
残り物を夕飯に仕立てるというような主婦の鑑的なものではなくそのまま掃除。
少しずつ少しずつ汚れていく箱は「え」と気づかれるまで汚れてはじめて
掃除されるかわいそうな箱だ。
ところでこの冷蔵庫は家に来てくれて何年になるんだろう。
その歳月をぼんやりと思いながら指先に力を込めて拭き上げる。
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ドーナツ屋のドーナツ、オールドファッション。
久方ぶりに食したらずいぶん食感が記憶と違うものになっている。
まず輪にかけられているグレーズが違う。というかこんなのかけてあったっけ。
それはてらてらとしてやけに蜂蜜の味がする。
ドーナツ本体もさっくりとやわらかい生地になっているが
これは大昔、その店に私が出会ったころ私ももっとずっと若かったころは
もっとずっと「粉!」「小麦粉!」「そして卵水!」という感じの生地組成であったと思う。
「歯にあたって塊でほろりと崩れる」というよりは「噛みついて食いちぎる」
というような(少し大げさだが)しっかりとした硬さであったように思う。
それに齧りついてまずいコーヒーを啜り、どれだけ無駄みたいな長い時間を過ごしたろう。
友人にほったらかされたりしてそれに気づかず(携帯なんかないし)
ずっとずっとずっと待ってたりしてね。
あれこんな時間だねどうしちゃったのかな心配だな、なんてしゅわしゅわしてさオールドファッション
懐かしくて泣けるわ。
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すこしずつ苦手な整理整頓にも取り組み、苦手ながら遅々とそれを進めていこうとしている。
管理できないモノに囲まれることが少し厭になってきた。
モノよりは自由な空間が欲しい。
身の丈ということも考える。
玄関の花も活けかえる。
私の流派は『古流』であるけれども最近友人たちと話すと意外にも結構多くの人間が
華道(やフラワーアレンジメント)を人生で一度は習っていたことがあると知って驚く。
(驚くというか逆に友人たちのほうが「あなたが華道?」「しかも古流?」などと妙に驚くのですけれどどうしてですか)
しかしそんなところが「やけに日本人だなあ」と思えていろいろな意味で興味深い。
(もとより「切り花を愛でること」にはどこか庭園やガーデニングとは多少異なる無常観があると思う)
流派によってその活け方がまるで異なるところもとても面白い。
面倒がらずに精進精進。
活花のある暮らしってなんだかちょっとハイソ(死語?)な感じがしてすてきね。
いいえそんな饐えたような心象だけじゃなくてほんとうに背筋が少し伸びる気がする。
少し人間が綺麗になれる気がする。(錯覚)
さて書籍を処分しながらもまた次次に読みたい本が出てくる。
◎ 薬丸岳 『友罪』 (集英社)
これは東野圭吾の『手紙』(恥ずかしいですけど超大泣きしました)を超えるか?
楽しみに読むといたしましょう。
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