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小さいけど微笑みの花が咲いたよ自然の風を感じ太陽を思いながらパチリンと目が覚めたように咲いたの・・・うれしいなんだかとってもうれしいラムも見ているんだよね・・・?怒っているの?大丈夫だよラムは可愛いよ
2007.07.31
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愛ってなんだろうね形も色も匂いも感じ方も雰囲気もホント様々なんだよね言葉で綴るのは簡単だけどどんなものかと確かめたくって探してみれば深いところにいかないと触れられないものでだけど近くにいつも存在するもの・・・私もたくさんの愛に触れて生きてきたように思うでもその一つ一つを大切にしてはこなかったと感じているだから未だに本当の愛を見極められないのかもしれない愛の存在を知るためには素直に生きることを教えられた愛というものはわけもなく感じるもので存在するもの手を離すものじゃない離せないものこの得体の知れない愛は信じる人にしか観えないものなんだろう私にも少しわかり始めてきたかなそう何気ない瞬間ジワっとあなたのことを想って温かくなる心の時かもしれない
2007.07.22
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高枕って安眠を促してくれるものだったのですね・・・これは中国の前漢時代の司馬遷の『史記』に 楚韓の患い無ければ 即ち大王、 枕を高うして臥すという記述があったことからの由来だそうだ。史実は 魏が秦に仕えれば 蘇と韓は決して攻撃してこないでしょう。 それで大王も枕を高くして 安心して眠れますというものらしいのですが医学的には上半身を高くして脳にたまった血液が体に戻りやすくすることで交感神経が副交感神経と代わりやすくなる・・・それで脳の興奮が鎮まり、よく眠れるようになるということなのだけどこのところいろいろあって横になっても眠りが浅かった私にとって経験になった。結果昨夜は高い枕が苦手な私でも知らないうちの朝だった。む~ん単純W
2007.07.05
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菜根譚(さいこんたん)は、中国明代末期のものであり、主として前集は人の交わりを説き、後集では自然と閑居の楽しみを説いた書物です。別名「処世修養篇」(孫鏘(そん しょう)の説)といわれます。洪自誠(洪応明、還初道人)による随筆集。その内容は通俗的な処世訓を三教一致の立場から説く思想書です。中国で読まれるより日本の加賀藩儒者、林蓀坡(はやし そんぱ、1781年-1836)そして実業家や政治家などにも愛読されてきたものとされるものです。今日の気持ちに即して本の書名に「人常に菜根を咬み得ば即ち百事なす可し」意味は凡そ人間は徒らに美味を求むるなく、大根や蕪のような粗末な食べ物に甘んじているようであればどんな事でも成就することができる。大根や蕪のような根菜類をうまいと思えば人は思いを成就できるってことなのです。これは凄いぞと思いつつ…それでは、次をお読みください。 毋憂払意 払意を憂うることなかれ世の中は思い通りにいかなくとも心をとざすことはない毋喜快心 快心を喜ぶことなかれ世の中有頂天になって喜んではいけない毋恃久安 久安を恃むことなかれ世の中が無事平安であるからといっていつまでもそれを恃みにしてはいけない毋憚初難 初難を憚ることなかれ世の中いつどんな困難があるかもしれないが、尻込みしてはいけないその困難に克ってこそ初めて成就できるものだ・・・なんて・・・言葉にするとほんと楽しいね・・・実行してみましょうか。(苦笑)
2006.09.15
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『夜目遠目、笠の内(よめとおめ、 かさのうち)』意味は、夜の暗がりで見るとき、遠くから見るとき、笠の下からちらりと見えるとき、女性は一番美しく見えるものだ、っていうんですけどね…失礼しちゃいますよね(笑)でも、面白い言葉だと思います。夜はあまり出かけないので何とも言えないのですが、私は遠くから見ると確かに若く見えるんです。今時笠は被りませんが、帽子は被ります。確かにはっきり顔が見えなくて、美しく見えるかもいいかもって思います。チラリズム的な魔法ですね(笑)私の好きなあなたも私のメガネ姿と帽子にチラリズム。なんてことにならないかな(笑 笑)チラリズム…ふとした拍子に一瞬ちらりと見えるという状況に強い 色気や官能的魅力を感じる性向、またはそれを至上とする考え方。
2006.09.12
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今年も河童には会えなかったなわたしはいつか一緒に泳ぎたいと思っています・・・wもちろん河童(かっぱ)は、日本の妖怪・伝説上の動物、または未確認動物といわれています。標準和名の「かっぱ」は、「かわ(川)」に「わらは(童)」の変化形「わっぱ」が複合した「かわわっぱ」が変化したものだということです。別名、河太郎(かわたろう)ともいわれています。鬼や天狗と並んで日本の妖怪の中で最も有名なものの一つとされているようです。諸説はありますが、両生類と推測もされています。体格は子供のようで、全身は緑色または赤色。頭頂部に皿があることが多い。皿は円形の平滑な無毛部で、いつも水で濡れており、皿が乾いたり割れたりすると力を失う、または死ぬとされる。口は短い嘴で、背中には亀のような甲羅が、手足には水掻きがあるとする場合が多い。両腕は体内で繋がっており片方の腕を引っ張るともう片方の腕が縮み、そのまま抜けてしまうこともあるという。中国のサル妖怪「通臂猿猴」の特徴の通臂である。肛門が3つあり体臭は生臭いようです。そう京都の伏見にある黄桜酒造には、漫画家清水崑が描いている「河童」のマスコットとともにその河童の歴史が見られるところがありました河童は水泳が得意で、水辺にやってくる人間に他愛ない悪戯をしたり・・・相撲を挑んだりするどうしてかきゅうりが好きなんだよねだからお寿司のかっぱにはきゅうりが入ってる芥川龍之介が「河童」を書いてた私も高校時代読みました人の肛門から手を入れられて、尻子玉を抜かれると魂を抜かれるって言うんだよねそんな河童も時には水の勢いに負けて川に流される事があるんだよね日本人は過去、自分の才能をみせびらかしたり自慢することを美徳だと思わなかっただから弘法も筆のあやまり猿も木から落ちるなんてどんなに得意な技を持っていても失敗もあると窘めた言い方をしていたんだよねそこから能ある鷹は爪を隠すなんて言葉が地味な人が評判が良かったのでしょう現在??どうかな?昔とは価値観が違うから自分をしっかりとアピールして個性を出していくことはとても大切だと思います。
2006.09.10
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我を知らずして外を知るということわりあるべからずされば己を知るものを知れる人というべし自分の事さえわからないのに、他の事がわかるということわりがあろうはずはないだから自分を知っているものこそ、よく物事を知っている人といってよいだろう自分の能力や個性を生かすためにもっと自分を知らなくちゃ・・・ね
2006.09.07
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1613年来日した英国の国王の使者が徳川家康に駿府城で花火を見せた記録から日本で初めに花火を見たのは徳川家康とこの時そばにいた人たちらしい伊達政宗が初めだっていう説もありますが・・・・?家康の生まれた愛知県の東部の三河の国では観賞用の花火が盛んに作られたって・・・・私は花火は中国からやってきたと思っていました・・・・今年は私も一度だけ観る事ができました
2006.09.06
