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2024.11.01
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カワサキZ1000ではお尻が痛くて150キロ以上走れない。たから、シートが世界一と言われるBMW買いました。
2024.06.23
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2022.10.18
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私の苗字は中林といいますが電話などで応対してもらっていると「ところで中村様」などとちゃんと名乗っているのにかかわらず間違える。 このことは、日本人はまず頭の中で漢字で認識するということだ、中村と誤認識したのでこうなった。一方、米国人などは音、つまり発音で認識する。その証拠に明国西海岸の都市シアトルは「シアトル」といっても全く通じない 。全くだ。Seattleは「シアロ」と言えば通じる。日本でいくら英語を習っても現地でなかなか通じない。それにもまして現地の表現の仕方を学校では教えてくれない。面白い話がある、ある時国立大の女子に 車を止めてもらうときどういうと質問したら「Car Stop」と言った。英語は苦手ですお言っていたがこれはお粗末すぎる。 ハリウッド映画の中で車に乗っている人が運転者に言う言葉は「Pull Over」だ。Please stop the carは2割ほどほとんどの人はプルオーバーだ。 コインの裏表を「head or Tail」というheadが表でtailが裏だ、コインを頭と尻尾と表現する国の言葉をに日本で10年ほど習ったって通じなければ何の役にも立たない。 ちなみに写真は Two heads of the cowだ。
2022.08.11
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今回の連休で妻と二人で京都、滋賀の旅をした。京都の商店街を歩いていふと靴屋さんに立ち寄ると妻がこのパトリックというメーカーのシューズえらくお気に入り。 結婚記念日も近いとあってプレゼントさせていただきました。ホテルに帰って写真を撮ろうと床の上に置いてみたがシューズの底のきれいなピンクが見えないので僕のアイデアで部屋のドアにテープでくっつけて演出してみた。ハートのマークはテープ隠しだ。
2022.05.09
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2015年式のポルシェケイマンを買っちゃいました。昨年の1月から司法試験の勉強を始めました。まだ、百分の5も進んでいません。LECの通信教育をしていますが資料が山のように溜まり部屋の中がごちゃごちゃです。現在は憲法と行政法の論文をやっていますが良くて50点、ふつうは8点ぐらいです。ちなみに僕の場合は法科大学院を卒業していないのでまず予備試験に受からなくてはなりません。でも、これが難関で受かれば8割は司法試験にも受かるといわれています。今年65歳になりました、無謀だといわれています。しかし、何でもやってみることは大切だと思います。
2022.03.12
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スーパーコンステレーションの1/72が手に入った。しかもホビーオフで3000円で。なかなか入手できない機種でしかもこんなに安く手に入るととても得した気分になる。早速作り始めたがエレールのキットなので作りが雑なうえに巨大なので完成まで一か月ぐらいかかった。シルバーの塗料は3缶使い果たし根気も使い果たした。試しに屋外で撮影を試みた。最初からうまく晴れるはずもないので機種からのブルーのラインは手書きだ。
2021.05.15
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北朝鮮の船が波の合間に小さく見えてきた。「皆準備はできているか!」組長のだみ声が船全体にこだました。今回の取引はうちの組の全てをかけている、失敗は許されない。先方の船が20メートルまで近づいたとき雲の切れ間からキラリと光が見えた気がした、太陽の光だった。密輸入は前準備から相当の時間とお金をかけ信頼できる相手を探し絶対に証拠を残さないことが鍵だ、その計画の骨子は海斗に任されていた。元海上保安官として何をやってはいけないのか事前に打ち合わせは出来ていた。積み荷を移し替えるとき、そしてそれを陸揚げするとき何の証拠も残してはいけない。そのために岸壁から陸揚げせず寄港地が近づいたらまたわざわざ小さなボート3隻に荷物を積みかえ港から遠く離れた砂浜の入り江に入港させ港では事前に用意した魚を陸揚げさせるという念の入れようだ。万が一港で海保に発見されてもただの漁船の漁ということになる。
2020.12.08
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高校を卒業してのいきなりの全寮生活、朝はマルロクサンマル(6時30分)起床整列、その意味はマルロクニーゴー(6時25分)には校庭に整列し隊列を正し点呼を終えていなければならないということだ。国土交通省の外局に当たる海上保安庁は旧海軍の伝統を強く受け継いでいた。海上保安庁の職員は行政官に当たる国家公務員の行政職だ、なのに指揮系統は軍隊色を強く帯びていた。(海軍ではこれを5分前の精神と言って厳しく教えられた)最初の1週間はオリエンテーション期間と言って特に厳しかった全校生徒は春休みで校舎にはいないが4学年のオリエンテーション委員が学校に残っていて新入生を厳しく鍛えた。起床直後寝室に入ってきてシーツにしわでもあれば強く叱責されその場で腕立て伏せを20回させられた。なんとこの期間に学校を逃げ出すものもいた、深夜裏門の金網をよじ登り翌日学校に電話して退職を願いだすのだ、なんとも情けない話だが後で分かったのだがこれは学生をふるいにかける手段だったらしい、入学試験にぎりぎり落ちた者でもラッキーな奴はこの時、選ばれた50名に仲間入りをする。
2020.11.08
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正義仁愛(NEW) 九州北西部を牛耳る広域暴力団山城会はここ5年で急激に勢力を伸ばし人員の数も3倍に増えたその原因の大きな原因は低価格で質のいい覚せい剤や大麻の入手と大量の武器の入手で他の暴力団を圧倒していた。それは5年前に海上保安庁をやめ入会した海保大卒の一人の男の作ったシステムによることが多い。彼はNKルートとヨーロッパルート、南米ルートによって大量の麻薬、けん銃、自動小銃を入手し山城会に多大な貢献をしていた。海保大といえば海上保安庁職員1500名のトップ1パーセントにも満たない高級幹部を養成する大学で広島県の呉市にある。海上保安庁に5年勤務していたので内情はよく知っている海保の動きが手に取るようにわかりけっしてしっぽを掴ませない、この5年で若頭に上り詰めた。海上保安庁をやめたときは二等海上保安正(警察でいえば警部)で上層部がどう動くのかもよくわかっていた。彼が海保をやめた理由は保安大の学生の時期に起こったある出来事でそれは後に語ろうと思う。 「あの島が見えるかい?」海斗は幸雄に挑戦するような目で尋ねた。その日はうだるような暑さで人間の体温以上はあったと思う。「見えるよ、ざっと3マイルはあるな」(1マイルは約1.8キロメートル)「どっちが先に泳ぎ着くか競争しようよ」と海斗がきりだした。二人とも海上保安大学校の学生で遠泳には慣れていた。「オーケー、そのかわり勝ったほうが焼き肉をごちそうしてもらうことにしよう」と幸雄は答えた。さっそく二人とも堤防を乗り越え砂浜の海岸に服を脱ぎ捨てると勢いよく海中に飛び込んだ。大学校の訓練で5マイルの遠泳はあったが両サイドに救命艇が付き泳ぎのレベルに合わせて編隊が組まれ少しでも遅れると救命艇に上げられ失格となった。これにはちゃんと理由があった、それまでは二人一組で競争するという方式だったが青山さんという先輩が行方不明になり後日死体で発見された。それ以降この訓練は安全第一ということになり二人一組は禁止になり編隊で泳ぐようになったのだ。二人とも泳ぎには自信があったが救命艇もおらずしかも競争して泳ぐとゆうことに若干の不安はあった。しかし、若い二人にとって焼き肉というのは魅力で呉の中通りにある武蔵坊の焼き肉は何よりのごちそうであった。 よーい、てー!これが出発の合図だった。海斗は勢いよくスタートを切ったため300メートルほど泳いだところで息が切れてきた、後ろを見ると幸雄はマイペースで速度こそ遅かったが着々と距離を稼いでいた。瀬戸内海という海はいかにも穏やかで波もなく平穏なようだが島々が入り組んでいるため潮流が激しく場所によっては7ノットもの速度で海水が流れている。いくら泳ぎがうまくても平泳ぎではいくら頑張っても2ノットも出せない、それに加えて海水温が変化し一定ということはない。この時も8月の後半ごろでクラゲの大群と出くわすこともある。瀬戸内海は見かけによらず危険な海なのだ。海斗のペースは落ちてきた。「やっぱり最初から飛ばすもんじゃないな、疲れてきたよ」幸雄のやつ着々と距離を詰めてきているらしい、後ろのほうで水をかき分ける音がする。海斗が振り返り見ると幸雄の姿がない?「あいつ、潜行して俺を追い越し驚かせようと思っているんだな」海斗はそう思った。自分も潜行してあいつを驚かせてやろう、そう思って少し引き返すように潜ってみても幸雄の姿は見えない。まさか、潮流に流されたのではないか、海斗は急に不安になって体中の血の気が引いてきた。競争どころではなくなった。海岸まで引き返し周りを見渡してみたが波しぶき一つ立っていない。海斗は怖くなって脱いだものを着て近くの民家に駆け込んだ。「すみません、電話をお借り出来ませんか?」青い顔をした青年に民家のおばさんは尋ねた。「友達が泳いでいるうちに雪絵不明になったんです」「それは大変じゃないか、警察に電話しなさい」「はい」と答えて110番を回した。「そうしましたか、事件ですか、事故ですか」「水泳中に友達が行方不明になったんです」「あなたのお名前は?学生ですか?社会人?」