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出生率は過去最低を更新し、少子化がとまらない。子育て支援の議論も活発化しそうだが、日本の場合、昨今の少子化はむしろ未婚化が原因であり、結婚した夫婦の完結出生数はさほど変わっていないし、三人以上の子供を持つ世帯はむしろ増えているという。そうであるならば、既に結婚した人に対する子育て支援策よりも、本当に重要なのは、結婚を増やす方策なのだと思う。そうだとしたら、考え方の順序としては以下のようになるのではないか。まず、未婚化はなぜ問題なのか。未婚化については、これを問題視して結婚率を上げる方策をとるのか、未婚化は所与のものとして、その弊害をなくす方向で考えていくのかである。次に、未婚化を問題視して、結婚率を上げる方策をとるのだとしたら、未婚化の要因を分析しなければならない。これは未婚の人になぜ結婚をしないのかという意識調査を行うというよりも、そもそも今の日本において、どんな人が結婚しているのかを数値で分析する必要があるのではないか。同年齢の未婚既婚を他の要素とクロスさせる操作なので、既存の統計資料で十分に可能だろう。いろいろと資料を探してみると、やはり、未婚の背景には経済問題があり、就労が不安定であったり収入が少ない者ほど結婚をしていないという傾向がある。もし、そうであるのならば、既に結婚している層や結婚が可能な層に対して、子育て支援という名目でバラマキを行うのはやめた方がよいのではないか。ましてや、若者の意識が変われば婚姻率が上がるとか、出会いの機会やマッチングアプリを提供すれば婚姻率が上がるという議論は意味不明である。参考07_09.pdf (u-tokyo.ac.jp)
2024年06月06日
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世の中の意見がワーッと一方向にいっているときでも、ちょっと違うのではないかと思うことってある。横浜市の教育委員会が教師のわいせつ事件の公判で職員を動員して傍聴席を埋めたということが問題視されている。教員の犯罪を隠ぺいするために行ったものだとして、世の中の論調は非難一色なのだが…。しかし、わいせつ事件というものには、加害者の一方に被害者がいる。こうした裁判では被害者は匿名(匿名の扱いになったのはなんと最近のことだという)となるのだが、これでもなお、被害者にしてみれば、自分が被害者であることや被害の詳細が、周辺の人々に知られるというおそれはある。横浜は大都市であるが、この事件の傍聴となれば、事件に関心のある人々がやってくる。いくら被害者の名前が匿名であったとしても、閑静な住宅街か商店街かといった地域の特徴、〇〇部の活動中といった犯罪の状況などで被害者の特定や犯罪行為の内容が知られるおそれは十分にあるのではないか。傍聴席を埋めた理由について、教育委員会側は、被害者のプライバシーをあげている。もちろん言い訳であるにしても、被害者の立場で考えれば一理あることも事実である。実際、傍聴人に対しては公判で見聞きしたことを口外しないように徹底していたという。被害者側は告訴したことで不特定の傍聴人がくるのを覚悟していたという論者もいるかもしれないが、それは違う。自分が被害者側であれば、傍聴席を埋めたことについては、ありがたく思いこそすれ、非難するつもりなど全くないだろう。もう一つ。障碍者の強制不妊手術についての最高裁の判決がでる。おそらく除斥期間なしの損害賠償責任が認められるだろう。優生思想に基づく法律があったことについて、あちこちから非難の声があがるのだろうし、それについてどうこうと書くつもりはない。自分もそうした優生思想に与するものでないことは明言しておく。報道に出てくるのは軽度な障碍者なのだが、障碍者といっても様々である。昔住んでいた家の近くに障碍者支援学校があり、そこに通う子供たちを見たことがあるが、思春期をすぎると、子供達の体つきも男性らしく、あるいは女性らしくなってくる。そうした中で、一目で障碍者とわかる可愛い少女が一人で歩いているのをよく見かけたが、その子を見るたびに、親はきっと不安でたまらないだろうなと思った。また、子供の頃、近所に知的障害の男性がいるという人の話を聞いたことがある。その男性は、仕事をしていないので、よく近所を歩き回っていた。家族はとても不安に思っていて、その人は、人通りの少ない時間には一人で外にでないようにきつく親に言われていたという。…まあ、そんなことを思い出しました。
2024年06月05日
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松本清張の短編に「空白の意匠」というものがある。作者の新聞社勤務の経験が反映されていると思われる話で、薬品の副作用の記事を出したところ、実際にはその副作用自体がなかったことが判明したために広告担当の社員が詰め腹を切らされるという話だ。誤報ではなく、取材源となった警察発表が間違いであったのだが、大手企業と広告代理店、地方の弱小新聞社の力関係の中では、よくあることなのかもしれない。この小説を読みながら、最近起きたサプリの健康被害のことが頭から去らなかった。紅麹も原因がわからず、被害を訴えている人々も、もともと高齢者が多いこともあり、もしかしたら原因不明のままうやむやになっていく事件かもしれないとも思った。ところが、最近、厚生労働省は原料から検出された青カビ由来の物質「プベルル酸」が腎障害を引き起こすことを確認したと発表したという。混入の経緯や因果関係の詳細は今後の調査対象であるにしても、これについての報道が少ないように思うのは気のせいなのだろうか。マスコミがスポンサー企業に弱いのは今に始まったことではないのだが、権力に弱いとなると、「社会の木鐸」というのも怪しくなる。札幌のススキノ首切り殺人について、母親の公判がようやく始まった。ただ、この事件では両親が何か月間も鑑定留置されており、主犯の娘だけでなく、両親まで長期間鑑定留置することについて疑問視する報道はほとんどなかった。そしてまた、そもそも父親ならともかく、家にいて「事件を容認していた」と言うだけで、母親の刑事責任を問えるのだろうか。こうした点について疑問を呈する報道がまったくないのも異様な感じがする。以下は余談この夏、判決がでるという袴田事件も、味噌の中につけておいた血痕の色が変わっていないなど素人目にもおかしな点が多々あった。それこそマスコミがきちんと権力を監視していれば、冤罪は防げたのではないか。古い事件なのだが、甲山事件というのがあった。リアルタイムで報道を見ていたのだが、殺人なのに動機皆無、刑事訴訟進行中の偽証罪逮捕、知的障碍者の証言は一般人以上に信用できるという空前絶後の鑑定意見など、素人が見ても、警察も検察もムチャクチャやっているという印象しかなかった。それなのに、マスコミ報道は警察検察の発表の垂れ流しで、なんというか、こういう社会に生きていることに恐怖さえ感じたものである。冤罪は決して他人事ではない。参考【1974年】汚水の中から見つかった二人の児童 障碍者施設で一体何があった?警察検察の圧迫と公権力と冤罪…多くの人の人生を狂わせた『甲山事件』【ゆっくり解説】 (youtube.com)
2024年06月04日
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大河ドラマ「光る君へ」は、ときどき視聴をするくらいで、熱心には観てはいない。ただ、史実の部分は平安絵巻として、紫式部を主人公にした部分はフィクションとして見ればかなり面白い。紫式部が、巷にでて和歌の代筆をしたり、庶民に変装して中宮の様子を探ったり…というあたり、NHK大河の韓流化のようなものを感じる。韓国にも大河ドラマ(そのままテハドラマという)があるが、多くは史実を離れて自由に作ってあるし、史料には一行しか記載のないチャングムを波乱万丈の物語にしたてて人気を博したりもした。今回の紫式部だってそれと似たようなものだし、清少納言との交友も物語として面白くするためとみればよいだろう。そのあたり、年齢差を考えればありえない織田信長と徳川家康の子供時代の交友がでてくる歴史物語も似たようなものである。「光る君へ」に戻ると、枕草子は定子を元気づけるために執筆されたというエピソードがでてくる。さすがに紫式部のアドバイスはないだろうが、元気づけるという動機は学説にもあるという。枕草子は楽しいことしか書いていないが、これは清少納言が勝気であったためと言うよりも、定子を元気づけるためといった方が説得力がある。以前、枕草子を読んだときには、正直言って、どうでもよいことばかりを書いたつまらない随筆という印象があったのだが、あらためて読み直してみると、これが非常に面白い。最初の春はあけぼの…の段でまず、こんなきれいな情景を思い出してみてよと誘い、平生昌や翁丸のエピソード、好きな山や市の段では、あの頃、あんな面白いことがあったわよね、あんな話でもりあがったものよねというような肉声が聞こえてきそうである。没落した人が過去の全盛期の回想にふけるのは今の人の感覚では空しいとかなんとかいうのだろうけど、当時の定子と清少納言の間ではそういう素晴らしい時代の楽しい想い出だからこそ残しておきたいという了解があったのかもしれない。そしてそれが定子の生きる力にもなっていた。「光る君へ」で今後の枕草子執筆がどう描かれていくか興味深い。清少納言は書いたものをその都度定子に読み聞かせ、当時を知る女房達も一緒に聞いたのかもしれない。当時は紙は貴重であり、漢籍などの学問書籍は別にすれば、書いたものは何人かに読み聞かせるという場合が多かったという。狭い貴族社会の中では、登場人物に知った名前も多かっただろうし、思い当たることも多い。また、急速に没落していった中関白家に対する同情もあった。枕草子は貴族社会の中で人気を博し、そこに描かれている美意識や人間観察にみるべきものがあったので、時代を超えて後世に残っていった。徒然草も若い頃に読んだときには、こんな貧乏くさくて枯れた随筆のどこが面白いのだろうと思っていたが、年齢を重ねて読んでみると、意外と面白い。枕草子も、いままで読んだときにはどうしても面白さが分からなかったが、今、改めて読み、ようやく面白さがわかりそうである。
2024年06月03日
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秩父牧場の天空のポピー園に行ってきた。草原一面に星を撒いたようにポピーが咲いている光景が人気なのだが、今年はポピーの生育状況が悪いということで特に入場料はとらなかった。たしかにぎっしりと咲いているのは一角だけで、あとは草原が広がっているばかり。花の密度が薄くなっているところでは、首をたれたままの蕾がめにつく。元気よくまっすぐに咲きかけている蕾もあるので、こうして首をたれてしまった蕾はそのままでは咲かないのだろう。猛暑が原因だとも、暖冬が原因だともいわれているらしいが、原因はよくわからないという。今年は桜の開花も遅かったし、温暖化は植物にも様々な影響を及ぼすのだろう。ポピーは本来は赤い色でピンクなどのそれ以外の色の花はさらに咲きにくいというので、赤い花が目立った。例年ほどではないにしても、草原一面に咲くポピーは見ごたえがあり、風は心地よかった。それにしても、同じケシ属でも、大切にされ観光資源になっているポピーと、どこにでも群生を作って生態系を乱すために駆除対象になっているナガミヒナゲシとはなんという違いだろうか。ナガミヒナゲシも淡い珊瑚色の花は十分に美しくはかなげである。ナガミヒナゲシといい、アツミゲシといい、花には罪はないものを…。
2024年06月02日
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映画「碁盤斬り」を観た。最初は藤沢周平の原作かと思ったが違った。しかし、凛とした武士、人情あふれる町人など、かなり藤沢作品の雰囲気に似ている。江戸時代に賭け碁がそんなにさかんに行われていたのだろうかとか、浪人が篆刻などでそう簡単に暮らせたのだろうかとか、いろいろと疑問はあるのだが、時代劇としてはなかなかの佳作だと思う。日本映画が外国で賞をとったというニュースも聞くが、こうした作品こそ外国に知られれば日本文化の理解の助けになるのではないか。ただ、難をいえば主人公は格好いいといえば恰好いいのだが、偏屈にしかみえず、いまいち心理がわかりにくい。碁盤を斬ったのは二度と碁を打たないという表現なのだが、なぜそうした決心をしたのかは様々に解釈できる。かっての仕官時代の行状についての迷いや旦那とのわだかまりなど、いろいろと考えられる。碁について全く知らなくても、映画を楽しむのには支障はない。また、映画の中にでてきた祭りの舞や吉原の狐舞などもなかなかの見もので、保存会があるのかと思い、エンドロールをみていたがそれらしいものはでてこなかった。過疎化がすすむとともに、全国のあちこちで祭りが消えているという。祭りが消えていくということは、その祭りにつきものの芸能もある。こうしたものについて、映像等で保存するという試みは必要なのかもしれない。もうすでに行われているのかもしれないけれども。
