香港に停泊していたアメリカ艦隊がスペイン領フィリピンに出撃、直ちにマニラ湾を制圧した。戦火が、日本の近くでも燃え上がったのである。 東京に住んでいた親兄弟に再会を果たした富造は、この戦争に対して思った以上に日本が平静なのに安心した。むしろたどたどしくなってしまった自分の日本語に、いささか慌てていた。さすがに十年の空白は、大きいと思っていた。 五月三日、上野から東北本線の汽車に乗った。駅や汽車の中で耳に入る東北弁に、一挙に故郷に戻る喜びが溢れ出た。これから妻や子に逢うことを思うと、つい頬がほころんだ。途中に停車した赤羽停車場は、五分停車であった。汽車が開通してから開けた町だと聞いたが、一筋町で裏町がなかった。 次に止まった大宮は、賑やかな町であったがやはり一筋町であった。 小山の町は、思ったほど賑やかではなかった。その手前の間々田停車場には、これから出荷されるらしい薪が、山のように積まれていた。その薪の山に、富造は何か日本らしさを感じていた。 宇都宮の停車場に着いたとき、富造は子どものころに聞いた、「宇都宮の吊り天井」の話を思い出した。栃木県の県庁所在地でありながら、県庁所在地とは思えないような田舎田舎した町であった。人口は三万であるという。宇都宮を出てしばらくすると、汽車の左窓に雲の間から山が見えてきた。那須連峰である。乗客たちの話を聞くともなく聞いていると「何十遍も通っているが、いつも雲に隠れていて見たことがない」などという話が聞こえてきた。 ようやく白河に着いた。白河には白河の関があり、昔から奥州の玄関とされてきた町である。富造は泉崎、矢吹、須賀川、笹川(安積永盛)と食い入るように窓外を見ていた。それら流れていく景色は、富造が故郷を出て行ったときと、少しも変わっていないように思えた。 ようやく着いた郡山の町は、目を見張るほど立派になっていた。今では人口が一万二千人で、福島、会津若松に次いで三番目に賑やかな町であるという。郡役所、中学校、アセチレン瓦斯会社、煙草会社などがあり、また付近には田村、安達などの蚕業地を控えている上に開削された安積疎水の水を利用した製糸会社が多いという。停車場を下りた真っ直ぐな通りには、三春に通う馬車鉄道のレールがついていた。 ──おう、馬車鉄道が出来ていたか。しかしサンフランシスコのそれより小振りだな。 富造はそう思った。駅舎に入ってよく観察してみると、サンフランシスコの馬車鉄道が二頭立てなのに対して、三春のそれは一頭立てであった。(筆者が復元した三春馬車鉄道の客車・郡山歴史資料館蔵) 馬車鉄道が発車するまでの時間を利用して、停車場の周囲を歩いてみた。中町には銀行などの金融機関や会社が並んでいた。善導寺が十日町の裏の方にあったが、その辺りまで町並が連なっていた。それ以上は行く時間がなかったが、その先には皿沼という小さな池や蚕業学校があるという。また桑野の方へ出て行く道には、共楽園という公園もあるという。 やがて富造が乗った馬車鉄道は、賑やかな北町、大町などの中央市街を北に向かって進んで行った。大重町、久保田、福原を通り、阿武隈川の橋を渡った。女房子どもに会えるという思いが気を急かしていたのであろう、それから先の道のりは、いやに遠く感じられた。 四~五人しかいない相客の一人が声をかけてきた。「あんた、もしかして加藤木さんの三男さんじゃないですか?」 先程から様子を窺うとはなしに、窺っていた男である。富造は戸惑いながらも、首を縦に振った。「ああ、やっぱりそうかい。俺もどこかで見た顔だな・・・って思っていたんだ」 別の男が相槌を打った。 最初の男が言った。「アメリカさ行ったとは聞いていたが、それにしても立派な形(なり)して・・・、魂消(たまげ)たな。俺を憶えてないかい? 俺は北町の御歯黒屋の長男だよ」 御歯黒屋の長男と名乗った男は珍しい物でも見るかのように、富造の頭の天辺から足の爪先までじろじろと無遠慮に眺め回した。富造もそう言われれば、子どもの頃に見た顔だと思った。そう思いながら話をしているうちに、その顔が昔の顔にピントが合ってくるかのように思えた。しかし「御歯黒屋・・・? あヽ、御歯黒屋の・・・」とは言ったが先が続かなかった。近所にあった御歯黒屋の店や名は思いだしたが、肝心の息子の名前が思い出せなかったのである。
2008.05.17
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第三章 昏 迷 す る ハ ワ イ 移 民 船 一八九八年一月十五日、富造を乗せたモアナ号は、ハワイ共和国のオアフ島に近づいていた。船客たちもデッキに出て、島の様子を飽かず眺めていた。 突然ホノルル港の方角で大きな水煙が上がり、瞬時の間を置いて大きな爆発音が聞こえた。「なんだ、あれは」 富造は船客たちのざわめきを聞きながら、パールハーバーが工事中であったことを珍田総領事の講義から思い出していた。何年か前にハワイを視察していたアメリカのジョン・スコウフィールド将軍は、ハワイの軍事的価値を即座に認識し、ハワイ併合間題が論議されていた米国議会で「ハワイを併合し、即刻要塞化すべきである」と主張し、それに基づいて工事がはじめられていたのを聞いていたからである。アメリカは本土から離れたハワイを要塞化することで、その西部の国防に備えようとしていたのである。 その間にも、崩れた水柱が立てた大きな波が拡がりはじめていた。 ──湾の入り口の珊瑚礁を幅六百メートル、長さ九千メートル、深さ九十メートルの航路聞発のため掘削すると教えられていたが、さすが目の前で見ると大工事だな。 富造はそう思った。 大陸横断鉄道、ソルトレーク大神殿、サンフランシスコのビル街の工事などを見てきた富造にも、底知れぬアメリカの経済力が驚異であった。 爆発によるうねりが、ゆっくりと近づき、船が大きく傾いだ。 やがて船は、ハワイを象徴するダイアモンド・ヘッドを右手に見、左手のパールハーバー軍港との間のホノルル港に入っていった。アロハタワーと桟橋が近づいてきた。ふと気がつくと、地元の青年たちが船のまわりを泳いでおり、船客がコインを投げ込むとそれを目がけて潜水し、拾ってきて見せていた。コインを拾った青年はそれを客に見せると口にくわえ、拾えなかった青年ともども泳いだまま手を叩いてもっとコインを与えるよう囃し立てていた。オアフ島の日差しが、サンフランシスコのそれとはまた違っていたのに驚いた。サラッとした風が、その日差しとは似合わぬ涼しさを運んでいたのである。 船から見る限り、ここにはドール社のビルの向こうのアロハタワーとパイナップルタワー以外には、低い建物しか見えなかった。船が桟橋の近くに来ると、船客を歓迎するための楽隊が鳴り、派手な衣装のフラダンスの踊り子たちが緩やかに腰を振っていた。その陽気な様子と華やかな原色に、富造は目を奪われていた。そしてその桟橋の一隅に目をやって、はっと気がついた。 ──おおっ! あそこで帽子を振っているのは、菅原ではないか? そうだ菅原だ。菅原が迎えに来てくれたんだ! しかしあの隣に居るのは・・・。小野目だ。小野目先輩だ! 仙台中学の先輩の小野目さんが、ハワイに来ていたとは・・・。 「おーい! ここだここだ!」 目ざとく見付けた富造はちぎれんばかりに帽子を振り、大きな声を上げた。しかしその声は、まだ二人の耳に届くほどの距離に近づいてはいなかった。小野目文一郎もまた、ハワイ共和国の移民官として日本から派遣されて来ていたのである。 その港にいる人たちの服装は、多彩な各地の文化をそのまま表わしていた。服装はハワイのスタイルのほかにアメリカで見慣れたもの、そしてアジア人ものと雑多であった。それであるから、服装のモードで国籍を当てることも簡単であった。そして多くの国籍の言語が、群衆の中から聞こえていた。船客たちは桟橋で歓迎のレイを首に掛けてもらって上陸した。陽気な楽隊が、より一層歓迎の音を高くしていた。ハワイの雰囲気は、日本人移民の占める割合が多く、アメリカ本土のそれとはまた違っていた。富造としても、心が安らぐ感じがしていた。 この二月十五日、バハマ海域のキューバの暴動に備えて派遣されていたアメリカの戦艦メイン号が、ハバナ港で突然爆発炎上して沈没し、二六〇名もの水兵の犠牲者を出すという事件が起きた。 アメリカの世論は沸騰した。「メイン号沈没は、スペインによる爆破だ!」「リメンバー・メイン!」 燎原の火のように燃え広がったこの声はアメリカの世論を統一し、開戦一色に駆り立てていった。 富造たちは知らなかったが帝国政府のハワイ移民に対する本意は、アメリカを刺激せず、ハワイにおける日本人の参政権と欧米人との対等な地位の獲得することにあった。そのために、すでに何度か派遣されていた帝国軍艦は、戦闘的な意味ではなく、単に建前上の儀礼として訪問し、日本の存在感を示そうとしていたに過ぎなかった。アメリカもまたその意を汲み、日米軍艦の艦長は、互いに表敬訪問を繰り返すだけの穏和な関係に留まっていた。しかし、この政府間の本意を知らない日系移民たちは、日清戦争の勝利を背景にして、参政権の獲得だけでなく、 談判のための全権大使並びに軍艦の派遣。 帝国軍艦のホノルル常駐。 移民監督法を改良し日本移民を保護すること。 現行労働契約を暫時改正してこれを廃止に導くこと。 日本移民に対するハワイ永住の奨励。 日本移民を改良振作する計案の樹立。などを強く要求していた。それであるから移民の中には、「あまりアメリカが日本人に嫌がらせをすると、日本の軍艦がわれわれを助けに来るぞ」などと、真顔で言う者も出てきたのである。 しかし日本移民のこのような強硬な主張は、かえってアメリカのハワイ合併派に味方していた。アメリカ政府内部でも合併推進派が急浮上し、アメリカの世論はメイン号の事件もあって国粋的になり、ハワイ併合に大きく舵を切りはじめていた。 ホノルル・アドバタイザー紙(英字紙)は、「日本人同盟会は単に政治上の目的を持って組織せるものにして、平和の手段以外の方法を採らず。かって藤井領事が、ハワイに在る日本人の為に参政権を要すと言へると同一の目的なり」と評した。しかし一方でテレグラフ紙(英字紙)は、布哇が日本に合併される危険性を説いていた。これら連日の新聞の見出しは、次のようなものであった。「日本側は攻撃的態度をとっている」「深刻な状況から、危機的状況に移る」「ハワイを日本にくれてしまうのか」「邪教対キリスト教の戦い」「アングロサクソンを日本化から救え」「太平洋の要を占めるのは野蛮な東洋か、文明国のアメリカか」 帝国政府も苦慮していた。過大な人口を抱え、なおかつ貧困の中に喘いでいた日本の社会経済情勢が、多くの移民の受け入れ先を求めていた。その最大の受け入れ先であるハワイが、揉めていたからである。 (ハワイ州州旗。ハワイ王国国旗、ハワイ共和国国旗を経て現在に至る)
2008.05.16
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