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1年に2回開催されるJFWプレミアムテキスタイルジャパン展がいつもの有楽町国際フォーラムで今週開催されました。エントランスを入ってすぐ元経済産業省繊維課長だったKさんと久しぶりに再会、しばし中国業界のことなどお話ししました。Kさんはこれまで4回もパリ駐在を経験、役人人生の半分以上はパリという珍しいお役人、頭が柔らかい人です。私がクールジャパン政策を推進していたときはJETROパリ所長、投資先のファッションブランド45Rのパリショップ開店時に奥様ともども来てくださったことを思い出します。現在はJETRO本部の大幹部、その国際経験を活かして日本の優れもの、美味しいもの、カッコいいものをもっとたくさん世界各国に売り込んで欲しいですね。会場でKさんや業界関係者に中国事情をお話ししたのは、日本素材はこれからいったい誰に売るのかをマーケティングし直す時期が来たのではないかと伝えるためでした。プレミアムテキスタイル展の回数を重ねるうちに業界事情は大きく変化、市場環境も変わりました。そろそろどういうバイヤーを戦略ターゲットに売り込む素材見本市にするべきなのか再検討する時期に来ていると思うからです。長い間、ファッションデザインの世界ではパリコレや同時期開催の見本市参加がブランド側の大きな目標でした。テキスタイルの世界ではプルミエールヴィジョン展あるいはインターストッフ展への参加が世界への扉だったでしょう。こうした日本のヨーロッパ重視の構図はいまも変わらないのでしょうが、私たちは中国市場の規模の大きさやファッション事業化に目覚めた中国新興アパレルの成長力、そして彼らのものづくりにおける上昇志向つまりもっといいものを作って世界市場に攻めたいという思いを注視すべきではないでしょうか。消費市場でも、ロンドン、パリ、ミラノ、ニューヨークのラグジュアリーブランド直営店やハイエンド百貨店で大量のブランド商品を購入しているのはアジア系ツーリスト、彼らの購買力は現地消費者以上にすごいものがあります。日本でもコロナ禍が終わって復活したインバウンド消費が国内景気に大いに貢献し、都心部の消費回復は彼らの存在が大きいと言えます。この数か月の動向を見るとアジア系はなにも中国本土からの旅行者のみならず、香港、台湾、韓国からの旅行者の消費パワーは大きい。でも、依然日本は欧米偏重のまま、アジアを低く見ていますよね。果たして今後もこれでいいのでしょうか。(以上4枚、プレミアムテキスタイルジャパン展)中国の業界事情も変わりつつあります。この数か月交流してきた中国アパレルメーカーの経営者たちの中には、もっと上質な素材を起用して付加価値性の高い商品を開発、将来的には欧米市場や日本にも販路を広げたいと考える経営者は少なくありません。また、私がセミナーでよく口にする「ブランドDNA」を真剣に受け止め、その糸口を見つけたいと何度も質問する経営者が何人もいます。彼らは安いものをたくさん作ってただ売上を狙うだけの経営者タイプではありません。もっと魅力的な商品を開発して将来世界に打って出たいと考える中国アパレルの経営者たち、実は案外日本素材の素晴らしさをきちんと認知していません。もし彼らが日本国内の素材見本市に参加するテキスタイルやニットメーカーの製品に触れたら理解は早いでしょうし、どこに行けばそういうものを手にすることができるのか情報提供すれば喜ぶのではないでしょうか。昨年後半から再び中国業界首脳の訪日研修団が急増していますが、彼らに日本製素材の情報を伝えたら、訪日スケジュールを素材見本市に合わせて組むことだって可能でしょう。(広州発祥の婦人服ブランドは海外進出を積極的に推進)欧米のラグジュアリーブランドは日本製素材をたくさん使っています。ヨーロッパの素材見本市で依頼のあったサンプル生地をたくさん渡す(中にはサンプル収集だけで注文に至らない例はたくさんあるでしょうが)のも悪くはありませんが、ものづくりに前向きな中国アパレルの経営者や企画責任者を日本の素材展にどうしたら迎えることができるのか、具体的アクションを起こすべき時期が来ているのではと思います。このところ中国人ビジネスマン相手に東京で、中国でセミナーを続け、彼らと意見交換する機会が増えたので、そろそろ日本は欧米偏重からアジア強化にシフトすべきタイミングでは、と考えるようになりました。人口多いからマーケット規模は相当大きく、経営者は結構真面目で研究熱心な人が多いんです。セミナーだって質問は量も質も日本企業の比ではありません。いかがでしょう、中国市場に日本素材を思い切り売り込んでは....。
2024.05.11
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昨年9月上海の「佐吉企業管理コンサルティング」創業者アーロン・ジン(金 時光)さんらが率いる訪日研修団でセミナーを頼まれて以来、私は中国ファッション流通業界人に講演する機会が急増しました。12月には杭州で、2月は上海、蘇州、広州で、そして今回は東京で訪日団へのセミナー、来る7月にも再び訪日団と中国出張でそれぞれセミナーの予定があります。今回ジンさんらが引率してきたのは主にアパレルメーカーの経営者。ヤング向けファッションブランドで成功している経営者、アパレル事業で上場企業の創業者、SPA企業幹部やテキスタイルのプロなど30人余が受講者でした。中国は人口多く市場規模が大きいのでかなりの売上を誇る会社の経営者や幹部が多かったようです。初日午前中のカリキュラムは私が担当した「東京コレクションの変遷」と「ブランドビジネスの成功条件」の2テーマ、午後はVMD指導の会社を経営している元部下Hくんのヴィジュアルマーチャンダイジングの基本。そのあと銀座で市場調査に同行したあと品川の焼肉店に。私はブランドビジネスには創業時から継承するDNAを守る姿勢、ブレないものづくりが重要であり、昨今DNAを軽視して失敗した欧米有力ブランドの事例を紹介しました。私のセミナー聴講3回目の大手ニットメーカー人事責任者Hくんが部下だった時代、私は社員にマーチャンダイジングの基本を教え、VMDにも大きく関わる「定数定量管理」をうるさく指導しましたが、Hくんは定数定量をおさえた上でいかに魅力的な商品陳列をするのが店頭では効果的かを丁寧に説明。社内MDゼミで教えたことをベースに、Hくん自らの経験から積み上げた方法論を紹介、非常にわかりやすかったです。研修2日目はミナペルホネンのデザイナー皆川明さんの講演。朝のラッシュアワー時に電車が事故で停止、通訳さんの到着が遅れるので日本で暮らした経験のあるジンさんのパートナーが冒頭の講演を通訳してくれました。皆川さんのものづくりの話はこれまで数回聞いたことありますが、いつ聞いても職人さんたちへの優しい目線、弱者への配慮を感じます。小さな機屋さんが安心してテキスタイルづくりができるよう、ミナペルホネンは原料の糸を事前購入して機屋さんに渡しているという話、感動します。トレンドが変わるたび、気持ちが変わるたびテキスタイル生産地をコロコロ変えるファッションブランドは少なくありませんが、ミナペルホネンは小規模な機屋さんに継続してロングランで同じような織物を注文しています。通訳を通してのスピーチですからどこまで正確に皆川さんの話が伝わったのかはわかりませんが、受講者には皆川さんのものづくりに込めた情熱、技術者への思いやりは十分伝わりました。皆さん、夕食の居酒屋でやや興奮気味に口を揃えて「皆川さんの話は感動しました」、と。2日目講師のミナペルホネン皆川明さん参加者の多くは翌日ミナペルホネンの南青山スパイラル5階のショップ「CALL」を視察、ミナペルホネンは中国市場で展開すればきっと現地消費者に受けると話していました。余談ですが、ひとつ面白い出来事が。通訳が遅れたために急きょ臨時通訳をしたジンさんのパートナー劉さんが、午後8時帰宅ラッシュで混雑するJR品川駅コンコースで皆川さんとばったり遭遇したのです。2日前に出会ったばかりの中国人とセミナーで講師を務めた日本人が雑踏の中でお互い認識できたというのはまさしくご縁です。2日目午後は皆川さんの母校文化服装学院の視察でした。受講者が学院長と面談している間、ジンさんとファッションビジネスにおける彼のパートナーで元アリババ幹部、ジンさんを私に紹介してくれたビジネススクール教え子の齋藤孝浩さんと私は京王プラザホテルで将来の人材育成プログラムの打ち合わせを行いました。かつて我々がIFIビジネススクールを立ち上げるまで、そのカリキュラムや育てたい人物像についてどれくらい時間をかけて議論したか(議論開始が1989年、試験的な夜間開講が1994年、全日制は1998年の開講)、齋藤さんたちが参加した夜間プロフラムで教え方やカリキュラムの実験を何度も繰り返したのちに全日制プログラムを開講できたことなど、人材育成は焦ってはいけないと説明しました。中国ではファッションビジネスが急速に成長、マネジメントできる人材の育成が急務なんだそうです。ほかにもツアー参加者はコンビニの業務革新をした経営者やショッピングモールの実務責任者、SPA型ブランドビジネスのマネージャーや新製品のネット通販セミナーを受け、6泊7日の東京研修を終えて帰国しました。セミナーに連日の打ち上げご飯、これとは別にジンさんらとの打ち合わせとちょっとハードなスケジュールだったのでさすがにタフな私も疲れがドッとでました。初日講義終了後に全員で記念撮影この先、秋までに再び別の訪日研修団の計画があり、中国に出張してセミナーの構想もあり、ジンさんとテキスタイルの達人と一緒に羊毛産地視察の話もあり、ジンさんは諸々の打ち合わせのため来月も来日します。中国ビジネスマンはセミナーで的を得た質問を連発、探求心は日本人に比べてすごいです。また、教わったことをすぐ実行するスピードは半端ない。こういう人たちに頼りにされるとついつい協力したくなります。利用価値がある間はどうぞ利用してくださいって心境です。講師のひとり元ワールド金田有弘さん(中)とジンさん(右)
2024.04.27
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数日前I.F.I.ビジネススクールの教え子で「ユニクロ対ZARA」の著者齊藤孝浩さんと会食、テキスタイルデザイナー須藤玲子さんが出演したテレビ東京の番組「新美の巨人たち」のDVDを託しました。齋藤さんは中国アパレル関係者にセミナーのため杭州に出張予定があり、セミナー主催者の佐吉事業コンサルティング代表金時光(アーロン・ジン)さんに手渡ししてもらうためです。今年3月金さんが来日した際、私は六本木AXIS地下にあるショップNUNOを案内、須藤さんが創作したテキスタイルの数々を見せながら、前職クールジャパン機構のオフィス応接室のカーテンやクッションなどをなぜ須藤さんデザインにしたのかを説明しました。そして、この秋に金さんチームが予定している中国アパレル経営者たちの訪日研修ツアー第2弾ではぜひ須藤さんのレクチャーをお願いしようとなりました。その事前資料として須藤さん出演のテレビ番組DVDを届けました。丸亀市猪熊弦一郎現代美術館での「須藤玲子:NUNOの布づくり」展中国アパレル経営者は売上至上主義者だけではありません。もっと魅力的な商品を作りたいという人もいれば、上質な素材を日本から調達したいと考える経営者もいます。私がよくセミナーでお話する「ブランドDNA」に真剣に耳を傾け、自分たちの仕事に何が欠けているかを自問自答する経営者は少なくありません。そういう経営者にテキスタイルの差別化、特徴ある独自のテキスタイルをつくることの大切さを説いてきました。単純にNUNOのテキスタイルを起用しましょうとは言いません、日本には優れたテキスタイルのプロがたくさん存在することを中国の関係者に伝えたいのです。金さんチームが企画した4月の訪日研修ツアーでは、独特の世界観のテキスタイルを多く開発してきたミナペルホネン皆川明さんに講演してもらいました。皆川さんがどういう思いで日本のテキスタイルメーカーや布づくりの職人さんたちと仕事をしてきたのか、どういうプロセスでテキスタイルを作り上げているのかを話してもらいましたが、参加した経営者たちは皆川さんの話に共感、通常のセミナーよりたくさん質問がありました。その夜品川の居酒屋で参加者たちと会食したときも、彼らは皆川さんの講演のことを興奮気味に話してくれました。4月の訪日研修ツアーで好評だった皆川明さんの講演コロナウイルス以前も私はこうした中国業界関係者向けセミナーを何度もさせてもらいましたが、このときも彼らが日本のテキスタイルに関心が高いことを実感しました。