2024年05月31日
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世の中には言ってはいけないことがある。正確にはどこかでは言われているのだが、大きな声では言われていないということである。その一つ。人種によって知能の差があるという事実。人種によって脳容量に差異のあることは医学的に明らかになっているし、オリンピックやスポーツ国際大会を見れば人種によって運動能力に差のあることは多くの人が認める。それが知能となると、人種による差は大きな声では語られず、経済的背景や教育制度のせいになるのは不思議である。本書では、その「言ってはならない」人種による知能の差にかなりのスペースをさいている。内容はまあ、予想どおりなのだが、ただ、この人種の差というのは、あくまでも統計的な差異であるので、具体的に〇人種に属している誰かさんが△人種に属している誰かさんより、知的レベルが高いということはないのだし、数多くの天才的頭脳を輩出して学術の発展に貢献した民族があったとしても、その民族に属する任意の誰かさんが偉いということには全然ならないということはもちろんである。人種による知能の差があったとしても、それはヘイトを容認するものではない。次に男女による知能の差。これはどっちが優れているかではなく、一つは分散の違い、もう一つは分野の違いである。分散の違いというのは、あまり異論ないのではないか。要は極端なりこうとバカは男に多く、女は平均への集中が高いということである。ノーベル賞受賞者と犯罪者はいずれも男が多いが、これは女が差別されているわけでもなければ、男が差別されているわけでもない。また、男は空間的認知能力が高く、女は言語的能力が高いともいう。これも統計的傾向であり、個々人にそのままあてはまるわけではない。だから、理系に進む女性が少ないのをすべて昭和脳的偏見のせいにして、女子学生を入試で優遇するような動きはゆきすぎではないか。こうした人種による差異は知能だけではなくセトロニン濃度にもみられ、これが少ないほど真面目、几帳面、悲観的になりやすいという。東アジアでは、セトロニン濃度が遺伝的に低いという。もし、これが本当だとしたら、昨今、東アジアで特に少子化傾向が進んでいることも、これが背景にあるのかもしれない。悲観的かつ真面目だから教育熱心となり、教育費の負担も高く、受験競争も全員参加の激烈なものになりやすい。ケセラセラで愛する者同士一緒になって子供を無計画につくるなどもってのほか、きちんと結婚して良い子を生まないと家名の恥になる。こういう社会ではたしかに子供はなかなか生まれないだろう。
2024年05月29日
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酸っぱい葡萄や尻尾をなくした狐などイソップ童話には人間心理の機微をついたものが多い。そうした心理は心理学的にも定説になっているようだが、こんなのはどうだろうか。目の前に、まずそうな葡萄と小さい胡桃があったとする。まあ、ものの喩えなので、とりあえず葡萄と胡桃とする。狐は葡萄か胡桃を選ばなければならない。その葡萄はたしかにおいしくないのだが、胡桃も小さくてまずそうだ。食べたこともない胡桃よりは、まずくても我慢できる葡萄の方がましかもしれない。それに、その前に食べたりんごは全くの不良品だったし、それを思えば、この葡萄でもまあいいや…と思っていた。ところが狐はこの葡萄の隣に、さらに別に種類の同じようなまずそうな葡萄があるのに気付いた。ああ、似たようなまずそうな葡萄、どっちもどっちじゃないか、なぜ選ばなければならない。そう思ったとたんに、狐の目には、今まで選択外と思っていた小さな胡桃が魅力的に見えだす。これを心理学的に「どっちもどっち効果」という。積極的に選択したくないもの二つの選択を迫られた場合には、その二つとは異質な第三の選択肢が急に魅力的に見えてくる心理的効果。こうしたことってあるのだろうか。門外漢なのでよくわからないが…。
2024年05月28日
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「書道教授」を読んだ。題名にある書道教授というのは主人公の銀行員が書道を習っている女性であり、年増だが奥ゆかしい魅力をたたえている。主人公には見合いで結婚した妻がおり、古本屋の色っぽい女房も気になり、さらに、その古本屋の女房に似た雰囲気のホステスとも親しくなっていく。このホステスがとんでもない疫病神で、主人公にしがみつき、次々と金をねだり、しまいには妻の実家から金を出してもらうことまで要求をする。よくある火遊びのつもりが深みにはまっていくというパターンなのだが、窮地に陥っていくいく状況は哀れでこっけいでもある。結局のところ、これは成功したかにみえた完全犯罪が破綻を迎えるという物語なのだが、冒頭にでてきた流行っていない呉服店の謎も回収されており、ややご都合主義にも見える点も気にならない。主人公の銀行員はどこまでも平凡な人間であり、こうした平凡な人間の平凡な日常と、犯罪とが地続きになっている分、ちょっと怖さがある。主人公をとりまく女性で一番活躍するのは前半ではホステス、後半では妻で、題名になっている書道教授の女性の出番はさほど多くないのだが、この女性こそが最も不思議な魅力を放っているようにみえる。この小説は「松本清張傑作短編コレクション」に収録されているが、他に収録されている短編の中には以前に読んだものも、いくつかある。ただ、一度読んだものでも、全く記憶に残っていないものと、逆に強烈な印象を残すものとがあるのが面白い。「巻頭句の女」は薄幸な女が強烈な印象を残すのだが、「カルネアディスの舟板」は読んだはずなのだが、ほとんど記憶になかった。いずれも面白い小説であることには違いない。
2024年05月27日
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教員のわいせつ事件の公判で県教委の職員が傍聴席を埋め尽くしたことが問題視されている。県教委側は被害者のプライバシーを守るためと言っているという。もちろん言い訳であろう。教員の不祥事を知られたくないために、一般人が傍聴できないようにした。しかし、それをわいせつ事件の被害者側からみたらどうだろう。たしかに公判では被害者の氏名そのものはでてこないかもしれない。しかし、地域、状況、例えば〇〇部の顧問の△△がボール置き場で…とかなんちゃらと出てきたら、どこそこの何という中学校で被害者は何とか部の部員だったとかいったことくらいは推察される。被害者からすれば、そんな裁判が公開されて、不特定多数、中には暇をもてあましている噂好きで暇をもてあましている近所のおしゃべりおばさんもいるかもしれない…が傍聴すること自体悪夢ではないのだろうか。もしも、自分が被害者やその家族だったら、傍聴席を職員で埋め尽くした教委の判断には感謝こそすれ、恨む気持ちはまったくおきないだろう。裁判の公開と言うのは、権力者の不正や長い歴史のはてに裁判の公正性を保持するための大原則として確立したものだが、一方で被害者の人権を守ることも必要であろう。「被害者のプライバシー」が不祥事を隠ぺいしたい組織の言い訳になってしまう現状こそ、実は問題ではないか。
2024年05月26日
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ときどきしか見ていなかったのだが「地上の星」という人気番組があった。テーマの多くは戦後の復興を支えた技術者達を描いたものだ。戦争中、理系学生は徴兵を猶予されたという。地上の星達の中には、そうして戦場行きを免れた人々もいたのではないか。しかし、そうした人材の温存がなければ、戦後の復興はなかったし、ジャパンアズナンバーワンなどという時代も来なかった。また、製品や新技術の開発には多くの人々の協力がいる。並外れた頭脳が一人いればいいというわけではなく、その下には何人もの補助者がいる。ごく少数の一等星だけではなく、二等星以下の星も輝くから夜空は美しい。戦争中、理系学生には徴兵猶予の制度があり、それだけが理由ではないにしても、理系を目指す少年が多かったのではないか。戦争が終わった時には、日本には厚い技術系の人材層があった。奨学金の充実とか、少子化対策の一環として教育費支援という議論があるさ中、なぜか国立大学の授業料については値上げの動きがある。理解できないことだ。某私大の学長は負担できるところは負担してもらう…と言っているようだが、おそらくここで念頭においているのは学生本人ではなくて親と言うことだろう。成人の大学生の授業料の議論に親の収入を持ち出すおかしさをわかっていない。どうしても、国立大学の授業料を上げるのだとしても、理科系学部の授業料だけは据え置きにするか、できればもっと下げるべきではないのだろうか。国立大学の授業料を上げるなどは、国力を衰退させる愚策としか思えない。
2024年05月24日
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小田急線の下北沢から一駅のところに世田谷代田の駅がある。繁華街下北沢の隣の小さな駅と言う印象しかなかったのだが、所用があって行って見ると、このあたりの線路は地下化され、立派な地下駅となっていたので驚いた。さらに、駅前に出てみると、ここはちょうど西に開けた高台になっていて見晴らしがよいのに驚く。東京で富士山というと、今では高層ビルの展望室でしか見られないとおもっていたが、ここからなら普通に富士山を望むことができる。そのせいだろうけど、環状七号線をまたぐ陸橋は冨士見橋といい、北沢八幡には富士塚がある。もっともこの富士塚は登ることはできないのだが、富士山の溶岩をもってきており、傍には富士山が見えるというスポットもある。このあたりには戦前から多くの文士が移り住んでおり、北沢川を暗渠とした後の緑道は文学の小路という名称がついている。文士を引き寄せたのは小田急の開業だったのだろうけど、武蔵野の面影と富士山や丹沢の山々を望む高台の眺望も魅力的だったのだろう。世田谷代田は、今でも、かなりの高級住宅街のようであるが、やはりところどころ空き地となっているところもある。たぶん今の金持ちは閑静な住宅街で一戸建ての豪邸に住むよりは、何かと便利なタワマンの方を好むのではないか。なお、世田谷代田の代田という地名はダイダラボッチの伝説に由来するという説もあるらしい。今の建物に覆われた光景からは想像しにくいが、かつてはこのあたりは武蔵野の野で地形の凹凸はいまよりもはるかに意識されていた。目立つ形の窪地があればそれを巨人の足跡と考えるのは自然な発想なのだろう。
2024年05月23日
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夜間飛行黎明期を舞台にした中編小説で、小説というよりも散文詩のような印象である。夜間飛行と言うのは今でいえば宇宙飛行に似ている。未踏の空間での絶対孤独の世界と言う意味で。そしてそこで目にする地上の光景や星や月も、今まで普通の人間が見ることができなかったものであることも共通している。飛行機の窓際に座り、はるか下で街が煌めくのを見たらきっと思い出す小説だろう。それにしても、現代では夜間飛行どころか宇宙に行った人も何人もいる。こうした人々の中で、文章と言う形で宇宙を伝えた人というのはどのくらいいるのだろうか。
2024年05月23日