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老驥櫪に伏すとも志千里に在り(ろうきれきにふすともこころざしせんりにあり) この歌は魏の曹操の作った「歩出夏門行」の中のONE PHRASEです。正史『三国志』では、この曹操を機転がきいて、権謀術数(けんぼうじゅっすう)の才があり、任侠の道楽息子だといっています。このように曹操(後に武帝となる)といったら破天荒な乱暴な人という感じなんですが、私には、いつも本を読み、詩を詠む人っていう側面を持っているイメージがあります。実は、私は詩から曹操を知ったので勇猛の人だと知った時には反対に驚きました。宋の詩人・蘇軾(そしょく)が曹操を偲んで作った「赤壁の賦」にも曹操のことが描かれているんです。このONE PHRASEは英雄は年老いてもなお大志を抱き続けるというたとえ。としてよく目にします。 千里の馬(駿馬)は、馬小屋に伏していても 志は常に彼方の空に勇ましいことを思っている。 勇猛の士は、いくら年老いても、勢い盛んな心を失うことはないというふうに訳せるんでしょうか? この後、 人間の寿命は天命なんかじゃないんだ。 努力だ。 努力していれば不老長寿も悟ることができるんだ。とあります。やっぱり、日々努力なんだな・・・
2005.11.11
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若(も)し一事(こと)を専(もっぱ)らにして以て行(ぎょう)になぞらふれば、偃臥(えんが)すら猶(な)ほ懶(ものう)し。一事に懶(ものう)ければ万事(ばんじ)に懶(ものう)し。道元禅師の『学道用心集』にみえる言葉です。一日行うべきことを怠れば、翌日もまたできなくなってしまうだろう。一つのことに懶(ものう)ければ、全てのことに懶(ものう)くなり、やがてゴロゴロしていることさえ懶(ものう)くなってゆくなんて意味かしら?ひとたび怠惰な心が起きると、何をやるのも懶(ものう)くなるものですよね。私なんかメチャNEGATIVEな奴なんで、「(何か)~するぞ」「やり通すぞ」って思っても三日坊主に終わることが多い感じがします。でもね、どうせ三日坊主でも自分を奮い立たせるってことは凄いことだと思うの。三日坊主なら三日坊主でもいいじゃんwともかくチャレンジすることが大切だと思うの。「ホント三日だったなぁ・・・」と思ったら、またそこからやればいいんだから・・・少しずつ長い目で見るってことも大切だと思うの。例えば、最近、布団から出るのは辛い?毎日のことだけど、寒さに一時心を乱しても出なきゃアカンでしょ?そのままずっと寝てる人はいないと思うの。で、いつも「明日は早起きするぞ~~」って思いながら・・・。そして取りあえずは、「よーし今日も頑張る~~!!」って布団を出るでしょ?あの意気込み・・・よ。そう、あの意気込みと励ますその気持ちがあれば、なんでもできるw明日にはきっといい事あるさwなんてね・・・思ったw
2005.11.08
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「放下」とは投げ捨てる、ほうり出す等の意味。何ものにも執着をもたず一切をさっぱりと棄て去ることで「著」は動詞につける助辞。『放下著』の「放下(ほうげ)」とは、投げ捨てる、執着を離れる、こだわらない、捨てる、去る…という意味です。『放下著』の「著(じゃく)」は、命令を表す助辞で動詞につけるもので、「~せよ」と言う意味でありますから、「投げ捨てよ」、「執着を離れよ」、「こだわるな」、「捨てよ」、「去れ」と解釈できるでしょう。 おろかな物事へのこだわりを戒めているのです。捨てきる心が大切で、無一物になることなんでしょうか? 「執着」や「こだわり」ってありませんか?私なんか特にそうなんですが、世間の常識や基準みたいなものに嫌になってしまうほど捕らわれているんですが…。その世間の常識や基準みたいな物を「捨てよ」、「去れ」というのが、『放下著(ほうげじゃく)』なんです。
2005.10.24
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中世の破戒僧、一休禅師の作と伝えられる言葉に南無釈迦じゃ、娑婆じゃ地獄じゃ極楽じゃどうじゃこうじゃと言うが愚かじゃがあります。「どうじゃこうじゃ」と理屈ばかりをいうよりさらりと無心でありたいですよね。『行雲流水』の精神を伝えているとか・・・
2005.10.20
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室町期の歌謡というと、16世紀初め一隠者が編んだ歌謡集成で、311首中、その三分の二を恋歌が占める、民間で行われる俚俗の歌謡に『閑吟集』があります。その『閑吟集』の中に あまり言葉のかけたさに あれ見さいなう 空行く雲の早さよ(235)という小唄があります。 大意… 好きな人に言葉をかけたいと思ったが、どうしてもきっかけの話がない。(あれやこれと話題を探すのだけれど、思い浮かばない。ふと、見上げた空に雲を見つけ)「あれをごらんなさい」と声をかけた。「空を行く雲足のなんて早いこと」と。こんな意味かなw凄いよね・・・。恋心が痛いほど切なくなるほどみえるの。女性が詠んだ歌かしら??とても可憐な歌だと思います。好きな人に思うように声もかけられないこのドキマキ感。本当は“好きです”と言いたいのに、どうしても言えないときめきの心。分かるなぁ~~w私も言えない。だから・・・反対のことを言っちゃう・・・よくわかるな。恋しい人がそばにいるだけで上がっちゃう。それでも勇気をふるって声をかけてみると口から出たのは、「あれをごらんなさい。空を行く雲足がなんて早いんでしょう」だったなんてねありそうな話ですよね・・・。そんな時って、何を話そうか?なんて思いが頭の中をグルグル回るのよ。言葉がなくなる。真っ白け。私もあったな。高校生だったある日、好きな人に映画を観ようって言われて嬉しかったんだけど、信じられないことに一言も喋らないで帰ってきたなんて思い出。大人になっても変わらないかも。いいなぁと思った相手にどう思われるのかって気にしだすと、好きという態度や言葉の代わりに、しなくてもいい事や言わなくていい事を口にして後悔するなんてね・・・今でも高校の頃の失敗を思い出すと、デートなんて怖い感じがする・・・あらっ!!余分なことでした。私だけでしょうか?この歌 読みながら、精一杯の人の心を、女心をみつけました。
2005.09.13
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『梁塵秘抄』巻第二・法文歌・佛歌(26) 仏は常に在せども 現ならぬぞあはれなる 人の音せぬ暁に ほのかに夢に見え給ふ 大意…… 仏身は常住不滅ではありますが、生身そのままで現実の世界には見ることは出来ないのです。けれど、まだ人が寝静まっている暁の夢の中に、ちらりとお姿をお見せになるのです。 『平家物語』の「祗王・祗女」の段で仏御前が歌ったのも今様です。『梁塵秘抄』を知らなくても、これなら知っているのではありませんか?『梁塵秘抄』は『口伝集』(1171成立か?といわれております)後白河法皇の撰にかかわる二十巻の撰集です。現在は巻1の断章と巻2及び『口伝集』巻1断巻、巻10の4部だけとなります。 佛歌というのは仏をうたい讃える歌で、これはその中でも代表的なもののひとつといえると思います。近代の詩歌壇にも大影響を与え、北原白秋、斉藤茂吉などの作品に窺えるとされています。私は修士時代、演習で夏目漱石の作品に影響してると書きました。もちろん無視されました。「ほのかに」という語彙に胸を締め付けられます。夢とうつつを漂う懐かしさや儚さ、静寂。暁の時間の紫色した高貴なものへの深い憧れを夢幻に呼び起こす感慨に驚かされました。 口ずさんでみませんか? とても切ないのですが懐かしい涙に咽ぶような心地になります。
2005.09.10
