前号で書いたように、2003年から2004年半ばごろまでの私のワインライフは、デフレ不況の影響に加えて、乳児二人の子育てにより、「金もヒマもない」『暗黒時代』に陥っていたが、この停滞期はその後、子供の生まれ年のワイン購入という『特需』により、いったんは息を吹き返した。
■子供の生まれ年のワイン購入
2004年に入ると、上の子の生まれ年の02ビンテージが出回り始めた。02ビンテージの作柄はというと、ボルドーはほどほどというところだが、ブルゴーニュについては、その後05年の登場でやや影が薄くなったとはいえ、リリース時にはモニュメンタルな当たり年といわれたものだ。00、01年とやや物足りないビンテージが続いたあとだったこともあり、メジャーな銘柄やスタードメーヌものの入手をめぐっては、実に熾烈な争奪戦が繰り広げられた。
私も当初は、白半ケース、赤1ケースぐらい買っておけば充分だろうと考えていたのだが、いざ争奪戦が始まってみると、これはもう、なんというか「集団催眠」のようなもので、「今買わないと、後がない」「タマがあるのであれば、買っておかなきゃ損」という半ば強迫観念に駆られて猛烈に買い漁ることになった。(ちなみに、05ビンテージにおいても、同様の集団催眠のような争奪戦が繰り広げられたのは、記憶に新しい。)
それまでも、ワインの買いすぎで月々の生活費が苦しくなることはあったが、私の場合、純粋に貯金を切り崩してまで購入を続けたのは、後にも先にもこの時期だけである。
まあ、おかげで02年のブルゴーニュは、毎年コンスタントに開けたとしても、子供の70歳の誕生日を祝える分ぐらい保有しているわけだが、冷静になってみれば、そんな年まで誕生日を祝うわけもなし、そもそもそこまで当の私が生きながらえているあてもなく、いやもっと言ってしまえば、通常のブルゴーニュワインが70年も保つわけもなく、結局は子供の記念日と関係なく、持ち寄りワイン会などで飲んでしまっている今日この頃である。
■余談
ところで、02年については、ボルドーをあまり買わなかったことを少しばかり悔やんでいる。ブルゴーニュ好きの私ではあるが、長期に亘っての熟成の安定度という点では、やはりボルドーに軍配を上げたくなるし、02年のボルドーのプリムール価格は、当初非常に安かったのだ。これは、もともとあまりビンテージ自体の評判がよくなかったところに、パーカー氏の渡欧タイミングが遅れて、プリムール時にパーカーポイントが定まっていなかったことにも原因があったらしいが、某社のプリムール第一弾の価格では、ムートンなどは、1本1万円程度だった記憶している。そんなに安いのになぜ買わなかったのかと言われれば、当時愛好家の間では、「02年に金をつぎ込むなら、なんといってもブルゴーニュでしょ。」という雰囲気だったのに加えて、イタリアやローヌと同様、02ボルドーの出来は芳しくない、という風評が広まっていたのだ。それで私も安いとは思いながら、結局プリムールには手を出さなかった。ちなみに、その後出た02ムートンロトシルトのWA誌の点数は、94-96ポイント(最終的には93ポイント)だったが、その頃にはプリムール価格も値上がりしてしまっていて、パーカーポイントの影響の大きさというものを、身をもって知らされた私である。
■02年に続いて03年。
さて、これと全く反対の状況だったのが、下の子のビンテージの03年である。「上の子の写真やビデオはたくさんあるのに、下の子の写真は少ない」というご家庭が多いように、我が家の記念ワインの数も、上の子の02年と下の子の03年では大きな差が出来てしまった。これはもちろん、子供への愛情に比例しているわけでなくて、ひとつには前の年に買いすぎて、さすがに資金が続かなくなったこと、もうひとつは、この年のワインが、ボルドーにしてもブルゴーニュにしても、WA誌の得点こそ高いものの、酸が低く、焦げたようなフレーバーがあって、いまひとつピンと来なかったことが大きい。前年ブルゴーニュを買い込んだこともあり、当初、この年はボルドー中心にするつもりでいたのだが、プリムール価格があの2000年のものよりも高かったのにも、興ざめさせられた。そんなわけで、03年のワインは、ボルドーの中堅どころを2ケース、ブルゴーニュ1ケースを寺田倉庫に預けてあるのみである。まあ、冷静に考えれば、子供の記念日を祝うのなら、これぐらいあれば十分なわけだし、今改めて振り返っても、02年と同じペースで購入するほど03年が魅力的だとは思えないので、ここらで『正気に戻った』のは、結果オーライだった。