海斗にはこの警察のやりとりがもどかしくてしようがなかった。「場所はどこですか?」その家のおばさんに土地の住所を訪ねるとそのままオウム返しのように警察に伝えた。もう、3時間ほどたつと日が暮れて捜索ができなくなる、海斗は焦っていた。20分ほどすると2台のパトカーと救急車がその家の前に停まった。どのあたりで見失ったんですか?警察はそう尋ねると海岸へ向かって歩き出した。「あの辺です、海岸から300メートルほど先」「あなたは何をしていたんです?」「一緒に泳いでいました、競争していたんです、あの島まで」「いつ気づいたんですか?」「そんな細かいことはどうでもいいですから早く捜索隊を出してください」まったく警察というものはもどかしくてしょうがない、とにかく、粉あたり一帯を捜索したらいいんだ!海斗はつい、声を荒げてしまった。警察は地元の漁船の協力も得て本格的に捜索しだした。あれから2時間半近く経過してあたりは暗くなりだした、海斗は競争したことを激しく公開した。日没過ぎてもてがかりは見つからなかった。二人は海上保安大学校の一学年で遠泳訓練が終わり夏休みに入ったばかりだった、訓練ですっかり泳ぎに自信ができてしまって瀬戸の海を甘く見すぎていたのだ。今日はもう暗くなったので捜索は打ち切ります、明日の朝6時から捜索を開始しますのであなたも立ち会ってください、そういって警察と消防は引き返していってしまった。海斗は呉市に宿をとって一晩泊ることにした。夕食を食べる気にもならない、もちろん一睡もできなかった。大学校は夏休みだ、学生課の教官に連絡をしておいたほうがよいだろう、しかしその手段は?「そうだ、当直がいるはずだ!当直経由で教官には連絡を入れておこう。大学校に電話して当直にはつながったが当直から教官にはその日は連絡が取れなかった。警察と消防そして海上保安庁の3日間の必死の操作にもかかわらず消息は全くつかめなかった。「もう、助からないな」海斗は小声でつぶやくと大きなため息をついた。その知らせは警察から幸雄の実家に行方不明になった日に伝えられその家族は瀬戸内海の小さな島の民宿に泊まりこんでいた。「あなたが同行しながら何故わからなかったのですか?」幸雄の母は海斗を責めるように睨みつけた。「はー、はい。引き返してみたのですがどうしても見つからず警察に捜索を頼みました」幸雄の父は元海上保安官で海の危険さは誰よりも知っていた。「まあ、海斗君をそんなに責めてもかわいそうだろ」海斗は少し救われた気がした。三日間の捜索が終わると人員は削減され10人ほどになった。もう一週間で夏休みも終わろうとしていた。 大学校に帰ると一学年大上幸雄君の遭難のことで大学中が大騒ぎになっていた。全寮制、一学年50名以下という特殊な社会では同期の名前がすべて言えるほどの結束力でまたそのせいで同期の批判の目は海斗に向けられ毎日が針の筵に座らされているようで生きている心地がしなかった。「お前のせいじゃないよ」と慰めの言葉をかけてくれる者もいたが海斗は自分が許せないでいた。逃げ出したい気持ちでいっぱいでもう学校もやめてやろうとも思っていた。学生課の教官から呼び出しがかかり注意された。「事故はどこでも起こる、仕方なのないことだ。だが、君は大きな間違いを起こしている、それが何かわかるか」「いえ、わかりません」「遠泳訓練をしただろ、編隊泳法だったよな」「はい」海斗はもう何を言われるかわかっていたが黙っていた。「何故、編隊泳法にしなったのだ?競争して前年に死亡書が出たからだろう、何故二人だけで、しかも競争なんかしたんだ!」「二人とも泳ぎに自信があったからです」「馬鹿者!海をなめるんじゃない!ましてや海保大の学生、将来は指導的立場に立つ人間だ、訓練した意味が全くないではないか」海斗は何も言えなかった。心の痛みはとても強かったので教官の叱責が何故かうれしくさえもあった。叱られているのに慰められいるような不思議な気持ちになった。大上幸雄君は偶然にも山口海斗と同じ受験地でしかも席が前と後ろという偶然とその受験室にいる約50名の受験生のう試験に受かった二人だったのだ。大上幸雄君は島根県の隠岐の島にある西ノ島の出身で高校は松江市にある松江北高校の出身だった。海保大の試験は毎年10月に全国48か所で行われ我々の受験地は鳥取県の米子市にある米子北高であった。後ろの席だった海斗は幸雄の英語の辞書に落書きで「Love is Power」と書かれていたのをはっきりと覚えていた。 大上幸雄君の葬式は翌年の冬に行われ親しかった友人5人は境港市から出発する隠岐汽船のおきじ丸に乗り込み冬雲が空をふさぐ陰気な天気の中しける日本海を4時間かけて西ノ島まで向かった。皆、一様に黙りこくっていた。幸雄君には二人の妹がおり、不謹慎を覚悟でいうと二人とも美人だった。そして、幸雄自身も身長は180センチ筋肉質でいい男だった。自宅に通された我々は流れてくる音楽にはっとした。S&Gのスカボロフェアだった。妹がお兄ちゃんの好きな曲だったのよとポツリといった。海斗は家族から責められるのは覚悟していたが一言も責める者はいなかったそれが余計に海斗を苦しめた。葬式が終わると不思議なもので少し肩の荷が下りたような。「葬式ってそのためにあるのだろうか?」
2020.11.06
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ある日土井は山口工場長に呼び出された。また、何かお叱りを受けるのかと内心ひやひやしていた。工場長の部屋のドアを開けると晴れやかな顔をした山口が部屋の奥の窓際の机の前で待っていた。「君、飛行機の設計をやってみないか」土井は驚いた、職工上がりの自分には手に余る仕事だと思ったからだ。「私には無理です」土井はきっぱりと断った。山口はにやりと笑い、「いや、君には出来る」と答えた。東京帝国大学卒の山口はかねてより土井を設計主任に抜擢しようと計画していたのだ。そして、工学系の理論を深く理解している山口には土井の底知れぬ能力が分かっていたのだ。同盟国にナチスドイツ軍があるがメッサーシュミットBF109のようなスマートな機体を作ってくれ。土井はもちろんBF109のことは知っておりドイツ空軍の主力戦闘機として大きな成果を上げているのも知っていた。「あれは液冷ですよね」「そうだ、だれもやったことがないスマートで速度の出るやつを作ってくれ」山口工場長は川崎重工のなかでそれを完成させられるのは土井しかいないと確信していた。「既存の理論に固守する奴じゃ駄目なんだ」面白そうですね、土井はそう答えた。
2020.07.31
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土井いわゆるエリートではなかった、工業高校の機械工学を専攻し川崎重工には職工として入社した。航空機を作る工場でもくもくと同じ作業を繰り返していたが、いつも疑問を抱えている男だった。工業高校時代は勉強をするより実験や、実際に飛ぶ鳥を捕まえてはその翼の構造を細かく研究していた。鳥の翼は二つの要素から構成されている空気を後ろに押しやる羽ばたく翼と胴体に近い羽ばたかない翼である。航空機は鳥の翼を研究することにより実現できた乗り物である。羽ばたく翼は航空機でいえばプロペラを動かすエンジン(内燃機関と)空気を圧縮して燃料を注入し爆発力を推進力に替えるジェットエンジン(外燃機関)に当たる。一方、羽ばたかない翼は上昇力(揚力)を生む。これは流体力学上ベルヌーイの定理で説明される、同じ空間において翼の上を通る空気の圧力と速度を乗じたものと翼の下を通るそれは一定であるので翼の上面の流速は下より速くなり結果的に空気の圧力は翼の下のそれより小さくなる。つまり、結果的に下から持ち上げられることになりこれが揚力となる。こうして鳥は空を飛べるのでありこれは鳥が考えたのか神が考えたのかさすがの土井にもわからない。土井は工場でよく作業を中断する、あまり良い職工ではなかった。中断しては上長に提案するのだ「ここはこう変えたほうが空気の流れが良くなるのではないでしょうか」そればかりか、自分の持ち場を離れ様々な作業工程に首を突っ込んでくるのでかなり煙たがれていた。工場長は山口と言って東大出のエリートである、しかし、問題児とされいろいろ質問してくる土井には好感を持っていた。「なるほど、そうだね」工学系の理論をしっかり身に着けていた山口工場長には土井の指摘が理にかなっているものだとすぐに飲み込めた。
2020.07.30
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太平洋戦争での勝敗が見えてきた頃。土井は自分が手掛けてきた三式戦 飛燕の評判がすこぶる悪いことに心を痛めていた。始動性が悪い、いざという時使えないなど飛行士や整備士からの批判は直接言われなくても伝わってきた。同盟を結んでいるナチスドイツ軍のメッサーシュミットを参考に川崎重工で開発したのだがその完成度の低いのには理由があった。自動車を何十年も前から作り続けているドイツとその経験が浅い日本では水冷エンジンの構造の細部の部分まではまねができないのだ。メルセデスなどは何十年も前から水冷エンジンを作り続け不具合の原因を改良し続けているのでほぼ完ぺきなものが出来ている。ドイツから設計図を持ち込み見様見真似で作った日本初の戦闘機の水冷エンジンとは埋めることが出来ない大きな溝があった。かくして頭のない飛燕が飛行場に並びエンジンの不具合を調整中の機体ばかりが飛行場の隅に並べられていた。土井はその解決策が頭の中には浮かんではいた、飛燕の水冷エンジンを空冷にしたらどうか?そんな突拍子もない秘策があった。しかし、お堅い上層部にこんな案を提案しても受け入れてもらえないのは分かっていた。一度決めてやってきたことを否定されることを何よりも嫌がる人たちである。しかし、物資のない日本陸軍にとって使えない戦闘機は資源の無駄であり開発者としては居ても立っても居られないほど悔しかった。
2020.07.19
