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今年はどっちを向いて食べればいいのかと同僚が聞くので「しらねーよ」と答える。恵方巻き@節分の話である。しかしいつからこんなにのり巻物的慣わしが、まるでワケシリの意味ありの歴史調味料ふりかけ味の風習みたいに全国区になったのであろうか。こういうのって社会学の勉強になりそうである。そうして現実のあまりなリアルさ加減に何気なく幻滅していくのが正しき大人への学習というものではないだろうか。社会に適応していくためのソフトな割礼の如くに。であるからもはや社会人としてトウのたち過ぎた私のようなものとしては、そのような背景や薀蓄や伝播意図などは既にどうでもよく、ただ苦手意識のある「太巻きを美しく作る方法」「せめて『巻ける』How to」「具もごはんもバンラバラになって巻き手が癇癪を起こしそうにならないですむエチュード」のようなものをこそ知りたいのである。というか節分は豆だ豆。豆があればよい。それから少し恥ずかしげに、でも結局は徐々に開き直り怒鳴りながら家中に豆を撒きまくるような豪傑が一家にひとりいればよい。なんの話だ。マキモノの話だ。★今年の冬はマキモノを一枚買った。巻物。人間に(首のあたりをメインに)巻き付けるストールである。5年に1回、1枚くらい買う。5年前くらいに買った灰鼠溝色のウールのストールがとっても気に入っていてずっとそればかり使っているのであるが少し気分転換したくて物色していて「おおこれだ!」と思えるものを迷って買った。(↑デッサンとともに写っているもの)大判であたたかくチクチクしないし、ほどほどに鮮やかなところ、大好きな千鳥格子がよいなと思った。大好きなZUCCA。しかしよろこんでこれを巻いているとなにか周囲には不評である。あまつさえ笑われたりする。なんでだよ。「めずらしくイロモノですね。どーかしたんですか」とか「あったかそう! それ炬燵がけですよね?」とか言って寄越す輩までいる。プンプン!ああ。スタイリッシュな人間に買われなくてごめんなさいMYストール。でもいくら似合わなくても大切に使うからね♪あと10年は使う!★巻物と言えば父母がずいぶん昔にロシアに旅行したとき、娘たちに土産としてウールの巻き物を買ってきてくれたことがあった。どれでも好きなのを選びなさいと言われて、「これ!」と躊躇せず真っ直ぐに真っ先に好きなのを選べるのが妹。同時くらいに「じゃあこれあたし」と選ぶのが姉。残された一枚が私のもとに来るので争いというのが起きたことがなかった。たいていそういう場合一番地味なもの無難なものが私のところに来るために父母が「ほんとうにそれでいいの?」と聞いてくることもあるくらいだった。今もそのときのロシアのスカーフは私のもとにある。断言してもよいが姉と妹はたぶんもうそれを保持していないだろう。私は自分のこういうところが嫌いだが、でも少し好きだ。ほんとうは大好きだ。だって自分だから。ちょっと笑ってしまうくらい好きだ。もしこれから自分がどのように変わっていこうともきっと好きだ。いろいろな要素が自分をつくってきた。いろいろな要素につくられないで自分が成立している。ときどきいろんなことがわからなくなるけれども、いろいろな色や波や人や息や、風や種や悪や幸いに、揉まれ巻かれ揺られ逃げながらなんとか人生をゆこうぜ。と思う。あああ。夕寝をしすぎて眠れないから、こんなこと書いてる。ダラダラダラ明日は晴れるのかなあ。おやすみ♪
2009年01月30日
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アボガドを見ていたらきっと脳内がアボガドカラーになるようで、急に立ち上がってワッフルなどを焼く。ワッフルのほうのアボガド色は抹茶だけれど。ちゃんと茶筅で立てて。最近凝っている塩はスペインの塩。これを筒の入れものから掌で多めに受け生地に投入。節操とかもともとないのである。ただただ頭の中のイメージに出会いたいだけ。はやく、はやく。はやく。そうして焼きあがったうすら緑ワッフル。これをアボガドと蜂蜜とクリームチーズでいただく。いっただっきまーす♪食べてみたら微妙においしかったです。(微妙にって)★つまらない小さいことほどすぐに実行したくてたまらない。つまらなくて小さいことしか自分は実行できない。大きくて大切なことはちっとも決断できない。もしかしたら大きすぎたらそのことに気付けない。掌で受け止められる塩ほどの、そのくらいの辛さしか。
2009年01月30日
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嵐のようなインフルエンザ嵐が(嵐重複)まだまだまだまだ職場陣中渦中人を順繰りに入れ替えながら続いておりますが、わたしは大丈夫。ご心配くださったみなさま、あぼがどう♪(←ありがとう。ウワ、友だちなくす)しかしわたくしインフルエンザではなかったわけですから、これから渦中の人になるかもしれません。いえ、ならぬほうがオカシイかと思われるほどでございますけれど。もう腹を括っているのでよござんす。皆様お気をつけ下さいませ。退治するよりはともに生きていくほうを選ばざるを得ないのでしょうねこれからは。できるだけのことをしておのれを鍛えておきながら。それはインフルエンザに限らぬお話でございましょうし、それはもう寓話とも思えませぬ。★昨夜は山田太一『ありふれた奇跡』を見ました。風間杜夫がよいのはもうわたしの中ではアキラカすぎるほどですけれども(もはや風間杜夫が登場する場面では反射的に笑ってしまうくらいです)アンパンマン戸田恵子もよかったです。というかそのシチュエーションがとても良かった。ちょっと芝居自体はわざとらしすぎる感じがしましたけれど、その普通にエキセントリックな部分が実はよかったのかなという気もしたりして。人が消費の地平から「ものをつくる」という裾野に踏み込んだときに立つ場所やそこに立ったものに許される渇望のようなものをとても惨めに激しく示していてそれが恋情に勝っているところがとても良かったと思います。さすが山田太一。恋情の力なんてしょせんそんなもんだよねー。と思いながら書いているので主役の2人の恋がなにかどこかおかしいのでしょう。主役男がじつはこう見えて壁塗ってるだけじゃなくて、すばらしくダンス上手だった! 鬼の肉体だった! すげー。・・・とかいう展開にしないところが山田太一なのでしょう。意外性などというのは尖出させなくてもいたるところに見たい人には見えるのだから。主役の2人はまあおいておくにしても(おいておくのか)見るべき面白いドラマになってまいりました。特に曲者親爺ふたり(風間杜夫アンド岸辺一徳)の曲者的関わりに期待。縦線横線がどれほどクールに絡んでいくのか、わくわくしながら次週を待つことにいたします。ワクワク山田太一さま、あぼがどう~♪(まだいうか)
2009年01月30日
