全9件 (9件中 1-9件目)
1
今、日本では出生率が1.2ぐらいまで下がって人口はこれから減少し始めます。これにはいろいろの原因がありますが、良く聞くのは「もっと生みたいが経済的な余裕が無い」という理由です。子供は手間とお金が派手にかかるものなのです。特に高等教育費(塾の費用含む)が大変で、これも出生率低下の大きな要因です。日本以上に子供を大学に行かせる風潮が強い朝鮮や香港では日本より出生率が低いのです。しかし少し昔を振り返ってください。日本には「貧乏人の子沢山」ということわざがあります。以前は経済力の無い家庭ほど子供が多かったのです。今、私の手元に「日本二千年の人口史」という本があります。鬼頭宏が1983年に書いた少し古い本ですが、なかなか面白いです。彼は日本の総人口の推移を推計していますが、縄文時代は20万人、奈良時代は550万人、平安末期で700万人、1600年の関が原の時が1200万人となっていて、着実に増えています。それが120年後の1721年には3100万人と2.5倍になっています。その後伸びが止まり、120年後の1846年には3200万人です。幕末からまた増え始め、1875年(明治7年)3600万人、1920年5600万人、1950年8400万人、1980年11700万人となりまた停滞が始まりました。日本の人口が停滞して増えなくなった時期は、江戸時代の120年と最近30年だけで、2000年間のうち9割以上の間は、子供をたくさん生んで人口も着実に増えていたのです。つまり、我々現代日本人の親子関係というのは、長い歴史のうちで極めて特殊なものだということです。日本人は長い間、貧乏人が子供をたくさん作り人口を増やしてきたのです。
2009年06月27日
コメント(2)
共産主義は人間の本性を変えようとしました。しかも宗教に反対し、哲学的な考察で人間の心を変えようととんでもないことに挑戦したのです。世の中には一生延命働いて多くの収入を得、それを他人のために潔く使う人が多くはありませんがいます。そういう人は自分のためにはお金を使いません。こういう人は、自分が豊かな生活をしようとか、普通の人が持てない様なブランド品を身につけて他人と差をつけるために一生懸命働くのではありません。一生懸命働くのが自分の使命だと思っているのです。キリスト教では、こういう人は「自分は神様からこの仕事を授けられたのだから一生懸命はたらかなければならない」と考えます。日本人であれば、これを「修行」と考えたり「仏行」と考えたりします。いずれにしても宗教的な動機から働くのです。こういう研究を百年ぐらい前のマックスウェーバーというドイツの学者がしているので、興味がある人は読んでください。楽をしようとか贅沢をしようと考える人間はここまで純粋に働くことが出来ないのです。19世紀に産業革命を通過し急速に豊かに強大になっていった民族には、こういう宗教心を持っている人が多く、社会の先頭に立って頑張っていたのです。ところが共産主義はこういうことに気がつかなかったのです。「疎外」を解消すれば、皆喜んで働くと考えたのです。自分が主体性をなくし生活のために仕事をさせられているから「疎外」を感じるというのです。私は未だにこの考え方が分かりません。単純な作業を朝から晩までやって入れば、どんな理屈をつけようと嫌になってしまうのは当然なのです。実際共産主義体制のロシア人も支那人も仕事が嫌で、仕事をサボっていました。豊かな社会を作る基本というのは、マルクス経済学では「土地」「資本」「労働」だといいます。これは間違っているのです。この三要素は大昔からありました。それでも資本主義というのは長い間起りませんでした。人間の長い歴史で資本主義が起きたのはつい300年ほど前のことなのですが、これは「一生懸命に働くことが神の命令なのだ」という非常に真面目な宗教が起きたためです。そうです。宗教改革の結果なのです。日本はキリスト教ではありませんが、同じように労働が尊いという教えが普及したからです。結局、豊かな社会とは、一生懸命働くという精神を持った人がたくさんいる社会のことです。そしてこの精神は宗教によって養われたのです。こういうことを共産主義は分からず「宗教はアヘンだ」と考えて禁止し、「哲学」で人間を働かせることが出来ると勘違いしたわけです。それから共産主義は私有財産も廃止しようとしました。これも人間の本性に反するやり方です。次回はこの私有財産について書こうと思います。
2009年06月25日
コメント(0)