あるツアーでは、本郷のセミナー会場から団体バスで銀座方面に移動する途中、婦人服アパレル女性経営者に「どこに行けば日本のテキスタイルサプライヤーの情報を得られるのでしょうか」と質問されました。ちょうど有楽町国際フォーラム前を通過するとき「現在こちらでプレミアムテキスタイル展を開催している。入場パスを差し上げますから、時間あればこれを持って視察してください」と私のパスを渡したこともありました。国際フォーラムでのプレミアムテキスタイル展上海のテキスタイル見本市には毎シーズン日本のメーカーがブースを出してはいますが、婦人服アパレルが集積する杭州や広州のメーカー関係者には情報が行き届いていないのかもしれません。聞くところによれば見本市では現地アパレルメーカーよりテキスタイルメーカーにサンプル生地の注文を受けることが少なくないようですから、日本のテキスタイル情報をアパレルブランド関係者に訴求する仕組みを考えた方がいいかもしれません。昨晩、金さんからWeChatメッセージが入りました。杭州に入ったばかりの齋藤さんと同行者の金田有弘さん(同じくI.F.I.受講者の元ワールド)と会食する写真が添付されていました。今日から2日間、二人は中国アパレル業界人に現地セミナーをします。昨年12月杭州でのセミナー齋藤さん経由で佐吉事業コンサルティング主催訪日研修団にセミナーをしたのが昨年9月。このとき金さんから中国での講演を依頼され、12月杭州を初めて訪問しました。ここで中国アパレル経営者から社内研修を頼まれ、上海と広州でそれぞれ研修したのが2月。さらに4月には訪日研修ツアー参加の経営者に再びセミナーを。来月には再び杭州に出張、今度はマーチャンダイジングではなくブランドビジネスの問題点と解決策を講演することになっています。加えて、佐吉事業コンサルティングからはさらに2つ日本における研修プログラムの組み立てを頼まれています。1つは2月に社内研修をしたばかりの大手アパレルの日本研修、いまひとつは今年の訪日経営者研修ツアー第2弾です。前者が8月お盆明け、後者は9月中旬開催予定。大手アパレル社員研修では、上海から東京経由でそのまま地方都市入り、産地の繊維メーカーの見学から始めます。他社とは違うものづくりをどうのように進めているのか、糸から製品までの一貫工場でなぜ自社ブランド事業を推進しているのか、やり手社長からものづくりの過程を見せてもらいながら教わるプログラム。工場見学後東京に移動、翌日はユニークな活動をしているデザイナーや若者文化を牽引してきた企業元幹部ら数名の講師にレクチャーをお願いしました。最後に日本研修の総括を私自身が担当します。経営者研修第2弾では前述須藤玲子さんの講演とNUNO店舗視察をはじめ、かつて対談したことあるデザイナーや店頭展開の創意工夫を奨励するプロの事例研究、ブランドショップの視察などを計画。現在金さんらに代わって交渉しています。2月上海でのセミナーかつて日本で量販店がまだ整備されていなかった時代、多くのスーパーマーケット経営者は米国流通業に詳しい大学教授らに連れられ米国市場を歩き、米国企業からマーチャンダイジングやサプライチェーンマネジメントを学び、自分たちの小さな店を大きな量販店チェーンに伸ばした例がいくつもあります。日本のGMSもコンビニも元々は米国研修で学んだ当時の若き経営者らのやる気が実を結んだものでしょうが、日本流通業界の黎明期の意欲と同じものを現在の中国アパレル経営者に感じます。いま中国のアパレル業界人の勉強熱心な姿勢を目の当たりすると、流通業の先駆者たちのイメージがダブるのです。昨年9月以降、中国でも日本でも中国業界関係者に向けたマーチャンダイジングやブランド戦略の研修がコンスタントに続いています。現時点でパリコレで世界のファッショントレンドを左右しそうな中国デザイナーはまだ登場していませんが、近未来はきっと70年代のケンゾーやイッセイミヤケ、80年代のコムデギャルソンやヨウジヤマモトのようなブランドが中国から登場するはずと信じレクチャーしています。ニューヨーク出張のたび私はパーソンズデザイン学校で何回も特別講義をしましたが、クラスの大半は中国、台湾、韓国などアジア系学生でした。だからでしょう、20世紀末から今日までアナスイにはじまり、ヴィヴィアンタム、デレックラム、フィリップリム、アレキサンダーワン、ジェイソンウーなど中国系デザイナーがニューヨークコレクションで大活躍。ロンドンのセントマーチンはじめヨーロッパのファッションスクールもパーソンズ同様留学生の多くはアジア系です。彼らをサポートする、クリエーションを受け止めることができる経営者や投資家が増えたら、中国人スターデザイナーがパリコレで脚光を浴びることはありえる話でしょう。日本で活躍する中国人デザイナーブランドVIVIANO6,7年前広州で齋藤さんのセミナーに参加していた経営者のひとりは、現在急成長中企業として注目されているSHEINの創業者。売上規模を誇るSHEINのような大企業の誕生も重要でしょうが、世界からクリエーションで一目置かれる中国ブランドの誕生も重要なことだと思います。それに向けてやる気のある現地経営者にはものづくりとクリエーションの探究をしつこく説きたいです。
2024.06.01
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私の生まれ故郷は三重県最北の桑名、歌川広重の東海道五十三次に描かれた歴史ある港町です。江戸時代東海道は参勤交代やお伊勢参りで利用される日本の大動脈でしたが、江戸から41番目の宮(名古屋市の熱田)と42番目の桑名の間だけは船に乗って渡るしか方法はありませんでした。伊勢湾にそそぐ木曽川、長良川、揖斐川の大きな三川で遮断されていたので静岡の大井川のようにはいきません。歌川広重が描いた桑名宿想像するに、雨が降ったり強風が吹いたら名古屋と桑名間の船は運行できず、桑名港で足止めくらった旅人たちは地元でとれる蛤を焼いてもらって恐らく船が出るまでチビチビやっていたのでしょう。「その手はくわなの焼き蛤」というフレーズはきっと東西からの旅人が広めたと思われます。江戸初期は関西方面の反幕分子への備えもあって徳川四天王の一人本多忠勝が初代桑名藩主に任命されました。桑名と陸路を結ぶ彦根の初代藩主は同じ四天王の井伊直政(人事異動の多かった中で井伊家は幕末までずっと彦根藩主)ですから、幕府は豊臣方の残党を非常に気にしていたのでしょう。桑名藩主はその後本多家から松平家に引き継がれ、幕末の藩主松平定敬(さだあき。最後の京都所司代)が実兄松平容保(かたもり。京都守護職)と共に薩長の官軍に抵抗、両藩の武士は新撰組土方歳三と共にに函館五稜郭で最後まで戦いました。悪く言えば、時代の流れを読めなかった殿様のおかげで多数の藩士が命を落としました。学生時代、私は地元選出の衆議院議員木村俊夫さん(佐藤栄作内閣で官房長官、田中角栄内閣で外務大臣を務めた政治家)と対談したことがあります。そのとき木村さんから「太田くん、明治以降桑名の人間は政府に登用されたことはないんだよ」と教わりました。木村さんは運輸省官僚時代の上司が長州の佐藤栄作さんだった関係で佐藤さんに閣僚重用されましたが、それまでは会津藩、桑名藩出身者は中央政府で冷遇されていたようです。養老町にある平田靫負像私は小学6年生の文集「最も尊敬する人」で、江戸中期の薩摩藩家老だった平田靫負(ゆきえ)の名をあげました。宝暦3年(1753年)幕府の命令で薩摩藩は木曽三川の治水工事を無理やり担当させられ、平田靫負はその普請奉行として現場を指揮、難工事で莫大な費用がかかり、多数の死者が出たことの責任をとって工事完成時点で切腹した(病死説もありますが)と郷土史で習いました。多額の工事費のために薩摩の人々は苦しい思いをした、平田は藩主に切腹をもって詫びたかったと教わりました。だから私にとって尊敬できる人は平田靱負なのです。いまも桑名には宝暦の治水工事で命を落とした薩摩義士を祀る海蔵寺があり、平田靫負の像もここにあります。近隣の養老町にも平田の像があり、私たちは学校の社会見学で訪れたことがあります。桑名の住人は江戸時代から今日まで宝暦の治水工事をしてくれた薩摩藩の恩を忘れていませんが、不幸にも幕末に藩主が京都所司代だったこともあって桑名藩士は戊辰戦争の最後の最後まで薩長軍と戦うことになってしまったのです。昭和13年に建立された治水神社さて、私の母校桑名市立光風中学校のすぐ裏には桑名市庁舎があります。現市長はわが桑名高校の後輩である伊藤徳宇(なるたか)さん。現在は桑名市民でもないのに、私は東京でも桑名でもたまに伊藤さんと会食することがあります。なぜなら不思議なご縁があるからです。桑名市長伊藤徳宇さん伊藤さんは桑名高校を卒業して早稲田大学政経学部に進学、フジテレビに就職。テレビ局では番組編成や報道部門ではなく営業部門に配属されましたが、5年後故郷に貢献したいと上司に辞表を出し、生まれ故郷にUターンしました。2006年に桑名市議会議員選挙立候補、初陣ながら当選して市議会議員を務めます。が、市議会議員の権限に限界を感じた伊藤青年は市議会議員を辞め2008年の桑名市長選挙に立候補。現職水谷元市長(1996年から2012年まで市長を務める)の壁は厚く、伊藤さんは選挙に破れて職を失いました。落選後は名古屋の生命保険会社に一時的に勤務したのち2010年再び桑名市議会議員に復帰、そして2012年再び現職水谷市長に挑戦、今度は見事に当選を果たしました。ちなみに17年間桑名市長の座にあった水谷元さんは桑名高校で私の2年後輩、しかも彼の義兄は私の祖母方の親戚であり、私の弟の結婚式では媒酌人をお願いした関係です。ずいぶん前に故郷を離れた私は、水谷元さんが長く市長であったことも、フジテレビを退職した伊藤さんがベテラン市長に勝ったことも知りませんでした。しかしながら、不思議なご縁があるのです。私の幼稚園時代からの友人中澤康哉くんは地元桑名信用金庫理事長であり、最近まで桑名商工会議所会頭でした。私がクールジャパン機構社長に就任した直後、中澤くんから「今度市長と一緒に東京に行くので紹介したい」と連絡がありました。中澤くんが連れてきた市長は30代、わが故郷にもこんなに若い市長が登場したのかと驚きました。が、もっと驚いたのは、伊藤さんが辞表を出したフジテレビの上司はなんと私のパートナーであるクールジャパン機構飯島一暢会長(サンケイビル社長)、これにはもっとびっくりでした。松屋銀座内のカフェで面談して別れてすぐ、ちょうど買い物にいらっしゃった飯島さんに松屋1階で遭遇、「さっきまで桑名の伊藤市長とお茶してました」と言うと、「伊藤はやっと市長になれたんですか、良かった。落選して職を失って奥さんは苦労したんですよ」。飯島さんは元部下が市長選に落選したことはご存知でも当選したことはご存知なかった。次回上京の際は3人で会食しましょうとなりました。ここから故郷の市長との交流が始まったのです。桑名には全国的に有名なすき焼きの「柿安」(デパ地下の柿安ダイニングで知名度高い)、蛤料亭の「日の出」もあり、うどん屋「歌行燈」は近隣県からのお客様でいつも賑わっています。最近は地元のタケノコが名産品だそうですが、桑名は肉も魚も格別美味しい場所。長島温泉(織田信長が一向宗徒を制圧するため島ごと焼き払ったことで有名な長島にある一大レジャーランド)もあれば、大型アウトレットパークもあります。しかし観光地としての魅力にいまひとつ欠けるのです。伊藤市長は桑名の魅力をもっと外に向けて発信したい、近年急増するインバウンド客も取り込みたい、とクールジャパン事業に携わる私を市のアドバイザーにしてセミナーを開催しました。年に一度は関東圏に住む桑名ゆかりの人間を集めた懇親会を都内で開いています。毎月市役所からは市民便りのような冊子が届き、めったに故郷に帰らない私たちに桑名情報を届けてくれます。故郷を離れて半世紀、でもこの冊子のおかげで故郷は身近な存在となりました。ZUMAドバイ店数年前帰省したとき、伊藤さんから紹介したい人物がいると出産のため帰国中のアラブ首長国連邦ドバイの高級レストランZUMA(ズーマ)の日本酒ソムリエと会食しました。ZUMAはロンドン在住の日本大好き英国人がロンドンでおしゃれな居酒屋を開業、香港、シンガポール、ニューヨークなどにも支店がある有名店。ロンドン1号店開業直後私は英国人オーナーと会い、当時社長をしていたアパレル企業の服を受付係のユニフォーム用に数セットプレゼントしたことがありました。また、クールジャパン機構の出資先候補のリサーチのためドバイ店を訪ねたこともあり、私には馴染のお店なのです。ドバイZUMAで働く女性ソムリエは市長の実家のご近所なので紹介されました。女性ソムリエは「飲んでいただきたい日本酒があります」と私たちにZUMAオリジナル日本酒をプレゼン。なんとそのオリジナル酒は和歌山県九重雑賀のもの。九重雑賀はお酢で有名な会社、上質なお酢を生産するために自社の田んぼで有機米を栽培、それから純米酒をつくって酒粕を活用してお酢をつくる一貫生産の超真面目な会社、私も醸造現場を視察したことがあります。彼女は九重雑賀のものづくりにこだわる姿勢に惚れ込み、ZUMAオリジナル純米酒を委託したと聞きました。赤酢が美味い九重雑賀HPより開業時にユニフォームをプレゼントしたお店、そのドバイ支店のソムリエが同郷、しかもプレゼンされた純米酒は前職クールジャパン機構時代に工場見学したお酢メーカー醸造と何から何までつながっていたのです。不思議なご縁の市長からこれまた不思議なご縁をいただきました。世間は狭いと言いますが、ほんとに狭いなあと思います。私の仕事のパートナーに辞表を出して故郷にÙターンした若者、すでに市長3期目ですが47歳とまだまだ若い。この先県知事なり国会議員に打って出る日が来るのか来ないのか私にはわかりませんが、伊藤さんにはわが故郷の発展にもっと尽力して欲しいと願っています。できれば広重の東海道五十三次にあるように港のそばにお城を再建したら観光客を取り込めるのに....。
