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シャープがテレビ向けの液晶パネル工場「堺ディスプレイプロダクト(SDP)」(堺市)の生産を停止することが14日、わかった。同社の液晶事業は市況の低迷によって赤字が続いており、中国勢との競争が厳しいテレビ向けの大型パネルの生産をやめることで、収益を改善する狙いがある。同日午後に開く会見で発表する。SDPは国内でテレビ用の液晶パネルを生産する唯一の工場で、稼働を停止すると国内生産はゼロになる。(産経新聞から抜粋)数日前のショッキングなニュース、ついにこの日が来てしまいました。小泉政権後半の2004年、ひょんなことから内閣府の知的財産本部におかれたコンテンツ専門調査会、日本ブランドワーキンググループの専門委員になったとき、担当役人から「近い将来日本は電気製品で外貨を稼げなくなる」と説明がありました。当時はシャープ亀山工場で生産された液晶テレビAQUOS亀山モデルがトップブランドとして全盛期、近未来日本の電気製品は競争力がなくなると聞いても、そんなバカなと正直ピンと来ませんでした。三重県亀山工場では需要を満たすことができないとシャープは堺市にも大きな液晶工場を建設、AQUOS増産にチャレンジしました。しかしながらAQUOSは急速にブランド力を失っていき、気がついたら会社ごと台湾メーカーに買収されました。一世を風靡した亀山ブランドは工場閉鎖とともに消滅、最後の液晶パネル製造拠点だった堺工場もついに閉鎖が決定、日本から液晶パネルの製造が消えることに。内閣府担当役員の見立て通りになりました。シャープ液晶テレビの地盤沈下が始まった頃から世界の主要ホテルの部屋にある大型テレビはサムソン、L Gの韓国勢が主役になり、ビックカメラなど家電店のテレビ売り場にはハイセンスなど中国メーカーの超大型テレビが並ぶようになりました。日本の多くの電機メーカーが手掛けていた携帯電話もスマホ時代になると一気に市場競争力を失い、日本ブランドの存在感はないに等しい様相に。ノートブックPCもしかり、N社、F社、T社、SH社の陰はどんどん薄くなり、S社はPC事業部をさっさと身売りしました。ウォークマンが世界で大流行、世界中で若者が日本製大型ラジカセを肩に乗せて歩くことが街のトレンドだった時代もありました。ビデオカセットもテレビ受像機も日本製は高品質として重宝された時代もありました。しかしデジタル社会になると日本のエレクトロニクスは主役の座から滑り落ち、事業縮小や事業部門の売却、会社ごと身売りや上場廃止と「ジャパン・アズ・ナンバーワン」は儚く短い夢で終わりました。早くから日本製エレクトロニクスの衰退を予測していた役所や知識人は、ハードウエアに代わる日本製商品としてソフトウエア産業に着目、ジャパンコンテンツを世界に広めるために知的財産本部にコンテンツ戦略会議を設置して議論を開始したのです。今日久しぶりにその知的財産本部コンテンツ専門調査会の古い議事録をネット検索、いま一度当時の委員会のやりとりを読み返しました。委員会は2003年にスタート、最初はマンガ、アニメ、ゲームソフトや映画などコンテンツ分野で議論が始まり、途中からファッション、食と地域ブランドが議論の対象に加えられ、私も2004年から参加させてもらいました。パリ恒例のJAPAN EXPO当時の議事録にはまだ「クールジャパン」の文字はありません。すべてが「コンテンツ」ひとくくりに扱われ、それぞれの分野の専門家が自分たちの領域の課題や将来性を論じていました。このときファッションの世界のみならず、最も重要なのは人材育成ではないか、そのための教育制度を是正すべきと議事録に自分の発言が記載されていました。思い返せばあの頃そんなこと言ってたなあ。マンガ、アニメ、ファッション、食の領域では長らく大学設置が認められず、それぞれ専門学校で教育するしか道はありませんでした。音楽の世界でも、クラシック音楽は芸術大学や音楽大学で教育されてはいましたが、ロックンロールやジャズとなると専門学校任せ、ロックシンガーやドラマーを目指す若者は大学の選択肢はなく専門学校に通うしか道はありませんでした。政府内での様々な議論の末、制度改革が進んでいまではファッションデザインやマーチャンダイジングを学べる4年制専門職大学が認可され、かつて専門学校法人が運営してきた女子大学から「女子」の文字が消えて男子学生も進学できるようになりました。個人的な意見ですが、東京芸術大学に映画監督を養成する学科が生まれたから日本映画は輸入洋画以上の興行収入を得られるようになったと思います。それ以前は洋画が圧倒的に強く、日本映画ではしっかり収益あげられず「邦画暗黒の時代」が長かった。言い換えれば、東京芸術大学に映画部門が設置されどんどん人材が輩出されて日本映画全体がレベルアップ、海外有名映画賞を受賞するまたはノミネートされる映画監督や俳優が増え、邦画は洋画に伍して稼げるようになりました。私が専門委員として参加した会議は小泉政権から第一次安倍内閣、福田内閣。麻生内閣とおよそ4年間続き、麻生内閣のときに最終的提言がまとまりました。でも当時の議事録に「クールジャパン」の文字はまだ登場しません。提言がまとまって私たち専門委員はお役御免、政権交代した民主党時代に新たな委員たちによってさらに議論が深まったらしく、やっと「クールジャパン」という文字が登場したようです。私は民主党政権下でどんな議論があったのか詳しく知りませんし、コンテンツがいつの間にクールジャパンという名称になったのもわかりません。そして再び政権交代で第2次安倍政権になってすぐの2013年春、国としてクールジャパン事業を推進するために官民投資ファンド「海外需要開拓支援機構(通称クールジャパン機構)」設立の法案が自民、公明党と野党だった民主党の賛成多数で成立。もう専門委員ではなかったので他人事のようにこのニュースを聞いていました。友人だった元伊勢丹の藤巻幸夫さんは所属政党みんなの党が法案反対だったので国会採決時は欠席したとは聞いていましたが。クアラルンプールの商業施設にてそして2013年8月米国西海岸視察旅行中、私をクールジャパン機構社長にという申し入れがわが社長に届きました。かつてコンテンツ専門調査会の委員として議論には参画しましたが、まさか自分が仕事としてクールジャパン政策の推進に関わるなんて考えもしませんでした。まさに青天の霹靂。会社として政府の要請を受けることになり、私は2013年11月設立のクールジャパン機構初代社長に就任しました。日本のカッコいい、美味しいを海外市場に売り込む、そしてしっかり日本側が儲ける仕組みづくりをサポートするのがクールジャパン政策、食で言うなら日本茶、日本酒、和食に限らず日本企業が手間暇かけて作るコーヒーや紅茶も、ワインやウイスキーも、日本のシェフが創作するイタリアンやフレンチだっていい、純日本である必要はないと私は解釈しました。アニメ、マンガも米国エージェントやアジア諸国の海賊版制作者が儲けるのではなく、日本の制作者が世界に売り込んでキチンと稼ぐ、決して中途半端な値引きはしない、そして制作現場で働く人々に利益を還元する(いまも制作現場はブラック企業状態)のが本当のクールジャパン事業と考えました。だから啓蒙セミナーなどで何度も「おまけしないニッポン」「かっこいい日本商品の普及」を訴えました。クールジャパン機構発足式(2013年11月)官民投資ファンドですから各政党、マスコミ、一般人からもいろんな矢が飛んできました。ラーメンの一風堂のフランス進出に出資したときはクレーム電話で「ラーメンが和食か!」「社長は豚骨ラーメンが好きなのか!」と怒鳴られました。遣隋使の時代から日本との繋がりが深い中国寧波市に建設する阪急百貨店の大型商業施設に投資したときは野党議員から「ハコモノに投資するのか!」、開店時には「欧米ラグジュアリーブランドをたくさん導入してどこがクールジャパンか!」と非難されました。地元富裕層の集客のためにはどうしてもラグジュアリーブランドをずらり並べてショッピングモールの格を印象づける必要があります。多くの日系百貨店が中国で失敗する要因はラグジュアリーブランドの集積ができず、館全体の格が低いこと。 富裕層をたくさん集め、その上で日本の美味しい、カッコいいを訴求していく、これしかクールジャパン普及の方法はありません。クールジャパン機構が出資した寧波市のショッピングモールこのところ日系百貨店の中国市場からの撤退ニュースが続き、私自身は中国商業施設を歩く機会が増えました。そこで思うことは、いまこそクールジャパン事業を本格的に後押しして世界に販路を求めないと日本は埋没してしまう、世界市場は広く日本の生活文化や美意識をもっと世界に広めるべき、と。役所の見立て通り電気製品はダメになりました。次はEV車で中国より遅れをとる自動車産業かもしれません。日本は製品を売るのではなく日本のソフト、文化、精神性を売ることにもっと心血注ぐべきでしょう。でないと近い将来世界市場で日本の存在感はさらになくなります。シャープ堺工場閉鎖のニュースでそんなことを思った次第。
2024.05.19