それにしても、この時期を振り返って、改めて思うのは、やはり『買う』『消費する』という行為は、モチベーションの向上につながるなぁ、ということだ。購入目的となれば、そのためにメルマガを入念にチェックするし、ショップごとの価格を比べたり、海外誌の点数を調べたりと、真剣度が違ってくる。ワイン仲間ともあれを買ったこれを買った、あそこが安いここが安いなどと話が盛り上がる。そんなこんなで、この2年間は冷めかけていた私のワインへの情熱が再び盛り上がった時期だった。
■ヤフオク放出その一方で、子供の生まれ年のワイン購入資金の足しにと、それまでに貯め込んだなけなしの銘柄たちをヤフオクで切り売りしてしまったのもこのころだった。80年代のギガルとかグランジとか、DRCとかデュジャックとか、今思うと、なんとも惜しい銘柄たちを惜しげもなく売ってしまったが、当時は、単に金がないというよりも、「高額なワインを所有していても、家で開けることはないし、持ち寄りワイン会に参加するゆとりもないのだから、結局のところ意味がない。」という、妙に醒めた思いがあった。リアルワインガイドの試飲などで高額ワインを経験する機会が増え、良くも悪くも、高価なワインやレアなワインに対する憧憬を失っていたというのもあったかもしれない。ワイン仲間からは「ワインは飲んでナンボだよね~」などと、やんわりと批判されたりしたが、自分としては、限りある予算や収納スペースを、子供たちの生まれ年のワインに集中したいという思いが強迫観念のように働いていた。ちなみに、ヤフオク放出の収支はというと、購入時の価格と比べて、「損はしなかったが、保管コストまで考え合わせればトントン」というレベルだった。
■ ブログの開設
この時期はネットの世界でもゆっくりと、しかし大きな変動が起きていた。『ブログ』や『SNS』の台頭である。HTMLなどの特別な知識を必要とせずに簡易ホームページを構築できるブログの登場は、情報発信に対するハードルを大きく下げることになった。またミクシィに代表されるSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)は、かつてのニフティのような中央集権的な大型コミュニティの再来を予感させた。ワインに関しても例外でなく、この頃から雨後の筍のように、多くのワインブログが出現し始めた。それらは、正直、玉石混合の感は否めなかったが、中にはスケール面でも経験や知識の面でも、私など及びもつかないような方々も少なからずいて、ネット上のワインに関する情報量、特に「○○○というワインは美味しかった」とか、「○○酒店でセールをやっている」といった、口コミ情報は圧倒的に増えた。
こうした流れの中、私のサイトも例外ではなく、ある時期から、更新のメインをブログに移し、今までのホームページはアーカイブ用途にと、役割分担させることにした。もっとも、我がサイトの場合、そもそもが、単に飲んだワインの感想をアップしているだけの「呑み助日記」的なサイトである。いざブログを始めてみれば、こちらのほうが相性がよいじゃないか、となって、それほど違和感なく移行することができたし、更新の手間も、ブログにしたおかげで飛躍的に楽になった。ありがたかったのは、ブログに移行してからも、それまでの読者の方々が継続してアクセスしてきてくれたことである。おかげさまで、ブログへのアクセスは、今に至るまで、ほぼコンスタントに600件前後で推移している。
■ 再び停滞期に。
