気まぐれな夢旅人【本館】

気まぐれな夢旅人【本館】

2011/12/02
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ね。

12月ナチャタネ。

お早いもので・・・。
って、聞き飽きることでしょうから、
あえてここでは言いませんけれども。

今年もあと30日です(笑)


さて、本日も懲りなくやっつけちゃいまひょ。

本日の風景印 東京23区東南部篇 でございます。

今回もてぃんささんの提供でお送りいたします。



23/05/06 「風景印」 東京・元浅草局

東京都台東区 元浅草局だんしなーーー。

本日の風景印 意匠は??
斉藤茂吉の歌碑、外枠に浅草寺雷門の提灯

外枠である 浅草寺雷門の提灯 に関しては、
浅草局 雷門局 にて、
詳細説明済みですので、省略いたします。




うたかたの如や 過ぎゆく光(かげ)の如や 


こちらは、
歌人で精神科医の 斎藤茂吉
台東区立三筋保育園前に歌碑が置かれたのは1975年のことです。


茂吉さんは1882年、
山形県南村山郡金瓶村(現在の上山市金瓶)
に生を受けました。

生家の守屋さん宅では茂吉さんを進学させるだけの

東京浅草の医師・斎藤紀一さんの養子となりました。
茂吉さん15歳、1896年。

2年後には同級生に刺激され、歌を詠み始め、
森鴎外や幸田露伴などを愛読。
特に後者の影響が大きかったそうです。

1902年、正岡子規さんの「竹の里歌」を読み、
歌の師匠を見出し、
翌年には伊藤左千夫さんに師事、門下となります。
1908年、アララギが発刊され、
その雑誌に短歌を発表するようになり、
後に編集発行人として、活躍します。

その後、1911年から医師となり、
紀一さんの次女と成婚し婿養子。
2男2女に恵まれるも、
妻の遊び好きには呆れ困り、一定期間別居。

上記の歌は1920年頃に長崎に住んでいた時に
詠んだ作品であり、
当時の少年時代を懐かしみ、回想したものであります。

医者の傍ら、執筆活動に精力的に活動し、
その功績が認められ、
1950年には第1回読売文学賞詩歌賞を受賞。
翌年には文化勲章を受章。

1953年、心臓喘息のため死去。享年70。


ということで、
茂吉さんの生涯をざっとご紹介させていただきました。

茂吉さんの歌碑は全国各地に非常に多く、
ふるさとの山形をはじめ、
旅に出かけたであろう各地に歌碑は存在し、
その数は200弱はあるものと思われます。


へんば、今回はこれまでぇ~





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最終更新日  2011/12/02 11:31:01 AM
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