新潟県武術連盟ホームページ

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夏の章





先日の休みにHARDO OFF BOOK OFFの店で、ビデオを買ってきました。題名は「ワンスアポンアタイムインチャイナ」・・・・・。
広東省に実在した黄 飛鴻という拳法の達人のお話。
時は清朝末期、外国に占領されて無法地帯となっている中国・・・。
広東省に住む洪家拳の達人、黄 飛鴻が弱きを助け、強きを挫くという武侠小説を映画化したような作品・・・。
でも、私はこの映画のなかで、とても気に入らないところがあります。
私が買ったビデオは「ワンスアポンアタイムインチャイナ」の2作目。
一作目の飛鴻役は、かの有名なジェット・リーで、彼は北派少林拳の出身で、飛鴻の門派の南派少林拳の流れとは対照的な動きなのです。でも、ジェット・リーだからいいか~と思ってその無理な設定は我慢していたのですが、2作目はウイン・ツアオという若手の役者・・・・・。
私は、ひょっとしてウイン君は南派少林拳の流れかもしくは、ほんまもんの洪家拳の使い手かもしれないと期待してビデオをみたところ、なんと思いっきり北派少林拳やんか!
リー君には我慢できても、君にはがまんができんと思ってビデオをみるのをやめようと思ったが、980円なんだからしかたないと、思わず最後まで見てしまった。
なんと、情けない私・・・・。
でも、必ず洪家拳の素晴らしさは、あなたの名声とともに後世まで語り継がれることでしょう。
洪 飛洪万歳!洪家拳の繁栄あれ!




大東流合気柔術


大東流合気柔術の武田惣角師範は、大東流を伝えるため日本各地で、講習会形式で技を伝えていったと言われています。
普通は、自分の道場を構え、そこで年月をかけて弟子に教えていくものだと思いますが、武田師範の場合は、短期間で、その場に長く留まらず、教えていったということですから、とても特殊な教授方法だと思います。

しかし、はたして、そんな教え方で技など身につくのでしょうか?
もっとも、師範は、1回その土地で教えると、あとでまたしばらくして、また戻ってきて教えていたようですが、それにしてもほんとうにそんなやりかたでお弟子さんたちは、技を憶えられたのでしょうか?
しかも、武田師範の教授方法は、最初に合気あげなどの基本技を教えると、次から次へといろいろな技を教えるそうです。
それも、ひとつやってみせては次、ひとつやってみせては次というふうに、習いにきている人たちが憶えようと憶えまいと、次から次へと進んでいくそうです。
しかも、教える技が毎回違い、いくらもの憶えのいい人でも、とても全部は憶えられなかったそうです。
しかも、写真をとることも、その場でメモをとることも許されなかったそうです。
一説によると大東流の技は三百数十手に及び、現在、その全てを継承しておられる方はいらっしゃらないと聞いています。

それは、そうですよね。
そんな教え方をされたんでは、おぼえられませんよね。

現在の大東流の方達の技も、本当にいろいろあり、奇妙奇天烈な関節技を数多く伝えておられる方もいらっしゃれば、関節技のバリエーションは少ないが、ほんのちょっとしたわずかな動きで相手を投げ飛ばし、身動きできなくしてしまう「触れ合気」と呼ばれる特殊技術を伝えている方もいらっしゃいます。
かと思えば、その折衷派の方もおられ、「触れ合気」のなかでさえもいろいろ分かれているようです。

このような現象がおきたのも、あまりにも技が多すぎて憶えきれなかったことと、講習会形式ということで、常に師匠がそばにおらず、自分達独自で研究せざるを得なかったことなどによるものと考えられます。

では、なぜ、武田師範は、このような教授法をとったのでしょう?

私は、大東流には、他の柔術流派と同じくらいの技の数しか、本当は無くて、武田師範が伝えた数百に及ぶ技の数々は、師範のその場、その場の即興だったのではないかと思います。
彼が、1回やった技を二度とやらなかったのは、意地悪でそうしていたわけではなく、彼自身、二度とできない技が多かったからだと思うのです。

大東流合気柔術の特徴は、「合気」という特殊技術を使うところにあります。
その「合気」は、「合気あげ、合気さげ」などの基本稽古で養いますが、そのあとは、その「合気」を利用して、複雑な関節技、固め技、投げ技を習っていきます。

武田師範の教え方は、「合気さえしっかり身につければ、こんなこともできるよ。こんなことも、あんなことも、こんな技だってできるよ。いろいろな動きのなかでも、しっかり合気が使えるようになりなさい」ということだったのではないでしょうか?
つまり、武田師範の目的は、膨大な技をお弟子さん達に憶えさせることではなく、この流派の基本技を、どんな動きのなかでもできるように稽古させることにあったのだと思います。

私の師匠も大東流を伝えていますが、武田師範のように数多くの技を教えるよなやりかたをとっていません。
ただ、基本的な数種類の技を教えるだけです。
武田師範と共通していることは、技を教えると、あとはほったらかしにしておいて、気が向いたときに、たまに教えることです。
こういったところは、武田師範のやりかたをなんとなく受け継いでいるような気がします。

逆に私の師翁は、それこそ、教わるたびに技が違います。
しかも、次から次へと、技がかわります。
2~3回やってみせて、それで憶えなければ、おかまいなしに次から次へと進んでいきます。
師翁は、忠実に武田師範のやりかたを受け継いでおられました。

私は、このように師翁と師匠の両方から、大東流を学ぶ環境に恵まれ、大変幸せでした。
今は師翁も他界され、かつてのめまぐるしく変わる技の数々にお目にかかることもなくなってしまいましたが、師匠の数少ない基本技をしっかり受け継いでいけば、また、私自身のなかで師翁のやり方を再現できる日もくるのではないかと思います。