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公子はその弟子、顔淵の「死」に臨み、こんな言葉を残しました。 顔淵死す。子曰く、噫、天予を喪ぼす。天予を喪ぼす読み下し…がんえんしす。しいわく、ああ、てんわれをほろぼす。てん われを ほろぼす。大意…顔淵が死んだ。孔子がいうには、(顔淵によって道を伝えようとしたのにできなくなった。)ああ、天が我をほろぼしたのだ。天が我をほろぼしたのだ。と、繰り返し、声を上げて泣いたといいます。その後、『論語』には、顔淵死す。子之を哭して慟す。従者曰く、『子慟せり。』曰く、『慟することあるか。かの人の為に慟するに非ずして誰が為にせん。』読み下し…がんえんしす。しこれをこくしてどうす。じゅうしゃいわく、『し どうせり。』いわく、『どうすることあるか。かのひとのためにどうするにあらずしてたれがためにせん。』大意…弟子、顔淵が死んだ。先生は声を上げて泣き叫んだ。従者がいうには、「先生、本当に泣かれましたね」と。孔子はいった。「その人の為に泣かないで、いったい誰の為に心の底からなこうか」と。人間は感情を持った動物であり、感情にも人間として正しいものとそうでないものがあるといわれます。孔子はごく自然に泣き声を上げ叫んだのです。心から愛する者が亡くなれば、もちろん慟哭するのは自然のこと。でも、同じ時空で生きている人がたくさん亡くなったり、辛い思いをしていることを察したら共感を少しでも感じたいです。何かできるわけじゃないのですが・・・・。そのような時に冷静でいられるのは、人間として大切なものが足りないのかもしれません。人として生まれて人として生きているのですもの。感情をあらわさないとならないと思いました。
2005.09.08
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大江匡房というと院政期の碩学鴻儒といわれ、詩歌に優れた人でその評価も高いんだと私の頭を過ぎる。結構好きな歌人なんです。夕べも匡房の集中の歌にはまっちゃって・・・・一人で爆笑してました。そんな偉い人の詠んだ和歌を笑うってどうかしているって思いますよね。でも、真面目そうでなかなか機知に富んでいているんですもの・・・・フフフ・・・もう一つの日記みたいですが、こういう人って好きなのです。 我恋はもろこしまでや聞ゆらん大和の国にあまる心は好きな人への気持ちがどんなに大きかったのか?。誇張しすぎ?かなぁ~~??でも、私が彼女で彼からこんな歌をもらったら、大笑いして改めて彼を見ちゃうだろうな・・・。愛すべき人って認識しちゃうかなΣ(^∀^;) 恋やせて鏡のかげを今朝みれば知らぬ人にもなりにけるかなおいおい!!そんなに愛せる人がいたんかい??ってね。思っちゃいますよね~~。恋で痩せるって・・・?私も過去に一度ありましたけどΣ(^∀^;)直ぐ戻りました(〃▽〃)♪でも、鏡の中の私が違う人に見えるほどじゃなかったしなぁ~~wこんなに愛されたら、否、愛したら恋は成就するんでしょうね(#  ̄ー ̄)〇きっと。 わぎもこが寝くたれ髪を猿沢の池の玉藻とみるぞ悲しきわぎもこ・・・男性が女性を親しんで呼ぶ言葉。寝くたれ髪・・・寝たために乱れた髪。早く言えば、寝癖だらけの髪の毛のことを考えてねw大好きな彼女の後朝(きぬぎぬお泊まりした朝の事)に見た髪があんまりクチャクチャなんで、その髪を奈良の猿沢の池にある藻類に例えながら、百年の恋も冷めちゃうよ~~~って嘆いてるのよね。あぁぁぁ~~気をつけなくちゃ。お泊りしたら可愛く寝て起きないと恋の熱も冷めちゃうから気をつけないとね(゚∀゚)アヒャヒャヒャヒャ以上感想。そそそ・・・~~私はないからいいんだけどさwねっ??!!昔の歌だけど、今に通じてるでしょ???
2005.09.05
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藤原敏行一首に 秋来ぬとめにはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる (古今集・巻4・秋歌上・169)【大意】秋が来たと目にははっきり見えないけれど、耳に聞く風の音には「秋だな」と、はっきり気付かされることだ。本当にそう思いました。実家に帰って、布団の中で感じる秋の気配・・・なんともの哀しい風のささやきにふと心がシュンとなるのです。木々の葉はまだ青くて目には秋色は感じないのに、この微風の音は冷たさを感じる。視覚と聴覚の対比が見事に詠まれている歌だと私も思います。『万葉集』では秋の風を秋の寒さとして表現している。しかし、勅撰集以後は立秋前後に吹く風、日中は身体に感じる暑さをまだまだ感じるのに・・・夕暮れ時になると何やら涼しげなこの風を敏感に歌い上げています。今も昔も変わりません。この風の快さと共に一抹の寂しさと不安な心になるものを勅撰集以後の和歌は詠んでおります。季節の移ろいを感じてくださいね・・・そして子供たちに話してあげてください。
2005.09.02
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相変わらず『きけ わだつみのこえ』を反復しつつ読んでおります。先日、梅田に行った時に見つけた中央新書より出版された本『太平洋戦争』の上下も平行して読み始めました。ずっと前、歴史の授業の時は「そっか!!そんなことがあったんだ!!」としか反応しなかった自分だったと思うし、試験の為にしか理解をしようとはしなかった事にため息をついています。ふと、日記として完全なものを手にしたくなる衝動に呆然としています。ただそれは時間が経ち過ぎているため皆無だろうと理解しながらも断片的な文章から人の心をあちこちに見ていることをここに伝えます。今、昨日から松永茂雄氏の書かれた学徒兵メモに釘付けになっております。その文章をご紹介します。 明日の生命への危惧が彼らを凶暴な享楽主義者にしようとする。それを抑えるのは彼らの性質にしみこんでいる小市民的な合理主義である。(激戦と激務の後に爆発する食欲と性欲のあらし。それは狂奔の直前に幹部の一喝にあって鎮静する) 人間の知性や感情をなくしてしまうといわれる激戦や強行軍の間にも、私の文学論や人生論に耳を傾けてくれた一人の真面目な小隊長があった。 私は陣中で源氏物語や古今集を講義させたという戦国の武将の故事を思い浮かべながら、時に社会科学を論じ、時に定家(藤原定家、歌人)の芸術を語った。 一分間に何発も落下する迫撃砲弾の下で、重機関銃の握把を握りしめながら新古今の歌を語っている学徒兵の姿を想像して欲しい。ここからまだ続くのですが、これだけの文章を今の若者はどう読み解くのだろうか??考えてしまいました。さらっと何の感情もなく読み過ぎるのだろうな・・・戦火のまっただ中で静寂の世界を見つめる精神(心)があることなど気づかないのだろうな…。この短い文章の悲しみや苦しみに行き着き、複雑な思いにただただ自分がかられているからこんなことまで考えるのでしょう…。「人間の痛みがわかる人間」になるには、否、あるには、先ず自分の痛みを知らなければなりません。痛みを知らない人間、痛みを痛みと感ずることができなくなっているのが今の世の中の現状なのかもしれませんが、自分の心の傷の痛みがわからない人間は、結局他人の心の痛みにも鈍感なのかもしれませんね。人が傷を受けていたわることを覚えたなら、他人の苦しむ姿や痛みもわかるのだろうと思います。どうかこうした文章に触れるだけでいい、疑似体験でもいい、思いやりや気配りのできる人がこれからの世の中、多くなって欲しいと思いました。もちろん私も日々学習していきたいと思います。
2005.08.19
