昭和 50 年代の東京晴海ふ頭の海水は茶色く濁り1メートル下さえも見えなかった。
遠洋航海の前に呉市から東京まで来たのは海上保安庁の観閲式に参加するためだ。
全国から各型式の巡視船や航空機が集められ披露される。
関越船には国土交通大臣と抽選で選ばれた一般人が乗り込み観閲船が沈むのではと思うくらい前後部のデッキやブリッジの周辺に500人ぐらい乗り込んでいただろうか、海保大の練習船こじまが遠洋航海に出発するときは最後尾につき真名に見送られてアメリカ西海岸へと旅立つ。遠洋航海の寄港地はまずオアフ島のホノルル(ここで給油)経由でシアトルかサンフランシスコ、またサンディエゴのどこかに向かう。(現在は練習船が大きくなったため世界一周)
僕個人的にはサンディエゴに行ってみたかった(理由は米国海軍の士官養成校 Naval Academy )がサンディエゴ近郊のアナポリスにありそこの見学があるからだ。
毎年行われる海保大の遠洋航海は初級士官としての最高の舞台であり士官としてのプライドをくすぐられる一大イベントだ。
25期生の寄港地はシアトルと決まった。
今でこそシアトルはマイクロソフトやスターバックスの発祥の地として有名だが当時はこれらの会社はちょうど産声を上げたころだっただろうか。
海保大卒業生の遠洋航海で我々は米国の国賓として扱われる、うそのようだがそのためパスポートも必要ない。
通常5月の終わりごろに出発するのだが東京を出港したとたん大きな台風に見舞われた、しかもその勢いはすさまじく当時は千トン程度しかなかった練習船は片玄30度、ピッチング10メートルという遊園地のアトラクション並みの動揺に見舞われ三日三晩これが続いた、当然何も口に入らないし食べる気もおこらない、さすがの乗組員(学生上がりと違って毎年渡航しているつわもの)の主計課(コックさん)の職員も料理が作れないのでおかゆをバケツに入れて食べれるものなら食べてくれと学生教室の入り口に2缶ほど置かれていた。
僕はそれを見てますます気が失せて自室に帰り食パンをちぎりリンゴと一緒に口に流し込んだ。
台風が過ぎると太平洋はうそのようにないで青インクをこぼしたような青色の水面が延々と続いた。(ああ、これが Navy Blue なんだ)
やっとご飯が食えるようになったところで唯一の洋上訓練である防火訓練が始まった。
僕は何故か総合指揮官に任命され後部デッキの前にある高いところから拡声器を持って拡販に指示を出すことになる。
さて、訓練の内容だが最初と最後は決まっていてどこかから出火して最後は総員退船で救命ボートを下ろして船をあきらめることになる。
昨年の訓練の様子を聞くため教官のところへ行き教え欲しいと頼んだら「君が作り給え」と言われた。
実は、僕はこういう創作的な事は好きだし得意なのだ。
さすがに船長室から出火させるわけにはいかないので無難なところで後部甲板の真下にある学生教室兼食堂から出火させることにした。
3班に分かれており、航海科、機関工学科、通信工学科の班長にタイムスケジュールを配ってこの通りにやってくれと頼んだ。
訓練の内容を大まかにいうとこうだ。
学生教室から出火すれば当然その真上にある後部甲板は熱くなる。
後部甲板が船の中では一番広い場所でここが使えないと初夏活動ができないので第一班は海水ポンプで海水をくみ上げ後部甲板に流し作業領域を確保せよ。
第二班には後部甲板を使ってげん窓を突き破り消化ホースを突っ込み消火活動をさせた(船は一区画が水没しても沈むことはない)
そして、第三班は総員退船もあり得るので救命ボートの位置で待機させいつでも下せるように用意させた。
こうして、2時間の訓練は無事終わり船長からお褒めの言葉をいただいた。(卒業生が訓練内容を作ったのは初めてだったようだった)
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