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こんにちはーー。ミクロネシア方面出張中の相方も、間もなく飛行機に乗り込んでシンガへ向かう時刻かなぁ。。今週は、ヘビーーな1週間でしたぁ。子ども3人と母一人、がんばりました。二男の4歳のお誕生日&お誕生日会(幼稚園)あり、着付けのお教室の最終回あり、二男の親子遠足(長女はベビーシッターさん)あり、原稿締め切りあり(ボランティア)、バレエ教室ももちろん行ってきた~、そして長男の卒園式!セレモニーの最後に、ガウンを羽織った卒園生達が、園長先生の合図に合わせて帽子(外国の大学生みたいなもの)を空高く投げてわたしは、感動してしまいまひた。二男もしっかり同席。長女も、最初っから良い子で途中からスヤスヤ。家族の写真撮影にも、母と子3人で参加してきた。(写真撮影前にはちゃんと目覚めた娘っこ★えらい!)お友達の家族も、みな、笑顔が一杯だった。お仕事でこれなかったパパさん達も 本当、見に来たかっただろうなぁ。ビデオも写真も、娘っこをおんぶしながらしっかりとってきまひたよー。園庭の風を感じながら、北緯一度の卒園式。きっと、最初で最後のこの感動。ファミリーフォトセッションが希望者にはあり、シンガのお友達のお母さん達は、黒をベースにしたシックな装いの方が多かったです。西洋のお友達はラフなTシャツとか、チュニックとか。(フォトセッションは希望していなかったのかもしれません)日本のご家族は、フォーマル&落ち着いた色合いの方が多かったです。私は?白地に赤とオレンジの花柄のサマードレスで★(^^)(わたしが主役かって??でも背中にはおんぶですけどぉ。)~~~~~ま、それはそれでOK。卒園式に参加してから、園庭で汗びっしょりになるまで遊んだ長男。同じ小学校へ通うお友達と一緒にサブウェイでランチをして、学校へ送り届けました。二男はセレモニーの後に、クラスへ戻りました。わたしは、お家に帰ってくるとき、近くのコピティアム(大衆食堂)でライムジュースを飲んできた。冷たくて、美味しかった~。娘っこ(1歳1ヶ月)も、ハードスケジュールをよく元気で乗り切ってくれました。ありがとー。帰りの電車からスヤスヤ。8月には転校(幼稚園)&小学校へ入学、というステップを踏んでいたのですが卒園式はまだだったし、入学式もなかったのでなんだか、節目を感じていなかったのですが(同じ系列の学校でしたし)今日は、本当に長男の成長を心から嬉しく感じました。子ども3人と一緒に、わたしはどんな風に写っているのかなぁ。お写真が出来上がるのが、今から楽しみです。さて、週末はお誕生日会、そしてハローウィーーーン★常夏!大好き★
2010.10.29
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2006年2月14日夕方に私は二男の存在をこの目で確認をした。妊娠初期のわたしの胎内に、その存在がある(あろうこと)を産科医の先生の「おめでとうございます」という言葉と共にがっしりと受け止めた。うれしかった。2年前の初めての妊娠(長男)の時と同様に、検査薬を自宅で確認した時にはパートナーには伝えず、産科受診予約を電話で済ませて、1日自分の中で温めて・・・産科医の先生に妊娠を確認してもらってから翌日に、超音波写真と共に、パートナーの帰りを待った。メールや電話をしたい気持ちを、ずっと楽しみながら。その前日、検査薬の結果を見て産科医の予約を入れながらも、翌日の先生の夕方の枠を希望した。偶然にも、その枠が開いていた。午後5時台@新宿。ベストな予約だった。そして、わたしが産科医受診前に足を運んだ(託児付イベント)のが2006年2月14日この日のイベント。検査薬の印が気になりつつも、このイベントに行かないことには産科受診どころではなかったのだ。(笑)イベント告知の最後のうたい文句の秀逸なこと!(以下2行、イベントサイトより引用)「なにか新しい動きへの第一歩になる予感。ぜひその瞬間をその目で!!」まだ姿形が見えなかった、あの日(2006年のバレンタイン)の二男坊が今日、2010年10月25日この常夏の島で4歳の誕生日を迎えました。そんな二男が、おなか一杯になった自分のおなかに手を当てて「ぼくのおなかから赤ちゃんが生まれそうだよぉ。」というので、大葉ナナコさんの著書『いのちってスゴイ!赤ちゃんの誕生―おなか... 』(知の森絵本) 大葉 ナナコ を広げて、話が膨らむ膨らむ☆たのしい夜だった。