『福島の歴史物語」

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2008.05.19
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 何度か勧誘の講演に行っていた福島の町で、ようやく一人の男が手を挙げた。伊達崎村宮北(だんざきむら・いまの伊達郡桑折町)の岡崎音治であった。富造は岡崎を、移民第一号と呼んで喜んだ。やがてそれが突破口となって、次々と移住希望者が応じてきたのである。
「ミネ、喜べ。希望者が百人を超えたぞ!」
 富造は喜色満面で妻に報告した。
「それにしてもこの短期間にこれだけの人が応募してきたということは、貧しい日本への逼塞感が蔓延していたのであろう。彼らに応分の収入を得られるようにしてやらなければな・・・」
 ミネは夫の力強い言葉を、頼もしげに聞いていた。
 富造は自分に課した新しい義務に強い責任を感じていたが、さらにもう一つの責任を果たそうとしていた。そのため仕事の合間に、富造はミネと克巳を連れて上京したのである。それはハワイに二人を同道する相談のためであった。しかし直親はこれに強く反対した。ハワイでの日本人社会の環境と教育の状況が整っていないというのが、その最大の理由であった。三春ではミネの両親も強く反対をしていた。米西戦争も、その理由の一つとされた。
 当時のハワイの日本人社会は、アメリカ社会への順応と協力を説く同化派が会衆派マキキ教会の創始者奥村多喜衛牧師をはじめとする日本人キリスト教指導者を中心に、積極的にアメリカ化教育運動を進めていた。彼らは各農園を訪ねて日本人労務者を集め、「日本人は日本的慣習を捨ててアメリカ文化に同化することによって、ハワイの日本人と白人との関係が改書され、アメリカ人と友好関係を築くことができるのだ」と訴えた。

マウナケアの雪
              (マキキ教会)


「日本はいいなあ・・・」
 東京からの帰りの汽車で、富造はミネに言った。
「日本は単一民族のせいかお互いの気持ちがよく見える。考え方の基準が同じであるからかも知れないが思いやりが通じる。その点アメリカは多くの民族が集まっているせいか、自分をしっかり主張しなければ埋没させられてしまう。あ、うん、の呼吸が分かる日本は、気が休まる」
 それを聞かされたミネは、いずれ自分もそんな国へ行って大丈夫なのだろうかと思ったのか、心細そうな顔をした。
 富造はこの移民募集事業に帰福したとき以後、福島県での募集事業に戻って来ることはなかった。あとは渋谷や佐原に、一切をまかせたのである。富造は日本から離れるとき、本当は戻りたくなかった。このまま日本に住み続けたいと心底思った。この切なさは、言葉として言い表せなかった。苦い涙を、喉の奥深くに飲み込んでいたのである。

 六月二十三日、富造は再び家族と別れ、この最初の福島移民団を引率して福島県を出発した。そして横浜に着いた移民団は、種痘を終えて渡航の準備の一切が完了した。ただしこのときの移住者名の記録は、ない。そして六月二十八日、この第一回福島移民団は横浜をドウリック号で出帆、ハワイに向かった。
 富造は船に乗ると、自分の気持ちが次第に日本人からアメリカ化していくのが分かった。外国人の船員や船客と英語で話すうちに、自然に自己主張をしていたのである。
 ──そうだ、俺は日本人じゃなくなっていたんだ。
 それは自分から望んだことではあったが、富造は一人、苦笑していた。
 この船に乗っていた移民のひとり、斉藤太伊蔵の手記が残されている。
「私の乗った船は、清国人ボーイばかりでした。勝沼さんが『皆を裸にして、相撲をとらせたのは、大いに悪かった』とみんなに謝っていた。いくら相撲とは言い、外国人の船長から、衆人看視の中で裸にしたことへの苦情が出たのである」
「安達郡の松本なんとかという人だった。ホノルル港に着いたとき、『みんな集まれ』と勝沼さんが言うんで甲板に上がった。その男も遅ればせに上がって来た。絣の着物を端折って中歯の下駄をガラッコガラッコいわせながら煙草入れを腰にぶら下げた格好だった。わしどもが見ても、少し不味いなと思った。血相を変えた勝沼さんがその男の所につかつかと駆け寄って靴で蹴り上げ、倒れたところを二~三度踏みつけ、『ここをどこだと思っている。福島の面汚し奴!』と怒鳴った。勝沼さんは、後輩移民の意識の向上に対し、常に情熱をもっていた。だから福島県出身者のうちに、他県より立派な移民を見ると、口を極めて賞賛したものだった」        (渋谷百次談)
 ハワイに戻った富造は、本来の移民官の仕事に戻った。福島県からの移民の上陸手続きは、スムーズに行われた。移民のほとんどは、砂糖キビ畑の労働力としてハワイ全土に散っていった。しかしこの移民たちは、農家の出身者ばかりではなかった。鍛冶屋などの技術者や商家の出身者などが、多く混在していた。それが一律に農地に追われたことから、やがて不満が顕在化することになる。









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最終更新日  2008.05.19 08:10:37
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