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みずまくら。みずまくら。それが必要なような事態に陥っていました。ウイルス(イ)は検出されなかったのですが、なんとなくそれっぽい。でもウイルスは検出されなかった。なぜだろう。いや「君は違うよ。目を見ればわかる」って言うんだもんドクター。それでそもそもウイルス検査してもらえなかったのでござるよ。本当に目を見てわかったのか。しかしどんなことも峠を越えるのである。越えぬ場合もあるのかもしれないけれども、確かに。でものぼりつづけるわけにはいかないよ。だからもう天城越えは終わりだ。(伊豆なのか)復活です。みずまくらみずまくら。よく見ると表面に図柄がデザインされている。ううむ。綺麗だ。何年も使っているのに気がつかなかった。鶴と亀じゃないか。水枕につるとかめ。なにかふしぎな気持ちになる。病気になると気持ちが弱くなって、たとえば自分の小さかったときのことなどをすこし思い出す。休んでいるとき友だちからメールがきてそこに「ビョウキのときに母さんが作ってくれたお粥って、特別」というようなことが書かれていた。ああ。どうだったんだろう。小さいときの病気のとき。なんだか心のやわらかいところを語るようにして、そのことはもし語るのなら語られるのかもしれない。時間と、親と、自分と、それらがどのようにも凭れていたのかというようなこと。小さいときはけっこう熱をよく出していたからうつつのような夢中のようなモウロウのような覚醒のようなそんなどろんとした状態の中でわたしはよく天井や壁や襖やガラス戸の光やそういうものを、そういうもののなかの翳や凹凸ををなにかの形に見立てては時を過ごしていた。同じ染みがさっきはケダモノに見えたのにふと視線を外してまた見たら今度はアフリカみたいに見えるよ。そうするともうどうしてだろうさっきのケダモノが、もうどうしても現れなくなってしまった。みずまくらみずまくら。いつかそんな枕話を、死にそうな色気を交えつつ、どこかで語ろうね。だけど(死にそうな色気ってなんだよ)それは心のやわらかいやわらかいところを掬うことだから、そんなこと滅多にできないんだろうな。復活。
2009年01月28日
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適度以上のストレスは良くないとわかっていても、ストレスの適度ということがわからぬ。以前聞いたことがある。「好きなものを食べる」ということが脳疲労などの症状を緩和すると。そういう食餌療法があるらしいこと。節食や禁忌やなにかへの畏れが自分を苦しめているとき、「好きな食べもの」がそのことをすこし癒す。癒されることで生まれる許しのようなものが自分の肉体を修繕していくと。好きなことがあるのは幸福だ。それが金になってもならなくても。喰うことを「あれ?」「忘れてた!」とふと気付くくらいに好きなこと。没頭できること。流れる時間を感じないくらいに、そのことをしている自分が消えてしまうみたいに、好きで好きでしかたないこと。そうしてその好きにはきっと手放すことを抗えぬほどの苦しみが含まれていて、苦しいけれどもだからこそ立ち向かってしまえるほどの魅力を、その好きなことは含んでいるのだ。好きなことがあるのは幸福だ。ええ。そんなことが好きなの。意味わかんない。ばかじゃないの。などとどれだけ他者に言われても、おのれすらそう感じても、好きなことは生きる活力。わたしはね。なにかを作りだしているときがいちばんすき。伸びずに認められずに稼げずに苦しくてもすき。この喜びを見逃さぬ自分でよかった。この自分を逃さぬ苦しみが世のなかにあってよかった。好きなことが嫌いを凌駕する。時間を惜しいと感じさせる。好きなことが呪いを稀釈する。生まれてこれてよかったなあ。それは自他への祝福。世界への架橋。邂逅へのKiss。濃厚な恋情。濃密な静寂。描くぞ書くぞ作るぞ。そして歌う。描くぞ書くぞ作るぞ。そして歌う。描くぞ書くぞ作るぞ。そして歌う。
2009年01月24日
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残り物を入れておいて冷蔵や冷凍や、そののち解凍や摂取など、そういうときに用いる台所の友だち、耐熱容器。ずいぶん便利に使っていて少し買い足したくなっていたことを、あるショップで見たときに電光のように思い出した。少し迷ってすぐに買った。岩城硝子の製品で、今使っていて、20年くらい使っていて、それでもビクトモしない製品であることはわかっている。そこに店で見たのにはかわいいイラストが配されている。きのこ。はりねずみ。鹿。栗鼠。小鳥。メルヘンは大嫌いなのだが(と言っておくところが心理の鍔打ち)これは機能面に加えて「なごみ~」のプラスアルファがここちよいと思えた。もともとこのデザイナーのイラストは大好きであるが、この「きのこシリーズ」は特に可愛らしいと思えた。これが冷蔵庫に並んでいたらその一瞬だけちょっと自分はうれしいんじゃないかな。そのくらい自分は愚かなのだ子どもなのだ刹那でも癒されたいのださみしいのだと思いながら買った。こんなことに理屈はいらないや。こんなことに言い訳もいらないや。ほんとはね。だが「何かを買う」ということは自分の征服感を満たすことだよ。そのことは自分の中である意味恥ずかしさを伴う行為だ。だから理由をもしも思いつくなら思いついておいたほうが、自分にはそのほうがしっくりくるのだ。それだけだ。大切に使おう。もちろん今まで使っている貫禄傷の多少あるシンプルな透明容器とともに。★来年から副代表として仕事を引き継ぐ某協会の総会。あらかじめ会員に配られていたのが今年度の理事たちが出してきた総会資料で、そこに記されているのは今年度の実績と来年の計画とさまざまな費用の問題等である。その承認に際して処処説明と質疑応答の場が設けられる。もちろんそこに出席できないものについては委任状を託されて会が開かれている。しかしまあ。質疑応答時間のむなしさよ。質疑というのは質問で、応答というのは応答じゃないのか。質疑ではない「これは自分の意見なんですけど」の多さよ。自分の意見を語れる雰囲気というのは恐慌していない長閑さで悪くない。しかし各自が抱えたそれぞれの価値観を、狂ったように話す場所かここは。たとえば理事役員に対する報酬案が今年は議題として取り上げられた。「役員に3万円なんてそんなの雀の涙過ぎると俺は思う」「そんなことはない。大金だ。ないのとあるのとではきっとまるで士気が違うはず」「役員の負荷を考えたら安すぎるくらいだ」「なぜ役員だけなのか。ささえているのは会員全部なのではないか」「役員の中にもナンダカンダ言って出席しないのもいるのに」「報酬を出すほどの仕事だろうか疑問だ」「だが、なり手のいない苦しい難しい立場の仕事であることは疑えないと思うが」「だから毎年役員決めでもめるし結局くじ引きになっているのが現実だろう」「3万円の人参ぶら下げられたら逆に引き受け側はきまずくないだろうか」「なぜ3万円なんだ。根拠は」「役員の手間や鼓舞のために必要なのは『金』でなく『気持ち』だろう」「金を払うなんてのはむしろ下品で失礼なのではないかと思われ」「いちどそんなこと決めたら役員がもっともっとと要求したくなる可能性が高い」「しかしこのままでは会の存続が」「このご時世なのだから金は将来の為に使うべきで個人に分配するのはいかがなものか」「来年度の役員から貰えるってのはどうなんだ。今までの役員にも遡って支給しろ」「だとしたら俺にだって貰う権利はある」「俺にも」「わたしにも」どうして金銭が絡むとひとはこのように荒ぶるのであろうか。私はこの提案が通れば3万円をもらえる立場であるので当然この案に賛成したけれど、次期理事長も賛成したけれど、もひとりの三役である書記は反対していた。会員の感情を逆なでしたくないからということがその理由であった。ふうん。結局この今期の方たちの愛で提示された「自分たちは貰わないけれど」「この会の指導者の大変さへ少しでもモチベーションの高揚性を差し上げたい」「そうしてこの裾がすぼまってゆきそうな会の保持や発展へ」「なにかの弾みがついたら」ということが唯一の願いであったこの議案は、否決されてしまったのである。委任状を足せば通る賛成の数ではあったのだが「コノ提案がこんなに物議をかもすとは」「予想していませんでした」と今期の理事たちは少しかなしく絶望して、この議案を「再検討事項」として取り下げてしまった。★耐熱容器にも耐熱限度は、あるよ。来年のこの仕事のことが不安だが、でも人間のある部分を見た気もしていて、逆に少し燃えてくるような気もするんだ。なんとかなるだろう。きっとね。