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東京を出港して2週間、嵐のような台風も東に逃げてしまって太平洋はその名の通りとても穏やかな海へと姿を変えた。通信工学科の配慮だろうか船内にはホノルルのエフエム局KIKIが流れ始めた。長い航海ももうすぐ終わると思うと自然とワクワクしてくる。海保大卒業生の遠洋航海では僕らはアメリカ合衆国の国賓扱いとなるのでいくつかのスケジュールは決められていた。ホノルルではパールハーバーのアリゾナ記念館とオールドファッションのロコモーションでパイナップル畑のツアー、そしてコースとガードの太平洋地区司令官宅への訪問、シアトルではボーイング社の工場見学、シアトル日本人会との交流、レーニエ山への登山、などだ。海の色がエメラルドグリーンに変わるとイルカたちが練習船を先導してくれる。ダイヤモンドヘッドが見えると僕たちは不思議な感覚になる、当たり前といえばそれまでだが東京の汚い晴海ふ頭とワイキキビーチがつながっているなんていう感覚は飛行機の旅行では味わえない感覚だ。そして、実感するのだ地球は本当に丸いのだと。勘違いの国際感覚練習船こじまがアロハタワーの近くのふ頭に停泊すると上から下まで白のダブルの第一種制服はどこから見ても日本海軍に見える。そんな姿で49人全員がアリゾナ記念館を見学するという感覚はわれら海保大としては間違っていると思う。アメリカ人にとってアリゾナ記念館は旧日本海軍に奇襲攻撃をかけられ何千人もなくなった悲しい記憶の記念館なのに、そこへどう見ても日本海軍にしか見えない我々がのこのこと行くところではないのだ。花束を持ちながら慰霊に行くならともかくただ、ここへきて当時の写真を見て帰るというのはどうか?やはり、我々をみるアメリカ人の目は冷たかった。とても恥ずかしかった、肩身が狭かったのだ。みながWe were sorryという感覚でないと国際感覚どころか常識を疑われる。
2020.07.14
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昭和50年代の東京晴海ふ頭の海水は茶色く濁り1メートル下さえも見えなかった。遠洋航海の前に呉市から東京まで来たのは海上保安庁の観閲式に参加するためだ。全国から各型式の巡視船や航空機が集められ披露される。関越船には国土交通大臣と抽選で選ばれた一般人が乗り込み観閲船が沈むのではと思うくらい前後部のデッキやブリッジの周辺に500人ぐらい乗り込んでいただろうか、海保大の練習船こじまが遠洋航海に出発するときは最後尾につき真名に見送られてアメリカ西海岸へと旅立つ。遠洋航海の寄港地はまずオアフ島のホノルル(ここで給油)経由でシアトルかサンフランシスコ、またサンディエゴのどこかに向かう。(現在は練習船が大きくなったため世界一周)僕個人的にはサンディエゴに行ってみたかった(理由は米国海軍の士官養成校 Naval Academy)がサンディエゴ近郊のアナポリスにありそこの見学があるからだ。毎年行われる海保大の遠洋航海は初級士官としての最高の舞台であり士官としてのプライドをくすぐられる一大イベントだ。25期生の寄港地はシアトルと決まった。今でこそシアトルはマイクロソフトやスターバックスの発祥の地として有名だが当時はこれらの会社はちょうど産声を上げたころだっただろうか。海保大卒業生の遠洋航海で我々は米国の国賓として扱われる、うそのようだがそのためパスポートも必要ない。通常5月の終わりごろに出発するのだが東京を出港したとたん大きな台風に見舞われた、しかもその勢いはすさまじく当時は千トン程度しかなかった練習船は片玄30度、ピッチング10メートルという遊園地のアトラクション並みの動揺に見舞われ三日三晩これが続いた、当然何も口に入らないし食べる気もおこらない、さすがの乗組員(学生上がりと違って毎年渡航しているつわもの)の主計課(コックさん)の職員も料理が作れないのでおかゆをバケツに入れて食べれるものなら食べてくれと学生教室の入り口に2缶ほど置かれていた。僕はそれを見てますます気が失せて自室に帰り食パンをちぎりリンゴと一緒に口に流し込んだ。台風が過ぎると太平洋はうそのようにないで青インクをこぼしたような青色の水面が延々と続いた。(ああ、これがNavy Blueなんだ)やっとご飯が食えるようになったところで唯一の洋上訓練である防火訓練が始まった。僕は何故か総合指揮官に任命され後部デッキの前にある高いところから拡声器を持って拡販に指示を出すことになる。さて、訓練の内容だが最初と最後は決まっていてどこかから出火して最後は総員退船で救命ボートを下ろして船をあきらめることになる。昨年の訓練の様子を聞くため教官のところへ行き教え欲しいと頼んだら「君が作り給え」と言われた。実は、僕はこういう創作的な事は好きだし得意なのだ。さすがに船長室から出火させるわけにはいかないので無難なところで後部甲板の真下にある学生教室兼食堂から出火させることにした。3班に分かれており、航海科、機関工学科、通信工学科の班長にタイムスケジュールを配ってこの通りにやってくれと頼んだ。訓練の内容を大まかにいうとこうだ。学生教室から出火すれば当然その真上にある後部甲板は熱くなる。後部甲板が船の中では一番広い場所でここが使えないと初夏活動ができないので第一班は海水ポンプで海水をくみ上げ後部甲板に流し作業領域を確保せよ。第二班には後部甲板を使ってげん窓を突き破り消化ホースを突っ込み消火活動をさせた(船は一区画が水没しても沈むことはない)そして、第三班は総員退船もあり得るので救命ボートの位置で待機させいつでも下せるように用意させた。こうして、2時間の訓練は無事終わり船長からお褒めの言葉をいただいた。(卒業生が訓練内容を作ったのは初めてだったようだった)
2020.07.09
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北朝鮮の拉致問題、竹島問題、尖閣諸島問題、外務省は何一つ解決してはいない。海上保安庁には竹島の領海に入るなと通達を出しているが国民には竹島は我が国の領土とうそぶいている。ある時、海保大の1期先輩の巡視船のY船長が竹島の領海に侵入したとき大問題になった。 船長を補佐する業務監理官は同期のN監理官でこの事実について第八管区本部長にこの二人は呼ばれた。そして、きつく叱咤されお前らの将来はないとまで言ったとか。 こういった問題は外務省はきまってこういう言葉を使う「この問題は高度な外交手段を使って解決する問題だから海上保安庁は相手を刺激しないように」 高度な外交手段を使って解決=何もしないつまり外務省は何もしないのだ、そんな官庁に国民は大事な血税を支払っている。いまだかつて外務省が日本国民に有益な政治を行ったことはない。 尖閣諸島問題も同じこと、中国を刺激するので海上保安庁は中国海警が尖閣の寮かに入ってきても威嚇の射撃も出来ないし、まして拿捕も出来ない。せいぜい中国漁船に放水銃を放つぐらい、海警にはそれさえしない。 中国はころを良いことに領海に入り放題、挙句の果てには尖閣で漁を行っている日本漁船を追いかけまわす始末だ。 日本をだめにしているのは外務省なのだ、日本の主権はなくなりつつある。いつかこういうことを海上保安大のブログに書いたら外務省は文句を言ってきた。まったく役に立たない官庁である。
2020.06.13
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新聞にはのってないが海上保安大の学生のころ1年から4年は国家公務員 8等級3号俸、月額にして約8万円ぐらいだったと思う。ボーナスは期末勤勉手当という呼び方で支給された冬は確か2.5か月分ぐらいあったので24万円ほど支給されたと思う。全寮制だから食費や衣服、光熱費、風呂代は無料、友いつお金を出したのが散髪代や下着や靴下のお金。ためる奴は貯めたが僕は使い切っていた。あいにく大学は呉市の中心から離れていたため街に出るにも寮に帰るにもタクシーだった。冬のボーナスが支給された次の日量全体が大騒ぎになった。このころの給与は現金手渡し学生は不用意にも自分の机の引き出しの中に入れていた支給袋を抱いて寝るものなどもちろんなかった。泥棒が入ったのだ。ボーナスが亡くなったもの続出、しかしそれは内部的犯行だった。もちろん警察が入り犯人は捕まったが絶対に新聞に載ることはなかった。公権力がそれを許さなかったのだ、もう45年も前の話で現代では絶対に許されないことだ
2020.06.11
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後悔これは自慢になっていまうが僕は海保大の同期の中でも一目置かれていた刑法が大好きで京都大学の伊藤客員教授唯一合格点を取ったし、学校長が寮生は就寝時間後に自室で酒を飲むからと言って4つの寮のカーテンを撤収してしまった次の日、これはいくら校長の権限でも憲法が保障するプラバシーの侵害に該当すると校長を論破し、翌日には教官が再びカーテンを付けて回った。本来は4年生がやることだ、だが誰も校長に逆らわないので2年生の僕がやらざるを得なかった。そういうところを学生課が認めたのか本来4年生しか部屋長になれないのに僕は3年生で部屋長になった。学園祭のポスターをつくりその出来が良かったのかダンスパーティーは人が入りきらなかった、全国カッターボート競技会のポスターの依頼も来た。(今までの実績から呉製販に発注するところを現在のM教授の頼みでいい加減な業者に頼んだためせっかく僕が徹夜で描いたラフが使えず台無しになったが、これはカッター部の連中には悪いことをしたし自分も悔しくて顔を上げられなかった)卒業し三等海上保安正に任官し遠洋航海でシアトルへ練習船こじまで向かった時の洋上訓練でも総合指揮官に任命され49人を拡声器で指揮し、しかもその訓練内容も教官から君が作れと依頼され船長には公表で大変褒められた、公務員の世界は失敗するものに絶対に依頼はしない。そこまで期待されていたのに遠洋航海から帰りさっさと辞めてしまったのだ。後悔していなと言ったらうそになる。その訓練要員の中から将来の長官が生まれたのだがもしもだ、もしも僕が長官になっていたら尖閣列島に海上保安署を作っていたし領海に侵入する中国海警には発砲して領海外へ追い出させた。いくら外務省が口をはさんでもこれは海上保安庁の責務なのだ。国民が期待する海上保安庁の専任権限なのだ。中国との関係が悪くなる?そんなことは知ったことではない領海に勝手に入ってきたうえに日本の漁船を追い回しここは中国の領海だとうそぶく現在のような情けない状況にはしていなかった。まあ、あくまでもしもの話なのだが。同期の中から長官、第二管区、第三管区(東京湾含む)、第四管区、第11管区のそれぞれの本部長が生まれ三管本部のH君は奄美大島に領海侵犯してサンゴ礁を勝手に捕獲する中国漁船に対しSST(対テロ組織班)を使い2隻を拿捕。中国政府に抗議したら自分たちは知りませんでした。厳重に処罰しておきますだとさ(よく言うよ)本当は知っていたくせに。それぐらいやって当たり前なのだ。
