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2014.01.20
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夏の庭


福岡県 みぞえ画廊 取扱
画廊のご厚意で特別に譲っていただいた貴重な作品です。

>『絵を見れば死に物狂いで描いたものだと分かります。
本当に心を打たれる作品です。
奇跡の蝋画が3枚になりました。

美術の窓 1986年12月号 No51巻頭
特集●平野遼 21世紀の美術 人間復活への願い
12月から池田20世紀美術館で大規模な自選展を開催。


一井:今度、池田20世紀美術館でかなり大きな展覧会をなさるということで、とても楽しみにしております。
最近は先生のように、中から何かを凝縮して絞り出すという表現は少ないですね。
今回は旧作もずいぶん入るんですか。
平野:ずいぶんというほどではないですけど、若い時から自分の中で愛着を持ってるやつを・・・。
一井:全部で何点ぐらいですか。
平野:100点近いです。
一井:一番古いのは何年ぐらいですか。
平野:1948年かな。
一井:近作はどうでしょう。
平野:近作は3年前にこの個展の話が決まって、それからすぐにかかった作品が主体になります。
一井:3年前にお話があって、それからこの展覧会に向けて新作をためられた。

120点ぐらい描きました。
その中で、新作は40点ぐらいのものかな。
あとは古いものです。
一井:そうすると新作と旧作が半々ですね。
平野:まあそんな感じです。

1957年から58年、59年と3年続けて南画廊でやったでしょ。
そのころのものも見てほしい。

昭和32年、33才のとき東京の南画廊で初めて個展
昭和21年から初個展までの、約10年間の漂泊時代

一井:略歴を拝見しますと、1957年、32才の時に南画廊で初めて個展をされて、3年続けて毎年やってらっしゃいますね。
平野:最初の個展が1957年ですが、その時に東京の朝・毎・読の3大新聞社が書いてくれました。
一井:それは水彩ですか。
平野:油も数点ありました。
蝋画とペンと水彩と。
なにしろ油絵具なんか買えない時でしょ。
銀座で天婦羅屋をやってるおやじさんの離れを馬込に借りてたのです。
本屋の取次ぎの小僧みたいなことをやってる時に知り合った共立書房の知人に紹介してもらって、そこに間借りしたんです。
一戸立ちの4畳半ですけど、当時畳1枚千円くらいでした。
私はその家賃が払えなくてね。
もちろん電気代も払えないから、電気を止められてしまった。
しょうがないから蝋燭をともしてたんですが、それで思いついたのが蝋画です。
貧乏の偶然の所産ですな。
紙に蝋燭を塗りつけて、水彩で。
そうやって描いたのが『山びこ』という作品で、それを出品したら新制作に入選したわけです。

一井:『1949年、第13回新制作派展出品』というのはその作品なんですか。
平野:ええ。自分でもとても好きな作品で、今でも頭の隅に残ってますね。
馬込のその家は、8月中に5千円払えなければ出てもらうということになって、毎日、似顔絵を描いて回るんだけど、それじゃあとても。
そこを出る前の日にキティ台風という有名な台風が来て、その翌日、その家を出たわけです。
一井:ドラマチックなんですね。
平野:出ていった先が平井です。
美学社という出版取次ぎの小さな本屋のおやじさんが現代美術の絵描きさんで、若松の出身なので、その人のツテでぞっき本を専門にやってるKという人のところに転がり込んだ。
そいつが新婚でね。
お嫁さんが家にいるでしょ。
離れに私が転がり込んだので、彼は勤めに出るのに、一人残していくのが心配なんですね。(笑)
敷居に戸板をぶちつけまして便所も使えないから、私は窓から入ったりしました。
3時ごろ奥さんは買物に行くから、戸板を外して用を足してたんです。
小便は外でやってました。
外へ出たらすぐ荒川の土手があるので、土手に寝ころんで、いろいろ夢想してました。
1日に青リンゴ1個ぐらいしか食べられないから、腹はへってるし。
一井:上京されたのは何年ですか。
平野:1948年のはじめです。
一井:それまではずっと福岡ですか。
平野:ええ。戦争が終わってすぐ、20年10月11日に軍隊から帰ってきました。
私は北九州の戸畑で育ったんですが、小倉の魚町という繁華街があって、そこに肖像画を教える画塾がありましてね。
まずはそこに住み込んだんです。
一井:内弟子みたいなもんですね。
平野:後年、それが役に立って、似顔絵でアルバイトができました。
私の本当のデッサン力は、町に出て似顔絵を描いたことで養われたんだと思います。
町はゴタゴタで、リンゴの歌がはやっている。
目の前に東天紅という支那料理屋があって、朝から晩までタンゴばっかり鳴らしてました。
タンゴが鳴る、洋画がドッと入ってくる。
戦後、フランス映画はずいぶん見ましたね。
そのうち肖像画を描くのがいやになって、塾を飛びだしたくなった。
そのためにはまとまった金がいるでしょ。
遠賀川河口の芦屋というところに米軍の航空基地があったんですが、そこに入ってポスター描いたんです。
一井:それでお金ができたわけですか。
平野:そこに3ヵ月勤めました。
少しずつ溜めて、上京したんです。
それから約10年間、武者修行みたいに漂泊の毎日でしたね。
一井:小学館の『平野遼自選画集』が昭和52年に発行されますが、その後記に、『この画集に収録した作品の多くは敗戦の荒涼とした風景が背景になっている。
寒々とした日々と残酷な飢えが日本全体を覆っていた。そのことを抜きにしては、これらの絵を見ることは私には出来ない。この頃は放浪中で落着いて制作する場所もなかった。
・・・昼間から雨戸を閉め、暗い部屋で電気をつけて描いていた時があった。
なぜそんなことをしたのか、理由は今もわからない。』と、ご自身で書いていらっしゃいますね。





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最終更新日  2014.03.16 10:05:33
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