幼稚園での朝のお誕生日会。シンガのおばあちゃんのように接してくださっているヘルパーさんにお世話になってわたしは午後一人学ぶ時間を過ごしたり。夕方はご近所さんにお祝いしてもらったり。子どもたちが喜んでいて、わたしも幸せだった。みんなが寝静まった頃、大仕事を週末から今夜までびっちり完成させて納め会をお客様として帰ってきたパートナー。子ども部屋に、ふらふらと何度も行ってタイマーが切れた扇風機をONしていたっけ。今、寝言「・。・。・。いちいちでんわしてくるなよ・・」 (爆)お疲れさま。あの日から4年8ヶ月。今も、これからも、子どもたちの傍らに。わたしらしく、たくましく、そして 背筋を伸ばして笑って~☆元気が一番☆第2子の産後満4年。嬉しい一日をどうもありがとう☆生きていくって、本当に、毎日が大冒険みたいだ。楽しもう~♪明日はバレエ☆
2010.10.25
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こんばんは。涼しいシンガの夜です。4晩続けて、いいこで朝までねてくれた娘っ子(1歳1カ月)★昨日は、ボールで抱っこして弾んでいるうちにすやすや・・・。おやすみなさーい。今日は、上の子たちに絵本を読んでいるあいだに、お休みに・・・。なんて、手のかからない子なでしょう~。娘が、第3子として私のもとへやってきてくれて、本当によかった。第1子のときには、昼寝をどうやってさせたらいいのかわからず、ひたすら、生活リズム大混乱&育児ハイ状態のまんま、長男を追いかけまわしてへとへと&へらへら(^^)の日々。そして、まんまと第2子受注。(当時長男1歳9カ月)第2子の切迫早産の診断が下り、突然の入院生活に。初産から2年3か月して、初めてオムツ替えをしない生活、独り身の時間(心臓2つ)。突然、母子分離状態となり実家でいとこと一緒に保育園生活がスタートした長男をかわいそうに思って?、長男の面倒みるためにパートナーは第2子の産前1カ月と産後1カ月の合計2ヶ月間、育児休職を取得。おもしろいのは、産前は第1子(当時2歳4カ月)の育児の名目で取得。(無給。ハローワークからの育児休職中の手当てもなし。国の支給対象は1歳~1歳半まで。夫の会社では3歳のお誕生日まで育児休職の取得が可能)産後1カ月間は、第2子の育児休職として取得=無給ですがハローワークからの給付金あり★会社も、前例のないケースだったので、社内規定などを改定して対応してくれまひた。ありがたや。第2子の産後は、妊娠中の安静入院生活の影響が大きく、また、産後1カ月で復帰した夫は復帰後3日目にはロンドンへ旅立っていったので。。。私の体力・気力が2男児の育児のタスクに追い付くのに、大変苦労しまひたっけ。でも、夫の育児休職中に、当時住んでいた世田谷区の「子育てカレッジ:産後のセルフケア講座」を申し込んでいたことで、救われまひた~。その後のわたしの足跡が、2007年1月(第2子の産後3か月のころ)にスタートしたこのブログでごじゃいまする。わたしが運よく?、2007年お正月明けに出会ったのが、「産後ケア」というヘルスケア。今日は、シンガの朝日新聞にも16日土曜日に掲載されていた「産後」に纏わる記事をご近所さん(昨年のシンガ出産仲間・産後11か月)がわざわざ持ってきて下さった。ありがとぉ。そしてそして、同じ階に生後5カ月の赤ちゃんがご来☆、先月されたことを知る。「日本で産後クラスを受講していらっしゃいました?」ってご挨拶の次に、聞きそうになって まずはご出身地から。。。と心改める。なはは。どこの地において、子育てをしていようと、家族の事情で、様々な困難を携えていようと、はたまた紛争の地に新しい命を授かったと、仮にしても、やっぱり、新生児を抱き、生活を再スタートする女性の健康は、なにより大切。世界の土台。未来の根っこ。今夜は、世界人口白書2010をダウンロード☆____<国連人口基金東京事務所のサイトより↓>国連人口基金 「世界人口白書 2010」平和と安全には、 女性の権利とエンパワーメントが不可欠 2010年10月20日ロンドン本日グリニッジ標準時正午(日本時間午後9時)、国連人口基金は「国連人口白書2010」を世界同時発表した。日本語版(抜粋)_____言葉が大切。言葉にすることで、明らかになることがある。言葉に残すことで、伝わることがある。わたしが1998年冬にネパールの山奥をあるくOKバジさんの後ろについて目からうろこ落ちまくりの日々を過ごした時にヒマラヤを眺めながら、青空トイレを経験し、そして、心に沸き起こった、テーマ。