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数日前I.F.I.ビジネススクールの教え子で「ユニクロ対ZARA」の著者齊藤孝浩さんと会食、テキスタイルデザイナー須藤玲子さんが出演したテレビ東京の番組「新美の巨人たち」のDVDを託しました。齋藤さんは中国アパレル関係者にセミナーのため杭州に出張予定があり、セミナー主催者の佐吉事業コンサルティング代表金時光(アーロン・ジン)さんに手渡ししてもらうためです。今年3月金さんが来日した際、私は六本木AXIS地下にあるショップNUNOを案内、須藤さんが創作したテキスタイルの数々を見せながら、前職クールジャパン機構のオフィス応接室のカーテンやクッションなどをなぜ須藤さんデザインにしたのかを説明しました。そして、この秋に金さんチームが予定している中国アパレル経営者たちの訪日研修ツアー第2弾ではぜひ須藤さんのレクチャーをお願いしようとなりました。その事前資料として須藤さん出演のテレビ番組DVDを届けました。丸亀市猪熊弦一郎現代美術館での「須藤玲子:NUNOの布づくり」展中国アパレル経営者は売上至上主義者だけではありません。もっと魅力的な商品を作りたいという人もいれば、上質な素材を日本から調達したいと考える経営者もいます。私がよくセミナーでお話する「ブランドDNA」に真剣に耳を傾け、自分たちの仕事に何が欠けているかを自問自答する経営者は少なくありません。そういう経営者にテキスタイルの差別化、特徴ある独自のテキスタイルをつくることの大切さを説いてきました。単純にNUNOのテキスタイルを起用しましょうとは言いません、日本には優れたテキスタイルのプロがたくさん存在することを中国の関係者に伝えたいのです。金さんチームが企画した4月の訪日研修ツアーでは、独特の世界観のテキスタイルを多く開発してきたミナペルホネン皆川明さんに講演してもらいました。皆川さんがどういう思いで日本のテキスタイルメーカーや布づくりの職人さんたちと仕事をしてきたのか、どういうプロセスでテキスタイルを作り上げているのかを話してもらいましたが、参加した経営者たちは皆川さんの話に共感、通常のセミナーよりたくさん質問がありました。その夜品川の居酒屋で参加者たちと会食したときも、彼らは皆川さんの講演のことを興奮気味に話してくれました。4月の訪日研修ツアーで好評だった皆川明さんの講演コロナウイルス以前も私はこうした中国業界関係者向けセミナーを何度もさせてもらいましたが、このときも彼らが日本のテキスタイルに関心が高いことを実感しました。あるツアーでは、本郷のセミナー会場から団体バスで銀座方面に移動する途中、婦人服アパレル女性経営者に「どこに行けば日本のテキスタイルサプライヤーの情報を得られるのでしょうか」と質問されました。ちょうど有楽町国際フォーラム前を通過するとき「現在こちらでプレミアムテキスタイル展を開催している。入場パスを差し上げますから、時間あればこれを持って視察してください」と私のパスを渡したこともありました。国際フォーラムでのプレミアムテキスタイル展上海のテキスタイル見本市には毎シーズン日本のメーカーがブースを出してはいますが、婦人服アパレルが集積する杭州や広州のメーカー関係者には情報が行き届いていないのかもしれません。聞くところによれば見本市では現地アパレルメーカーよりテキスタイルメーカーにサンプル生地の注文を受けることが少なくないようですから、日本のテキスタイル情報をアパレルブランド関係者に訴求する仕組みを考えた方がいいかもしれません。昨晩、金さんからWeChatメッセージが入りました。杭州に入ったばかりの齋藤さんと同行者の金田有弘さん(同じくI.F.I.受講者の元ワールド)と会食する写真が添付されていました。今日から2日間、二人は中国アパレル業界人に現地セミナーをします。昨年12月杭州でのセミナー齋藤さん経由で佐吉事業コンサルティング主催訪日研修団にセミナーをしたのが昨年9月。このとき金さんから中国での講演を依頼され、12月杭州を初めて訪問しました。ここで中国アパレル経営者から社内研修を頼まれ、上海と広州でそれぞれ研修したのが2月。さらに4月には訪日研修ツアー参加の経営者に再びセミナーを。来月には再び杭州に出張、今度はマーチャンダイジングではなくブランドビジネスの問題点と解決策を講演することになっています。加えて、佐吉事業コンサルティングからはさらに2つ日本における研修プログラムの組み立てを頼まれています。1つは2月に社内研修をしたばかりの大手アパレルの日本研修、いまひとつは今年の訪日経営者研修ツアー第2弾です。前者が8月お盆明け、後者は9月中旬開催予定。大手アパレル社員研修では、上海から東京経由でそのまま地方都市入り、産地の繊維メーカーの見学から始めます。他社とは違うものづくりをどうのように進めているのか、糸から製品までの一貫工場でなぜ自社ブランド事業を推進しているのか、やり手社長からものづくりの過程を見せてもらいながら教わるプログラム。工場見学後東京に移動、翌日はユニークな活動をしているデザイナーや若者文化を牽引してきた企業元幹部ら数名の講師にレクチャーをお願いしました。最後に日本研修の総括を私自身が担当します。経営者研修第2弾では前述須藤玲子さんの講演とNUNO店舗視察をはじめ、かつて対談したことあるデザイナーや店頭展開の創意工夫を奨励するプロの事例研究、ブランドショップの視察などを計画。現在金さんらに代わって交渉しています。2月上海でのセミナーかつて日本で量販店がまだ整備されていなかった時代、多くのスーパーマーケット経営者は米国流通業に詳しい大学教授らに連れられ米国市場を歩き、米国企業からマーチャンダイジングやサプライチェーンマネジメントを学び、自分たちの小さな店を大きな量販店チェーンに伸ばした例がいくつもあります。日本のGMSもコンビニも元々は米国研修で学んだ当時の若き経営者らのやる気が実を結んだものでしょうが、日本流通業界の黎明期の意欲と同じものを現在の中国アパレル経営者に感じます。いま中国のアパレル業界人の勉強熱心な姿勢を目の当たりすると、流通業の先駆者たちのイメージがダブるのです。昨年9月以降、中国でも日本でも中国業界関係者に向けたマーチャンダイジングやブランド戦略の研修がコンスタントに続いています。現時点でパリコレで世界のファッショントレンドを左右しそうな中国デザイナーはまだ登場していませんが、近未来はきっと70年代のケンゾーやイッセイミヤケ、80年代のコムデギャルソンやヨウジヤマモトのようなブランドが中国から登場するはずと信じレクチャーしています。ニューヨーク出張のたび私はパーソンズデザイン学校で何回も特別講義をしましたが、クラスの大半は中国、台湾、韓国などアジア系学生でした。だからでしょう、20世紀末から今日までアナスイにはじまり、ヴィヴィアンタム、デレックラム、フィリップリム、アレキサンダーワン、ジェイソンウーなど中国系デザイナーがニューヨークコレクションで大活躍。ロンドンのセントマーチンはじめヨーロッパのファッションスクールもパーソンズ同様留学生の多くはアジア系です。彼らをサポートする、クリエーションを受け止めることができる経営者や投資家が増えたら、中国人スターデザイナーがパリコレで脚光を浴びることはありえる話でしょう。日本で活躍する中国人デザイナーブランドVIVIANO6,7年前広州で齋藤さんのセミナーに参加していた経営者のひとりは、現在急成長中企業として注目されているSHEINの創業者。売上規模を誇るSHEINのような大企業の誕生も重要でしょうが、世界からクリエーションで一目置かれる中国ブランドの誕生も重要なことだと思います。それに向けてやる気のある現地経営者にはものづくりとクリエーションの探究をしつこく説きたいです。
2024.06.01
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「小売の神様」とも称されたミッキー・ドレクスラーさんがGAPグループ社長時代のこと。私は百貨店の若手社員を「バイヤーゼミ」で毎週教え、彼らを引率して毎年秋にはニューヨーク研修をしておりました。1990年代の何年だったかは忘れましたが、マンハッタン西57丁目にあった売り場面積100坪ほどのGAP店の開店時間前に開けてもらって店長にレクチャーをお願いしたことがあります。店長のレクチャーがあまりに素晴らしかったので、私は本社の大幹部に「優秀な店長でした」とお礼のメールを送ったところ、その直後に若い女性店長はサンフランシスコ本社に抜擢異動したと現地の友人から聞きました。当時のGAPは商品もVMDもプロモーションも素敵でしたが、マネジメントの行動も実にスピーディー、さすがリーディングカンパニーと感心したものです。なぜ米国のGAPグループ大幹部に知り合いがいたかといえば、GAPが数寄屋橋阪急に日本1号店をオープンした当時日本企業との間で商標権侵害の裁判係争中、私はGAP側の弁護士に頼まれて米国GAPを擁護する証人になっていたからです。渋谷公園通りに日本初の路面直営店をオープンしたとき、その大幹部が来日、私はディナーを共にしたことがあったのです。