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高橋さんの 過去の日記 を、
いくつか拝見して、
心に来たものがあった、
まずこちら、
2000年4月23日(復活節)午後、若者の「聖書勉強会」の第1回目を講師陣4名と若者たち6名で開いた。
夕方家に戻ると消防車が家の周りに何台も来ていて、鎮火寸前であった。

内外とも左官仕上げであったために外形は残り類焼は免れたものの内部は全損で使いものにならなくなっていた。
呆然、途方にくれていた時、ふと心に浮かんだこと、「天国の家は焼けない」。 (中略)
「聖書勉強会」では聖書の本質は「永遠の命」であることを第一回目当番の私が話した。
永遠の命を頂くためにはこの世のものに執着する心を捨て、一心に「救い」を求めなければならないことをマルコ10章17-25節「金持ちの青年」を通して力説した。
しかしそのことを話す人はまず自分がそれを実行しなければならなかったのである。けれどもこのことは人間にはなかなかできないことである。
家と財産を失ってみて初めて今回の事は、神に無理に火をつけられてこの世への「執着心」を焼かれたのだ思うようになった。
実際のところ聖書勉強会を開いている時刻に家が燃えはじめたのである。「家に帰って」見たら(塚本訳マルコ10章21節)財産がなくなっていた。
(中略)
今回の火災は、私の家族の者たち全員が「悔い改め」をすべきために天から「火」が下ったのだと各自が認識した。
そして不思議なことが起きた。今までになかった変化が皆の心に起こったり、また大切と思っていたものに対しすっかり興味を失ったのである。
この話を伺い、
今、自分の住んでいる実家、
これが一瞬にして、
焼け崩れていく様が浮かぶ、
世の財はあっという間になくなる、
世の財に執着すべからず、
と言うメッセージを頂いた、(と思っている、)
次、こちら、
[ 脳出血の記録」
2000年7月6日執務中に急に目まいと吐き気がして立てなくなり、救急車で聖路加国際病院に運ばれました。 (中略)

さて、私は今回のことを通して「死の準備」をさせられました。
救急車の中では「俺、死ぬのかよー」と叫んでいたそうであります。また救急外来処置室ではまともな祈りはできず、ただ「助けてくれー」と心に念ずるのみでした。
しかしこのように死を目前にしたとき、私は「イエスの墓が空であったことと、復活の歴史的事実」を「罪の赦しと永遠の命へ」の最後の望みの綱としてますます強く信ずるに至らしめられました。
そしてまた今回の病を通して、「来世実在の希望」と「再び生きることを赦された喜び」を与えられたことを深く感謝しております。
救急車は2年前、
自分にも経験がある、
幸い、飲み屋で転んで、救急車で運ばれ、
唇を5針縫ったぐらいで済んだけど、
しかし、彼のように、
死の淵をさまよったのはまだない、
それが、突然、来るのだとしたら、
生かされている身としては、文句は言えない、
なんせ、年も年だし、
覚悟だけはしておかねば、と、
いずれにせよ、
この世に生きるとは、
つくづくはかないことだ、(と思った、)
生涯期間は短くて、
その割には労苦が多い、
詩篇90:10
人生の年月は七十年程のものです。
健やかな人が八十年を数えても、
得るところは労苦と災いにすぎません。
瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。
また、例え、財があっても、
あっという間になくなるし、
箴言23:4-5
あなたがこれに目を留めると、それはもうないではないか。
富は必ず翼をつけて、わしのように天へ飛んで行く。
幸い、 残ったとしても、
持ち出し不可と来ている、
1テモテ 6:7
また何一つ持って出ることもできません。
ゆめゆめ、 希望的人生を、
この先持つのは、ご法度かと、
身軽で、ポックリ、
且つ、そこにいたるまで健康なら、
この世では 、言うことなし!
The Art of Being 2024年07月10日 コメント(1)
いのちはいただきもの天命で生れ天命で還る 2023年09月26日