シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2024年11月21日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
映画「スターウォーズ」の凸凹ロボットコンビC3POとR2D2は、黒澤明監督の「隠し峠の三悪人」の凸凹コンビからヒントを受けたのは有名な話だが、恐らくこの凸凹コンビは、十返舎一九の東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんに原点があるように思われるのは、あっしだけだろうか?

【メディア今昔】「スター・ウォーズ」ジェダイ=時代、R2-D2&C-3PO=太平&又七 ルーカスヒットの方程式は黒澤明( 3/4 ページ) - 産経ニュース

日本初「旅ブーム」を起こした弥次さん喜多さん、駿州の旅|日本遺産ポータルサイト


このブログで頻繁に紹介している、八切史観によると、弥次、喜多の原点は、やじで八の民、きたで北の四の民の、つまり、八の赤の平氏、四つの白の源氏からきている、というわけなんである。NHKの紅白歌合戦も、この源平の赤白にあるようで、日の丸も、源氏の白が、平氏の赤丸を囲む旗でもある。何が言いたいかと言うと、日の丸は、本当は、日本原住民の象徴だったかもしれない、ということである。

日本の国旗 - Wikipedia

錦の御旗 - Wikipedia

菊花紋章 - Wikipedia


天皇の錦の御旗は、赤地の錦に、金色の日像・銀色の月像を刺繍したり、描いたりした旗で、有名なのは、菊の御紋である。天皇家については、以前紹介した動画に、中東のウルク起源渡来説が紹介されていたので以下を参照してほしい。都市伝説風の古代史が解説されている。

菊花紋章の由来と天皇家との関係 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究

旧約聖書の編纂者「古代エジプト王家説」 / 隠されたあの " 日本の和歌 " - YouTube

旧約聖書の編纂者「古代エジプト王家説」 / 隠されたあの " 日本の和歌 "


話が逸れてしまうので、元に戻すと、現代の弥次喜多といえば、「にけつ」の、ケンコバ氏と千原ジュニア氏を個人的に想いうかべてしまう。その次に、「マツコ有吉の怒り新党」の、マツコ・デラックス氏と有吉氏で、三番手に、「出川一茂ホラン不思議の会」の長嶋一茂氏と出川哲郎氏に、ホラン千秋氏が加わった、弥次喜多凸凹コンビの拡大トリオ版という感じだろうか、「さわつく金曜日」も面白いが、一茂氏、石原良純氏に、高島ちさ子氏のトリオに、司会者の高橋茂雄氏も加わったカルテットになっている点で、弥次喜多の、お笑いの珍道中的な伝統芸というよりも、昭和からはじまったドタバタ劇という感じにみえる。

にけつッ !! - Wikipedia

マツコ & 有吉の怒り新党 - Wikipedia

出川一茂ホラン フシギの会 - Wikipedia


日本にくる、インバウンドの外国人が、日本は、新しいなかに、古さが共存している、というような感想をもつらしいが、故きを温ねて新しきを知る、ではないが、その逆の、新しさのなかに、古さを知る、のが、日本文化の、詫び詫び、奥ゆかしさといえるかもしれない。

だからC3POとR2D2のなかに、太平又七を知り、太平又七のなかに、弥次喜多を知るというような、ロシアのマトリョーシカ人形のような、時代の入れ子構造のようになっているのが、日本文化の特徴なのかもしれない。マトリョーシカ人形は、日本の箱根細工の七福神の入れ子人形が元になっているという説もあるらしいが、前回紹介した、宇宙のウロボロスを体現している構造でもある。

マトリョーシカ人形 - Wikipedia

ウロボロス - Wikipedia


というのも、人間の物質体は、電子や陽子、中性子などの原子構造から、リン酸のアミノ酸、タンパク質を形作り、更には、細胞の器官となるような、いわば、入れ子の構造になっているわけで、古いものが母胎となって、新しいものを纏うことで、入れ子のようにつくられているからである。

物質科学では、物質体内部の電子と、外の空気中の電子に違いはないが、人智学では、区別している。というのも、人智学では、人間の物質体=肉体は、前世のカルマからつくられるからである。だから、体内の電子は、前世からつくられるので、古く、外の空気中の電子は、現世のものなので、新しいものと考えられるわけなんである。だから、人体は、絶えず、新しい電子を吸収し、古い電子と入れ替え、前世のカルマから、来世につながるカルマへとつくりかえている、ともいえるわけなんである。

日本には、情けは人の為ならず、とか、武士の情け、とかいう慣用句があるが、人間が、輪廻転生のカルマの前世から入れ子構造でつくられていると考えれば、外の電子と、内の電子をつなげる、情けともいうべき、思いやりや感性は、正に詫び寂びで、この思いやりというか、故きを温ねて新しきを知る、というか、古いものと新しいものの共生が、情けと呼ばれる愛により生まれる、のがわかるかもしれない。



このような日本文化の良い点ばかりを紹介しても片手落ちなので、悪い点も紹介したい。それはやはり以下のような八切史観から紹介したい。以下は抜粋紹介である。

            ☆        ☆        ☆

八切止夫 | page 1 | 嘘八百のこの世界


「ひょっとして佐久間象山は、慶喜の正体を知らないで、薩摩藩や長州藩が攘夷を主張しているのは見せかけであり、本当は裏で外国勢力と繋がっていることを慶喜に告げ口したから暗殺されたのかな?」byソウルマン

「虚像と実像・明治の首領(ドン)」八切止夫

1977年の書と思われるが、よく分からない。
以下、一部引用する。

*なにしろ、江戸時代の士道は、今日美化されているような派手なものではなく、もっと実質的だった。殿様のお手許が不如意の事が多かったので、「御為」というのが人臣の道とされ、経済的に殿様へ負担の迷惑をかけぬことと、(臣として殿の御為を計る)こと、これが、「武士道」というものだった。だからして、身分の低い者は、嫁とりする時でも相手の実家が身分が上だとか、資産のある時はよいが、そうでない場合は、もしも妻より自分が先立って後へ子女を残した時に、養育費として引きつづき扶持がいるが、それでは殿様の御為にならない。となかなか結婚できなかったものである。

ふつうの大名は家臣が死んだ時は跡目が元服するまでは扶持を停止するのが普通で、しいて願いでれば情状により半額までは、「お情け扶持」というのが出たが、(お役に立たぬものに、そういう事をして頂くのは、殿への不為、不忠)になるというので己より身分の軽い女をめとる場合は、「召使い」と届出る風習が決っていた。

真田家では、そうした女のことを、「まん」「おまん」と呼びならわしていた。これは戦前、陸海軍とも職業軍人の将校は上司に願い出る許可制になっていて、もし相手が水商売の女性だと許されなかったのも、やはりこの職業がいけないというのではなく、そうしたところで娘を働かせる親の経済力のなさが、不許可の理由だったのである。

戦死した後で恩給だけではたらなく、同期会や上官が遺族の面倒をみねばならぬのでは、当人が安心して戦死もできまいという親心で、これも忠誠心の一つの定めだった。

*「薩長は大公儀独占の形の火薬の自由化を狙い、開国を意図しながら表面は攘夷を唱え、公儀よりの火薬の配給をうけよう目的で、長州は昨年5月23日に仏船を砲撃し、蔭に廻っては伊藤俊輔(博文)井上聞多(肇)ら、5名の者を秘かにエゲレス船で海外へ出しています。薩摩も昨年7月2日に鹿児島で英艦と交戦してみせ、さも攘夷の魁(さきがけ)のように見せかけを作り、よって長崎出島にて保管中の最新輸入の火薬を長崎奉行より廻送させ、その上、戦った相手の英艦に秘かに薩摩藩士をのりこませ、上海から硝石を輸入させよう為に裏面工作をしています」