あの頃のGAPにはものすごく勢いがありましたし、特に上級ブランドBANANA REPUBLICはカタログもウインドーもカッコよく、業界トレンドカラーの主流を意図的に外してわが道を行く商品企画の姿勢は脱帽ものでした。なのでニューヨーク研修時には必ずGAPとBANANA REPUBLIC、低価格ブランドのOLD NAVYの店舗まで視察、百貨店大改装の参考にさせてもらいました。業界全体のトレンドカラーのメインがグレー、差し色がレッドだったシーズン、ニューヨークの百貨店やファッションストア、ブランド直営店の店頭やウインドーはどこも濃淡グレーに差し色レッドをズラリ並べたのに対して、BANANA REPUBLICはカーキを前面に打ち出し、ウインドー、カタログ、雑誌広告、バス停留所パネルやバス車体の宣伝もすべてカーキ、これは圧巻でした。恐らくあのシーズンあたりがGAPグループが最も光り輝いていた時代ではないでしょうか。ストア視察時には商品や陳列だけでなくグループ各店舗の什器、試着室、承りカウンター、ショップ外壁デザインまでしっかり見させてもらい、米国高級百貨店よりもヒントがいっぱいでした。しかし、ドレクスラー社長が退任してから徐々にグループの空気は変化しました。商品の素材はクオリティーが悪くなり(かつて日本製デニムを大量に起用していたのに安価な中国製にシフト、日本製デニムは使わなくなりました)、VMDはだんだん雑になり、シーズンの早い時期からセールを大々的にアピール、消費者の価格への信頼は薄れ、郊外のショッピングモールの店舗は規模縮小や撤退続き、カーキを堂々と打ち出していた頃と同じ会社とは思えない様相になりました。米国で強化している低価格ゾーンOLD NAVYは早々と日本市場から撤退、渋谷、原宿、銀座にあったGAPの大型路面店は次々退店してしまい、シーズンを追うごとにGAPグループの日本市場での存在感は薄くなりました。日本でも米国でも、毎シーズン早いタイミングで値引告知ボードを店頭入口に掲げているのは正直言って情けないと思います。今日、定番チノパンが欲しくて久しぶりにBANANA REPUBLICで買い物しました。本来お客様で賑わうはずの週末、広い店舗に買い物客はごく少数、販売スタッフの数も少なく、いくつもあるフィッティングルームは空きだらけ、なんとも痛々しい光景でした。かつてはチノパンであれデニムであれ展開している全サイズをピシッと棚に陳列していましたが、サイズ28が1本、サイズ29が0本、サイズ30が2本、サイズ31は0本、サイズ32は3本、サイズ33が1本とチグハグな品出し。店頭になかったサイズを言ったらスタッフがストックから出してくれましたが、少ない販売スタッフで回しているのであれば、在庫のあるサイズは全出し整理陳列すべきでしょう。こういう細かな点が全盛期とは違います。ただし販売スタッフは親切でしたが。米国出張するたびにいろいろ学ばせてもらった私にとって「先生」のような企業が、目に見えて衰退傾向にあり、しかもやるべき仕事が店頭にちゃんと伝わっていない、なんとも寂しい限りです。人影の少ない週末の店頭、品出しのなんとも情けない状況を見て思いました。この調子のままならば、日本を早期撤退したOLD NAVYのようにBANANA REPUBLICも近未来日本市場から消えてしまうのではないか、と。大学卒業して渡米し、アメリカ生活をはじめて最初に購入した思い出の服はGAPです。ホリゾンタルストライプのポロシャツ2枚とコーデュロイパンツ1本、3点で50ドルに満たない金額だったので感動したことを覚えています。日本上陸時に商標裁判の証人として支援した会社でもあり、米国出張時はお手本としてたくさんヒントをもらったグループでもあります。マーチャンダイジングとものづくりの基本に立ち返り、往時の店頭管理をもう一度思い出し、当たり前のことを当たり前にする企業に戻って欲しいです。
2024.06.22
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私の生まれ故郷は三重県最北の桑名、歌川広重の東海道五十三次に描かれた歴史ある港町です。江戸時代東海道は参勤交代やお伊勢参りで利用される日本の大動脈でしたが、江戸から41番目の宮(名古屋市の熱田)と42番目の桑名の間だけは船に乗って渡るしか方法はありませんでした。伊勢湾にそそぐ木曽川、長良川、揖斐川の大きな三川で遮断されていたので静岡の大井川のようにはいきません。歌川広重が描いた桑名宿想像するに、雨が降ったり強風が吹いたら名古屋と桑名間の船は運行できず、桑名港で足止めくらった旅人たちは地元でとれる蛤を焼いてもらって恐らく船が出るまでチビチビやっていたのでしょう。「その手はくわなの焼き蛤」というフレーズはきっと東西からの旅人が広めたと思われます。江戸初期は関西方面の反幕分子への備えもあって徳川四天王の一人本多忠勝が初代桑名藩主に任命されました。桑名と陸路を結ぶ彦根の初代藩主は同じ四天王の井伊直政(人事異動の多かった中で井伊家は幕末までずっと彦根藩主)ですから、幕府は豊臣方の残党を非常に気にしていたのでしょう。桑名藩主はその後本多家から松平家に引き継がれ、幕末の藩主松平定敬(さだあき。最後の京都所司代)が実兄松平容保(かたもり。京都守護職)と共に薩長の官軍に抵抗、両藩の武士は新撰組土方歳三と共にに函館五稜郭で最後まで戦いました。悪く言えば、時代の流れを読めなかった殿様のおかげで多数の藩士が命を落としました。学生時代、私は地元選出の衆議院議員木村俊夫さん(佐藤栄作内閣で官房長官、田中角栄内閣で外務大臣を務めた政治家)と対談したことがあります。そのとき木村さんから「太田くん、明治以降桑名の人間は政府に登用されたことはないんだよ」と教わりました。木村さんは運輸省官僚時代の上司が長州の佐藤栄作さんだった関係で佐藤さんに閣僚重用されましたが、それまでは会津藩、桑名藩出身者は中央政府で冷遇されていたようです。養老町にある平田靫負像私は小学6年生の文集「最も尊敬する人」で、江戸中期の薩摩藩家老だった平田靫負(ゆきえ)の名をあげました。宝暦3年(1753年)幕府の命令で薩摩藩は木曽三川の治水工事を無理やり担当させられ、平田靫負はその普請奉行として現場を指揮、難工事で莫大な費用がかかり、多数の死者が出たことの責任をとって工事完成時点で切腹した(病死説もありますが)と郷土史で習いました。多額の工事費のために薩摩の人々は苦しい思いをした、平田は藩主に切腹をもって詫びたかったと教わりました。だから私にとって尊敬できる人は平田靱負なのです。いまも桑名には宝暦の治水工事で命を落とした薩摩義士を祀る海蔵寺があり、平田靫負の像もここにあります。近隣の養老町にも平田の像があり、私たちは学校の社会見学で訪れたことがあります。桑名の住人は江戸時代から今日まで宝暦の治水工事をしてくれた薩摩藩の恩を忘れていませんが、不幸にも幕末に藩主が京都所司代だったこともあって桑名藩士は戊辰戦争の最後の最後まで薩長軍と戦うことになってしまったのです。昭和13年に建立された治水神社さて、私の母校桑名市立光風中学校のすぐ裏には桑名市庁舎があります。現市長はわが桑名高校の後輩である伊藤徳宇(なるたか)さん。現在は桑名市民でもないのに、私は東京でも桑名でもたまに伊藤さんと会食することがあります。なぜなら不思議なご縁があるからです。桑名市長伊藤徳宇さん伊藤さんは桑名高校を卒業して早稲田大学政経学部に進学、フジテレビに就職。テレビ局では番組編成や報道部門ではなく営業部門に配属されましたが、5年後故郷に貢献したいと上司に辞表を出し、生まれ故郷にUターンしました。2006年に桑名市議会議員選挙立候補、初陣ながら当選して市議会議員を務めます。が、市議会議員の権限に限界を感じた伊藤青年は市議会議員を辞め2008年の桑名市長選挙に立候補。現職水谷元市長(1996年から2012年まで市長を務める)の壁は厚く、伊藤さんは選挙に破れて職を失いました。落選後は名古屋の生命保険会社に一時的に勤務したのち2010年再び桑名市議会議員に復帰、そして2012年再び現職水谷市長に挑戦、今度は見事に当選を果たしました。ちなみに17年間桑名市長の座にあった水谷元さんは桑名高校で私の2年後輩、しかも彼の義兄は私の祖母方の親戚であり、私の弟の結婚式では媒酌人をお願いした関係です。ずいぶん前に故郷を離れた私は、水谷元さんが長く市長であったことも、フジテレビを退職した伊藤さんがベテラン市長に勝ったことも知りませんでした。しかしながら、不思議なご縁があるのです。私の幼稚園時代からの友人中澤康哉くんは地元桑名信用金庫理事長であり、最近まで桑名商工会議所会頭でした。私がクールジャパン機構社長に就任した直後、中澤くんから「今度市長と一緒に東京に行くので紹介したい」と連絡がありました。中澤くんが連れてきた市長は30代、わが故郷にもこんなに若い市長が登場したのかと驚きました。が、もっと驚いたのは、伊藤さんが辞表を出したフジテレビの上司はなんと私のパートナーであるクールジャパン機構飯島一暢会長(サンケイビル社長)、これにはもっとびっくりでした。