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昨日、文献整理の手伝いの傍ら自分の専門の話をしながらこの本を手に取った。今まで自分は古典を精力的に学んできたが、どうしても踏んでおかねばならない声を耳にしたように感じる。古典を学ぶことは、日本を知ることだと考えていたことから、先ずは古典に身を寄せていた。しかし、私の時は流れて行く。このまま古典だけの世界にいては自分も何も見えてはこない事に気づいた。もちろん古典をもっと学ばなければならないのだが、しかし今、これまで聞きかじった古典を元に太平洋戦争で亡くなった多くの人たちが残した言葉を読み解く時が訪れたように思う。たくさんの人が平和を唱え、夢見た。この心を今に届けたいと思う。ひとつ、目に入った手記をここに記す。(昭和18年8月1日 夫人宛)私は奉公の身、思ったことも十分書くことはできない。それにたよりも思うにまかせて出すこともできないのです。どうかどうか私の何よりも深い心を汲みとってもらいたい。私はこちらにきてから、身命を顧みる遑もなかったのだけれど、そうして、だれにもたよりを書いていない。書いた手紙も海の藻屑と消え失せるかもしれないと思うと、たよりなど書く気にもなれぬ。しかし大島博光氏(詩人)とあなただけには全魂を傾けて私は書きに書いている。たとえこれらの手紙が海に沈もうと、神様はこれらの文字と真心を読んでくださるであろう。この書簡は、武井脩氏が奥様に書かれたものです。悲痛な叫びと共に純粋な精神のあり方をここに感じました。私にはまだ言葉にはならないのですが、背後の情勢なども少しずつ記して言葉を読み解いていきたいと思います。
2005.08.16
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王昌齢(おう しょうれい)の詩歌の中に「従軍行」という詩があります。 青海長雲暗雪山 孤城遥望玉門関 黄沙百戦穿金甲 不破楼蘭終不還 青海の長雲 雪山暗し孤城(こじょう)遥かに望む 玉門関(ぎょくもんかん)黄沙(こうさ)百戦金甲(こんこう)を穿(うが)つも楼蘭を破らずんば終(つい)に還らじ(大意)青海に雲が垂れ込め、雪をいただく山々は暗く見える。 ただ一人前線の砦より遙かに玉門関の方を見つめる。 黄沙の戦場で百戦し、鎧甲にも穴があくほどだが、 桜蘭を破らないうちは死んでも帰らない。と、まぁこんな具合の詩です。私は戦争は嫌です。でも、いつの世にも運命というのは過酷ですね。自分の意志ではない時代の流れに反抗することはできないのですから。確かに この詩は、戦場の悲哀を詠む厭戦詩(戦争を嫌がる詩)というものではありません。でもなんだかとても悲しいですよね。この人が威勢よく気張ってみせている一兵卒(一人の下級兵士)みたいにみえるからです。鎧が破れるまで戦って、そして敵地の奥深くまでのぞんでいるキリッとした姿を私は想像するだけで悲哀を感じてしまいました。勝たなければ、家に帰ることはできないのですから…。まさしく勇壮美への切なさというのでしょうか。戦後60年、その60年前、多くの人が自らの意志とは異なった心地で過ごさねばならなかった時代があります。その時の気持ちと重なる思いがしました。誰もが命を尊いと感じながらも、その時代の流れには背くことはできなかったのです。ふと、戦地へ赴かなければならなかった多くの命、その命を待つ命の気張りを思わずにはいられませんでした。この詩を詠んだ王昌齢は字を少伯といいました。(698-755)唐の詩人で、孟浩然(もうこうねん)につづいて、盛唐の詩風をきり開いた人として知られています。生まれたのは京兆府(今の西安の近くの地)ですが、戸籍は山西省の太原にあり、若いころ太原に住んだこともあったらしいとされています。辺塞詩人(中央アジアの遠征を題材にしてうたう詩人)として名高い人です。「従軍行」「出塞」「塞下曲」など聞き覚えがあるかと思います。727年(開元15)進士に及第,氾水県(河南省)の県尉をへて秘書省の校書郎になるのですが、礼法を無視する奔放な性格が禍して龍標に左遷されてしまいます。一時罪を得て嶺南(広東・広西の地)に流されます。でも、許されて江寧(今の南京)の丞となるよいです。晩年、安禄山の乱のとき、混乱にまぎれて勝手に故郷に帰ったために郷里において刺史(しし)の閭丘暁(りょきゅうぎょう)に殺されてしまいます。七言絶句の名手でありました。辺塞詩(戦争の詩です)のほかに後宮の女性の怨みをうたう数多くの作品や,清らかな選別詩を残した。詩論家としても知られ『詩格』『詩中密旨』を著しました。同時期の詩人の孟浩然や李白とも親交があったといわれています。
2005.08.13
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杜牧の詩歌の中に「題烏江亭」という漢詩があります。 勝敗兵家事不期包羞忍恥是男児江東子弟多才俊捲土重来未可知 「烏江亭に題す」戦いの勝ち敗けは兵法家でも予期できない羞を受けたらそれをはらすことこそ男児たるものの生き方だ長江の東の国の若者は豪傑ぞろいだ土を捲き重ねて来たらば(もう一度、勢いを盛り返してやってくれば)勝ち負けは未だ分からなかったのに。 これが 「捲土重来(けんどちょうらい)」の語源になったとされる詩です。この詩は、項羽の最期の地となった烏江(うこう)の古蹟で杜牧(とぼく 803~852)が詠んだものです。 秦末、劉邦(漢の高祖)と覇を争った項羽は、敗走して烏江まで来た話は「四面楚歌」の次の場面を想像してくれたらわかると思います。ここで項羽は烏江から揚子江を渡ろうとします。項羽の故国は江東でしたから。烏江の亭長が船を用意して待ち、項羽に「江東は小さな土地ですが、なお方千里、衆数十万、王たるに十分な土地です。願わくば大王には急いでお渡りくだされい。いま船をもっているのはわたくしだけで、漢軍が来ても渡ることができないのです」と言った話は有名ですよね。この時、項王は本当に嬉しかったと思います。でも笑って、「天がわしを滅ぼそうとするのに、わしはなんで独り渡ることができよう。そのうえわしははじめ江東の子弟八千人と江を渡って西したのに、今一人の還る者もないのだ。たとい江東の父兄が憐れんでわしを王にしようとも、わしはなんの面目があって彼らに会われよう。またたとい彼らが何も言わなくとも、わしはひとり自分の心に恥じないでおれようか」と言ったと聞きます。項羽は言い終わると亭長に愛馬を与え、自らは徒歩にて敵の漢軍の中に入り、壮絶な死を遂げてしまうのです。 「捲土重来」の語はこんなところから生まれたのです。 「捲土」は、文字どおり土を捲くこと、敷物を捲くように地面を捲く、つまり土をも捲き上げるような勢いというのでしょうか。そう、もう一度、勢いを盛り返してやってみろよ…まだまだわからないって捉えた自分がいます。本当に涙が出ました。天命というのは自分が見放されたと思った時に終わるものなんだ…と、そうだとしたらまだ頑張れるじゃないのかって自分に自問自答しました。そうなんです。生きていたらまだまだチャンスはいくらでもあるんです。挑まなければなにも始まらないのです。杜牧の感慨が今日の自分を励ましてくれているようです。それで今日はこの詩歌を選びました。
2005.08.10
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「有り難し(ありがたし)」という言葉の本来の意味は、有り難しという字のままで、存在しにくいというものであろう。『源氏物語』の「行幸」で さるべきついでなくては、対面もありがたければこれは、あることが困難であるという意味です。そしてまた「あり」という語が世にある、生存するという意味でも用いられていることから、「有り難し」は生きることがしにくい、困難だという意味にも確かにとれるのです。『万葉集』(巻17 長歌) …これを除(お)きてまたはありがたしさ並べる鷹は無けむと…これは逃げた自分の鷹はまたと「ありそうにない」という意味で、存在が稀である。なかなかありそうにもない。珍しいということになるのでしょう。『万葉集』の例などから考えると、~だから勝っている。あったとしたら尊いという意味が込められていると思う。そんなことから段々に稀であってすばらしい、尊いという気持ちが色濃くなっていったのであろうと私も思う。『宇津保物語』の「いとありがたき君と聞きたてまつるぞ」という言葉の中には(世にも珍しいほど)優れている。立派である。そしてもったいない。おそれおおい。かたじけない。などの意味がみえます。その「かたじけない」という意味は、本来みっともない。相手に失礼。恥ずかしいという意味のものなのですが、でも、身に余る恩恵を受けてもったいない。尊いという気持ちを含んでいるものなのです。中世までは人への感謝の気持ちを表すのには、この「かたじけない」が使われ、「有り難し」は神仏への気持ちを表すのに使われたのだと言われます。近世以降「ありがたし」がこの感謝の気持ちを表す言葉が取って代わっていったとされるんです。面白いですよね…言葉って。余談ですが、私の中では死語になっていない言葉が、周りでは死語になっていたり、知らず知らず死語にしてしまっていて使ってなかったりと現在の言葉ってめまぐるしく変わっているのですよね。人のメールをするのに悪い気持ちじゃないのに会って交わす言葉と違って、相手を変に傷つけてしまったり、誤解させちゃったり、余分なことを言っちゃったりと、私も言葉には相変わらず、悪戦苦闘しています。言葉ってやっぱり魔物ですよね~~w