象山は一橋慶喜に謁見すると、歯に衣をきせず所信を堂々と述べ、「薩長の野望を防ぐ方策は如何」
と下問されると、率直に、「向うが開国を望みつつ、攘夷を表看板に偽装して居りますゆえ、此方も対抗上、鎖国を守り抜く為には、表面は開国論を唱えるしかございますまい」と、まず披瀝(ひれき)してから、「長州の久坂玄端なる者が先年私宅へ訪れて参りしより、その後も長州の者が秘かにてまえの許へ寄ってきますが、彼らは皇居を狙い、恐れ多くも一天万乗の御方さまを奪取し、それを己れらの野望の楯になさん所存とみえまする」と告げた。



「昨年の8月の七卿落ちにより、不逞公家と長州との腐れ縁は、なくなったげなに見えまするが、なかなか持ちましてそうもゆかず、御所の内に長州の手引きをなす者がまだ居ります。もし恐れ多くも主上が彼らの奪取する処となり、彼らが本性を現し開国に踏みきり、御禁制の火薬をどんどん入手すれば内乱は必至。よって、この日本列島は二分されてしまい、アメリカ軍の進駐をうけ神州は紅毛人の占領下にもされましょう」といいきり、「・・・天朝さまが長州あたりに利用されるなどとは、臣民として恐懼(きょうく)の他はありませんから、ひとまず安全な所へお移し奉って御守護するべきでありましょう」と述べた。

*佐久間象山の門人の三沢刑部丞(ぎょうぶのじょう)も、「薩摩のごときは去年の7月に、表向きは攘夷の魁(さきがけ)じゃと鹿児島で英船と砲戦する反面、秘かに藩士をエゲレスへやっとります・・・」
と息まき、やはり鼻を詰まらせた声で、「長州ごときも薩摩より4月も早く馬関で、仏船に大砲玉をうちこんでいますが、これも本当の肚は輸入火薬欲しさの開国が本心で、伊藤俊輔や井上聞多(もんた)らを上海へその月の内に秘かに派遣しとりますそうな」と訴えた。

「そうです。表向きは攘夷を叫び内実は開国して新火薬を輸入し、叛を計りたい長州人には、うちの先生が煙たくて、きっと開国論者という張り札をつけ殺したのでしょう」ついにお順は、ヒステリックな声まではりあげた。

(管理人=ソウルマン)


・薩摩藩や長州藩が攘夷を主張しているのは見せかけであり、本当は外国勢力と繋がっている。
・薩摩藩がイギリスと戦ったのは見せかけ。
・長州藩がフランス船を砲撃したのも見せかけ。
・薩摩藩は元から外国勢力とツーツーの仲だった。
・長州藩は伊藤博文や井上肇らをヨーロッパに派遣している。
・外国勢力が武器のみならず硝石を薩摩藩や長州藩に渡していたことは隠匿されている。

<著者が理解していないこと>
・徳川慶喜は外国勢力の手先・傀儡であった。
・明治維新が維新側と幕府側の八百長であり両者はグルであった。

ひょっとして佐久間象山は、慶喜の正体を知らないで、薩摩藩や長州藩が攘夷を主張しているのは見せかけであり、本当は裏で外国勢力と繋がっていることを慶喜に告げ口したから暗殺されたのかな?

(明治維新と同じく、太平洋戦争でも、長州閥帝国陸軍は親ソ連で、薩摩閥帝国海軍は親米国だったのが後に判明している。日本人は巨大な権力を傘に弱者を虐げるのが得意だったようである。まるでドラえもんのスネ夫である。)

「明治初期には、「文明開化」の怒涛のごとき輸入に対して、ソニーもホンダもない当時ゆえ輸出して決済するものがなかったせいもあって、昔の堺の納屋衆のごとくに横浜関内に捕えてきたサンカを奴隷として、人間倉庫をたてた。そして出向証明書なしの棄民として、フィリッピンのベンゲダット鉄道工事への7600人を始め、ハワイやアメリカ、女はボルネオのサンダカンへ、島原半島の三角湾倉庫から次々に送られた。彼らを国内から 一掃するごとく仕向けられ、これへの反撥が、やがて秩父事件となる。」 by 八切止夫 | 嘘八百のこの世界

「明治初期には、「文明開化」の怒涛のごとき輸入に対して、ソニーもホンダもない当時ゆえ輸出して決済するものがなかったせいもあって、昔の堺の納屋衆のごとくに横浜関内に捕えてきたサンカを奴隷として、人間倉庫をたてた。そして出向証明書なしの棄民として、フィリッピンのベンゲダット鉄道工事への7600人を始め、ハワイやアメリカ、女はボルネオのサンダカンへ、島原半島の三角湾倉庫から次々に送られた。彼らを国内から一掃するごとく仕向けられ、これへの反撥が、やがて秩父事件となる。」by八切止夫

「サンカの歴史」①八切止夫

1984年の書であるが、2003年の再販されたものを読んだ。

複数回に分けて記す。以下、一部引用する。

*これまでの日本列島では明治以降も真実を書き残したいと本にしたのは、獄死した阿部弘蔵の「日本奴隷史事典」と「木村鷹太郎著作集」や「日本部落史料」の数冊しか現存しない。

昔から日本では口伝えではあるが、「文字づらに捉われるな」とか「文字通り額面通りには受取ってはならぬ」といった戒めが、各地方の部落ごとに守られていたのは、この為なのである。

しかし今では義務教育法といった法律で、学校で教わった通り教科書の文字通りに、なんら考えることなく暗記するみたいに覚えこんで、テストに書かねば落ちこぼれにされてしまう。

*なにしろ女性は、オカミの為に働き出征する少国民の為にこそ、生かして頂けるものとされオカミに届け出て婚姻をなしたる男女の交渉は、出生児をもうける国益として認められたが、婚姻届なしの男女交渉は禁じられていた時代。東京でも今より交番所は沢山あって川が埋立られず、昔は橋が多く袂にはあった。そこで同伴して通ろうものなら呼びとめられ、男女別個に不審尋問され、姓が違おうものなら、その不心得を長々と厳重に訓戒されたものである。そして、「臨検」が旅館には抜打ちにあった。
・・・・・(中略)・・・・・
翌朝になって「近く正式に結婚して子供を作り御国の為に役立つよう育てます。必ずそれ迄は無駄な放射は二度とせず絶対に慎みます」と宣誓しやっと放免された。

*「かねて気にしてましたが大地震の騒動は、本当に朝鮮人暴動でしたか? サンカ殺し・・・」
と尋ねてしまった。しまったと狼狽したが手遅れだった。報道部から、(使いものになる)とでも伝達されて身柄を伴われてきたようであるが、途端に温顔らしくみせていた相手が、「何ッ、国賊のサンカを知っとるんか」と厳しい表情で睨みつけられ、同行の憲兵中尉へ、(連れて行け)と言わんばかりに顎をしゃくってみせた。おかげで何々機関とよばれる軍御用機関入りさせられるのは、免れはしたものの、大正12年の叩き殺しは、末端の在郷軍人会や町内連中は朝鮮人殺掠であったろうが、どさくさ紛れに大量に処分されたのは、サンカとして睨まれていた人達であったろう事が、彼の周章てふためき変った表情から読みとる事ができた。