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だいぶ前の話なのだが、職場で昼休みの雑談をしていた時、教育費に税金を使い過ぎだと憤っている人がいた。その人に言わせれば教科書などもともと親が負担するものでなんで税金で出すのかということである。その人には子供がなく、子供のいない人にとっては、たしかに自分たちの税金がそんなところにつかわれるのに不合理なものを感じるのかもしれない。今では、有権者の中での子育て世帯はさほど高い比率ではなく、その一方で生涯独身者というのも少数派でなくなれば、その票も少なからず影響力を有することになる。シルバー民主主義といわれるほどに、数の上でも投票率の上でも有力な高齢者の票であるが、その中身は、未成年の孫や曾孫のいる高齢者よりも、そうでない高齢者の票が次第に多くなっていく。よいとか悪いとかの問題ではなく、子育て支援というのは次第に票にならなくなっているのではないのだろうか。いつの時代も有権者の中でawokeと言われる層はわずかだ。それはリベラル系だけではなく、国家の将来を憂え日本国の少子化に危惧をいだく憂国系も同様だ。子供のいない層であれば、次の世代のことはあまり考えず、自分一代だけはどうにか逃げ切れればよいと考えても不思議はない。そして政治家という職業は当選してナンボであって、当選するためには票がいる。くりかえすがよいとか悪いとかの問題ではなく、民主主義とはそういうものなのだが、シングル民主主義というのもあるのではないか。
2024年05月21日
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徳島の人が京都に住み始めた頃、こんなことを言っていたという。京都では祇園祭が近づいても街の雰囲気はあまり変わらないので驚いた、これが徳島だったら阿波踊りが近づくと雰囲気が変わるのに…と。これを聞いていた東京の人は驚いて言う。祭りが近づくと街の雰囲気がかわることなんてあるのかい?東京にずっと住んでいるのだが、東京の有名な祭りと言うのは行ったことがない。有名な祭りといえば神田祭りなのだが、神田は電車に乗らなければいけないところだし、本当の地元だったらやはり雰囲気がかわるのかもしれないけど、けれども、あの大変な人ごみをみただけで行こうという気にはならない。神輿とかいっても、なにか珍しいものがあるというわけでもなさそうだし。朝のテレビでその神田祭りを報道していた。やはり場所柄だろうか外国人観光客も多く、神輿担ぎにも外国人が参加していた。こういうところ排他的でないことも日本の文化の特徴だろう。外国の宗教的色彩のある祭りに観光客が参加するのはちょっと考えにくい。そのうち、有償で祭り用浴衣やハチマキ、草履などを貸すか売るかする商売もでてくるだろう。いや、もうあるのかもしれないけど。珍しいものや美しいものを見るというよりも、担ぎ手と見物がいっしょになって、一体感を楽しむというのがこうしたお祭りの特徴で、為政者から見れば、民衆のエネルギー発散という効果もあったのかもしれない。パンとサーカスのサーカスである。昔、いや、戦前くらいまでは、こうした祭りには武士や中産階級は参加しなかったと思われる。戦前の本を読んでいた時、日本にクリスマスが普及しだしたのは中産階級からで、それは盆踊りなど庶民のようなバカ騒ぎ?の場は中産階級にはなかったことが背景だったという記述をみたことがある。そんなものだったのかもしれない。
2024年05月20日
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大阪の府知事がゼロ歳児も含めて子供にも選挙権を与えるべきだという主張をしているらしい。もちろん子供が自ら投票できるわけではないので、これは、事実上、子供の数に応じて選挙権に重みを付けるということになる。つまり独身者は一票であるのに対して、四人の子供がいれば夫婦で六票の選挙権を有し、その重さは独身者の三倍になるわけである。これは、まさに選挙権の平等原則に反するわけで、高額納税者の票と低所得者の票とに重みに差をつけるのと変わらない。もちろん弁護士でもある府知事が本気でこんな主張をしているとも思えず一種の釣り発言であろう。ただ、これをシルバー民主主義に対する感想と見れば別の見方もできてくる。子育て世帯の割合で検索をしてみると、2023年の資料で、全世帯に占める割合は18.3%で初めて20%を切ったという。今や核家族世帯だの母子世帯だのと言っても、成人した子供が老親と住んでいる世帯の方が多いわけだ。そこから考えれば、有権者の中でも、子育て中という人は少数派であろう。有権者のかなりの部分は独身者や子供がいるが、成人していて孫もいないという人々なのではないか。近年、子供の騒音に対する苦情がやたら増えているが、背景は同じであろう。かわいい子供や孫のいる人は、子供の声を騒音とは思わないものだから。マスコミにでるような立派な言論では少子化を憂え、子育て支援の充実をさけぶものがほとんである。国政選挙でもほとんどの政党は少子化対策をテーマの一つに掲げることだろう。しかし、地方知事ではどうであろうか。住民サービスと直結する地方自治では有権者のある種の本音がむきだしになる。高齢者の無料パスや施設利用券など高齢者優遇を前面に出す候補Aと子供の医療費や教育費無償化、子供向けの施設の充実など子育て支援を前面に出す候補Bがいたら、さて、選挙に勝つのはどちらだろう。子育て世帯の中には、子育て支援の充実している自治体を選んで引っ越すという話がある。一種の足による投票である。そうなれば近所の公園にも子供の騒音が響き、ボールは飛んでくるし、ラジオ体操やゲートボールの場所はとられる…子育て支援などとんでもない。そしてまた、子育て支援のしわ寄せで高齢者無料パスがなくなるのは許せない。こんな有権者がいたって不思議ではない。知事が、子供にも選挙権などということをいう背景には、自治体首長として、こうしたことに対する憂慮があるのかもしれない…以上妄想でした。
2024年05月19日
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もう一度品川神社に行ってきた。この前は登らなかった富士塚にぜひ登りたかったからである。この富士塚、京浜急行の窓からも良く見える。コンクリート造りで歴史はそれほど感じないのだが、その分、普通に階段となっていて歩きやすい。登山気分という意味では鳩森神社の富士塚の方が上なのだが、こちらの富士塚は山頂からの展望が素晴らしい。高台にあるにもかかわらず、神社境内の展望は特にないのだが、その分、富士塚山頂は高く突き出ているのでなかなかの絶景である。電車の窓からよく見えるということは、逆にこちらからもよく見えるということだ。そして下山した後には富士塚横にちゃんと浅間神社があるので、そちらにもお参りし、次に本殿に参拝する。ところで、本殿の横にはいくつも赤い鳥居が連なったお稲荷様もあってこちらもなかなか…。そしてこちらの方も参拝をすませると、別方向にも赤い鳥居が連なっている。降りる道かと思いきや、また別のお稲荷様の神社があり、こちらは屋根まである上に、泉に小さなザルが置いてある。鎌倉の銭洗い弁天のようにお金を洗うと増えるという。そして品川神社の奥には板垣退助夫妻の墓所がある。
2024年05月18日
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タワマン殺人事件については真逆の見方があるようにみえる。一つは職業的な接待に妄想を募らせた中年男のストーカー殺人という見方。こういう見方をすれば、これは何年か前にあった耳かき店員殺人事件とよく似た事件となる。耳かき店員が風俗に当たるか否かはともかくとして、指名料もあったというから、指名してもらうために愛想をふりまいただろうし、それを客の側では一方的に好意と受け取るのもありそうなことである。淋しい人ほどそういう妄想にとりつかれやすいのかもしれない。そしてもう一つの見方は、実質的には詐欺被害者が加害者にキレた事件であり、警察に訴えても放置されたことが怒りを倍加させたとみる見方である。いただき女子も詐欺罪になるのであれば、本件で、もし女性が結婚を約束し、条件として金銭を要求していたのなら、詐欺になるのだろう。男は自分のアイデンティティでもある自動車やバイクを手放した上、金がなくなるとストーカー扱いされればそりゃ怒るだろう。はたして真相やいかに…。ただ、過去の耳かき店員殺害事件では男が店員に貢いだという事実はないが、この事件では無一文どころか借金を負ってまで女に貢いでいる。印象であるが、耳かき店員の事件とは性格の違う事件のようにみえる。それにしても、殺害された女性の写真は、なんというか…やりすぎた整形手術というのも一種の自傷行為としか思えない。
2024年05月17日
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読みやすく面白い本である。そして随所に著者の博識があふれている。その博識というのは教養になりそうな知識ということではなく、同時代の人だったら知っているような、へえ、そうだったのか…という話である。もちろん著者はそんな時代に生まれていないのだが、そうしたことを知識として知っているだけでもなかなかのものであろう。世相、政治、国債情勢について縦横無尽に書いているのだが、別に右とか左とか上とか下とかの立場で書いているわけではない。そういう柔軟性がよい。一例をあげると柳田邦夫はベーシックインカムが好きという項目がある。ベーシックインカムは遠野物語の柳田邦夫とは結び付きそうもないのだが、著者によれば、日本人が我慢できる最低生活の水準の確定こそ柳田学の初動の志だという。農政官僚と民俗学はすぐに結び付きがたいが、そういう関心ももしかしたら多少はあったのかもしれない。現在のところは、あちこちで人手不足が叫ばれているが、今後は様々な分野で人間の仕事が機械に置き換えられていくのかもしれない。その結果、生まれる山のような失業者は、窮乏生活を求められ、ベーシックインカムで暮らすという未来図があるかもしれないという。著者はそんな未来を期待しているわけではないが、配達はドローン、タクシーは自動運転、事務はAIという時代になればそういう未来も本当にあるのかもしれない。一読して損はない本だと思う。
2024年05月16日
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旧人類のせいかネット上で金が動くのが気持ち悪い。ネット通販を利用することはあるのだが、身に覚えのないところで金が動いているのではないかとか、どうしても不安になって毎月送られてくる金の明細書は必ずチェックする。人によっては、そうした通販などの払い込みに使う通帳は分けているというが、いまさらそれをやるのも面倒くさい。世の中にはそうした不安をもっている人がいるせいか、毎日のように、そうした不安につけこんだネット詐欺メールがくる。ネット通販サイトを騙って第三者が貴方のサイトにログインしているとか、欲しくもないような商品の写真がでていてこの商品を誰かが注文しているとかいった類である。そして情報を再入力するように求めてくる。電話によるオレオレ詐欺の注意喚起は広報車を走らせてまでやっているのに、こうしたネット詐欺やスマホを使ったショートメール詐欺についての注意喚起は少ないように思う。固定電話に比べるとパソコンやスマホは詐欺にかかりにくい人々が使っているという固定観念があるのかもしれないが、決してそんなことはない。通販サイトやクレジット会社を騙るものだけではなく、手口も非常に多様化している。警視庁からのメールとあるので何かと思ったら、お宅の息子が窃盗で逮捕されたが、示談金を下記のところに振り込むと助かるとか、あなたの〇〇動画が流出していて、消したければ下記のところに連絡しろとかといった類である。騙される方もどうかと思うのだが、こんなものは元手いらず、危険なしなので、千に一つでもひっかかってくればもうけものなのだろう。そういえば、最近はないのだが、スマホに三億円が宝くじで当たったのだが、使い道に困っているのでお分けしたいというメールが何度も来たことがあった。
2024年05月15日