そういうわけで、04年から05年の後半にかけては、子供の記念ビンテージの購入とワインブログの開設とでそれなりに活況を呈していた我がワインライフだったが、生まれ年のワインの購入が一段落したとたん、ぽっかりとエアポケットに入ったようになってしまった。同じ停滞時期でも、子供が生まれた直後は、意欲はあっても金とヒマがない、という状態だったが、この頃は、そもそも興味自体をなくしていたという意味で、おそらく私の十数年のワイン歴の中でも、もっとも内容の乏しかった時期だったと思う。
まあ、これも考えてみれば、当然の帰結である。子供のワインを買っていた時期は、貯金を切り崩すなどして、いわば特別予算?を組んでいたにすぎず、「金もなくヒマもない」という、私の置かれた状況は本質的ななにも改善されてはいなかったのだから。加えてこの時期、職場が異動になり、自宅でワインをゆっくり飲む余裕がなくなったことも、ボディブローのように効いた。
さらに、子供のビンテージの大量購入を終えたことで、自分の中である種の「達成感」が得られてしまい、こののち「収集する(集める)」ことに関する意欲が、すっかり失せてしまった。(ちなみにこれは今に至るまで続いていて、おかげで05年の争奪戦にもほとんど参戦しなかった。)
そんなこんなで、当誌のテイスティングを続ける気力や意欲も枯渇してきて、ついにテイスター紹介欄からも名前を外してもらうことになった。(前号の記事で時系列的に誤りがあったのだが、私の名前が当誌のテイスター欄から消えたのは、05年の冬号からだった。)久しぶりに、この頃の自分のブログを読み返してみたら、05年12月に以下のような自虐的な記事を書いていた。
「今号から、故あって、『テイスター紹介』の欄から名前を外してもらいました。そう書くと意味深に聞こえますが、なんのことなない、忙しくて現実的に参加できないからです。実際前号、今号とひとつもレビューを書いていないし、来年もまともに参加できそうもないので。それにテイスターの方々も錚々たるお歴々になってきて、私のようなド素人の幽霊テイスターが名を連ねているのも申し訳ないし…。いろいろな銘柄を試飲できないのは残念ですけど、やっぱり私には、こちらのブログで育児に振り回されながら晩酌のワインの感想でも書いている方が身分相応だな、と思う昨今です。」
■「等身大のワインライフ」
しかし、この時期、テイスターからはずれたことは、自分にとってはプラスだった。というのも、想像以上に「肩の荷が下りた」感があって、それ以降は一愛好家として気負いなくワインと向き合えるようになったからだ。創刊以来、リアル誌のテイスターを務めてきたことで、自分でも気付かないうちに気負い過ぎていたというか、背伸びしていた部分があったのかもしれない。もうひとつ、私のワインライフに影響を与えたのは、この頃から顕著になり始めたフランスワインの高騰である。ユーロ高と中国ロシアなどの新興国需要の拡大で、ボルドーやブルゴーニュは目に見えて高くなっていき、ブルの村名、ボルドーの格付けシャトーなどは、もはや日常的に飲める範囲の価格ではなくなってきた。こうした中で、今に至る自分のスタイルのベクトル、すなわち「日常に根ざしたコンパクトなワインライフ」「肩肘張らない等身大のワインライフ」といった方向性がはっきりと定まってきたように思う。
ちなみに、この頃、我が家のストックは500本近くあった。単純に計算すれば、一年に50本ずつ消費しても、10年近く持つ計算になる。少し良いワインを飲みたいときは、自宅のセラーのストックでまかなって、あとは近所の酒屋でデイリーワインを買えば十分だ、そんな割り切りが自分の中で出来上がりつつあった。2000年前後の、ワインに対して思い切り前のめりになっていた時期からすれば、メーターの針がいきなり正反対に振り切れたような、そんな時期だった。
■日本のワイナリー訪問
06年の9月にたまたま山梨に出張する機会があったので、山梨在住のワイン仲間にコーディネートしていただいて、勝沼のワイナリー巡りをした。このとき訪問したのは、フジッコワイナリー、ルバイヤート、中央葡萄酒など。フジッコワイナリーでは、料理との相性なども実演していただき、中央葡萄酒では、畑の見学などもさせていただいた。