2024.06.08
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シャープがテレビ向けの液晶パネル工場「堺ディスプレイプロダクト(SDP)」(堺市)の生産を停止することが14日、わかった。同社の液晶事業は市況の低迷によって赤字が続いており、中国勢との競争が厳しいテレビ向けの大型パネルの生産をやめることで、収益を改善する狙いがある。同日午後に開く会見で発表する。SDPは国内でテレビ用の液晶パネルを生産する唯一の工場で、稼働を停止すると国内生産はゼロになる。(産経新聞から抜粋)数日前のショッキングなニュース、ついにこの日が来てしまいました。小泉政権後半の2004年、ひょんなことから内閣府の知的財産本部におかれたコンテンツ専門調査会、日本ブランドワーキンググループの専門委員になったとき、担当役人から「近い将来日本は電気製品で外貨を稼げなくなる」と説明がありました。当時はシャープ亀山工場で生産された液晶テレビAQUOS亀山モデルがトップブランドとして全盛期、近未来日本の電気製品は競争力がなくなると聞いても、そんなバカなと正直ピンと来ませんでした。三重県亀山工場では需要を満たすことができないとシャープは堺市にも大きな液晶工場を建設、AQUOS増産にチャレンジしました。しかしながらAQUOSは急速にブランド力を失っていき、気がついたら会社ごと台湾メーカーに買収されました。一世を風靡した亀山ブランドは工場閉鎖とともに消滅、最後の液晶パネル製造拠点だった堺工場もついに閉鎖が決定、日本から液晶パネルの製造が消えることに。内閣府担当役員の見立て通りになりました。シャープ液晶テレビの地盤沈下が始まった頃から世界の主要ホテルの部屋にある大型テレビはサムソン、L Gの韓国勢が主役になり、ビックカメラなど家電店のテレビ売り場にはハイセンスなど中国メーカーの超大型テレビが並ぶようになりました。日本の多くの電機メーカーが手掛けていた携帯電話もスマホ時代になると一気に市場競争力を失い、日本ブランドの存在感はないに等しい様相に。ノートブックPCもしかり、N社、F社、T社、SH社の陰はどんどん薄くなり、S社はPC事業部をさっさと身売りしました。ウォークマンが世界で大流行、世界中で若者が日本製大型ラジカセを肩に乗せて歩くことが街のトレンドだった時代もありました。ビデオカセットもテレビ受像機も日本製は高品質として重宝された時代もありました。しかしデジタル社会になると日本のエレクトロニクスは主役の座から滑り落ち、事業縮小や事業部門の売却、会社ごと身売りや上場廃止と「ジャパン・アズ・ナンバーワン」は儚く短い夢で終わりました。早くから日本製エレクトロニクスの衰退を予測していた役所や知識人は、ハードウエアに代わる日本製商品としてソフトウエア産業に着目、ジャパンコンテンツを世界に広めるために知的財産本部にコンテンツ戦略会議を設置して議論を開始したのです。今日久しぶりにその知的財産本部コンテンツ専門調査会の古い議事録をネット検索、いま一度当時の委員会のやりとりを読み返しました。委員会は2003年にスタート、最初はマンガ、アニメ、ゲームソフトや映画などコンテンツ分野で議論が始まり、途中からファッション、食と地域ブランドが議論の対象に加えられ、私も2004年から参加させてもらいました。パリ恒例のJAPAN EXPO当時の議事録にはまだ「クールジャパン」の文字はありません。すべてが「コンテンツ」ひとくくりに扱われ、それぞれの分野の専門家が自分たちの領域の課題や将来性を論じていました。このときファッションの世界のみならず、最も重要なのは人材育成ではないか、そのための教育制度を是正すべきと議事録に自分の発言が記載されていました。思い返せばあの頃そんなこと言ってたなあ。マンガ、アニメ、ファッション、食の領域では長らく大学設置が認められず、それぞれ専門学校で教育するしか道はありませんでした。音楽の世界でも、クラシック音楽は芸術大学や音楽大学で教育されてはいましたが、ロックンロールやジャズとなると専門学校任せ、ロックシンガーやドラマーを目指す若者は大学の選択肢はなく専門学校に通うしか道はありませんでした。政府内での様々な議論の末、制度改革が進んでいまではファッションデザインやマーチャンダイジングを学べる4年制専門職大学が認可され、かつて専門学校法人が運営してきた女子大学から「女子」の文字が消えて男子学生も進学できるようになりました。個人的な意見ですが、東京芸術大学に映画監督を養成する学科が生まれたから日本映画は輸入洋画以上の興行収入を得られるようになったと思います。それ以前は洋画が圧倒的に強く、日本映画ではしっかり収益あげられず「邦画暗黒の時代」が長かった。言い換えれば、東京芸術大学に映画部門が設置されどんどん人材が輩出されて日本映画全体がレベルアップ、海外有名映画賞を受賞するまたはノミネートされる映画監督や俳優が増え、邦画は洋画に伍して稼げるようになりました。私が専門委員として参加した会議は小泉政権から第一次安倍内閣、福田内閣。麻生内閣とおよそ4年間続き、麻生内閣のときに最終的提言がまとまりました。でも当時の議事録に「クールジャパン」の文字はまだ登場しません。提言がまとまって私たち専門委員はお役御免、政権交代した民主党時代に新たな委員たちによってさらに議論が深まったらしく、やっと「クールジャパン」という文字が登場したようです。私は民主党政権下でどんな議論があったのか詳しく知りませんし、コンテンツがいつの間にクールジャパンという名称になったのもわかりません。そして再び政権交代で第2次安倍政権になってすぐの2013年春、国としてクールジャパン事業を推進するために官民投資ファンド「海外需要開拓支援機構(通称クールジャパン機構)」設立の法案が自民、公明党と野党だった民主党の賛成多数で成立。もう専門委員ではなかったので他人事のようにこのニュースを聞いていました。友人だった元伊勢丹の藤巻幸夫さんは所属政党みんなの党が法案反対だったので国会採決時は欠席したとは聞いていましたが。クアラルンプールの商業施設にてそして2013年8月米国西海岸視察旅行中、私をクールジャパン機構社長にという申し入れがわが社長に届きました。かつてコンテンツ専門調査会の委員として議論には参画しましたが、まさか自分が仕事としてクールジャパン政策の推進に関わるなんて考えもしませんでした。まさに青天の霹靂。会社として政府の要請を受けることになり、私は2013年11月設立のクールジャパン機構初代社長に就任しました。日本のカッコいい、美味しいを海外市場に売り込む、そしてしっかり日本側が儲ける仕組みづくりをサポートするのがクールジャパン政策、食で言うなら日本茶、日本酒、和食に限らず日本企業が手間暇かけて作るコーヒーや紅茶も、ワインやウイスキーも、日本のシェフが創作するイタリアンやフレンチだっていい、純日本である必要はないと私は解釈しました。アニメ、マンガも米国エージェントやアジア諸国の海賊版制作者が儲けるのではなく、日本の制作者が世界に売り込んでキチンと稼ぐ、決して中途半端な値引きはしない、そして制作現場で働く人々に利益を還元する(いまも制作現場はブラック企業状態)のが本当のクールジャパン事業と考えました。だから啓蒙セミナーなどで何度も「おまけしないニッポン」「かっこいい日本商品の普及」を訴えました。クールジャパン機構発足式(2013年11月)官民投資ファンドですから各政党、マスコミ、一般人からもいろんな矢が飛んできました。ラーメンの一風堂のフランス進出に出資したときはクレーム電話で「ラーメンが和食か!」「社長は豚骨ラーメンが好きなのか!」と怒鳴られました。遣隋使の時代から日本との繋がりが深い中国寧波市に建設する阪急百貨店の大型商業施設に投資したときは野党議員から「ハコモノに投資するのか!」、開店時には「欧米ラグジュアリーブランドをたくさん導入してどこがクールジャパンか!」と非難されました。地元富裕層の集客のためにはどうしてもラグジュアリーブランドをずらり並べてショッピングモールの格を印象づける必要があります。多くの日系百貨店が中国で失敗する要因はラグジュアリーブランドの集積ができず、館全体の格が低いこと。 富裕層をたくさん集め、その上で日本の美味しい、カッコいいを訴求していく、これしかクールジャパン普及の方法はありません。クールジャパン機構が出資した寧波市のショッピングモールこのところ日系百貨店の中国市場からの撤退ニュースが続き、私自身は中国商業施設を歩く機会が増えました。そこで思うことは、いまこそクールジャパン事業を本格的に後押しして世界に販路を求めないと日本は埋没してしまう、世界市場は広く日本の生活文化や美意識をもっと世界に広めるべき、と。役所の見立て通り電気製品はダメになりました。次はEV車で中国より遅れをとる自動車産業かもしれません。日本は製品を売るのではなく日本のソフト、文化、精神性を売ることにもっと心血注ぐべきでしょう。でないと近い将来世界市場で日本の存在感はさらになくなります。シャープ堺工場閉鎖のニュースでそんなことを思った次第。
2024.05.19
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日本ファッションウイーク推進機構で3月開催されたRakuten Fashion Week Tokyoを総括する実行委員会が行われました。各委員が今シーズンの運営についてどのように感じたか、今後に向けて改善すべき点は何かを論じ合うミーティングでした。SOSHIOTSUKIコロナウイルスの3年間はショー形式で発表しにくい状況でしたが、2024年秋冬シーズンはショー形式で発表したブランドが増え、見応えのあるコレクションも多かったというのが大方の意見。もちろん反省点、今後に向けて検討すべき点はいくつか出ましたが、これらを受けて事務局は参加ブランド関係者と共にいろんなことにチャレンジしてしてくれると思います。委員の感想でもあり、私自身も気になっていたのは、開演時間の遅れ。開演まで40分も待たされる欧米コレクションと違って、東京は日本人気質なのか大幅な遅れはこれまであまりなかったと思います。が、今シーズンは大幅に遅れて(あるいは意図的に遅らせてか)開演するコレクションが少なくありませんでした。過密スケジュールでモデルのヘアメイクに時間がかかることも遅れの原因かもしれませんが、観客入場も開演時間ギリギリのショーが多かった。私が東京コレクションの運営責任者を務めていた頃、大幅にショーが遅れるとメディア関係者からきついクレームが寄せられたものです。事務局もなるべく開演時間を遅らせずに開演してほしいとブランド側に協力をお願いしたものです。近年は遅れるのが当たり前、時間通り始めないのが普通になってきたのではとちょっと心配。ブランドやそのプレス担当者、演出家にはなるべくオンタイムで開演してほしいですね。私が百貨店にいた頃、ニューヨークコレクションで人気のマークジェイコブスが1時間ほど開演が遅れ、主要メディアに批判記事を書かれたことがありました。翌シーズン、マークジェイコブスはなんと招待状にある開演時間オンタイムでショーをオープン、のんびり会場にやってきた多くの主要プレスやバイヤーはショーを観ることができなかったという事件がありました。