松屋銀座内のカフェで面談して別れてすぐ、ちょうど買い物にいらっしゃった飯島さんに松屋1階で遭遇、「さっきまで桑名の伊藤市長とお茶してました」と言うと、「伊藤はやっと市長になれたんですか、良かった。落選して職を失って奥さんは苦労したんですよ」。飯島さんは元部下が市長選に落選したことはご存知でも当選したことはご存知なかった。次回上京の際は3人で会食しましょうとなりました。ここから故郷の市長との交流が始まったのです。桑名には全国的に有名なすき焼きの「柿安」(デパ地下の柿安ダイニングで知名度高い)、蛤料亭の「日の出」もあり、うどん屋「歌行燈」は近隣県からのお客様でいつも賑わっています。最近は地元のタケノコが名産品だそうですが、桑名は肉も魚も格別美味しい場所。長島温泉(織田信長が一向宗徒を制圧するため島ごと焼き払ったことで有名な長島にある一大レジャーランド)もあれば、大型アウトレットパークもあります。しかし観光地としての魅力にいまひとつ欠けるのです。伊藤市長は桑名の魅力をもっと外に向けて発信したい、近年急増するインバウンド客も取り込みたい、とクールジャパン事業に携わる私を市のアドバイザーにしてセミナーを開催しました。年に一度は関東圏に住む桑名ゆかりの人間を集めた懇親会を都内で開いています。毎月市役所からは市民便りのような冊子が届き、めったに故郷に帰らない私たちに桑名情報を届けてくれます。故郷を離れて半世紀、でもこの冊子のおかげで故郷は身近な存在となりました。ZUMAドバイ店数年前帰省したとき、伊藤さんから紹介したい人物がいると出産のため帰国中のアラブ首長国連邦ドバイの高級レストランZUMA(ズーマ)の日本酒ソムリエと会食しました。ZUMAはロンドン在住の日本大好き英国人がロンドンでおしゃれな居酒屋を開業、香港、シンガポール、ニューヨークなどにも支店がある有名店。ロンドン1号店開業直後私は英国人オーナーと会い、当時社長をしていたアパレル企業の服を受付係のユニフォーム用に数セットプレゼントしたことがありました。また、クールジャパン機構の出資先候補のリサーチのためドバイ店を訪ねたこともあり、私には馴染のお店なのです。ドバイZUMAで働く女性ソムリエは市長の実家のご近所なので紹介されました。女性ソムリエは「飲んでいただきたい日本酒があります」と私たちにZUMAオリジナル日本酒をプレゼン。なんとそのオリジナル酒は和歌山県九重雑賀のもの。九重雑賀はお酢で有名な会社、上質なお酢を生産するために自社の田んぼで有機米を栽培、それから純米酒をつくって酒粕を活用してお酢をつくる一貫生産の超真面目な会社、私も醸造現場を視察したことがあります。彼女は九重雑賀のものづくりにこだわる姿勢に惚れ込み、ZUMAオリジナル純米酒を委託したと聞きました。赤酢が美味い九重雑賀HPより開業時にユニフォームをプレゼントしたお店、そのドバイ支店のソムリエが同郷、しかもプレゼンされた純米酒は前職クールジャパン機構時代に工場見学したお酢メーカー醸造と何から何までつながっていたのです。不思議なご縁の市長からこれまた不思議なご縁をいただきました。世間は狭いと言いますが、ほんとに狭いなあと思います。私の仕事のパートナーに辞表を出して故郷にÙターンした若者、すでに市長3期目ですが47歳とまだまだ若い。この先県知事なり国会議員に打って出る日が来るのか来ないのか私にはわかりませんが、伊藤さんにはわが故郷の発展にもっと尽力して欲しいと願っています。できれば広重の東海道五十三次にあるように港のそばにお城を再建したら観光客を取り込めるのに....。
2024.06.08
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あれは1994年2月後半でした。パリコレ取材に出かける直前、毎日新聞社でファッションデザインやワインなどを担当していた市倉浩二郎編集委員が珍しくきちんとアポを取り、カメラマンを伴って南青山5丁目にあったCFD(東京ファッションデザイナー協議会)事務局に来たのは。毎日新聞社編集委員だった市倉浩二郎さんCFD事務局には正面口と玄関口の2つドアがあり、いつも彼は勝手口からチャイムも鳴らさず入ってきてキッチンの冷蔵庫をゴソゴソ、ビールを見つけると議長室のソファにドカッと座って勝手にビールを飲んでいました。が、その日は事前にアポを取り、カメラマン同伴の正式な取材、正面口からやって来ました。取材中は友人であっても丁寧な言葉遣い、ちゃんと取材者として一定の距離を保ってくれる本物のジャーナリストでしたが、この日もジャーナリストの顔でした。取材が終わって雑談になると言葉遣いはガラリ変わっていつも通り友達言葉に。これから出かけるパリコレを自分としては最後にしようと思う。今後パリコレ取材は後輩記者か外部の専門家に任せ、自分は国内繊維産地を回ってデザイナーの背後にいる技術者やテキスタイルメーカーを取材して本を書きたい。「おまえ詳しいだろうから手伝え」。長く編集委員の職にあり、一般記者と違って自由になんでも取材できる立場、書こうと思えば何冊も本を書けたはずなのにこれまでワインやスコッチ、日本酒の専門家に遠慮して本を一冊も書かなかった男、それがやっとファッションデザイナーの背後にいる技術者の本を書きたいと言うのです。私は快く「いいよ」と返しました。3月23日、毎日ファッション大賞選考委員長だった鯨岡阿美子さんのご主人でエッセイストの古波蔵保好さんが銀座のフレンチ有名店マキシム・ド・パリに大勢の仲間を招待、数え85歳のお誕生会を開いたとき(沖縄では長寿をお祝いされる側が好きな人を招いて大宴会するとご本人から伺いました)、市倉さん、私も招待されました。鯨岡さん急逝の1年後毎日ファッション大賞に鯨岡阿美子賞を設立するため奔走した二人だから招待されたのでしょう。このとき、市倉さんはちょっと疲れた表情でした。そして4月1日、CFD主催の東京コレクション開幕。初日最終ショーのユキトリイに行こうと西武百貨店渋谷店の脇を通りかかったら、間口の狭いカフェで市倉夫妻や帽子デザイナー平田暁夫夫妻らを見かけて合流。ここで私は当時ブームになりつつあった「有機栽培野菜スープ」の効能を説明、市倉さんにも「あんたも健康に注意しろ、野菜スープ飲め」と勧めたら「あんな不味いもの飲めるか」と一笑。私の勧めですぐ飲み始めた平田先生とは大違いの反応でした。みんなでカフェから歩いてショー会場へ移動しユキトリイの新作コレクションを拝見。あとでわかったことですが、このショー終了後に市倉さんは奥様に「ちょっと寒気がする」と漏らし、鳥居さんの打ち上げパーティーには参加せずそのまま帰宅したそうです。市倉さんと私翌4月2日羽田空港整備場でのコムデギャルソン、どういうわけか市倉さんは現れませんでした。パリコレですでにコムデギャルソンのコレクションを取材しているはず、都心から遠いので今日は来ないのかなと思いました。ところが、ちょうどその頃、市倉さんは意識不明で救急搬送されていたのです。4月4日、美登子夫人から電話がありました。市倉さんがパリコレ取材で書いてたはずの原稿が見当たらない、これからデザイナーをインタビューして書き上げなくてはならないタイアップ企画は誰かと交代しなくてはならない、もし新聞社から連絡があったら助けてあげてと頼まれました。容体に変化なく未だ意識不明とこの電話で初めて深刻な状態だと知りました。東コレ終了後の週明け、入院先の西国分寺にある府中病院に飛んで行きました。集中治療室の前には毎日新聞OBや同僚、仕事仲間が集まり、治療室から出てくる看護師に取材しては私たちに状況を教えてくれる方もいました。府中病院の中庭には立派な八重桜があり、私たちは喫煙所でその桜を眺めながら花が全部散る前になんとか眼を覚ましてほしいと願いました。4月23日、美登子夫人から許可が出たので私は初めて集中治療室に。鼻から口からたくさん管を入れられ全く動けない市倉さんを見てショックでしたが、彼の名前を連呼し、脚を摩って励ましました。すると市倉さんの目から涙が溢れ出ました。「おまえが来たことはわかってるぞ」というサインだったのでしょう。午前中に何か食べるものを差し入れし、夕方には病院に戻って奥様を励ます、連日このパターンを繰り返しました。そして4月25日、寿司屋で握ってもらった寿司を持って病院に到着するやいなや看護師から救急治療室に入るよう促されました。まるでドラマのワンシーンのように血圧計の数値が急降下、ゼロになったところでドクターからご臨終の宣告。人の死に立ち会ったのは生まれて初めて、ショックでした。今日であれからちょうど30年、早いです。2代目CFD議長を引き受けてくれた久田尚子さんと市倉さんパリコレ取材で疲れたからでしょうか風邪の菌がなぜか脳に入ってしまい、ドクターはその菌の特定がなかなかできないために処方できず、最後の最後まで原因不明のまま亡くなりました。山登りが趣味の頑丈な男があまりに呆気ない、享年52歳は若すぎます。やっと本を書こうと準備を始める寸前に倒れ、結局1冊の本を書く時間すら残されていなかった、誰にも人生にTHE ENDはあると教えてくれました。控え室で美登子夫人が言いました。「イッちゃんが、太田は本当はやりたいことがあるからやらせてあげたいといつも言ってたわ」と。ひとまわり年少の私を弟のようにかわいがってくれた友は私のことを心配してくれていたと奥様から聞いて嬉しかったです。そして、友の死で私は決断しました。やりたいことをやらずには死ねない、CFD議長を退任してアメリカで学んだマーチャンダイジングの仕事をやろう、と。縁あって百貨店でもアパレル企業でもマーチャンダイジングを指揮し、数百人の社員たちにゼミ形式でマーチャンダイジングを教えました。最近は中国のファッション業界人にマーチャンダイジングを講義する機会が増えました。学生時代からやりたかったマーチャンダイジングの仕事を30年間続けたきっかけは、大親友との別れで人生観が変わったからです。救急治療室で意識不明ながら涙を浮かべて応えてくれた友の姿、一生忘れられません。毎年やってくる4月25日、私にとっては特別な日。合掌。