それにしても、この道はとてつもなく深く、遠い。
せめて、先人達の意思と知恵を絶やさぬように、頑張って続けていきたいと思っています。




ニュートンと合気


ひとがものを掴むとき、親指の付け根の筋肉は、押しつけ、小指の付け根の筋肉はひきつける。
手というものは、なんて不思議な動きをするものだろう。
押す力と引きつける力を同時につかって、人はものを掴む。
「合気」という技術を考えた人は、このなんでもないことにしっかりと着目し、そこからとても奇妙な技術を編み出した。
理論的には、当然といえば、当然のこと。
しかし、普通は、ひとが物を掴むときの手のひらの筋肉の働きなどに注意を向けない。
りんごが木がら落ちたとき、だれもがその理由なんて考えはしない。ただ、実が熟して落ちたと思うくらいで、もっとその根本的であたりまえの事実にまで考察を深めようなどと思いはしない。
天才とは、ひょっとして、あたりまえのことなど世の中には、存在しないと思っている人達のことではないだろうか?
でも、そんな世界観をもっていたら、現実というものを把握しようとするだけで、神経が磨り減って、いたたまれなくなってしまうような気がする。
天才と馬鹿は紙一重とよく言われるが、天才とは、そんなぎりぎりの世界で、なんとか常識を保っていられる人達のことでもあると思う。

技を学ぶとき、それを編み出した先人達のぎりぎりの苦悩に思いをはせなければ、その技術の精妙さも、技術がもたらす人としての成長も、とうてい手に入れることはできないだろうと思う。




 武術の力

いつ攻撃がはじまったかわからない
どうやって崩されたかわからない
どこから力が出ているかわからない
どうおさえつけても返される
どんなにふんばっても返される
どうしてはずされたのかもわからない
これが武術だ
武術の力だ



 根っこ

我意我執を排し、武術の根本原理にのとって
淡々と動く
その原理原則を信じきる
そのために数々の技を修練する
絶えずその根本原理を追究し
実体験しておくことが大切だ
技のコレクターになってはいけない
枝葉から幹へ、さらにその根っこまでを探り当てる作業
これが武術の修練である



 武術の棲む場所

技が身についたから人が強くなったのではなく
人が強くなったから技が身についたんだ
技を身につけようとする過程で人は強くなる
しかし、技そのものが人を強くするわけではない
技はひとつの道具に過ぎない
それを使う人間に勇気、気迫、知恵がなかったら
何の役にもたたないものだ
あくなき研究心と努力を惜しまない態度
いざというときみなぎる気迫
これらを身につけてはじめて
武術を学んだといえるのではないだろうか?
技を集め、技に頼ろうとする君よ
残念ながら、そこに武術は棲んでいない




武術の速さ



武術において、速さを重要とする門派がある。
この速さは、もちろん、武術の動きが生み出す速さである。
しかし、初心者は、その動きが速いところを見て、速さをもとめながら、急いで動くだけである。
速く動こうとして急ぐ。
元気いっぱいに力をはりつめて、ひたすら急ぐ。
体はゆがみ、ひずみ、つっぱり、結局、武術の速い動きからは程遠いものになってしまう。
速くしようとして、無理やり急げば、実際の攻防において状況判断がおろそかになり、めくら滅法につっこんでいくことになる。
しかし、やたらめったら突っ込んでいくのは、かなり勇気のいることであり、どうしても、体ががちがちに力んでしまうものである。
そうなれば、自分が思っているほど、実際には突っ込んでいないし、相手には当らないものである。

気迫で勝つということがあるが、気迫を込めて相手に向かえば、気の強い相手なら、その気迫を感じて「さあ、くるなら来い!」となって気迫をぶつけかえしてくる。
あるいは、もっと熟練した相手なら、気迫をぶつけるふりをして、引き込む罠をしかけているかもしれない。
そこにむかって気迫でつっこんでいけば、まんまと相手の術中にはまることになる。

念をいれて、ああでもない、こうでもない、こう来たらこう、ああ来たらこう、しかし、こうくるかもしれない、いや、ここから・・・・などと状況判断に忙しいのも良くない。
どんどん、相手の動きにとらわれていって、自分の主体的な動きを忘れてしまう。
いろいろ考えるのが忙しくなって、体が動かなくなる。
そうすると、相手の攻撃を受けるのが精一杯になって、相手との間合いが遠くなる。
そして、攻撃の機を失い、追いつめられて負けてしまう。
これは状況判断ではなく、ただ思いつめているだけである。