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NHKの朝ドラでは、戦前を舞台にして、当時の女性差別や家父長意識と戦うヒロインの姿が共感をよんでいるという。いまなお日本には女性差別があり、家父長的意識が根強く残っているという人もいる。そういう人に言わせると、憲法にはその第14条で平等をうたっているのにまだまだ日本には女性差別が…はて?戦前の日本には師範学校など女子に開かれていた教育の場はあったし、高等師範のような高等教育の場もあった。そして世界でも珍しい女子医大も戦前からの歴史を誇る。弁護士や医師の試験は難関ではあったが、試験自体は平等公平であった。そういえば子供の頃にも女医さんというのはたまにいた。たしかに戦前には女性に門を閉ざしている世界は多かったし、志ある女性にとっては不本意な面もあったであろう。しかし、同時に兵役は男性だけであり、人口ピラミッドでみると、しばらく前までは、戦争に行った男性のところだけが大きくへこんでいた。戦場で死んだり、傷害を負った男性は多かったわけである。さらに、現代では、女子に門を閉ざしている世界というものはほとんどない。女子に最初から門を閉ざしている世界はないし、ある私立医大で女子を不利に扱ったと言えば大変な社会問題になったのは記憶に新しい。そしてその一方では、国立の理系の入試で女子を優遇する動きもあり、こんな男子差別のやり方はさしたる議論もなく広がりつつある。どこかの県で公立高校が男女別になっているのは問題視されているが、女子限定の国立大学の存在は議論にもなっていないのも奇異だ。能力を活かせないといういみでの女性差別というものはいまではほとんどなくなっているのではないか。ただ、だからといって別の問題がないわけではない。犯罪被害者に対する人権侵害のような報道が野放しになっているところや、望まぬ妊娠をした女性に対する支援機関や相談機関が不十分な点である。しかしこうした女性差別の被害者たちの声は、世の中であまり大きくならないようである。
2024年05月14日
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少女小説のお手本のような小説である。舞台は戦前。嵐の日に生まれ取り違えられた二人の赤ん坊。一人は大金持ちの家の令嬢として育ち、一人は貧しい漁師の家の娘として育つ。取違物語はドラマにもよくあるのだが、現実にも赤ちゃん取違というのはないわけではない。物語ではたいてい貧しく育った方が主人公になっているので、こうした物語は主人公が貴種でありながら苦難の道を辿るという一種の貴種流離譚ともいえる。主人公が貧しい育ちにもかかわらず、気品があり美しく賢く、誰にも愛されるというのも貴種である故か。戦前は酷い格差社会であるので、こうした設定になるのだろう。金持ちの娘として育った側は最初こそ意地悪なのだが、これも、根っからの悪役と言うわけでもなく、登場人物全体に「いい人」が多く、その分、大団円に向けてすんなりと物語はすすむ。文体は非常に読みやすく、一気に読める。面白いのはサイドストーリーの温泉採掘の部分である。舞台は明らかに伊豆半島なのだが、温泉発掘に人生をかける親子がでてくる。家産を傾けても温泉発掘に打ち込む父と、その父の死後は模範青年のような息子が学業を辞めて遺志を継ぐ。伊豆半島には昔から知られた温泉もあるが最近発見された温泉もあり、その中にはこうした温泉発掘にまつわるドラマもあるのかもしれない。のも実際にいたわけであろう。
2024年05月13日
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人手不足と言うことが盛んに言われているが、これと同時に省力化もかなり進んでいると思う。近所のオフィスビルでもつい最近まで朝ともなればモップを動かし掃除をしている人がいたのだが、これが最近では掃除ロボットに変わっている。店でも自動レジやタッチパネルが急速に普及し、映画館でも窓口での券発売は少なくなっている。タッチパネルなど、やり方がわからずにきれている人も時々見かけるが、こうしたものも現在の自動改札と同様にあたりまえの光景になっていくのだろう。そういえば、昔は駅の改札には必ず駅員がおり、ATM普及前の銀行には大勢の窓口職員がいた。デパートのエレベーターにもエレベーターガールがいたので、そんな時代に比べれば、今だってずいぶん省力化されている。省力化できるところは省力化し、その一方で、多少の不便は甘受するようになれば、人手不足の問題は多少解決するのではないのだろうか。少し前までは、注文したものがすぐには届かないなどということはあたりまえの光景だった。そしてまた、人手不足の問題となると必ず出てくる外国人導入の議論であるが、この是非を言うまでに留意しなければならないことがある。一つは人口減少は日本だけではなく、周辺国でも起きているということである。送り出す側は細り、受け入れる需要は増えてくるということか。もちろん地球規模で見るとアフリカのように人口爆発が続いているところもあるのだが、日本に多くのアフリカ人労働者が働くという未来図は、地理的文化的距離からして、ちょっと考えにくい。もう一つは、人材導入を行う国は日本だけではない。円安が続けば、就労に行く国として日本の魅力はそれだけ薄れることになる。これも忘れてはならない点であろう。
2024年05月12日
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新宿のタワマン刺殺事件は不思議なことばかりだ。25歳でガールズバー経営タワマン居住と言うのも驚きなら、犯人の方のレアなスポーツカー所有というのも驚き。世の中お金のあるところにはあるのだが、報道されない裏の話もあるのかもしれない。それにしてもこの犯人は、淋しい中年男の典型のような人なのだろう。ガールズバーに行けば営業用でも暖かく接してくれる。そしてうまいこともいうだろう。淋しい人ほどカモにされやすいのだが、カモにされた側から見れば、唯一の生きがいであり、よりどころでもあるのだから、一方的な妄想に発展しやすい。男の方は本気で結婚などを考えていたのかもしれない。不思議なのは、この男が貢ぐほどのお金をどうやって得たのかである。両親と同居していたようなのだが、いくら給料のほとんどを自分のために使うことができても、あれほどの高級車はなかなか手に入らない。現在は職業不詳ということなのだが、過去はどうだったのだろうか。果物ナイフで傷だらけにしてやると思い女性を襲ったと言っているそうだが、果物ナイフで人が殺せるのかと普通は思う。きっと殺人ではなく傷害致死を主張するつもりなのだろう。まあ、無理だと思うけど…。もう一つ、ワイドショーのネタになる事件で那須の夫婦殺人事件がある。こちらの方も主犯とされる娘の内縁夫はかなりやり手のようだったが、本気で乗っ取りを考えていたのだろうか。店に入る前の職歴などはどうなっているのだろう。こちらの方も気になる。
2024年05月10日
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「菊枕 ぬい女略歴」を読んだ。短編なのだが、読んでいて非常に重苦しい。女主人公ぬいに実在のモデルがいるということだけでなく、俳句の世界ということを別にしても、主人公の苦悩が、非常にありそうなものに思えるからである。ぬいはお茶の水女子高等師範付属女学校を卒業した才媛で、男並みの長身という女性にとっての難点を別にすれば際立っての美貌と文才にも恵まれていた。実際にモデルとなった女流俳人の写真をみても相当な美貌である。そして彼女は降るような縁談の中から美術学校出の青年を結婚相手に選ぶ。彼女が結婚相手に期待したのは「芸術家」であった。しかし、夫は田舎の中学校の美術教師になり、それで満足している。そういう結婚についての錯誤、夫への不満というのは、男から見ると身勝手であっても女性には時折ある。結婚前は男は自分の才能や将来性について多少盛ることがある。ぬいの夫も結婚前はもっともらしい芸術論をはき、それをぬいはうっとりと聞いていたのではないか。ぬいも後年俳人になるくらいなので、芸術的志向はある。田舎の美術教師の妻となったぬいは俳句を始め、頭角を現すことで、彼女にも新しい世界が開けるようにみえた。しかし、雑誌に自分の句が掲載されたところで、それだけで収入になるものでもない。俳人の多くは別に社会的地位のある職業についたり、そうした者の妻であったりする。俳句関係の交友が増えるにつれ、ぬいはますます「田舎の中学教師の妻」という身分に引け目を感じるようになる。今はそうしたことがどの程度あるのか知れないが、当時は夫の地位イコール妻の地位であった。ぬいが俳檀の巨匠にストーカーのようにつきまとったのも、巨匠を通じて自分に大きな世界が開けることを期待したのかもしれないが、それも拒絶される。表題の菊枕は菊の花をつめた枕を使うと無病長寿であるとされ、ぬいが師匠のために心をこめて菊枕を作るというエピソードによる。その後、ぬいは句作も衰え、精神を病んでなくなるのだが、このあたりはどこまでがモデルの実像で、どこまでが創作なのだろうか。ぬいは句想を得るために英彦山によく登っていたというのであるが、絵や写真と違い、俳句には元になるものがない。いくら山をみても山の俳句が浮かぶわけはない。一度、俳句で名声を得た人がそれを維持するというのはかなり大変なことのように思う。さて、一読してみると、この小説の主人公はぬいの夫の圭介ではないのか。俳句の会や旅行に行くぬいを経済的に支え、家事を行わないことにも文句もいわず、最後にぬいが夫のための菊枕を作ると、ようやくぬいが自分の下に戻ってきたとよろこぶ。妻の期待するような芸術家になれなかった夫の負い目かもしれないし、一種の嗜虐的な喜びかもしれない。こういう夫婦も世間のどこかにはいるのだろうか。
2024年05月09日
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少子化についてはあちこちで語られているが、少子化によって人口が減るとともに複数の人間によって構成される家族自体が激減するかもしれないという。家族類型を比率でみると、一番多いものは現在でも単身世帯であり、夫婦と子の世帯、夫婦のみの世帯がこれに次ぐ。夫婦と子の世帯といってもかなりの部分は老夫婦と成人した子供の世帯である。絵にかいたような夫婦と未成熟な子供という標準世帯は少ない。老夫婦と成人した子の世帯はいずれは一人親と子世帯となり、次には単身世帯となる。将来的には、中年独身単身世帯と高齢単身世帯が社会の多くを占めるという時代になるのだろう。さて、そうなると、理想の住居も変わって来る。昔、郊外の閑静な住宅街で一戸建てに住むのが幸福のシンボルのように思われた時期があった。芝生のある庭とマイカーは人生成功の証であるかのように。専業主婦がいれば買い物の心配はないし、子供が小さければ遊べる庭や家族で乗れる自動車があった方が良い。けれどもこれからの時代はそうはいかない。考えてみれば閑静な住宅街など不便この上ない。近くに店もないし、周囲も高齢化して人通りもなければ治安上の不安もある。ネット上で集められたグループによる強盗殺人もこんな場所で起きる。これからは、セキュリティもしっかりして、鍵一つで戸締りもでき、周囲に店や医療機関のあるようなところが好まれるのではないか。住居もさることながら先立つものの問題もある。様々な場で省力化が進む一方で、高齢者の就労に対する意識も変わって来る。この間、ニュースサイトをみていたら元大企業の管理職がコンビニでアルバイトをしているということをさも悲劇であるように書いているものがあって驚いた。こういうのも、これからはごく普通のことになると思うし、健康で社会とのつながりを持てることが何よりも幸せという考え方も広がっていくことだろう。
2024年05月08日