共産主義というのは、はるか昔から貧富の差が無い社会ということで、人間の理想社会の一つになっていました。19世紀になって産業革命が起き労働者と資本家という従来無かった階級が突然発生した時も共産主義が流行りだしました。産業革命以前に存在したのは、商人と職人でした。職人はいわば自営業であって賃金労働者ではありません。また職人のトップであるマイスターは社会的地位が高かったのです。ドイツではいまでも、マイスターは企業の課長クラスより高い収入を得ています。そういう古きよき時代が去り、不熟練賃金労働者が発生し、彼らを雇う資本家が登場したわけです。産業革命が起きてこういう状態になったわけですから、その問題を解決しようとする共産主義も、産業革命が現に起りつつある先進国で流行ったのです。イギリス・フランス・ドイツなどで共産主義思想が起りました。しかしこれらの先進国は問題の深刻さをよく理解し、その対策を講じました。一番熱心だったのがドイツの鉄血宰相ビスマルクで、労働時間を制限したり最低賃金を設定したり、未成年者の労働を制限したりと、労働者の地位向上に努めました。こうしないと労働者が共産主義にいってしまうからです。日本を始め世界中の今の社会政策は、ビスマルクの政策を真似したものです。こういう事情もあって、共産主義は先進国では勢力を伸ばせませんでした。そして今ではこれらの先進国では、純粋の共産主義はほとんど絶滅しています。ところが後進国のロシアは、こういう労働者保護の政策をとる精神的余裕が無かったので、革命が起きてしまいました。支那は労働者などという気の利いたものはいなかったので、百姓が革命を起こしました。支那の場合は、実態は共産主義革命ではなく伝統的な農民反乱で、それを毛沢東が「共産主義革命」と名前を付けただけです。共産主義を実現させる社会的基盤が無いので、革命騒ぎが収まった後に出来た政権は共産主義ではありません。ただそう称しているだけでした。このように共産主義は、その思想が出来た本場では絶滅し、辺境でその名をかたってそのまがいものが栄えました。仏教も同じで、本場であるインドでは絶滅してしまい、東南アジアや日本という辺境で残っています。日本などは仏教が起きた社会的基盤が欠けているので、その仏教もまがいものです。もう一つ共産主義と仏教で似ている点があります。「人間の本性を変えようとした」ということです。
2009年06月17日
コメント(0)
まだ6月だというのに、玄関脇の狭い地面に植えたコスモスが花を咲かせました。
2009年06月17日
コメント(2)
明恵上人がどうしても行きたかったインドでは、仏教は滅びてしまいました。今でも仏教が残っているのは、スリランカ・ミャンマー・タイ・ラオス・カンボジアなどの東南アジアと日本です。シルクロードもかつては栄えていましたが、今は廃墟だけです。支那と朝鮮にはまだ仏教が残っていることは残っているのですが、総人口に占める仏教徒の比率は低く、とても「仏教国」と言える状態ではありません。支那の場合には判断が難しい要素があります。共産主義社会を経験したということで現状が流動的であり把握しにくいという面があります。もう一つは昔からのことなのですが、仏教のお寺と道教のお寺の区別がないのです。同じ敷地に、三国志の英雄で今では道教の神様になっている「関帝」を祭る廟と、阿弥陀堂の両方があるのです。日本でも明治維新以前は、神社とお寺が一緒になっていましたがそれと同じような感じです。「自分は仏教徒だ」と自覚している支那人は多くなく、それよりも道教を信奉していると考えている者のほうが圧倒的に多いのです。「本家本元で廃れてしまい周辺で生き残ったのがぶっきょうなのだなあ」とボヤッと考えていた時に、急に「仏教と共産主義は似ているな」と思いついたのです。
2009年06月15日
コメント(2)
明恵上人は面白いお坊様です。彼はお釈迦様が大好きでした。仏教を創めた偉い人だからとか彼の思想に共鳴して尊敬するとかそういう感じではなく、お釈迦様に「恋をした」という感じなのです。とにかくお釈迦様が好きで好きでたまらないので会いに行こうとしたのです。とはいってもお釈迦様は明恵上人が生まれる1500年前に亡くなってしまったから、せめて彼を偲ぶ遺跡に入ってみようと思ったのです。日本人でインドまでいった人は明治になるまでいなかったのです。何とかいう天皇の息子のなんとか法親王が本気になって行こうとしたのですが、今のベトナムあたりで消息不明になったことはありました。今の日本人の何人かは宇宙に行ったことがありますから、明恵上人の企んだ事は、今で言えば「火星に行こう」とでもいうようなことでした。彼は「大唐西域記」などの旅行記を調べ、「一日七里いけば3年で着く」などと計算していたのです。「明恵上人がインドに行こうとしているらしい」という噂が広がって、皆は心配して思いとどまらせようとしました。最後には神様までが止めに入ったのです。春日明神が、明恵上人の叔母様に取り付いて「行ってはいけない。日本にいて皆を導くのだ」と叫んだのです。こういうことが二度あり、おば様は真っ白い顔になって不思議な良い匂いを漂わせたのです。明恵上人もさすがに春日明神が反対したので行くのを中止しました。1193年、明恵上人が20歳の時、ナーランダー寺院というインド最大のお寺が、イスラム教徒によって破壊され、多くのお坊様が殺害されました。ナーランダー寺院は、教授と学生合わせて数千人が仏教を勉強していた、お寺というより大学だったのです。ナーランダー寺院が破壊された1193年はインドの仏教が滅びた年とされています。明恵上人が苦労してインドに行っても彼を悲しませただけだったでしょうね。
2009年06月08日
コメント(0)