オンタイムでやろうと思えばできないことはないという事例ですが、ショーに関わるみんながその気になればオンターム開演は実現可能です。開演予定時間通りとは言いませんが、ぜひ東京だけは大幅遅れだけは是正してもらいたいです。観客の入場整理についても再考すべきかもしれません。東京コレクションを始めた頃は"PRESS"と"BUYER"そして”STANDING"と当時のパリコレに習って入場を整理、雑誌編集長クラス、新聞編集委員クラスの主要プレス関係者がずっと行列で並ぶということはほとんどありませんでした。が、このところベテラン記者やメディアの役職者が行列で放置されたままという光景をよく見かけます。招待状の封筒につけた色別シールで分類、そのシールの色分けの意味が観客にはよくわからず、主要エディターも新人スタイリストもブランドのインフルエンサーも皆同じく長時間行列に並ぶというのは改善できないものかと思います。かつての入場者分類のように分けて、優先的に場内に案内して着席してもらういわばVIP扱いというのがあってもいいかもしれません。JUN ASHIDA数十年もファッションショーを続けてきたジュンアシダなどは1日3回大勢のお客様を招待しているにも関わらず、毎回会場入口が混雑することなくスムーズに入場整理されています。受付でカテゴリーごとにお客様をわけ、案内係がしっかり個別対応しているので混乱はまずありません。各国大使館関係者の出席も多く失礼があってはならないという配慮もあるでしょうが、毎回伺うたびにスムーズな会場案内に感心させられます。他のブランドにもあの方法を研究してほしいです。コレクションを観る側は人間ですから、なかなか入場できなかったり、長く待たされてよく見えない席に案内されたりすると主要メディアの関係者は内心穏やかではありません。本来ファッションショーは気分よく観ていただくもの、開演前から内心ムカムカ状態ではせっかくのコレクションがブランド側の意図通り伝わらず、結局それがブランドにば悪影響になることも。特にベテランのエディターさんはイライラさせないケアをショー会場ではすべきかな、と。一度ブランド側の担当やプレス会社スタッフ集めて、エントランスのケアや時間厳守について講習会をしてはどうでしょう。私も1970年代からたくさんのファッションショーを拝見してきました。入場の際に日本人に対する人種差別じゃないかと頭に来たこともあれば、プレス担当の横柄な態度にブチ切れてイヤイヤ取材したことも少なくありません。しかし、そんな入場対応で気分悪くてもショーはショー、感情移入してはいけないとコレクション評では絶賛したブランドも中にはありました。が、やっぱり人間ですから、穏やかな気分でファッションショーは観たいですね。
2024.04.23
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あれは1994年2月後半でした。パリコレ取材に出かける直前、毎日新聞社でファッションデザインやワインなどを担当していた市倉浩二郎編集委員が珍しくきちんとアポを取り、カメラマンを伴って南青山5丁目にあったCFD(東京ファッションデザイナー協議会)事務局に来たのは。毎日新聞社編集委員だった市倉浩二郎さんCFD事務局には正面口と玄関口の2つドアがあり、いつも彼は勝手口からチャイムも鳴らさず入ってきてキッチンの冷蔵庫をゴソゴソ、ビールを見つけると議長室のソファにドカッと座って勝手にビールを飲んでいました。が、その日は事前にアポを取り、カメラマン同伴の正式な取材、正面口からやって来ました。取材中は友人であっても丁寧な言葉遣い、ちゃんと取材者として一定の距離を保ってくれる本物のジャーナリストでしたが、この日もジャーナリストの顔でした。取材が終わって雑談になると言葉遣いはガラリ変わっていつも通り友達言葉に。これから出かけるパリコレを自分としては最後にしようと思う。今後パリコレ取材は後輩記者か外部の専門家に任せ、自分は国内繊維産地を回ってデザイナーの背後にいる技術者やテキスタイルメーカーを取材して本を書きたい。「おまえ詳しいだろうから手伝え」。長く編集委員の職にあり、一般記者と違って自由になんでも取材できる立場、書こうと思えば何冊も本を書けたはずなのにこれまでワインやスコッチ、日本酒の専門家に遠慮して本を一冊も書かなかった男、それがやっとファッションデザイナーの背後にいる技術者の本を書きたいと言うのです。私は快く「いいよ」と返しました。3月23日、毎日ファッション大賞選考委員長だった鯨岡阿美子さんのご主人でエッセイストの古波蔵保好さんが銀座のフレンチ有名店マキシム・ド・パリに大勢の仲間を招待、数え85歳のお誕生会を開いたとき(沖縄では長寿をお祝いされる側が好きな人を招いて大宴会するとご本人から伺いました)、市倉さん、私も招待されました。鯨岡さん急逝の1年後毎日ファッション大賞に鯨岡阿美子賞を設立するため奔走した二人だから招待されたのでしょう。このとき、市倉さんはちょっと疲れた表情でした。そして4月1日、CFD主催の東京コレクション開幕。初日最終ショーのユキトリイに行こうと西武百貨店渋谷店の脇を通りかかったら、間口の狭いカフェで市倉夫妻や帽子デザイナー平田暁夫夫妻らを見かけて合流。ここで私は当時ブームになりつつあった「有機栽培野菜スープ」の効能を説明、市倉さんにも「あんたも健康に注意しろ、野菜スープ飲め」と勧めたら「あんな不味いもの飲めるか」と一笑。私の勧めですぐ飲み始めた平田先生とは大違いの反応でした。みんなでカフェから歩いてショー会場へ移動しユキトリイの新作コレクションを拝見。あとでわかったことですが、このショー終了後に市倉さんは奥様に「ちょっと寒気がする」と漏らし、鳥居さんの打ち上げパーティーには参加せずそのまま帰宅したそうです。市倉さんと私翌4月2日羽田空港整備場でのコムデギャルソン、どういうわけか市倉さんは現れませんでした。パリコレですでにコムデギャルソンのコレクションを取材しているはず、都心から遠いので今日は来ないのかなと思いました。ところが、ちょうどその頃、市倉さんは意識不明で救急搬送されていたのです。4月4日、美登子夫人から電話がありました。市倉さんがパリコレ取材で書いてたはずの原稿が見当たらない、これからデザイナーをインタビューして書き上げなくてはならないタイアップ企画は誰かと交代しなくてはならない、もし新聞社から連絡があったら助けてあげてと頼まれました。容体に変化なく未だ意識不明とこの電話で初めて深刻な状態だと知りました。東コレ終了後の週明け、入院先の西国分寺にある府中病院に飛んで行きました。集中治療室の前には毎日新聞OBや同僚、仕事仲間が集まり、治療室から出てくる看護師に取材しては私たちに状況を教えてくれる方もいました。府中病院の中庭には立派な八重桜があり、私たちは喫煙所でその桜を眺めながら花が全部散る前になんとか眼を覚ましてほしいと願いました。4月23日、美登子夫人から許可が出たので私は初めて集中治療室に。鼻から口からたくさん管を入れられ全く動けない市倉さんを見てショックでしたが、彼の名前を連呼し、脚を摩って励ましました。すると市倉さんの目から涙が溢れ出ました。「おまえが来たことはわかってるぞ」というサインだったのでしょう。午前中に何か食べるものを差し入れし、夕方には病院に戻って奥様を励ます、連日このパターンを繰り返しました。そして4月25日、寿司屋で握ってもらった寿司を持って病院に到着するやいなや看護師から救急治療室に入るよう促されました。まるでドラマのワンシーンのように血圧計の数値が急降下、ゼロになったところでドクターからご臨終の宣告。人の死に立ち会ったのは生まれて初めて、ショックでした。今日であれからちょうど30年、早いです。2代目CFD議長を引き受けてくれた久田尚子さんと市倉さんパリコレ取材で疲れたからでしょうか風邪の菌がなぜか脳に入ってしまい、ドクターはその菌の特定がなかなかできないために処方できず、最後の最後まで原因不明のまま亡くなりました。山登りが趣味の頑丈な男があまりに呆気ない、享年52歳は若すぎます。やっと本を書こうと準備を始める寸前に倒れ、結局1冊の本を書く時間すら残されていなかった、誰にも人生にTHE ENDはあると教えてくれました。控え室で美登子夫人が言いました。「イッちゃんが、太田は本当はやりたいことがあるからやらせてあげたいといつも言ってたわ」と。ひとまわり年少の私を弟のようにかわいがってくれた友は私のことを心配してくれていたと奥様から聞いて嬉しかったです。そして、友の死で私は決断しました。やりたいことをやらずには死ねない、CFD議長を退任してアメリカで学んだマーチャンダイジングの仕事をやろう、と。縁あって百貨店でもアパレル企業でもマーチャンダイジングを指揮し、数百人の社員たちにゼミ形式でマーチャンダイジングを教えました。最近は中国のファッション業界人にマーチャンダイジングを講義する機会が増えました。学生時代からやりたかったマーチャンダイジングの仕事を30年間続けたきっかけは、大親友との別れで人生観が変わったからです。救急治療室で意識不明ながら涙を浮かべて応えてくれた友の姿、一生忘れられません。毎年やってくる4月25日、私にとっては特別な日。合掌。
2024.04.25
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官民投資ファンドの社長就任直後、真っ先に講演に呼んでくれたのは富山県高岡市でした。当時ここで商業活性化を専門家としてサポートしていたのが宝永広重さん、神戸の旧居留地にいくつも大型ブランドショップを招致した大丸神戸店の実務責任者だった方です。そして地元経営者として宝永さんと一緒に活動していたのが、私の教え子だった松田英昭くんです。前列左から4人目の私の後方が松田くん1994年秋、ファッション産業人材育成機構(通称IFIビジネススクール)夜間テストプログラムが始まり、アパレルマーチャンダイジングのクラス担当がジュンコシマダを軌道に乗せた岡田茂樹さん、リテールマーチャンダイジングのクラス担当は私、まだ東京ファッションデザイナー協議会議長でした。それぞれのクラス25人を週一度半年間教え、カリキュラムや指導方法の点検という意味もありました。94年から2000年まで夜間プロフェッショナルコースで教えた受講生はのべ数百人、その中で特に気になる受講生の一人が出身地富山県高岡市に戻ってセレクトショップを開業した松田英昭くんです。IFI受講当時は日本橋馬喰町界隈の製品問屋の代表格エトワール海渡の社員でした。彼が地元に戻って初めてもらった年賀状に「地元で小さなセレクトショップを開業しました」とあり、地方都市の駅の地下街でセレクトショップなんて果たして続けられるのだろうかと心配しました。ところが、松田くんの会社「ブルーコムブルー」は地下街の小さなショップから高岡市と富山市に店舗を広げ、ダウンコートのモンクレールなど高額インポート商品も販売、ネット通販でも売上を伸ばして地元で注目される小売店になりました。2枚ともブルーコムブルー路面店松田くんが経営する路面セレクトショップは写真のように規模も大きく、高岡や富山のおしゃれな生活者に支持されています。また、楽天市場のテナントとしても実績はかなりあるようです。ショップを案内されたときは先生風を吹かせて店内の定数定量やVPの改善すべき点をあれこれ伝え、松田くんは緊張した面持ちで聞いていました。ショップスタッフにすればボスの対応を見て「このおじさん、いったい何者なの」だったでしょうね。富山県の伝統技術や優れものを集めたイベントでの講演、その合間を縫って高岡の誇るブランド「能作」の工場見学に出かけ、能作克治社長の案内で錫(すず)製品が完成するまでを見せてもらいました。美大やデザイン学校を卒業した若い社員がベテラン社員にまじってものづくりする光景にまず驚きました。繊維であろうが金属であろうが、地方都市の元気な工場はどこも若手社員が嬉々としてものづくりしているのが共通点ですが、能作も全く同じでした。能作社長に聞けば、当初仏具など金属加工業だった能作はご多分に漏れず「地方」「下請け」「赤字」の三重苦、このままでは将来がないと考え、産元商社や問屋を経由せず自社ブランドを作って自分たちで販売してみようと自主生産自主販売プロジェクトを立ち上げたそうです。下請けの工場が自社で商品を企画生産し、直営店や百貨店インショップで直接消費者に販売する、恐らく最初はかなり反対意見もあったでしょう。が、NOUSAKUはいまや海外でもリビング雑貨関連業界では認知されています。松屋銀座地下ウインドーの能作錫のカゴは柔らかく自由自在に形を変えられる実は、私も海外出張のお土産に能作の錫製品のカゴ(写真上)を利用しています。