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森鴎外の三男を主人公にした評伝小説「類」に主人公は松本清張の小倉日記をテーマにした小説を読んで、その圧倒的な文才の差異に衝撃を受ける場面がある。これが評伝小説作家の創作なのかどうかはわからないが、いかにもありそうに思う。松本清張の短編傑作コレクションのうち、「支払い過ぎた縁談」、「死せるパスカル」、「骨壺の風景」を読んだ。最初の「支払い過ぎた縁談」というのは、アイディア自体は雑談の中からでも生まれてきそうなのだが、普通はこんなに面白い小説にはできない。昭和32年という当時の世相などまで想像させるし、登場人物の若い研究者にはなんとなく作者自身が投影されているような気がする。つっこみどころはあるのだが、ぐいぐいと読ませるのは作者の力量だろう。「死せるパスカル」も推理小説あるいは犯罪小説のようであるが、トリックについては、これだけのものでよくも…と思う。登場人物にはさほど共感できるタイプはいないし、主人公の画家は、佐藤愛子の「血脈」の佐藤紅緑を視点を移せばこうなるのかと思わせるほどである。けれどもこれも、先がきになり読ませる小説となっている。「骨壺の風景」は内容はほぼ作者の身辺に起きたことで創作の要素はない。祖母の骨壺を探すとともに、祖母や父母の人生を回想した内容である。似たような経験のある人はいるのかもしれないが、それを読ませる小説にできる人は稀有である。三作ともタイトルの妙ということで、並べられた小説なのだが、いずれも作者の読ませる文章の才というのを見せつけた小説のように思う。奇抜なトリックや特異な事件は扱っていないのに先が気になって頁を繰る手がとまらない。読ませると言えば、ときどきでてくる生き方指南のとうな新書も似たようなものだろう。自分ではまず買わないのだが、借りて読むことはある。知的生き方、幸福になる生き方、健康の秘訣などなどについてつづったものなのだが、多くは、それができれば苦労はないよといった内容で、読んだ後は時間を無駄にしたと思う。いってしまえば、金持ちになるには無駄遣いをしないことだとか、試験に合格するには一点でも多くとることといった類であろう。ただ、こうしたものがなぜ売れるのかと言えば、それは多くの場合、読ませる文章で書いてあるからだろう。文章というものは音色であり、内容というものは旋律のようなものなのかもしれない。音色がよければ心地よく最後まで聴ける。
2024年05月07日
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最近、子供の体験格差ということが言われている。都市と地方、親が高所得か低所得かで、習い事、クラブ活動、家族旅行などについて大きな体験格差があることを問題視するものである。しかし、子供というものは全生活が体験であり、そうしたものの中から、将来の糧となるものを積み重ねて大人になっていく。山間部に生まれて自然の中で駆け回り、虫取りや魚釣りに興じたことも体験なら、貧しい家庭に生まれて母親と一緒に家計簿を計算しながら節約の知恵を出しあったことも体験である。幼い弟妹の世話をし、祖父母の介護を手伝って、その死を看取ることも、また体験であろう。体験格差の議論で取り上げている体験が、習い事、クラブ活動、家族旅行を指しているのであるなら、それは体験格差ではなく、習い事格差、クラブ活動格差、家族旅行格差とかいわないと正確ではない。しかし、子供というものは小学校の中学年くらいになると、親と一緒の行動は好まないし、親と一緒のところを友人に見られるのも嫌がるものである。だから、家族旅行よりも、友人と一緒にちょっと自転車で遠出する方がずっと楽しいし、思い出に残る。家に金がなく家族旅行ができないから、習い事ができないから、かわいそうね、支援しましょうとなると、ちょっと違うのではないかと思う。将来の糧という意味でも金をかけて何かしてもらったという体験よりも、誰かに何かしてあげたという体験の方が案外と重要なように思う。もちろんこうは書いても「体験格差」が全く問題ないというつもりはない。好きなスポーツを金銭的な事情で出来ないというのは残念だろうし、親も辛い。そうしたものについては、道具のリサイクルとか、無料貸し出しとかで対処する方策が考えられるし、もしかしたら、そうしたことは、すでに実践されているのかもしれない。※政治ネタを書くつもりはないし、この日記テーマも政治ネタと関連するとは思っていない。だからこういうものを書いたからといって、例の格差の問題についてどうこうと言ったつもりはない。子供の貧困はもちろん大人の貧困の結果としてでてくるものなのだが、本人にとっての意味合いは異なる。大人の貧困は本人の不運、努力、能力資質のベクトルの結果なのだが、子供にとっては親という別人格者の貧困の結果である。貧困は連鎖することもあるが、貧困を糧にして伸びていく子供もいる。なんでもかんでも親の経済力と子供の状況を統計的に比較して、親が貧乏な子供は可哀そう、支援しましょうというのは、なんか少し違うように思う。
2024年05月05日
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もうすぐ都知事選がある。小池に対抗する候補については人選がすすんでいるようであるが、小池知事の再選への意向は明確になっていない。もし、現職が不出馬と言うことになれば、選挙戦の様相はずいぶんと変わってくる。最初に言っておくが、決して自分は小池を支持するものではない。ただ、素人目には別に都知事がカイロ大をでていようがいまいが、そしてアラビア語を話せようが話せまいがそんなことどうでもよいように思う。都知事の職でアラビア語を必要とする状況など皆無であり、もし卒業が事実であっても、アラビア語を話せないということもあるかもしれない。例えば駅伝で出てきた外国人留学生など、4年間日本にいたとしても、陸上練習漬けの毎日だろうし、大学生が読むような普通の日本語の本を読めるようになっていたとも思えないではないか。しかし、ネットでみると、政治家の学歴詐称は大きな問題であり、これで辞任した政治家も過去に複数いるという。公職選挙法で罰則まで定めているのだからそういうものであろう。そうなると、現都知事も、この学歴疑惑がおさまらない限りは、辞任とまではいかないが、再選を諦めるという可能性はかなりある。重ねていうが、小池を支持するわけでもないし、投票したこともない。ただ、今までの都知事に比べると、小池知事にはさしたる難はないようにみえる。だいたい以前の都知事の中には何を勘違いしたのか、都市外交にせいをだしていた知事がいた。二重外交は弊害しかないし、それにそのための税金は都民のために使われるものではないか。豪勢なホテルに泊まって美術館巡りなどは嘆息しかでないし、会議費で家族旅行となるとお笑いの世界である。カイロ大の学歴詐称でエジプト政府に弱みを握られる云々という議論もあるようだが、少なくとも小池都知事は別に「外交」はやっていない。まあ、制度についていえば、そろそろ公職選挙法で学歴を必要的記載事項とすることを見直し、あえて虚偽の記載をした場合だけを違反にすればよいのではないか。例えば、短期間の外国滞在であっても、〇〇大留学と書けばセーフで卒業とかけば違反になるのだが、選挙民にとっては同じようなものである。しかも、今では大学の数も増えているし、有力政治家の二世といえば優遇して入学させるところもあるかもしれない。いったいどうなるのだろうか…次の都知事選。
2024年05月04日
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戦国時代を舞台にした歴史小説である。ただ目新しいのは主人公を武士ではなく、石垣や鉄砲を作る職人としたことであろう。石垣が盾なら鉄砲は矛…この矛盾の解決の先に泰平の世が開ける。職人もまたそう信じて己の技術を磨いていく。歴史小説にはいろいろなタイプがあって、実際にあったかもしれない歴史的事実に即したものから、想像を飛躍させたファンタジー色の強いものまである。前者の中には頻繁に出展や根拠を説明しているものがあるが、はたして本作はどちらだろうか。作中で紹介されている石垣の技術や鉄砲の技術が、どの程度、歴史的な事実をふまえたものかどうかが気になる。そしてまた、この小説のように、殿が領民を守るために領民までが城に籠るなどということがどの程度あったのだろうか。領民、特に職人は、戦国時代の戦いの勝者にとっても金の卵を産む鶏のようなものであろう。関ヶ原の戦いでは農民たちは弁当をもって見物していたという話を聞いたことがあるが、おそらくそちらの方が事実に近かったのではないか。また、この小説では石垣を盾に見立てているが、実際の籠城戦では狙うのは建物本体であって、石垣を盾とするのは無理があるように思うし、砲を防ぐために即席で石垣を作るということも、本当にそんなことが可能だったのかとも思う。もっとも、どこまでが歴史的にありうることかなどと固いことは抜きにして、小説として読む限りでは面白い。歴史小説には、別の読み方もあり、現代に投影して読むという読み方もある。大津城の城主の京極高次は武将としては無能だが、部下を愛し愛される性格で、それが結果的に強さとなっている。戦国時代にこういうタイプがいたかどうかはともかくとして、現代のリーダーには、もしかしてこんなのもいるかもしれない。新機軸の歴史小説としては、読んでみても良いかもしれない。ただ、これは個人の感想で、人によって違うのかもしれないが、すいすいと読めるタイプの文体ではないようで、いっきに読めるという小説ではない。
2024年05月03日
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那須町で発見された夫婦遺体殺人事件の関係で元俳優の若者が逮捕されたという。最初20歳で元俳優と聞いた時、自称俳優の誤りではないかと思った。演劇はプロとアマの境界の曖昧な世界で、舞台に立ちながら生計のほとんどはアルバイトでまかなっているという人も珍しくない。しかし、この容疑者は、そうした自称俳優ではなく、正真正銘の元俳優の有名子役だったと知ってびっくりした。知人にも子供の頃劇団に入っていたという人がいた。子供に積極性や対人関係能力を身に着けさせるために劇団に入れるというのは多いという。別に劇団に入れる親が皆が皆我が子の芸能界入りを願っているわけではない。そうした劇団の子供たちの中でも、ドラマや舞台に起用される子は頭のよい子が多いのではないか。台詞を覚え、大人の指示を的確に理解できる子といってもよい。だから意外に、劇団にいて多少舞台やドラマにでていたような子供の中には、その後、普通の社会人として成功している人は多いのではないかと思う。子供の頃劇団にいたという知人も世間的にはエリートに分類される人生を歩んでいた。それだけに、元子役という人が犯罪集団にいたという報道には、いったいどういう経緯でこうした集団にかかわることになったのか不思議でならない。知名度のある芸能人やスポーツ選手にはうさんくさい有象無象がよってくることはよくあることなのかもしれないが、子役時代の映像をみるかぎりは頭の良いしっかりした子という印象しかない。売れっ子子役でもその後の人生は様々で、中には子連れ狼の大五郎役のように犯罪者になった例もある。しかし、これは相当の年月がたってからの話で、今回のように20歳というのはあまりにも若すぎる。普通なら人生本番にも達しない年齢なので、まだまだやり直せるとは思うのだが…。なお、この元子役が出演した大河ドラマは今も配信中でそのゆくえを気にする人も多いらしい。しかし、出演者の中に犯罪者がいたからといって、すべてお蔵入りさせるようなことはやめた方がよいのではないか。その昔、テレビアニメの黎明期に「鉄腕アトム」と人気を二分した作品に「エイトマン」があった。ところが原作を描いていた漫画家が銃刀法違反で逮捕され、さらに主題歌を歌っていた歌手がその後殺人事件を起こしたために、今ではアニメそのものを見ることができない。正義の味方を主人公にしたアニメなのに、ここまで不運なのも珍しい。
2024年05月02日
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昔、鬼太郎の漫画の中で鬼太郎誕生のくだりを見たことがある。鬼太郎というのは、幽霊族最後の生き残りで、墓場で生まれたところを、会社員の水木という男に発見され、その時、父親の死体から目玉だけが飛び出したという。週刊誌による漫画が全盛となる以前は貸本漫画というのが流行っていて鬼太郎は最初は貸本漫画に登場したという。貸本漫画はあまり記憶にないが、床屋などに置いてあることもあり、週刊誌漫画に比べると、おどろおどろしいタッチのものが多かったように思う。鬼太郎誕生のエピソードも絵柄が不気味で赤ん坊の鬼太郎もあまり可愛くなく、貸本屋時代の面影を残したものだったのかもしれない。貸本版はわからないが、週刊誌漫画では、鬼太郎誕生についてこれ以上詳しくは書いていない。そもそも幽霊族はどういうもので、死体になる前の鬼太郎の父はどういう姿で、そもそも会社員の水木と鬼太郎の親はどんな関係にあったかなど、不明である。この映画では、そのあたりを描いたもので、会社員水木が犬神家の一族を思わせる田舎の旧家に行き、鬼太郎の父に出あうという物語になっている。設定は昭和30年で水木には戦争体験がある。この時代の大人は普通に戦争体験があったのだが、多くは体験を語りたがらず、だから子供達は戦争というのははるか昔のことのように思っていた。当時は路といえば土道が普通で、田舎から東京ははるかに遠く、東京と聞くと、男の子は川上の試合を見たかと聞き、女の子は銀座のフルーツパーラーに行って見たいという。そんな時代の風景がアニメならではの技術で描かれ、鬼太郎父も、風呂好きであるところや後の時代を目でみてみたいというあたり、後の目玉だけで茶碗風呂に入っているのを彷彿とさせて面白い。まあ、後半は子供向けのアニメになっているのだが、結局のところ怖いのは妖怪よりも人間なんだなあ…と思う。部下に死を命じながら自分は生き延びようとする上官や、薬品を使って社員を猛烈に働かせようとする会社幹部の姿に、戦前の軍国主義や強欲資本主義批判をみるのは深読みなのかもしれないけど。
