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昨日国会に、新党が立ち上がった。 党名は 「自分の生活を守るのが第一」またの名を 「 つぎの選挙で当選することが第一」 と、受け止めました。 。たしか、「自分」のところは「国民」と、書いてあったっけ。
2012.07.12
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富永 快左衛門が暗殺される二週間と少し前元治元年(1864年8月19日)。藩主、大村 純熈氏が幕府の命により長崎奉行をしていた。幕府の長州征伐の一環として長州藩の長崎出張所を収公した時。藩士の振る舞いが悪かったとして、昇等は『言路胴開』の名のもとに建白し、浅田 弥次右衛門(家老)ら三人を失脚に追い込んだ。その後、針尾 九左衛門、松林 飯山等の運動により、藩主の健康を理由に長崎奉行職を辞退した。 浅田 九左衛門とは暗殺された富永 快左衛門の実兄である。これを機会に徐々に勤王色をを増していったが、まだまだ思うように藩政を動かすには至らない。長井 兵庫の免職。大村藩の剣術の流儀は、家老の江頭 官太夫の指導のもと神道無念流(練兵館、斉藤弥九郎) となり、安政元年7月3日(1854)練兵館帰りの江頭 官太夫の二男、荘 新右衛門が無念流取立役。長井 兵庫を副取立役(長井も江戸練兵館道場で剣術修行をしていた。)、指南役として、練兵館、斉藤 弥九郎の二男(歓の之助)を藩の指南役に採用した。後、荘 新右衛門が用人に昇格した後に長井が取立役に任命された。この制度が元治元年(1864)まで続いていた。その間、長井は渡辺 昇、渋江 運八郎、隈 央 等を武芸者に育てていった。が。元治元年渡辺 昇が江戸より帰国し、『言路洞開』の名のもとに改革され長井は免職となった。
2012.06.24
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富永快左衛門(徳松)の暗殺。元治元年(1864)九月五日夜、元締め役(今でいえば財務大臣、大蔵大臣ぐらい)だった富永 快左衛門(家老、浅田 弥次衛門の実弟)が、何者かにより自宅で暗殺された。そして、罪状を張り紙して去った。徳松の妻は、犯人の二人の会話を耳にした。その声は 渡辺 昇と梅沢 武平だったと後日、人に話した。当時より、昇が下手人の一人だと噂されていたが、追及はされなかった。後々に梅沢 武平の口よりそのことが事実であったと聞いた者がいた。その年、盟主、針尾 九左衛門が家老に昇進した。そして、それまで部屋住みであった昇は一家創立を許され、いきなり40石の馬廻に役に抜擢された。松林飯山も同月、用人に採用され、藩政に参与することになった。昇より上役になったのである。藩として、先の快左衛門の事件には捜査命令は出されなかった。これは、快左衛門の悪行と称して虚実を建白し、大義名分を作り家老 針尾 九左衛門が捜査を封じたと言われる。10月24日、大給以上を招集し、国是一定の令を発することで決着をつけた。「互いに、意趣遺恨は勿論、たとえ国の偽筋と存知入り候とも、私の殺傷暴行等堅く禁止せられ候条心得違い之無様」として、犯人を咎めないことにしている。
2012.06.23
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『言路洞開』という事は、藩庁に対して改革の意見を具申する路を開くという事である。党内では、言路洞開を藩庁に採用してもらう手段について協議した。その中でも、渡辺 昇と松林 飯山は手段、方法論について全く考えが違っていて、意見の応酬であったが最後は昇の意見が通った。渡辺 昇は言路洞開について、先輩(藩においても、江戸においても)である荘 新右衛門、に相談し。新右衛門は兄である、江頭 隼之助(大村藩家老)を説得し、両人は採用に努力したので、実現されることになった。元治元年(1864年)8月藩政に対する建白が可能になった。党の目的(長州と同じ討幕、勤王藩)を果たすためには、邪魔になる人物を排除することから始まった。荘 新右衛門、江頭 隼之助は、善意的に便宜を図ってやったのであるが、事件の後、立場が逆転し、二人とも国賊にされ、自害、免職にされた。松林 飯山は建白として、藩の上士による、不正(賄賂、礼節、賞罰等四項目)を糺す建白を行った。