・・・・・(中略)・・・・・

さて、A閣下に抹殺処分にされたかも知れぬ危険な質問を、何故その時してしまったかといえば、昭和10年頃になって荒川土手の改修工事で数多く掘り出された人骨の頭蓋骨が世俗に伝えられてきた朝鮮人のものとは、どうやら相違しているらしいと問題にされたからである。

「短頭ではない人骨の山」といった新聞のコラム記事等、読んで覚えていたせいもあった。

だが元禄11年の江戸大火のあとで火つけの疑いで、根津権現一帯が包囲されサンカ皆殺しの前例すらあったから、つい思いきって尋ねてしまったのである。しかし当時の総指揮官だった前憲兵大尉のフィクサーが顔色を変えただけで否定しなかったのだから、相当数のサンカと睨まれていた人たちが、大震災のどさくさ紛れに退治されたらしい。なにしろ「国賊」と面罵されるくらい当時は誤解されてしまっていて、反体制視されていた存在だったのである。

ゴキブリみたいに見つかり次第に皆殺しにされる宿命が、約千年も藤原王朝によって続き、今も伝承され引きつがれてきたせいとみられる。勝てば官軍だが、負ければ賊軍となる国である。

つまりサンカの歴史とは、千年前に敗戦し賊軍となった後にも、オカミに対し帰順帰化して、そのオオミタカラの民となって世襲財産となるのを拒んで山海へと逃避行してからなのである。

昭和60年代になって初めて、「わが建国は6世紀・7世紀」と、お言葉が隣国大統領へお仰せられる世になったが、それ迄のジンム、スイセイと丸暗記の時代にあっては、反藤原体制の彼らサンカなる徒輩は認めがたく許せぬ存在で、抹消してしまう為に殺掠。もしくは明治初期には、「文明開化」の怒涛のごとき輸入に対して、ソニーもホンダもない当時ゆえ輸出して決済するものがなかったせいもあって、昔の堺の納屋衆のごとくに横浜関内に捕えてきたサンカを奴隷として、人間倉庫をたてた。そして出向証明書なしの棄民として、フィリッピンのベンゲダット鉄道工事への7600人を始め、ハワイやアメリカ、女はボルネオのサンダカンへ、島原半島の三角湾倉庫から次々に送られた。彼らを国内から一掃するごとく仕向けられ、これへの反撥が、やがて秩父事件となる。

*「民族融和事業会」というのは大和民族は単一民族なりと国民を戦争させるに好都合のごとく、義務教育で低学年の小学生から叩きこんできた明治・大正のオカミ内務省の警保局が、人民からの税金で設立の傘下団体である。だからして下部団体なのに東大出でも月給30円の時代に、本俸300円、機密費200円の計500円もの莫大な給与で働かされた人物もいたのである。

*なにしろ昭和60年2月11日の東京新聞一面の「筆洗」の35行目に、勿体ないことだが、「・・・ここに至って、さきに韓国大統領を迎えた際の陛下のお言葉が一石を投じる。陛下は、『紀元6,7世紀のわが国の国家形成の時代に・・・』といわれた。“神武建国”を否定されたのである・・・」と、日本列島の国家形成を白村江敗戦からである、とされているのである。

国の象徴であらせる御方が畏れ多くも、仰せられ遊ばしたものゆえ、白村江敗戦で唐の高宗の則天武后制定とされる則天文字つまり漢字の使用時が、統一国家形成とせざるをえないようだ。

(管理人=ソウルマン)
本書に書かれていることは、ほとんどの現代の日本人は知らないだろう。
「国民に本当の歴史を教えさせない」ことを至上命題にしてきた学校教育の賜物である。
「お前ら大衆は、我々が真実だと伝える嘘の歴史を信じとったらえーんじゃ」という「彼ら」の意図です。
その最たるものが「サンカの歴史」なのです。
これまで「真実の日本史」を書き続けてきた八切氏も、このサンカについては書くことを躊躇していたらしいです。それだけヤバイことらしいんです。
「これまで災害等のドサクサに紛れてサンカが大量に殺されてきた」という史実があり、「こういった黒歴史がいつ復活してもおかしくない」と八切氏は感じていたからなのです。
はっきり言って、サンカは支配勢力の敵でした。何故か?
はい、「彼ら」支配勢力にとって非常に都合が悪い存在だからです。
納税の義務、徴兵の義務、戸籍の義務を果たさないからです。
今なら「ワクチンの義務」を果たさない私のようなものでしょう(爆)

これらの「義務」から逃れるために、サンカは山等へ逃げたのです。
7世紀から江戸時代までの支配勢力は、唐から来た藤原氏を中心とした外国勢力でした。
サンカは日本原住民勢力の末裔です。
ところでサンカをネット検索すると、こう出てきます。
「調べてはいけない」と・・・
もう十分調べてしまったが(笑)
それだけヤバイ存在であり、支配勢力は国民から隠しておきたい存在らしいのです。
まぁ、今回はこのぐらいにしておきます。

「つまり親方中国が幕末まで銀本位貨幣制だったゆえ、藤原王朝の孝明帝が薩摩によって斥けられるまでは、三島から九州の涯(はて)まで日本も銀本位だった。本能寺を爆発させ信長主従30余と、ついで旧二条城へ逃げこんだ織田信忠一行をチリー硝石で全滅させたのも、マカオ貿易から銀本位貨幣制度を金本位に換えようとした織田政権を蜷川道斎が姪の夫の斎藤内蔵介に軍資銀をだしての仕業。」 by 八切止夫 | 嘘八百のこの世界

「つまり親方中国が幕末まで銀本位貨幣制だったゆえ、藤原王朝の孝明帝が薩摩によって斥けられるまでは、三島から九州の涯(はて)まで日本も銀本位だった。本能寺を爆発させ信長主従30余と、ついで旧二条城へ逃げこんだ織田信忠一行をチリー硝石で全滅させたのも、マカオ貿易から銀本位貨幣制度を金本位に換えようとした織田政権を蜷川道斎が姪の夫の斎藤内蔵介に軍資銀をだしての仕業。」by八切止夫

「サンカの歴史」②八切止夫

*この八切史観や八切史学と称されるのは「誰が書いた」とか「誰が残した」など問題にせず、「何の目的で書かされたか」「何故に今まで残されているのか」と、その存在理由を問うというか、疑問をぶっつけ常識で解明してゆく事に始まる。前述したが、考える事なのである。

「コケの一念、岩をもとおす」というのが、正直この前人未到となったのであるといえよう。

*「民友社」を創立し「近世日本国民史」を刊行した徳富蘇峰も、これには弱ったらしく村岡素一郎著「家康は特殊地出身の世良田の二郎三郎」の「史疑徳川家康事蹟」を同社から出した処、華族会の要請で明治神宮内省より弾圧をうけ、紙型もろとも在庫を買上げられ自発的絶版にした。
・・・・・(中略)・・・・・
「華族は皇室の藩屏(はんぺい)にして」と明治17年7月7日の華族令が発布されたのに、その華族会長徳川家の御先祖がエタ非人では困るから国庫補助で、総予算丸抱えの東大に、明治文部省より、命令したのであるらしい。だから私は東大史学科は信用しない。