「(女性の)識字と自立」その後、北インドの土地を一人歩き、現地NGO,JICA,UNDP他のプロジェクト地を巡ってNGO事務所に寝泊まりさせてもらったり、国連OB宅にホームステイさせて頂き、職業訓練や教育の場を提供している、インド人によるインド人の子どもたちの為のNGOを見学させてもらったり、心ばかりの寄付をよろこばれ小さな基金を作って下さったり、バナラシのガンガー(聖なる川ガンジス)のほとりでぼーっと行き交う人々を観察したり、そんな沢山のことが交錯して、伝えたくて伝えたくて、インターネットカフェに立ちよりまだ、メールアドレスしか知らなかった彼(今の夫)に、インドからの便りを送った。マザーテレサの眠る施設マザーハウス(教会だと思いましたが。。違ったみたい)で、真っ白な棺の前に立った時、涙があふれてきてしまった。彼女に声をかけてもらったことはない。でも、彼女の作った孤児院を訪れたとき、ベビーベッドに4人も5人も一緒に入っていた1歳~2歳くらいの子どもたちが私に言った言葉が、耳から離れなかった。「わたしを一緒に連れて帰って~」大きな、大きな目が、しっとりと涙で輝く、その大きな瞳でとらえられ浅黒い手を差しのべられた自分には、本当に、なんと声をかけてあげたらいいものか、一体これから何をすべきなのか・・。NPOを通じて、奨学金をお届けしていた奨学生の女の子が、すこし崩れた藁ぶき屋根のお家から、恥ずかしそうに出てきたとき、なんだか私は、その出会いを静かな温かみのある光を浴びるように感じていた。その村で、ライムを手にわたしに微笑んでくれた、幼い女の子の写真。わたし、大好きな1枚だった。いま、あの写真はどこにあるかな、、。あの子は、いまどうしているのかな。。。農奴の家庭の子どもたちを、学校に通えるようにと必至で活動をつづけている現地NGO代表のご家族とのひと時は、緊張感をぬぐえなかった。学校に火が放たれたこととか、命を危険にさらしても続けている活動・・・。村村から女性が集まって、普通はしないような、人前での発言の機会をつくりお互いにマイクを手に、自分の経験やお話をする場に立ちこめる土埃とその埃をよけるために彼女たちがサリーの色鮮やかな布を顔にあてているしぐさ。もちろん、青空ひろば。2月だったけれど、わたしの心と体は熱かった。そして、余りにも重い課題を持って、わたしは帰国の途についた。当時大学5年生のわたし。卒業まであと1カ月。インドの圧倒的なごった煮状態の世界から、東京へ戻ると、わたしは表現する力を失っていた。1999年2月自分に一体何ができるのだろうか。就職後の毎日は、忙しかった。社会人となって、わたしが続けようと思ったのは南西アジアを中心とした貧困農村の子女に対する奨学金をNPO2050経由で届けること。1999年~地域の活性化、次世代につなげる指導者の育成、貧困を解消するために一番てっとりばやく、そして重要なことが、女性への支援。その第一歩が、奨学金。ネパール、そしてインドへの道を開いてくださった、NPO2050の方々に学びながら。でも、いつしか私は知る。最大に運よく、北インドの女の子が学校へ行く機会を持て、自分の地域に戻り先生や、他の職業につき、指導者的な立場につくことができたとして、結婚、出産を機に、はやり彼女たちも一つの壁にぶち当たるのだ。そう、産後。日本の産後とは、違う。でも、それぞれの「産後」。地域で指導者的な立場になれた女性だって、産後、子どもを抱えて、その先の人生をどのように生きてゆきたいのか。しっかりとしたビジョンを自分で紡ぐことができなければ何も始まらない。世界のどこで、どんな子育てをしていても。どんな困難の中で、子育てをしていようとも。☆★☆社会人になってから参加したフィリピンの貧困農村における女性向けの職業訓練及び、地域産業興しのプロジェクトの始動に際し、NPO2050代表にくっついて出向いた時、女性が職業を手に生きることのインパクトを知った。2001年夏あきたらず、またまた夏休みを当てて NPO2050の研修旅行に参加し、パプアニューギニアの地を訪れ三百を超える少数民族、500を超える言語という未開の地!に足を踏み入れてみれば、白い豪邸とヨットハーバーを見下ろす山の中には、都市へ流入した若者や貧困家庭がスラムを作って生活をしている集落があり、UNHABITATのプロジェクト地域を案内してくれた現地の案内人いわく「あの白い(外国人の)家家に爆弾をおとして、爆破してやりたいよ」と真顔で話していた。