急ぐことと速いことは、根本的に動きの質そのものが違うのである。
状況判断することと、思いつめることとは違うのである。

いずれにしても、武術というものは、動きと思考の質を換えてはじめて使えるものである。




剛と柔



内家拳は柔の拳法だから、柔らかく動いて脱力して、相手の動きに逆らわずに闘うとだれもが思っている。
実際に套路を学び、その用法を学んでも、実際の攻防でも柔らかく動き、力をいれないで、相手の動きにしたがって闘うと思っている。
やたらに速くうごいてもしかたない。
静かに柔らかく動くのだと思い、柔らかく構えて相手の出方を待つ。そのときは無心にならなければならないと、どこからか仕入れてきた知識をいつのまにか後生大事にお題目のように唱える。
力ずくではいけない。
柔らかくなければいけない。
静かに緩やかに動こう。
ゆらゆらと意味不明な動きで相手の攻撃を待つ。
はやる気持を押さえ、恐怖心も押さえ、無心になれ無心になれと心のなかで必死に唱えながら相手の出方を待つ。
武術に先手なし。
「捨己従人」が肝要と、ゆらゆらと波に揺れるわかめのように手を動かしながら相手の攻撃を待っている。
あきらかに、その手は待っているのである。
柔らかく受け流そうと柔らかく巻き取ろうと、今か今かと待っている。
思い通り、相手は攻撃してきた。
猛然と突っ込んできた。
あわててはいけない、こう粘りつかせて、こう流して、体を捌いて、力を抜いて・・・・・。
しかし、受けることだけで精一杯で攻撃のチャンスはなかなか巡ってこない。
そのうち力ずくで、脱力した手ごと殴られてふっとばされ、体勢をたてなおすのがやっとで、攻撃のチャンスなど程遠い状態になる。
そこで、考え、一発逆転のチャンスを狙っていろいろ考える。
今行こうか、まだここでは行けない。
今か、まだだ、今!いやここじゃない。
そのうち手が出なくなり、脱力した防御も力なきがゆえに、不覚をとると致命的なダメージを負う。
また、考える。
チャンスを狙う。
だんだん、いろいろ考えて、ついには手が出なくなる。
どんどん行き詰まって、気がついたら、なんのことはない、力任せにぶん殴られて倒されていた。

すべては固定観念と内家拳に対する妄想のなせるわざである。

それなら、速く動けばよかろうと思い、ローキック、ハイキック、ジャブ、ストレートを連発し、どれも中途半端な間合いと攻撃で相手にダメージを与えられず、へとへとになり、お互いに血まみれになり、「結局、内家拳は使えない」とわけしり顔でつぶやく。

速く動こうとして急ぐ。
柔らかく動こうとして待つ。

内家拳は陰から陽に、陽から陰に変化していくから、内家拳なのに、陰陽のバランスのとれた変化する動きがあるがゆえに「太極拳」の名前がついているのに、多くの人がそこのところを理解しようとはしない。

太極拳だから柔だ。
少林拳だから剛だ。

武術を習って、実際に散打をやる段階になっても、これらの妄想から逃れられない人たちがいる。
彼らは、今日も格闘技の技を取り入れようとして、日夜トレーニングに励んでいる。
そして、空手がカラテになったように、中国拳法もサンダになっていくのだ。




追いかけっこ



相手の攻撃を待ち、その攻撃を受けよう合わせようとするのは、心がせわしく乱れてきりがなくなるものである。
そのうち、こころが相手の動きと自分の形にとらわれて行き詰まってしまう。

まず、相手の全体が見える一刀一足の間合いにはいったら、相手の正中線と自分の正中線をしっかりとイメージすることである。
そして、その正中線を意識しながら、相手の手足のことを無視して、相手の体の向こう側に攻撃するイメージで攻めるのである。
このとき、相手の手足の状態によって、自分の正中線を崩したり、攻撃の手を自分と相手の正中線からはずしてはならない。
このようにして攻めていけば、相手の攻撃は自然に見えるようになり、それを追いかけるように、待つように防御しなくても自然と体が反応し防御するものである。
防御というものは攻撃のためにあるのであり、目指すは相手のからだの向こう側である。

防御することによって、自分の正中線がくずれたり、相手の正中線を意識しなかったりするのは、お互いの正中線を意識しながら、相手の体の向こう側にまで、攻撃の手を貫き通すという意識がないからである。

お互いの体に定規をあてるようにして正中線を意識して動いていけば、相手の攻撃は自分のからだにのしかかる前に崩れて消えていき、自分の攻撃はたんたんと相手の正中線にむかって繰り出される。
攻防をくりかえしながらも、自分のからだは、相手のからだに関係なく、相手を打ち砕いていく。

今か今かと相手の攻撃を待ち、いろいろな動きに対応しようとするのは、犬が自分のしっぽを追い掛け回すようなもので、いつまでたってもらちがあかぬものである。





いつ始めるんですか?



やはり、どうしても現代人は、武術を学ぶのに時間がかかるようだ。
師匠から技を習ったとき、何も考えずにひたすら真似をしておぼえようとする人は、かなり少ないのではないだろうか?
この技はどういゆう仕組みで成り立っているのか?
なぜ、このような技が存在するのだろうか?
この技はどんなときに使うのだろうか?
はたして実戦で使えるものなのだろうか?
ひょっとして、もっとこうしたらもっと実戦的なのではないだろうか?
でも、こんなときはこの技は通用しても相手がこんなふうに動いたらどうやってかけるのだろうか?
技の名前はなんだろう?
それには、深い暗号や何かの謎をとく鍵があるのではないだろうか?
ああ、この技は昔、あの達人が使った技か・・・・・。
このあいだ雑誌に出ていたぞ。
でも、同じ技が他の流派にもあるってかいてあったぞ。
いやいや、うちの流派のものが正しいに違いない。
もっと、うちの流派の歴史も調べてみなければ、安易に判断できないぞ。

などなど、いったいいつになったら稽古を始めるのやら・・・・。
武術でもいろいろな情報が飛び交い、知識だけはいっぱい頭の中に詰め込んで、挙句の果てに力学的な根拠にまで頭が探求を始める。
それがある程度終わらないと、おちおち技の稽古などしている暇はない。

師匠がおしえもしないのに自分なりに技の理論をつくりあげて、挙句の果てには、師匠の技はこういうところに欠点があるなどと講釈が始まる。

師匠の技の真似さえしようとしない。
自分なりの理論で自分なりのやりかたで、その技を繰り返し反復する。やっていくうちにいくつかの疑問にぶちあたっても大丈夫。雑誌の特集記事が教えてくれる。
他流派の人が書いた技術本を読み漁れば解決の糸口くらいは、簡単に見つかる。
そして、感動し、「目からうろこが落ちたようだ」などとつぶやきながら、ひたすら自分なりの技の幻想を追いかけて稽古する。