生きている時に有名でも死んだら間もなく忘れられる人と、死んだ後有名になる人がいます。浄土宗を開いた法然上人や浄土真宗を開いた親鸞聖人は死後有名になりました。彼らは新しい大きな宗派を興した創始者だからです。一方の明恵上人は、今は知っている人は少ないですが、生きている時から江戸時代までは非常に有名なお坊さんでした。かつて江戸時代の寺子屋で使っていた教科書が展示されていたのを見たことがあります。「いろは歌」や義経の物語などを書き取りのお手本に使っていました。その中に「明恵上人」の業績を書いた教科書もあったのです。明恵上人がどんなに偉いお坊様だったかを説明した後で、詠んだ歌を紹介していました。彼は有名な「月の歌人」でもあったのです。あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月山の端に われも入りなむ 月も入れ 夜な夜なごとに また友とせむ寺子屋の教科書に載っていたわけですから、江戸時代の日本人の七割は明恵上人を知っていたことになります。明恵上人と法然上人は同い年だったと思いますが、明恵上人は法然上人をボロクソにけなしています。旧時代の仏教の最高幹部として新興宗教の教祖を非難したのです。親鸞聖人は法然上人の弟子で、年は親子ほど違いますから、明恵上人は親鸞など相手にしていませんでした。明恵上人が生きたのは、源平の争乱から鎌倉幕府創設にかけてで、日本中が大騒ぎをしている時でした。尚、高山寺には国宝で有名な鳥羽僧正の「鳥獣戯画」があります。鮮やかなさすがに見事なものでした。
2009年06月06日
コメント(0)
先日、高山寺に行ってきました。実は高山寺には私は今まで行ったことが無かったのです。京都に引っ越してきてから、早く行かなくてはならないと思いながら、今まで行かなかったのです。高山寺は京都の北西の山の中に在ります。京都の北西の郊外に嵐山がありますが、そこから更に山に分け入っていくのです。四条大宮という中心に近いターミナル駅があってそこからバスで45分かかります。京都は人口150万人の都市で、そんなに大きな町ではありません。ローマやウイーンに行かれた方は、これらの町が意外と小さいことに驚かれたかと思いますが、京都はそれよりもう一回り小さいです。ですからバスで45分というと辺鄙なところというか、本当に山の中です。この辺は、川端康成の「古都」で有名になった北山杉の産地です。両側が山というそのなかをバスが行くのですが、窓から見える山の斜面は、杉、杉、杉です。床柱に使うまっすぐに伸びた幹の杉がヒョロっと立っています。私はひどいスギ花粉症なので、もうすこし時期が早かったら死ぬところだったかもしれません。高山寺は、明恵上人が修行していた寺なのです。私は、明恵上人を手がかりにして日本の仏教に次第に深入りをしてしまったわけで、因縁のあるお坊様なのです。私は明恵上人が大好きなのです。京都の有名なお寺には下品な所も結構ありますが、高山寺は上品で良い寺でした。今年中にもう一度行こうと思っています。皆さんも是非一度見てください。しばらくの間、のんびりとしたベースではありますが、明恵上人と高山寺のことを書いていこうと思っています。そしてインドや日本の仏教のことも。写真は明恵上人が木の股の上で座禅を組んでいる絵です。リスや鳥が近くにいます。携帯の写真ですので良くは撮れていないのですが、有名な絵です。次回に続きます。
2009年06月05日
コメント(6)
私は時々自分でも異常ではないかと思うぐらい疑問に思ったことを納得のいくまで調べるクセがあります。今回は服の着方に関してでした。洋服の場合、男と女で襟の前になる方が左右逆になります。男の場合は、向かって右が前になり、女は左が前です。私は和服の場合も男女逆だと思っていたのですが、和服では男女とも右前です。なんでヨーロッパと日本で違うのかとても不思議になったのです。また「左前」という言葉があり、儒教の聖典に「我、左襟せん(だったっけ?)」というのもあって、その意味も知りたくなりました。そこでこの調査に非常なエネルギーを使いやっと分かりました。洋服の場合、男女で逆になるというのは13世紀にさかのぼる話だそうです。ボタンがヨーロッパに入ったのは13世紀だそうで、ボタンが付いた高級な服を着るのは上流の金持ちでした。紳士は自分で服を着たが、奥方やお嬢様は小間使いが着せました。人間は右利きなので、右手でボタンを扱うほうが、やりやすいということです。女の場合、小間使いは奥方に向かいあって着せるわけで、自分で着る場合と左右が逆になるというわけです。和服の場合、ボタンが無いので男女で違いが起きなかったわけです。死者には「左前」に着せました。日本では、死後の世界は全てが逆の世界だと考えられていたからです。「左前」に着るというのとは、「お前はもうじき死ぬんかい」というわけです。では何故、日本では右前に着たか?これはどうやら支那の習慣が入ってきたらしいです。支那では左の方が右より偉いのです。左大臣は右大臣より偉いです。この関係で、人間は右前に着るようになったらしいのですが、もうひとつ良く分かりません。支那人は「右前」に着ていました。そうして北方の騎馬民族は「左前」に来ていたらしいのです。ですから、自分が野蛮人になってしまうということを、「左襟」といったらしいのです。では何故、騎馬民族は「左前」に着るか?これは今のところ分かりません。もうしばらく調べてみます。
2009年06月01日
コメント(2)
全9件 (9件中 1-9件目)
1