*なにしろ日清戦争に勝って対等となるまでは、現代のアメリカの代りに中国が親方でトウゲン王朝を倭訓フジハラ王朝とし京の蜷川財閥が一切を仕切っていたのは「阿片戦争」でも判る。当時は「清国」となっていたが親方が銀本位制で、「足銀」とよぶサンダル型に純銀をかため避難の時には足に履いて全財産を運んでいて、日本も箱根以西は同じ銀制だったのである。

今でもマカオで純金のことを24金とよばず足金と言うのはこの名残りだが、銀しか鉱産されぬヨーロッパの銀の80パーセントを通商決済に、ラテン系発音の国ではキタイ。英語国ではシノア(チャイナ)とよぶ中国が各国より取りこんで集めすぎた。そこでバイキング英国勢力が銀を取り戻すため、夥しいインド阿片を大量密輸した。やむなく麻薬取締を敢行した林将軍は戦争を怖れる北京朝廷に左遷された。つまり親方中国が幕末まで銀本位貨幣制だったゆえ、藤原王朝の孝明帝が薩摩によって斥けられるまでは、三島から九州の涯(はて)まで日本も銀本位だった。

本能寺を爆発させ信長主従30余と、ついで旧二条城へ逃げこんだ織田信忠一行をチリー硝石で全滅させたのも、マカオ貿易から銀本位貨幣制度を金本位に換えようとした織田政権を蜷川道斎が姪の夫の斎藤内蔵介に軍資銀をだしての仕業。だが一向宗の説教節で仏罰があたって信長を光秀が殺し共倒れで仆れた(倒れた)と宣伝された儘である。徳川政権が「有難やの有難や」で始まる説教節を黙認して流行させたのは、信長殺し黒幕が権現さまとは知悉されていたから光秀に転化をしたらしい。

*「コケシ」つまり子消しの名称で、現代では御土産品として鳴子あたりでは売られているが、「お白さま」と昔は称され、男女をなんとか一対に添わせてくれるなら、子供が生まれて迷惑なら子おろしをして消しても構いませんと、木の棒の頭に白紙や布で丸めたのをかぶせて、祈願の箱入れにしていた。

*神社は騎馬民族系で新羅を同音の「白木」と呼ぶ処の白木の社である。さて紅殻塗りの朱色の、「堂」とか「宮」と呼ばれる八坂さんや祇園さん、安芸の宮島。俗に稲荷の当て字を吉田神道でされている処の「夷也」、これも赤鳥居だが、こうした解明をこれまで誰もしていない。そのくせ、この人口が日本列島原住民の大半をしめる。だから今でも日本人は七五三の際でも、「お宮参り」はするが、お社参りとは言わないのである。

菊池三哉の「日本の特殊部落」でも、四つの白系までは解明しているが、この肝心な民族カラー赤色の方は未研究だった。が、共に「前代サンカ」の基盤となる民族ゆえ、双方とも反仏派であることに違いはない。だから、「寺」派は、極楽浄土へゆくため葬われ供養をうけ、ねんごろに墓地へ埋められる。

が、反対の「神祇」派は、反体制の反仏教ゆえ、神社や祠堂や、お宮には、墓地は許されていない。だから埋葬ということはありえない。幕末になっても、遺体を寺へもってゆけば、銭を納めても、「畜生塚」とよばれる孔へ放りこまれるだけだったから、「投げこみ」と言われるのである。

「新選組」と名のった連中が、壬生の八木源之丞宅の屯所を半年たらずでやめ、当時は部落搾取で繁栄していた西本願寺の本堂横の、大会所を占領してのけ、参詣人も来られぬように本堂前で打ち首をして屍体をいくつも転がし、洛中の各寺ばかりでなく仏壇屋やケサ衣販売店へ、「坊主憎けりゃケサまでニクい」と放歌高吟して、隊伍を組んで次々と荒らし廻っていたのは、「幕末の群像」にもあるように、日野や百草や卑地方とよばれた近藤勇や土方歳三らの出身地が弾左衛門地であって、死んでも葬いは許されず、投げみの畜生扱いだった寺、つまり仏教の意趣返しに、彼らは「誠」の旗をたて、日本最初の制服集団として、明治元年の廃仏稀釈の先払いみたいに振舞い、鳥羽伏見の敗戦まで反仏破損を続けたのである。つまり明治以降の、「価値転換」ともいうべき「神は拝むもの」と一変させられてしまうまで、占領軍宗教の黒染の衣と、反仏神祇とは全然あい入れぬ睨みあいの儘でサンカ信仰の天神崇拝も反体制サイド。

*それでは、いつから、さも日本古代よりの信仰のごとく、仏教が国教みたいにされたかといえば、「野史辞典」の「衛生ごっこ」の項目にあるみたいに、新選組によって徹底的に西本願寺がいためつけられてしまい、代って東本願寺が隆盛となり、そこからアラヒトガミさまの東宮さまに妃殿下として入られた為で、大正官憲が寺内墓地の広さが限られているゆえ衛生上の理由で、「火葬埋葬法」という法律を作り、誰も彼も墓地を借りねばならぬよう義務づけたからである。

「何々家先祖代々之墓」といったのが、大正年代でみな刻みこまれているのであって、それ迄は貧乏で墓がなかったわけではなく、法律でそうされたからに他ならないのである。隠れシノガラで戸籍で作られていない人たちは、今でも墓などは、誰一人として作ってはいない。

*今では判らなくなっているが、信州上田の真田一族のごときは、サンカ集団ではよく戦った一例である。もちろん白サンカ側だった徳川方とは内ゲバみたいなものだが、この衝突の原因は徳川家康が大坂を仆すために、なりふりかまわず京の蜷川財閥に対し、銀本位貨幣制を守る約定を申し入れて、その資力で西国大名の裏切りを取りつけての関ヶ原合戦ゆえ、信州上田で真田昌幸は当時としては莫大な一文銭6枚、江戸開府時でも髪結いが一文だったゆえ、一文は今なら約2500円で日当15000円の募兵をなし、猟師たちを集めた。

それに対して、昔は武蔵七党と謳われたものの足利時代の狩りこみをされ、橋のない川の荒川筋の三河島や尾久島に居付きさせられていたのを解放して武装させたのを、徳川秀忠直属につけて向わせた。のちに江戸創業に功のあったとされる三河譜代の者たちである。今では「みかわ」と呼ぶから判らなくなるが、三河はサンガ、つまりサンカであるが、彼らは高麗系新羅系白サンカで室町御所では、「白旗党余類」と侮称し、公文書では反体制の非人と、されていた者たちである。だからして赤サンカとはいえ六文銭の旗印で募兵しながら攻めてくるのへ、徳川勢は突入をためらっている裡に、日数がのびにのびて関ヶ原合戦に間に合わず遅れてしまった。
・・・・・(中略)・・・・・
のち大坂城に招かれ入ったものの仏教徒の淀どの始め取り巻き連中から、反仏派の真田一党は、「けがわらしい」と、陰口を叩かれて、やむなく三の丸の外へでて真田丸を築いたのである。

なにも勇敢で戦さ好きだからと、今の大阪市内の大半を占める城の三の曲輪の外へでて、己が陣所をかまえたりしたわけではない。白サンカは馬鹿と四つ足の動物名で侮称されて非人とされ、赤サンカは水のアをとって阿呆とよばれ江多と当時でも、反仏派から差別をされていた。

