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先ほど、 ジムの帰り、 夜道の中で、
昨夜の動悸が発症したときの、
イエス様からのアドバイス、
完結した体をほめたたえよ 、に関連して、
イロイロ、イエス様に聞いてみた、Q:完結した体って言いますけど、
まだ、この体が残っているんですけど、
これ、ドーなっちゃうんですかね?A:滅びる、
(確かに、やがて、死ぬよな、)
Q:完結した体は、ドーなるんですかね?
A:入ってくる、
(??)
Q:入るとドーなるんですかね?
A:合体、
(合体かよ!?)
Q:合体するとドーなっちゃうんですかね、
この体に影響しますかね、A:影響しないわけがない、
以上、
なんとも、取り留めのない、短い会話だったが、
個人的にすっきりした、と言うのも、
昨日、完結した体って聞いて、そのあと、
じゃ、この古い体は、
ドーなっちゃうんだろうと疑問がでてきた、この体が、とりあえず、残る(ニュアンス)を聞いて一安心、
(いずれは、滅びるだろうけど、)
少し、聖句を参照、rom:6:6
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、 罪のからだが滅びて 、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。罪のからだとは、罪の性質(*)に、
反応する(せざるを得ない)からだという意味、(*)「暴食」、「色欲」、「強欲」、「憂鬱」、
「憤怒」、「怠惰」、「虚飾」、「傲慢」 など、罪のからだが滅びるとは、
罪 の(性質に反応するところの)
からだ(の性質) が滅びる、(だろう、)が、物理的からだ(罪性を除いた中立的からだ)は、
死ぬまでお付き合いが必要なのが玉に瑕、
ところが、ここで、さらに、
”合体”と言うフレーズが出てくる、これは、なかなかいいフレーズで、
この滅びるからだに入ってきて、一緒になる、 の意、
(と言うか、一緒になってくれる、の意、)rom: 8:11
もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、 あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。phil: 3:21
キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、 私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。そして、しばしの間(死まで)は、
栄光から栄光へと、
この滅ぶべきからだを変えてくれると理解した、
やがて死を迎えたときは、
完結した体のみが残るわけだ、
となると、これはもう、
この滅ぶべき自分のからだ、 (既に、年老いてしまい、あちこちガタガタだが、)栄光から栄光へを期待して、
今日から、早速、
昨夜、イエス様から来た、「完結した体をほめたたえよ、」
を毎日のフレーズと言うか、祈りとして、
繰り返してみるに限るかと、
参考)
第2コリント3章から、
3:16 しかし、 人が主に向くなら、
そのおおいは取り除かれるのです。
3:17 主は御霊です。
そして、主の御霊のあるところには自由があります。
3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、
鏡のように主の栄光を反映させながら、
栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。

これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
参考2)
聖所の隔ての幕 から、モーセの幕屋の内部が、隔ての幕によって聖所と至聖所に分けられていた理由は、神と人の間には、決して一つになれない、罪があることを教えている。
その罪は、アダムから始まり、人として生まれたすべての人間にあることを、聖書は教えている。
そして人間がどんなに修行、難行苦行をしたとしても、誰も自分の力を通しては、神のもとに行くことができないことを教えている。
そして隔ての幕の向こうには、至聖所があり、そこには契約の箱があった。それは神様の臨在をあらわし、きよめをあらわしていた。
神様と人とがひとつとなるためには、その間にある隔ての幕(罪)が無くなること以外にはない。大祭司は、一年に一度だけ、贖罪の日(ユダヤ暦7月1日)に至聖所に入ることをゆるされたが、それも、その手に必ず、犠牲の動物の血を携えて入らなければならなかった。
イエス・キリストは、ご自身が神の子羊として、十字架につき死なれ、その血を流された。誰でも、イエスをキリストと信じるなら、その血を携え神とひとつになることをなされた。
イエス様が、十字架に死なれた時、エルサレムにあった神殿の隔ての幕が、上から下まで、真っ二つに裂けた。
ルカ23:44 そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真二つに裂けた。
23:46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
The curtain of the temple was torn in two幕は、至聖所と聖所とを仕切る隔ての幕で、
聖なるものと、俗なるものとを隔てるものであった。しかし、イエスが十字架で死なれた時、
この幕は上から下まで真二つに裂かれ、
すべての人が、このイエスの肉体という垂れ幕を通して、
神に近づく新しい、生ける道が開かれたのである。
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