2005.08.09
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今日、『古今和歌集』を読んでいて心に残るものがありました。 なにをして身のいたづらにおいぬらむ年のおもはむ事ぞやさしき (巻19 1063 よみ人しらず)(大意)私は一体何をして、このようにむなしく老いこんだのだろう。一緒に過ごしてきた年が私のことを何と思っているのであろうと思うと、年月に対して私は恥ずかしい。まことにそのように感じています。言葉はありません。 世の中は夢かうつつかうつつとも夢とも知らずありてなければ (巻18 942 よみ人しらず)(大意)世の中というものは一体夢なのか現実なのか、現実なのか夢なのか、私にはわからない。存在するようで、また存在しないのであるから。 これも本当にそう思います。あっという間の時間の流れに今日もあ然としています。参ったなぁ~~w
2005.08.07
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例年になくかなりの夏バテ気味です。気合いもどっかに吹っ飛んでいますね、今日の私。精が尽きたら、ぬめりがあるものを食べよ。根が尽きたら、根のあるものを食べよ。で、鰻の話。関西に私が初めて勉強に来た時、鰻を見てびっくり・・・「何?関西では鰻飯をひまつぶしっていうの?」同じ研究室の人に笑われました。「暇つぶしじゃなくて、ひつまむしでしょ!!」よく読んだらひつまむしでした。でも、「まむし??って蛇じゃん」とは、言いませんでしたが、思いました。関西では、鰻飯のことを「まむし」というんですね~~。これは美味しさを保つために飯の中に鰻を入れた「間蒸し(まむし)」を語源にしているのだそうです。蒲焼きの語源は、古くは鰻を筒切りにして串に刺して焼き、形が鎌の穂に似ていたことからだといわれています。その後、開いて焼くようになったというのですが・・・。割き方も関東と関西では異なります。「江戸の背割り、京阪(坂)の腹開き」は武士の都、江戸では腹を切るのを嫌って背開きにし、商人・町人の町では堂々と腹を割いたことから異なりが生じたといわれています。と聞くと、確かにひものなんかの割き方も違いますよね。鰻の「たれ」は、江戸では醤油にみりん。上方では、醤油に諸白酒(もろはくさけ)だったといいます。 うなぎ屋の隣 茶漬の鼻で喰ひ私にとっての鰻は醤油とみりん醸す あの匂いだなぁ~~wやっぱり鰻にしようっと!!因みに、右側通行も関東人の私にとっては小さい頃からいわれていたんですが、関西はそんなことは聞いたことがないって!!言われちゃいました。これも、関東の武士は刀の使いがってからこんな風に右側通行が一般的となり、商人・町人の京阪(坂)では左側が一般なんだそうです。ホント、私、関西五年目なんですが、慣れるのでしょうか???~~w
2005.08.06
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「かなかなかな・・・」蜩の鳴く声をテレビで聞いた。『源氏物語』の「幻の巻」には、庭の撫子を眺めながら今はもうこの世にいない紫の上を思いながら、「ひぐらしの声、はなやかに」と、はなやかに蜩(ひぐらし)の鳴く声を聞きながら、撫子(なでしこ)が夕映(ゆうば)えの空の美しい光を受けている庭もただ一人見ておいでになることは味気ないことでおありになった。(与謝野晶子訳) つれづれとわが泣き暮らす夏の日をかごとがましき虫の声かな蜩が鳴くのは、明け方や日暮れで、薄明かりが好きなのでしょうね・・・鬱蒼とした山の中だったらきっと今の時間も鳴いているのでしょう。歳時記では初秋の中に入っているのですが、それも陰暦からの話でしょう。高校までの昼寝をこの蜩の声で起こされるのは部活やクラブから解放された夏休みの後半というイメージが強いですね。華やいだ夏というイメージの中の翳りをもった夕暮れ時の悲しい感じかな。季節を感じます。この私が住んでいる所は西に小高い山があり、そこから季節が舞い込むのですが、蜩の声には未だ出会ってないのが残念です。田舎に帰って昼寝をしたいな。
2005.08.05
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白楽天は「松樹千年終に是を朽ちぬ、槿花(きんか)一日自ら栄を成す」(『白氏文集』「放言詩」)と木槿(むくげ)を詠んでいます。むくげの花が朝咲いて夕方しぼむコトノように、人の世の栄華の短くはかないことのたとえをいうようです。この世の栄華が長続きすることなく、儚くむなしいたとえです、『平家物語』だよね。 このむくげの花、朝咲いて夕方にはしぼむ花の性質により、人の栄華のはかなさ、移り変わりの速さを象徴するものとなったと聞きます。ただ日本では、平安朝時代に槿を「アサガホ」と読んで混同していたようなんですね。つまり「朝顔」=「槿花(きんか)」だったのです。こんな風に読んでみては?朝顔の花は、たった一日の儚い運命だけど、それは一つの栄華なのよ・・・なんてね~~~好きかもな、こんな言葉Σ(^∀^;)
2005.08.04
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斎藤茂吉の詩に真夏の日のひかり澄み果てし浅茅が原にそよぎの音のきこえけるかもがあります。山間の緑を過ぎてくる風に、自然の涼しさを求めてみませんか?そよと吹く風に一緒に揺れながら真夏の静寂を感じたいと思います。
2005.08.04
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藤原定家の有名な句に駒とめて袖うちはらふ陰もなし佐野のわたりの雪の夕暮 (新古今671)があります。(大意)乗っている馬を留めて、袖にたまった雪を打ち払おうとしても、打ち払う物陰もない。佐野の渡りの夕暮れ時であるよ。この歌から思い浮かべるイメージは白一色の佐野の渡し場の風景なんですよね。美しい雪の世界です。新古今時代の歌人たちが愛した冬なんです。芭蕉もこの新古今時代の美意識を愛したんですよ。 初しぐれ猿も小蓑をほしげなりと、『猿蓑』の「巻之一」には「冬」が沢山詠まれています。古人たちにとっての夏は過去において愛すべき季節とはあまりみえないようですね。でも、現代は夏の部が突出して多いようです。現代人が夏の美意識を多く見出しているって事なんでしょうか?日本の伝統的な美意識を表す言葉が「雪月花」だったりするのは、「雪」は冬、「月」は秋、「花」は春という季節に対応するものだったのですよね。でも、夏がないじゃないかって思うのは、やはり古人が夏の季節を位置づけしていなかったということなんでしょうか?このHP、Blogをはじめた最初に書いたことなんですが、川端康成はノーベル賞受賞の際の記念講演で、 春は花夏はほととぎす秋は月 冬は雪さえて冷しかりけりという日本の四季を詠んだ道元の歌を引用しているんです。四季の景物として「ほととぎす」を雪月花に加えたものだったんです。「夏」っていう季節、現代の私たちの歳時記には切っても切れませんよね。そう「涼し」の連想から楽しい夏の休みの存在。さまざまな形が思い浮かぶのです。大人になっても子供の頃の「夏」はかけがえのないもののように記憶に刻まれています。八月の前半に立秋があっても夏休みは続くのですから。たくさんの「夏」の、そう、今の美意識を奏でて欲しいと思います。
