’25 8月の遠征ツーリングは、
「丹波ビフカツ」ツーに行ってきました。
今回も朝活バージョンで開催です。
早起きして、涼しいうちに移動します。




















柏原八幡宮の歴史は古く、創建以来、幾度となく戦火や災害に見舞われてきました。

南北朝時代には荻野安芸守と足利氏の合戦、
戦国時代には明智光秀の丹波攻めの際に社殿や三重塔が焼失するなど、
激動の時代を生き抜いてきました。


これらの出来事から、数々の伝説や逸話が生まれています。



織田信長の命を受け、丹波の国を攻めた光秀だが、
「丹波の赤鬼」との異名をとった黒井城主、
赤井悪右衛門直正らの抵抗に遭い、
敗走を余儀なくされるなど、
さんざん手を焼いていました。
まず光秀は、赤井悪右衛門直正の甥で赤井忠家が城主の
高見城を攻め、落城します。


その𡈽屋の妹・岡女は、高見城主である赤井忠家の
妻でした。
岡女は高見城落城後、一時は自害を考えましたが、
兄たちの菩提を弔うため、柏原新町西願寺の
尼僧になります。

そして処刑された家族の供養をしながら
暮らしていましたが、不運にも若くして
病没してしまいます。
その後、𡈽屋の家族が火あぶりに処された池の畔に、
毎夜のようにうめき声や火の玉がでるようになったといい、
それを恐れた人々は、浄財を持ちより池の畔に
弁財天を祀ったところ、亡霊は鎮まったといわれています。
ちなみにの話なんでけど、山崎の戦いで
光秀が敗死したのは1582年6月13日なんだけど、
ここ柏原八幡宮を焼き払ったのも、
その3年前の6月13日だったといわれ、
これは「神罰」だと書かれた史料が
神社に残っているそうです。












かつては夏の風物詩として、
南堀一面にハスが咲き誇っていましたが、
2005年頃に突然消滅しました。
原因は、当時流行していた「ミドリガメ」と呼ばれる
「ミシシッピアカミミガメ」を長く飼いきれず、
堀に捨てるという行為でした。


茅葺の主屋や白壁の土蔵、棟門と土塀が連なる景観は、
天保の大火後の復興形式をよく伝えています。
篠山城下町、ここ御徒士町武家屋敷群を含む
城の周囲の武家屋敷群と、東に展開する商人の町、
河原町妻入商家群が、平成16年(2004)に
国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

















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