やがて、いくつも技を憶える。
師匠があきれて技を教えてくれなくなったってなんのその!
本を読めばわかる。
ビデオならばもっとよくわかる。
さらに思索は深まっていき、やがておれは師匠を越えるんだと鼻息も荒くなる。

しかし、いざ、実際の攻防のなかでやってみるとその技は使えない。そんなときでも、師匠なんかにたよらない。
本を読んで考えれば、ビデオをみて研究すれば、きっと問題は解決する。
なるほど、これで行こう!と思い、試してみる。
思ったほどうまくいかない。
別の本を読む。
別のビデオを見る。
なるほど!これで行こう!と思いやってみると今いち技がかからない。
もっと他の本、もっとほかのビデオ。
そうだあの人の講習会に行ってみようか!
もっと力学や物理学の勉強も必要かもしれない。
でもうまくいかない。
さすがにこの道は奥が深い!などと変に納得しながら、自己流の稽古に励む。
はっきり、言わせてもらえば、こういう人は永遠に武術の門のなかにはいれないまま生涯さまようだけになるだろう。
大袈裟ではなく、こういう武術オタクは案外多い。

稽古は、師匠の技の物真似からはじまる。
そこが武術の門のはいり口だ。
理論などは、真似ができてからの話だ。
真似すらできないのに、自分の浅知恵だけで判断し、門に入るといいながら、ただその周辺をうろつくだけ。

理論的にひとつひとつ技を検証しながら、細かなところにもその仕組みを解明しながらプログラムを組んで順番をつけて、技を稽古していく。
現代人にとって当然のものの考え方だ。
西洋における合理主義によって教育されてきた我々にとっては当然の思考の流れである。
しかし、そうやって稽古してきたものを、いざ、実戦で使おうと思っても使えない。
なぜなら、人体は理論的に解明されたことがらをいくつも積み重ねても、それらを統合して使う術を知らなければ、その複雑にからみあった動きを瞬時に体現することができないからである。
言い方を変えれば、いくつもの人体のパーツの複雑な動きを部分的に習得していっても、全体的にまとまった動きとして体現できるとはかぎらないといううことである。
まして、刻々と変化していく状況に対応していくには、あまりにも複雑すぎて頭も神経も筋肉も着いていくことはできないであろう。

しかし、これを解決する方法がひとつだけある。
それは、師匠の動きの全体的な動きのイメージを掴み、その物真似をしていくことである。
つまり、技を部分的に解き明かしていくのではなく、まず、全体からアプローチして次のその構成要素を解き明かしていくのである。
これは、西洋の合理主義的な考え方とは違う東洋的な考え方だと思う。
武術のような複雑な身体運動を学ぶうえにおいては、この東洋的なやりかた、考え方のほうが効率的なのである。

私は武術を学ぶ初心者の方達にはやくこのことを気付いてほしい。
そうでないと、一生武術の門すらくぐれないまま終わってしまうだろう。

おい!そこで講釈をしている君!
君の考え方は立派で素晴らしいと思うけど、ところでいつから技の稽古を始めるんだい?
えっ?もう何年も稽古している?
冗談はやめて、はやく師匠の物真似から始めなさい。
さもないと、人生終わっちゃうよ。

ほんとうに現代人が武術を学ぶのには時間がかかると思います。




究極の美学



武術とは、生死のかかわる問題です。

勿論、技は何百年の間に培われてきた知恵の結晶ではありますが、そのしくみや理論だけに焦点をあわせては、武術というものの根本的な姿を見出すことはできないでしょう。

ここで、はっきり確認しておきたいことは、知恵の結晶である技を使うときに一番邪魔になるのは自分だということです。

恐怖のあまり、手足がすくみ、日頃、何百回、何千回と稽古した技が思うように使えない。

自惚れが強すぎて、相手をみくびってしまい、技を出す前に技をかけられる。

技を使おうと懸命になって戦っているうちに、どうでもよくなり、怒りにまかせて血みどろの殴り合いになる。

相手を威嚇して、追いつめていった結果、必死の抵抗にあい、火事場の馬鹿力のまえに自分がたじろいでしまい、技が出せなくなる。

恐怖心、うぬぼれ、不安、猜疑心、怒り・・・・・・これらは、技の技術論からいえば、関係のないことがらであり、このような状況で技をつかえなかったからといって、その技が劣っているという、あるいは未熟であるという結論にはならない。

そう、けっきょく、正しい技を身につけていても、その技を使えないようにするのは自分自身なのです。

日頃の道場の稽古では、はつらつとして、技もうまく、人に教えるほどの腕前になっていても、いざ、生死にかかわる場に立たされたときには、初心者同然、いや、それよりも惨めなありさまになってしまう。
現代において武術を学ぶ私達にとって、こんな笑い話は、決して他人事ではないことを肝に銘じておかなければならないでしょう。

彼は武技の習得者であり、武術の使い手ではないのです。
彼は、武術を学んでいたのではなく、武技を学んでいたにすぎません。
いくら、憶えがよくても、いくら立派な武術論を吐いても、彼は武術を学んでいない。
なぜなら、武術が生死を扱う問題だということを忘れているからです。

生きるか死ぬかの場において、いかに武技を駆使して使うか?
これを学ぶのが武術です。
技を使うときに邪魔をするのは、相手ではなく自分です。
この自分というものを、いかにコントロールするか?
それが問題なのです。
自分のありようを真剣に問われているのです。