2024.04.25
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1年に2回開催されるJFWプレミアムテキスタイルジャパン展がいつもの有楽町国際フォーラムで今週開催されました。エントランスを入ってすぐ元経済産業省繊維課長だったKさんと久しぶりに再会、しばし中国業界のことなどお話ししました。Kさんはこれまで4回もパリ駐在を経験、役人人生の半分以上はパリという珍しいお役人、頭が柔らかい人です。私がクールジャパン政策を推進していたときはJETROパリ所長、投資先のファッションブランド45Rのパリショップ開店時に奥様ともども来てくださったことを思い出します。現在はJETRO本部の大幹部、その国際経験を活かして日本の優れもの、美味しいもの、カッコいいものをもっとたくさん世界各国に売り込んで欲しいですね。会場でKさんや業界関係者に中国事情をお話ししたのは、日本素材はこれからいったい誰に売るのかをマーケティングし直す時期が来たのではないかと伝えるためでした。プレミアムテキスタイル展の回数を重ねるうちに業界事情は大きく変化、市場環境も変わりました。そろそろどういうバイヤーを戦略ターゲットに売り込む素材見本市にするべきなのか再検討する時期に来ていると思うからです。長い間、ファッションデザインの世界ではパリコレや同時期開催の見本市参加がブランド側の大きな目標でした。テキスタイルの世界ではプルミエールヴィジョン展あるいはインターストッフ展への参加が世界への扉だったでしょう。こうした日本のヨーロッパ重視の構図はいまも変わらないのでしょうが、私たちは中国市場の規模の大きさやファッション事業化に目覚めた中国新興アパレルの成長力、そして彼らのものづくりにおける上昇志向つまりもっといいものを作って世界市場に攻めたいという思いを注視すべきではないでしょうか。消費市場でも、ロンドン、パリ、ミラノ、ニューヨークのラグジュアリーブランド直営店やハイエンド百貨店で大量のブランド商品を購入しているのはアジア系ツーリスト、彼らの購買力は現地消費者以上にすごいものがあります。日本でもコロナ禍が終わって復活したインバウンド消費が国内景気に大いに貢献し、都心部の消費回復は彼らの存在が大きいと言えます。この数か月の動向を見るとアジア系はなにも中国本土からの旅行者のみならず、香港、台湾、韓国からの旅行者の消費パワーは大きい。でも、依然日本は欧米偏重のまま、アジアを低く見ていますよね。果たして今後もこれでいいのでしょうか。(以上4枚、プレミアムテキスタイルジャパン展)中国の業界事情も変わりつつあります。この数か月交流してきた中国アパレルメーカーの経営者たちの中には、もっと上質な素材を起用して付加価値性の高い商品を開発、将来的には欧米市場や日本にも販路を広げたいと考える経営者は少なくありません。また、私がセミナーでよく口にする「ブランドDNA」を真剣に受け止め、その糸口を見つけたいと何度も質問する経営者が何人もいます。彼らは安いものをたくさん作ってただ売上を狙うだけの経営者タイプではありません。もっと魅力的な商品を開発して将来世界に打って出たいと考える中国アパレルの経営者たち、実は案外日本素材の素晴らしさをきちんと認知していません。もし彼らが日本国内の素材見本市に参加するテキスタイルやニットメーカーの製品に触れたら理解は早いでしょうし、どこに行けばそういうものを手にすることができるのか情報提供すれば喜ぶのではないでしょうか。昨年後半から再び中国業界首脳の訪日研修団が急増していますが、彼らに日本製素材の情報を伝えたら、訪日スケジュールを素材見本市に合わせて組むことだって可能でしょう。(広州発祥の婦人服ブランドは海外進出を積極的に推進)欧米のラグジュアリーブランドは日本製素材をたくさん使っています。ヨーロッパの素材見本市で依頼のあったサンプル生地をたくさん渡す(中にはサンプル収集だけで注文に至らない例はたくさんあるでしょうが)のも悪くはありませんが、ものづくりに前向きな中国アパレルの経営者や企画責任者を日本の素材展にどうしたら迎えることができるのか、具体的アクションを起こすべき時期が来ているのではと思います。このところ中国人ビジネスマン相手に東京で、中国でセミナーを続け、彼らと意見交換する機会が増えたので、そろそろ日本は欧米偏重からアジア強化にシフトすべきタイミングでは、と考えるようになりました。人口多いからマーケット規模は相当大きく、経営者は結構真面目で研究熱心な人が多いんです。セミナーだって質問は量も質も日本企業の比ではありません。いかがでしょう、中国市場に日本素材を思い切り売り込んでは....。
2024.05.11
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昨年9月上海の「佐吉企業管理コンサルティング」創業者アーロン・ジン(金 時光)さんらが率いる訪日研修団でセミナーを頼まれて以来、私は中国ファッション流通業界人に講演する機会が急増しました。12月には杭州で、2月は上海、蘇州、広州で、そして今回は東京で訪日団へのセミナー、来る7月にも再び訪日団と中国出張でそれぞれセミナーの予定があります。今回ジンさんらが引率してきたのは主にアパレルメーカーの経営者。ヤング向けファッションブランドで成功している経営者、アパレル事業で上場企業の創業者、SPA企業幹部やテキスタイルのプロなど30人余が受講者でした。中国は人口多く市場規模が大きいのでかなりの売上を誇る会社の経営者や幹部が多かったようです。初日午前中のカリキュラムは私が担当した「東京コレクションの変遷」と「ブランドビジネスの成功条件」の2テーマ、午後はVMD指導の会社を経営している元部下Hくんのヴィジュアルマーチャンダイジングの基本。そのあと銀座で市場調査に同行したあと品川の焼肉店に。私はブランドビジネスには創業時から継承するDNAを守る姿勢、ブレないものづくりが重要であり、昨今DNAを軽視して失敗した欧米有力ブランドの事例を紹介しました。私のセミナー聴講3回目の大手ニットメーカー人事責任者Hくんが部下だった時代、私は社員にマーチャンダイジングの基本を教え、VMDにも大きく関わる「定数定量管理」をうるさく指導しましたが、Hくんは定数定量をおさえた上でいかに魅力的な商品陳列をするのが店頭では効果的かを丁寧に説明。社内MDゼミで教えたことをベースに、Hくん自らの経験から積み上げた方法論を紹介、非常にわかりやすかったです。研修2日目はミナペルホネンのデザイナー皆川明さんの講演。朝のラッシュアワー時に電車が事故で停止、通訳さんの到着が遅れるので日本で暮らした経験のあるジンさんのパートナーが冒頭の講演を通訳してくれました。皆川さんのものづくりの話はこれまで数回聞いたことありますが、いつ聞いても職人さんたちへの優しい目線、弱者への配慮を感じます。小さな機屋さんが安心してテキスタイルづくりができるよう、ミナペルホネンは原料の糸を事前購入して機屋さんに渡しているという話、感動します。トレンドが変わるたび、気持ちが変わるたびテキスタイル生産地をコロコロ変えるファッションブランドは少なくありませんが、ミナペルホネンは小規模な機屋さんに継続してロングランで同じような織物を注文しています。通訳を通してのスピーチですからどこまで正確に皆川さんの話が伝わったのかはわかりませんが、受講者には皆川さんのものづくりに込めた情熱、技術者への思いやりは十分伝わりました。皆さん、夕食の居酒屋でやや興奮気味に口を揃えて「皆川さんの話は感動しました」、と。2日目講師のミナペルホネン皆川明さん参加者の多くは翌日ミナペルホネンの南青山スパイラル5階のショップ「CALL」を視察、ミナペルホネンは中国市場で展開すればきっと現地消費者に受けると話していました。余談ですが、ひとつ面白い出来事が。通訳が遅れたために急きょ臨時通訳をしたジンさんのパートナー劉さんが、午後8時帰宅ラッシュで混雑するJR品川駅コンコースで皆川さんとばったり遭遇したのです。2日前に出会ったばかりの中国人とセミナーで講師を務めた日本人が雑踏の中でお互い認識できたというのはまさしくご縁です。2日目午後は皆川さんの母校文化服装学院の視察でした。