2005.07.31
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杜甫の詩に、貧交行(ひんこうこう)という詩がある。翻手作雲覆手雨紛紛軽薄何須数君不見管鮑貧時交此道今人棄如土手を翻(ひるがえ)せば雲と作(な)り手を覆(くつがえ)せば雨となる紛々(ふんぷん)たる軽薄(けいはく)何(なん)ぞ数(かぞ)うるを須(もち)いん君(きみ)見(み)ずや管鮑(かんぽう)貧時(ひんじ)の交わりを此の道(みち)今人(こんじん)棄(す)つること土(つち)の如し手のひらを上に向けたり、下に向けれたりする、そんなわずかなことだけで、すぐ雲行きは変わる。今の世の人情は変わりやすく軽薄な人間がなんと多いものだ。あの管仲、鮑叔との貧しいときから一生かわらぬ友情の話を知っているはずだ。しかし、今の人はそんな友情など泥のように棄ててしまって顧みようとはしない。この「貧交行」は杜甫がまだ若かった頃、長安の都に出て、仕官の途を求めて苦労していた時代の作であるという。人間の軽薄さに幾たびも出会って人間に絶望した杜甫が思い起こしたのが『史記』に描かれていた「管鮑の交わり」の故事だったという。司馬遷が李陵事件で誣告罪(ぶこくざい)に問われた時、誰一人として司馬遷の為に弁護してくれる者はいなかったのです。司馬遷が目にしたものは何だったのだろう。司馬遷は、その書『史記』の「汲・鄭列伝」に書き留めている。 「死ぬ目にあったり生き返ったりして、はじめて交わる人のまことの気持ちがわかるのだ。富んだり貧しくなったりして、はじめて交わりの深さ浅さがわかるのだ。偉くなったり落ちぶれたりして、はじめて交わる人の心の底がみえるもだ・・・ああ、悲しいことだ」と。ふと、杜甫の詩から史記に至るほど、心に響いた詩だった。その悲しい心に何度も読み返してしまった。自分にできることは何もない。しかし、私は自分の交わりのある人たちにこんな思いはさせたくない。惜しみなくできる人となりたいと思うが・・・。
2005.07.30
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私には何もありませんが今日は「満窓涼気分与君」の気分です。窓いっぱいの涼しさをあなたにあげたい。けたたましく蝉が鳴きます。夏ですもの。一息入れて、窓を開ける・・・気分だけでも。自然の風が心まできっと癒してくれますよ。今日はちょっと散歩にいきます。帰ってから思いついたつれづれを書きたいと思います。
2005.07.29
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偶成(勧学)の中に、 少年老い易く 学成り難し 一寸の光陰軽んず可からず 未だ覚めず 池塘春草の夢 階前の梧葉巳に秋声(池の土手に若草の萌えいずる春の夢が、まだ覚めやらずにいるのに、庭先の梧の葉に秋風が吹いてきている。少年時代もまたたく間に過ぎていき、成すすべきことも成し得ないうちに老いてしまうのである。だから、たとえ日の陰の一寸動くほどの時間であっても、決して軽んじてはならない)があります。これは江戸時代に大変重んじられた朱子学の大成者とされる朱憙(宋)の詩です。教訓の詩といわれるのですが、1500年前も今も変わりませんよね。ヨーロッパでは、「Time is money」と言われています。本当に、光陰は箭の如く過ぎ去り、時間はけっして人を待ってはくれない。なすべきことは今なさねば、時は待ってくれないのです。人間には、無限の素質、能力、知力、体力があると思います。でも、それぞれには個性があり、質も量も違う。ただ、時間だけは皆同じなのです。だからこそ、今日をこの時間を大切に生きたいですよね。【追記】李白にも、「春夜 桃李園に宴する序」という有名な詩があります。 夫(そ)れ天地は萬物の逆旅(げきりょ)にして 光陰は百代の過客(くゎかく)なり。そう、松尾芭蕉の『奥の細道』の冒頭はここからきているのです。日本人は一度は耳にしたことのある言葉ですよね。親しみ深いものです。芭蕉は、「奥の細道」の冒頭で、月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。「月日は百代にわたって旅を続けて行くものであり、来ては去り去っては来る年々も、また同じように旅人である。舟の上に身を浮かべて一生を送り、旅人や荷物を乗せる馬をひいて生涯を過ごし、老年を迎える者は、日々が旅であって、旅そのものを常のすみかとしている」と時間のこと、人の一生のをいっています。
2005.07.28
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この「面白」って言葉のもともとの意味は、「目の前が明るくなる感じを表し、美しい景色を形容する」言葉だったんです。それが時代は下がって1、見て楽しい。愉快だ。気持ちがいい。2、興味がある。興味深い。3、趣がある。風流である。4、望ましい状態である。思うとおりである。5、滑稽である。おかしい。などという意味になり、上記の意味で今も使われている。 面白うて やがて悲しき 鵜飼かな松尾芭蕉の句ですが、有名な長良川の鵜飼の見物をした時の作だそうで鵜を使って盛んに鮎をとっているうちは面白いがひとしきり終わって、鵜飼の舟が遠ざかるのを見たときなんと悲しいものだという気持ちを詠んだものだんですって。本来の語源がちらり。言葉ってその深きにも心があるものなんですね~~~。
2005.07.27
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「担雪埋井(たんせつまいせい)」という言葉があります。人の努力というのは、井戸の中に雪を放り込んで埋めるようなものだということを表しています。井戸の中に雪を運んでも運んでも溶けてしまって井戸はちっとも埋まらない。愚かな行為を指しているかのようなのですが、人が何かを求めて努力してもなかなかうまくはいかない、人生とはそういうものだって説いているんです。「報われる」ことは少ない。「うまくいくことなど珍しい」と覚悟をすること。たとえ雪で井戸を埋めることができなくても、雪を運び続ける努力を怠ることなく続けることが大切なんだ、と教えているのです。諦めてはいけないんですね。努力はいつか成功するって信じて毎日生きたいものです。こんな願いを込めた言葉として理解しています。それで、私?やってるかいって?ん~~ん。取り合えず、心と対峙しながら努力だけはしていますが、相変わらず井戸は埋まらないですね~~~。
2005.07.26
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なんとかやっと、リンクができるようになりました。どうぞ、よろしくお願いします.m(_ _)m
2005.07.25