2012.06.21
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時代の背景幕末、藩校・五教館で学んだ若き藩士たちは江戸に遊学し、水戸、長州の志士と交わる機会を得て、尊攘の思想に共鳴していきました。藩士の一部は、剣術を当時江戸の三大道場と言われていた練兵館(斉藤弥九郎道場・神道無念流)にて学び、塾頭を二人務めました(荘 新右衛門と渡辺 昇)。渡辺 昇は結成当時から武党派のリーダーとなり、巨漢で即実行型であり、話し合いを長々とすことは性格に合わなかった。即断実行型。また昇は嫡男でなかったので部屋住みの身分であった。兄の清は、事件後党のリーダーになっている。また、党員には軽輩の者が多かった。 【明治維新後 昇は行政官として大阪府知事、元老院議官、会計検査院長、など要職に就き、 子爵を与えられている。晩年は幕末期に斬った亡霊に苦しめられた。正面から戦って斬った事は何とも思わないが、無心にいる者、睡眠中の者を斬ったことは心持が悪く、忘れられないと語っていた。書生にマッサージを受けながらしか眠れなかった。 大正2年没、76歳】 藩政には意見具申できる立場になかったので、意見を言えるにはどうするか、という話になり『言路洞開』所謂、言論の自由を藩に認めてもらおうという話が持ち上がった。
2012.06.20
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二人を殺傷した犯人の目的は、はたして何だったんだろうか。私的な怨恨それともほかにあるか?。殺された松林飯山(廉之助)は、天保10年(1839)、今の福岡市西区に生まれる。幼少期より神童と言われ、安積良斉に師事し、昌平コウに学ぶ、のちに大村藩校(五教館)学頭となる。尊皇派として活躍。文久3年12月、24歳の時、根岸 陳平、渡辺 清、長岡 治三郎、中村 鉄弥、稲田 東馬、大村 一学、楠本 正隆、渡辺 昇 等と大村勤王等を結成の話をしている。飯山は、昇、正隆は人物として相応しくないと難色を示したが、昇の兄清が一身を保証することで決着した。また、昇も飯山の如きは一学徒に過ぎないので、生死を共にすることはできないと反対したが、清より、飯山の加盟が重要であると説かれて承知した。また、席上一座の者の申し出により、家老 針尾 九左衛門を盟主とすることになった。翌、元字元年1月ごろ血盟している。後に勤王37士といわれる党になる。
2012.06.19
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事件の発端について「九葉実録・巻ノ六十四」(藩の日記みたいなもの)に書かれている事項。『慶応3年正月3日(今から145年前)、城中にて恒例の謡初めが午後二時ごろより始まり、暗くなる前に終わり、みな退城した。』。事件はその夜起きた。夕刻まだ薄暗い時刻、家老-針尾九左衛門(大村勤王等盟主)が何者かに襲われ死に至らなかったが、相当の傷を負った。犯人はとどめを刺さずに、一太刀あびせて去った。その二~三時間あと(午後九時ごろ)、松林 飯山(大村勤王等代表)が何者かによる、一刀のもとに、絶命した。・・・・続く
2012.06.18
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ふるさと、大村藩は九州西の果てに位置し、石高わずか28,000石の小藩ながら、幕末、薩摩と連携を取り、他藩に先駆けて勤王の旗幟を鮮明にして、戊辰戦争で活躍しました。その結果、朝廷から薩長土に次ぐ賞典禄を賜ったことは、よく知られているところです。だが、その栄誉の陰に、大村藩を震撼させた「慶応丁卯の内憂」、いわゆる「大村騒動」といわれる大事件があったことについては、ご存知ない方もおられると思います。一人が死んで、一人が重傷(被害者は二人)になった事件で、犯人一味としてとらえられた人々は、数十人にのぼり、処罰として、獄門、 斬首(打ち首)、切腹、毒殺、自害した人、された人は30人。さらに、家族、親類は士道、召し上げのうえ(武士剥奪)、永牢、遠島(島送り)、蟄居(謹慎)、隠居、者数十人という、数に上っています。このような異常な事件が何故、起こったのでしょうか。
2012.06.17
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