なんと言っても軽量でかさばらずトランクに簡単に収納できるのがありがたい。外国人に手渡し、目の前で箱を開けてもらって自由自在に曲がて形を変えられるカゴの使い方を説明すると、みなさん必ず大喜びします。大手町のパレスホテル地下ショップを訪ねた海外旅行者が、「このままミラノにショップを作らせて欲しい」と申し出たこともあったと聞いていますが、日本の伝統技術と現代的デザインが融合したリビング雑貨、「これぞクールジャパン」と言える品物です。現在松屋銀座の1階正面ウインドーと地下ウインドー数箇所は能作がズラリ、銀座地区でも急増している訪日観光客に注目され、7階能作ショップ(写真上)はきっと平常時よりも賑わうでしょう。立山の麓で始まったIWA5プロジェクトもう一人富山で忘れてはならない人物がいます。満寿泉を醸造販売する「桝田酒造店」桝田隆一郎さん、江戸末期から明治にかけて北前船の中継拠点として栄えた富山港界隈の岩瀬地区をかつてのような美しい街並みに整備する運動を指揮している方です。同時に桝田さんはドンペリニヨン最高醸造責任者だったリシャール・ラフロア氏が立ち上げた日本酒「IWA5」プロジェクトを支えています。このプロジェクトは蔵元で長期宿泊できて美味しい食事も楽しめるフランスワインのシャトーのようなラグジュアリービジネスを目指していますが、桝田さんの協力なしには実現しなかったプロジェクトです。日本酒ビジネスはボルドーやブルゴーニュのワイン醸造と違って蔵元は酒米を外部の生産者から仕入れるのでワインのように酒をじっくり寝かせる、つまり古酒として長く保存することが経済的理由でなかなかできません。醸造した日本酒を早く出荷して現金化し、秋には翌年販売するお酒のための酒米を購入しなくてはならないからです(ほんの一部の蔵元は自社の田んぼで酒米を栽培してはいますが)。しかし桝田酒造はワインのように古酒を毎年大量に保存、熟成したお酒も販売しています。他県にも古酒を販売する蔵元はありますが、経済的に余裕がない蔵元でないと古酒を大量保存することはできません。富山市には全国的に有名な寿司店「鮨人(すしじん」がありますが、この名店で店主が胸を張って提供している日本酒は満寿泉とIWA5です。長年懇意にしている霞ヶ関のお役人が数年前富山県庁に出向と聞いて、私はブルーコムブルー、能作、桝田酒造店の会社見学と鮨人での食事を勧めました。太平洋側の人間にとって富山県はちょっと縁遠い地味なイメージの県でしょうが、富山湾の美味しい魚介類だけでなく元気印の会社がいくつもあってこれから成長が見込める県の1つだと思います。
2023.04.30
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前項パリ在住フリーランスジャーナリストだった村上新子さんは自分が取材して書いた記事の掲載誌をよく送ってくれました。強く印象に残っているのは、元国際通貨基金専務理事で現欧州中央銀行総裁クリスティーヌ・ラガルド女史の単独インタビューと、高田賢三さん、島田順子さん、入江末男さんのパリ同窓会のような三者座談会、どちらも皆さんのお人柄がにじみ出て素敵な記事でした。 島田順子 おしゃれも生き方もチャーミングな秘密 (マガジンハウス刊)昨日は南青山で開催していたジュンコシマダ展示会にお邪魔しました。パリから一時帰国中の島田順子さん、数日前には新著を上梓したばかりでお忙しいのでしょう、残念ながら今回は会場でお会いできませんでした。新著の帯には「いくつになっても自分が好きなことを大切に」とありますが、80歳を過ぎても自然体のデザイナーのまんま、いまも活動拠点はパリというのが凄いです。 私が島田順子という存在を初めて知ったのは1983年3月のパリコレ時、素材や下着を製造販売していた京都のルシアン野村の野村直晴社長からのオファーを受け、順子さんはパリでデビューしたばかりでした。ルシアン野村でイッセイミヤケ子供服の経験があった岡田茂樹さんがジュンコシマダ事業ルシアンプランニングのビジネス統括、アタッシュドプレスとして活躍していたフラッシュの小笠原洋子さんが広報とイメージ戦略、クリエイションはパリ島田順子さんの三権分立「トロイカ方式」(岡田さんが何度も口にしたセリフ)で事業は急成長しました。(80年代後半、東京コレクション特設テント前にて) 1980年代初頭、日本ではアパレルメーカーが外部のデザイナーと組んで個性的なファッションブランドを次々立ち上げ、 D C(デザイナー&キャラクター)ブランドが大きなブームとなりました。が、その大半はデビュー数年以内に企業とデザイナーの軋轢が表面化してブランド解散するなどの失敗続き。その中にあってジュンコシマダはボディコントレンドの波にも乗って売上はあっという間に百億円に手が届きそうな勢い、アパレル企業とデザイナーとの協業では数少ない成功事例でした。 ところが、順子さんの良き理解者だったオーナーの野村社長が突然の病死、その先には契約更新時期が迫り、京都のルシアン本社、パリのアトリエ、東京の営業部隊との間に微妙な風が吹き始め、事業成長の功労者だった岡田さんはルシアングループを退職してしまいました。 あの頃東京コレクションのショー経費をめぐって開催日直前にルシアン側とパリのアトリエが対立、順子さんがキレそうになってパリ側で経費負担する代わりに会場で不思議なメッセージを配付しようかという話がありました。このとき東京コレクション運営責任者の私は順子さんに「観客には関係のないこと。ここはいつも通り普通にショーをやりましょうよ」とアドバイスしました。野村社長急逝、トロイカ方式が崩れ、数少ない協業成功事例だった企業出資のデザイナービジネスに暗雲が漂い始め、この関係は長くは続かないだろうなとこのとき感じました。 島田順子さんにとっては何でも相談できる岡田茂樹さんがしばらくしてジュンコシマダのゴルフウエアを提携制作していたダンロップスポーツ専務に就任、その関係で島田さんからさまざまな相談を受けていたのでしょう。岡田さんから「順ちゃんからこんな話があったけど、太田さんはどう思う」とよく相談されました。毎回相談というより、「決めた」という報告みたいなものでしたが、岡田さんは親身に順子さんをサポートしていました。結局、そのあとジュンコシマダ事業はルシアンプランニングから独立、順子さんから頼まれた岡田茂樹さんが再びジュンコシマダ事業を経営することになり、岡田さんの引退とともに名古屋のクロスプラスに引き継がれました。現在順子さんの事業を担当しているのが、私が主宰していた私塾「月曜会」の教え子というのも不思議なご縁です。 岡田さんがダンロップスポーツで側面から順子さんをサポートし始めた頃、サッカーのJリーグがスタートしました。ある日銀座の小さなカウンターバーで繊研新聞早川弘と飲んでいたら、見知らぬ初老の紳士が突然話に割り込んできました。日本サッカー協会幹部、女子サッカーリーグ専務理事を名乗る紳士、私たちがファッション業界と知って相談を持ちかけたのです。女子サッカーを盛り上げるため、東西オールスター戦のためにカッコいいユニフォームを選手たちに着せてやりたい、デザイナーを紹介してもらえませんか、と。 女性選手のデリケートな心理を理解し、サッカーを身近に感じるデザイナーでないとこの話は無理。そこで思いついたのが、パリ在住でサッカーが身近なはずの島田順子さんでした。東西両選抜チームのデザインをお願いし、制作自体はダンロップスポーツ岡田さんに打診することになりました。当時女子サッカーリーグはマイナーな存在、協会側にデザイン料や制作コストを払う余裕はありませんでしたが、順子さんと岡田さんの好意でこの話は実現しました。のちにワールドカップ女子大会優勝の立役者となる澤穂希さんがまだ年少さんの時代のことです。完成した順子さんデザインの特別ユニフォーム(グランドコート含めフルセット)を着た選手たちはロッカールームで「東西対抗に選ばないとこんなカッコいいユニフォームは着られない。来年も出場できるよう頑張らないと」と大喜び、両軍それぞれ特徴があってなかなかカッコよかったです。(2019年11月JUNKO SHIMADAイベントにて)東京コレクションを運営している頃も百貨店に転職してからも、順子さんとはパリでも東京でもよく会食やカラオケをご一緒しました。パリのご自宅に招かれ、ディナーをご馳走になったこともたびたび。私は長くファッションデザイナーの方々とお付き合いしてきましたが、考えてみれば自宅ディナーの機会は順子さん以外ほとんどありません。自然体の気さくな人ですから、ご自宅に呼ばれるたびパリ出張の緊張から解放されホッとしたものです。こんなこともありました。深夜パリのカラオケバーから出て順子さん運転の車に乗り込もうとしたら、順子さんがドアを開けた瞬間大きな声で「キャッ」、なんと車の中で浮浪者が寝ていたのでびっくりしました。カギのかかった車に潜入して浮浪者が寝ているとはなんともパリっぽいシーン、いまも鮮明に覚えています。数シーズン前、松屋銀座でジュンコシマダのイベントがあった際、集まったたくさんのお客様が順子さんと歓談する場面に遭遇しました。恐らくお客様の多くはボディコン時代からの長い熱烈ファンでしょうが、まるでアイドル歌手を囲むファンクラブのような熱い光景でした。順子さんは80歳を過ぎたいまも現役バリバリ、毎シーズンパリで新作発表してから東京に来て展示会を開いています。パリに渡った1960年代、現地で親交のあった高田賢三さんや三宅一生さんはすでに鬼籍されましたが、順子さんにはずっと現役デザイナーとしてファンを楽しませて欲しいです。(2023年春夏コレクション展示会にて)
2022.11.19
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8月急逝したオフクロの納骨を控え、郷里の実家から運んであった古いアルバムや大量の記念切手の整理を始めました。古い写真に混じってどういうわけか山中鏆さんの訃報記事の切り抜きが出てきました。23年前の新聞記事をご本人の命日に発見とは、あまりのタイミングにびっくりです。1994年4月に盟友イッチャン(毎日新聞編集委員の市倉浩二郎)が亡くなり、人生の短さを実感した私は「本当にやりたいことをやらずには死ねない」と、CFD(東京ファッションデザイナー協議会)退任を決意、自分の仲間やCFD関係者に伝えました。IFI(ファッション産業人材育成機構)ビジネススクールの実験講座がちょうど始まるときだったのでIFI理事長の山中さん(このときは東武百貨店社長)にも決意を伝えたら、「どこに行くか決める前に相談に来い」、「量販店だけは絶対に許さんからな」、IFIのあった両国の寿司店でそう言われました。IFIで指導するファッションマーチャンダイジングをこの手でやりたい、希望通りやらせてくれる企業を見つける前に、まず後任CFD議長を探さなくてはなりません。引き受けてくれそうな人を探しましたが、デザイナー周辺事情を熟知している人でないと後継者に余計な苦労をさせてしまうことになる。ここはCFD顧問でもある文化出版局の久田尚子さんしかない。しかも翌年彼女は定年で区切りを迎えるドンピシャのタイミング、選択肢はほかにありませんでした。(左:久田尚子さん、右:コシノヒロコさん)「ノー」と言わせない場面をどう作るか。CFD顧問でもあるファッションプロデューサー大出一博さんに「一緒に頭下げてくれませんか」と攻略作戦の協力をお願いしました。大出さんのSUNデザイン研究所葉山合宿所に久田さんを呼び出してまずは宴会、酔っぱらった頃を見計らって土下座して頼む、これが作戦でした。相手は業界有数の酒豪、半端な酒量ではなかったけれど、二人でお願いしたら最後は「わかったわよ」とどうにか了解してくれました。本人の気持ちが変わらないうちにと、文化出版局の親組織である学校法人文化学園の大沼淳理事長を訪ね、「久田さんのCFD議長就任を認めてください」とお願いしました。その場で大沼さんの承認を得て、ようやく私はCFDと東京コレクションの運営から解放され、念願だったファッションマーチャンダイジングをやらせてくれる企業を探すことができたのです。久田さんとは初対面からいろいろ行き違いがありました。デザイナー組織を新たに作る話に半信半疑で帰国した私には面倒な手続きが待っていました。まず、直前に開催された読売新聞社主催東京プレタポルテコレクションのアドバイザーだった方々との面談が待っていました。帰国して真っ先に文化出版局の久田さんを訪ね、どういう経緯で新組織を作る話に発展したのかを説明しました。「本来私たちがやらなければならないことを(海外にいる)あなたがやるわけね」と皮肉っぽく言われたので、「久田さんがおやりになってはいかがですか。