受講者が学院長と面談している間、ジンさんとファッションビジネスにおける彼のパートナーで元アリババ幹部、ジンさんを私に紹介してくれたビジネススクール教え子の齋藤孝浩さんと私は京王プラザホテルで将来の人材育成プログラムの打ち合わせを行いました。かつて我々がIFIビジネススクールを立ち上げるまで、そのカリキュラムや育てたい人物像についてどれくらい時間をかけて議論したか(議論開始が1989年、試験的な夜間開講が1994年、全日制は1998年の開講)、齋藤さんたちが参加した夜間プロフラムで教え方やカリキュラムの実験を何度も繰り返したのちに全日制プログラムを開講できたことなど、人材育成は焦ってはいけないと説明しました。中国ではファッションビジネスが急速に成長、マネジメントできる人材の育成が急務なんだそうです。ほかにもツアー参加者はコンビニの業務革新をした経営者やショッピングモールの実務責任者、SPA型ブランドビジネスのマネージャーや新製品のネット通販セミナーを受け、6泊7日の東京研修を終えて帰国しました。セミナーに連日の打ち上げご飯、これとは別にジンさんらとの打ち合わせとちょっとハードなスケジュールだったのでさすがにタフな私も疲れがドッとでました。初日講義終了後に全員で記念撮影この先、秋までに再び別の訪日研修団の計画があり、中国に出張してセミナーの構想もあり、ジンさんとテキスタイルの達人と一緒に羊毛産地視察の話もあり、ジンさんは諸々の打ち合わせのため来月も来日します。中国ビジネスマンはセミナーで的を得た質問を連発、探求心は日本人に比べてすごいです。また、教わったことをすぐ実行するスピードは半端ない。こういう人たちに頼りにされるとついつい協力したくなります。利用価値がある間はどうぞ利用してくださいって心境です。講師のひとり元ワールド金田有弘さん(中)とジンさん(右)
2024.04.27
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官民投資ファンドで仕事をしていたとき、毎年仕事始めは霞ヶ関の関係省庁への挨拶回りでした。本省から応援スタッフを数人出してくれている経済産業省に行くと、私よりも一足早く年始挨拶に来ている人とすれ違いました。日本ニット工業組合連合会(通称ニット工連)元理事長の樋口修一さん、理事長を退任されたあとも年始挨拶を続けていました。退任後もニット業界全体のため欠かさず挨拶、なかなかできることではありません。ジャパンベストニットセレクション展の表彰式数日前、その樋口さんから恒例の年末レターをいただきました。今年87歳、会社をやめ、組合メンバーでもなくなったのにいまも両国駅前のニット組合事務所に顔を出し、「大久保彦左衛門をやってます」とありました。数年前に体調崩されたようですが、文面からは事務局スタッフや後輩経営者たちに大きな声でアドバイスされている光景が目に浮かびました。私は若い頃から生意気で、どんなに偉い人でも大先輩でも、筋の違ったことをされたらはっきりと「あなたは間違ってる」と言ってきました。時には夜間ご自宅に激しい抗議文をファックス送信したことも。夜にファックス送信したら、翌朝オフィスにお越しになっていた長老の一人は東武百貨店の山中社長、そしてもう一人がニットの樋口理事長。お二人ともオフィスの会議室で私が出社してくるのをお待ちでした。山中さんには理事長をされていたIFIビジネススクールの基本方針に関して「あなたは実学を本気でやる気があるのか」と抗議したのを覚えていますが、樋口さんへの抗議は何だったのかはっきり覚えていません。業界長老に「ふざけるな」と送信したことだけは覚えていますが。当時、樋口さんからこんなことを頼まれました。群馬県太田市のニット製造業の若手経営者たちを指導してやってくれませんか、と。彼らにマーチャンダイジングを教えるのは苦ではありませんが、毎回太田市まで出かけて現地で指導するのはちょっと厳しい。そこで、「講師料はいりませんから毎回太田市から受講に来てくれませんか。都内の売り場を回ることも講義の一部に含まれているので」と引き受けました。ご自身の東京ニット組合でもないのに、地方産地の若手のためにわざわざ私に指導要請する面倒見の良さでした。太田ニット組合の皆さんには小野塚秋良さんのZUCCaのニットを店頭で買ってもらい、ドンピシャ同じゲージ、同じフィット感のニットを作って次回持ってきてください、そんな研修をやらせてもらいました。これが案外難しかったようで、皆さんそれなりに研究して同じニットを作ったつもりなのでしょうが、私から見たらニットは全てZUCCAaとは別物でした。勉強会の課題にさせてもらったZUCCaZUCCaのニットは複雑な先染めヤーンを使っているわけでも、数本のヤーンを絡めて編んでいるわけでも、製造が難しい超ハイゲージでもありません。一見すると分量、フィット感がタイトでありながら、着てみて決して窮屈ではない、一見ありふれた無地ニットです。それと同じものを簡単に作れそうで作れない、そこに太田市の組合員の感覚的課題がありました。私とは全く無関係の太田市のニットメーカーを丁寧に指導したのは、「地方でのものづくりの火を消してはならない」と奔走する樋口さんからの依頼だったからでした。CFDが若手デザイナーのコレクション発表をサポートする「東京コレクションANNEX」を開催していたとき、たまたま選出したミラノ在住デザイナーKenichi Ogawa(現在はアクセサリーデザイナーとして活躍)はかつて樋口さんの会社フロンティアヒグチで働いていました。「ケンちゃんが選ばれた」と樋口さんはわが子のように喜び、帰国したデザイナー本人と関係者をご自宅に招いておもてなし。私もその中にいました。このとき樋口さんはピアノを弾いてくれましたが、ピアノは還暦から始めた、と。還暦を機にピアノを始めるとは無茶な話と思いますが、ご本人は超マジ、何事にも真剣に取り組む人なんだなあと思いました。JFWプレミアムテキスタイル展繊維産地全体のモノづくり底上げのために奔走した、いわゆる「産地ボス」としてもう一人記憶に残っている方がいます。尾州産地の毛織物工業組合理事長だった岩仲毛織の岩田仲雄さんです。一宮市で会議があったとき、普通であれば理事長はど真ん中の席に座りますが、岩田さんは「若い人たちがリードしてくれたらいいんじゃ」とあえて隅っこの席に陣取っていました。こんな理事長、他の産地で見たことありません。その岩田さんから尾州産地の底上げのために特別なプログラムをやってみたいと相談がありました。組合員をランダムに数チームに分け、各チームに若手デザイナーを立てて一緒にものづくりをするという構想、頼まれた私は数人のデザイナーに協力要請をしました。このとき「各チームに超ベテランの職人さんを技術アドバイザーに指名してください」とお願いしました。デザイナーの一人が「タテ糸もヨコ糸も細いステンレスで織物できませんか」と尋ねたところ、毛織物メーカーの構成員は「そんなのは金物屋に行ってくれ」と返しました。そのときこのチームで一番のベテラン職人さんが「あなたはステンレスで何をしたいんだ。ステンレスの色?、それともツヤ?、あるいはハリなの?」とデザイナーに質問したのです。デザイナーが希望を説明すると、「それならステンレスでなくウールでやってみよう」となったそうです。この場面のことを私に話してくれた岩田理事長はとても嬉しそうに目を細めていました。岩田さんはよくこんなことをおっしゃっていました。できることならば、ゆっくり織って、じっくり寝かせて良い生地を作ってみたい。ハイスピードの新型織機は短時間で織れるから効率は良くなったものの、どうしても古いションヘル織機のような味や風合いはでない、と。手間ひまかけてガッチャン、ガッチャンとゆっくり織った生地の良さを何度も私は伺いました。古い織機でゆっくり織ると風合いが出ます余談ですが、尾州の大手メーカー中伝毛織のオフィス入口には動かなくなったションヘル織機が飾ってありますが、尾州の皆さんにとってションヘル織機は特別な思いがあるんですね。ちなみに、私のクローゼットにある30着ほどのスーツは全てションヘル織機で織った葛利毛織のウールです。岩田さんから何度も吹き込まれたからでしょうか、ションヘル織機ではないウールはもう着たくなくなりました。ニットの樋口さんや毛織物の岩田さん(故人)のように、日本のものづくりを活性化するために奔走してくれる熱いリーダーがいる繊維産地にはまだものづくりの火は残っているのではないでしょうか。時代が変わって経営者たちがその息子や孫世代に交代しようとも、産地全体のことを考えてくれるリーダーの存在は不可欠。繊維製品のメイドインジャパン、ずっと残したいですね。
2022.12.29
