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2014.02.08
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寒い日の運河


平野遼が充てた1984年1月24日消印の松永伍一への手紙にはこうある。

想いがけず画廊にお越しいただき有難う存じました。
ペトロ岐部の話は、私の内部でちょうと暗雲を突き破ってさす太陽の乱放射です。
今秋の個展に、何かそうした主題の人物を並べたいと思考中です。

二人が出会ったのが、その直前まで開催されていた東京、永井画廊での『平野遼水彩素描展』でだったというから、展覧会を終え、小倉に帰った平野がすぐに松永宛てに手紙を書いたということになる。
手紙中にある『ペトロ岐部』とは、江戸時代初期、日本人として初めてキリスト教の聖地・エルサレムに足を踏み入れ、司教となり、その意志を日本で貫こうとし生きたペトロ=カスイ岐部のことである。
ラジオの番組で松永はその東のマルコ=ポーロとも呼ぶべきこの日本人の話をし、それをたまたま聴いていた平野は、松永が話すペトロ岐部の生き方に惹かれていたという。
だから、内藤武敏の紹介で松永が個展に訪れたときも、初対面であるにもかかわらず、挨拶もそこそこに、平野はこう彼に語りかけている。

いやあ、すごい男がいたんですね。
こういう人物がいたということが驚異です。
僕はペトロ岐部にものすごく惹かれます』
その声は、ペトロ岐部という人物に着眼し、研究していた松永に対する労をねぎらうニュアンスさえも込められた、人懐こい響きがしたと、松永は振り返っている。
『ペトロ岐部にこちらも惹かれていたし向こうも惹かれていたわけで、初めて会ってそんな話で盛り上がったんですよ。
だから、妙な・・・、だけど僕にとっては素敵な出会いでしたね。
誰かの絵描きさんに紹介されて名刺交換してとか、そういう堅苦しさはいらなかったんです。
あんな口べたな人が饒舌に感想を述べてきて、二人が一瞬のうちに扉を一緒に開けたという、まさしくそういう感じだったと思いますよ。
お互いの信頼が一瞬のうちに出来上がって、それから東京で展覧会をする時には、会場に行って、夜空いていたら食事でもしましょう、という付き合いになっていったんですよ』
そのときの手紙には、平野遼が1975年に描いた画『歩く人』を模写したプリントが2枚同封されていた。
『歩く人』は、平野が敬愛するジャコメッティの影響を受けた線描画で、一人の人間が動き、過ぎ去っていく、その未来へと向かう姿を、線で追いかけるように描かれた絵である。

人生のテーマのようでもある『歩く人』、その写真は、松永にこのような印象を与えていた。
『これは深読みかもしれませんが、ペトロ岐部は平野さんの故郷、大分県と同じなんですよ。
平野さんは自分の幼い頃にあまりいい思い出を持たなかったけれど、あの土地に400年ばかり前に生まれ、それで世界中を駆け回って日本に戻ってきたというペトロ岐部を、自分の飛躍の一つのシンボルのように捉えたのではないかと思うんです。
それが『歩く人』の、自分の理想に向かって歩く男と重なったのでしょう。
しかもペトロ岐部は砂漠の荒野を歩くわけですよね。

芸術家の生きている空間なんて、例えるならば砂漠みたいなものなんです。
険しいし荒々しいしね。
そこでブッ倒れればそこで終わりという、命がけの状態を作り出すのが砂漠でしょ。
そこを大股で歩いている男に平野さんは自分を託し、自分の内面にあるものがペトロ岐部の行動と合致したんだと思います。
まるで幻のように・・・』
松永はそのペトロ岐部の一生についての物語を偕成社から発売されている中学生向き本にまとめるつもりでいた。
『旅びと』と題したその本の表紙、挿し絵は、その出会いを経て平野遼が担当することになる。
自らの作品を作り上げることに力を尽くしてきた平野にとって、作品以外で何か描くという仕事はそれまであまりない。
しかし彼はこの挿し絵ならぜひ描きたいと松永の申し出を喜んで請け負った。
それほど平野は、自分の想いをペトロ岐部に重ねていたのだろう。
『そういう点では運命の出会いというのは大げさですけど、やっぱり出会うべくして出会ったんだと思うんです。
挿し絵を描くということは、当然仕事ではあるけれど、取り引きが全くないわけですよ。
金額がいくらですからお願いしますというのが全くなく、僕も平野さんも両方でやりましょう、やりましょう、という感じで、本当に楽しくやれた。
平野さんにとっても、本格的な作画をしている時の真剣さとか、作品に没頭して、ということとは違って、葛藤というものが少ないわけですよね。
どこか遊び心もあってイメージ遊びもできる。
歴史の時間の中に自分も旅をする喜びもある。
自分の作品を作るのとは違う感覚で接した、その作業は楽しかっただろうなと思いますよ。
その時の表情を見たことはないけれど、いつもの油絵を描いている時の物を凝視する眼差しじゃなかったでしょうね。
ちょっと微笑みがあるような、時間の彼方に遊びに行くような、そういう表情があっただろうと思うんです。
きっとそんな幸せの時間を平野さんは持っていたんじゃないかと・・・』
この松永伍一の文章による偕成社のシリーズはその後、歴史上の人物達へのオマージュのように、その生き方に惹かれながら、二人は言葉と絵でそれらの人物の生きた背景を色鮮やかに蘇らせていくことを楽しんだ。
それは、同世代の二人が、自分も今という歴史を生きる表現者としての歩みを確かめるものでもあったのかもしれない。
そしてその物語を離れたところでも、『言葉』と『絵』という表現の違う二人は、自分の世界を表現しようとしていく姿勢において、影響しあう同志を得たような喜びもあったのだろう。
1984年7月、美術世界画廊で行われた『平野遼抽象展』の案内状に松永伍一が寄せた『発光するポエジー』という原稿にはその想いがよく現れている。