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最近また『三国志』にはまっています。どうして『三国志』なのかって、女でありながらあの激しい権力闘争というのには興味があるのです。人を殺すというのではなく、過去の戦いとして勝者はどうしてその勝機をを読んだか、どんな人物がどんな戦いで何を得たか・・・その兵法に学ぶこと大なんです・・・。私は日本文学の中古から中世にいたる頃の和歌の言葉をみていくのが専門なんですが、まぁ~~『平家物語』とは違った視点で読ませて頂いています。でも、凄い力をもらっていますよ。結構消極的な私が今日はいやに積極的なんです(笑)杜牧の詩に「赤壁」があります。 折戟沈沙鉄未消 自将磨洗認前朝 東風不与周郎便 銅雀春深鎖二喬(読み下し) 折戟(せつげき)沙(すな)に沈んで鉄(てつ)未だ消せず 自ずから磨洗(ません)を将(も)って 前朝(ぜんちょう)を認む 東風(とうふう)周郎(しゅうろう)が与(ため)に便ならずんば 銅雀(どうじゃく)春深(はるふこ)うして二喬(にきょう)を鎖(とざ)せしならん と詠んだものです。赤壁は、紀元三世紀の初めに魏の曹操が百万の水軍を引き連れて長江の上流から押し寄せ、ここで呉と蜀の連合軍に大敗をした古戦場です。この戦いは、蜀の諸葛孔明が風乞いをして霊験あって東風が吹き百万の水軍が全滅したというのですが、まぁ~~天下分け目の決戦だったのです。折戟(せつげき)沙(すな)に沈んで鉄(てつ)未だ消せず折れたほこが岸の砂に沈んで、その鉄(錆びきっていない)がまだ消えていない。自ずから磨洗(ません)を将(も)って 前朝(ぜんちょう)を認むその折れたほこを手にとって水で磨いてみると、(前朝、六朝をさします)あの赤壁の戦いの時のものだとわかる。東風(とうふう)周郎(しゅうろう)が与(ため)に便ならずんば 東風がもし呉の周瑜のために味方をしてくれなかったら、銅雀(どうじゃく)春深(はるふこ)うして二喬(にきょう)を鎖(とざ)せしならん 銅雀(どうじゃく)は銅雀台というのですが、その銅雀台(曹操が築いた贅沢な高殿にあります)に美人の姉妹はここに閉ざされていたことであろう。というものなんです。美人の姉妹とは孫権と周瑜の奥さん(側室だったようですが)が曹操の色好みに捕られて手ごめにされたであろうというものなんです。小説と歴史には違いがあります。曹操は悪玉なんです。漢詩を読むと曹操は詩を詠む人なんで、それほど悪人とは思わないのですが・・・・。もしあの時~~だったらという発想は興味深いですね。この時の孫権の決断は凄い(小説は漫画では味わえない迫力があります)でも、周瑜の的確な読みがあったからともいえます。確固とした信念で臨んだ、戦略戦術に固唾を呑んで読み終わりました。どんな時も前に臨む読みは必要なんですねw今日は杜牧の「赤壁」あげましたが、宋時代の蘇東坡が書いた有名な「赤壁の賦」を紹介します。
2005.07.25
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平常心というのは、喫茶喫飯、日常茶飯事の平常の心をいうのですが、なかなかできないことなんですよね。南泉禅師の「平常心是道」の句に大悟された趙州禅師は「自己とはどんなものか?」と尋ねられた修行僧に、「ご飯はすんだかね」と問うた。「はい、すみました」と答えると、「すんだら、鉢を洗いなされ」とおおせられたという。ご飯がすんだら食器を洗う。これが平常心だという。ごく自然のことなんです。何の滞りもなく次のことをやる。これが日常茶飯事をやってのける、常の心、そう平常心なのですよね。といっても、平常心を平常に行ずることは難しい。試合の時や何か突発的な出来事にあった時に人はいつもと同じでいられるのかって・・・。なかなかできない。どうしよう・・・どうしたらいいのかって思うでしょうね、特に私は。だからこそ、平常心なのです。私もどんな時にも自己を忘れず平常の心が欲しいと思います。残念なことに、まだ、全然できていません。でも、頑張りたいと思います。
2005.07.25
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中世の夢というと私の大好きな歌があります。『新古今集』の藤原定家の 春の夜の夢のうき橋とだえして峰にわかるる横雲の空(大意)水に浮かぶ浮き橋のようにはかない春の夜の夢がふととぎれてしまった。その甘くも惜しまれる情緒のままに、峰のあたりを横雲が離れていく夜明けの空よ。という、定家の最高傑作といわれる高名な歌です。背後には『源氏物語』の最終章(五十四帖)の薄幸の女浮き舟と薫との間に繰り広げられる物語的な情緒の広がりを持つものでもあります。薫と匂宮の二人の貴公子の愛の狭間で悩み抜き、入水まで試みた浮船が、横川僧都のもとで救済を求める物語でした。 定家の「夢のうき橋」の歌は、男女の妖艶な後朝(きぬぎぬ)の情緒を歌った歌でありながら、同時にその背景に死への想像力が絡み合った何とも言えない世界に私は惹かれてきました。『古今集』の小野小町の歌に うたたねに恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき(大意)うたた寝をして恋しい人を夢に見てこのかた、はかない夢というものを頼みにするようになってしまいましたわと、恋人の面影を見る回路としてはかないはずの夢への信頼を逆説的に詠んでいるといわれています。先日お話ししました才媛にして美女といわれる和泉式部の『和泉式部日記』の冒頭にも 夢よりもはかなき世のなかを嘆きわびつつ明かし暮らすほどに・・・なども、やはり、夢と男女の愛のイメージの世界における近しきものを言っているのでしょうね。私は「夢」というとはかなさをイメージします。なんといっても忘れちゃいけないのは『梁塵秘抄』の一節 仏は常にいませども現ならぬぞあわれなる 人の音せぬ暁にほのかに夢に見えたまふ夜と朝の境界、非日常的な時間との境界として暁のひとときにほのかに訪れる聖なるものというのでしょうか?不思議な世界が連想されます。「うつつ」にはみえないものが「夢」の中に現われたことにこの歌の心があるのでしょう。ふと、恋も同じではないだろうかって思います。あたたの恋はみえますか?
2005.07.24
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古くは「いめ」。語源は「寝目(いめ)」か?と言われています。 夢は、古くから日本文学の重要な素材として、多彩な用法を示しつつ、多様な意味と機能を担ってきました。中でも夢が神意の発想だとする考え方は、古代の文学の中に多く認められているところでもあるようです。 夜、見る事から、枕詞は「ぬ(む)ばたまの」。『能因歌枕』(広本)には「夢をば、ぬるたま、むばたま、ぬばたまと云」とあります。ある人を深く思うと、その思われているひとの夢に現れると考えていたようなんです。「ふるさとの旅寝の夢に見えつる恨みやすらむ又ととはねば」(大和物語・二段 橘良利)はそのような考えに基づかれています。そしてこの「住之江の岸に寄る波よるさへや夢の通ひ路人目よくらん」(古今集・559 藤原敏行)などは、恋人が夢に現れないのを嘆いたものなのです。 夜着(パジャマなど)を裏返して着ると、思う人を夢に見られるという俗信もあったようなんですよ。今夜パジャマを裏返して休んでみませんか?ん?時々そうするって・・・?それは反対に脱いだものを着たんでしょ?今夜はあえて反対にして好きな人に逢ってみましょうよwその事を歌に詠んだ歌が「いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣を返してぞきる」(古今集・554 小野小町)というものなんです。 このように、夢は恋に関連して詠まれる事が多かったんですねぇ~~。本日のBlogは、これの過去の日記の「夢」の第二弾を綴りますので、よろしかったらまたお寄りください。
2005.07.23
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川柳というのは俳句と同型ですが、ただ、季題がなく、人事を中心にしたものということになっています。でも発生から考えてみると親類だとていわれて「そうだなぁ~~」って思うものです。この川柳が西洋にも匹敵するものがあるのでしょうか?随分前に、エピグラム(epigram・警句)・エピタッフ(epitaph・碑銘)がそれだと聞いたことがあります。エピグラム(epigram・警句)・エピタッフ(epitaph・碑銘)ともに短く、詩の形式をしているものです。そして内容は情緒や感情ではなく風刺的で穴をうがち、諧謔味が豊かでなかなかのものが多いようです。本を読んでいて「おぉぉぉ~~似てる」となったものを書きます。医者には三つの顔がある脈を診る時は天使の顔治療の時は神の顔だが報酬を要求する時は悪魔の顔といったものです。詩というより確かに川柳に似ていませんか?