これらのワイナリー訪問は、非常に大きなインパクトがあった。国産ワインのレベル向上には「目から鱗」の思いだったし、都内からわずか2時間の距離で、こうして生産者たちと身近に接することができるというのも新鮮だった。このときの衝撃の大きさは、1ヶ月後に再び、家族を連れて勝沼を訪問したことからもおわかりいただけようかと思う。日常の和食ともよく合う甲州などの銘柄が千円~二千円程度で買えるというのは、まさしく前項で書いた「日常のデイリーワイン」に対するひとつの回答を発見した思いだった。それから、しばらくの間、私の中で、国産ワインがブームとなったことはいうまでもない。
■シニアワインエキスパート受験
とはいうものの、さすがに国産ワイン一辺倒では次第に飽きてくる(そうでない人もいるようだが‥)。それで、すっかり疎遠になっていた南仏とかローヌとか、新世界とか、いろいろな地域やジャンルの安価なワインたちにもう一度目を向けようと思っていた矢先、「シニアワインエキスパート」の資格が新たに出来るというのを知った。ワインエキスパートの資格を取得してから8年経過しており、当時覚えた知識はすでに忘却の彼方だったが、いろいろな地域やセパージュのワインと改めて向き合いながら、資格を取得することも出来る良い機会だと思って、チャレンジすることにした。
勉強を始めたのは、06年の12月だったから、翌年4月の試験までの準備期間はおよそ4ヶ月。最初はすべて一から勉強し直しかな、と覚悟したが、いざ始めてみると、人間の脳みそとは面白いもので、かつて勉強したものは比較的簡単に思い出すことができた(逆に、この8年間で新たに増えたDOCGなどを覚えるのが大変だった)。本番の試験では、テイスティングをしくじって、かなり不安な思いをしたが、結果はなんとか合格。まあ、この資格を取得したからといって、目に見えるメリットはなにもないのだが、自分の中では、なんとなくこのシニアワインエキスパート資格の取得が、ひと区切りになったというか、知識の面でも、ワインとの向き合いという面でも、初心に戻ることができたという思いがある。
■テイスティングへの復帰
07年の4月を過ぎると、次第に風向きが変ってきた。それも好ましい方向に。
というのも、ひとつには下の子が幼稚園に入園して、カミサンの負荷が目に見えて軽減された。もうひとつは私自身が新しい職場に移って3年目となり、自分のペースで仕事ができるようになった。
そうしたわけで、金欠は相変わらずなれど、時間的な融通が効く様になってきたので、あつかましくも編集部にお願いして、再び試飲のメンバーに加えていただくことにした。
もう一度テイスティングに取り組もうと思ったのは、シニアワインエキスパートを受験した際に、テイスティング能力の錆つきを痛感したこと、それに、しばしば当誌で特集されるようになった「旨安ワイン」が、私のデイリーワイン探しのコンセプトと合致しているということが大きな理由だった。
2年以上もブランクのある私がのこのこと出かけていっても、迷惑をかけるだけだろうとは思ったが、突然の申し出にも関わらず、徳丸編集長以下、暖かく迎えてくれたのはありがたかった。吉祥寺の町は、しばらく行かない間に結構様変わりしていたが、編集部のテイスティングが昔どおり変わっていないことにもホッとした。私自身はといえば、テイスティング能力自体は衰えたかもしれないが、以前よりもずっと自然体で参加できるようになった。
前号から続いたこのネタ、当初は今号で終わりの予定だったが、もう1回だけおつきあいいただき、次回は、今後のワインとのつきあいや、10年前と現在との比較などを書いてみたい。
【過去記事】川島なお美さんの訃報に接し… 2022年04月13日
私のワイン履歴その1(RWGコラム拾遺集) 2021年07月16日
ワインとの向き合いその後(RWGコラム拾遺… 2021年07月15日 コメント(2)
PR
Comments
Category
New!
mache2007さん
ささだあきらさん
zzz.santaさん
hirozeauxさん
yonemuさんKeyword Search
Calendar