わざわざ僕がニューヨークから帰ってきてやらなくてはいけないことじゃないでしょう」と正直に思いを返しました。恐らくこのセリフで久田さんはカチンときたのでしょう、年少の若造(19年の差があります)が生意気なこと言うんじゃないわよとばかり表情が険しくなり、とても協力してもらえそうな空気ではありませんでした。次に久田さんとあるパーティーで会ったときは「あなたは(帰国を勧めた)三人組の犬よね」とさらに強烈なことを言われ、「ごく最近初めて会ったばかりなので三宅一生さんのことはよくわかりません。山本耀司さんとはサシで話をしたこともありません。仲良しと言われる関係ではありませんから」と反論しました。ほかにも身に覚えのないことをたっぷり言われ、どうして自分がデザイナー新組織設立のために奔走しなくてはならないんだろうと挫けそうになりました。こんなチグハグな会話はCFD設立まで連日続き、正式発足後CFD顧問になってもらってからもしばらくは理解し合えない関係のままでした。本来自分たちが担うべき仕事を海外在住の見知らぬ男にやらせたいとデザイナー諸氏は言う。でも現時点で編集者の仕事があるのでは自分は身動き取れない。しかも何ともクソ生意気な若造が目の前に、相当悔しかったのでしょうね。 CFD発足からおよそ1年後、久田さんは出勤途中にアポなしで事務局に立ち寄り、「これからはあなたを応援するから何でも言ってちょうだい」、と思いもよらぬ優しいことをわざわざ言いに来たのです。正直言って俄に信じられない、また何か仕掛けられたのかと戸惑いました。が、今度はセリフそのままでした。以来、久田さんは親身になってあれこれ私をサポートしてくれました。住み慣れた南青山のマンションから世田谷代田の一軒家に引っ越した直後、イッチャンと私は新居に招待され、大変ご馳走になりました。まるで小料理店のようなカウンターの中には料理人の久田さん、カウンター席には私たち、次から次へと手料理とお酒が供され、切れることのないおしゃべりが続き、ディナーが終わった時点でキッチンの洗い物は完了、実に見事なプロの段取りでした。仕事一途で家事なんてしない人だと想像していましたが、とんでもなく器用に家事をこなす人でした。このとき1部屋つぶしたウォークインクローゼットに案内され、「ねーねー、見てよ。これ、私の宝物なの。パリ支局勤務のときにお給料貯めて作った最初で最後のオートクチュール、全盛期のイヴ・サンローランよ」、嬉しそうにオートクチュール服を見せる久田さんはまるで小娘が恋を語るような表情、本当にファッションとデザイナーのことが大好きな編集者なんだと改めて思いました。私が10年、そして久田さんが10年CFDと自主運営の東京コレクションを守りましたが、ここで経済産業省が東京コレクション支援を打ち出し、状況は一変しました。私は久田さんと二人だけで会食、せっかく国が支援してくれると言うんだから提案を受け入れるべきだしCFD議長退任のグッドタイミング、引き際を間違えないでください」と言いました。お互い10年ずつ組織運営で苦労した者同士だからわかり合える、久田さんは議長退任を決めました。CFD設立20周年、前列中央が久田さん久田さんは愛知県常滑市の出身、私は伊勢湾を挟んだ三重県桑名市の出身、郷里は目と鼻の先です。晩年病で倒れリハビリ介護施設に移った久田さんは残念ながらこの施設で亡くなりましたが、そこはなんと私の自宅から徒歩数分の施設、何とも不思議なご縁です。久田邸でご馳走になったとき次から次へと出てくる手料理は常滑焼きのお皿で、贈ってくださる日本酒はいつも常滑の「白老」、郷土愛が強い人でもありました。私のオヤジみたいな松尾武幸さん(繊研新聞社取締役編集局長)の名古屋大学学生寮のルームメイトが偶然にも高校時代の恩師、左翼的思想を教え子たちに注入したインテリ先生だったと久田さんから伺いました。これも不思議なご縁。一緒に飲むたび酔っ払って大声で「バッキャーロウ」を連呼しながら私たちの肩や太腿を強く引っ叩く、元気過ぎて口の悪いおばちゃんでもありました。いま頃あの世でイッチャンやシゲルさんを引っ叩きながら大酒飲んでいるでしょうね。
2022.09.30
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先月カッシーナ・イクスシー社長の森康洋さんから携帯番号変更の案内を受け取り、なんの疑問も感じずアドレス帳を書き換えました。そして数日前、WWDジャパンが森さんの社長退任記事、こういうことだったんですね。退任理由は「一身上の都合」、詳しくは分かりません。アクタス社長からカッシーナに移って10年余、コンランショップジャパンなども傘下におさめて事業を拡大した功績は大きいです。ご苦労様でした。 上の写真は数年前に建築学生ワークショップを主宰する建築家の平沼孝啓さん(右)と森康洋さん(左)と一緒に南青山のレストランで会食したときのもの。このとき、カッシーナ青山直営店を若手デザイナーのイベントに利用させて欲しいとお願いし、ビューティフルピープル熊切秀典さんを紹介。以下の写真は熊切さんとのコラボが実現した模様、コレクションでも使った小さな粒入り服と同じクッションが予想以上に売れたと森さんは喜んでいました。私が森さんと初めて会ったのは、彼がレナウン米国法人社長だった頃でした。松屋の若手社員を連れてニューヨーク研修する際、森さんには当時レナウンが提携関係にあったJ・クルーの直営店視察をお願いし、開店時間前に大型ショップを案内してもらっていました。私の部下だった松屋ファッションディレクター関本美弥子はニューヨーク州立ファッション工科大学卒業後米国レナウンに就職、森さんは関本の上司でもあり、少なからずご縁のある方です。あれは1999年だったでしょうか、私はレナウン副社長に就任したばかりの小野寺満芳さんから突然電話をもらいました。レナウンのメインバンク住友銀行からアパレル名門企業再建に送り込まれた剛腕経営者というふれ込みでした。「レナウン再建でご相談したいことがあります」と言われ、私は明治通り沿いのレナウン本社に出かけました。「会社整理するために銀行から送り込まれたとあなたは思っていらっしゃいませんか」、これが初対面の挨拶でした。住友銀行が常務クラス以上の人材を送り込んでマツダやアサヒビールを建て直したように、レナウンを再建して来いと頭取に命じられての出向と小野寺さんからは伺いましたが、失礼ながら私は会社を整理するために送り込まれた人物だと思っていました。そして1枚のメモ書きを渡されました。そこにはレナウンが販売している全ブランドの名前が書いてあり、「今後レナウンに不要と思うブランドに印をつけてください」。私は「全部」と申し上げました。ブランドの名前しか書いていないリストを手に無責任に答えられるはずありませんから、あえて「全部」と答えたのです。続けて、私は「明日からパリコレ出張、1週間ほどで帰国しますから、それまでにリストにある全ブランドの当初想定したターゲットと現状の顧客像をまとめてくれませんか」とお願いしました。せめてそれくらいの情報がなければ求められた答えは出せませんから。さらに、私は小野寺さんにこう申し上げました。「ニューヨークにレナウンらしくない面白い男がいるじゃないですか。どうしてああいう人材を海外に駐在させているんですか。あなたが本気で改革するのであれば、ニューヨーク駐在所長のような人材を本社に集めるべき。前回ニューヨーク出張で森さんに会ったとき、米国グリーンカードを取得し、会社はゴタゴタしているので辞めて米国で転職しようか悩んでいると彼から相談されましたよ」、と。パリコレ出張から戻って再び小野寺さんを訪ねたら、もう森さんはニューヨークから呼び戻され、本社で仕事をスタートしていました。このスピード感があるならレナウンは再建できるかもしれない、小野寺さんに協力を約束し度々会って友人のファッションディレクターやデザイナーを紹介しました。森さんは当時ニューヨークで人気急上昇中の新人デザイナーブランド、レベッカテイラーとの契約締結とその日本展開が担当業務、すぐに執行役員に指名されました。小野寺さんには「レナウンの売上を展開ブランド数で割ってください。平均値はかなり小さい、つまり小さい売上規模のブランドそれぞれに多くの人材が関わっている。これでは利益は出ません。多くのブランドを大胆にスクラップ、人材と資金を集中させるべきです」、さらに「(習志野の)大型パワーセンターを処分すべき。倉庫が大きいとどんどん在庫が膨らみ、いつの間にか在庫過多が平気になります。倉庫は小さければ小さいほど良い」とも言いました。小野寺さんも副社長着任直後に東西の大型パワーセンターの視察に出かけ、あまりの在庫の多さにびっくり仰天だったとおっしゃっていましたが、アパレルメーカーの破綻の始まりは過剰在庫に鈍感な体質、そして低いプロパー消化率に社員の多くが「売上取るためには仕方ない」と慣れきっていることだと思いますが、レナウンの在庫も半端なかったようです。さらに、柱になるブランドの発掘、育成は急務、そのためには外部の人材を活用して時代に合った魅力あるブランドを1つでも2つでも作ることだと薦め、いろんな人材を紹介しました。ところが、銀行から再建を託された小野寺さんは口が悪かった。あえて強烈な言葉を発することで社員を刺激したかったとも言えます。しかし、これが原因で会社は意外な方向に向かいます。アドバイスを求められる我々の前でも覇気のなさそうな男性社員のことを「こいつらバカなんだ」、「うちにはバカしかいない」、「若い女性の方が優秀なんだ」と強烈な言葉を連発、いまならパワハラ発言に当たるキツい言い方でした。発言の裏にある愛情は確かにあったと私は思うのですが、これに耐えられない社員と組合がグループの長老やOBたちに働きかけ、小野寺さんを銀行に戻す画策を仕掛けたようです。詳しい背景は分かりませんが、結局小野寺さんはレナウンを追われ、小野寺さんに希望の光を見ていた森さんはこの動きに失望、レナウンを退職してインテリア業界に転じました。もしもあのまま小野寺副社長が大改革の指揮を取り続け、森さんたちのようなファッションビジネスに不可欠な面白い人材が手足となって動き、我々が紹介した外部のプロ人材が活かされていたら、名門企業は別の道を歩んでいたかもしれません。カッシーナの経営で手腕を発揮した森さんを見ていると、こういう人材があのまま改革に従事していたらなあ、と思います。倒産してしまったレナウンは日本のファッションビジネスの真のリーダーでした。自社のノウハウを惜しげもなく同業他社に公開、優秀な人材もたくさん在籍しました。米国人気ブランドだったペリーエリス事業、米国のホンモノよりもレナウン製のライセンス商品の方がクオリティーが高かったし、それに関わった人材はほんとに優秀、米国サイドもペリー本人以下みんながリスペクトしていました。そんな企業があっけなく消滅するんですよね。1978年のVAN倒産時、創業者石津謙介さんはレナウン中興の祖である尾上清さんに相談に行きました。再生あるいは破産、どちらを選択するべきか悩んでいた石津さんの問いに対して、「石津くん、ファッションは虚業だよ。潔く散った方が良い」と破産をアドバイスされた、と石津さんご本人から伺いました。尾上さんが指揮した名門企業も儚くも完全に消滅してしまいました。虚業なんですかね、ファッションビジネスは....。
2022.10.14