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古いパソコンの保存画像を整理していたら、10年前パリコレ出張したときにプランタン百貨店で撮影したCHLOÉ(クロエ)プロモーションの写真が出てきました。クロエは創業者ギャビー・アギョン(1921~2014年)から何人もクリエイティブディレクターが交代していますが、その割に世界観は大きく変わっていない珍しいブランドだな、と改めて思います。2013年春プランタン百貨店でのプロモーションそもそもクロエの服を私が初めて目にしたのは1974年、当時世界各国で活発なウール振興事業を展開していた国際羊毛事務局(ウールマーク)の業界人向けセミナーでした。このときパリで人気急上昇中と紹介されたカール・ラガーフェルドのクロエとケンゾー(高田賢三さん)の新作を初めて見せてもらい、大学生だった私は感動したことを覚えています。ブランド中興の祖であるカール・ラガーフェルド以外にこれまでどういうデザイナーがクロエに関わってきたのか、ネット検索をしてみました。1963年にカールがクリエイティブディレクターに就任して以来今日まで随分多くのデザイナーが関わってきたんですね。しかも、カール以外はほとんどが短期間務めて退任して(もしくは解任させられて)います。クロエ時代のカール・ラガーフェルド(クロエHPより)1952年 創業1963年 カール・ラガーフェルド1988年 マルティーヌ・シットボン1992年 カール・ラガーフェルド復帰1998年 ステラ・マッカートニー2002年 フィービー・ファイロ2008年 パウロ・メリム・アンダーソン2009年 ハンナ・マックギボン2011年 クレア・ワイト・ケラー2017年 ナターシャ・ラムゼイ・レヴィ2020年 ガブリエラ・ハースト2012年秋パリで開催されたクロエ回顧展そして、2020年からディレクターを務めるガブリエラ・ハーストの退任が先日発表されたばかり、またもや短命です。9月のパリコレ2024年春夏シーズンが彼女のクロエ最後のコレクションとなりますが、どうしてカール以外のデザイナーはみんなこうも短命なんでしょう。しかしながら、こんなにコロコロ交代しているのにクロエのフェミニンなブランド世界観はほとんど変わらず、歴代デザイナーによって引き継がれていますから、なんとも不思議なブランドと言えます。近年の人気ブランドの継承劇を見ていると、後継指名されたデザイナーは自分のカラーを打ち出すこととブランドDNAを守ることの狭間で揺れているケースが多いように感じます。ブランドによってはDNAは全否定、イメージチェンジを狙って既存のお客様から見放され、新規顧客を獲得する前にブランドを追われてしまうデザイナーは少なくありません。デザイナー交代ブランドを見るとき、いつも思うことがあります。既存ブランドを引き継ぐのであれば、後継デザイナーはブランドのこれまでの軌跡をしっかり検証し、ブランドDNAは最低限継承した上でクリエーションすべきではないか、と。それを無視して自分のキャラクターを前面に押し出したいのであれば、既存ブランドを継承せず、自らのブランドで自由にクリエーションすればいいのではないでしょうか。2013年春夏CHLOEコレクションかつてブランド継承劇を当事者として目の当たりにしたとき、私は後継デザイナーに「ブランド世界観の中であなたの信じるデザインをしてください。売れる売れないは考えなくていい、それはマーチャンダイジングを担う我々が考えることですから」と最初に話ししました。先駆者が築いたブランドDNAを守ることを前提に自分が信じるクリエーションをして欲しい、ショーで発表したものは必ず作って販売、売るのが難しそうなものでも絶対に生産中止にはしない、と約束しました。私はこれまで多くのデザイナーといろんなプロジェクトに関わり、若手たちにたくさんアドバイスもしてきましたが、「もっといい服を作って」と言うことはあっても、「もっと売れる服を作って」と言ったことはありません。ブランドビジネスではものづくりチームが納得いくクリエーションをすればいいし、ビジネスサイドがクリエーションに口を出すべきではない。しかしどの商品をどれだけ生産するかの判断はマーチャンダイザーの領域、デザイナーは口を挟むべきではないと私は考えます。販売スタッフにもよく言いました。「せっかく作ったのだから、売るのは難しいと簡単に諦めないでほしい。試着室にご案内してお客様の判断を伺ってみよう。結果的に売れなくても売る努力だけはしようよ」と呼びかけました。同時に高いプロパー消化率を勝ち取る発注術を指導、難しい商品をボツにしないでブランド全体の消化率を上げることは可能と伝えました。抜擢されたデザイナーとマネジメント側がブランドDNAをどうするのか最初に十分話し合い、合意してコレクション制作がスタートすれば解任トラブルは少なくなるでしょうし、カールとクロエやシャネル、フェンディのように蜜月関係は長く続くと思います。が、デザイナーとブランドのマネジメントとの不幸な別れが多いのは、最初にきちんと協議していないからではないでしょうか。このところ世界で名の通った欧米ブランドのデザイナー退任ニュースが次々発表されます。5年にも満たない、まるでお役所の人事異動のような交代続き、それぞれ事情はあるでしょうがあまりに早すぎます。ブランド側はしっかり話し合ってデザイナーがロングスパンでクリエーションできる環境を整え、デザイナー側はブランドDNAを受け止めてブレないコレクションを制作してほしいですね。
2023.07.15
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8月28日月曜日から始まった2024年春夏東京コレクション(Rakuten Fashion Week Tokyo)、今年の8月は最高気温30度以下が一度もない記録的暑さ、会場移動で1日平均12,000歩、さすがに水分補強に気をつけないと危険です。昨日までの5日間暑い中をよく歩いたのでふくらはぎはパンパン、今朝近所の整骨院で高周波治療を受けてきました。今日が正式日程の最終日、あと1日ぶっ倒れないよう気をつけなければ。今シーズンはここまで3ブランドが屋外でのファッションショー、雨が降らなくて良かったです。数字上では猛暑続きですが、屋外の心地良さを感じながら見るファッションショーは気分がいいです。国立博物館法隆寺宝物館の池のまわりで開催したのはHARUNOBUMURATA(ハルノブムラタ、村田晴信さん)。ジルサンダーで修行した若者、今回が3回目ですがシーズンごとに進化していますね。前回のミニマルなコレクションを見て個人的にはイチオシの若手デザイナーですが、春夏シーズンということもあって今回はそれに軽さが加わり、ご自身の世界観が広がりました。この軽さ、次回秋冬でも見せて欲しいです。(以上3枚ともハルノブムラタ)千駄ヶ谷の東京都体育館エントランスの広場で開催したのがSHINYAKOZUKA(シンヤコヅカ、小塚信哉さん)。ブランドプロフィールに「絵に描いたような情景をコンセプトに」とありますが、月明かりの下を遠くから歩いてくるモデルたちがなんとも叙情的でした。観客の多くはこのショーのことをしばらく忘れることはないでしょう。言い過ぎかもしれませんが、東コレにまた一人新しい主役が登場ですね。服も演出もヴィジュアルアートも隅々まで気を遣ってこのショーを作り上げたことが十分伝わりました。年に一度のスーパーブルームーンがこの二日後だったので惜しかったです。(以上3枚シンヤコヅカ)そして昨日は竹橋の毎日新聞東京本社があるパレスサイドビル屋上で開催したmeanswhile(ミーンズワイル、藤崎尚大さん)。「日常着である以上、服は衣装ではなく道具である」をコンセプトに、アウトドアやワークウエアの要素を取り入れたカジュアルを提案するデザイナーの姿勢が屋外の空気によく似合っていました。クリエーションだ、アートだではなく、あえて「道具」と割り切っていますが、かっこいいアイテムがいくつかあって個人的には欲しいものが数点ありました。日常のクリエーション、私は好きです。(以上3枚ミーンズワイル)お天気が良ければ、屋外ショーはなんとも気持ちいいもんですね。3つとも雨降らず、暑すぎることもなく好印象コレクションでした。
2023.09.02
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中国の上海、蘇州、広州各都市でそれぞれセミナーや研修をして帰国、休む暇なくすぐに東京コレクションが始まりました。中国出張の疲れからか珍しく発熱、前夜祭イベントは急きょ欠席、翌日からは熱と咳、鼻水に悩まされながらどうにかショーを視察しました。周囲の客席の方々に風邪をうつしてはいけないので客席では無口、熱が高いときは無理せずショーを欠席、今シーズンは最悪のコンディションでした。それでもそれなりの本数ショーを拝見、写真撮影できる席ではたくさん写真を撮ることができました。その中から自分なりに評価したいなと思った5つのコレクションをここにアップします。5つに共通するのは、あれもこれも見せようとする欲張りコレクションではなく、ひとつのディレクションを徹底して突き進む姿勢と服自体の完成度。あくまでも個人的な見解、メディアの方々とは視点が違うかもしれません。HIDESIGN(ハイドサイン) このようにオープニングからモデルが多数ステージに登場、迫力あるワークウエアでした。HARUNOBUMURATA(ハルノブムラタ) まだデビューして数年しか経過していないのに貫禄すら感じました。FETICO(フェティコ) デビューからずっとブレないディレクションが素晴らしい。MURRAL(ミューラル) 予想以上に見応えのあるコレクション、ショーを見ることができて良かった。SUPPORT SURFACE(サポートサーフェス) いつも細かいところまで目がいき届いた安心して見ていられるコレクション、今回もさすがでした。そして、RAKUTEN FASHION WEEK TOKYO公式スケジュールの翌日夕方に立教大学キャンパスで開催されたKEISUKEYOSHIDA(ケイスケヨシダ、写真下)も面白いコレクションでした。バッグ代わりにランドセルを持った無表情なモデルがちょっとシュールで可笑しかった。ほかにも気になるコレクションはいくつもありましたが、残念ながら撮影しにくい客席での撮影は諦めました。誰でも客席でビデオや写真をスマホ撮影できる時代ですから、やっぱりコレクションはランウェイに近いポジションで拝見できればありがたいですね。
2024.03.27
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セブン&アイのそごう西武売却の話が再び延期されたニュースに驚いています。売却予定先の投資グループが傘下のヨドバシカメラ出店を池袋西武に計画していることに対し、豊島区長らが猛反対、ビルの地主である西武鉄道も反対表明、セブン&アイは簡単に売却できそうにないようです。が、長期政権だった高野区長が先日急逝し、この先売却の話はどう進むのかわからなくなりました。業界の若手の方はご存知ないでしょうが、1970年代からヨーロッパのトップブランドをライセンス提携の日本製でなく直輸入オリジナル品を販売していたのは西武百貨店だけ、ほかの百貨店はロゴをつけた日本製ライセンス商品でした。エルメス、サンローラン、ソニアリキエル、ミッソーニ、アルマーニ、ジャンフランコフェレ、ウォルターアルビニ、池袋西武にはオリジナル品の人気ブランドショップがズラリ、当然価格は飛び切り高く、私のような豊島区在住の一般人にはちょっと高嶺の花でした。いまは本国が日本法人を直轄経営していますが、日本上陸当初は西武百貨店がジャパン社設立をサポート、エルメスジャポン社はじめ西武の関係者が日本法人の代表を務めていました。だから西武百貨店はまさしく日本のファッションリーダーだったのです。その西武百貨店の売り場の複数階にドーンとヨドバシカメラが入る、区長でなくてもちょっと抵抗があります。豊島区民として私もこの話には反対です。アムステルダムの中心地ダム広場にあるバイエンコルフ投資ファンドが売りに出ていた百貨店を買収するケースは欧米ではたくさんあります。かつてニューヨーク五番街サックスフィフスアベニューはバーレーンの石油系投資会社、ロンドンのハロッズは同じく中東カタール投資庁が現在も所有しています。投資ファンドが買収して大改革を進めたら滅茶苦茶な状態になった事例も少なくなく、その典型的な事例がオランダ首都アムステルダムのバイエンコルフです。投資の世界では有名な米国投資ファンド(そごう西武売却のニュースの際にも売り先候補として名前があがった会社)がバイエンコルフを買収、人員整理も含め徹底的にコストカットを進めた結果、従業員のやる気は失せ、お客様の信頼はなくなり、ブランド側は取引をやめ、見るも無残な状態に陥ったとオランダ人の元従業員たちに聞きました。買収した投資ファンドは恐らく百貨店を早くブラッシュアップして高く売却するつもりで買収したのでしょうが。そのボロボロのバイエンコルフを引き継いだのが、英国セルフリッジ百貨店を傘下に持つ資本でした。かつて古臭い大衆店だったセルフリッジをファッションに強いおしゃれな百貨店へと再建したグループが登場したことで、バイエンコルフは見事に立ち直り、いまではヨーロッパの主要ブランドをズラリ並べる高級百貨店として繁栄、アムステルダムに進出してきた北米の巨人ハドソンベイを駆逐しました。ドリスヴァンノッテン、バレンシアガなど展開する婦人服フロアサカイの名前もありました気持ち良いフードコートのフロア壁面にはLED栽培の野菜も池袋駅にあった小さな百貨店を受け継いだオーナー社長の堤清二さんは文字通り日本の流通業の革命児でした。他社がライセンス商品を販売している中でオリジナル商品を直輸入して西武百貨店の地位を固め、「おいしい生活」をはじめ多くのシンボリックな広告を打ち出し、パルコを創設して若者文化を牽引、西友ストアでは無印良品を誕生させ、WAVEやLOFTのような新業態にも着手、セゾンカードを大きく伸ばし、セゾングループは一大流通企業に成長しました。しかし、いろんな不幸が重なり、西武セゾングループはあっけなく崩壊しました。グループの中核そごう西武はセブン&アイに引き取られましたが、セブン&アイの物言う株主の圧力で再び売却されることになり、投資ファンドが登場することになったのでしょう。日本の生活文化をリードしてきた企業がいつの間にかマネーゲームの中で道具のように扱われ、セゾングループの功績には全く興味なさそうなゲームプレイヤーたちが走り回る。従業員やベンダー、テナントの人々はどんな思いでいるかは軽視、無視なんでしょうね。なぜそごう西武の売却が再度延期されたのかは知りません。最終的にどういうグループの手に渡るのかはわかりません。が、世界には小売業に愛着のないファンドが参入してボロボロになった、あるいは消滅した事例が少なくないことを訴えたいです。バイエンコルフがよみがえったように、西武百貨店を再び光り輝く小売店にしてくれるホワイトナイトの登場、ひとりの豊島区民として期待したいです。
2023.04.01
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現在2024年秋冬ニューヨーク・ファッションウイークが開催中ですが、東京コレクション(正式名称Rakuten Fashion Week TOKYO)のスケジュールが昨日発表されました。詳細はこちらを。招待状などお問合せは各ブランドの広報または営業担当に直接お願いします。https://rakutenfashionweektokyo.com/jp/sp/index/月日時間ブランド会場3月10日17:00M A S U 渋谷ヒカリエ ホール A3月11日12:00HIDESIGN渋谷ヒカリエ ホール A 13:00pays des fées渋谷ヒカリエ ホール B 14:0008sircus オンライン配信 15:00IRENISAオンライン配信 16:30Chika Kisada招待状をご覧ください 18:00KAMIYA招待状をご覧ください 19:00SHINYAKOZUKA 渋谷ヒカリエ ホール A 20:30TANAKA招待状をご覧ください3月12日12:00FAF 渋谷ヒカリエ ホール A 13:30HOLO MARKETオンライン配信 15:00HOUGA表参道ヒルズ スペース オー 17:30HARUNOBUMURATA招待状をご覧ください 19:00Kota Gushiken 渋谷ヒカリエ ホール A 20:30VIVIANO招待状をご覧ください3月13日12:00tanakadaisuke 渋谷ヒカリエ ホール A 13:30YOHEI OHNO招待状をご覧ください 15:00JOTARO SAITO表参道ヒルズ スペース オー 16:00MIKAGE SHIN招待状をご覧ください 17:30FETICO招待状をご覧ください 19:00KANAKO SAKAI渋谷ヒカリエ ホール A 20:30WILDFRÄULEIN招待状をご覧ください3月14日12:00PHOTOCOPIEU 渋谷ヒカリエ ホール A 13:30WIZZARDオンライン配信 16:00TAE ASHIDA招待状をご覧ください 17:00AKIKOAOKI招待状をご覧ください 18:00MURRAL招待状をご覧ください 19:00Queen&Jack渋谷ヒカリエ ホール A 20:30MIKIO SAKABE招待状をご覧ください3月15日11:00mister it. 渋谷ヒカリエ ホール A 12:00HEōS渋谷ヒカリエ ホール B 15:00meagratia表参道ヒルズ スペース オー 17:30support surface渋谷ヒカリエ ホール A 19:00Marimekko (by R)招待状をご覧ください 20:00HYKEオンライン配信 21:00mintdesignsオンライン配信3月16日12:00HAENGNAE 渋谷ヒカリエ ホール A 13:00Global Fashion Collective 1 渋谷ヒカリエ ホール B 14:30CHONOオンライン配信 16:30DRESSEDUNDRESSEDオンライン配信 18:00Global Fashion Collective 2渋谷ヒカリエ ホール B 19:00SOSHIOTSUKI (TFA)渋谷ヒカリエ ホール AHARUNOBUMURATA 2024春夏コレクションよりSHINYAKOZUKA 2024春夏コレクションより
2024.02.16
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