
時間をずらして、14時ころ伺ったのですが、
まだ外に行列が伸びてました。
30分ほど待って、店内へ。
この日は寒かったのよ。
奥さんはチャーシューそば。
この時はスープで目立ちませんが、
かなりチャーシュー入ってました。
私はカツラーメンをオーダー。
ご飯も頼んで、セルフカツ丼とカツラーメンの
二刀流で頂きます。
いつも麺大盛なんですが、初めて替え玉しました。
替え玉と麺大盛は同じ値段なんだけど、着丼から
全部の麺があの旨いスープに絡んでる方が
絶対おいしいわ![]()
はじめから麺大盛を強くお勧めします。
帰り道に、少し寄り道して帰りましょう。
岡山市東区の浮田小学校東側の小山にある亀山場跡。
この城は、備前国東半を支配していた浦上宗景に従う
有力国侍である中山信正の居城でした。
後に信正は、宗景の家臣であった宇喜多直家によって
謀殺され、直家の居城となりました。
直家はこの城を拠点として備前国西半の支配権を達成。
直家が岡山城へ移った後は、舎弟の浮田春家の居城と
なりました。
山城の天守閣あとに上ってみたら、上は少し開けていて、
宇喜多家の旗印が舞っていました。
かなり綺麗に管理されています。
本丸跡にはソテツが植えられています。
当城で生まれた宇喜多秀家(直家の子)は、
関ケ原の戦いに敗れた結果、八丈島に流罪となりました。
子孫が赦免されたのは明治維新後でしたが、
その時八丈島でソテツの花が咲いた(赦免花)という
言い伝えから、植えられた物だそうです。
また宇喜多秀家誕生の地という記念碑が
建てられていました。
二つの岩は、直家とその妻お福なのか。
直ぐそばを山陽道が通り、交通路を掌握できる立地で、
備中高松城水攻めの際には羽柴秀吉も
とう留したとされており、よく時代劇にも登場します。

1582年、本能寺の変の後の中国大返しで羽柴秀吉軍は
備中松山城からこの城まで移動、しばしの休息後、
姫路城を目指したとされています。
亀山城は別名「沼城」とよばれ、
砂川の中流域に位置する小丘陵上に位置し、
丘の裾には湿地が廻って濠となっていた。
この辺は、今も岡山市東区沼だもんね。
秀家は豊臣五大老の一人であり、早くから秀吉の寵愛を
受けていたイメージがあって、直家と秀家の親子で
戦国の世に出ていたイメージがあるが、実は直家亡き後
秀家は11歳で当主になっており、
このポスターみたいな事はないのよ。
直家は成りあがるために「暗殺」という手段を多用したので、
戦国時代に美濃国の斎藤道三や安芸国の毛利元就のように謀略を用いた戦国武将として知られており、
ダークなイメージが付きまとっているんですよね。

最近の史実の研究では、暗殺事件の一部は
直家ではなかったとか、直家は敵に謀略を用いる武将として
恐れられる一方で、自らの家臣はとても大切にした等、
イメージ払しょくの動きもあるので、
大河になる日も来るかもしれませんね![]()