衝撃的だった。女性のことは、女性に聞かないと分からないよ。と、当時のUNDPパプア代表にお話をきいた。治安が悪く、女の子に安全に教育を受けさせようと思ったら、豪州など、外国での教育をさせる他はない、と言い切る人もいた。レストランでサービスをしている女の子たちに尋ねてみたら、きっと言葉にできない辛い経験をしている子ばかりだよ。とも。だれもが、きっと同じだよ。とそんな、暗黒に見える女性の地位の国にも、おいしい料理はあったし楽しいひと時もあった。きれいな海もあったし、極楽鳥もいた。きっと、パプアにはいつかまた行く日が来る。そんな、気がした。2002年夏今も、そう。でも、今はまだ、なんだな、きっと。(夫は近々訪れるそうですがね☆2010)母となってからも、はやりNPO2050のニュースレターを通じて大きな衝撃を受けた。それが、フィスチュラという病気による産後の女性の健康問題と社会からの隔絶の問題。2004年夏だったか・・自分の日本・世田谷での産後の体験しかしてなかった当時でも、その辛さを想像するに、涙がとめどなく出て仕方がなかった。そう、女性のことは、女性に聞かないと、わからんのだよ。識字それは、言葉の力。自立それは、女の力。「ことば(識字)と自立」~~~来☆して2年半。インドやネパールやパプアの国々は、日本よりもずっとずっと近いのだ。近いけど、そうやすやすは行けないですけどね・・・。がんばれ、未来の根っこ☆(ずらずらと書きなぐったようなエントリで申し訳ありません。おつきあい、心より感謝申し上げます。)
2010.10.19
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今週1週間は、長男(小1)の秋休み。金曜午後は、長男のお友達宅へ3匹をつれてお邪魔予定・・だったんですが、お招きくださったお友達のお母さんが体調を崩され、キャンセル。今日は半日保育でお願いした二男坊もお昼前にお迎えずみ。。さて、どないするべ・・・。大きなバックに娘っこの半日分の大荷物(ランチ・着替え・オムツ他)を詰め込んでもちろん息子たちのプールセットにお土産のおやつ、飲み物、二男の幼稚園バックにベビーカー、長男はサッカーボールを抱えていると、来たもんだ。。チャンギ空港?キッズアドベンチャー?いろいろ考えて、今日はプール日和ときたもんだ!そう、家のプールにGO!家に帰ろうにも、もちろんTAXIならひょいっと帰れるのは分っている。でも、いつでもTAXIとなると、お金もかかるし、子どもたちには便利な公共バスも大人気。よって、幼稚園の近くから路線バスに乗って帰宅。昼時の路線バスは結構混んでいて、ベビーカーを畳んで3人連れて乗り込むなり2席を譲っていただき、直後に3席目も。息子二人、そして娘を抱っこした私が、全員すわり、荷物は一塊にして私が片手で席とドアのスペースに置く&抑える形で出発。この体勢に収まる前に、男性がベビーカーを抑えてくださっていた。向かいに座ったローカルの女性二人がこちらを向いて話している。「シンガポールの女性はこうじゃないわね。」すこし、不安な気持ちになる私。目が合ったのを機に、その女性達と私の会話が始まった。お一方は、お孫さんのお迎え時間(午後3時)まで家に帰る途中とのこと。「韓国人?日本?」日本人です。「おおーー、「いちばん(日本語)」!(^^)」(^^)ありがとうございます。「お行儀がいいお子さんたちね。何歳?」ありがとうございます。1さい3さい6さいです。「私の孫も、1歳と5歳よ。娘は働いているし、二人を面倒みるので精一杯。 メイドを雇ったとしてもね、わっかい娘さんみたいな外国人だから、頭痛の種よ・・・ あなた、3人の面倒上手にみれて偉いわね。シンガポールには長いの?」2年半です。「これから(3人もつれて、お荷物を持って)どこへ?」家に帰ります。「どこで降りるの?」次の駅で降ります。「そう、一緒ね。それじゃ、荷物降ろすの手伝ってあげるわ。」ありがとうございます。「さっき、運転手さんも、マナーの良い子達だね、って言ってくださっていたわよ。」そうでしたか(中国語だったから分らんかったわ、わたし)。___幼稚園のお迎えをされているというお話好きな女性が、ベビーカーをおろしてくださりもう一方が、二男3歳の手を引いて降りてくださった。お二人とも、60代にお見受けしたがなんとも心あたたまる一時。一緒にいた娘っこはとってもよい子でした。