いかに生き、いかに死すか?
そこまで追究しなければ、武術を学んでいるとはいえないのです。
人間の本性というものは、凝縮された一瞬の時間に否応なしに出てきます。その出てきた自分が、武技を使いこなせるだけの磨かれた自分であるかどうか?
見栄も張ったりも傲慢さも、怒りさえも通用しない生死の狭間の空間に、静かで速く、効率的にその場を収束させようとする細工をほどこそうというのが武術の世界です。
考えようによっては、これほど無茶な試みはないのかもしれません。
しかし、生きとし生けるもの全て死する自然界の法則のなかで、豊かに、美しく生きよう、そして惨めな死にかたはしないようにできれば死さえも美しくありたいと考えるのは人間の許された特権、他の生きものたちとは違う、全て自然のなすがままに生きているだけではないという、人間の誇りだと思います。

この人間の究極の美学・・・・これが武術だと思うのです。

武術に必要なのは、本性を磨くことです。
お飾りの理論よりも、自分というものの本質を磨くこと。
だから、師が必要なのです。
師の技だけではなく、その生き方、感性、本性までも学んではじめて、武術を学んでいるといえるのです。

武術家とは、哲学者よりも哲学者らしく、宗教家よりも宗教家らしい人のことだと思います。
なぜなら、すべては机上の空論では済まされず、絶えず体現することを要求されるからです。





基本の凄さ



正拳突きって凄い技だな~と最近つくづく思います。
正拳突きって腰に拳をかまえてそこから繰り出しますよね。
これってすごいアイディアだと思います。
ボクシングのように顎の前あたりに拳を構えるのってよく拳が見えるでしょ。最初から自分の視野に拳が入っているわけです。
でも、腰に構えられたり、腰の付近からいきなり顔面を突かれたらさばききれないことが多いのです。戦いのときは、どうしても相手の表情や視線を観察しようとしますから、腰に構えられた拳は視野にはいりにくく、拳が動き始めた瞬間を視野にとらえるのが遅くなります。また、腰に構えられた拳が、真っ直ぐにではなく、空間を斜め上に切り裂きながら眼前に浮かび上がってくると、距離+角度の計算に時間がかかってしまい、なかなか反応がしにくくなってしまうのです。
もちろん、この技を成功させるためには、正中線の感覚がしっかりしている事、予備動作が無いこと、肘がきちんと落ちている事、肩の上下運動を殺していて、肩関節を落とすことによって腕全体が浮かび上がるような動きができることが最低条件になりますが、熟練された正拳突きは、相手が防御しようとしても当たってしまいます。これは、昔の武術家達の智恵の結晶だと思います。
どうして、現代の空手や拳法をやる人達は、こんな素晴らしい正拳突きを捨てて、ストレートやフック、アッパーなどと取り替えてしまったのでしょうか?
ほとんどの拳法や空手の型が腰に拳を構えなさいと教えているのに見事に大勢の修行者達が無視している。
とても不思議なことだと思います。





観客に飼いならされる武術



昔、師翁がこんなことを話されました。
ある古武道大会で、あまり聞いたことのない剣術の流派の人が出てきた。よくみれば、いかにも朴訥そうな田舎の老人といったたたずまい。演武を見てみると驚いた。枯れたけれんみのない動きではあるが、しっかりと剣術の妙技を会得しておられた。
今時、こんな流派がまだ存在していたんだなあ、と感心していたが、翌年、同じ大会で出場したのを見たら、もういけない。
なんとしたことか、動きが粗くなり、去年の技術の素晴らしさは見る影もない。どうしたことだろうと、ゆくゆく考えてみると、去年この老人の演武は、観客うけしなかったので、もっと客受けするように技を大仰に行ってしまった結果、技が乱れ、お粗末なものになってしまったのだ。

やはり、いかに武術の達人であっても、そうそうたる古武道の方々が演武するなかにおいて、やっぱり自分が目立ちたいと思ってしまうのでしょうか?
まして、田舎の、あまり有名でない門派では、もっと有名になって自分の流派を広めたいと思ったのでしょうか?
いずれにしても、だれもこの老人をせめることなどできません。
武術家なら、自分の流派にプライドを持っているだろうし、自分の流派をもっと知ってもらいたいと思っているからです。

しかし、こんなに技が荒れてしまっては、技の効力すら薄まってしまい、挙句の果てには、流儀の真髄すらねじまがって伝わっていってしまいます。
実に悲しむべきことだと思います。

武術の技というものは、武術を知らない人達が見ても、味も素っ気もない地味なものに見えるのです。
ところが、武術を少しでも学んでいる人達が見れば、実に美しく見栄えがするように見えるのです。
よく、優れた技には「機能美」がある、と言われますが、その機能がどのような機能をしているのかもわからなければ、その美しさを感じることはできないでしょう。
まして、チャンバラやカンフー映画を頭の中でイメージしてしまうような眼で武術を見られても、面白くも何ともない、なんか迫力ないなあなんて思われるのが関の山だと思います。

私は、武術を人前で見せようと思ったときから、武術の本質が逃げていくように感じます。
まして、人に見せる機会が多くなればなるほど、危険な状態になっていくと思うのです。
よほどの天才でない限り、(たとえば、エンターテイメントの世界での才能と武術の才能を両方あわせもち、きっちりと区別できる、ブルース・リーのような人)観客の目に晒されながら、武術の本質を伝えていくことは不可能だと思います。

武術とは、やるもので、見せるものではありません。
武術とは、感じるもので、知るものではありません。

「大会」と武術は、きわめて相性の悪い関係だと思うし、「大会」が武術をだめにする可能性はおおいにあると思っています。






機能美~技術からの発想



武術において「機能美」ということが、よく言われます。
そもそも、武術の美しさというのは、どれだけ効率よく敵を倒すことができるかということだけではなく、そこに静けさや速さがともなう・・・そこにかもしだされる美しさだと思います。
この両方がそろわないと「機能美」などとは言えません。

美しくきらびやかな衣装をまとい、きれいに舞い、きれいに動く、これでは「機能美」とは言えないのです。
それは、芸術の美しさにはなりえても、武術の美しさにはなりえないのです。

機能を追及していった結果、現れる美しさ・・・・これ以外に武術の美しさなどありえないと思うのです。

しかし、殺人技術を追求していって、その熟練度を磨くなどということは、現代に生きる我々が、できることでもないし、真剣にそんなことをやろうなどというのは狂気の沙汰としか言いようがありません。
そんな修羅場を潜り抜けて、血で血を洗う経験などするべきではないし、する必要もないのです。

では、現代に生きる私達とって、武術の機能美を追求するということは、どういうことなのでしょうか?
そんな野蛮なこと、そんな野蛮な技術は、もうすでに時代遅れなんだから、型だけをやって、動きの美しさを磨き、そこに芸術的な美しさを求めていくことが大切なんだと、それが現代における武術のありかただという先生がたは、たくさんおられます。

しかし、それでいいのでしょうか?
この技には、どんな使い方があり、その動きをするには、どういうふうに身体の意識を換えていかなければならないか?
それを使うためには、どんな稽古が必要で、戦いのなかにおいて、どうやったら思い通りに効率よく身体を動かせるのか?
そのときの、心のありようは?
そして、それを追求していった結果、先人達がどのような境地に達したのか?

武術においては、型だけきれいにやればいい。
そこに芸術的な美しさがあればいい。
でも、それでは、先人たちが命がけで蓄積してきた技術や知恵をまるごと捨てることになるような気がするのです。
機能しない美は生まれても、とても「機能美」などと言えるものでは生まれない。

では、それらの特殊な状況のなかで磨かれてきた技術と境地をどうやって現代において磨いていくことができるのでしょうか?
防具をつけてボコボコと殴り合えばいいのでしょうか?
死ぬのを覚悟でケンカをしまくっていけばわかるのでしょうか?
・・・・・・・・・・・・・・・・。
残念ながら、武術の技術を現代において磨いていくことはきわめて難しいと思います。
しかし、先人達が残していってくれた技の数々は、「型」によって保存され継承されて現代に残っています。
「型」には、現代人の私達が思いもつかないような、知恵と技術がぎっしりと詰まっています。
これらの優れた技を、私達が100パーセントの状態で受け継ぐことなどできないでしょう。
しかし、それを学ぶことによって、現代人が生きるうえにおいて役立てることは充分にできるはずです。
なぜなら、今も昔も、生きるということは戦いだと思うからです。
武術の達人たちが生きていた時代は、剣を武器にして戦っていましたが、現代に生きる私達だって、あたまと身体を武器に社会の荒波と戦っているのす。
先人達の戦いの知恵・・・・武術が役に立たないわけがありません。

先人達の身体の剣が、現代人たちのこころの剣になるのです。
武術は、頭からの発想ではありません。
身体からの発想です。
それらを、頭だけで理解してもこころの剣にはなりません。
身体からの発想こそが、こころの剣になるのです。
ほんものの殺人剣の技術からしか、武術の「機能美」を見出すことはできません。そして、そこからしかこころの活人剣は生まれてこないと思うのです。

「阿修羅界をもって正覚の枕となす」という禅の言葉がありますが、武術とは、まさにそういったもので、修羅の道をくぐってきた具体的な技術を学ばなければ、正覚の枕にならないと思います。

武術であろうと生け花であろうとたどり着くところは一緒。
それは間違いではありません。
しかし、武術は武術であり、表演武術や、サンダ(散打ではない)では、武術の道は辿れない。これだけは事実です。
たどり着くところは同じでも、人生は結果だけがころがっているわけではないのです。生から死に向かう旅の途中が人生なのですから、私はあえて武術の指し示す道を歩き、その風景を味わいたいと思っています。



「武」のこころ



中国武術において、稽古の段階には、こういったものがあります。
基本功→套路→対錬→散打・・・・もともとこういった段階を踏むのがあたりまえだったのです。
基本功では、武術に使う体の各パーツの形を整えます。
そして、その門派の原理原則のもっとも単純で核心をついた体の動かし方を練っていきます。
套路では、武術の原則的な身体の使い方を身体に染み込ませます。
鋳型と同じで、その動きは悪い、この動きは正しいというふうに、身体の動きを矯正していきます。
なぜ、そのようなことが必要なのかというと、武術は、弱いものが弱いままで強い者に勝つという非常識な世界だからです。
普通の発想では、それは不可能です。筋肉を動かす順番、骨格の動かし方、角度など、もっとも根本的なところから、身体を動かすしくみを換えていかなければ、そういう世界にたどり着くのは不可能なのです。
対錬では、そうやってつくりあげた身体の感覚を約束組み手のなかで確認していきます。そして、対人関係の妙を学んでいくのです。
本当に武術の意識と機能美を体得していくのはこの段階です。
そして、套路の動きが、なぜその動きになるのか、何ゆえ、その套路ができあがったのかを発見していくのです。