2005.07.22
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仏教の「理」を説く教えの中に「五見」という言葉があります。批判の対象となる五種の誤った見解のことです。自我の執着…身見死後の存在についての極端説…辺見因果の否定…邪見誤った自己の見解を最高のものと考えること…見取見邪教の戒律を解脱の因と考えること…解禁取見私はここでは専門ではないので深くお伝えすることはできないのですが、ただ、この中で目を引いたのが「見取見」でした。「見取見」は、誤った自分の見解を正しいと考えることを指し、自分の誤った思いや見方を通じて物事を見てはいけないことを戒めているのだろうと思ったことです。自分の裁量だけで物事を推し量っているのではないかと常に自分に問いかける、言い聞かせることが日々の社会生活の中でとても大切なような気がしています。心豊かな人生を歩む大きな基礎になるんだろうなぁ…と思います。何気なく見開いた仏教の用語ですが、ものの考え方、心の置き方などを説いたこのような仏教の言葉には、日々の自己研鑽が重要だって教えてくれているように察しました。
2005.07.21
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私の好きな歌人の一人です。 あらざらんこのよの外の思ひでに今一たびのあふこともがな(大意)今度はもうとても助からないと思います。それであの世への思い出としてもう一度だけでもあなたにお目にかかりたいものです。 定家卿がこの一首を『小倉百人一首』に選んで人口に膾炙されるくらいの代表作となった。この歌を贈ったとされる相手の男性は不明なのですが、ドッキっとする歌ですよね。「逢いたい、あなたにもう一度逢いたい」という強烈な真実の叫びがここにはみえるんです。逢いたいけど逢えないだけじゃないんです。自分はもう助からない。もうこの世にはいられない。あの世への思い出にもう一度あなたに逢いたい、という悲しい調べなんですよ。この歌は、際立った技巧がある歌ではないんです。なだらかに読み下したような調べだけど、和泉式部の哀切な祈りの声が聞こえるような気がします。和泉式部は恋多き女、多情多感、奔放、などと評された人なんです。初めの夫は橘道貞という人でした。和泉式部の家とこの橘道貞の家は近接していたらしく、また同じ受領階級であったことなどから結ばれたんです。道貞は真面目で有能な青年官吏。和泉式部は美貌で歌才に優れた才媛でしたので、人も羨む結婚だったと想像します。でも、その結婚の最中、式部は冷泉家の第三皇子為尊親王と出逢ってしまうのです。世間の批判を受け、親からは勘当され、そして離婚。ところが、その恋はその為尊親王が二十六歳の若さで逝ってしまうので終わるんです。そして十か月後、その弟の皇子・帥宮敦道親王との恋愛が始まるります。二人の出逢いから宮廷入りまでの恋愛の経緯が142首の歌・連句五句の贈答を軸に自叙伝風に、愛の深化と揺れ動く女心を描いたものが「和泉式部日記」なのです。その帥宮も宮の逝去によって終わるのですが、その深い悲しみと宮への思慕を謳い上げた120余首の挽歌が「和泉式部集」に遺ります。・・・・・・・・それから道長に近侍していた藤原保昌と最後の結婚をするのです。和泉式部の実名は不明です。和泉式部の歌には、自然と口をついてほとばしりでたかのような、自らの情感を素直に謳い上げた心があるとの定説があります。私もそう思います。一首、一首じっくりみたいですね。もう一首・・・ 世の中にこひといふ色はなけれどもふかく身にしむ物にぞありける(大意)この世の中に恋というものの色はないけれど、あたかも色があるかのように、深く、身に心に染み込むものであることだなぁ~~恋には色はない・・・視覚的な色や形じゃないのだけれど、いろいろな色を想像させながらわが身にしみてくるという、私の好きな一首です。
2005.07.20
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今年の日傘は・・・やっぱり白がいいかな。傘の昔・・・赤や青の鮮やかな色の唐草模様や花鳥を描いた絵傘が女の人の間で流行したのは、江戸時代の八代将軍の吉宗の頃だったと言われています。その頃、女の人の髷が複雑になって、それまで日よけに使われていた傘がかぶりにくくなったことから、日よけのために日傘が流行し始めました。儒学者やお医者さんが藍一色の日傘を使っていたとも聞きます。でも、吉宗が将軍職を退くと、幕府は華美になることを恐れて規制したと聞きます。特に男性の日傘は禁じられていたとか・・・・。再び日傘が夏の江戸を彩るのは・・・・幕末になってからだということです。女の人に限らず、武士や町人も日傘を愛用していたとか。何故かって???当時の男性の髪型思い出してください。夏の強い陽射しに頭が灼かれた・・・想像つきますよね。真夏の江戸の町を粋な日傘が往来する・・・・なんかTime slipして見に行きたい感じがします。私の日傘は髪の毛をポニーテールに括った時に使い、髪を下ろしたときには麦藁帽子をかぶります。髪型で日傘をかぶった江戸時代の女の人と同じ考えです・・・。
2005.07.19
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心は清風の如し・・・ 涼しさをわが宿にしてねまるなり (芭蕉)梅雨が明け、そよと吹く風を求めて短い夏の夜が更けるのもつい忘れ、涼風を求めて窓を開けそのままそこを離れられず佇んでしまうような季節です。蒸し暑さの夜を抜け出して、窓から入る心地よい涼風をまるで自分が山のせせらぎの間を歩いているように思いながら目を閉じて、その涼風に吹かれているとなんだか凄く幸せ気分なんです。しばし、心の洗濯・・・です。爽やかな涼風は私の心の隅々まで吹き渡ります・・・明日への力を吹き込んでくれている・・・常に清風のような爽やかな心でありたいと思いました。
2005.07.19
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『和漢朗詠集』の734に白楽天の詩歌があります。 交友 琴詩酒(きんししゅ)の友皆我を抛つ(なげう・つ) 雪月花(せつげっか)の時に最も君を憶ふ(おも・ふ)(現代語訳)殷氏たちと江南で5年も生活して琴詩酒を楽しんでいたのに、今はもう、あの時の琴の友、詩の友、酒の友は、みな私を見捨てて散り散りになってしまった。 年を迎えて、雪のとき、月のとき、花のときが巡って来るたびに、多くの友の中でも、ことに君のことが切に憶いおこされます。琴詩酒とか雪月花の言葉はこの『和漢朗詠集』の影響により以後の日本文学に馴染み深く溶け込んでいきました。川端康成がノーベル賞受講演にはこの言葉が引用されています。私はこの「雪月花」という言葉を大切に、雪に月に季節の花に思いを込めながら私が住む日本の昔からの言霊たちを及ばずながら紹介させていただきたいと思い立ち、本日より綴っていきたいと考えています。よろしくお願いします。
2005.07.18
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