抽象とは詮じつめると『宇宙の詩』ということになる。
動が静になり、静と見えたものが動きを感じさせる刹那、一枚の絵も宇宙の重なりに拮抗しているのではあるまいか。
平野遼さんの抽象の空間にそれを発見し、言葉で勝負してみたいという激しい欲望にかられたのである。
ありがたい刺激であった。

松永が書いたこの原稿は、短くはあったが、抽象という平野遼の内をえぐってのみ表出する世界に、同世代の人間として素直に驚き、感動を受けた心の揺れが描かれている。
さらに、だからこそそれを言葉で表現することに挑みたいと思う、詩人としての意志も感じることができるのだ。
『この展覧会に展示する抽象画を観たときに、平野さんの匂いがプーンと匂ってきて、ああ、これは平野さんの内蔵のあたりからエネルギーが出てきて作り出されている印象を受けるんです。
だからそのことを書きたいと思いました。
普通、内面っていうのは、だいたい心理的な物を内面というのであって、内蔵とは言わないでしょ。
だけど平野さんの場合はちょっと内蔵っぽく出てくる感じがするし、生理的な匂いがする。
そういうものを僕は詩人としての直感で感じていたんです。
平野さんの内側に見えたり、躍動したり、脈打ったりしているような、それが一枚の紙に表現されているんだということを。
その平面に表現されている裏側に平野さんの内蔵が疼いているようなそういうものの偉大さと、そういうことをやっている抽象画家のすごさというものに、僕も打たれているわけですよ』
原稿は散文詩のようにテンポよく、松永が自分の表現と闘いながらひとつひとつ言葉を選び出して書いている過程がそのまま伝わってくる。
『そして、その打たれた想いを言葉にすることは僕にとってもひとつの挑戦でもあったんです。
言葉に書けるのだろうかって自分に問いかけながら書く。
だから葛藤しながら書いている』
しかし、ただ俯瞰して論じる美術評論家の評論ではなく、同世代の詩人として平野遼の世界に一歩を踏み込もうとするその言葉に、平野もまた感銘を受けていたという。
『ジャンルが違うから良かったんだと思うんですよね。
絵描きさん同士で、しかも近いところに住んでしょっちゅう行き来したり一緒に呑もうなんて言っていたら、おそらく喧嘩したでしょうね。
でも、僕らは距離的に離れて生活していた。
だから時たま会う。
時たま会うということは、日頃貯まっているものを吐き出すわけで、貯まっている一番いい、珠玉のものがさりげなく出てくるんです。
食事を一緒にしているときやお茶を飲んでいるときとかにね。
だからあの距離を取ったところにお互い住み分けている、そして時折会うという状態だからこそ、違うジャンルで生きている人間の闘いの、汗の匂いのする状態の言葉がポンと出てくるわけですよ。
それは平野さんにとっても刺激であり、喜びであったんじゃないでしょうか』

あなたたちにはあなたたちの闘いがあるでしょう。
私には私の闘いがあります。
だけど、本当に闘っているもの同士であれば、共鳴できるものがあるはずです。

平野はそういう想いを抱き、友情を越えたところで松永と付き合っていきたいという願い、そして、この人とならばそういれるはずであろうという自信を持っていた。
だからこそ平野は、その挨拶状への松永の原稿をきっかけにして、何度も自らの展覧会や図録への言葉を松永に依頼したのだと思う。
常に自分自身と向き合うことで作品を描いてきた画家は、確かに孤独ではあったが、自分の抽象世界を理解してくれ、彼自身、その同じときを自らの表現で闘い進んでいこうとする同志の言葉を欲していたし、それはいつのときも平野遼への激励となっていたに違いないのだ。
平野遼の作品、そして彼の生き方を見てきた松永伍一は、彼と共に書いたペトロ岐部の一生を追った著書『旅びと』のように、平野が他界したのち、一人の歴史を振り返りこう書いている。

平野さんはもう生身としてはこの世に存在しません。
だが、死の瞬間から画家の分身である作品が真実の息を吹き返すのです。
生命体として不滅の光を放ちます。
進行形のときはまだ漠然として掴みどころがなかったのに、完全な過去形になった途端に、観る人に近づき自ら扉を開いてくれるのだから不思議です。

それは、完結した瞬間から、その歴史は新たに語られることを知っている人の、優しい言葉だった。





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最終更新日  2014.03.15 21:16:59
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