2020.06.10
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保身は人間が本来から持っている自己防衛本能である。しかし、指導者のから資格からして一番抑えなければならない本能でもある、この世の中の指導者という人種のその能力の強さにはいい加減嫌気がさす。 いつから人類は潔さを失ったのか?たとえば日本人でいえば武士道精神があったその精神の根幹を形作っているのは潔さがあったと思うのだ。だが、中国大陸、朝鮮半島には武士道精神というものはなく欲望と裏切りに満ちていてそれは歴史が物語っている。 国際裁判所の裁判官はこういっT習近平の言い訳をきっぱりと切り捨てた。 「あなたは中央委員会のトップの指導者だ、たとえほかの6人の委員全員が反対したとしても何が正義で何が悪なのか正す立場の人間であるしかるに自分は正しくて多数決で決まったような喪にいは指導者の資格はない。今回の事態はあなたに全責任がある」 習近平はじぶんが今回の事件を招いたという証拠でもあるのか?」と言い直った。裁判官はきっぱりと証拠はありあすよ、あなたはオープンソースインベスティゲーションを知らないのですか?初めて聞いた言葉だった、 SNSの発達により全世界にデジタルハンターという人たちがいるのです。彼らは特殊な能力を駆使して不特定多数のSNSからあがった映像や原稿を結び付け確たる証拠を掴むスペシャリストなのです、例えばユーチューブに挙げられた映像の一部の建物から場所を特定し何万という情報の中から革新的な証拠を特定する人たちですよ、もう少し説明すればベリングキャットという組織がありますね、またニューヨークタイムズの中にもデジタルハンターはたくさんいます。 裁判官はそういうとある映像を映し出した。その映像は驚くべきもので中国武官のP4研究所に通う習近平の姿を映し出していた。中国史府がいくらその種の映像を強制的に削除しようと、また別のハンターが拡散するしあなた方が知らない証拠の保存場所もネットの中に存在するのですよ。
2020.06.09
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民主国家となった中国では2020年に世界を混乱に招き入れた犯人探しが始まった。もちろん当時の国家主席は習近平なので主犯格は決まっているのだが習近平は巧みに自分の責任を回避すべく既に手を打っていた。その話というのはこういうものだった。自分は2019年11月の段階で武漢ウィルスが流出したのを知りこれを世界に発表、WHOにも依頼し封じ込めを図ろうとしたが7人の最高責任者のうちその5人から隠蔽せよとの命を受け仕方なしに隠蔽したのだという。それは順位2番の李克強をはじめ順位8番の王岐山にいたる6名全員から強く止められたというのだ。習近平 - 序列第1位 党総書記、国家主席、中央軍事委員会主席、国家軍事委員会主席李克強 - 序列第2位 国務院総理(首相)栗戦書 - 序列第3位 全人代常務委員長(国会議長)汪 洋 - 序列第4位 全国政協主席王滬寧 - 序列第5位 党中央書記処書記趙楽際 - 序列第6位 党中央規律検査委員会書記韓 正 - 序列第7位 国務院副総理(副首相)王岐山 -責任の所在を明確にするため 国連にある国際裁判所で審議することとなった。
2020.06.08
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(あらすじ)2020年の中国武漢から発生した新型コロナウィルスは世界中に猛威を振るい全世界で600万人の死者を出し2012年7月に終息した。 その影響は人類の死亡という損失を皮切りに世界経済を混乱の巻き込み世界各国のGDPの合計を2021年初頭には当時の半分まで押し下げた。アメリカ合衆国CIA、イギリス連邦MI6などの調査からコロナウィルスの発生源は中国武漢のP4研究所から流出したものと判明。 2019年の11月末には中国共産党はこれを知りつつ隠蔽し翌年2020年に武漢から自然発生したことを認めたが、それ以降新たな不都合な事実が判明し世界各国から損害賠償金を請求された。しかし、中国側はこれを認めなかったためその損害の担保として中国が持つ外国資産である米国債他あらゆる財産は凍結され2020年末までにデフォルトに至った。 また、香港を皮切りに中国全土を含む1000万人規模のでもが発生。中国陸軍上将である曹操のクーデターにより2021年には民主主義国家となり三権分立制度の確立、工作員活動の廃止、個人の財産権の確立、表現の自由、秘密警察の解体、など現代民主国家の持つ体制への変更を果たしたため最終的には2021年には内需の大幅拡大ファーウェイをはじめ共産党が管理していた先端企業は民主へ譲渡されたため外貨も獲得できるようになり損害賠償金を少しずつでも返済していくことになる。国際連盟の不公平さが問題となり解体されアメリカ合衆国を中心としたグローバルユニオンが設立境中の軍で最強の力を持つ部隊がグローバルユニオンに集結し世界最強のグローバルユニオン軍が構成された。また地球温暖化の問題は大きく取り上げられ2015年までに全世界のエネルギーの80%までは自然エネルギーと原子力エネルギーに厳しい安全規制をかけそれにパスした発電所のみが稼働を許可されこの基準が達成できない国には大きな反則金が課せられることになる。
2020.06.06
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私小説「敗者復活戦」はまだ書きかけです。途中で挫折しそうになりますが頑張って書いてみます。よろしくお願いします。また、フェイスブックをしています、友達になってやってください。ブログを見たと書いていただければ助かります。中林俊彦
2020.04.23
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covid19は中国武漢唯一のデイ物兵器研究所P4から誤って流出してしまった。そのウィルスはSarsウィルスをもとに作られておりウィルス本体は自然由来のsarsウィルスに90%以上同じだが周りのスパイク(タンパク質)は70%しか共通点がないという。たかが20%の違いと思っては大間違いで自然発生的に変異したとしても数パーセントしか変異しないというのが世界の科学者の常識であるそうだ。事態の収拾に武漢に向かった科学者は中国の生物兵器の第一人者である人民解放軍の女性少将だった。
2020.04.23
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covid19は中国武漢唯一のデイ物兵器研究所P4から誤って流出してしまった。そのウィルスはSarsウィルスをもとに作られておりウィルス本体は自然由来のsarsウィルスに90%以上同じだが周りのスパイク(タンパク質)は70%しか共通点がないという。たかが20%の違いと思っては大間違いで自然発生的に変異したとしても数パーセントしか変異しないというのが世界の科学者の常識であるそうだ。事態の収拾に武漢に向かった科学者は中国の生物兵器の第一人者である人民解放軍の女性少将だった。
2020.04.23
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宇宙人は確実に存在する。このことに対しては世界中の学者が肯定しています。 では、地球にいるのか?という問題だが個人的にはいると思っています、なぜなら25歳の時大津市で空飛ぶ円盤を6機~7機見たからです、それは当時住んでいた大津市の螢谷荘に近い京阪電鉄の石山寺駅の上空を夜の19時ごろその編隊が比叡山の方向へ飛んで行ったのを目撃したからです。 私は飛行機には詳しく左翼燈(赤)右翼燈(緑)もなくただオレンジ色の物体が音もなく猛スピードで飛んでいたのです。飛行機ではまずあの速度は出せないし爆音ん一つ聞こえませんでした。 私だけでなく世界中に目撃者がたくさんおりインチキもあるでしょうがその中の一つでも真実ならばこの地球にいるということなのです。 ならば、なぜ姿を現さないのか?それは分かりません。パニックを起こさせないためなのか色々理由はあるでしょうが姿は見せません。 しかし、それとなくその存在をにおわせるような行動をとることがある気がします。私は今回のこのコロナ騒動がそれに思えてならないのです。こんなに感染力の強いウィルスがいままであったでしょうか?完全に空気感染です。感染した人の70%がどこで感染したか分からないというのが空気感染の証拠です。 古代の資料から人類はこの宇宙人たちの子孫である証拠が次々に発見されています。つまり、宇宙人が自分の子孫たちの人口調整をしだしたのだと考えています。現在の地球の環境を考えてみてください、温暖化の影響で南の島の水没、アフリカ南部の水不足、プラスチックごみの増加、大規模な山火事、大規模災害、アマゾン川流域の大火災は気を国新しいですね。 このままでは2030年には平均気温が1.5度、2050年には4.5度上がるといわれています。2050年までに人類は滅びてしまうでしょう。 そうならないように彼らが調整しだしたのです、まず人口の集中している地域から調整しだしました。中国、ニューヨーク、東京、パリ、ローマ、彼らは自分たちの影を感じさせず巧妙に人口調整を行い始めました。
2020.04.18
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絵を描く才能は母親の性格で養われる僕の母親は厳しかった、いや、厳しいというより自分のことしか考えていないため子供でさえ否定するのだ。だから僕は母親から褒められた記憶がない。中学2年の後半から猛勉強し学校の成績は良かった、英語、数学、理科では3年生になった時点で5段階評価は5以外取ったことがない。なのに、一切ほめてはくれないのだ、だいたい男の子は母親におだて褒められながら才能を伸ばしていくものだ。そんな環境だったからいつも母親の顔色ばかり見て育った。おまけに父親は母親に頭が上がらなかったため家庭内に味方はいなかった。人の顔色を気にする性格というものは自然に観察眼が養われる。観察眼が養われると風景や動物、植物などの特徴を一目でつかむことができるようになる。ヤフオクで油絵の額を買ったつもりが水彩画の額でキャンバスが入らない。苦肉の策で考えたのが裏蓋に直接絵を描くことだった。そうしてこのタイタニック号の油絵は完成した。レオナルド・ダ・ビンチ(ビンチ村のレオナルド)が彼の趣向の中でおびただしいほどの銅直物のスケッチを描いていたのは有名な話だがあれでかなりの観察眼が養われた。あれほどの著名な画家がたった14点しか作品を残していないというのは有名な話で自分が生涯大切に持っていたという絵がモナ・リザだった。最近の研究でダビンチの作品のレントゲン写真を撮ってみると映像が消えるという話がある、一切の筆の跡、絵の具の厚いところと薄いところの差がないので絵が消えてしまうのだ。これは、絵の具を油で薄めて少しずつ色を変えながら何回も上塗りしたというのが答えであの肌の透明感はこうして作られた。だから仕事は遅く未完成品も多い。
2020.03.28
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理系は文系も出来る海保大の入学試験は完全理科系で英語、数学、物理または化学の選択式だった。理数系の者を採用するというのはどうも海軍系の高等教育機関の伝統らしく海海軍兵学校も海軍大学もそして海保大も同じでそれには理由があるらしかった。理数系で採用しておいて専門分野である航海、期間工学、通信工学では確かに役に立つものの4年間の授業のほとんどは法律学だった。憲法、刑法、刑訴、国際法、民法など多岐にわたるが僕はすっかり法律が好きになってしまった。文系の人には悪いが理系の人間には文系である法律も出来るのだ。いや、むしろ刑法などは理系の考え方に近い。条文を覚える必要はない、ある事案がどの条文に該当するのか論文形式で導き出すのだ。たとえば、犯罪とは「構成要件に該当し違法かつ有責な行為」という定義(方程式?)から、暴漢に襲われてそれに敵対していみじくも相手を殺してしまった場合。人を殺した時点で刑法199条の殺人罪に構成要件上一部は該当する。それが大人だとしたら判断能力があるので有責だ。しかし、違法性において自分の命が狙われているときにそれを回避するために仕方なく相手を殺したのだとしたらこれは違法性を否定する(阻却すると言う)従って殺人罪の定義を完全には満たしていないのでこの罪にはならない。これに付け加えるとその暴漢が凶器を何も持っていないのに自分は初めからナイフなどの凶器を忍ばせていたとなると過剰防衛の可能性があり全くの無罪にはならないかもしれない。このように法律の論文を完成させていくのはむしろ理系的な能力を持っていたほうが有利に働く。
2020.02.03
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あれは何で喧嘩したんだか理由はもう忘れた。妻は社員旅行へ出かけ僕は僕でバイクを駈って尾道までツーリングしていた。尾道の東横インの玄関の横にバイクを止めて夜の尾道の街で一杯やろうとフロントでどこらへんで飲めますかと尋ねると「しんがい?」というところでお店をしているということでタクシーを捕まえ出かけてみたけどどの店も閉まっていた。考えてみたら今日は日曜日じゃないか、小さな町では日曜日は夜のお店は閉まっている。フロントもちょっと気を利かせろと思った。だけど、本当はいい気持ちで飲める心境ではなかった、妻とは別れる別れないというシリアスな喧嘩の最中だったのだ。妻にも夜の街にも嫌われた僕は歩いてホテルに戻ることにした。しばらく歩いたところで商店街のアーケードが見えそこは少し明るかったのでそこを抜けてみようと思った、少し大回りでも見知らぬ街は散策しても飽きない。アーケードに入ると商店街のはからいか、誰かが趣味で流しているのかフランス語のJAZZが流れていた。アメリカのジャズではなくフランス語のジャズは楽器の技巧に凝ってるわけでもなく黒人特有の高音で歌いこむでもなくただたんたんと女性ボーカルが流すように歌いそれを追いかけるようにリズムが刻まれる主役は女性のボーカルでとても心にした。アーケードを出るころには僕は完全に回りにはばかることもなく涙目になっていて(猫の子一匹いないので回りにはばかる必要もなかったのだが)妻が恋しくてたまらなかった。アーケードを抜けると左手は海でオレンジ色の街灯が小さな波を照らしキラキラと輝いていた。喧嘩の原因の大半は僕が悪いので電話していいのか躊躇していた。さっきのフランスのジャズがあまり心にしみ恋しさ百倍、結果はどうであれ勇気を振り絞って電話してみた。「さみしいよ」それに対する妻の返事は「私もさみしいわ」だった。後でそのフランスのジャズを散々探してみたがとうとうわからなかった。
2019.12.18
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ラグビーのにわかファンになった私はクリントイーストウッドが監督した「インビクタス」という映画を観ました。そしてとても感動しました。それまでの私は、いや、ここ数年の私はなにか障害があるとできないことをそのせいにして自分の魂を殺してきたのです。 ネルソンマンデラは南アフリカ共和国の大統領でしたがその1年前まで27年間も獄中にとらわれていました。そして、釈放されるとアパルトヘイトを廃止し国民を一つにまとめたのです。 その時重要な役割を果たしたのがラグビーでした。それまでの弱小チームの精神を国を代表する誇りある魂の持ち主たちであると自覚させ決して負けない精神を植え付けました。 そして、釈放された1年後に南アフリカで開催されたラグビーのワールドカップで南アフリカチームを優勝に導いたのです。マンデラの心に残る言葉があります。 「わが誇り高き魂の支配者、そしてその指揮官であるのは自分自身であることを神に感謝する」という言葉です。27年間の獄中生活は想像することさえできないほどつらいものだったはずです、その長い生活を支えてきたものはあの言葉だったに違いありません。何かあるとすぐにくじけてしまう自分と比較するとまるで神のようです。 しかし、それは心の持ち方次第であり同じ人間ですかから自分にできないはずがありません。出来ないと思った時点で同じようにできないのです。 この映画で多くのことを学びました。ただ前を向いて出来る限りのことを実行すること、そして、少々の失敗でくじけないことなぜならその先に必ず自分の理想に近づけるはずだからです。
2019.11.25
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手作りのトップケースを作っ鳥取県米子市から滋賀県に行ってきました。到着した日の夕方京都河原町にくりだして雰囲気を満喫してきました。
2019.09.17
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琵琶湖が好きだった最初の就職で中堅広告代理店の大津営業所に配属になったことは既に書いたと思う。大津営業所は琵琶湖な南岸、におの浜というところにあった。仕事帰りにはガラス越しに湖が見えるCASAという喫茶店に寄るのが常だったCASAってイタリア語でお家だよね。ここへ来ると髪の長いちょっときれいなお姉さんたちがおしゃべりしていたなぁ。におの浜は湖岸にオレンジの街灯が立ち並び夕暮れ時には夕日のオレンジと水色の湖のグラディエーションがとても映えた。大津市は京都も近く京阪電鉄の浜大津駅から20分ほどで三条河原町まですぐだ、僕は京都という町が大好きで休日になると河原町あたりをぶらぶら歩いた。京都音響というプロダクションも担当していたので頻繁に通った。そうそう、友達が故郷から大勢遊びに来た時京都音響のもう名前は忘れたが所長がスティクスのコンサートに招待してくれたっけ。あれで僕の株も少し上がった。京阪電鉄の浜大津から三条河原町まで途中下車してみたこともあった。山科駅、この町も雰囲気があった。京都は昔の都、東京とは違って伝統を重んじる格調高い都だった。
2019.09.16
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琵琶湖が好きだった最初の就職で中堅広告代理店の大津営業所に配属になったことは既に書いたと思う。大津営業所は琵琶湖な南岸、におの浜というところにあった。仕事帰りにはガラス越しに湖が見えるCASAという喫茶店に寄るのが常だったCASAってイタリア語でお家だよね。ここへ来ると髪の長いちょっときれいなお姉さんたちがおしゃべりしていたなぁ。におの浜は湖岸にオレンジの街灯が立ち並び夕暮れ時には夕日のオレンジと水色の湖のグラディエーションがとても映えた。大津市は京都も近く京阪電鉄の浜大津駅から20分ほどで三条河原町まですぐだ、僕は京都という町が大好きで休日になると河原町あたりをぶらぶら歩いた。京都音響というプロダクションも担当していたので頻繁に通った。そうそう、友達が故郷から大勢遊びに来た時京都音響のもう名前は忘れたが所長がスティクスのコンサートに招待してくれたっけ。あれで僕の株も少し上がった。京阪電鉄の浜大津から三条河原町まで途中下車してみたこともあった。山科駅、この町も雰囲気があった。京都は昔の都、東京とは違って伝統を重んじる格調高い都だった。
2019.09.16
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文科の選択一学年50名以下という数は海上保安庁職員1万4千名の約0.6%に当たる。つまり海上保安庁の上級幹部は毎年保安大出身者が0.6%ずつ占めていくということである。2学年の後半に文科して航海科、期間工学科、通信工学科に3対1対1の割合で文科する。この分科までに一般教養や語学初歩的な訓練などを終えるが文科してからは専門の巡視船運航に必要な専門教育を受けることになる。各科が合同でやるのは法律全般や訓練科目になってくる。航海科は大所帯だ、全体の五分の三を占めているので現地に出てからの出世にも有利に働く。僕が一年生の時の部屋長が期間工学だったため僕は期間工学に進むことを決めていた。後で部屋長に聞いた話だが航海学なんて船を動かすだけの簡単な教育で流体力学や材料力学、内燃機関などの理科系的な授業は航海科では学べないというのが部屋長の言い分だった。しかし、今になればはっきり言える出世をするなら航海科を選んだほうが無難である。保大卒の長官第一号は通信工学科のSさんだったが次のN長官、I長官(現長官)と航海科が続いている。実は分科する前の各科の研修で航海科が自分に一番合っていると思もっていた。自分の性格で嫌になるとこなのだが一度決めたことを変えるということがなかなかできない損な性格なのである。
2019.09.13
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国家資格を4つ取った海保を辞めたはいいがアーティストの道へも飛び込めずとにかく将来役に立つであろう資格を取ろうと思った。30歳の時友達と宅建士を一緒に取ろうと約束し彼は合格したが僕は勉強していなかったためその年は断念。ここで終わってはならじと妻の通信教育の本を借りて独学で翌年に合格。地元の新聞に合格者が発表され自分の名前を見つけたときは本当にうれしかった。自己採点では29問しか正解していなかったので絶対だめだと思っていたが税法の5問が当てずっぽうで全問正解していたのだろう。外資系の保険会社へ入社した時はFP(ファイナンシャルプランナー)の講習を受けさせられてこれは取っておかないとだめだと思った。「御社の合格率は平均15%のところ10%だからねー」と講師が言ったので悔しくて何としても取ろうと思った。学科は一回で受かったものの実技で2回も失敗、3回目にやっと受かった。(あきらめなければ受かる)3つ目は貸金業務取扱主任者試験、これはクレディセゾンの代理店になるためには必須な試験。試験会場は近いところで大阪だった(大阪経済大学)が行ってみたらみな学生じゃん!60のおっさんなんかおらへん?ああ、少しはいたな。合格率は28%程度、三人に一人しか受からん。2回目の挑戦でやっと受かった。4つ目の国家資格は簡単、運行管理者国家資格。なんでこんな資格取らなければならなかったか?実は小さな運送会社に1年半いてこの資格取ったら給料を2万円上げてやると言われ迷うことなく取った。50歳の時にFPの資格を前面に出したFP事務所を設立した、FPの受験科目は大きく分けて6つある。ライフサイクルと資金計画、リスク管理(保険)、金融資産運用、不動産運用、タックスプランニング、相続、事業承継。運行管理者を除いてこれらの資格が後にとても役に立ってきた。
2019.09.01
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思えば裏切りの連続であった。海上保安大学校を卒業しておいて海上保安庁に努めていないのも裏切りだし。遠洋航海での唯一仕上げの防火訓練で総合指揮官までやって期待されていたし。シアトルではホスト役を買って出てくれたセレブ、Mrs,Dann(広大な庭を借りて学生と現地の方々を招待してくれた)が、僕一人ディナーに誘ってくださったのに反故にし、ギャレットandディーに誘われて当時大人気のスマグラーというクラブの大舞台で200人を超える聴衆の前、S&Gの「Bridge over troubled water」をいい気で歌ったこと。その時の自分の快楽を満たすため大切な約束を破った。(もちろんこの時点では海保に勤めるきもちはなかったものの)立つ鳥跡を濁さずの格言の通り凛とした自律心に欠けていた。後になって思えばああしておけばよかったという反省ばかりだ。こんなあやふやな生き方が後の自分の人生の根幹を支配している。こんな事を告白するのもこれが初めてだ。人はこんな愚行を犯してものうのうと生きていいのか?人には光と影があるが影を否定すると息苦しくなって最後には死を選ぶのではないか?
2019.08.14
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僕の贖罪思えば裏切りの連続であった。海上保安大学校を卒業しておいて海上保安庁に努めていないのも裏切りだ。遠洋航海の防火訓練で総合指揮官までやったうえシアトルではホスト役を買って出てくれたセレブ、Mrs,Dann(広大な庭を借りて学生と現地の方々を招待してくれた)に僕一人ディナーに誘われておきながらそれを反故にし、ギャレットandディーに誘われて当時大人気のスマグラーというクラブの大舞台で200人を超える聴衆の前、S&Gの「Bridge over troubled water」をいい気で歌ったこと。その時の自分の快楽を満たすため大切な約束を破った。(もちろんこの時点では海保に勤めるきもちはなかったものの)立つ鳥跡を濁さずの格言の通り凛とした自律心に欠けていた。後になって思えばああしておけばよかったという反省ばかりだ。こんなあやふやな生き方が後の自分の人生の根幹を
2019.08.13
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人生に勝ち負けはある今まで人生に勝ち負けなど絶対にないと信じていた。いったい何を基準にそれを決めるかが明確ではないのだ、お金か?地位か?名誉か?それとも自由か?いずれかを得たものが勝ち組か?もちろんいずれも大切なものなのだがそれらは反比例する関係にあり地位や名誉を手に入れたければ自由を犠牲にしなければならない。自由を手に入れてもそれを無為に過ごしていたのでは何もならないのだ。自由の中に明確な信念のようなものがありそれを現実化していかなければ何も残すことは出来ない。なにも達成することは出来ないといったほうがわかりやすいだろうか?この世の中が不便で不公平で暮らしにくいものならばそれを便利に平等に皆が楽しんで生活できるように具体的な目標を立てて決してあきらめることはなく目的が達成されるまでやり続ける、それには強靭な精神力が必要でありそれが達成されたものだけが勝ち組といえるのだ。その結果としてお金や名声があるのであって決してこれらが目的になってはならない。この目的を達成するうえで困難にぶつかったとき自分を疑い自信を無くし目的達成をあきらめた時人生の負け組といえるのではないか?
2019.07.30
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公務員という生きものそもそも公務員というもの国家公務員から地方の公務員に至るまで国民と一線を画している。僕らが学生の頃も自分たち以外の人たちを民間人と呼んでいたし何だか小ばかにしたところがあった。自分たちが国を動かしており国民は黙ってついてくるもんだぐらいの勢いだ。自分たちの権利を絶対に曲げず国民のために少し柔軟に、制度をそれに合わせてみるなどという本来の公務員(国民の公僕)の本質など念頭になく頑なに自分たちの圏域を守り通す。いったいどこを見て政治をしているのかわからず自らを曲げてみることなどない。上司に伺いを立てて相談してみるということもない、何事も問題なく人生を過ごし過大な退職金と年金をもらうことのみを目的に生きているように見えて仕方ない。そのくせ民間は自由でいいなぁなどと言ったりするが少しも本音で語っているわけではない。最近の映画で「万引き家族」というのがパルムドール賞を受賞して有名になったがあの切なく心暖かく心の基線に触れるような人生の豊かさ?のかけらさえもないしそういう世界には絶対につかりたくないと思っている。ゴッホの「炎の生涯」を読んでなんて人生とは奥が深いのだと思ったがそちら側には立ち寄ることもなくただ無事に人生を過ごし生活に困らずのほほんと生きていきたい人たちばかりなのだ。僕はそれがとても嫌だった。そして、62歳を迎えた今彼らは本当に正しかったのではないかとふと脳裏をよぎったりもする。しかしこれだけは自信を持って言えるのだが君たちは人生というものを、苦楽があり色々な色が混ざり合わせられた褐色の本物の人生を生きてきたのか?いや、公務員である限りそれはなかったと言い切れるのだ。
2019.07.21
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大津での一仕事滋賀県の北部で新聞の一ページ広告を受け持ってしまった。入社して一年もたたない新人に新聞の1ページの広告を完成させることがどんなに難しいことか大津営業所の皆もわかっているはずだ。どうせ完成できずに帰ってくるに決まっている、そう思っているに違いない。そう思うとがぜんファイトがわいてくるというのが僕の性格だ。木之本の読売新聞支局長にスポンサーを紹介してもらうため頼んではみたのだがなかなか名前は浮かんでこなかったらしい。仕方がないので宿泊していたビジネスホテルの近くから、かたっぱしにあたってみることにした。まず隣の不動産屋に飛び込んだ。「読売新聞の滋賀県版の広告を担当しています読売連合広告社の中林と申します」「まあ入りなさい、そうか、それはいつ出るんだい?」「広告が集まり次第なのでまだきまっておりません」「実はな、今宅地造成が終わったところで売り出しをかけようと思っているんだ、1ページ取れるかい?」「いつですか?」「2月の中旬の土曜日か日曜日がいいんだが」「多分大丈夫だと思います、ご希望通り土曜日か日曜日に掲載させていただきます」「で、いくらだい?」「一段が7万です、1ページで105万円、ちょうど100万にさせていただきます!」「もっと安くならんのか?」「そうですね、日にち指定ですのでぎりぎり90までなら、それ以上は無理です」こうして滋賀県北部の特集ページはあっけなく終わった。一段5万円以上上げれば良かったのだ。本当は特集なのだからいろいろな広告主をちりばめたほうがそれらしいのだがこのクライアントを逃し細かく集めていく自信は全くなかった。人生はラッキーとアンラッキーの繰り返しだ、チャンスは確実にものにしておかないという気持ちでいっぱいだ、これで営業所に帰ったら文句を付けられるに決まってる、そんなこと構ったことか。与えられた1週間を観光して帰ったことを覚えている。本当はこんなことをしたいために広告会社に入ったのではない、もともと創作に興味があり制作現場を経験したかった。海保大出身者というやつは常に同期の動向を気にしている、だれが出世コースを歩いているのか常に気にしている。どんなに面白くない官庁でも国家公務員のステータスは大きい、民間会社に就職して初めて自分のみじめさを感じた、英語が話せ防火訓練で総合指揮官までやった僕がなんでこんなことをしていなければならないのだ?そんな後悔の気持ちは壁にぶち当たると常に頭を持ち上げた。
2019.07.21
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バディーブリージング話は前後するが許していただきたい。海保大の訓練の中で一番危険な訓練がスキューバダイビングの訓練だ。校庭のはずれに5メートルの潜水プールがあった。海保大の学生は潜水士になろうがなるまいが一通りの訓練を受ける。部下の立場で物事を考えられるかどうかをあらかじめ体験させる為だ。空気ボンベを背負う前にまず水中で何分息を止められるのか試される。基準は2分以上だ、最初はだめでも訓練次第でその長さはどんどん長くなる、そしてついには全員が基準を満たしやっと空気ボンベを背負い水中へもぐることとなる。潜水訓練ではバディと言って必ず二人づつの組が編成される。海中では何が起こるかわからない、バディのボンベが何かの理由で空になる可能性だってある。バディーブリージングの訓練はそのためにやる。訓練の様子はこうだ、バディで水中を進んでいるとどこからともなく教官が現れてどちらかのボンベのホースを取り外す、その時慌てて浮上したりバディのどちらかがパニックになったら失格だ。僕の場合は相棒のホースが抜かれた。僕たちは事前に作戦を立てバディと情報を共有した。その内容はこうだ、もし相手のホースが外された場合自分が一回吸入したら相手には2回吸入させる、ホースを外されたほうが必ず慌てているからだ。落ち着かせるためにはバディが十分空気を吸わせてくれるという安心感を持たせなくてはならないからだ。これで僕たちの訓練はうまくいった。
2019.07.16
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一家心中を見てしまった。滋賀県の大津営業所には五つ上の厳しい先輩と他人には関心なしという二人の先輩がいた。僕はこの厳しいちょっと年上の先輩の運転する車の中で不覚にもうとうとと寝てしまった。「眠いんけ!?」僕はまだ気づかれてないつもりでいいえと答えたがそのあと爆弾が落ちた。「だいたいな、上司が運転してんのにしつれいやないけ!」返す言葉がなかった。これ以来だ、何かにつけて文句をつけてくる、いわゆるいじめが始まった。滋賀県は大津市から琵琶湖の東側にかけて草津市、近江八幡市と東海道沿いに開けている、これと反対に琵琶湖の西側は取り残されたようだった鉄道は湖西線が走り有名な駅といえば雄琴温泉ぐらいか。新聞は全部で15段、通常上10段に記事が掲載され、下5段が広告面となる。大津営業所に配属されておよそ半年がたち所長命令で新聞前頁の湖西地方の特集を組めと言い渡された。しかも雪深い湖西地方だ、ぞっとした。まず木之本の支局へあいさつに行けと言われたのは良かったのだが国道は圧雪がありチェーンを付けないと通してくれない僕はトランクからチェーンを取り出し路肩に寄って後ろのタイヤにチェーンを付けだした。なれないせいで時間がかかる、手はかじかんでうまく動かないし心無いドライバーには水しぶきをかけられるし、泣きそうだった。こうして何とかチェーンを装着すると真っ先に支局へ挨拶に行った。ついたとたんに支局長が「事件が発生したのでこれから出かける、君も来るか?」面白そうだったので「はい、行きます」と答えた。支局長の車で現場に着くと小さなクレーンが湖に落ちた車を引き揚げるところだった。フロッグマンが湖に潜り車の後部にチェーンをひっかけるとガラガラという音とともに黒い車が水面上に上がってきた。今でも思い出すと涙が止まらないのだがその光景は地獄絵図だった。小さい子供が3人リアガラスにへばりついている、息が吸いたくてもがいたのだろう3人とも後部座席の後ろに折り重なって空を見つめていた。父親と4人での無理心中だった。
2019.06.30
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海上不安大学校?夜の瀬戸内海を航行していた僕たちに突然迫りくる5万トンのタンカー!夜の海を航行する船は大きかろうと小さかろうと必ず守らなければならない規則がある。左舷燈(赤色)右舷燈(緑色)船尾燈(白色)を点けなければならない(これは飛行機も同じ国際規則)これによって向かってくる船かどうか判断するのだ。ところがどういう訳か僕たちの船はどれも点灯していなかったのだ。これはどういう理由があろうと言い訳は出来ないましてや海の安全を守らせる役目の海上保安大学校のカッターボートが規則を守ってなかったとは正に海上不安大学校だ。この結果大惨事の一歩手前の事故が発生した。「ドドドドドドドドド」突然海の底から浮き上がってきたような低い轟音そして「ポーポーポー」という警告音20メートル後方から迫りくる黒い鉄の壁、あわやあの怪物に飲み込まれるところだった僕はみなに号令をかけた「右舷止め!左舷力いっぱい漕げ!」僕たちのカッターは急速に右に舵を切った。そして、申し訳なさそうに船尾燈を灯した。タンカーの船員からは怒号が飛んでくると覚悟したが何故か黙って通り過ごしてくれた。こんなこともあった風が強く噴き出したと思ったらカモメがマストの上を3回まわり、あきらめて飛んで行った「何か不吉な予感」そんな気持ちが心をよぎった時だ「ザー!」という今まで聞いたこともない轟音とともにバケツをひっくり返したような豪雨だ、ボートの中はみるみる水が溜まりだし波も激しくなって沈没しそうだ全員バケツで水を掻き出しいざという時のトランシーバーを船長が手に取った。「何をするんだ!」「いや、海保を呼ばないと!」俺たちは死んでもいいんよ、だけどそれだけは辞めようやと僕は叫んだ。
2019.06.15
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小豆島巡行今は大学校で必修になっているらしいが僕らの時代は任意だった、大学からカッターボートを2杯借りて12名づつ2チームに分かれて広島県の呉市から瀬戸内海を東に小豆島まで行くのだ、その期間2週間、貴重な夏休みを使って冒険好きが集まる。船長はN島(後の長官)機関長は私だ。N島で大丈夫か?僕が持った率直な感想だった。というのも同じ剣道部でランニングではいつも遅れる、ひっかえして「N島大丈夫か?」と聞くとゲロを吐く合間に「中林、息の吸い方がわからん」というのだ? 「そんなの自然に任せとけばいいんだよ」「そうか?」これが毎回続く。授業が終われば大抵の学生は外に遊びに行くのに彼は寮から出ずひたすらお金をため込む(N島金融と呼ばれていたらしい)顔は、はにわをプシャとつぶしたような顔、だから女性にはもてない。彼の話はまた後程書くとして彼が工程を組み僕が補佐するそんな感じで呉を出発した。順調にいけばオールで漕ぐこともなく快適な巡行ができるはずだったのだがとんだことになってしまった!瀬戸内海は潮の干満が激しい、したがって潮の流れが激しく通常で2ノットどうかすると6ノットなんてところもある、これにぶつかると漕げども漕げども一向に前に進まずひどいときは後ろに追い返される。そんなこんなで体力を消耗して成果が上がらない。こんなこともあった、真正面から風を受けていてもヨットは前に進むことができる、タッキングだ。ジグザグに進んでいくのだ。しかしカッターボートというやつは救難用にできているのでセンターボード(船底のボード)がない、これがあるとタッキングの際うまく切れ上がってくれるのだが玉野の海岸で恥ずかしい思いをした。海水浴に来ていた可愛いおねいさん方に船体に海上保安大学校と大きく書かれた海の男たちはよく持てた。だが、海岸のみんなに別れを告げタッキングで進んだつもりが風で戻されまた同じ位置に戻ってきてしまったのだ。「あれ?戻ってきたの?」「もうちょっとここに居たくなったのさ」僕たちは潮に逆らうのをやめ逆流の時は島影で休み順流の時それが夜中の何時であろうと起き上がってオールで距離を稼ぐことにしたのだ。だが、これがあだとなり3回死にかけた。
2019.06.13
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海上保安大学校 英語表記(Japan Coast Guard Academy)省庁大学1年生の時の部屋長が機関工学科のSさんだった、その方の影響が強く僕も迷わず機関工学科を選んだ。海上保安大学校は一学年50名以下僕ら25期はちょうど50名で期によっては30名足らずの期もある、海上保安庁職員約15000名、その中の幹部の数で微妙に調整していたのだろう。航海科30名、機関工学10名、通信科10名というのが25期の配分だ。定年は58歳もちろん延長もできるがほとんどの卒業生は関連企業に天下りをする。定年までに一等海上保安監(旧海軍で大佐)は約束されているこの階級と役職はリンクしていない今では長官以下、海上保安監(警視総監)、11ある管区本部の本部長(内部の呼び方で大本部長とただの本部長と呼称を分けている)たとえば東京、横浜などの規模の大きな本部長を大本部長と言っている。大学校長、以上ここまでが特別職国家公務員で待遇が他とは全然違う。入試科目は理科系で数学Ⅲ、英語B、物理又は化学の三科目で受かる。入学と同時に国家公務員で給料やボーナスがもらえる(当時で国家公務員8等級3号俸)理系の方にはお勧めの大学校だ。しかし、入学してからはほとんどが法律学で占められる、いわゆる文系だ。これは旧海軍の海軍兵学校、陸軍士官学校も同じだそうで、その選考基準は理系ができるものは文系も出来る、逆は必ずしもないという理論に基ずく(文系の方には申し訳ないが)僕は迷わず機関工学を選んだものの心の中では航海科にしておけばよかったと後で後悔した、なぜなら圧倒的多数勢力だから上からの引きがあるのである。科目のことはいちいち書かないがそれは恐ろしい数の単位を取らなければならない、それに訓練があるだから超忙しい。欠点が二つで留年、さらに二つ取ると懲戒免職だ。海上保安庁は海の警察だが救難、灯台やブイの管理、海図の作成、海の測量などその守備範囲は多岐にわたる。
2019.06.08
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保安大の時お付き合いした人たち、その一僕は晩稲であった高校時代はほどほどもてたのだが自分からアプローチするタイプではなかった。これは結婚するまで続いた?下手に迫って嫌われてしまうのが怖かったのだ、言ってみればエエカッコシーだった。環境が人を変えるというが全寮制の保安大に入学したことで自分を監視する人間がいなくなったのでタガが外れてしまった。先輩に連れられて呉市のはずれにある「夢娘」という喫茶店に出入りするようになり常連となった。その喫茶店は姉妹で経営する10坪ほどのコーヒー専門店でそこの妹のほうと仲が良くなった。ああ、そういえばデートで夜遅くなり門限を破ったことがある。相談に乗るうちについ話し込み門限時間である10時15分(フタフタヒトゴー)を過ぎてしまったのであった。話の内容は覚えてないが親密な相談事で「ごめん、門限があるから帰るわ」とはどうしても言えなかったのである。学校では大騒ぎになったらしい、今のように携帯でもあれば替え玉を使ってごまかすこともできた。(当時就寝点呼があって1寮で点呼を済ませた学生がこっそりと4寮まで走り僕のベッドに潜り込み毛布をかけて眠ったふりをする)あらかじめわかっていればこの手を使ったかもしれない。というわけで1週間の謹慎をくらった。謹慎ぐらいまだいいほうで訓告、戒告と罪は重くなり戒告ともなれば朝礼の際全員の前で校長から戒告書を受け取り辱めを受ける。よく謹慎程度で済んだものだった。幼稚園の先生だった。
2019.06.08
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広島刑務所の見学いったいどういう感覚をしているのだろう?忖度などとは無縁の行事が海上保安大学校ではあった。警察権力を見せつけたいのかそれとも無知なのか、おそらく後者のほうだとは思うがK教官の計らいで広島刑務所を見学することになった。紺のダブルに金の六つボタンの第二種制服を身にまとった18歳の若造が広島刑務所の囚人が服役で家具を作る作業場の横を列なして見学したのだ、もちろん塀などの境のない作業場で一人の囚人がつぶやいた。「おい、俺たちは見世物じゃないんだぞ!」そしてその声はみるまに作業場に蔓延し声はどんどん大きくなった。広島刑務所といえば殺人などの凶悪犯が収容されている刑務所だ、しかも彼らはノミやハンマーを持っている。僕たちは震えた、先導する教官も少し足早になり学生も逃げるようにその場を立ち去った。いったいあれは何だったのだろう?あんな授業はもう行われてはいないと思うが理解に苦しんだ。こんなこともあった、遠洋航海でホノルルに寄港した時だ、全身白い制服(第一種制服)で金線を巻いた士官の帽子をかぶった、アメリカ人から見たらどう見ても日本海軍にしか見えない僕たちがアリゾナ記念館に見学に行かされたのだ。遠洋航海の目的は「国際感覚を身に着ける」ことだった。にもかかわらずリメンバーパールハーバーを噛みしめながら訪れるアメリカ人たちが来て奇襲攻撃で何千人という人が亡くなった慰霊碑に手を合わせる場を見学させるとはいったいどういう了見か?当然のことながら彼らからは白い目でジロジロと見られたのをよく覚えている。時代が古かったでは済まされない国際感覚のかけらもない見学ではあった。
2019.06.07
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結納金はお前が貯めろ海上保安大学校を卒業して専攻科に進み遠洋航海から帰ってきてから辞表を出した。当然簡単に受け付けてもらえるわけもなく学生課には何回も通った、学生課長の名前はもう忘れてしまったが親身になって相談に乗ってくれた自分は保安庁で後悔してないが君は何でもできる(当時軽音楽同好会を作ってバンド活動をしていたドラムをたたきながら歌を歌うというイーグルスのリーダードン・ヘンリーと同じスタイルをやっていた学園祭や全国カッター競技会のポスターなども作っていた、そんな多芸さがたたって遠洋航海では防火訓練の総合指揮官に任命され2時間の訓練を成功させた、中林に任せとけばなんとかするという大きな勘違いが教官の中ではなかば常識で防火訓練の要領まで作らされた、船長の部屋から出火させようと考えたがやめた)辞めるのもいいだろう!ただしここで知ったことは辞めても絶対に口外しないことが条件だった。犯罪ではないので時効もないからもう時効だ。出身地である鳥取県米子市に帰ってしばらく同社のアルバイトをした、今の女房とは同じビルのテナントで、何度も階段ですれ違い挨拶を交わし仲良くなった。自慢でもなんでもなく神様は幸運にもこの女性に会わせてくれたものだと感謝した。よく気が合ったし美人で天使のような人だ、だがこの天使は時々悪魔に変身する。Y広告社に入社が決まり大津営業所に配属が決まった時、僕はプロポーズをした。ご存じのように僕の両親は子供にお金を使わない主義が徹底していて結納金は自分で貯めろという指示だった、末広がりの88万円を目標に月々5万円貯金した。当時の月給は13万ぐらいだったと思う毎日外食だし月々5万円の貯金は本当にきつかった。会社が終わりホッと一息だが何の楽しみもない。22歳の青年は遊びたい盛りだ、愛の力は偉大だと後で思った。僕の唯一の楽しみは休日の前の晩にオールナイトで日活ロマンポルノを観ることぐらいだった。お酒なんてとうてい飲みに行ける身分ではなかった。
2019.06.07
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不思議な人間関係大津営業所のA所長は山陰の出身だった、とても気さくでいろいろな人間関係を持っていた、そのA所長が慕っていたのがS顧問で関西弁丸出しの豪快そうな人だった(後でわかったことだがとても神経質で気が小さい人物)が不思議な人間関係を持った人だった。「お!中林、元気でやってるか?」「あ、はい」「きばれや!ほなウナギでも食いに行こか!」こうしてA所長と3人で京都市との境にあるとても味のいいうな重きもすいセットをぱくついた。「ほな、これから池坊いくで、中林もいくか」「はい、是非」連れていかれたところは京都の茶道裏千家池坊Y子さんの自宅だった。営業?でもない?何が始まるかと思っていたら麻雀だった。そう、この二人は麻雀友達、池坊Y子さんは想像とは正反対でビール片手につまみをあんぐり飲み込む豪快な女性だった。僕はといえば麻雀ができないのでそばで人間観察するしか手がなかった。大津営業所はおおむねS顧問の人間関係で大方のスポンサーは抑えていた。
2019.06.06
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営業の面白さ僕らの同期は10人いた、入社の競争率はおそらく10倍近くはあったと思う。同期十人のうち国立大学3人(海保大含む)あとは関学、立命館などがいた、一番仲が良かったのは外語大出身のK君で今でも時々会うことがある彼はスペイン語専攻で南米を一年近く放浪したらしい、南米の女性はグラマラスで情熱的それは想像に難くないきっと僕のように外国で楽しい思いをしたに違いない。海上保安庁の仕事は規則にのっとって行われる、こうしたらああなるというのはだいたい想像がつく、しかし、民間会社の営業はハプニングの連続だ、思い通りいかないしあるきっかけで大きな成果が上がることがある。大津営業所は京都支社なのでしょっちゅう京都に行くことがあった。原稿を届けたし京都のクライアントも担当していたので一週間に一度は京阪電鉄にのって支社のあった河原町へ出かけた。仕事をすますと僕のお楽しみが始まる、京都市内をあてもなくさまようのだ。もともと美術には興味があるのであるギャラリーを訪ねた時だ、雑誌でも有名な「一枚の絵」の展示即売会だった。先方の担当に広告はどうしているのか尋ねるとA新聞に掲載しているという。「でも高いんだよなー」「読売新聞はどうですか?」新聞の一面というのは15段で構成されている広告スペースで2段の横1/4はニヨツと言ってよくつかわれていた。同社は半5段(下の広告スペースの半分)をよく使っていたが僕はあえて全1段を勧めた。全一段だとまず広告欄の下にうずめられ事はない、だいたい一番上の目立つ場所に掲載されることが多い、このことを説明すると読売はいくらするんだ?と尋ねられたので関西一円で一段が50万ですと答えた、これが高かったのか安かったのかは分からない、新聞広告の値段なんてあってないようなものもちろん正規な値段はあるが目が飛び出るほど高かった。ご存じのように僕は大津営業所の営業だしかし大津営業所経由で全国版も出せた。滋賀県の新聞の単価(滋賀県版)は確か10万円ぐらいだったと思う、それが新人の営業が一段50万でしかも定期的に掲載してもらったので営業成績は上がった。これは営業の面白さだった。
2019.06.05
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就職半年間のアルバイト経験をへて僕は翌年の総合職試験を受けその会社に採用された。読売系の中堅広告代理店だった、3か月の研修危難をへて最初の配属が決まった。京都支社大津営業所だった。僕は何故か水に縁があるらしい海上保安庁そして日本最大の湖、琵琶湖の付け根大津市への赴任、ついでに誕生日の翌日から魚座だった。民間の会社へ入社したものの新入社員だからかなり苦労した、はぅきり言って海保大卒業生は楽なものだった、卒業と同時に士官だから部下が数人ついた年上もいたがこの世界は階級がものをいうすべてが命令系統で動いた、くやしかった。大津営業所は琵琶湖のほとりにおの浜にあった、窓からは琵琶湖が見渡せる確か琵琶湖大橋が見えたはずだ。この営業所にはA所長以下営業が4人デザイナー、一人事務員、一人の総勢7名だった。社会に出たての新人に与えられた任務は広告主を開拓すること、右も左もわからない土地でしかも営業経験はゼロに等しい、だいたい広告代理店の営業なんて断られたなんぼの世界だ、国家公務員の世界で4年半過ごした僕にとって民間の営業開拓は新鮮ではあった。Y中堅広告代理店はそれまでの新聞中心の広告募集形態から大きく舵を切り電波媒体を増やすべく社長は大阪のYテレビから就任したしラジオテレビ局長もYテレビから来ていた、売り上げは約100億で順調に売り上げを伸ばしていた。大津営業所からJR東海道線までの通り通称膳所通りには商店が集中していたのでその通りの商店の広告募集が僕の最初のミッションだった。それまでの待遇とは180度違い頭を下げる毎日、正直後悔した敗者だと思った。
2019.06.05
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