それでも仏教側の淀君らは、赤旗と白旗や金色旗印に分かれていても、同じサンカゆえ徳川方に裏切りはしまいかと、伜の真田大助を人質にして秀頼の監視下において見張ったのである。

(管理人=ソウルマン)
村岡素一郎著「家康は特殊地出身の世良田の二郎三郎」の「史疑徳川家康事蹟」の一部を下記から引用する。家康はフォールと同じような偽物だったらしい・・・

徳川家康の影武者説 - Wikipedia

影武者説の発端

徳川家康は江戸時代を通じて神君とされていたため、その出自を疑う者はいなかった。1902年(明治35年)4月、徳富蘇峰が経営する民友社から、地方官吏であった村岡素一郎が『史疑 徳川家康事蹟』という書籍を出版して家康の影武者説を唱えた。文学博士で元内閣修史編修官・東京帝国大学文科大学教授の重野安繹が、この著書の序文を記している。

影武者説の概要

村岡素一郎によれば、「松平広忠の嫡男で、幼名は竹千代。元服して松平二郎三郎元信と名乗った人物は、正真正銘の松平(徳川氏)の当主である。桶狭間の戦いで今川軍の先鋒として活躍したのも、この竹千代(当時は元康)である。しかし元康は桶狭間の戦いで今川義元が死去した後に独立したが、数年後に不慮の死を遂げた。そして、その後に現れる家康は、世良田二郎三郎元信という、全くの別人が成り代わったものである」という説を村岡が着想したのは、林羅山の著書『駿府政事録』の1612年(慶長17年)8月19日の記述である。村岡は以下のように引用している。

駿府政事録に云ふ、慶長十七年八月十九日御雑談の内、昔年御幼少之時、有二又右衛門某云者一、錢五貫、奉レ賣二御所一之時、自二九歳一至二十八九歳一迄、御二座駿府一之由、令レ談給、諸人伺候、衆皆聞レ之云々。公が此の自白の述懐に據れば、公は幼少の時、又右衛門なるものに、錢五貫を以って鬻賣せられ、九歳より十八九歳迄、駿府に在住せられしと、此比は人の子女を勾引して賣買したることあり、公も此の災厄に罹られたるなり、陪席の左右侍御輩皆之を聽けり— 村岡素一郎著、『史疑 德川家康事蹟』14頁

「(大意)
『駿府政事録』にはこうある。慶長十七年八月十九日、家康が雑談の席で「私は子供の頃、又右衛門ナニガシというものに銭五貫文で売り飛ばされ、九歳から十八歳、十九歳まで駿府に居たのだ」と語ったというのだ。家康公は戦国時代よくあった誘拐にあい、売り飛ばされていたのである。家臣達はみな、この話を聞いていたのだ。 」

当時、松平広忠は今川義元の庇護を受けるため、息子の竹千代(家康)を駿府に人質として送ろうとしていた。しかし、広忠の継室真喜姫(田原御前)の父である田原城主の戸田康光が今川家と松平家を裏切り、竹千代は織田信秀のもとへ売られた。後に織田信長の庶兄である織田信広が今川軍に敗れて捕らえられたため(安城合戦)、その信広と交換されて駿府に送られた。その様子を家康が語ったものとされている。

村岡は戸田家が竹千代を売ったことを否定しているという。しかし、康光を始めとする今川家を裏切った戸田一族は今川家に滅ぼされており、否定したという戸田家の人物は不明である。なお、近年になって、アカデミズムの側から戸田家が竹千代を売った事実を否定する見解が出されるようになっているが、結果的に影武者説についても否定することになるため、後述する。

影武者・世良田二郎三郎元信

村岡素一郎は元康と入れ替わった人物を「浄慶」、後に「世良田二郎三郎元信」と名乗った願人であると推定している。彼の母親は、ささら者(賤民)の娘である於大、父親は新田氏嫡流(新田氏支流江田氏)で下野国都賀郡小野寺村出身の「江田松本坊」という祈祷僧としている。天文11年12月26日(1543年1月31日)、駿府の宮の前町で生まれた子は「国松」と名付けられたが、松本坊は彼が生まれた直後にどこへともなく出奔したとしている。

母子のみでは養育する事が出来なくなった於大は、有度郡石田村の富士見馬場にある久松土佐の家に再嫁する。異父弟の三郎太郎康元が生まれると、於大の生母で祖母にあたる源応尼に国松の養育を頼んだという。その後、国松は東照山円光院の住職・智短上人の門に入って「浄慶」と改名したとしている。しかし今川家の菩提寺で殺生禁断の地とされた増善寺山内で小鳥を捕らえたため、師から破門されたという。その後、浄慶は駿府を放浪していたが、又右衛門という男に攫われて、子供を欲しがっていた願人の「酒井常光坊」に銭五貫で売られたという。村岡は、願人を妻帯肉食の修験者と説明している。

こうして少年時代を過ごした浄慶は、1560年(永禄3年)に「世良田二郎三郎元信」と名乗る。実父の松本坊が新田氏の末裔と称していたため、世良田姓を名乗ったという。そして同年4月の桶狭間の戦い直前、元信は元康の嫡男で駿府に人質としてあった竹千代(のちの松平信康)を誘拐して遠州掛塚に逃走したという。これが原因で、源応尼は同年5月6日に処刑されたとされる。

そして桶狭間で今川義元が織田信長に討たれて今川氏が混乱すると、「世良田二郎三郎元信」は同志を集めて浜松城を落とし、さらに勢いに乗じて三河を攻略しようとしたが、松平元康に敗れて尾張に逃れる。信長と水野信元を使い、元康に今川から離反するよう説得する。しかし元康が断ったため、怒った信長は、信元に命じて元康を攻撃する。しかし、元信が期待したような本格的な侵攻にならず、孤立した元信は元康に降伏し、信康の身柄を元康に返還することを条件に罪を許され、その家臣になったという。

これら、「世良田二郎三郎元信」の経歴やその父江田松本坊なる人物は徳川氏に伝わる始祖松平親氏の伝説と類似している。親氏は新田源氏の一族、世良田有親の子として生まれ、時宗の遊行僧として三河に漂着、酒井氏の入り婿になった後、松平氏の婿となったと伝えられている。しかし、この伝説には疑問も多く、松平氏の先祖を粉飾するための伝説とされている。

徳川は自身の出身の秘密を暴露された書を廃刊に追い込んだのだ。何もやましいところがないのなら、正々堂々と筋道を立てて反論するべきなのだ。そもそも明治維新で敗れた側の徳川が明治以降も権力を握っていること自体がおかしいのだ。維新側が徳川と本当に対立していたならば、明治以降は徳川の正体は国民に周知されているはずであり、出自を偽って本物と入れ替わった偽物大名家であることを誰もが知っていたはずである。

そうならなかったのは、明治維新が八百長であったことの証拠なのだ!

