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2017(平成29)年7月21日、作曲家で歌手でもある平尾昌晃さんが、肺炎のため亡くなられました。 今回は、多くの名曲を残された平尾昌晃さんの人生を、歌とともに振り返りたいと思います。 平尾昌晃(ひらお・まさあき)さんは、太平洋戦争開戦直前の1937(昭和12)年12月24日、東京市牛込(現在の東京都新宿区)で生まれました。 終戦直後の小学3年生の時、平尾少年は、アメリカ軍将校からもらったジャズのLPレコードをもらって衝撃を受け、西洋音楽に興味をもつようになりました。 11歳の時には、海岸で行われた「のど自慢大会」に飛び入り出場し、ジャズの名曲「奥様お手をどうぞ」を英語で歌って、鐘三つ(合格?)をもらい、賞品としてスイカをもって帰ったというエピソードが残っています。 若き日の平尾昌晃さんは神奈川県茅ケ崎市に住み、「慶応義塾高校(神奈川県横浜市)」に入学し、歌手の加山雄三さんや俳優の川口浩さん(テレビ朝日系の「水曜スペシャル」の探検隊の川口隊長として有名でした)などと知り合いました。 また、高校在学中に「日本ジャズ学校」に入り、アメリカ軍キャンプのジャズ・ボーカルの試験にも合格しました。 その後、高校を中退し、アメリカ軍キャンプやジャズ喫茶を舞台にバンドで活躍しました。 1957(昭和32)年、平尾さんが19歳の時、ジャズ喫茶「テネシー」で歌っていた昌晃さんは、渡辺プロの渡辺美佐社長と映画監督の井上梅次監督にスカウトされました。 その後、1957(昭和32)年公開の大ヒット映画「嵐を呼ぶ男」(主演・石原裕次郎さん)に出演し、翌1958(昭和33)年には、キングレコードから「リトル・ダーリン」でソロ・デビューしました。 まもなく平尾昌晃さんは、ミッキー・カーチスさんや山下敬次郎さんと「ロカビリー三人男」として人気者になりました。 平尾昌晃さんが歌った曲の中でも特に、1958年発売の「星は何でも知っている」♪(作詞:水島哲、作曲:津々美洋)と、1960年発売の「ミヨちゃん」♪(作詞・作曲 平尾昌晃)は、100万枚を超える大ヒットとなりました。 そして、1960(昭和35)年暮れの「NHK紅白歌合戦」に、平尾昌晃さんは「ミヨちゃん♪」で初出場し、以後、3年連続で紅白出場を果たしました。 それでは、平尾昌晃さんが作詞・作曲をし、自ら歌った「ミヨちゃん」の歌詞を紹介します。♪「ミヨちゃん」(歌・作詞・作曲 平尾昌晃)♪僕のかわいい ミヨちゃんは色が白くて ちっちゃくて前髪たらした かわいい娘あの娘は 高校二年生ちっとも美人じゃないけれどなぜか僕をひきつけるつぶらなひとみに 出会う時なんにもいえない 僕なのさ(中略)いまにみていろ 僕だってすてきなかわいい恋人をきっと見つけて みせるからミヨちゃん それまでサヨウナラサヨウナラ♪<写真 えぼし岩と富士山(神奈川県茅ケ崎市)> 1962(昭和37)年頃には、「ロカビリーブーム」が下火になり、平尾昌晃さんは歌手以外にも、俳優をするようになりました。 しかし、それまでの無理がたたり、肺を悪くしたため、1963(昭和38)年には、慶応病院に入院しました。 ところが、無断外泊をしたり、東京オリンピック(1964年開催)を見にいったりしたので、病気はよくなりませんでした。 さらに、1965(昭和40)年2月、平尾昌晃さんは、ハワイから拳銃を不法で持ちかえった罪で逮捕され、22日間、拘留されました。 このあと、平尾昌晃さんは、茅ケ崎にこもり、皿洗いをしたり、東京オリンピックの売れ残ったグッズを売ったりして生計をたてました。 運よくその頃から、5年ほど前に平尾さんが作った曲「おもいで♪」が、北海道からブレークしました。それを受けて、本人も歌手にカンバックするつもりになっていました。 ところが、肺の病気の悪化もあって、結局、平尾さんは自分で歌うことを断念し、布施明さんに「おもいで」を譲りました。 1966(昭和41)年に、平尾昌晃さっが作曲した「霧の摩周湖」は、布施明さんが歌ってヒットし、1967(昭和42)年の「日本レコード大賞作曲賞」を受賞しました。 ここから、平尾さんは、本格的に作曲家の道を歩もうとします。 