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クールジャパン機構時代、ちょっと風変わりな訪問者がオフィスを訪ねてきました。ベネチア建築ビエンナーレで会場エントランスに柱のないガラス建築をセットすることになっていた大阪在住の建築家平沼孝啓さん。ビエンナーレ首脳陣に評価されたものの大型ガラスの移送費用が半端なく、これを捻出する方法はないものかとの相談でした。クールジャパン機構は官民投資ファンド、いくら素晴らしいクリエーションでも投資した資金が将来回収できない事業には出資できません。これは投資の話ではなく何かの補助金を探す以外にないのではと助言し、サポートしてくれそうな役所を紹介しました。しかし補助金が足りず、結局この面白いプランはベネチアでは実現しませんでした。平沼さんは新国立競技場のデザインで話題となった世界的建築家ザハ・ハディッド女史が教鞭をとっていたAAスクール(英国建築協会附属建築学校)出身、近隣セントラルセントマーチンズ校のアレキサンダー・マックイーンたちと交流があり、彼らの卒業ファッションショーの舞台美術は平沼さんらAAスクールの学生が担当したことから、ファッションデザインにも関心が高い建築家です。その平沼さんが面倒を見ているNPO法人AAF(アートアンドアーキテクトフェスタ)が実にユニークな団体なのです。基本的には各種イベントを運営するのは大学生、大手代理店のサポートは一切ありません。若手建築家のコンペ「U-35」や安藤忠雄さんら有名建築家のレクチャーシリーズ、建築を学ぶ大学生や大学院生のコンペ「建築学生ワークショップ」、これらは全てAAFの学生たちが仕切っています。大手代理店でもここまでスムーズにイベントを仕切れるのかと毎回感心しますが、これを平沼さんら建築家や建築関連大学の先生たちが背後から支えています。「建築学生ワークショップ」では、先生たちが学生の中に入って一緒に作業したり、技術的アドバイスしたり、学生プレゼンには厳しい表現ながら温かい講評をされます。先生たちの熱血指導のほかにも、大手ゼネコンや地元施工会社の皆さんが技術アドバイザーとして学生の作業をサポート、作品づくりを手伝い、まさに実学そのものです。比叡山延暦寺や高野山金剛峯寺など「聖地」との交渉は平沼さんがマメに通い、その情熱の前に聖地の関係者はつい協力を約束するという構図です。今年も8月末「建築ワークショップ2022宮島」に参加してきました。平沼さんに声をかけられて4年前の伊勢神宮大会から私も参加し、出雲大社、東大寺、明治神宮と続いて今回は広島県宮島の厳島神社でした。例年全国から参加を申し込んだ建築を学ぶ学生が8グループに分かれ開催地に相応しいフォリーを建てますが、今回は申し込みが多かったのか10グループ、宮島の歴史や生活文化などを調査してフォリーのミニチュアをまず作り、7月の中間講評で審査されて修正を加え、現地合宿してフォリーを制作します。講評者は厳島神社界隈のフォリーを見て回り、次にプレゼン会場で各グループとの質疑応答、その後採点します。ワークショップ冒頭の講評者紹介で「美しいものにはワケがある」という視点で採点させていただきます、と宣言した私は10グループの中から4つを選び、最後に3グループ(全員3グループにのみ加点がルール)に点数を入れました。最後の最後まで悩んだグループは、建築の世界では珍しい材料と言える蝋燭を溶かしてバームクーヘンのような柱を何本も作ったフォリーでした。発想は面白い、材料は建築資材としてはレア、朱色の厳島神社に真っ白な蝋は目立ちますから「美しいものにはワケがある」に該当します。しかし、眩しい夏の太陽の熱で果たして自立できるのかどうか疑問を感じ、最終的に小さな建築として役割を果たせないと判断、私は加点対象から外しました。ところが、このグループのフォリーが最優秀賞に選ばれたのです。建築家や構造のプロの方々のお眼鏡に適ったということでしょう。私は建築分野の門外漢ですから、採点の視点が違っていたのかもしれません。(最優秀賞フォリー)でも、表彰式の後、挨拶に立った湯崎英彦広島県知事のコメントを聞いて驚きました。我々が各グループのプレゼンを受けている間に県知事は10箇所のフォリーを見て回ったそうですが、蝋燭フォリーは残念ながらすでに倒れていたとか。壊れたフォリーが最優秀賞だったので県知事もびっくりされた様子でした。ファッションコンテストに例えるなら、グランプリを獲得した服をモデルが着た瞬間生地が破れてしまった、あるいは袖がとれてしまったということでしょうか。デザイン画のコンテストなら最優秀賞でも良いでしょうが、実際に服を作って見せるファッションコンテストであれば、生地がすぐに敗れる、袖がすぐとれるようなら減点対象でしょう。この蝋燭フォリー、建築や構造の門外漢である私たちが「カッコいいね」と最高点数をつけるのはありかもしれませんが、門外漢の私が最後まで悩んだフォリーを建築専門家の先生たちが高く評価したのです。意外な気がします。東京大学の腰原幹雄さんや佐藤淳さんら毎回熱血指導してきた構造家のプロたちはどのように評価したのか、素朴にご意見を伺ってみたいと思って平沼さんにメールを送りました。構造家の先生たちが「いいんです」とおっしゃるなら、蝋燭フォリーを外した私の採点基準は間違い、来年の京都・仁和寺大会で(講評者に指名されるならば)考え方を変えねばなりません。(第2位)(第3位)学生さんはこれからプロを目指すのですから、現時点で発想や創造力を重視、作品の機能性、耐久性は度外視して採点してもいいのかもしれません。ファッションで言うなら、クリエーションが全てであって、学生のうちは素材、パターンメーキング、機能性はつべこべ言わないという採点もありなのかもしれませんね。感性、創造性を評価するのはとても難しい、過去5年間建築学生ワークショップに参加して毎回感じることです。そしてまた、平沼さんら建築家や大学の建築学科の教授たちの熱い指導(毎回厳しい講評をなさる構造家の佐藤淳さんは今年暑い中で早朝作業を手伝ってくたくたで発言が控えめでした)、施工会社の皆さんの献身的な協力を目の当たりにして、ファッションの世界でもこのような学校の枠を超えた業界全体がバックアップする実学ワークショップができないものかと思いました。こういう人材育成プログラムが実現できるなら、日本のファッションデザイン界は人材の宝庫になると確信しています。ちなみに、建築界のノーベル賞とも言われる「プリツカー賞」、日本人建築家の受賞は突出して多いんです。建築学生ワークショップから将来のプリツカー賞受賞者がでるかもしれません。
2022.09.06
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あれは確か1984年正月明けの寒い日でした。ニューヨークから一時帰国した私はオヤジの代理で、弟が結婚したい女性の父親にご挨拶に出向きました。名鉄岐阜駅の改札口、全身黒いコムデギャルソンをまとった白髪の男性が立っていたので「この人だな」とすぐわかりました。そのまま柳ケ瀬の割烹店に案内され、初対面ながら昔から親交があったかのようなもてなしを受けました。松下弘さん(故人)織物研究舎、通称オリケンの松下弘さん。当時コムデギャルソン全ブランドの大半の生地をデザインし、ヨウジヤマモトにも生地を提供していたテキスタイルの達人です。すでに世界で高い評価を得ていたイッセイミヤケにはテキスタイルデザイナーの皆川魔鬼子さんという強力な戦力が社内にいました。イッセイミヤケの海外進出から10年遅れてパリコレに進出するんですから、コムデギャルソン、ヨウジヤマモトも意匠性ある独自素材を作る仕組みが必要でした。そこで松下さんにテキスタイルの創作を託したのでしょう。弟は松下さんの長女と1984年秋に結婚しました。名古屋の熱田神宮での結婚式、新婦の父は儀式進行の巫女さんの方をじっと眺めていました。「巫女さんの裾模様のジャカード、見ましたか。素晴らしい。今度作ってみようかな」、と。娘の結婚式なので父親の感傷的表情を見せたくなかったのかもしれませんが、松下さんは新婦の父というよりクリエイターそのものの目でした。松下家の披露宴主賓は山本耀司さんと川久保玲さん、太田家の主賓はオヤジの長年の友人の実業家と私の友人でちょうど来日していた米国デザイナーのジェーン・バーンズでした。あの頃ヨウジヤマモトの米国小売店パートナーはセレクト店シャリバリ、そしてジェーンはデビュー当初シャリバリのアトリエ専属デザイナー、妙なご縁でした。このとき私は新郎の兄として初めて山本耀司さんと会話を交わしました。結婚式の数日後、ファッション業界のことを全く知らないわが親族は朝日新聞の「天声人語」を読んで驚きました。朝日新聞社所有の有楽町マリオン朝日ホールこけら落としファッションイベントにヨウジヤマモト、コムデギャルソンが参加、山本さんと川久保さんの記述があったので親戚のおばさんたちは「あの方たちは有名なデザイナーだったのね」。田舎のおばさんたちにとって「天声人語」に載るような人が参列していたのでびっくりだったのでしょう。その後私は米国から帰国、東京からパリコレ出張はどういうわけか毎回松下さんと同じフライトでした。当時はまだパリ直行便がなく、アラスカのアンカレッジ経由便、もしくはアンカレッジとロンドンで給油してからパリに入る日本航空便でしたが、アンカレッジ、ロンドンの空港待合室で松下さんは私によく囁きました。「今度は光るんですわ」、「今度は赤なんですわ」、と。パリコレ当日ショー会場に行くと、コムデギャルソンの配慮なのか松下さんの隣が私の席、そこでも「光るんですわ」、「赤いんですわ」。1988年秋冬テーマ「エスニック」そしてショーが始まるとどのシーンでもキラキラ光る織物やニットだったり、布に付けられた透明ストーンのアクセサリーが光っていました。松下さんは素材提供していても実際にどういう形で服が登場するかは事前にご存知ありませんから、ショーが終わるや「全部光ってたねえ」と満足そうでした。ステージに登場した全点がどこかしらに赤を使っていたコレクションでは「全部赤だったねえ」。このとき松下さんが教えてくれたのは、コムデギャルソンから出たキーワードは「私のエスニックを作って」だったと。このキーワードを膨らませて素材を創作していたらトマトのような赤が浮かんできたそうです。「赤い布を作って」ならば我々にも想像つきますが、川久保さんと松下さんとの間はまるで禅問答のような掛け合い、「私のエスニック」が赤い布になりました。ほかには「掌の中におさまるドレス」のキーワードから、超薄手のジャージーやポリエステル地ファブリックで透け透けのコレクションが発表されたシーズンのこともよく覚えています。1993年春夏コムデギャルソン80年代の中頃、パリコレの記事ではフランス左翼系日刊紙リベラシオンに優秀な記者がいて、フィガロ紙、ルモンド紙、インターナショナルヘラルドトリビューン紙以上に注目されていました。パリコレ期間中リベラシオン紙はコレクション報道の一環として松下弘さんを顔写真入りで大きく取り上げ、彼のテキスタイル作りの姿勢、川久保さんと山本さんとの関係を紹介したことがありました。この記事で恐らく多くのジャーナリストやバイヤーは、ヨウジヤマモトとコムデギャルソンのテキスタイルがどことなくニュアンスが似ている理由を初めて知ったのではないでしょうか。コレクションそのものの記事よりも大きな扱いでしたから。ヨウジヤマモトプールオムのショーではこんなことがありました。フィナーレに登場した男性モデルたちは一斉にジャケットの前をパッとオープン、そこには白地のシャツにプリントで描かれた大きな花の絵がズラリ、これに観客は拍手喝采でした。黒の世界が最後に一転パッと派手なお花のプリントでしたから。このとき客席にいた川久保さんがただ一人ムッとした顔つきで下を向いたまま。フィナーレの演出はいたって単純、モデルごとに違うお花プリントに特別な意味はなさそう。私はあまりに単純な演出で拍手喝采とはクリエーションの同志としてあまりにありきたりすぎると不満なんだろうな、と勝手に推察しました。しかし、私の見立ては間違いでした。フィナーレ直前のワンシーン、登場したプレーンな平織り素材はヨウジヤマモトではなくコムデギャルソンに配分してくれたら良かったのに、という理由での不満表情だったのです。ショー終了後会場近くのカフェで松下さんがコムデギャルソンの幹部たちに、「来月(婦人服パリコレ)は表面起伏のある素材でもヨウジはジャカード、ギャルソンはドビー(織り)。あっちの方が良かったなんて言わないでくれ」とピシャリ。起伏の表現をわざわざ織り方を変えてテキスタイルを作る、時代を牽引する二人のクリエイターの狭間で仕事する苦労とプレッシャーを垣間見ました。2003年秋冬ヨウジヤマモトそれから数年後、ある事件があってヨウジヤマモトと織物研究舎の関係が切れ、松下さんはコムデギャルソンに全力投入できる状況になりました。ところが、川久保さんから私に連絡があり、山本さんと松下さん二人を説得する仲介役を頼まれました。私が「100%ギャルソンになったから良かったじゃないですか」と言ったら、川久保さんは「両方に素材提供するから緊張感があるし、松下さんは手抜きができない。うちだけだと良いもの作れないかもしれない。親戚なんだから何とかしてください」。川久保さんのクリエーションに対する姿勢はハンパないです。頼まれた私は山本さん、松下さんと個別に会って両者の和解を試みましたが、このときは完全に力不足、失敗でした。その後松下弘さんは亡くなり、大学卒業後ヨウジヤマモトで数年間修行したことのある松下さんの長男が織物研究舎を引き継ぎ、いまはヨウジ社とは良好な関係が続いていると聞いています。写真上の2003年秋冬ヨウジヤマモトのコレクションはいかにもオリケンという感じだったので、私は弟に「オリケンはまたヨウジの仕事を始めたのか」とメールしたくらい。テキスタイルの達人の味、亡くなったいまもしっかり続いています。