ところで、トウ由来の藤原王朝以来、当時の日本は銀本位貨幣制度だったらしい。勿論、支配層の母国である中国も同じであった。金は通貨でないから、茶室や金閣寺など“貨幣価値のないもの”として使われていたようである。ほとんどの日本人は知らされていない。

 論考 『足利義満』 足利義満と金 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

金が無くて倒産というのはある。だが大阪城のように天守閣には割竹に流し込まれた金の延べ棒が山積みされていて落城してしまった事実は何を意味するのだろう。
分銅流しとか竿金の名称で「頑丈な天守の床板が軋む程に積み上げて在った」と記録にある。有り体は、この時期においても金はカネでなかったことである。
大阪落城後の焼け跡に岩のようにごろごろしていた黄金を、略奪したり、掻払った兵もいない。「汝に悉皆みな呉れてやる」と家康に言われて全部貰った籐堂高虎も有難迷惑そうに集めて茶釜や茶壺を作っている。

歴史屋は(猛烈な炎に焼きただれていたゆえ、そうした用途しかなかったのだ)と説明する。だが鉄屑のスクラップを溶かして新鉄にするごとく銀でも金でも火力のため黒ずみは表面に出るが変質することはない。高虎にしても、黄金がカネなら茶壺など作らず通貨に鋳造し直す筈だし、それより吝な家康が気前良く皆呉れてやるはずはない。

これは家康が元和元年五月の時点で、黄金とは単なる装飾用軟質金属にすぎず、まだカネではないと認識していた例証でもある。

十六世紀と現代では様々な事象に対して評価が逆なのを理解しなければならない。「黄金の茶室」を秀吉が作ったからと言って、さも豪華絢爛だったごとく目を奪われ間違えるが、金閣寺や金色堂と同じように、廃物利用とはいえぬまでも、余っているから使ったに過ぎないらしい。

当時ヨーロッパ各国もルネッサンスの為のバブル金儲けの植民地政策上、従来の銀本位制から金本位制に切り替えていたゆえ、織田信長もポルトガルとの火薬輸入決済に日本を金本位に切り替えようとしたらしい。

しかし、当時の日本の銀の大半を支配していた蜷川道斎に忌まれ、その姪の夫にあたる丹波亀山在城目付の斉藤内蔵介に率いられた一万三千の軍によって本能寺で爆死を遂げた。(この内蔵介を影で操った黒幕が家康なのである)

 次の秀吉も大陸遠征の火薬や資材購入のため、やはり対外的には金で決済だったゆえ、金本位制に貨幣制度の切り換えを目論んだ。その計算の元彼が作らせたのが、日本最初の金貨である天正大判小判なのである。だが秀吉の権勢をもってしても、足利時代から連綿として続いてきた蜷川財閥金融資本の銀は強く、切り替えは出来なかった。

やむなく勲章代わりに各大名へ与えたり、公家を集めて「金配り」とばらまいたと言うのも、金本位移行の為の布石か、又は蜷川勢力に勝てぬ事への鬱憤ばらしとも考えられる。

この計画のため、佐渡金山を取り上げ、上杉景勝を会津百万石へ移封させもしたが、雄図空しく金がカネにならず、用途を失った地金がやむなく大阪城に山積みされていただけの話しである。

だから無価値な黄金を貰っても仕方ないと、諸大名も味方しなかったのである。大正官憲が寺内墓地の広さが限られているゆえ衛生上の理由で、「火葬埋葬法」という法律を作り、誰も彼も墓地を借りねばならぬよう義務づけたからなのだ。

そして支配層の母国である中国由来の仏教と、日本原住民の神道は、根本的に相いれないものであった。「墓は寺にあっても神社には無い」理由はここにあったのだ。そもそも墓の習慣は日本古来のものではないのだ。日本原住民は「幕末になっても、遺体を寺へもってゆけば、銭を納めても、「畜生塚」とよばれる孔へ放りこまれるだけだったから、「投げこみ」と言われた」のだ。「新選組」も、仏教勢力に恨みを持っていた日本原住民であった。だから「坊主憎けりゃケサまでニクい」となるのである。でも幕府側であった「新選組」が明治になる前から仏教勢力に実力行使をすることができた理由が今一つ分からない。薩摩の廃仏稀釈はよくわかるが。

そして、「「何々家先祖代々之墓」といったのが、大正になってからだ」というのも驚きだ。

真田一族は赤サンカであり、徳川は白サンカであった。つまり、サンカ同士で戦ったのだ。「仏教勢力だった淀どの始め取り巻き連中から、反仏派の真田一党は、「けがわらしい」と、陰口を叩かれて、やむなく三の丸の外へでて真田丸を築いた」というのが真田丸の真相なのだ。併せて淀どのはサンカ同士による裏切りを危惧していたのだ。秀吉は日本原住民系であるが、仏教勢力だった淀どのに惚れたということなのだな。そういえば、一時藤原姓を名乗っているときがあったように、自分の出自をよく見せようとしていたのだろう。

それにしても、「こけし」の由来が恐ろしすぎる。
土産品として購入する人がこのような歴史を知る由もないのは言うまでもない。
最後に八切氏は、さりげなくこう書いていました。
藤原王朝の孝明帝が薩摩によって斥けられる 」と。
天皇入替事件は、明治大正の人にとっては「常識」だったんですよ。
いまだにそんな「常識」を身に着けることなく明治維新を語っている人は・・・

「戦国時代に切支丹大名が多かったのも、信仰の為ではなく火薬入手の手段だった。判りきったこんな明白な事実でさえ、明治軍部は国民を無謀な戦争にかりたてるため、(国内に火薬の原料なし)を隠すために歴史家を黙らせたのである。さて戦後26年。今になっても歴史家は一人も知ってか知らずか、この事実を発表しない。また吾々をどうするつもりかと、ここに告発したい。」by八切止夫 | 嘘八百のこの世界

「隠匿の日本史」③八切止夫

*日本人が戦国時代に奴隷に売られて、男は印度から馬来半島方面のポルトガル領の植民地に、容色のよい女は、魔女裁判によって多くの女性を焚殺(ふんさつ)したヨーロッパへ送られていたことは、あまり知られていない。
・・・・・(中略)・・・・・
さて従来の日本史は、(ギネア海岸からのアフリカの黒人を、聖ドミニカ派の宣教師が、現在のリスボンを集散地として、南米へ送りこんでいたが、天文12年以降は、現在のマカオが、ポルトガル人による日本人奴隷の一大集散地だった)といった事実を隠している。だからして、織田信長が何千人も殺してしまったといった記載など、当時としては、「奴隷に売れば儲かるものを、もったいない事をしたもんだ」といった受け取り方で記録されているのに、今の歴史家はそれを知らず、「信長は残忍だった。だから本能寺で殺されたのは因果応報である」などと説明する。あまりに不勉強にすぎないのではなかろうか。

ただ歴史家とは認められていないひとだが、徳富蘇峰の『近代日本国民史』に、「後戸(五島)・平戸・長崎にて、日本人を男女を問わず数百人ずつ黒舟が買いとり、手足に鉄の鎖をつけ舟底へ入れて運び去るは、地獄の責苦にもまさって、むごい有様である」といった実施にみた大村由己の、『九州動座記』の奴隷売渡しの実況が挿入されているだけである。由己は豊臣秀吉の祐筆頭(ゆうひつがしら)で、これは当時の公文書である。
・・・・・(中略)・・・・・
さて天文12年以前においても、古くは源平合戦の起因となる神戸福原からの原住民を奴隷輸出された事実や、室町時代においても、四国の三好氏や山口の大内氏は、日本原住民を捕えこれを明国や南蛮船に売っていた。

また羽仁五郎の『都市の論理』において、「アテネの人口は市民9万に対して奴隷は30万いたから、憲兵や警官のごとき仕事は奴隷の仕事であった」とかかれているのは前述したが、西暦1603年(慶長8年)の、「ゴア(印度)人民のスペイン国王フェリッペ2世陛下への上申書」にも、「当地の白人はひと握りしかいません。軍人とし陛下の城砦を守っているのは、白人の56倍いる日本人奴隷で、好戦的な彼らは鉄砲をもち土民を撃退しています」とある。