2009年01月24日
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海の近いこの町ではもう梅が咲いています。うわわわわ。と心で思いながら急いで近寄ってしまいました。一枝手折って、部屋のキャビネットの上にあるお母さんの写真にその近くに飾りたいな見せてあげたいなと思いましたけれどそういうのってカッコつけちゃって言っちゃうとあなたやわたしのポリシーになんとなく合わない気がして写真だけ撮りました。花。といえば、故郷では五月の連休の頃まで桜が咲いていましたね。あの春日山の境内で地元民謡婦人会メンバーとして着物着て花見の群れの中心で踊っていたあなたを思い出します。先頭を臆するおばちゃんの多い中、いつもあなたが最終的には先陣を切り踊り手をひき連れ舞台にいちばん最初に繰り出していた。そういうところ、好きでした。おかあさん。今日はわたし買い物に行きました。珍しいでしょう衣類だけを買いに行ったの。友だちにひとり、どういう嗜好なのだか自分の洋服の値段を他者に当てさせるのが好きな人がいて、その人とのやり取りの中でまあウケルというか割と驚きとともに語られる店があるのです。そちらにもあったかもしれないけど、シマムラ。初めてそこに行ってみました。安いです。途中で選ぶのに飽いてしまうほどでしたがなんとか買い物を実行できました。忘れないうちに書いておきます。あたしメモリー。えーと、シンプルなハイネックコットンカットソー 約400円袖部分が昔女子高生のルーズソックスみたいになってるカットソー 約800円ハイネックセーター 約1500円まるでルコックには似ていないリアル鶏の絵のついたチキンジャージ 約1000円タータンチェックのネルシャツ 約1000円カンディンスキーをやや激しく巣鴨っぽくした柄のマキシスカート 約1000円ユーズド加工なのか不良品なのかわからない超皺皺のブーツカットジーンズ 約1000円靴下は嫌いだけれど流石に冬は履くニーソックス 280円 2足パンツと腹巻がいっしょになってる可笑し便利な履物下着 約800円どうですすごいでしょう。一所懸命選んだ両手に抱えるくらいの衣服よ。もうとうぶん洋服イラナイや。冬物。全部で8000円くらいしました。家に帰ったらひとりファッションショーです。なんとなくひとりでに笑えてしまうの。おかあさん。あのそのこのわたしの選ぶ品々は相変わらず、みんな黒や灰や墨茶色ばかりです。冒険してもせいぜい紫灰緑臙脂。この墨女はいつになったら弾けることができるのかしら。いえ。弾けようなんてもともと思っていませんでした。自分ははじけたりしない。わたしのなかにある墨袋は漆黒の墨を吐くことのできる大事な宝物よ。わたしはその宝物を守る器よ。何の話だったでしょう。ああ洋服? ちゃんと箪笥に入れました。出しっぱなしをもう叱られない。だけどやっぱり服飾にはほとんど興味ないな。でも今日はせっかくだからがんばって書いておく。引きずり出して書いておく。裸で生きてるわけじゃない。ええと、ええと。そうだそうそうそう、わたしは結構背も高いし骨が多くてしっかりした体でしょう。だから、自分で言うのもなんだけど洋服が似合うのです、着物よりは絶対。だからどんな洋服を着てもそこそこ大丈夫。きっと恥ずかしいことはないから大丈夫。例えば今日買った1000円の洋服を着てもわたしが着ればそれは周囲には3000円くらいには見えるらしいの。すごいでしょう3倍よ。えっへんへん。でも1万円の洋服を着ても3000円に見えるらしいところがちょっとどうなのかなって思うのだ。アハハおかあさんの箪笥からきょうだいで分け貰ってきた洋服や着物もね、きっとみんな大事にしていると思う。姉さんもおかあさんの緑のツイードコート着てる写真を「ブログ」っていうコンピュータでみる日記(こんな認識で大丈夫なのか)にいつだったかなアップしていました。姉さん綺麗で色白でしょうとってもそれが似合っていた。とてもいい笑顔でね。妹は洋服は要らないからってアクセサリー類を貰っていったっけなあ。きっとお洒落な彼女はちゃんと使ってると思う。磨いていると思う。わたしが貰った水玉のワンピース、鳥模様のワンピース、ちょっとわたしの身長には着丈が短いんだけど下にジーパンとか履いちゃって季節を問わず(問わないのか)大切に着ています。大切に大切に、着ています。値段とかかっこよさとか、わたしには結局どうでもいいのかなあ。手の届く幸福と、どこかに記憶として刻める鍵があればそれがいちばんすてき。おかあさんへ。今日はこどもみたいに手紙を書いてみました。ブログだけど。まだインフルエンザには罹っていないみたいです私。今日は寒いみたいなぬるいみたいないちにちでした。今日は梅の花を見ました。もう2009年なんだって。時がはやいなあ。春も近いなあ。さて眠るとします。グンナイ!
2009年01月23日
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嵐のように職場ではインフル円座が流行っている。円座。みんなで輪になってインフルを語ろうよ。(違う)伝わる症状は意外に多様である。高熱を伴うものとそうでないもの。私もこのところ密着するように接してきた近場の者たちがつぎつぎと斃れていくのを見てきているので覚悟はしている。ああ厭だなあとやはり思う(びびる)けれども状況がこうなっている以上もはやじたばたしてもしかたないであろう。どんとこいや!おれさまのからだは今ウイルスと闘っているのかもしれない。だったら応援応戦参戦するのみである。畏れていたら抵抗力も落ちるというもの。私はすぐに腹を括るタイプである。(だけどバンデミックはこわいよな)(だけど覚悟していたら不意打ちよりは)(防波堤になれる余地を)(みつけられるしそうであれば私はきっとそうすることができるだろう)あ。予防接種はしていないのである。年末の数千円が惜しかったのである。数千円。正確には三千円である。トホホ豪語しても情けないのだ。★『ありふれた奇蹟』を見る。独特の台詞山田回しにも、言っていいかな、まるでこっちが慣れてきて、それを日常でパロディのようにして、まるでわかったみたいにしてそう、なかったことにはできない。きゅうにとってつけたみたいに、こみあげるみたいに使えるくらいだ。だからって誰にも気付いてもらえぬけれども。(ううん。無視されているだけ)映画『蒲田行進曲』のときから「うまいなー」と長年思っている風間杜夫がとても面白くて、その役者の出てくるシーンがとてもすきかな。自分勝手な役というのも、そんがい技のいるもので、他者の言葉を敢えて聞かない。面倒なほうに行かない。思い込みの表面だけで綻びを繕えるならそれで上等じゃない。そんな勘だけを働かせていきていくようなところ、いいじゃない。そう、それにねあんがい自分勝手ということが周囲を許したり和ませたりどこかほっとさせたりするところ、誰にだってないわけじゃない。そういうの、ありだと思う。というかそんなやさしい肯定が露骨に描かれている視点が、すきかもしれないな。あ。そんなふうにおもうのが、てんでわからずやみたいだしこどもっぽいのかな。どうかな。あ。うふふ。ずるい。わたしばっかりしゃべってる。そっちのことも。教えて。★なんとなくつまらないことに心が配られ砕かれ、大切なことをどんどん先延ばしにしているようだ。今の私は。厭で面倒なことほど早く済ましてしまわなくてはならない。どうせ逃げることなどできないのである。ああ。いやだ。でも、したくない。でも。しなければしなければ。先の自分は今の自分のこの躊躇を、もしそれが「しない」ということを選んだとしたら、もっとずっと激しく後悔するであろう。ああ。なぜそのときに「する」という選択をしなかったのかと。ただ逃げているだけでさらに後手後手の無効な穴熊に自分の愚かさを秘匿していただけではなかったかと。しかもそれは最低の悪手で、結局苦く負けるのであるのに。とか言っていないで決断しよう。イエス、アイ キャン! 寒風に飛び出せ。荷物は軽いぞ空っぽだ。しかしそれを必ず携えていけ。あああああ。ああああああ。ストーブの灯油が切れたのである。外まで行かなきゃ補充しに。やだよー。寒いよー。
2009年01月22日
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昨日買ったケーキレシピの本の中から自宅にあるもので出来るケーキを焼いてみた。夜中に台所をガシャガシャいわせて焼いてみた。「ウインター・ジンジャー・ケーキ」寒い冬に相応しい、体を温めてくれる生姜とはちみつたっぷりのケーキである。「こんなに?」と思うほど生姜を入れるので作りながらも驚く。(夜中に)ジンジャーでないジンジョーである。あ。尋常でないジンジャーである。(・・・。すべったかよ)しかし焼いている間ほかろりんとオーブンから漏れ広がり続ける蜂蜜の香りが、それは冬深夜に相応しいのかどうなのかわからない。けれどうれしかった。何かをしようと思うときにそれをできる幸福。大袈裟だけれど女なんてそんなもんよ。おいしかった。生姜の嫌いな方は少し分量を控えたほうがよいかもしれません。あ。嫌いな方はそもそもこんなの焼くわけないかしら。わたしはジンジャーでないジンジョーフェチであるので(まだ言うかよ)とてもおいしゅうございました。ほかほか。うふふ。(夜中に)あーあ。だけど今日くらいはさすがにアメリカのことを書くべきだったかもしれないのにこんなくだらないことしか記せぬ。だってさ、よくわかんないんだもん。英語もわかんないし、かの選ばれし人のスピーチの魅力もその国のこともよくわかんない。日本のことも自分のことも、わかんないんだぜ?だからこそだからこそって、みじかくみじかく泳いでいるんだぜ。せっまいところで泳いでいるんだぜ。ぱくぱくぱくぱく小さくコキュウしながらね。いそがしくいそがしくすぐにターンだ転回だ。そうしているうちになにかの流れがどこかの鱗に刻まれやしないか。願う。憧れる。うん。でもきっと無理だから、また泳ぐ。あいたいなあ。あなたに。なにかに。
2009年01月21日
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喫茶店でほんとうにひさしぶりに「クリームソーダ」を頼んだ。記憶の幕に映っているままのような緑色に固めのへんてつのないバニラアイス。しゃくっと掬われて島のように緑泡海に落とされた半球。ストローでしゃくしゅくいじるうちに沸き起こる緑白の波。おとととととか言いながら飲むし食べるし。なつかしい味がした。そのせいか夢を見た。単純すぎるだろうそこは島。おそろしいことが起きそうなのにちっとも起きなくて、島の住民はハンググライダーで移動している。下りるのはいいけど上るときどーすんだよーと夢の中でもなんとなく理屈っぽいことを考えながら足元の緑を蹴り風に乗る自分。気分がよいじゃないかよ。しかし飛びながら虹を見て、虹を見ながら島の外の世界のことを考えている。だいたいここが島だってことドウシテ知ってシマったか。そのようなゆめ。夢の自分がなにか下らぬ事を考えるたびに、島の土がぼこぼこと火山岩のように荒い、スポンジのように脆い、のろのろとした固形に変成していく。シマの老人婆アがいつも言うんだ。ほらまたオマエ、ヨ コ シ マ ナ コ ト を今、考えているのだろう? っ て。★気を取り直して、ドラマの話など。瑛太が見たくて『ボイス』を見た。ショック!役者を殺すのも生かすのも脚本だね。と思う。先週の話は見なかったのだけれども、今週のは。クレーマークレーマー? は?まさかフレンチトーストじゃないよねと思っていたらまんまソウジャン。ある意味驚き申したでござる。★先週買った本。表紙に惹かれて買ったのだが、「塩ケーキ」というのがすてき。(私の故郷には「塩羊羹」というのがあるのだ)その塩バターケーキもユニークですばらしいが面白さはそれに限らない。「いちじくと黒ビールのケーキ」とか赤いカイエンヌを振り掛けた「メキシカン・スパイシー・チョコレートケーキ」ゴボウの入った「バードック・マルサラ・ケーキ」まっくろくろの「セサミとベリーのケーキ」などなど「うへ。どんな味なんだろう」と想像味蕾を空想刺激されるような面白レシピがおもしろい。経験脳野の中に蓄積の埃が積もっていて、想像することがやすくできるあたたかいものも安心感があってなつかしくすてきだけれども、そうでないものにもまだまだ出会いたい。まだまだへなへなと、あまくあまく、軽率に、うかうかと浮かれながら、ちがう島のことを考えていたい。
2009年01月19日
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昨夜は新年会。地元中年女5人チームである。ひさしぶりのナマチューはおいしいねえ。五人のうちひとりは下戸であるのでウーロン茶である。ちょっとかわいそう。(でも飲ませたりしたらもっとかわいそう)彼女からしたら飲む人は肝臓壊すからかわいそうなのだそうである。気を使って言っているのである。われわれとて肝臓など壊すほどは飲めないのである。肝臓壊すのはいかんぞう。(ひっ)ひととおり近況などを言い合って、ひとりが優待的特割引券持っているからとばんばん食べ物飲み物を頼み、私はやはりあまり自分の抱えていることなどを話せないのだがそれでもじゅうぶんに騒いで楽しい。春になったら温泉にいこうよとみんなが言ってくれる。言葉にしなくても私の暗がりが彼女たちには見えるようなのだ。(私はどうにも絶対に現実逃避できない、現実だけで出来上がっているような)(人間である)(が)(だからこそ現実逃避ということにひどく)(焦がれ)(憧れだけを募らせることができる)(のだ)(。しょーもない)さて、ひとりがトイレに行ってちっとも戻ってこないので立ちやすい席だった私が様子を見に行く。ドアをノックして「どうした?」と声を掛けると「やばいやばい」と声がする。え?「具合わるいの」と聞くと「ちがう」と言う。ドアを開けてもらうと、便器に便が詰まっているのである。超恥ずかしそうな彼女。どんだけ出したんだよ。店員の方を呼びに行き、クールな女店員さまにボコボッコとあの棒の先に吸盤がついた便利でやや原始的な道具でそれを解消してもらう。よかった!それからなにごともなかったようにまた新年会は続く。しかしひとりが彼女の妹の話をしているなかで少し酔いの覚めるような話があった。話し出した彼女の妹さんの話である。持病があり、尚且つ血液型がやや特殊ケースであったため、出産までには非常にデリケートな配慮と管理が必要であり少し長く入院したがこのたび母子健康で出産♪ ということになったという話。話の中で、「やや特殊」だという妹さんの血液型がAB型RH(-)だと知る。姉の彼女はO型(+)。姉妹の母親がB型(-)だそうである。姉妹の父親がO型(+)だそうである。ん?一瞬だけ私と目が合った対面のもうひとりが、私と同じことを思っただろうとすぐにわかった。「お父さん、O型なの?」というひとつだけの質問に彼女が「ペースメーカー入れてるからね。Oダヨ」と言う。彼女の母親は一昨年手術をしていてB型だということはそのとき聞いていた。たしかに周囲の人を巻き込んでとても明るいB型母ちゃんなのだ。その家族のなかで妹さんがAB型だということに家族の誰も一瞬も「ん?」と思ったことはないようである。まあ輸血や諸事情などでそういうこともあるのかな。と思えばそうだし、妹さんの関わった医療従事者から慮りがあったのかもしれないし、未熟な知識や一瞬の猜疑や(まして好奇心などで)なにかを追求することは誰も幸福にはしない。すくなくともそんなことをできるばしょはここじゃない。私は「知る」ということを重要視してしまうほうで(そのくせモノを知らない)知ることは人間を幸福にするのだと思いたがっているがそんなの自分の勝手な憧れ・願望・信条である。他者にそのことを強いるつもりはない。なにより自分はこのようなデリケートな導火線になにかを燻らせたり導火線の存在を悟らせたり、よしや着火する役割をになう器じゃない。少しドキドキしながら血液型の話が続くけれど、本が売れたよね。とか。そうだ。宴会のなかのゴタ話は浮き羽のように流してしまうべきだ。もしくは先端に吸盤がついたなにかでむりやり処理してしまえよ。だってまるで人生だって恥ずかしい泡沫のようなものなんだからさ。女たちは酔っ払っていて、ひとりは烏龍茶でハイテンションで、だけど別れるときに「つぎは温泉ね~」「はやく春が来ないかなあ」と言うことを忘れない。ぶるぶると乾いた冷気が肌にしのびこむ寒い深夜だったけれども、じゅうぶんに楽しい新年会であった。どっとはらい。
2009年01月18日
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石垣にトカゲをみつけたとき、あ、と思って足が止まった。相手も生き物なので気配を感じて動きが止まった。トカゲ大好きだ。思わず近寄る。ちょっと待っていてくだされよとか思いながら写真。一枚撮り携帯がドガシュなどと濁り鳴ってもトカゲは動かない。美しい鋼青の尾の色。何度それは切れて体を救ったのだろう。しばらく眺めて、ありがとう。のぼれ。と心で思うと、そんなことわかっています。言わんばかりに蜥蜴は石垣をちるちるとのぼっていった。のぼれ。のぼれ。君は大丈夫。
2009年01月17日
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新聞を読んでいたら面白い記事があった。英国ケンブリッジ大学の調査による「敏腕トレーダーと薬指の秘密」(←これはわたくしが付したものであります)記事によると「証券売買のトレーダーは薬指の長い人が向いている。稼げる」ということである。ふーん。大学の研究チームが調べたところによると、薬指が相対的に長い人グループ(人差し指が薬指の93パーセントの長さであるグループ)と短い人グループ(人差し指が薬指の99パーセント)との収益差は年間60万ポンド(7800万円! うげ!)以上だということである。ドンナセカイダヨどうしてかというとよくわからないのだが薬指が長いというのは、その人間が胎児であるときに男性ホルモンアンドロゲンに強く支配されたことを示す証左であるらしい。そうであると生殖器や手足の成長が促され薬指が長くなるということである。そして性格的にも自信やリスク指向性、ネバリ強さなどの資質を持ちやすいという。へえ。と思い自分も物差しを持ち出して自身の指の長さを測ってみた。ヒマてのひら側から(指の付け根の皺中央から指先まで)測ってみる。人差し指が7.3センチ。薬指が7.8センチである。計算すると(とうぜん電卓を持ち出す←この時点でトレーダー無理かも)へえ。人差し指は薬指の93.59パーセントくらいだ。微妙。っていうか薬指長いじゃん!あたし。男性ホルモンかよっ!よく記事を読むとこの調査の被験者は「ロンドンの金融街シティーで」「短期取引を専門とする」「男性トレーダー44人」だそうである。なんだ男性だけかよ。ていうか44人かよっ!★テレビドラマ山田太一脚本の『ありふれた奇跡』二話目を見た。うわー。仲間さんがすごい。「あたし、多少変かな」「どこかおかしいかな」「子どもっぽい?」と訊いて来る問いに対して「変です!」「おかしいです!」「子どもっぽいです!」とテレビに向かって答えている私もどうかと思いました。
2009年01月15日
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職場に獅子が来た。舞いに来た。獅子舞である。郷土の獅子舞保存会の方々である。小学生たちとその獅子二頭を囲んだ。楽しかった。凄かった。小学生なんて馬鹿なものだから、あの獅子舞の濃厚ギョロ目顔を見た途端、奴等、その場所にいる某一名の眉の濃いモジャヘアの大人の名を連呼し「似てる~○○○○(<実名)に、似てる~。きゃはははは!」などと言うのである。というか大騒ぎである。ウアそれがそう言われるとほんとに似ているものだから観客的大人のこちらは(獅子とて)どうにもバツが悪い。○○○○さん獅子と仲間になっていっしょに踊っちゃってくださいよカブリモノいらないし♪とも言えないよなあ。ひたすら笑うのをこらえていたりするそれが大人のタチイチよ。(ちょっとかなり笑っちゃったけど)しかしただ足しか見えぬ舞い手にしても、本物を見るとその足の表情付けだけでもかなり舞い手によって違うものだ。それはシリアスめいた獅子の足だったり、ほんとうに軽快でヒョウキンな足だったり。前足と後足のコンビネーションというようなものの微妙なリズム感も興味深い。たとえそれがちぐはぐな感じであっても、それが1頭の獅子の味のように見えたりもするのだ。きっと生き物というのはそういうものなのだろう。話が跳び舞うようだが。バランスが均等にとれているものが必ずよいとは限らぬ。獅子ががぶりがぶりと小学生の頭頭に齧り付くクライマックスではやはり泣き亡者出現。しかし大丈夫大丈夫。そこで泣いておくことが後々思い出になるよ。もしかしたらトラウマになるよ。(シシだけど)(おいおい)(ぎゅっと抱きしめてあげていたから)(きっと大丈夫だと思うのだけれど)最後に獅子が面を取り、顔を見せてくれたとき、そのうちのひとりがすごいイケメンだったのである。小学生のチビギャルたちは馬鹿だから瞬間脳髄反射みたいにきゃあきゃあ言っちゃって、ハアもうたいへん。でもちょこっと演出された慣れハニカミ顔でそれに応えていた獅子舞保存会のイケメンさんも、なんだか悪くなかったなあ。どうやって普段は暮らしているんだ獅子ボーイ。ちょっと質問したくなっちゃったけど。
2009年01月14日
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合唱の練習。終わると月が出ている。しばらく眺めている。昔のように子どもの頃のようにもう月の模様をなにかに見立てることが出来ない。月の模様が見えぬから。子どもの頃は田舎で遊んでばかりいて視力は2.0以上だった。今は乱近老眼まじりのデリケートな瞳さ。いいだろう? ここまで私にいろいろと見せてくれた。見え方が変わっても変わっても、もっとこれからも見たいから、大事にしないと。★さて、合唱の練習。今回は英語の歌。フランス語を歌っているときは「あなたそれじゃまるで英語でしょ」と言われラテン語のときもイタリア語のときも「ったく、英語じゃないんだから」と言われていたのである。で、それじゃあと英語の歌を貰った。歌った。そしたら「あなたそれは・・・」「それは」「やはり英語じゃないでしょ」「それじゃ」「演歌でしょ」そうきたか!まあ日本語しか出来ないです私は。ブツブツトホホしかしこれで「それじゃあ」と演歌を歌ったらいったいどう評価されるんだろう。それじゃラテン語です。とか言われたり?(ないない)★練習が終って月を見上げて帰るとき、「あああ。なんだかなー」とつぶやいてしまう。「なんだかなーって、なによ」でなく「意味ワカラン」でなく「そうだねーなんだかなーだねぇ」と、零れた言葉の意味のわからないままそのときの空気のまま、まるごと詩のような愚かさのまま、そのことを何かの比喩のような曖昧なままでそれぞれの人生にその瞬間だけに重ねてくれる人間を、私は欲しているのだろう。説明が要らない、正しい誤解でなつかしくうれしく、安心のよな靄の中をすこし触れ合いながら歩けるにんげん。★つかれた。寝よう。