2023.01.21
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セブン&アイホールディングスのそごう西武売却の話は仕切り直しになったままですが、同じセブン&アイ傘下にあったバーニーズジャパンはあっさりと中国系資本のラオックスに売却されました。こちらはほとんど話題にもならず、そごう西武のように売却に異論を唱える人はいませんが、ラグジュアリーブランドをたくさん扱う小売店の売り先がラオックスで良かったのでしょうか。数年以内に消滅なんてことにならなければいいのですが....。創業の地7番街西17丁目に再出店した後倒産バーニーズN.Y.はニューヨーク在住時代にサポートしたことがあるので、個人的には特別な思い入れがあります。しかも、伊勢丹が出資して最初にバーニーズジャパンを立ち上げたときの社長が田代俊明さん(のちにグッチジャパン社長)、その部下が現在エルメスジャポン社長の有賀昌男さんや参議院議員のまま亡くなった藤巻幸夫さんら仲の良い人が多く、ラオックスにはバーニーズの名をしっかり守って欲しいです。日本は不思議な市場。本国アメリカで消滅してもずっと日本で元気に活動している事例がいくつもあります。良質素材で洗練されたメンズブランドとしておしゃれなゲイたちに人気のあった「ピンキー&ダイアン」は、ブランド解散後どういうわけか日本でボディコンブランドの代表格としてバブル期に一世を風靡しました。米国でメンズとして人気あったものが消滅後日本で「ピンダイ現象」とまで言われて婦人服市場をリード、彼女らの全盛期を知る者としては不思議でした。スターバックス同様ワシントン州シアトル生まれの「タリーズコーヒー」、1992年創業の比較的新しい企業でしたが、数年前に倒産してもう米国に店舗はありません。しかし、日本のパートナー伊藤園はしっかりビジネスを拡大、本国では消えたブランドを日本市場で発展させています。多くの消費者はすでに米国では倒産して店舗がないことを知らないでしょうが。ニューヨーク出張のたびに立ち寄ったソーホー地区ブロードウェイ沿いの高級スーパー「ディーン&デルカ」もタリーズと同じ。多店舗化ののちに会社をタイ資本に売却、その後買収企業が経営破綻して米国市場でディーン&デルカは消滅しましたが、日本では権利を買い取った日本企業ウェルカムがカフェ事業を中心に立派に多店舗展開しています。本国の市場から消えても日本では消費者から支持を集めビジネスが継続する例はありますから、二度のチャプターイレブン(連邦破産法)で小売店としては消滅したバーニーズN.Y.が日本市場では生き残って消費者に人気のあるファッションストアとして存在し続けて欲しいものです。さて、そもそも私がバーニーズN.Y.と関わりを持ったのは1981年2月のことでした。ミラノ、パリのメンズファッションウイークからバイヤーたちが戻ってきた頃、バーニーズN.Y.副社長でありカジュアルブランド「BASCO(バスコ)」共同デザイナーだったジーン・プレスマン氏から電話をもらいました。私のアパートからは数ブロック先のバーニーズ事務館に出かけると、ジーンはこう切り出しました。3代目社長ジーン・プレスマン氏ヨーロッパのトレンドが販売しにくいビッグショルダー、バイヤーは仕入れ予算を使い切ることができずに帰国する。仕入れが減少するとその分売上も減少するので我々は新たなリソースを開拓しなければならないが、その候補として日本のデザイナーに可能性はないだろうか。日本はイッセイミヤケやカンサイヤマモトだけではない、ほかにもっといるだろう。日本でのリソース開拓に力を貸してくれないか。イッセイミヤケはすでに世界で高い評価を得て米国有力各店でも商品展開されているブランド。カンサイヤマモトはちょうど前年に動物柄のニットが百貨店でもセレクトショップでもベストセラーになったばかり、ヨーロッパブランドの行き過ぎたビッグショルダーに苦慮していた米国バイヤーたちは揃って日本の次のデザイナーの可能性をリサーチし始めたタイミングでした。ジーンと面談した数日後にはバーニーズN.Y.最大のライバルだったシャリバリのジョン・ワイザー氏からも同じ協力要請を受けたくらいですから、ヨーロッパから帰国した小売店各社はかなり焦っていたのでしょう。仲が良かったジョン・ワイザーのシャリバリよりも先に頼まれたので私はジーンのバーニーズN.Y.に協力を約束、1981年4月上旬ジーンとメンズバイヤーのマイケル(のちにバーニーズジャパン新宿店オープン時に駐在指導員として来日)、レディースバイヤーのキャロルと一緒に東京に来ました。7番街西17丁目のお店(当時はここ1店舗だけだった)にメンズ、レディースそれぞれのフロアに「TOKYO」という名の売り場を設立する計画でした。ところが、ここで予期せぬことが。米国のようにショーのあとバイヤーは発注できないのです。3週間ほど先の展示会での発注が当時は日本流ビジネスでした。ショーと展示会の間に3週間以上あるなんて欧米では考えられないこと、私たちには不思議でした。仕方なくファッションショーを見て、パルコやラフォーレ原宿を視察して米国に戻り、5月に再来日して発注するしか選択肢はありませんでした。さらに、輸出に全く経験のないブランドばかり(コムデギャルソンでさえまだ輸出未経験)、決済方法のレター・オブ・クレジットやプロフォーマ・インボイスの意味、仕組みを各展示会場で細かく説明しなくてはなりませんし、そもそも多くの日本人は知らなかったバーニーズN.Y.そのものの説明をしなくては発注作業には入れませんでした。二度の来日でどうにかコムデギャルソン、ニコル、メンズビギ(菊池武夫さん時代)、入江末男さんのスタジオV、細川伸さんのパシュなどを買い付け、同年9月「TOKYO」はオープン、東57丁目にあった三越の地下レストランで有力雑誌の編集長や新聞社のファッション担当記者を招いてプレスショーを開催しました。このとき、日頃ニューヨークコレクションの会場で顔を合わせる米国人記者たちから私にも直接電話が入り、「レイ・カワクボは男性、それとも女性?」、「スタジオ・ファイブ(ヴィではなく)のデザイナーはどんな人?」、「メンズビージーはメンズだけなの?」などの問いに答えました。それまで私はニューヨークコレクションのデザイナーを取材するのが主たる仕事、日本のデザイナーとの個人的接点はなく、誰と誰が仲良しあるいは仲が悪いなんてことは全く知らず、デザイナー周辺のビジネス事情にも無知でした。この4年後、私は日本のデザイナー諸氏に声をかけられて帰国、CFD(東京ファッションデザイナー協議会)の設立に奔走、東京から発信することになるのですが、1981年春の時点でそんなことは全く想像すらできませんでした。激戦地区アッパーマジソンに進出(写真上2枚とも)ジーンはお金持ちファミリーのやんちゃなボンボンでした。祖父バーニー・プレスマンが設立した紳士服専門店はダウンタウンの大衆店、それを2代目フレッド・プレスマンがバージョンアップ、かつてイタリアの有力ブランドだったニノ・セルッティやデビュー直後のジョルジオ・アルマーニを独占販売で導入、ストアイメージを上げました。さらに、デザイナーブランドを一気に増やし、メンズのみならず婦人服まで拡大、ファッション専門大店のハイエンドなイメージを確立したのはフレッドの息子ジーンでした。性格は明るく一緒にいて楽しい男、時代を読む力もデザイナーや商品の目利きセンスもある特別なボンボンでした。しかし、伊勢丹との米国での合弁事業で多額の資金を手にしてダウンタウン本店のみならず家賃が飛び切り高いアッパーマジソンやシカゴ、ビバリーヒルズ、サンフランシスコなどの一等地にも次々出店、その後経営破綻しました。長く1店舗で運営してきた高感度セレクトショップが一気に多店舗化すればどんな国でも経営は難しくなります。もしあのままニューヨークだけでバーニーズを営業していたら、違った展開があったかもししれません。バーニーズN.Y.のTOKYOブティックのお陰で私は日本のデザイナーたちと知り合い、帰国してファッションビジネスで長く活動できたのですから、ジーンは恩人の一人であることに変わりありません。プレスマン一族が継承してきたバーニーズN.Y.、日本だけでもカッコよく事業を続けて欲しいです。
2023.05.06
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ただでさえ暑い京都、炎天下屋外に設置されたプレゼン会場で「建築学生ワークショップ2023仁和寺」が開催されました。あまりの暑さにシャツを袖捲りしたら腕が日焼けして真っ赤になり、意識的に飲んだミネラルウォーターはボトル4本、なんとか熱中症にならず参加できました。仁和寺の正門宇多天皇が退位したのち門跡になったことから長く天皇家との結びつきが強く、寺院としては別格の仁和寺。こんな聖地のような場所で学生たちは合宿し、自分たちが創作したフォリーを境内に建てられる、普通に考えたら無理な話でしょう。が、建築学生ワークショップはこれまで伊勢神宮、出雲大社、明治神宮、延暦寺、東大寺、厳島神社などで開催してきたので仁和寺も支援してくださったようです。正門をくぐってまず現れたのが多数の風船を浮かせたフォリー、風にそよいでまるで龍が暴れているようでユニークでした。150個の風船を浮かせたタイトル「こゆるり」(第3位)境内五重塔の前にセットしたフォリーは通行者が中を通過する際に踏む床が振動を与えて木と木がぶつかり木琴のような音が出る仕掛け。音を発するフォリー、発想自体は面白かった。こちらが2位の優秀賞です。床を踏むと音が出るタイトル「さとる」(第2位)そして、最優秀賞に選ばれたのは、中間発表時点で得点ゼロの最下位からの大逆転、見事です。ポリエステル綿を自分たちで絞りながら縄状にして木に巻きつけたフォリー、建築資材として綿の起用は新鮮。仁和寺固有の御室桜(背丈が低く、300年ほど長い寿命だそうです)が群生する場所の前に設置した点も講評者の皆さんに響いたようです。ちなみに昨年の厳島神社で最優秀賞だったのは蝋で組み立てたフォリーでしたが、建築資材として当たり前のものではない点が2年連続評価されたと思います。綿を使っタイトル「わ」が最優秀賞仁和寺という開催地のことを調べてどういうタイトル(テーマ)をつけるのか、そのタイトルに相応しい場所は敷地内のどこなのか、どういう資材(費用の上限あり)を使って、組み合わせて、どんなデザインのフォリーを創作するのか、大学対抗ではなく無作為に編成されたチームで作業します。コンセプトが決まったら小さな模型を作り、中間審査があり、専門家の先生方からもらったアドバイスをもとに変更箇所を議論し、現場で合宿してフォリーを組み立てます。多くのチームは現地入りしてから変更に変更を重ね、時間が足りずほぼ徹夜。発表時点ではもうぶっ倒れそうな状態。実際、最優秀賞のチームは6人のうち4人がステージに、2人は体調不良でダウンでした。最優秀賞チームは6人でした10組の参加学生、専門家として制作サポートした京都の建築関連企業の皆さん、そしてなによりこのイベントを主催運営したAAFの学生の皆さん、ご苦労様でした。例年のことながら皆さんの熱意には感動します。このワークショップを体験した若者の中から将来プリツカー賞を受賞するような世界的建築家が出てきて欲しいです。講評者は自分が選ぶ3チームにのみ加点(私は50点、30点、20点としました)、その合計点で順位が決まる仕組みですが、私が選んだ3チームは1つも表彰されませんでした。建築のプロの方々とは審査の視点が違うからでしょうね。某大学教授も点数つけたチームは全部外れたと聞いてちょっと安心しました。最後の全体講評で建築の専門家数人がおっしゃっていましたが、表彰されなかった7チームと受賞3チームとの差はほとんどありません。大切なのは、チーム編成されてからプレゼンまでどれだけ濃密な時間を過ごしたか、そしてこの経験を将来に繋げることでしょう。以下に他の7チームのフォリーをアップします。皆さんならどれをイチオシにしますか。建築学生ワークショップは主催者AAF(NPO法人アートアンドアーキテクトフェスタ)の運営も学生さんたち、フォリー創作も学生さん、それを建築家の平沼孝啓さんや全国の大学の先生方らが背後でバックアップし、フォリー設置は専門家が各チーム数人協力しています。来年は今年同様京都のお寺さん、醍醐寺開催です。来年は涼しいといいんですが。多数の関係者がフォリーを見て回るイベント(五重塔の前)
2023.09.18
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