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2014.01.25
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無題


技法:紙に水彩
制作:1986年
縦:35。横:37.5cm。

『無題』・・・何に見えますか?
平野遼の境遇を知れば理解できるかも知れません。
あなたが絵を見ているのではなく、絵があなたを見ているのです。

美術の窓 1986年12月号 No51 27頁
孤独な少年時代、3才で母を、13才で父を亡くす


一井:先生の画歴ですけど、先生は美大を出てらっしゃるんですか。
平野:とんでもない、美大もへちまも・・・。
とにかく私は逆境でね。
おやじは飲んだくれて。
一井:お生まれはここですか。
平野:生まれたのは大分県です。
おやじは大分県の由布川村です。
百姓を嫌って飛び出して、当時、銅山で景気がよかったという佐賀関に行った時に私が生まれたんです。
一井:佐賀関はどこにあるのですか。
平野:大分県です。
今は美しい漁港らしいですね。

一井:お母様は・・・。
平野:大分県の竹田の出らしいんですが、私は母親を知らないんです。
3才の時に死にましたから。
13の時、小学校を出て進学する時期におやじが死にましたから、私は姉のところに引き取られてね。
一井:ご兄弟は何人ですか。

兄は、一人が戦死して、もう一人も軍隊に行って、帰ってきて病気で死にました。
姉が一人だけ生きてます。
それも他家に嫁いだ身ですから、普通に親子・兄弟が一緒にいるような環境じゃなかったです。
ですから兄弟に対する気持ちも薄いしね。
一井:肉親の縁が薄いんですね。
そういう運命なんですね。
平野:おやじが飲んだくれですから、今から考えると、昭和初期の大恐慌とか大不況の時代で、無理もないなと思います。
田舎から出てきて、学歴もないし。
おやじは植木屋の仕事をしてたんですけど。
私もそういう育ちですから学校にも行けなかったし、学校は嫌いですね。
一井:昔の高等小学校を出られて、それが最終学歴ですか。
平野:いや、最終学歴は青年学校ですよ。
職業青年学校というのがありました。(笑)
一井:年譜を見てまして、お生まれが1925年ということは・・・。
平野:大正14年です。
大正15年から昭和元年までは7日間ですから、大正の最末期ですよ。
一井:そうすると、今年の61年は満61才ということになりますね。
昭和と同じ年齢ですね。
敗戦の時に丁度20才ですか。
戦争で外地には行かれたんですか。
平野:いえ、宮崎の小さな島にいました。
野砲の通信兵になって。
一井:絵を描き始められたのは何才ぐらいですか。
平野:小学校2年ぐらいです。
そういう家庭だったから、おやじを嫌って、みんな家を飛び出して離散してったんですね。
一井:お母さんが3才の時に亡くなられて、お父さんは再婚なさらなかったんですか。
平野:女性が何人か来たけど、それを嫌って兄弟たちが、みんな出ていきました。
普通『おしん』なんかのように親が奉公にやるでしょ。
うちの場合は自分で出ていったんです。
私は末っ子だったから、残されて淋しい思いをしましたね。
毎晩おやじは飲んだくれて帰ってこないし、絵を描くことだけで、小学校2年のころから『少年倶楽部』を見てました。
斉藤五百枝とか黒崎義介とか挿絵画家の挿絵を模写するとかね。
小学校3年の時に初めて水墨画をかきました。
おやじがよっぱらって帰ってくると50銭銀貨ひとつ盗んで、古本屋に行っては絵に関する本を買ったりね。
武藤夜舟という人の『水墨画の描き方』という本を買って、それを見ているうちに四君子とか花とか鳥を描くことを覚えたんです。
一井:孤独な少年時代ですね。
絵だけが伴侶というか慰めというか。
あまり物をいう少年じゃなかったんですね。
平野:いま考えると非常に暗くて、第一、子供らしい遊びもしたことないし。
描きかけの絵があって、明日これを全部描いてしまおうと思うと学校なんか行かないんですよ。
おやじが出ていくのを待って、中から鍵かけて、朝から晩まで描いていました。






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最終更新日  2014.02.09 22:12:39
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