対錬は、順番が決まっています。
やる技も決まっています。
動き方も攻撃の仕方も防御のしかたも決まっています。
套路の技を一個一個検証していくのです。
対錬こそ、決められた自由であり、白刃の上をわたるほどの真剣さが必要です。
そこで、人は多くのことを学ぶのです。
対錬は、決められた動作で、決められた順番で行うので、お遊戯に見えるかもしれません。
しかし、武術の対錬は真剣勝負です。
武術の技を真に理解し、熟練したらば、決められた攻撃でも相手に当てることもできるし、相手はその決められた攻撃でも受けることができなくなってしまいます。
そして、攻撃をうけた相手は、本当の技とは何なのかを身体で覚えていきます。
もちろん、技を身に付けた人は、相手に怪我を負わせることはほとんどありません。
なぜなら、自分の攻撃は当たる(相手が技というものを理解していない場合)のがわかっているわけですから、相手の皮膚の数ミリ手前で止めることも、皮膚だけに触れることも、わずかな衝撃を与えて、相手の防御の技の甘さを指摘することもできます。
そういった技術は、本当は命がけの真剣勝負のなかからしか生まれてきません。
しかし、私達はその過程を経なくても、套路と対錬のなかから会得することができる。
それが先人達の知恵です。
武術が今も存在している理由です。

残念ながら、武術を理解していない人達は、順番どおりにリズミカルに踊るダンスになってしまいます。

対錬こそは、血みどろの戦いのなかで先人達が編み出した知恵の結晶であり、そこから哲学も学び、西洋に育てられる前にもっていた身体の存在を発見し、人間のこころの不思議さをも感じることができるのです。

套路が套路であるのは、なぜか?
なぜ、そのような套路が昔から伝わっているのか?
対錬は、その套路の存在理由を明確にするものであり、套路→対錬、対錬→套路を繰り返すことによって、ますます技の世界は深く広くなっていき、やがてそのエネルギーは、それを学ぶ人の生きるためのエネルギーにもなっていく。

そして、散打。
お互いに技というものが身についていて、そのうえで自由に打ち合うのです。もちろん、ルールなんてありません。
それでは、決闘じゃないかと言うのは、武術というものを知らない人の言葉です。

武術とは、矛を止める術です。
対錬では、矛の使い方を学びました。しかし、散打では、武という術の使い方を学ぶのです。
そして、お互いの意識と心と技を組み合わせていくのです。
際限もなく組み合わせていく中で、どちらかがついてこれなくこれなくなります。
これは、太極拳における推手の世界です。
だから、本来の推手というものは、技のレベルの高い人達の、戦いを超えた遊びと会話の世界なのです。
もちろん、技のなんたるかを知らずしてこの世界の意味を知ることはできません。

たしかに先人達は、殺戮のなかでこの技を編み出してきたに違いありません。しかし、そこで戦うことの虚しさ、平和を愛する心をも見出してきました。
武術は、そういった何もかもを含んで伝わっているのです。

結果や表現だけを見て、それをなぞるだけなら、武のこころ、矛を止めるこころなどわかりようもありません。
本当の「武」のこころとは、身体に植え付けられたものでなければなりません。

「武」の中身を吟味せずに、平和や愛情の歌は歌えない。
根性論や体育会系のノリでも、武術は語れない。

戦うことがいやだから、人に対して優しくありたいから、武術を学んでいるんです。

力のかぎり突いて、蹴って、投げて、締めて、どうだ!おれは強いだろうなんていう強さが大嫌いです。
そんなところから開放されていたいから武術を学んでいます。

こんな極端な考え方を持っている私は、本当は誰かにあわれんでしまわれるような存在なのかもしれません。





武術は小人数が一番いい。



武術というものを後世に伝えることを考えた場合、大勢にまとめて伝えることは非常に危険を伴います。

前例として柔道。

嘉納師範は、これを国民的武道として学校教育にとりいれたり、オリンピックの種目にまでも仕立て上げた。
しかし、柔道が日本中に、世界中に広まるにつれて、嘉納師範の理想とする柔道から遠ざかっていってしまった。

それはなぜか?

柔道というものは、ものすごく奥深いもので深遠であるがゆえにその真理が大勢の人達に伝わらなかった。
ようするに、柔道の真の意味を理解できる人はそう多くはないはずなのに、理解できない人達がやみくもに格闘競技にしてしまい、試合で勝つことがもっとも明快でわかりやすかったために学生やスポーツ選手などが、試合に勝つための柔道をかんがえだしてしまった。

武術というものは、その場で勝てば良いというものではなく、永久に勝ち続けなければ命がないというものです。
勝つ理由がしっかり確立されていて、勝つべくして勝つのでなければ命がいくつあってもたりません。
その勝つべくして勝つ技術こそが武術なのです。

そんな技術を身に付けるためには、手の上げ下ろしにいたるまで、もともとの動きを壊して、新しいものを作るという作業が必要となってきます。

そんなデリケートな動きは、、みんなでいっせいに三ハイ!というわけにはいけないのです。

けっきょく武術は小人数でやるに限ります。
柔道がこうなったのは、、大勢で1、2、3でやったからだと思います。





しゃべらないことが多くを語る文化



世の中のありとあらゆる存在は、ああでもあり、こうでもある。
しかし、言葉と言うものは悲しいもので、それをくわしく説明すればするほどその本質から離れていくのです。

言葉とは、とらわれであり、断面である。
言葉なくとも、喜びも悲しみも怒りも憎しみも愛情も伝えることはできるのです。

言葉多き愛は、なんとなくぬくもりを感じがたいものです。
言葉多き憎悪は、理性的で感情が見えないものです。
言葉多き喜びは、感動的には見えず、言葉多き悲しみは、愚痴にしか聞こえず、言葉多ければ多いほど、その感情のありようをうすっぺらなものにしてしまいます。

日本人は自分の感情を表面に出さないと言います。
自分の気持ちを相手に伝えることが下手だと言います。
率先して自分の主張をしないと言います。
事実だと思います。
多民族国家のアメリカやヨーロッパなどにおいて、日本人のコミニュケーションのしかたは、とても物足りないものだと思います。
ことに、海外において、いや日本においてもはっきりとしたわかりやすいコミニュケーションのしかたをこころえていなければ、とてもやってはいけません。

では、日本人のそういった特質というものは、世界において劣っていることを示しているのでしょうか?