インドやマカオでは、奴隷の日本人が、「軍人」として使役されていたのである。

*もし中学校か高校の地図をもっていたら、マライ半島の部分をひろげて頂きたい。そこの南シナ海に面した部分は今でも、「バハン州」である。そして戦前の地図は、「バハン土侯国」の文字がシンガポール以北にあり、バタビア日記など古いものには、「Pahang」の名になっている。私は春にリスボンへ行ってきたが、今でもポルトガル人は、マライとよばずに彼らのつけた、「バハン」とよぶ。これはマラッカのベンハーの丘に城砦をきずいて同地を占領した、「バハン侯爵」の名をとったものだそうだ。

つまりバハン侯爵が軍艦にのり、捕鯨船のキャッチボートのような小舟に、日本人奴隷をのせ掠奪をやらせていたのであるらしい。

五島列島の王直らのような倭寇も、ボスは中国人で末端の消耗品が奴隷日本人だった。それより何故日本人が、こんなに奴隷に売られたのか?これまでの日本史では極秘である。というのは今日の日本史は明治帝国主義の所産だから、これは明治軍部のせいだろう。

真相は天文12年に銃器が種子島へ渡来。器用な日本人は直ちにそれをまねて精巧な銃も作った。しかし、硝煙とよばれた硝石は、現在でもそうだが日本では一片も産出しない。みな輸入に依存するしかなかった。鉄砲があっても火薬がなくては戦争できぬ立場にあった。

よって、しめしめとばかり黒人の奴隷売買で味をしめたドミニコ派の宣教師が、マカオよりの火薬と交換に、日本人を牛馬のごとく買ってゆき奴隷転売にしたのである。 戦国時代に切支丹大名が多かったのも、信仰の為ではなく火薬入手の手段だった。 判りきったこんな明白な事実でさえ、明治軍部は国民を無謀な戦争にかりたてるため、(国内に火薬の原料なし)を隠すために歴史家を黙らせたのである。さて戦後26年。今になっても歴史家は一人も知ってか知らずか、この事実を発表しない。また吾々をどうするつもりかと、ここに告発したい。

(管理人=ソウルマン)
ここで改めて分かったこと。

・イエズス会宣教師だけでなくドミニカ派の宣教師も日本人奴隷売買をしていた。
・織田信長が何千人も殺してしまったといった記載などは、当時は、「奴隷に売れば儲かるものを、もったいない事をしたもんだ」といった受け取り方で記録されている。
・長崎だけでなく神戸福原からも日本原住民が奴隷輸出された。
・室町時代においても、四国の三好氏や山口の大内氏は、日本原住民を捕えこれを明国や南蛮船に売っていた。
・インドやマカオでは、奴隷の日本人男性が、「軍人」として使役されていた。
・バハン侯爵が軍艦にのり、捕鯨船のキャッチボートのような小舟に、日本人奴隷をのせ掠奪をやらせていた。

八切止夫氏は「戦国時代に切支丹大名が多かったのも、信仰の為ではなく火薬入手の手段だった。判りきったこんな明白な事実でさえ、明治軍部は国民を無謀な戦争にかりたてるため、(国内に火薬の原料なし)を隠すために歴史家を黙らせたのである。さて戦後26年。今になっても歴史家は一人も知ってか知らずか、この事実を発表しない。また吾々をどうするつもりかと、ここに告発したい。」と訴えておられるが、戦後79年が経過した令和6年の今現在も、この訴えは無視され続けている。

テレビ・学校教育によってフールにされまくっている現代日本人は、誰もこのような「真実の日本史」を知らない。「何故どうして」という疑問は否定され、何も考えずに暗記のみに終始する「偽装教育」を受け入れさせられ、「物事に何一つ疑問を持たないシープル」に養成させられる。少しばかりの娯楽を与えられ、「我々は自由だ」と思わされ飼いならされる。

大谷翔平の活躍を自分の活躍だと誤解して受け入れて満足し、何も考えずに黙って遺伝子組み換え治験注射を6回も7回も受け入れてしまう。そして何も考えずにその生涯を終えていく。

日本原住民が奴隷にされてきた歴史を知らない大多数の現代日本人は、自分が奴隷にさせられていることにも一切気づかない。そして何も考えずにその生涯を終えていく。
あの世に逝っても騙されたまま・・・

(いまでも米国から軍事兵器を買うために、国民には重税を課せられ、奴隷のような生活を強いられているのを、海外の人たちはウサギ小屋に住む、エコノミックアニマルと、特にワシントンの偽ユダヤ連中は本音でほくそ笑んで、蔑んでいる。)

「会津の上杉景勝というのは、 「上杉謙信」とよぶひとの姉阿亀の子ゆえ、彼が男なら、英語でいうアンクル。スペイン語では(TIO)でなくてはならぬ。なのに、 「叔母」という報告を、フィリッピンから日本へ当時渡ってきた修道士や舟乗りが、その王様のフェリッペ1世に報告していたというのは、これは、どういうことであろうか?」by八切止夫 | 嘘八百のこの世界

「隠匿の日本史」④八切止夫

*「スペインのトレドへ行くと、未整理の日本の戦国資料がありますよ」と教われば、そちらへも私はバカ正直にすぐ飛んでいったものである。

さてトレドというのはフェリッペ1世が、マドリッドを首都にするまで君臨していた山の中の城下町だが、そこの僧院へ行って500ペセタ奉納して見せて貰った中に、「黄金情報」というとじこみがあって、「アイドのウエスゲはそのTIAの開発したサドの純金を沢山もっている」という当時の日本からのレポートにぶつかった。その時は信長関係をあさっていたので、あまり気にもしなかったが、あとでコピーを訳していって、その(TIA)にひっかかった。

なにしろ、会津の上杉景勝というのは、「上杉謙信」とよぶひとの姉阿亀の子ゆえ、彼が男なら、英語でいうアンクル。スペイン語では(TIO)でなくてはならぬ。なのに、「叔母」という報告を、フィリッピンから日本へ当時渡ってきた修道士や舟乗りが、その王様のフェリッペ1世に報告していたというのは、これは、どういうことであろうか?

*さて、その無宿の名称たるや、「無宿者」といえば、今ではまるで犯罪人のような感じを一般に与えているのは、「現今の戸籍のように、誰もが人別帳に入っていて、それを削られたから無宿者」といった観念がひろまっているせいではなかろうか。だが実際は違うのである。寺の人別帳に入っていたのは百姓衆だけで、お役人とか木こり、炭やき石切りなどは初めから人別帳には無関係な存在だった。

前にかいた陽の民族は、寺の人別帳に、「生まれた時から名をかきこまれ、年貢をとられたり助郷(すけごう)とよぶ伝馬(でんま)の労力奉仕を課せられていたが、原住系の蔭の民は、寺や領主とは関係なしに、各地の何々大夫又は、弾左衛門とか弾正とよぶ者の支配下にあって、まるっきり人別には係りなしだったのである。

つまり二つの民族に分かれていたのだが、往々にして人別帳に入っている者の中から、法度(はっと)とされていた駆け落ち者や心中のし損ない、破戒坊主が出た場合、これを陽の側では、人別からはずして蔭の民の方へと廻した。そして「非人」とこれをよんだ。