息子二人は、サッカー選手のカードを手になにやらごにょごにょ話していた模様。自宅前に降り立ち、ベビーカーに二男を座らせて帰宅。3人連れて外歩きは(お迎えして帰宅しただけですが・・)、やっぱり大変。でも、こうして声をかけてくださったり、手助けをしてくださったり、子どもたちに怒って「カードしまいなさい!」とか「ちゃんと座りなさい!」とか声を上げていても、優しく見守ってくださったり、「いちばん!」なーんて、日本語で笑って下さったり、、いろいろな方々のストロークがあることで、わたしはこの島での子育てを楽しむことができている、そんな気がする。帰宅と同時に娘っこはお昼前のお休みタイム。荷物を置いて、ランチ、着替え、そしてプールへgo.息子たちがはしゃいで水遊びをしている間に、娘っこのランチ@プールサイド。ふと、左足の中指をみると、そこだけネイルが剥がれている。ネイル?ぺティキュアが剥がれていると思ったら、ちがった。足の爪が半分割れて、上半分が剥がれおちており、出血していた模様(止血済み)。その衝撃で、ネイル(ぺティキュア)は剥がれ落ちたのだろう。そう、帰宅途中で二男の足とベビーカーと私の足が絡まって痛みを感じた。そう、そんなことがあった。でも、だからと言って立ち止まったり、自分の足を覗き込んだりそんな余裕はなかったし、「痛い」という感覚を、「痛み」と捉えたから泣くこともないし、行動を止める理由にもならなかったんだわね・・・。自分が、こんなにも自分の感覚に反応するのが鈍くなっていることに少し、ショック。母は強し。という表現では、終わらせられない。少し反省。足の爪が半分に割れて、血が出て、半分剥がれ落ちたとしても3人の子どもたちを連れて、路線バスに乗り込み大荷物を抱えて帰宅する、女。そうだわね、女性達が言っていたように「シンガポールの女性はこうじゃないわね。」そうかもしれない。シンガポールの女性は、日本の合計特殊出生率より低い数値をたたき出している。共働きの家庭であれば、子育て期には外国人メイドを雇うのが普通。東京23区と同じ広さの国土ですから、結婚して実家を離れたとしても実家はすぐ近く。(最大でも1時間半程度)子育て期の共働き夫婦を、祖父母が全面的に支援している3世代協働生活がふつう。介護ライフの担い手も、もちろん外国人メイドは主役です。シンガポール政府は、家族単位での介護期の協力を推進し、外国人メイドの受け入れも1970年代から推進してきている。産前産後で合計4ヶ月間(昨年までは3ヶ月間)の育児休職期間。産後2日で退院がふうつ。入院中、こちらから赤ちゃんへの授乳の体勢や含ませ方などを尋ねれば、教えてはくれるが、夜勤・日勤などなど、都度都度応えてくださる方は別々だし、教えてくださることなんかも、結構一定ではなかったりする。授乳に関する指導は、1度退院前にビデオ(10分程度)を見て、助産師さん(ラクテーションコンサルタント)が赤ちゃん人形で実演するのみ。私が日本でお産をした時に体験した、「母乳マッサージ」なる助産師さんによる産後の母乳ケアは、ない。2日目からオシモだって自分で消毒だった。0歳児を抱えているときに、何度「まだ母乳上げているの?」と聞かれたことか。いろいろ、違いはあるが、わたしはわたしでやっていこうと思う。子ども3人の傍らで、日本人のわたしが、今この島でしている子育て。シンガポールの人々の温かな手、声かけ、席をさっと譲ってくださる優しさ、そして、毎日のこの灼熱の太陽。皮膚炎治療中の娘っこを抱きかかえ、週末がまたやってくる。わたしは、剥がれた爪の消毒しなくちゃ・・。今からかいな。。。日本のみなさんも、シンガのみなさんも、どうかステキな休日をお過ごしください。(とめどもなく、まとまりもなく、書いてしまいました。最後までお付き合いありがとうございます。)忘れちゃいけないことが1つ。わたし、哺乳類生活卒業できました。2010年10月11日大成功。娘っこ1歳1ヶ月。かわいいまっ盛りです☆母乳をせっせとあげていた自分のこの1年1ヶ月に、心から乾杯。特に何のトラブルもなく、卒業できたみたいです。2ヶ月後、日本に帰国した際にはいつもお世話になっている助産師さんに卒乳後のケアをしていただこうと思っています。ひとつ、育児の、というか 人生の大きなステップを終えた感じがする金曜日の夕方でした。おーしーまい。
2010.10.15
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