2024年05月01日
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「いじめ」とよばれる事件は時々問題となるのだが、新聞種になるものの多くは、むしろ犯罪として処断すべき事案で、それを「いじめ」と呼び、学校の問題、教育の問題ととらえるから話がややこしくなるように思う。旭川の事件など陰惨極まるもので、あれで警察が動かなければ、とてもじゃないけど、安心して子供を公立中学になどやれないレベルだろう。犯人が一定年齢未満となると、警察は妙に腰がひけたようにみえることがあるが、被害者の痛みは犯人の年齢には関係ない。ただ、こうした世を騒がす「いじめ」の中には、個人による犯罪というよりは、集団の底知れない悪意を感じさせるものがある。昭和50年代に中野区のある公立中学で起きた「葬式ごっこ」事件である。不良グループに普段から暴行や強要の被害を受けていた少年に対して、クラス全員が「葬式ごっこ」を行い、線香や花まで用意したという。衝撃的だったのは、この「葬式ごっこ」に担任はじめ4人の教師が関与し、安らかに…とかなんとか追悼の寄せ書きを書いていたことである。少年はその後まもなく祖母のいる岩手県まで行って自殺した。性善説、性悪説というのは古来より議論になっているが、人は大きな集団になればなるほど、普通の人でも残酷になりうるところがあるのかもしれない。葬式ごっこに加担した教師は一人が諭旨免職になっただけで、行為の重大性に鑑みると軽いとしか思えないし、もちろん誰も刑事処分には問われていない。まあ、こうした行為は刑事責任を問えるものでもないし、そのあたり、平成になって大きな話題になった愛知県の公立中学で起きた一人の生徒に対する集団暴行恐喝事件とは性格が違う。葬式ごっこに参加した教師にしても生徒達にしても、たぶん、その後は罪悪感とは無縁の平穏な人生を歩んでいることだろう。そんなものである。まあ、何がいいたいかというと、人は個人、あるいは特定の友人仲間といるときよりも、一クラス、一企業、一国家といった大きな単位でいるときには、普通の人であっても罪悪感が薄れ、けっこう残酷なことをやるのではないか。みんながやっているんだ、おれ一人だけが悪いわけじゃない…というおきまりの論理が顔を出す。だから人間は怖い…といったところか。
2024年04月30日
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京浜急行の新馬場の駅をおりると、大幹線沿いに長い石段が見える。品川神社の石段である。このあたりは武蔵野台地の突端にあたり、こうした傾斜地が多い。高級住宅地として有名な城南五山もそうであるし、品川神社もこうした高台にある。それにしても長い石段…それを上りきると、街の喧騒が嘘のように別世界が広がる。夕方近い時刻なので人も少なく、なおのことそう感じるのだろうか。あたりは神社特有の静謐な雰囲気につつまれているので、こういうのをパワースポットというのだろうか。石段の途中では、半袖半ズボンの観光客らしき欧米人が写真をとっていたが、ありきたりの観光地よりも、こうした普通の神社で日本文化を感じるのもよいと思う。石段途中には富士塚の入り口もあり、そちらは足場がわるそうなので行かなかったのだが、後で調べてみると最大級の富士塚だという。以前行った千駄ヶ谷鳩森神社の富士塚も相当なものであったが、こちらの方もぜひ今度は登ってみたい。品川神社の境内からの眺めはあまりたいしたことはなかったのだが、富士塚からの眺めはなかなかよいらしい。再び駅の方に戻り、新馬場の商店街を歩くと、そこは狭い三階建ての建物が並び、そこはかとなく宿場の雰囲気を残している。解説によれば、公用の場合にはここで馬を替えたので馬場と言う地名がのこったという。なお、商店街がつきたあたりに銭湯があり、ここは関東特有の黒湯温泉である。街歩きの後に温泉というのも贅沢である。
2024年04月29日
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少女漫画のお手本のようなストーリーである。つまりヒロインは、庶民出身で特に美人というわけではない、しかし、一生懸命生きていて性格もよく非常に好感がもてるタイプ。そして恋人は金持ちでイケメンで視聴者あるいは読者の願望を満たすタイプである。さらに、これに意地悪な金持ちの令嬢が絡めば、まさにお手本なのだが、本作ではそれっぽい登場人物はいるが、さほどストーリーにはからまない。むしろ恋の障害は恋人の母親である。ラブコメということで、まあ、ハッピーエンドは予想されているし、一話当たりの時間も短く全体の話数も少ないので、さらっと視聴するにはちょうどよい。本当は「福寿草」のようなどろどろ愛憎劇の韓国ドラマの方が好きなのだが、最近は漫画原作がおおいせいか、ちょっと傾向が変わってきているように思う。また、アマプラでの視聴が多いのだが、最近、追加料金なしで全話見られるというのが少なくなっているように思うのは気のせいだろうか。それにしても、なんでこうしたシンデレラストーリーが人気あるのだろうか。ずばり言ってしまえば、それが多くの読者や視聴者の願望だからだろう。源氏物語も「勝れたるかたち」ではない、つまり絶世の美女というほどではない中下級貴族の娘が光源氏に見初められ、中宮の母として宮中に入る物語とよめば一種のシンデレラストーリーだろう。恋愛は蓼食う虫も好き好きというように不確定要素が強い。だから現実世界でもシンデレラのような成功物語はありうるし、そうした願望につけこむ詐欺もある。ただ、時代の変化かもしれないが、かつてのように自称医師や自称弁護士の結婚詐欺というのはあまりきかなくなっているように思う。めでたしめでたしの後も人生はまだまだ続く。一度の結婚で人生安泰と思って舞い上がる人は少なくなっているのかもしれない。最後にタイトルの「高潔な君」であるが、原題どおりであるが、高潔かどうかは物語とはあまり関係ない。「猟奇的な彼女」の猟奇的もそうなのだが、同じ漢字語でも、日韓でニュアンスの違いと言うのがあるのかもしれない。
2024年04月28日
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父と娘、そして父の後妻との家族の物語である。娘といっても30歳をとうに過ぎ、後妻といっても20歳そこそこ。娘の方はリストラされて実家に戻って、なにもかも無気力で、後妻の方は家族の団らんに憧れている。そして父は「どうせなら楽しまなければ」という達観した人生哲学の持ち主である。物語がすすむにつれ、その人生哲学の背景が明らかになり、たしかにこうした生き方もあるのかな…という気になる。人生の不幸には絶対的不幸と思い込み不幸とがある。これは二分されるものと言うよりは割合の問題であろう。どうせなら人生楽しまな…という父親は娘を「祝リストラ」という垂れ幕で迎える。娘はたしかに受験戦争を勝ち抜いてきた秀才で、優れた企画書で社内の賞をとったりもするのだが、優秀を自負するだけに周囲に厳しく、周りにとけこめないところがある。こういうのは、職場にいれば願い下げにしたいタイプで、嫌われるのは当然だろう。当然、娘は自分よりもはるかに年下の父の後妻にも拒否感を持つのだが、その娘と後妻が次第に家族になっていくところがみどころだろう。尼崎市もあまろっくも行ったことも見たこともないのだが、それぞれの場所にそれぞれの歴史があり、そして必死に生きている人々がいる。そんなことも考えさせられる。よい映画だと思うのだが、客の入りが非常に悪いのが残念である。
2024年04月26日
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全国で今後消滅の可能性のある自治体として744の市町村名が公表され話題となっている。実際に東京から日帰り圏のところでも、棄農地と廃屋ばかりがめだつところがあり、いずれは自治体としてなりたたないというのもうなづける。また、農村地域でなくとも、一戸建て志向が強い時期に鳴り物入りで開発されたニュータウンが住民の高齢化で半ばゴーストタウンのようになっているところもある。かつてはスーパーがあったところが撤退し、建物だけが残っているのに実際は空き店舗ばかりという具合だ。一戸建ての住宅群はそれぞれ瀟洒なつくりであるのに、道路が森閑としているのが不思議な感じすらする。まあ、半ば限界集落したところは都心の団地にもあり、こういうところも、見上げても衛星放送のアンテナがほとんどない、人が歩いているのを見かけない、店も少なく活気がないなどの特徴がある。人口が減っていくとはこういうことである。自治体も消滅していくのかもしれないが、その前におそらく県の統合が問題になるのではないか。明治後期以降、今の47都道府県は変わっていないのだが、人口は大いに変動し、いまや100万にも満たない県が相当ある。そうした小規模な県も県庁があり県議会があり市町村があり、国立大学があり、裁判所があり、県警本部がある。行政の無駄というよりも、そもそもそんな小規模の自治体が県でありつづけることに無理があるのではないか。例えば刑事事件などはそれぞれの県毎の裁判所が所管するが、今は裁判員と言う制度があって、その県から選ばれた裁判員も裁判に参加する。都市の感覚だと、事件関係者のプライバシーの問題と言うのは実感しにくくても、例えば板橋区程度の人口数十万の県での事件を裁判員裁判にかけるとなると、被害者の中には事件を警察に届け出るのを躊躇する人も普通にでてくるだろう。また、せっかくの国立大学も人口数十万の県では優秀な若者を集められるのだろうか。かつてのように国立の授業料が安くなくなったとなればなおさらである。地元の国立大学がFランに近い水準になってしまったら、そうしたものをはたして税金で維持する必要があるのだろうかという議論もでてくるだろう。
2024年04月25日
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どうもよくわからない事件というものがある。恋愛感情を利用しての詐欺事件で女性に懲役刑が科されたというが、恋愛感情を利用して金品を受領したのって、そもそも詐欺にあたるのだろうか。昔からよくある犯罪で結婚詐欺というのがある。だいたいは男性が医師とか弁護士とかを名乗り、結婚を約束して、その後、当座の金が必要だとか何とか言って、金をまきあげる手法である。女性は、高給男性と結婚して安泰な身分?を得られるという甘言に騙されて、金を出すのであり、これも「人を欺罔して財物を詐取」になるのだろう。騙された女性の方に恋愛感情があった場合もあるが、それはあまり関係ないだろう。これに比べると、男性の恋愛感情を利用して金をいただいたのが詐欺というのはよくわからない。あの女性が結婚を約束したとか結婚を匂わせたという報道もないし、そもそも男性があの女性との結婚を望んでいたかどうかもさだかではない。もちろん女性の結婚詐欺と言うのもある。それは例えば韓流ドラマでありそうだが、財閥令嬢かなんかを名乗り、結婚すれば財閥幹部にしてやるといって、男性に近づいて金をもらうという場合などである。そうではなく、ただ恋愛感情をいだかせ、ただ同情させるような話をし、それで金をいただくのが、はたして詐欺なのだろうか。恋愛感情の有無など心の中はわからないし、それもすぐに変わりうる。恋人に気に入られるために多少の嘘や同情話をするなど、男女ともによくやる。そして恋愛継続中は金品の授受があっても不思議ではない。これを詐欺と言うのなら恋愛して熱のさめた男女の多くは詐欺師になってしまう。そしてまた、刑罰をもって処断するには、その刑罰を科してまで守らなければならない利益というものがある。自称医師の結婚話にひっかかったような打算女の財産については、まあ、守る価値があるとされているのである。これに比べると、いただき女子に恋愛感情をもって金を出した男の財産というのは、そこまでの価値があるのだろうか。世の中にはアイドルや声優に多額の金品を使う太客がいる。いただき女子に金を出すのも、地下アイドルに金を使うのもあまり違いがないように見えて仕方ない。