2009年01月13日
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今年の初鱗。テレビを見ていたら「テナガザル」が出てきた。それはジャングルで歌う猿だという。高く低く通り何キロ先までも響きわたる声で抑揚をつけリズムを配して歌うサルだという。おお。サルは趣味とか賞賛のために歌うのではなく生きるために歌う。歌うというか発声する。縄張りを確保し家族を守るために歌う。歌えぬサルは長く生きられぬし子孫を残せぬ。だから歌う。その声は響いたほうがよいし遠くまで聞こえれば聞こえるほどよい。ひとつの声だけで可能な限り倍音を生じたほうがよい。さらには個性も表出したほうがよい。ふーん。と思って何気に見ていたのであるが、そのサルの歌う顔を見て愕然。というか驚きというか「はっ!」「えっ!」「おおおおおおおお」という感じ。いろいろなことが氷解していくような。いろいろなことというのはいろいろすぎてここに今は記せないだろうけれど。ずっと言われていた口。声楽の先生から指揮者から、すっとそうしろそうしろと言われていたその口。その口のかたちでテナガサルは歌っていたのであった。
2009年01月12日
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今日は鏡開きだそうである。忘れていたけれど朝のニュースで知った。鏡餅は飾らなかったので普通に角餅を冷凍しておいたのを解凍して使った。今年はもはや故郷の父と義母(←父70代で再婚)が餅などついたりせぬだろうと思っていたのが、恒例のようにして行ったらしくつきたての餅をダンボールに野菜などと詰め合わせて送ってきてくれたのである。ありがたい。それを正月雑煮などで食した後のこったものが冷凍庫に詰め込まれているのだ。小豆も同梱されていた。ありがたいひとつぶひとつぶ。鏡開きの餅は「割ったり」「切ったり」してはならぬものだという。どうしてか知らなかったのだが、ワルキルは戦国時代からの切腹を連想させるために忌まれたそうだ。だから「開く」という言葉を使うというコノ国のその文化。忌みて隠されたものがこのように小さく開かれる。もしやこのように切ないくらい小さく開かれるためにそれは隠されたのかも知れぬ。今は切腹はないけれども(たぶん)餅を切り焼きながら少しだけそのことを考える。痛かったろうし、苦しかったろうし、口惜しかっただろうな、切腹。よい天気だ。
2009年01月11日
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恩師から今年とどいた年賀状は、いつにも増して判文字系である。だいたい師から頂くそれについてが、同期のものと会うときには(あるいは電話で語ると)何かの拍子に話題にのぼる。「お元気そうでなによりだよね」「うん」「ところで、・・・やっぱり読めないんだけど」「・・・うん」というようなどこか微笑ましい、我等だけの符牒のように。そのもう何年も何十年も変わらぬブルーブラックインクで書かれた文字を、だいたい古文書好きな友人たちは読めるのである。もともとヒエログリフだって判読する人たちであるのだから(嘘)。私も書道をやっていたので少しは草書的達筆のことを判ることが出来る。だが今年はその恩師の言葉が読めない。「だいぶ目を弱くしてしまいました」とある。続いて「しかし」とある。その後が読めないのである。「しかしドロドロうぬうぬかんぬんです」。とあるのが「しかし」でつながれたたぶん賀状のメインであるところの一文がわからないのである。とても気になる。だが逆接なのだからきっと「佳きこと」が書かれているのであろう。それを想像して、山間の家で奥様とむつまじく暮らしていらっしゃる姿を想像し、学生時代の我等の馬鹿所業をできるだけ思い出さぬようにして、正月が終っていく。今年はまた同期会ができるといいね。顔を見て話せたら、とっても幸せ。
2009年01月10日
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昨日は楽しみにしていた『ありふれた奇蹟』をテレビで見る。いちばん楽しみにしていたのが脚本。題名からしてすてきだなあと思う。奇蹟ってめずらしいから奇蹟じゃないのか。それをありふれさせてしまうところが大盤振る舞いでとってもすてき。ヒロイン役の仲間由紀恵さんは綺麗だなーと思うけれど好きではないし加瀬亮さんというひともよく知らない。痴漢の映画(←その言い方でいいのか)で主演した人らしい。できればちがう役者でやって欲しかった。と見る前から思っている私のハズレタ感想。うーん。ひとことでいうと、めんどくさい。(おいおいおい)出てくる人たち人たちが他者に対して質問ばかりしている。たいへんにメンドークサイ。うるせえよな感じ。時計をチラ見れば「あ、そういえば仕事、大丈夫ですか」とか訊くし。遠まわし的迂遠な台詞がイライラする。「あ。時計。うわ。もうこんな時間ですもんね!」じゃ駄目なのか。そのくせ親子関係で何かいえば「おまえはそういうところあるもんな」とか「わたしがそんなこといったこと今までにあった?」とかなにか総括的高圧感満載台詞が癇に障ってめんどくさいし、なによりいちど会話を終えて背中を向けてからわざとらしく「あ、そういえば」なんて一番訊きたかった台詞をぶつけてくるところが非常にそらぞらしい。たしかに日常ではそういう手口、使うこともありますけどさー。みんながそれやってたらまどろっこしくてしょーがねー。ほーらね。日本語は最後の最後までちゃんと聞きましょう、みたいな感じ。むかつく。男女が会話に交える「自己イメージ、まちがってますよ」なんてのはある意味口説き文句の定番すぎる定番だろう。しつこくそれが繰り返されることにいらいらする。だけれど、いずれも「これは山田太一さんの脚本なら、あり♪」だと思う。だからこのイライラ感をさらにつのらせるような役者では見る気がしない。ヒロインにはそーだなー『流星の絆』がよかった戸田エリカくらいの現代っ子風情が欲しいし、その相手役にはもっとオタクっぽくて重量感のある、んー。例えば劇団ひとり。(というか加瀬さんって芝居はすごく上手だと思いましたけれども)(どうにも魅力がまるで感じられませんよ。いまのところ)(単に好みの問題か?)陣内孝則さんは非常にいい役者♪ でもこの役を彼のような役者が目をむき出して演じてしまうと「哀切」のようなものよりは「狂気」がにじみすぎて、ストーリーに他意が入り込みすぎてしまう気がする。まだ物語が走り始めた段階でそれはとても邪魔くさい。ここはひとつ阿部寛さんで。(やっぱり好みの問題か?)ということで不満はあるけれども、この「イライラ感」がまずはこのドラマの狙いであるならほんとうにこのドラマはすばらしい滑り出しである。人と人との出会いってやっぱりこういうところから生まれるのかなとか、さっきは貶したけれども↑「ジコイメージ、ちがってますよ」なんて言葉も自分が10代の頃の初対面同士だったらこのようなぎこちなさで交わしたかもしれないノスタルジックな台詞だ。ひと駅分、歩きましょうか。なんていうのもね。来週も見てしまうぞ♪(←けっこう気に入ってるし)
