PR

プロフィール

ギャラリー蜂の巣

ギャラリー蜂の巣

キーワードサーチ

▼キーワード検索

フリーページ

2014.02.08
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
歩く人



SWITCH 2002年 11月号 92頁
掴み取られた<生>
内藤武敏は、1969年、銀座にあった大阪フォルム画廊から一枚の葉書を受け取った。
その葉書には少女を描いた油絵がプリントされていた。
風船が自らの手から離れ、虚空に上がっていくところを目で追いかけている少女を、斜め上から描いた油絵。
内藤はその絵に心を掴まれた。
『何て言うんでしょうね・・・。
人物を描く場合に、ただ女の人を描くと美人画とか言われて、女の綺麗さを描いているんだけど、その絵はそういう種類のものじゃなくて、少女が一人でいるだけなのにその少女の生まれてきてから死んでいかなければならない、この世に生まれての束の間の賑わい、束の間の<生>を一瞬で捉えたような絵だったんですよ。

そういう、人間、生、というものに対する見方が非常に自分と近かった』
その葉書は、画廊が行う展覧会の案内が印刷されているものだった。
週が明けたウィークディの午後、内藤はどうしてもその作家の絵を見たい一心で、再び銀座の画廊を訪れている。
小さな画廊の、無名の画家の展覧会には誰も観客はなく、その作家が一人いただけだったという。
こうして内藤武敏は、小倉を拠点に活動していた画家、平野遼と出会った。
『その時は群像が主な作品として展示されていましたね。
その中で少女の絵は一番優しい絵でした。
彼はその時期、ほとんど個人の人間は描かなかったんです。
いや、描かないこともないけれど、作品にするというよりはデッサンとして描いていた。
それは、個人というよりも、公害の元における人間。
あるいは状況下における人間というものを作品のテーマとしていたからです。

彼はそうして世界を捉えようとしていた。
多分そう思います』
師匠もいない、美術学校も出ていない、弟子もとらない、どこかに所属することを避け、ただ一人で絵を描くことに向かい合う平野遼の生き方は、フリーランスの俳優として映画会社、テレビ会社から独立して仕事をしてきた内藤自身の生き方に勇気を与えた。
内藤は東京に住んでいたが、小倉出身であったということも互いの関係に親しみを与えたのだろう。
彼らの交友はその出会いをきっかけに、平野が死ぬ1992年まで続くことになる。