ところがそんな折も折、1968(昭和43)年3月に、平尾昌晃さんの肺の病気が悪化して結核になり、長野県岡谷市の「岡谷塩嶺(おかや・えんれい)病院」に入院しました。 そこでは、肋骨6本を取るなど、2回の手術を行いました。 結局、1969(昭和44)年の暮れまで、2年近く、平尾さんは療養生活を余儀なくされました。 しかし、平尾昌晃さんは、「この経験が、その後の音楽活動の原点となった」と語っています。 その言葉どおり、1970年代に入ると、平尾昌晃さんの作曲活動は充実の一途をたどります。 1971年から1973年に作曲した、主な作品を紹介します。・1971(昭和46)年 五木ひろしさん「よこはま・たそがれ」、小柳ルミ子さん「私の城下町」・1972(昭和47)年 小柳ルミ子さん「瀬戸の花嫁」<日本歌謡大賞を受賞> 天地真理さん「二人の日曜日」・1973(昭和48)年 アグネス・チャンさん「草原の輝き」 五木ひろしさん「夜空」<日本レコード大賞受賞> 平尾さんはほかにも、伊東ゆかりさん、沢田研二さんなど、多くの人気歌手の歌を作曲しました。 それでは、これらの中から、日本歌謡大賞を受賞し、2017年10月30日の平尾昌晃さんの葬儀でも歌われた、「瀬戸の花嫁♪」の歌詞を紹介します。 この曲は、「私は嫁にいかずに、歌と結婚します。」という小柳ルミ子さんの言葉に、「それなら、歌の中で嫁に行かせてあげるよ。」と平尾昌晃さんが応え、広島県尾道市から四国へ行く「フェリーの風景」をイメージして、作った曲だと言われています。♪「瀬戸の花嫁」(作詞・山上路夫、作曲・平尾昌晃、歌・小柳ルミ子)♪瀬戸は日暮れて 夕波小波あなたの島へ お嫁にゆくの若いと誰もが 心配するけれど愛があるから 大丈夫なのだんだん畑と さよならするのよ幼い弟 行くなと泣いた男だったら 泣いたりせずに父さん母さん 大事にしてね♪<写真:瀬戸内海の夕焼け(広島県尾道市)> 1974(昭和49)年、平尾昌晃さんは、「平尾昌晃音楽学校(のちの「平尾昌晃ミュージックスクール<HMS>)」を設立し、東京本校のほか、札幌、名古屋、大阪、福岡などにも地方校をおき、若手歌手の育成に力を入れました。 HMSからは、狩人、石野真子、松田聖子、森口博子、倖田來未、後藤真希など、多くの若い人材が育っています。 また、この学校の生徒の一人だった畑中葉子さんと平尾昌晃さんがデュエットした「カナダからの手紙」が、1978(昭和53)年に大ヒットし、この年の紅白歌合戦に、平尾昌晃さんは16年ぶり4回目の出場を決めています。 1980年代には、平尾昌晃さんは、NHKの若者向け歌番組「レッツゴーヤング」の司会も務めています。 ほかにも、香港の歌手だったアグネス・チャンさんが日本デビューをするきっかけを作ったり、テレビドラマの「必殺シリーズ」や「熱中時代」、アニメ「銀河鉄道999」などのテーマ曲も、作曲しています。 2006(平成18)年から2016(平成28)年までは、NHK紅白歌合戦の最後に歌われる「蛍の光」の指揮も担当されました。 それでは、1974年以降の主な作曲した作品を紹介します。・1974(昭和49)年 中条きよしさん「うそ」 アン・ルイスさん「グッドバイ・マイ・ラブ」・1977(昭和52)年 山口百恵さん「赤い絆」(ドラマ「赤い」シリーズのテーマ) 木ノ内みどりさん「走れ風のように」(刑事犬カールのテーマ)・1978(昭和53)年 平尾昌晃さん・畑中葉子さん「カナダからの手紙」 原田潤さん「ぼくの先生はフィーバー」(熱中時代のテーマ) ささきいさおさん「銀河鉄道999」・1979(昭和54)年 水谷豊さん「カリフォルニア・コネクション」 (熱中時代・刑事編のテーマ)・1980(昭和55)年 松田聖子さん「Eighteen」 1970年代の有名歌手がずらりと並んでいますね。 この中から、私は、テレビドラマの「刑事犬カール」のテーマ曲「走れ風のように」を紹介したいと思います。 この曲は、オリコンの最高順位は71位で売れていませんが、松本隆さんの詞と平尾昌晃さんの曲が絶妙で、「生涯青春」と話されていた平尾昌晃さんに、ピッタリの勇気の出る名曲だと思います。 ♪「走れ風のように」(作詞:松本隆、作曲:平尾昌晃、歌:木之内みどり)♪♪朝陽を追って 旅立つ君は何故石ころの道を選ぶのかかとがすりきれるまで走って ゆきなさい心の奥で何かきっと 弾けるわ立ち止まる時 青春も終わるのだからカール 走れ風のように埃(ほこり)だらけの 坂道を見上げて君は何故 やすまないのどうして唇かんで 青空見るのよ何処へと続く道か 誰も知らないわ額の汗が 生きてるしるしなのだからカール 走れ風のように昨日はもう昔だし 明日はまだ先大事なことは 今日が二度と来ないこと立ち止まる時 青春も終わるのだからカール 走れ風のように走れ風のように♪<写真 平尾昌晃さんが療養していた長野県岡谷市と諏訪湖> 最後は、平尾昌晃さんが、1968(昭和43)年~1969(昭和44)年まで、2年近く、結核の療養のために入院していた長野県岡谷市の「岡谷塩嶺(おかや・えんれい)病院」があった岡谷市と、岡谷市民に、お礼をした話です。 2014(平成26)年9月、平尾昌晃さんは、岡谷市立岡谷病院の「病院祭」での講演会の講師を引き受け、「私の作曲家人生の原点となった岡谷に恩返しをしたい。」と話しました。 さらに、翌2015(平成27)年には、「岡谷市看護専門学校」の校歌を、自分で作詞・作曲してプレゼントしました。 平尾昌晃さんが、思いを込めて作った校歌を、おしまいに紹介します。♪岡谷市看護専門学校校歌「未来に向かって」(作詞・作曲 平尾昌晃)♪♪晴れ渡る青空と 緑あふれる山々諏訪湖見下ろす ここに集いし友たちけわしい道も 夢にあふれて希望の光 看護の道を歩き出す心ひとつ みんなのために 未来のために岡谷市看護専門学校こだまする丘の上 さえずる小鳥のやさしさ塩嶺の風 命を守る誓いを水面に浮かぶ 青い輝き看護のほこり 友と手をとり しなやかに心ひとつ みんなのために 笑顔のために岡谷市看護専門学校凍てつく朝も 芽吹き信じて学びし我ら 看護の夢に飛び立とう心ひとつ みんなのために 未来のために岡谷市看護専門学校♪決定版 2016 平尾昌晃/平尾昌晃[CD]【返品種別A】
2017.11.05
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秋田県の北東部、青森県との県境近くの鹿角市(かづのし)の山林で、ツキノワグマの被害が相次いでいます。 2016(平成28)年5月に、タケノコや山菜取りに行った高瀬佐市さん(79歳)、高橋昇さん(78歳)、高谷善孝さん(65歳)の男性3人が、次々にクマに襲われ死亡しました。 さらに、6月10日には、初めて女性の被害者・鈴木ツワさん(74歳)が、タケノコとりに行った山中でクマに襲われ死亡しました。 これで、1ヵ月足らずの間に、合計4人もの死者が出ています。 また、6月11日には、岐阜県飛騨市で観光客がクマに襲われてケガをするなど、全国各地でクマの被害が相次いでいます。 特に秋田県の事件では、死体は熊に「かじられて」損傷が激しく、「人食い熊」が出現した可能性が濃厚です。 「アメリカ大陸にいるグリズリーならともかく、日本のクマが人を食べるなんて、本当にあるの?」 そう思われた方も多いと思いますが、実は日本でも「凄惨な人食い熊」の事件がいくつも伝わっています。 今回は、ちょっと怖いですが、そんな事件の中から代表的なものを紹介し、クマへの対処法も紹介します。<写真 本州・四国に生存するツキノワグマ> まず最初は、今から100年以上前の1915(大正4)年に、北海道東北部の、北海道苫前郡苫前町(旧:苫前村)で起こった「三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)」です。 1915年11月30日、池田富蔵さんをはじめ、マタギ(熊打ち猟師)など4人が、自宅の馬を狙った巨大なヒグマを駆除しようと発砲しますが、傷を負わせて取り逃がしてしまいます。 結果的に「手負いの熊」が、山林を彷徨(さまよ)うことになりました。 それから9日後の12月9日の朝、三毛別川上流にある太田家に、巨大グマが侵入します。 その時、主人の太田三郎さんら成人男性は留守でした。 家に残っていた三郎さんの内縁の妻の阿部 マユ(34歳)さんと太田家に預けられていた少年・蓮見幹雄(6歳)ちゃんの2人が、巨大グマに襲われ、幹雄ちゃんは死亡し、マユさんはクマに山林に引きずり込まれ行方不明になりました。 翌12月10日には、明景家に親子で避難していた斉藤タケさん(34歳)とお腹の胎児、タケさんの三男の斉藤巌ちゃん(6歳)、四男の春義ちゃん(3歳)の4人と、明景金蔵ちゃん(3歳)の5人が、急襲したクマに殺害されました。 住民や応援の猟師などの必死のクマ狩りの結果、12月14日、ついに7人を殺害した巨大クマは銃殺されました。 ヒグマは金毛を交えた黒褐色の雄で、重さ340kg、身の丈2.7mにも及び、腹の中からは阿部マユさんの下着はもちろん、他の地域で行方不明になっていた複数の女性の衣服も見つかったと伝えられています。<写真 三毛別事件の現地での復元模型> (実際のクマがでることがありますとの注意書きがあります。 《恐い》) 「三毛別事件」は100年以上前の出来事ですが、今から45年前の1970(昭和45)年7月にも、福岡大学のワンダーフォーゲル部の5人が北海道日高山脈の「カムイエクウチカウシ山(1979m)」付近でヒグマに襲われ、うち3人が死亡する「福岡大学ワンゲル部ヒグマ襲撃事件」が起こっています。 この事件は、福岡大学ワンゲル部の5人が、7月25日から27日まで1頭のヒグマに執拗に付きまとわれて、そのうち、竹末一敏さん(20歳)、興梠盛男さん(19歳)、河原吉孝さん(18歳)の3人が犠牲になりました。 襲ったクマは4歳のヒグマで、7月29日にハンターに射殺されました。 このクマは、人間を捕食していなかったので、いったん自分が漁って自分のものと意識した「荷物」を持ち出した学生たちを、怒って追い掛け、殺害したものとも言われています。 ちなみに、学生たちがクマに出会った「カムイエクウチカウシ山」とは、アイヌ語で「クマが転げ落ちるほど険しい峰」という意味です。 これら2つの事件は、いずれも北海道に生息する「ヒグマ」が北海道内で起こした事件で、それよりひと回り小さい本州・四国に自生(九州は絶滅)するツキノワグマが人間を殺害するのは珍しいと言われています。 もし秋田県鹿角市で4人を殺したのが同じクマだとしたら、「ツキノワグマが起こした史上最悪の殺害事件」だと言えるのではないかと思います。<地図 「平成の人食い熊事件」が起きた秋田県鹿角市> それでは、クマの被害にあわないためには、どうすればよいのでしょうか? 専門家のアドバイスを紹介します。(1) 出会わないことが一番大切 基本的にツキノワグマは、木の実などを食べる臆病な生き物ですが、人間にとって「安全な生き物」でないというのも事実です。 ですから、何より「出会わない努力」が大切で、「クマ出没注意」の看板などがあるクマの生息地へは入らないことが一番です。(2) 音を出して、こちらの存在を知らせる どうしても、クマと遭遇する可能性のある場所に入る時には、なるべく多い人数で行動し、鈴や笛などの音が出るものを鳴らすなど、「遠くのクマにこちらの存在をわからせる」ことが大切です。 定期的に、棒で木を叩きながら進むのも効果的です。 そうすればクマのほうから、距離をとって離れていきます。 ただし、ラジオは、クマの気配に気付けなくなるためかえって危険です。こちらがいつでも音を出せて、いつでも静かにまわりを伺えるということが、遭遇リスクを下げます。(3) 遭遇したら、視線をそらさずゆっくり後退(走って逃げたり死んだふりは厳禁) 万一遭遇してしまった場合、まずは「落ち着くこと」です。 距離が何十メートルも離れている場合は、ツキノワグマから「視線をそらさずに、ゆっくり後ずさり」して距離をとります。 クマは、「背を向けて逃げる獲物を追いかける習性」がありますので、うかつに背を向けて逃げたりすればほぼ間違いなく追いかけられます。 ちなみに、ツキノワグマの走る速度は50km/h以上で車並みですので、間違いなく追いつかれて、背中から襲われますので、背を向けて逃げるのは厳禁です。 また、クマは死んだ動物も食べるので、童話にある「死んだふり作戦」も危険です。それから「火」も恐れませんし、「木登り」も苦手ではありません。(4) 武器の準備 ゆっくりと後ずさりしつつ、威嚇的な行動をせずに武器の準備をします。 クマ対策の「唐辛子スプレー」などを持っているなら準備をし、なければ固くてリーチのある、武器になりそうなもの、たとえば「木の枝」などを用意します。 何も見つからなければ、そのへんの石でもないよりはマシです。 ただし、距離をとって逃げ切るのが良策で、武器の用意はあくまで最悪の手段への備えです。(5) 最終手段は「鼻先一点」を狙って戦う! うまく逃げ切れたときはいいのですが、相手が人食いクマなどで、こちらに積極的に近づいてきてしまったり、曲がり角などで、バッタリ出会ってしまったりして、数メートルしか距離がない場合は、覚悟を決めて戦いましょう。 「そんなバカな」と思うかもしれませんが、この状況になった場合に、一番生存率が高いのは戦うことです。 走って逃げ切るのは不可能ですし、死んだふりも通用しません。 この状況になって、無事に生還した人のほとんどは戦っています。 ただし、身体能力では人間はクマに絶対に勝てませんので、狙うのは「倒すこと」でなく、「戦意喪失させて逃げてもらうこと」になります。それで、狙いは「急所の鼻先」一点です。 撃退スプレー、ナタ、杖の類のような持っていれば先制攻撃できますが、武器が見つからない場合には、落ちている石やカギの刃が拳から出るように握り込んだりして、鼻先を狙います。 とにかく「鼻先に攻撃」を叩き込めれば、命を落とさずにすむかも知れません。(6) 最後まで抵抗する! クマに覆いかぶされたり噛み付かれたりしてした場合でも、「とにかく抵抗」してください。じっとガードしていても、殺されるのを待つのみです。 ロシアでは、18歳の女性が、ロシアのツキノワグマに噛みつかれながら「ママ、助けて。今、クマに食べられているの。」と携帯電話で数分間話したそうですが、彼女は最後には食べられて絶命しました。 とにかく手や足が動くなら、ツキノワグマの目や鼻がある位置をめがけて、パンチやキックを全力で出し続けてください。一発でも入れば相手はビックリして逃げていく可能性があります。 最後まで、追い払える可能性だけは放棄しないことが重要です。<写真 クマに注意を呼びかける看板 (秋田県鹿野市の現場付近)> 秋田県の人食い熊は、遠い昔の話ではなく、平成28年の現実の出来事です。 猟友会が、近くで1頭のクマを射殺したそうですが、それが「人食い熊」かどうかはわかっていませんし、もしかしたら複数いるのかも知れません。 安全が確認されるまで、ともかく「クマ出没注意」の場所へは、近づかないのが1番です。 特に、今年は例年にない猛暑が予想され、動物たちも異常な行動をする可能性があります。 秋田県や北海道の方はもちろん、他の地域の方もクマや毒ヘビ(まむし、ハブ)、スズメバチなど、日本の野山にも命の危険がある動物や虫がいることを前提に、注意してください。 最後に、いい話(実話)を一つ。 今回話題の秋田県の大館市で、2015(平成27)年7月の夕方、河川敷に、80歳のおじいちゃんと5歳の男の子が、シバ犬を連れて、軽トラで散歩に出かけました。 男の子は、到着後すぐに車のドアを開けて土手を下りていきました。 おじいちゃんが、リードを外し終わると、シバ犬も男の子を追って一直線に土手を下りました。 すぐに、シバ犬の「普段は聞いたことのないような」大きな鳴き声が聞こえてきたので、おじいちゃんはあわてて下りていくと、男の子が泣きながら戻ってきました。 川の方に目を向けると、クマが山の方向へ逃げていく姿が見えました。 男の子の服は破れ、背中やお尻などにはひっかき傷がありました。 泣きながら、男の子が言いました。「わーん、おじいちゃん。熊が出て怖かったけど、ワンちゃんが大声で吠えて熊を追い返して、助けてくれたんだよ。」 男の子の後ろでは、泥だらけになったシバ犬が、嬉しそうにしっぽを振っていました。柴犬のぬいぐるみにペンを入れたりゴルフボールを入れたり。便利なフック付きのペンケースは学校からオフィス、ご自宅でも大活躍☆犬のぬいぐるみペンシルケース★柴犬/シバ犬雑貨 犬グッズ【楽ギフ_包装選択】
2016.06.12
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