私はそうは思わないのです。

仕事をはなれ、ひとりの日本人となった場合、あえて、言葉を選び、日本語の多面的な言葉を情緒豊かに、言葉少なに操ることができる。そして、それっていいなと思える感覚・・・・これこそが日本の伝統文化の原点だと思うのです。

日本文化を大切にしようとみんなが言います。
世界にほこれる文化だと言います。
伝統文化が廃れることのないように保存しなければ・・・・。
世界の人達に日本の文化をもっとアピールしようと言います。
でも、おそらくそれは非常に難しいと思います。
形だけを伝えても日本文化は伝わりません。
心を伝えようといろいろ説明しても無理でしょう。
興味と好奇心をいたずらにあおるだけでは、おそらく無理なんです。

日本語を伝えなければ・・・・。
日本語に含まれている情感を伝えなければ、日本の伝統文化を伝えることはできないでしょう。
日本語の素晴らしさ、奥深さを伝え、それを素晴らしいと感じてくれる外国人でなければ、日本の伝統文化を理解することはできないと思います。

このことは、どこの国の伝統文化でもそうでしょう。
その国の言葉を美しいと思い、素晴らしいと思える感覚がなければ、その文化を理解することはできないでしょう。

文化を担うのは、理屈でただ大事だから、自分の国のものだからということでは不可能であり、その国の言葉の奥に潜むものを「いいなあ」と思える感覚・・・そんな感覚の遺伝子を持っている人だけがその文化の担い手になれるのではないかと思います。

私は、ああでもあり、こうでもあるという漢字が大好きです。
やわらかでたをやかで、情感あふれるひらがなも大好きです。
一言で、いくつもの情感や風景を漂わせる日本の言葉を美しいと思います。その言葉をあえて並べないことも、しゃべらないことがあるときは美徳であるという考え方も、しゃべって伝える気持ちと、しゃべらないで伝えようとする気持ち・・・・そんなことまで操ろうとする感覚が大好きです。
ときとして、同じことがらを正反対に表現する、その感覚も実に奥深いと思います。
日本人にとって、しゃべることも自己表現だし、しゃべらないことも自己表現なのです。

日本の伝統文化を担える感覚があることがいいとか悪いとかの問題ではなく、昨今においては、その感覚の遺伝子を親から受け継いでいるかいないかの問題であり、絵の才能があるかどうかとか、運動神経がいいとかそういったことときわめて近いレベルの話になりつつあると思います。

もはや、日本にもそんな感覚を持っている人達も少なくなり、外国人のなかに、そういった感覚を持つ人達が多くなってきているという状況にあるこのごろ、日本人だからという理由で日本文化を理解したつもりの日本人よりも、外国人でその感覚を持っている人達のほうが日本の伝統文化の担い手としてふさわしいと思います。

理屈や多くの言葉で伝えようとしても伝わらないものが日本の伝統文化だと思います。でもそれって感情的、教条的なものでもなく、実質的に豊富な内容と多面的な要素を含んでいて、「これっていいよね。」と言うと「なるほど、確かにいいよね。」っていうふうに通じ合える感覚の持ち主だけにしか伝えいくことができないものだと思います。

要は理論ではなく、感覚であり、美意識だと思います。

私が日本と中国の伝統武術を学んでいるのも、日本語っていいよね、中国語っていいなあって思える感覚が、幸いにも授かっているからだと思います。

でも、こんなに多くの屁理屈をこねていては、その感覚もあてにはならないか・・・・・!?





冷たい技は熱い心に宿る。



何がなんでも!
どんなことをしてでも!
何回も何回もこんな歯噛みするような熱い思いをしてきた人でなければ、武術ってもんの本当の冷たさを理解できないんじゃないかって、最近つくづく思うんです。

そういった意味において、現代の環境の中で武術を学び上達していくためには、格闘技やスポーツの経験者のほうがよいのではないかと思っています。

それは確かにスポーツで身に付けた動きを体から剥ぎ取るのは時間がかかるし、容易ではないと思うのですが、武術の深いところにいくためには、熱い思いをした精神でなければたどりつけないと思うんです。

そういう人達が身につけた武術は、漫画やインターネットや本なんかで妄想をいだきながら武術にかぶれている人達よりも、技の深みが違うと思います。

時代が鍛えぬいてきた技は、鍛えぬかれた精神にしか宿らないと、私は思っています。






かっこつけたってダメなんです。



結局、そうでしょ?
そうなんですよ、やっぱり。
子供のころから西洋の体の使い方を習ってきたでしょ。
そんでもって、東洋の身体文化のフィールドに身を置いてみると、なんだかんだ言ったって自分の心に戻ってくるんですよ。
西洋も東洋も、なんもかんも変わることなんかありゃしない。

結局、自分ですよ、じ・ぶ・ん。

かっこつけたって無駄なことです。
西洋の体も東洋の体も関係ないんっすよ。

要するに自分に戻ってくるだけなんです。
自分がどれだけ成長したかって、ただそれだけなんです。

武術って、ただそんだけの意味なんだと思います。
スポーツだっておんなじです。

今までこだわってきた自分は、やっぱ、時代に甘やかされて育てられてきたってことを忘れていたんでしょうね。












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