2009年01月09日
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「去年まではあったんだけど」「今年になったらなくなっちゃった」「へえ。そーなんですか。ていうかありましたっけ?」「うわ。あったんだよ? かすかに」「だとしたら今もありますでしょ」「それがないの。ほら」「うーん。なんともいえませんけど」「いえないのかよ」「それはなくなるもんじゃないですよ」「そっかなあ。ないよ? ちょっと人に貸してたりして」「無理でしょ」「このひと月くらいで取り戻したい」「はー。そこまでいったらなくなりませんよそれはその備蓄というか」「まあむしろ損失なんですけどね」「失われたものを求めて。プルースト」「まあ、それは『時』だけどね」「正確を期すのってくだらなくないですか」「ひとによる」「だってあなたふだんあんま正確だったことないじゃないですか」「はあっはっは。・・・なんか微妙に傷つく」「どんどん傷ついたほうがなくなりますよ」「えー。だからなくなっちゃこまるんですってば」「ええー。なくなったほうがイイデスヨ絶対」「あったほうがいいよお」「はあ? 変な人ですね。ないほうがいいですよお」というのが今日の職場の休み時間における「女体に関する腰の話」であった。私は「ウエスト(の、くびれ)」のことを取り上げており、隣の彼女は「ウエスト(周りの、肉)」のことを取り扱っているのである。おもしろいねえ。凹凸。あるのはないことで、ないのはあることだ。人生ってこうだよねえ。(どうだってんだ)嗚呼。会話がチョーくだらないのは今日が暇だったせいである。もしくは私たちの品拙。★今日買った本。(または以前買ったものとその続編)楽しめるといいなあ。っていうか積んでおくのなら煉瓦か金の延べ棒のほうがよい。(後者は無理)
2009年01月08日
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ばばばと見た朝刊に「おかず100選」という記事があってそのレシピが茶碗蒸しだった。つるん。・・・・。・・・・。夕飯はこれに決まり! っと朝から決めて家を出る。七草粥のことは頭からはみ出している。頭の中はつるん。茶碗しでいっぱい。このレシピで驚いたのは茶碗蒸しに「焼いた餅」を入れることである。主食も兼ねてしまおうと私は小躍り。帰宅後。具は「網で焼いたこんがり餅」「ブロッコリー」「しめじ」「かまぼこ」「鶏ささみ」それに茶碗蒸しには絶対絶対外すことのできない「ぎんなん」丁寧に火を調節して蒸し上げる。つるん。うめー。久しぶりにこのようなものをこしらえた。うめー。正月が終る。★仕事が早く上がれる日に早く上がって同僚3人と喫茶店でおしゃべり。なんの拍子かで映画の話になり邦画の話になる。ひとりが話したそれに20代のワカモノ同僚が「なんですかそれ?」と問う。えー知らないのか。と隔世を感じるそれ以上の世代。ああ、これなら知ってるかな。これ。どう?と、その映画の挿入曲を歌う私。タンタンタンタンタン タンタンタンタンタンタン タンタンタンタンタンンッタタンタンタンタン タンタンタンタンタン数小節歌ったところで、今まで微音で低音ジャズが鳴り客のおしゃべりが喧騒みたいに重なっていたその広くない喫茶店全体がシンと静まり返り、おしゃべりしていた人間の視線が渚の舟虫のようにズズズとこちらに集まってきた。うあああ。うあああ?どうしたどうした。居心地わるーい。「うわあ。なに。急に歌い出さないでよ~」と同僚が言い、なんとなく止まった空気がその瞬間動き出したみたいだった。私は歌うのを止めており、静まり返った渦の中へすぐに喧騒の波が戻ってくる。その会話の中に「戦メリ」「センメリ」「ああ」「戦場の」「戦場のメリークリスマス」というその映画名の断片が交じっているのがはっきりと聞こえた。「ってことで、エヘヘ・・・坂本龍一ってすごいね」と言うと20代が「坂本龍一の曲なんですか。聴いたことあるある」と言う。「あなたの歌、歌がすごいんじゃない」ともうひとりが言う。「カンカン響いちゃって」と続けて言う。「うへぇ。っていうか音楽。音楽の力って、やっぱすごいね」と私が言う。言いながらやはりちょっと恥ずかしかったけれども、驚いてものすごく、実は気持ちよかったのである。チョーがつくほど気持ちよかったのである。「戦メリ」。そんな略し方があったっけ。映画のことはほんとうはよく、憶えていない。
2009年01月07日
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久しぶりに正月に買い物をした。少し安くなったところでブーツを買う。ロングブーツってすてきだけど脱ぎ履きが面倒です。短いブーツがもうかなりぐろぐろにへたれているのでショートブーツに決めた。常に黒か焦げ茶を履いているからとどんな気分の持ちようの変わりか淡色のブーツに決めてみた。と言っても買うのに2時間くらい迷った。本屋を廻ったり書店を廻ったり。(おなじだよ)書籍を買うのならあまり迷わない値段であるのに、身に纏う衣服系を買うのに自分はこんなに迷う。幼少の頃から「本は(本だけは)出会ったときにもとめよ」と育てられたからか。うちの親は孔子か老子か。そのかわりのよしか、衣服やお洒落というようなものについて大人になった今でもまるでお金を用いる気にならない。それはなにかや誰かと比較して申しているわけではない。いばっているわけでもない。どちらかというととても恥ずかしい。だって女の子なんだもん。(ボカスカ!)だが迷っている時間こそがやはり勿体無いし、あんまりボロ靴が似合うかわいいアーチンズでもないので心に懸かっていてたぶんあまり余所の人には選ばれないだろうと思われるそれを買った。やっぱり女の子だわ~ん。うん。自分のためだけの買い物がちょっぴりうれしい。それをよろしたのしでにこにこと履いている。すると「新しい靴?」と言われる。そうだ。私の新しい靴はそういうわけで私に買われて私に履かれた。そうして「すっごく男前~な靴」「なにそれ」「カウボーイかと」「30センチの足に見える」「安定感がありすぎるくらいある」と、大好評を博しているのである。
2009年01月06日