内藤が平野にモデルを正式に申し込まれたのは、すでに付き合いも15年過ぎていた頃だったという。
それまで、『群像を描く』ことで世界を視てきた平野が、『個人を描く』ことに向いてきたのはこの頃だった。
『今まで群像ばかりやったけど、一人一人人間個性があるから、その人の人格や人間性に触れた絵を描きたいと思うようになりました、と言っていましたね。
そうやって群像を描くことで世界を視てきたけれど、今度はその中で何か新しいものを発見してもう一つ甦らせたいというような気持ちが湧いてきたのでしょう。
それから平野さんは個人を描くようになった。
奥さんも描くようになったし、自画像もしつこく描くようになった。
そうして私を描きたいとおっしゃった』
内藤武敏をモデルにと平野が思ったきっかけは、NHKで放映された千利休の再現ドキュメント『利休はなぜ自刃したか』で、利休役を演じた内藤を観てからだった。
内側から迫る内藤の演技、そして彼の表情からは、その人間像が透けて視えてくるようだったという。
顔から凝集された人間の生活全体、深い内面を掴み取る、それを平野は絵の世界において自分が辿り着きたい新たな目標としたのだ。
1985年6月、仕事の休みを利用し、内藤は小倉のアトリエを訪れ、モデルとなっている。
そのときの平野との時間を彼はこう振り返る。
『平野さんは描く時に“この頭には塵がいっぱいに詰まってる、詰まってる、詰まってる、詰まってる、いっぱい詰まってる!”って自分に言い聞かせながら描くんです。
それから一番大事な時には息を止めて描いている。
ものすごい緊張感ですよ。
だから、集約された短い間にその人の内面をグッと全部えぐりとってしまおうという迫力がありましたよね。
気を詰めて根を詰めて呼吸を詰めて、その短い間に挑むというようなやり方でした。
だから向こうが息詰めてくるからこっちも壊れないように壊れないようにと持続する。
しかし持続するにはだんだん自分が疲労してくる。
だから枯れないようにエネルギーを次々生産するんです。
そうしないと空虚になりますから、掻きとられても掻きとられてもそれが減らないように満たしていかなくてはという感じで。
だから終わった後はお互いとても疲れるんですよ。
疲れはするんだけど、平野さんはこういうふうに描いているんだとわかりました。
身体も悪くなりますよ、やっぱり・・・』
この作業は二日間続いたという。
その短い時間で平野は12~3枚もの肖像画を描き続けた。
『念を積み上げていくようなことだったと思います。』
そして閃き、閃きはラクして出ないんですよ。
やはり追い上げて追い上げて酸素欠乏でもうおかしくなるような瞬間に、カッと閃くんです。
僕らの芝居も同じです。
お芝居というのは、台本に言葉が書いてるだけですから、それをどういう状況でどういうつもりで言うか、相手からどう言われるか、どう反応されてどうなっていくかということは我々に任された仕事ですから、言葉に書かれていない何かを自分でひねり出していかなければいけない。
いかにその中にある何かを捕まえて劇中の当事者のように生き生きとやるかなんです。
そこまで自分の意識を高めていって初めて滴り落ちる一滴、閃きは努力の末、すべて満ちた時にタラタラッと出るようなものです。
出たらそれを足掛かりに上にも下にも広げる。
絵描きも生きた人間を描く場合には、自分も気分が変わったら描けないし、相手も気分が変わったら空虚になってしまうから、充実した時間の中でお互いが意識し合うということですよね。
だから、我々の仕事と相通じるものがあるなということを、その時初めてわかりました。
内藤は自分がなぜ平野遼に惹かれたのか、その時、再び身体で感じたに違いない。
絵は一枚の平面にすぎない。
しかし、『少女の絵』に生まれてから死ぬまでの<生>が映りこんでいたように、平野は絵の背後に個人の人生に対する感情や思想までもを塗り込めていこうとしたのだ。
まるで自らの生を削り取り、その代償として、肖像画に生を与えるように。
平野はそのとき内藤を描いた感想を、このように手紙で書いて送っている。
<2日間、御苦労さまでした。
心からお礼申します。
演技者の内部を表象する貌をまのあたり目撃し得て、一種さわやかな感動を味わっていました。
やはり鍛へ抜かれた精神と肉体は逞しく強い面と量でありました。
それが役者というものだ・・・と感じたことです。
私はそれに加へ内なる世界の、つまりは眼を閉じてこそ観えてくる根源のフォルムを求めています。
しかし時間が足りませんでした。
また次の機会を私に与へて下さい。
10点くらいかかりひとつの実証的世界を実現したいと念じております>
その後も何度か内藤はアトリエを訪れている。
内藤が来れば、平野は描き、終われば酒を飲み、酒を飲まない内藤は清子夫人が立てた抹茶を飲みながら語り尽した夜は多かった。
『いろいろ話を聞くとね、一日の活動が決まっているらしいんですよ。
夜寝る時は、明日はあの絵が乾いてきたからあの絵のここからやろうと、ああ早く明日が来ればいいと思って寝るって言うんです。
で、朝起きたら嬉しいなあと飯食ってすぐにそれにかかる。
で、昼飯食ったぐらいから散歩に出掛ける、あるいは病院に行く。
帰ってきたら今度は何を描いて、そして、夕方にはスケッチブックを持って散歩に出て、近所の人、子ども、年寄りの、人間のいろんな様を、スケッチする。
それから夜は描く時もあるし文章を書いたり音楽を聴いたり本を読んだり、そういうふうにサイクルがきちっと決まっているのだと言っていました。
そうするとどの瞬間も新鮮で、どの瞬間も飽きないと。
外に出て描く時というのは喜びらしいです。
重圧がないでしょ。
自由に自分に取り入れる瞬間ですからね。
だから彼は確かに孤独と向き合い描いてきた作家だけど、毎日そういう人と接して、話も聞いたり、動いて生きているところを捉えていくことを絶やさなかった。
そのことが、彼をマンネリズムにしなかった最大の理由だと思いますね。
普通は偉くなったら努力しなくなりますからね。
その値打ちが放っといてもどんどん上がっていくから、もう努力する必要がなくなっちゃうんですよ』
平野遼が作品の多い作家だと言われるのも、彼が最後まで描き続けたいからという純粋にその理由に他ならない。
絵が自らのそばにいつもあってほしと、誰よりも彼自身がそう願っていたのだ。
こんなエピソードがある、と内藤は続けた。
『画廊はね、あんなにたくさんの絵を描く絵描きの絵は画料が上がらないっていうんですよ。
平野さんはいい絵を描くんだけど、需要を満たしちゃうから値段が高く上がらないってこぼすの。
で、平野さんにそういう話をしたらこう言ってましたね』
<画廊は、ちょっと人気が出たり、ちょっとお客がつくと少しずつ値段を上げていくから、みんな大きな大作は描かないで小品ばっかり描いて売るようになる。
だけど、そうすると絵が衰える。
それは作家の生命をなくすことだ。
私は、自分の絵は、欲しいという人にはみんな買える値段で手に渡るものであってほしい。
だから私の身体の続く限り描く>
『だから晩期はエッチング、リトグラフもやっていましたよね。
それは若い学生さんでもちょっとアルバイトすれば買える程度のもので絵が手に入るから。
だから版画をやらなければいけないと、試し刷りを何度もやっていましたよ。
それからエッチング集も出しました。
だからそういう志のある人です。
このことはね、平野遼の一つの価値だと思うんですよ。
あの人は特別な趣味はないし、子どもを育てる義務もないし、そういうものを引き受けませんよね。
世の中のいろんな一切の雑事も社交するでなし。
だからその無駄なものすべてをカットして、すべてを絵に集中してきた。
画狂人と自称した葛飾北斎もおそらくそうだと思うんですが、平野さん程の画狂人もいなかったでしょうね』
内藤は、自分の家に飾ってある平野の作品を見つめていた。
そこには内藤を描いた肖像画もあった。
『平野さんに出会って、一人で歩いている気がせずにすみましたよ。
もちろん演劇は一人ではできませんけど、でもみんな個人であり、孤独なところがあります。
だけど平野さんとこうやって出会って、人と交わらない人が、心を開いて長年つきあってくれた。
おかげで僕も非常に心豊かな時間を持つことができました。
本当に感謝しています』
平野遼の姿は消えたが、その絵に込められた充実した<生>を、内藤武敏は、今も静かに感じているようだった。








お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2014.02.09 22:23:18
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: