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ご訪問ありがとうございます。感謝いたします。
私にしては、異常な速さでの ブログアップです。
( 何事も起こらないといいですが・・・・ま、私ごときの事では、何も起こりません。)
ただ、自分のブログに、書き留めて置きたかったのです。
ブログ 伊勢ー白山 道 を、見ていたら、
あ、見覚えのある写真・・・・・・・・・。
大東亜戦争終戦後の
1945(昭和20)年 8月9日 長崎に原爆が落ちた。
撮影は、
ジョー・オダネル
アメリカ空爆調査団の公式カメラマン
)
佐世保から長崎に入った私(ジョー・オダネル)は、 小高い丘の上から下を眺めていました。
すると白いマスクをかけた男達が目に入りました。
男達は60センチ程の深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。
荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。
10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は
当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。
しかも裸足です。
少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。
少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気付いたのです。
男達は幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。
まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。
それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を
赤く照らしました。
その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に
血がにじんでいるのに気が付いたのは。
少年があまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、
ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。
夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、
沈黙のまま焼き場を去っていきました。
この少年が、その後 どう生きていったのか、 行方は、わかっていません。
ジョー・オダネル氏は2007年8月9日にテネシー州で亡くなった。享年85歳。
その日は奇しくも、原爆が長崎に投下された日だった。
ジョー・オダネル氏の肉声