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いよいよ仕事始め。思いつくまま。★◎道路は意外に混んでいない。まだ休みのところもあるし学校などは始まっていないからな。うん。◎さっそく早朝からこのクソ忙しいのに地元のゴミ収集場所監視?の仕事。自治会役員なのである。しぶしぶゴミ置き場に停つ。年末年始の収集休みの明けた今日は「待ってました!」的に各家庭から激しくモリモリとゴミが運び出される。家族全員順番にゴミ袋を運んでくるのではないかと思うほど。あれよあれよとゴミの山。自分もたくさん排出したくせにこんなときだけ「エコだ。エコをしろ」と言いたくなり心の中だけでつぶやく。それにしてもこのようにゴミ袋の山の脇にアホヅラして立っております私に対して地元の鴉様どうか襲ってこないで下さい。(前回の当番の頭にカラスが二本足でポンとフェイントかましていった話を聞いていたので)(きっとその父さんの頭がすごいもしゃもしゃだったからだろうという話になったけれど)(茂木健一郎みたいな頭なのである)(でもちょっと笑い話じゃないよね)(カラスに襲われたら負けるよ俺は)(いやだよ)◎さて、職場。大体の人間は体が重そうである。幸せそうでよいぞ。うん。◎地方の土産物が多い。そのほとんどが菓子。さらに平和的丸ぷよ顔になりそうだ。茶を飲みながら(のんきな職場であるいまのところ)その地方地方の話を聞くのもまた楽しい。雪が少なくてスノボがNGだったとか。遠距離の故郷の恋人が知らないうちに婚約してたとか、そんな話が咀嚼される。ぱたぱたぱたとカラクリ屏風のように場面場面が違う語り手を得てつぎつぎに転換されてそれでも話が続いていくのが面白い。◎しかしなんだかんだいっても正月に移動する人は多いのだな。旅行も羨ましいことであるし(特にハワイ!とか沖縄!とか温泉!とか!)帰省にしても「義理もツライッスよ」などと申しつつしかし帰省できる故郷、またはそのような一時的にでも迎えてくれる場所があるというのはたいへん幸福なことであろうと思う。たとえば故郷に戻ってその地の人々に会うだけでも(それは肉親であれば時々かなり面倒くせぇけれども)昔語り今語りができたりし、「帰ってくるやつはいいけど、迎えるコッチの、おかげでどこにも出かけらんねぇ辛さもわかれや?」みたいな愚痴も聞けたり(拝察されたり)する。私は割と閉じやすい人間であるので常日頃同じような環境同じような仕事同じような世代の人間とだけつい固まりがちになるけれども、できるだけ自分とは違う境遇の人たちとよろず話す機会を持つ。そのようなことを今年の自分はできるだけ心掛けようと思う。「できるだけ」というのがミソである。というか春からまた自治体の小規模な会の副理事長である。新しい人間関係がまた始まる。うきうき。しないでもない。◎今年は帰省しなかった(ので私の土産はなし。頂くのみ。わははは)。故郷に集えば私の子どもにはイトコチームが10人。男4人女6人である。いまどき。みんなとてもそれなりに喧嘩しながら非常に仲良しなので、彼らは集まりたかったかもしれないなあと思わぬでもない。これからの未来は血縁関係とかあまり頼めないものになっていくだろうけれども、なにかのときにはイトコたち同士、小さいときみたいに(いっしょに馬鹿言って笑い合えなくても)協力体制を組んで頼りあってゆけたら少しうれしいなと思ったりもする。大人になるとそういう(昔は考えもせずまあ今だってさほどどうってこともないようなものではあるけれど)ネットワークにどのくらい自分が関われるかということでなんとなく自分のたちいちや幸福感の多寡がはかれるような気がしてしまうものだ。◎写真は「残り物の焼きそばを具にして焼いたパン2009初春」である。焼いてる間に口を開いてきたのである。ちょっとシュールでしょ。そうでもない? アレレ◎まあとにかく、今年もがんばるぞー。オウ!
2009年01月05日
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はたはたはたはた。何かがはためき翻る音がする。フラッグ。目指す何かが見えるか未来に立っているか待っているかつかめるか。初詣に行った。思ったよりも混んでいなかった。きちんと足元が見れたし迷える中年になることもなかった。晴れていた。とても晴れていた。よかった。賽銭を投げ込んで祈る。祈った後で玉砂利を踏みながら、ああ。自分は寂しがりだなあと思う。ひとりでは初詣に出かけられぬ。生まれてこのかたいちどもひとりだけで初詣に参ったことがない。ひとりだったら初詣になど行かぬ。行けぬ。初詣は誰かと行くものだ。できれば冷たい手をつないでいくものだ。もしはぐれて迷ったら自分を探してくれる人と行くものだ。だいたい願うことだってそうだろう?自分のことなどあまり願わぬ。願うのは大切な他者のこと。玉砂利を踏みながらそんなことを脳の中で私は言葉に変換している。だから「なに願った?」という質問にすぐに答えられなかった。いや、そうでなくたってそんなこと答えてやらない。帰途途中でたこ焼きを買って食べた。蛸は小さかったけれど幸せ。帰途途中で書店に寄った。ベストセラーを立てかけてディスプレーしてある棚の前に立ったら、何もしていないのにその本たちが前にのめりのめりバタバタバタと床に落ちた。うわ。どうして?悪い瘴気ビームでも出していたのだろうか自分。いそいで本を拾う。一番上に落ちたのがオバマ氏の演説集だったDVDかなにか付属してるやつ。そうか。ウイキャンか。はたはたはたはた。何かがはためき翻る音がする。ああ。未来はどうよ。くだらないことすべてが都合のよいわたしの旗。
2009年01月03日
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箱根駅伝をテレビで見ながら、小豆を煮ております。瀬古解説がいつもながらわりとむかつくので早稲田を応援したくありません。笑小豆のほうは芯がなくなりそろそろ砂糖の入れ時を迎えております。と、友人から携帯にメール。箱根駅伝を沿道で応援しているという。ライヴの画像。青い空。よい今年に、なりますように。がんばれ青学!(ってもう繰り上げてるし)
2009年01月03日
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今日は起きて飲んで寝て飲んで寝て食べて寝て飲んで食べて出して飲んで終っていきます。さきほど湯あがりに体重計に乗ったらおもしろい数字が出ました。間違いではないか急進性老眼ではないかとその数字をなんども見申しました。そうしてもういちど計測してまたおもしろい数値を拝見しました。ぐえ。やーだなー。今回は故郷に帰省しないのでなにかこう開放感のありすぎます新年でございます。うれしい自堕落。ついぞ初売りというものなどに行ったことはございませんけれども(人ごみが大嫌い)セールとか福袋とかそういうものに関わらずとも、明日は少しはお出かけしようかななどと目論んでございます。どこか空いている神社はないですか。初詣のようなものに行こうかと思います。少し自分に負荷をかけるのもよいと思うのです。明日のお天気がよろしかったら着物で行こうかな、と思います。急に思い立ちそれでいそいそと準備などをしております。昼間寝すぎて眠くないのでございます。灰黒鼠地色の格子小紋に、お正月ですからやや華やかな名古屋帯を合わせようかなと思います。緑の帯揚げが欲しいなあ。(ありませんので赤です)準備で潰えて、あるいは二日酔いで、明日はお出かけできないかもしれません。まあそのようなお正月でございます。どっとはらい。
2009年01月01日
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明けましておめでとうございます。本年もそれなりに元気に過ごせますように。新しい年を新しい気持ちでハジメマス。頂いた年賀状にはなんとはなしに昨今の苦さが滲むようなフレーズがところどころでカブいております。相対的なものを余り信じていないのですが、戦争よりはましでしょう。個人的な戦いと、そうでない相克と、乗り越えずともよろしいということにいたしましょう。少しあたためて、向き合って、踏みつけて行くことにいたしましょうよ。明けましておめでとうございます。昨夜からのんだくれ、除夜の鐘の中を眠り、ようやく起きたと思ったらまたお屠蘇で寝かされました。これはすごいな、寝正月。睡眠は大好きだから、大幸福です。これで初夢まで富士山気分でなだれ込むことにいたしましょうよ。ハッピーハピハピニューイヤー。心の渦穴に何かを音立てて注ぎ込め。
2009年01月01日
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