2024年04月24日
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仏教説話集の日本霊異記と発心集を読んだとき、その説話の違いに驚いた。平安時代初期の日本霊異記ではその多くは仏教信仰のおかげでこんなご利益があったという話になっている。ところが鎌倉時代初期の発心集では肉親の死などで世の無常を感じ出家したという話がほとんどである。仏教が受容された当初は仏教は異国の神であり、仏事も支配層中心だったが、ある時期から民衆にも信仰が広がり、それと同時に信仰の中味も現世志向から来世での平安を願うものが中心になっていったのであろう。そうした流れの中で大きな役割を果たしたのが法然上人だった。南無阿弥陀仏を唱えていればよいという簡単な教えは誰にでもわかりやすかったし、民衆は経典を読むだけの金や知識もなく、加持祈祷を頼む余裕もなかったのだから。死ぬときは阿弥陀仏が迎えに来て浄土に連れて行ってくれる。戦乱、災害、飢え、疫病など、死はどこにでもある。それに対して人々は無力だったのでそう思うしかなかったのだろう。「法然と極楽浄土」展では、そうした浄土信仰を背景にした来迎図や仏像などを展示している。阿弥陀如来の柔和そのものの御顔をみると、死の恐怖や不安を克服した表情はこうしたものかとも思う。そしてまた、日本では珍しい涅槃像も展示されている。あのポーズは、今なら寝転がってテレビでも見ている姿勢なのだが、そのくらいに平安な境地で死に臨んだ、終末の理想の姿ととらえられていたのであろう。有名な西行法師の和歌、願わくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃というのも、そうした理想の終末を願う歌ともとれる。如月の望月、つまり2月15日は涅槃の日である。涅槃像の周りには弟子だけでなく、すべての生き物が悲しんでいる様子を描いた像があるのだが、生き物たちのなかにカタツムリまでいるのが面白い。こうした展示の中で異彩を放っているのが江戸時代の五百羅漢図である。五百羅漢というのは仏陀の高弟達のことで、その姿を描いたものだ。そこでの高弟たちは悟りすました姿をしていない。むしろ超能力(神通)が強調されており、中には手に持った仏像から線が描かれ、不思議な力を働かせていることを表したものもある。仏典の中には、あまり超能力に関する記載はなかったと思うので、逆にこうした超能力を強調した仏画は非常に珍しい。
2024年04月23日
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「書いてはいけない」(森永卓郎)を読んだ。ジャニーズのようにマスコミに強大な影響力を持つ者に対しては批判できない、財務省のような強大な勢力に反する言論は表に出ない…というのはおそらく実態だろう。ただ日航ジャンボ機の事故の真相についての記述は信じがたいもので、それだけで、大問題になりうる。戦後まもない時期に起きた闇の事件と同様、今の日本にも怖くて触れられないものがあるのかもしれない。さっと読める本だし、内容の強烈さは一読の価値はある。今のマスコミは書けないこと言えないことが沢山ある。そう思うとテレビの報道番組のコメンテーターのつまらなさもむべなるかなである。それなりの肩書の知的美女イケメンをならべて、チャンネルを回されない程度の時間でコメントを求めるのだが、おおくはもっともらしくありきたりなものにとどまっている。そりゃそうだろう。踏み越えて批判してはいけないものを批判し、触れてはいけないことに触れるとあっという間に降板する。あのショーンKでも十分務まる。マスコミについては、強力なスポンサー企業に対する配慮、情報源であり権力機関である政府に対する配慮、マスコミに影響力を持つ芸能事務所に対する配慮など、さまざまな配慮の中で報道を行なっている。特に政権の姿勢がマスコミに対してにらみをきかせるものであれば、報道できる範囲はますますせまくなる。日本の報道が委縮しているうちに、外国からの報道や批判で問題に火がつくなんてのは、日本の報道にとっては大変な不名誉だと思うのだが、そうした反省ははたしてあるのだろうか。そういえば、ある日本企業の現地子会社の提供したシステムに欠陥があり、700人以上の郵便局長が冤罪で訴追されるなんて事件がさる国であったようだが、これについても、日本では報道が少なかったが、これもスポンサー企業に対する配慮なのだろうなと思う。
2024年04月22日
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「名もなき毒」を読んだ。この毒にはいろいろな意味がある。無差別殺人犯の使う毒、シックハウス症候群の毒、さらには人間の中にあるまだ名のついていない毒。犯罪というものも、そうした人間の毒の噴出なのかもしれない。この小説には様々な人物が登場する。主人公の大企業の会長の娘(妾腹)と結婚したサラリーマン、トラブルメーカーの元バイト、元警察官の老探偵、売れっ子ライター、地域の世話役的な商店主と芸術家気取りのバカ息子などなど。ただ、そうした中で、これは読者によって違うのだろうけど、一番リアリティを感じたのは、体が弱く定職につけないでいるバイト青年だ。両親は家を離れ、寝たきりの祖母の介護をしながら、傾いた家に住み、楽しいことの何一つない生活を送っている。頼りなげで「何かしてやりたい」という雰囲気をもっているのだが、商店主も掃除をたのんで小金を渡す以上のことはしてやれない。この前の黄金茶碗窃盗男もたぶんこんな感じだったのだろうなと思う。そしてさらに思いつくのは佐藤愛子「血脈」の最終章の「暮れていく」に出てくる佐藤家の末裔だ。「血脈」では、よくこんなのを書いたなと思うほど佐藤家(自分の血脈)のどうしようもない人物ばかりを描いているのだが、先の世代のドラ息子達が、女と放蕩する、店をつぶすなどとアクティブなタイプが多いのに、最後の末裔の青年はぼやっとした無職青年で、無気力で何も考えていないという感じになって来る。こうした佐藤家の荒ぶる血が薄れていく様を「暮れていく」と表現したのだろう。豊かで平和な時代が長く続くとこうした「暮れていく」タイプが多くなるのかもしれない。ネタバレになるので、あまり書かないのだが、作中人物にももちろん毒を持っている人がいる。そのある者はその毒で自分をさいなみ、自滅していく。物語としての後味は良くないし、エピローグ的な個所は冗長で余計な気もする。ただ、これだけの長編にもかかわらず一気に読んでしまうあたりはさすがというものであろう。暇なときや通勤電車の中などにお薦めである。
2024年04月21日
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滋賀県近江八幡市内のスーパーで、いなり寿司1パックを万引きしたとして、74歳の女性が誤認逮捕され、80時間以上も身柄を拘束されたという。こうした災難はまかりまちがえば誰の身にも起こりうることであり、こんなことがあるとなれば、買い物もけっこう怖ろしい。セルフレジがなかなか普及しないという声があるが、店員のレジとセルフレジの両方がある場合には大抵は時間がかかっても店員のいるレジに行く。やはり店員の眼のないところでの支払いは余計な疑いをよぶのではないかという不安があるからである。今回の誤認逮捕事件の背景には、高齢者の万引きが増えていることがあるのだろう。少ない年金、減り続ける貯金残高…こうしたことを背景に生活用品を万引きする高齢者も増えているのかもしれない。また、認知機能の低下でレジを通さずに店をでてしまうとか、マイバッグが普及してからは無意識のうちに商品をスーパーの籠ではなくバッグの方に入れてしまうということもあるだろう。被害者は80時間以上身柄拘束されたという。否認しつづけたためであるが、逆にいえば拘束に耐え切れずにやったことにしてしまう事案もけっこうあると推測され、そうだとしたら表に出ない誤認逮捕というものもあるだろう。そして最後にこの誤認逮捕事件では、詳細は不明なものの、スーパーのかかわりもあると思うが、そのスーパー名はニュース報道ではいっさいでてこない。これもスポンサー企業への配慮なのかどうかも気になるところである。♪強きを助け弱気をくじく それでもまずくなったなら三人そろってペコリとお辞儀ああのんきだねえ のんきだねえ♪
2024年04月20日
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週刊誌の広告をみていると、老人向けの記事が目立ち、いまどきの活字媒体購読者はつくづく高齢化していると思う。そうはいっても、マーケットのパイは限られている。内容的に競合する健康雑誌や老人向けと銘打った雑誌の広告を最近みていないのだが、こうした雑誌は廃刊になったのだろうか。さて、その週刊誌の老人向けの記事であるが、10年くらい前には高齢者と性といった記事が目についた。それが、最近では相続とかお墓の記事が目につくようである。いよいよ高齢化といっても、主力はアクティブシニアからその上の年代に移りつつあるのかもしれない。考えてみれば、戦後80年近くになる。団塊の世代も70代後半に入った。これからは、こうした高齢化の中のさらなる高齢化が様々なところに影響を及ぼしてくるのではないか。そもそも、高齢になると、ものの消費が減っていくという。そうだとしtら、これからは、いよいよ消費の縮小が進んでいくことだろう。現在、終活を主力記事にしている週刊誌も、そのうち消えていく。週刊誌だけではない。衣料や美容理容でも需要は減っていく。エンタメなども海外市場も念頭におかなければなりたたなくなるかもしれない。この頃、さかんに人手不足と言うことがいわれている。しかし、人口減少、そして高齢化を考えた時、呼べばいつでもつかまるタクシー、ぎっしりと商品が詰まっていて24時間365日開いているコンビニ、注文すればその日のうちに届く宅配…そうしたものが、はたしてこれからも必要なのだろうか。
2024年04月19日
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少子化という流れは世界の多くの国で起きているのだが、特に東アジア地域で出生率の低下が著しい。以前も書いたのだが、背景には、受験競争と教育にかかる費用、婚外子に対する差別、男尊女卑?を背景にする女性の結婚相手への期待値の高さなど東アジア特有のものがあるように思う。いずれもこの地域に長い間影響を及ぼしている儒教思想や家父長制が背景にあるのだが、このうち、受験競争の激しさや教育に金をかける点などは儒教の影響だけでは説明がつかないように思う。これらの地域では近代化が進めば進むほど、そして豊かになればなるほど受験競争が激しさを増してきているようにみえるからだ。大学までの教育費だけならともかくとして、受験のために塾だの家庭教師だのを考えると金がかかる。そのため、受験競争と教育にかかる費用を考えると子供はほしいけど、せいぜい一人ということになる。ところで、エリートコースがあるのは、東アジアだけに限らない。ほとんどの国でそうしたものがあるだろう。それなのに、欧米では受験競争の激しさが社会問題になっているとか、教育費がかかることが少子化の一因になっているという話をあまり聞かない。特殊なエリートコースの話だけでなく、そんなによく知らないのだが、国によっては12歳の成績で大学に行くコースと職業学校に行くコースを選別するところがあると聞く。ある程度の平準化が進んだ戦後日本の社会でそんな制度がもしあったら12歳の選別は大変なことになりそうである。欧米の多くの国も出生率が低下しており、それぞれの背景があるのだろうが、こうした国で教育に金がかかることが少子化の背景ということがあまりいわれないのはなぜなのだろうか。この違いは興味深い。
2024年04月18日