蔭の民の方は、これは奴隷みたいなものだから、女は遊女にして稼がせたが、男は使えるだけ使わねば損ゆえ、これを罪人の処刑人などに用いた。

よく罪人の引き廻しや槍で突き殺すのがそれだが、映画でみても、ぼろぼろの恰好をしているから、あれが無宿者かと間違われやすいが、「人別に入っていて削られた非人」と、初めから人別帳に係りあいのない蔭の民の無宿者とは、まるっきり性質が違うのである。この陽の民と蔭の民の争い。つまり、「高家」とよばれる陽の足利家の流れをくむ吉良上野介と、浅野弾正の名でも判る蔭の民の浅野の支流の内匠頭の衝突は、乱心でもなくケチでもなかった事が、こうかけばそれで想像がつくというものであろう。

しかし、その後徹底的に調べあげたところ、浅野は当日になって老中小笠原佐渡守によばれ、「なんとしても吉良が抜刀するよう仕向けい。如何に振舞うても咎はせぬ」と命令された。

そこで挑発するごとくチョイナチョイナと突いたり叩いたが吉良はのってこずに未遂におわった。すると浅野はすぐに坊主部屋につれてゆかれて切腹どころか烏帽子のままで斬首されてしまっている。

*世直しせんとする日本列島原住民のエネルギーがミナモト政権をたてたが失敗し家康を勝たせたが家光の代でまた逆転。寺百姓とかド百姓といわれた奴隷なみの者らは寺人別に入れられ束縛された。が、終には人別に入らない蔭の民は非人間とされた。

それゆえお蔭まいりと各地に蜂起した蔭の民は叉も変革を求めて一新の世にした際、寺人別を廃し神社人別を明治5年つくった、氏子札ともいう。がまた2年で敗れた。

*<続古今集>の中にも、
「エぐ(影供)し侍りしに」と、えは影に用いている。今こそ、「ええ女を持っとってええな」といえば、(綺麗な彼女をなんして良いな)の意だが江戸時代の浄瑠璃ではまた、「えおんな」とは「隠し女」のことで、近松門左衛門の作品でも「身うけの銀さえ払うて下されまするなら、え女になって囲われてもいとやせぬ」とある。

つまり、「え=陰」だから、大村崑と小さな娘が出てくるCMで、しきりに、「ええ事しはる」と乱発するが、本来の意味は陰事を行なう、つまり淫事をなすの意味である。

何故かというと、出雲系日本人の神話に、「天橋立に立っていた女神がよき相手とみられる男神を見つけ給うて、『えな男』とよっていかれ、衝動的に立ったままで行為を遊され、その落ちた樹液の雫によって、樹氷のようなオオヤシマ列島が出来上がった」というのが話の起りで、やがて船舶をつらねて渡海してきた文化民族のために追われ、「えの民の逃げた島」ゆえ、「えだじま=江田島」「えのしま=江の島」と、いった地名や、東京みたいに、「えど」となって、えばらやえこだの地名すら今もある。

山岡荘八氏の小説などでは、徳川家康が「厭離穢土(おんりえど)」の旗をたてて進むが、穢土を好こうが嫌おうが、江戸はエドでしかない。そして今でこそ、当て字だの間違い字だのと、会社の入社試験でもうるさいが、「珍文漢文わからない」と明治になっても、当時の団珍新聞が政府通達の漢文字入りを批難したように、まだ大正までの漢字はみな発音の音標なみで、(edo)を発音できれば、穢土でも江戸でも構わなかった。だが江戸時代の江戸人は、こうした意味合いで、できるだけエドとはいいたがらなかったものらしく、「ご府内」「府内」で通し、このため東京都になる以前は東京府とよばれた程である。

つまり本当のことをかくと身も蓋もないが、 「江戸ッ子だア」などとタンカをきりだしたのは、江戸がなくなった明治以降の事であるらしい。

*そして被占領民族であり被圧迫民族である原住民が、「陽の照る所へ出られぬ種族」となり、これが「陰」になり「影」となった。

これを判りやすく簡単に説明すると、「西暦10世紀」の頃に、「われこそはミナモト(原住民)だぞ」と、二千数百あったという捕虜収容所の院地、別所から、白旗を掲げて集まり文治革命を成功させた連中も、やがて足利時代に入ると、もはや彼らは公文書にさえ、「白旗党余類」としか書かれなくなった。

そして、なんとか又陽の当たる場所へでて、「立身出世」を願うのなら、彼らが嫌った坊主スタイルになって、その上、ナンマイダナンマイダと唱えさせられ、「何んとか阿弥」と名のって洗礼をうけるしか他に、官公吏に採用される道はなかった。

それとても暴動でも起こされては大変との配慮から、茶湯、生花、能楽といった安全職種に限られていた。刀の手入れや鑑定が「本阿弥家」だったのもこのせいである。

日本ではヨーロッパ程に芸術が尊重されていないのも、その従事者が<蔭>の民族で、役者や講釈師などが、明治に入っても、「河原者」と扱われたのはこの為で、 今でもタレントが近代ビルの放送局でも昔のやくざの慣習そのままに、あたりが真っ暗でも、「オハヨウゴザイマス」と挨拶し、すこしも働いていなくても、ねぎらって、「オツカレサマ」とやりあうのも賭場の慣習そのもの で、博徒が、長脇差(ながわきざし)と称して、長刀をさしていられたのも、やくざの根源が、「蔭の民」であり、その流れで、戦国武者の末裔である俘囚の子孫だから、寺の人別帳にも入らぬフリーみたいなもので副業に興行をしていた連中だったからである。

(管理人=ソウルマン)

ウィキの上杉謙信女性説より抜粋。

ゴンザレス報告書
スペインのゴンザレスという人物が、日本についての調査報告書を国王フェリペ2世宛てに送った。トレドの僧院にはその報告書が残されており、その中の「黄金情報」というとじこみに「アイドのウエスゲはそのTIAの開発したサドの純金を沢山もっている」(「会津の上杉はその叔母(tia)が佐渡を開発して得た黄金をたくさん持っている)とあったという。この「叔母」は謙信のことであるとしている。

AI による概要でも
「スペイン語で「Tia」は「叔母」を意味します」と出る。

八切止夫氏の情報が間違いであるならば、とっくの昔に誤情報とされているはずだ。
そうならないということは、上杉謙信が女性だった証拠だろう。
八切止夫氏の情報を否定する根拠を示すことができず、「大衆に情報を伝えずスルーする」という方法をとるしかないのである。
大衆を騙しておきたい勢力にとっては。
現在過去未来、この世界は、基本、嘘で構成されており、
真実はひた隠しにされている。
真実を訴えていた八切止夫氏や太田龍氏の書物は、
一般の書店で見かけることはほとんどない。
一般の書店で見かける歴史書は、大衆を騙しておきたい勢力に雇われた御用歴史家が書いた嘘歴史本ばかりである。
自分自身で真実を調べようと努力しない限り、真実にたどり着くことはできない。
新聞・テレビ・学校教育の嘘情報に未来永劫騙され続けるばかりである。
「噓八百のこの世界」においては。

              ☆      ☆      ☆

このように世の中には、表の日本史と裏の日本史があり、真実は自分のなかでみつけないといけないわけなんである。いまの官僚が八切史観が説く裏の日本人で、この古い、ネガティヴな日本人を、いかに新しきポジティヴな日本人で克服していけるかどうかが、この国の課題といえるだろう。





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Last updated  2024年11月21日 18時56分12秒
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