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浮かんでは消える議論に道州制の議論がある。今の47都道府県の枠組みは明治以来変わっておらず、その枠組みは今の時代にあっていないということが背景にある。道州制は今の都道府県に替えて道州を置くという議論なのだが、それを言い出すと甲論乙駁して収拾がつかない。道州制というよりも、今の現状をみると都道府県によって規模が違い過ぎるというのが問題ではないのだろうか。都道府県の中には人口が100万を切る県が10県もあり、一番少ない鳥取県では55万人となっている。東京の区でいえば、世田谷区が94万人、7番目の板橋区でも58万人である。人口でいえば中堅の区程度のところに、県庁があり、市町村があり、その市町村にそれぞれ市町村役場があり、議会があり、裁判所があり、国立大学があり、空港があり…となっているわけである。そのうち、小規模な県については合併という議論がでてくるのではないか。最近、知事から国体廃止論がでているというが、そういう主張をする知事は小規模県が多い。たしかに国体のような大規模な行事については県の負担は重い。もとい国体、今では国民スポーツ大会というのだが、これは別に大昔からあるものではない。戦後まもない頃に始まったもので、天皇の全国巡幸に替えて、天皇の巡幸する行事ということで始まったものだという。かつてはよく天皇が来られるから道路が一気によくなったとか、そんな話もあったというが、今はどうなのだろうか。見直し論にも一理あるように思う。※黄金茶碗盗難の話には驚いた。驚いたのは盗まれたということ自体ではなく、犯人が怪盗とは程遠いタイプで、れっきとした百貨店で警備員もいたのに、簡単に盗まれたということである。犯人はさっそく黄金茶碗を金に換え、最初の買取業者は他の業者にさっさと転売したという。貴金属買取はチラシやテレビでもさかんに宣伝されているくらいなので、けっこうな数の業者がいるだろうし、スマホ一つですぐに業者を探すこともできる。高齢化で、若い頃に買った貴金属や装身具はあるものの、使う当てもなく、贈るような子や孫もいないという人は多い。また、親の持っていた、こうした貴金属類を売って生活費の足しにしているような人も多いだろう。業者にしてみれば、もやし系の無職青年が黄金茶碗を持ってきても不審に思わなかっただろうし、マイナンバーカードで身分確認もしているので、贓物故買とするのは難しいかもしれない。ただ、うまく買い叩いたので、利益を確定させるために、他の業者にさっさと売ったということだろう。犯罪は社会の縮図であるという。そうだとしたら、この犯罪はどんな世相を反映しているのだろうか。
2024年04月17日
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実はこうした一般向けの数に関する本を読むのが好きだ。だいたいは図書館で借りるのだが、それは途中でついてゆけずにリタイヤした場合(こういうことは多い)も金銭的な後悔はなくてすむ。あの「博士の愛した数式」は小説も映画もいまだに傑作だと思っているし、ユーチューブにもこの分野の解説ははいてすてるほどあり、なかなか面白い。最近では、循環数やカプレカ数についての解説など興味深かったし、なんで今までこんなことも知らなかったのだろうかと思った。そういえばその昔、清水の次郎長が静岡で幕臣たちの生活再建の手伝いをしていたとき、旧幕臣の蘭学者から、月の満ち欠けの理由を説明され、なんで今までこんなことも知らなかったのか、長生きはするもんだ…と言ったとか言わなかったとか。まあ、それと似たようなものかもしれない。人間は数と言葉を使ってものを考えるものなのだが、言葉が自然発生的とはいえ、人間が作ったものであるのに対し、数というのは人間を超えたところに存在し続け、それを人間が発見してきたというところがある。だから非常に簡単な問題であっても、いまだに誰も証明できないというものもある。「数の悪魔」には興味深い話がいろいろとあるのだが、フィボナッチ数列とパスカルの三角形のあたりが面白い。一定の法則に従って数列を作ったり、三角形に並べていったりした場合、予想もしない別の法則が現れることがある。身近ですぐそこにある数というものにこれほど多くの不思議があるということに驚く。体裁は子供用の本になっているのだが、誰が読んでも良いだろう。
2024年04月16日
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芸能人や評論家が世に出る時には多少プロフィールをもるということがある。ヨーロッパの社交界で知らぬ人はいないほどの存在だといってデビューした評論家もいたし(いたと思うし)、剣の達人というふれこみで有名になった青春スターもいた。そうした中に、カイロ大学を首席で卒業してアラビア語も流ちょうに使えるというふれこみでデビューした美女がいた。英語を使える才色兼備の女性というだけではめだたないが、このちょっと毛色の変わった経歴の美女はたちまちマスコミの寵児となり、その後、政治家となった。ただ政治家の場合、学歴詐称は違法となる。剣の達人なんてのは問題にならないのだが、いくらマイナーな国でもその国のその大学を出たか否かは問題になる。学歴についての虚偽の記載は公職選挙法違反になるからだ。実際には、政治家は英語が使えればよい方で、そんなマイナー言語が使えようと使えまいとどうでもよいのだが、公職選挙法との関連では問題となる。まあ、ご本人は目立ってなんぼの芸能界で生き延びるために、できるだけ派手なプロフィールがよいと思って首席卒業までぶちあげたのだろうけど、まさか後年政治家としてこれほど活躍するとは思わなかったのだろう。そういえば、箱根駅伝で外国からの留学生が何人も走っている。中には本国に帰ってメダリストになった人もいる。ああいう人たちは日本語がどの程度できるのだろうか。そして日本の大学の卒業資格をもっていたのだろうか。陸上の才能を見込まれて日本にやってきて、そして大学生とはなったものの生活のかなりは陸上のトレーニングに費やされるであろう。それで4年くらい日本にいたとしても、日常会話レベルはともかく、とても、大学教育相当の日本語、つまり普通に大人の本を読む程度の日本語をマスターするとは思えないのだが。
2024年04月15日
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図書館で衝動的に借りた本である。実は土屋文明と言う歌人は名前は知っていても、正直にいって彼の歌で好きなものがあるわけではない。この本でおびただしく引用されている彼の歌を読んでもそれはかわらなかった。土屋文明が短歌の世界で重きをなしたのは歌がすぐれているからというよりも、新アララギを主宰し、多くの弟子をかかえていたというその政治力にあるのではないか。ただ短歌のよしあしは受け手の感性によって違う。たぶん、自分の場合はたまたま土屋文明の歌と合わなかったというだけのことだろう。この本の面白さは土屋文明そのものよりも、筆者の眼を通して描かれる戦前から戦後の世相にある。特に、大東京発足や紀元二千六百年の時の街の様子などは興味深い。学校で紅白菓子を配り、花電車が走ったことなどは歴史の教科書にはでてこないし、紀元二千六百年という政府肝いりで作成された歌もあったがレコードはさほど売れず、筆者周辺では実際の祝賀ムードもさほどではなかったという。また、土屋文明が諏訪高等女学校の校長をやっていたときの教え子で昭和3年の共産党一斉検挙事件で犠牲になった伊藤千代子という女性についてもかなり詳細に書かれている。実際には校長と生徒の一人と言う関係にすぎなかったが、土屋文明は以下のような哀惜の歌をいくつか残している。芝生あり林あり白き校舎あり清き世ねがう少女あれこそ戦前という時代はいろいろな見方ができるが、思想弾圧によって犠牲になった人々が何人もいた時代であったことは忘れてはならないだろう。伊藤千代子の生涯については映画にもなっているようである。予告編「わが青春つきるともー伊藤千代子の生涯」 (youtube.com)
2024年04月14日
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この4月知合いの女性が第一志望の某大学法学部に入学をした。昔から成績優秀な子と聞いていたし、どんな方面にすすむのかと思っていたのだが、法学部と聞くとなんとなく納得した。おそらく選択肢はいくらでもあったのだろうし、医学部に進むことも可能だったのかもしれない。ただ、実際、医学部という選択をしようとすれば、医師という職業の大変さや責任の重さ、あるいは単純に血をみるのが嫌だなどの理由で躊躇する人もめずらしくないだろう。そして医療系以外の理系となると、本当に専門を活かそうとすれば大学院レベルまで要求されるし、大学院となれば就職が決まるまでは安定しない生活を余儀なくされる。それに比べると法学部の場合には資格の種類も多いし、各種公務員への門戸も開かれている。ニュースでは公務員志願者が減ったといったことがいわれるが、一般的には、特に女性の場合には公務員が条件のよい職種であることは間違いない。最近、女子の理科系の比率の低いことを問題視する議論があり、一部の大学では女子受験生を優遇する動きもあるという。その是非はともかくとして、背景には女子が理系を選ばないことがある。一般論であるが、理系のできる女子の場合、文系教科もできる場合も多い。そうだとすれば、実は女子が理系を選ばないというよりも、文系理系両方できる人が理系を選ばなくなっているというのが実態ではないか。いまどき女の子が理系にすすむなんて…ということをいう昭和脳の親が多いとも思えない。そういえばNHKでプロジェクトXという人気番組があったが、あの番組で取り上げた技術開発に邁進した世代というのは戦争を体験した世代やその少し下の世代が多かった。理系人材は戦時下において徴兵を猶予されるなどして温存されていた上、その下の世代でも理系に行けるものなら理系に行くという雰囲気があったのではないか。そうした厚い人材の層があったからこそ戦後の復興も日本の繁栄も実現できたのではないか。
2024年04月12日
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冠婚葬祭についての世の中の変化は激しい。特に、葬式については小規模家族葬が一般化しており、セレモニーホールの数は増えたが、ほとんどが家族葬を想定したものである。それでも今亡くなられる方は兄妹も多く、親族つきあいも密接だった世代が多いのかもしれないが、これからは葬儀なしの直葬というのが一般的になっていくのかもしれない。このように葬儀の方はどんどん簡素化しているのに対し、結婚式の方はそうでもないようだ。出席する親戚の範囲とか職場関係の範囲というのは、昔に比べて少なくなっているのかもしれないが、ただ、それでも、新郎側が何人呼ぶので新婦側も均衡上何人よばなければならないとか、友人は何人以上呼ばなければならないといった感覚はまだ残っている。そうなると、呼ぶべき親類や友人がいなくて困る人が出てくる。そのために親類の代理、友人の代理を派遣するビジネスがあると聞いていたが、これを実際に検索してみるとそうした代理派遣業者がいくつもでてくるので驚く。こうしたサイトには利用の申し込みばかりでなく、スタッフ、つまり代理出席する側を募集する欄もあり、隙間時間でも出来、おまけにけっこうな高収入である。たしかに一見よさげなバイトなのだが、よく考えてみると、着ていく服などは自分持ちなので、招待客に見せるためには金もかけねばならず、それほど手元に残るような感じはしない。それにこうした代理出席は、ばれないですむのだろうか。親戚の代理で行って、別の親戚から話しかけられたら、すぐにわかってしまいそうだし、友人代理についても、本物の友人から話しかけられたら、嘘がばれそうである。なかには円テーブルを囲む友人全部が代理という場合もあって、これはその場ではバレなくても周囲からはわかるだろう。そういうのは全員ドレスの色かぶりなし、みんな黙って食べるだけ、式が終わるとさっさと帰っていく…どうみても異様である。それに、新郎新婦が両方とも代理出席を了解しているのならよいが、そうでない場合には、相手に対する不信感につながるだろう。結婚式など、親戚が来ないなら来ないでよいし、友人もいないならいないでよいではないか。来てほしい友人は遠方に転勤中だとか体調が悪いとか言った嘘の方がまだましである。葬儀の方がこれだけ簡素化しているのに、結婚式については、いまだに数合わせで悩んでいる場合があるのが不思議である。
2024年04月11日
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